日
中固有簿記法の関係
小
倉
栄
一
郎
序 中国固有簿記法に関する文献は相当数存在している。そしてこれを通じて現況の概要を知ることができるのはさいわい である。しかし、惜しむらくは、そのいつれもが近々数十年間の事情に関する研究にすぎず、それ以前の状況については 帳簿史料が現存しないので実証の方法がないのみならず、文献も存しないので、近況から推して既往を測る方法と、現在 の種々の発達段階にある名地各様の簿記法をかりに一連の発達経過に沿ったものと考えて、最も素朴なものから最も精密 なものへと、合理的に賑.絡をつけ、これをもって歴史的発達の様相とみなす方法がのこされているのみである。実証を重 視するという立場からは、主として後者を採用することが望ましく、また、事実問題として、多くの研究家はこの方法に よっているのである。 戦前においてはまだこのような研究の可能性があったが、今日ではそれすら不可能どなっている。そこで、右のような 文献から概要を把握し、自分なりの解釈を立ててみなくてはならないのである。その場合、先輩研究者が採用された史料 の解釈、研究の方法に忠実に従って、もって事実の誤認なきよう努めることは重要であるが、その上で、自己の方法を適 用して結論を求める過程で、事実を知らないが故に軽々な独断に陥る危検が極めて多いことを筆者自身充分自覚しながら 日中固有簿記法の関係 七七旺中画有簿記法の関簾 七八 あえて筆者なりの解釈を立てようとしている。研究の目的が、我が国固有の簿記法との比較研究により、発達史上の関連 の有無を求めようとしているが故である。 この点については論者の説は大きく二説に分たれる。 古来わが国の文化は著しく中国文化の影響を受けて発達してきた。商業経営についても例外ではなかったであろう。日 本固有の簿記法は原型を中国簿記法にもとめうるのではなかろうかということが常識的に考えうる。 たしかに中国固有の商業経営法にはわが国のそれと酷似したものが多い。.徒弟制度や取引契約の型の類似していること まさに右の説の論拠となりうるようである。簿記法についても用語や形式こそ異れ、原理的に極めて近似していることを 知って驚くのである。しかし、それは、日本の江戸時代中期の事例と、中国の清末・民国の事例が似ているのである。,明 末・清初にはどうであったかは、史料不存のため実証できないし、中国の学問には実学が少いので、文献上でも確認でき ないのである。根拠が得られないことは、中国起源説をして、積極的論拠が存しないにかかわらず、根強く温存せしめる 結果となるのであるが、筆者はあえてこの立場をとらない。同じ類型に属する事実を認めるにとどめ、証拠が得られるま では起源を論じるわけにはいかないのである。 商業用語の一部に類似するものがあるが、同文の間柄として当然ありうることで、言語学上の問題であろう。商慣習や 制度上にも類似点はあるが、思想・文化・社会環境・経済生活発展段階を一にするときに当然生つる一致かも知れない。少 くとも簿記に関して、原理的構造が類似するという抽象面での符合は、洋の東西を問わず条件が等しければ人智の当然に 到達する点であるという意味において、ありうることであって、これをもって起源をその一方に求める理由にはならない 中国簿記研究家の業績を通読してみて、中国に起源を求め、邦訳を経て江戸時代の商人開に流行したという積極的見解 は見当らなかった。少くとも、日中相互関連はほとんど顧慮せず、西洋簿記法との関係に重点が置かれている。しかし、
その行間に日中無関係が表明されているのをみるひ 根岸債博士の中間報告﹁商事に関する慣行調査報告書−合股の研究一﹂第三篇合冊会計は、清末より民国時代にいたる 中国簿記の実状についての貴重な資料であるが、博士の説は、わが国の簿記法が西洋簿記の影響を受けずに発達したのだ から、中国簿記が西洋簿記の輸入でなく独自に発達したところで驚くに足りないといわれるのであるから、日中無関係説 が伏線になっている。 筆者も独自発達説に立ちたい。 中国文化が日本に一方的に輸入された時代には、日本の商業経営がどの程度どのような影響をうけたかは正確に指摘で きない。多分精神的倫理的側面で強烈であったと考えるが、経営技法となるとみるべきものがなかったであろう。江戸中 期ともなると日本は独自の発達をする。すでに生活基盤に喰込んで同化されている中国精神文化が、江戸時代の商人社会 を暗黙のうちに支配することは疑いえないのであるが、簿記法といった技法的内容の多い分野では、直輸入された形跡も 交流があったと思われるふしも見当らない。結果的に符合する諸点は以下に詳述したいが、それは文化類型を一にする当 然の一致といえる。その故に起源を中国に求めることは不自然で、不必要で、効少い努力となるであろう。 清末、明治に入ると、立場は逆転する。日本は西欧文明の輸入に先鞭をつけたのである。近代的資本主義祉会に登場す るために、中国は急遽西欧文明をとり入れ、しかもその多くを邦訳の漢訳への転訳という形で、日本を経て輸入したので ある。簿記にあっては特にこの傾向が著しいのである。例えば仕訳法の説明原理として取引要素説による仕訳法則は日本 で簿記輸入期に考案せられたものであるが、これがそのまま中国に移されている事実はその要証である。また有本邦造教 授の研究によれば中国に洋式簿記が輸入されたのは一説によれば清朝の光緒帝の時︵一九〇〇︶といわれているが、輸入 せられて幾分実用に供せられるに至ったのは、或は其の頃であったかも知れないが、それ以前に支那のどこかへ輸入せら 日中固有簿記法の関係 七九
日中固有層記法の関係 , 八○ れ、学者に.より研究せられて居ったことは果してなかったであろうか、興味ある問題ではあるが、手掛りがないので不確 実である。支那固有の会計の改良問題は、清朝末葉に起ったもののようで、ここに洋式簿記が輸入せらるるに至り、漸次 之を採・用するに至ったものらしい。とされ、さらに詳細に検討された上で、清の末葉に大清銀行はまつその会計制度を全 部日本に倣い.改良するにいたった。銀行簿記は支那において各種簿記中空も完備したものと認められている。しかして、 細身.の簿記は別として、銀行簿記は十中の九まで日本に倣ったものである。取引所業は民国十年頃に各所に設立されたが 上海証券物品取引所に徐永柞氏という入があり、すべて日本の帳簿組識、会計規則、帳簿様式を採用した。官庁会計では 中﹁国会計学の先進者楊汝梅氏により日本の制度に倣い改良が企図せられたもので、その後未完成である。鉄道業は民国八 九年頃に英国式の経営法を導入したので鉄道会計は英国に倣っているし、工業については英米の原価計算制度を採用しよ うとする傾向があるけれども未完成である。他の業績はほとんどみるべきものがなく、旧来の簿記法によっている状況で あることを指摘されている。 古い史料が利用できない上に、急速に西欧化し、再び政治力の強い社会主義国となった中国について、固有の簿記法を 知るためには、清末、民国初期の地方商人の旧式実践に関する文献は唯一の貴重な史料となるであろう。 同時代の事実の精粗高低の差の水平的配列を、垂直的発達過程の形に置き換えつつへ合理的推定を加える方法が今日こ の種の研究に残された道であろう。 ① ﹁商事に関する慣行調査報告﹂東亜研究所資料甲第二十三号C、昭和十八年六月、に報告者根岸信博士はしばしばこの点を指摘しておられる。その 一例﹁⋮⋮或は西洋複式簿記を輸入したものに過ぎないだろうとの駁論あるかも知れぬが、我邦に於て二百余・年前既に両替商が完全なる複式簿記を採 乏して居ったとのことだから、実質的に進歩した西洋複式簿記に劣らぬ簿記を有する支那に於て、語口銀櫨が複式簿記を使用したとて驚くに足らぬだ ろう。﹂と。︵三六七頁︶博士.の、複式簿記Lは複記入式記帳技法に重点をおいた概念であるから、︸そう本文中の論拠として有効である。 ⑨ 西川孝二郎氏談、取引要素説の起源については、伺氏稿﹁W.C・ホイトニーと取引要素説﹂産業経理第一二巻第十号六〇頁に詳細に出て恥るが、
その末尾にこの説が一橋出身者によって中国にもたらされる経過が指摘されている。大正一昭和初期のことである。 ③有本邦造教授﹁支那固有の簿記法概説﹂支那研究第十八号、五九二頁。 ④同教授﹁支那固有の会計と其改良問題﹂支那研究第二十三号、一〇四頁。 二 中国固有簿記法の概要 中国簿記の研究が日本人の手でとり上げられたのは、朝鮮の開城簿記、台湾簿記よりも遅れ、有本邦造教授が先鞭をつ けられ、同時代にペルニツ博士]≦・O.勺禽巳↓鵠。げとチッテル氏団’B葺色があった。それは極めて複雑な固有簿記法 のある程度統一的な解説を試みたものである。中国人自身による研究もいくらか存在するが、それは﹁改良中藍簿記運動 者﹂としての業績であって、欠点の指摘と改良法の提唱に急で、固有簿記法そのものの研究ではない。以上を基礎的研究 者として、一層理論的に研究を深めた学者に戸田義郎教授がある。また、前項に於て引用した﹁合股の研究﹂では根岸借 博士が既往の研究を集成、展望を試みておられる。また満鉄東亜経済調査局の資料も貴重である。 ここでは日中簿記法比較の前提として必要な限度で概略を述べるにとど.めたい。中国簿記は地方的に著しい特色がある ため、度門式︵台湾式︶広東式、寧波京古式と分って呼称され、同列に断じ得ないものがある。複式簿記でなく単式簿記 である。単式簿記とは異なり不完全簿記である。決算に於て貸借対照表を作成する。否、それは残高試算表である。損益 計算を行はない。否、損益計算書が存する。等々、まさに諸説まちまちで拠りどころのない観がある。文献の文字の表面 では右のとおりである。果してさほどに多様なものであろうか。地域差、業種差、企業の個別差など、末端技法に亘って は一様でないことは当然のところとして首肯しうるけれども、同様の発達経過を辿り、一定の段階に達した経営にあって、 原理的に全く異る様相を呈するものとは思えない。技法の末端にこだわらずに、抽象化して計算目的に照して、機能的に 日中固有簿記法の関係 八一
日中固有簿記法の関係 八二 純化せしめて理解するときには、多様性を整理できるはつである。そのうちに統一的原理が浮び上るかどうかは、当然に 期待できるものではないが、逆のことはいえる。無目的な行為は存在しない。単なる記録に止まるところのいわゆる備忘 的記録︵覚書︶にすぎないものであるなら、これを無意味に集計して配列した形の表にまとめてみることもあるまい。ま とめるからには、そこから結論を引出すはつである。その集計表に損益額らしいものが算出されているとすれば、もはや 計算目的をもった一定の体系的簿記法を穿濃してみる価値は十分である。定例になっている決算の結果が、説明のしよう もない残高試算表的なものであるはつはない。このような疑問をもって根岸博士の報告書を通読してゆくと、そこに残高 試算表的決算表といわれているものは、実は決算整理事項を謡えないで、記帳額そのままを用いて組んだ︵帳簿残高そのま まを用いた︶貸借対照表の意味であって、簿記術語としての試算表が正当に理解されていない結果であることが判明する。 発生主義会計に徹底していないということで、簿記原理としては異質のものではない。その他にも西洋式複式簿記に対比 せしめようとするあまり、相当の差異のある帳簿、機能的に複雑な特有の帳簿を、西洋式簿記の何々帳的なものと評して しまう。そのようにして特殊性を抹殺した上で、西洋式簿記法の原型に合わせて決算構造を描き上げると、不備な点が多 々生じてくる。実は捨象した中にそれらが含まれているのである。このように類比の度が過ぎて本質が見失われているこ とが多い。有本邦造教授の広範な研究と中国語、商用文宇、商慣習に亘る深い造詣は全く敬服のほかはない。後世にわた て絶対の研究っ資料を提供されていると思う。しかし、原理的側面では必ずしも納得しえない点が多い。類比するために 引合に出される西洋簿記または日中固有簿記の技法なり帳簿名が、性格の不確定な名称であったり、ときとしては、その 側で誤解があると判断できることもある。 旧稿において筆者の方法として触れたごとく、簿記法の研究にあっては、形式的構造にとらわれることなく、機能的に 理解し、決算の構造に結びつけて理解しなくてはならない。戸田義郎教授の業績は中国国民性に対する深い理解の基盤に
、 立って、固有技法の由来を説かれ、地方差と計算目的の推移を鮮明にされつつ、西洋式複式簿記との異同を明確に指摘し ておられる。有本教授説の影響は残っているが、理論的側面で徹底した見解を示され、簿記学的研究として価値高き業績 で、極めて多くの示唆を受けた。 日本固有の簿記法との関連を考えようとするのが本稿の意図であるから、西洋式複式簿記との対比を急ぐことはない。 先づ中国簿記法における諸帳簿の機能を卒直に把握し、次で日本簿記法のそれと類比し、その上で洋式簿記法との対比に よって体系立てることにしたい。 次に述べるのは、以上三者の説を勘案しながら、筆者なりに配列し、解釈したものである。 ︵四併結早強︶四項目に分ち帳簿を締切る方法である。元時代に制定せられた︵有本説、宋の太宗に煽る︶官庁会計の基 本算法である。 鼠 略十 強 落一 団 掛11 画 帰 ︵遅曝鳶酬︶ ︵脹盗養メ︶ ︵脹温料庄︶ ︵盗滞鳶副︶ 新標会計録では旧管、新牧、開除、実存と称する。用語は変るが同義である。年間記録を締切るにあたり、加減計算後 の残高のみを示すのでなくて、正・負・残それぞれの合計を求めて、右の順.序に掲げた土で、その加減算の急心として現 在在高を示す形式である。従って四丁結冊は何計算によらず、応用されるもので、中国民間企業会計は官庁会計からこの 形式を学んだものである。 、しかるにこの計算形式は特有の名称が附せられている程に特異なものでなく、むしろ何の変哲もない内容である。日本 固有の帳簿の上でもこれに類する実例は数多い。たとえ算盤という記憶装置に相当する計算用具を用いたとしても、正負 入乱れた記録の順で加算減算を適宜切替えて演算するのは容易でないので正数のみの和と、負数のみの和を求めて、それ 日中固有簿記法の関係 、 八三 〆 ’
日中固有簿記法の関係 八四 それの和の加減算という形式に置きかえる方式であるにすぎない。日本では旧管すなわち期首在高が新牧すなわち正数の 穐に含められて、都合三柱となるだけのことである。西洋にあっても同じ算法が生じた。中国にあっては四柱結語という 制度的算法となったとはいえ、制度化の事実を過大評価するのは禁物である。 この基本的演算形式は簿記という体系的計算原理の構造にまで展開されはしなかったのである。中国簿記の原理的持質 はここには存しないで、別に求められなくてはならない。︵二面形式帳簿︶上下二面に分った帳簿様式が用いられ、上を正 信を負、またはその逆として用いられた。この様式は加法を基本とし減法を最少限度に用いるところの管柱結冊に適して 居り、西洋式の左右二面形式の勘定と同じ意味をもった工夫である。しかるに、西洋式では差額をうめ合せて二面を平均 せしめるところの﹁平衡残高﹂の構想に達したことが極めて有効な結果をもたらしたのにひきかえて、四柱結晶方式はこ の四項目を改めて列記することにより締切をする形を要求するので、一旦正負二面に分った演算を行いながら結局﹁差引 残高﹂の形で結果を求めるのみとなって、含意が半減するのである。四更結冊は二面形式を生んだが、それがまた二面形 日 正有金 .見已新旧
在支牧管牧牧牧管
二〇二〇四三五〇
・o ooooooo
支支支
二五三
〇〇〇
入 入 出 入 出 出 入 入金〆 出金〆差 引
一〇〇 五〇 三〇 三〇 五〇 二〇 四〇 二二〇 一〇〇 一二〇有 金
式の利点を封殺して、 期首100 30 sol so 301 20 4Q配下120 2201 220 天津より満洲街道一帯にかけての諸都市には﹁過帳﹂が行われた。 商入は馬蹄銀や銀塊を銀炉に委託して錦宝銀に改鋳せしめたが、 応じ引出すことになり、 度を過皆具といい、 しうる。 すでに貸借関係の記帳には、⊥段に負債の発生、債権の方響、下段に負債の返済、債権の発生が記入されるという慣行が 存したので、振替の記入には西洋式と同様の複記入の技法が定立されたのである。この事実をとらえて営挺銀炉簿記に複 式簿記ありという説は賛成できない。それはあまりにも複式簿記を取引の二面複記技法、すなわち記帳技術にのみ偏重し て、外形的に把握した説であって、複式簿記の本質は取引複記技法に存しないからである。取引複記が部分的に行はれる 例はいくらも存し、債権債務が互に逆の効果であるという単純な認識の上に立った極めて初歩の技法であるにすぎない。 その技法が債権債務関係を超えて、他の全勘定にも普遍的に適用されるためには、帳簿の二面形式以上のなにものかがな くてはならないρそれは複式簿記成立の鍵である。中国では金銭または金銭逸しうる物財という観点から、牧︵入︶付︵出︶ 日中固有簿記法の関係 八五 [ ⑥ 日本式の効果と択ぶところはないことになった。 ︵記帳法則︶二面形式の勘定を用い、一定の秩序に従って正数・負数の記入側を左右に配する結果、 ある勘定の左側記入と、他の勘定の右側記入によって取引の記録が構成されるという取引貸借複記 の原則が出現したのは西洋式簿記の技法の最大利点である。その原因については定説がある。両替 商の勘定間振替記入︵為替の記帳︶がその発端となっているといわれる。中国にもこの史実は存す るので、条件は存していたのである。 掛口では正貨たる錦宝銀が制限的に通用したので、 改鋳作業に日時を要することから、預けて置いて必要に やがて、現銀を用いず、預け銀のある商人同志は、預け銀の付替をもって決済に代、且た。この制 営口では口頭にて振替えたが、他地方では帳︵証葱たる有価証券︶を発行した、﹁過﹂は#き畦費と訳
月中周有簿記法の関係 八六 とし、上段に牧、下穀に付という単﹁な記帳法則を樹立したので、ついに計算の原理構造に対して統一的な体系的技術と はなりえなかったのである。戸田教授は中国の物質偏重主義、主観主義精神という,民族的世界観にその因を帰しておられ る。 ︵分割帳簿組織︶中国商店経営は日本の往時のそれと非常に類似点が多い。しかし、両者が発達の起源経過を異にして いると判断されうる一つの根本的特徴として、日本では強度の集権的管理方式を採っていた。特に記帳は主人またはこれ に次ぐ首位の番頭によって専担せられたのに対し、中国では相当の分権組織が採られ、出納を掌る会計部に対して営業部 が分業し、営業部はまた卸売と小売が分割され、倉庫部は営業部と区別されるといった組織であった。 右に応じる帳簿組織として、各部責任者が担当事項の記帳を行ふためにそれぞれ別冊の帳簿を作成し、記入事項の該当 関係について転記のときは﹁過﹂印、照合のときは﹁対﹂印を押捺する方式で記帳の正否を確認し、最終には、主人掌櫃 的が﹁克﹂印でもって検査済を証する。したがって転記には広範に合計転記が行われるのである。日本でも帳簿は取引種 類毎に細分されるのが一般である。その状況は極めてよく似ており何らかの脈絡があるかに思われるのであるが、交渉が あったという証拠は発見されていない。分業のあり方は多分類似していたであろうから、帳簿分割の形は類似していて当 然であるが、権限のあり方が異る,ので、外形のみでは同視できない。次にやや発達段階的にみえる方法で類型化して説明 するが、発達段階がこのようであったかどうかは保証し難い。 ・銀銭流水簿︵銭総簿・銀銭漠存簿︶ 現金出納帳に相当する。 ・進貨流水簿︵貨源簿・進草簿・進貨日記︶ 仕入帳に相当、現金仕入、掛仕入の記録で、発生日付順記録 。批発流水簿︵魯貨草簿︶
売上帳に相当、現金・掛売上の別なく発生順記録とする。小売に門市批発簿・卸売に除売批発簿をあてることがある。 以上の三種は名称の差こそあれ、中国全般に亘り、規模の大小にかかわらず備えられている。ところで、他に関係帳簿 がなく、右の三種のみを備えていることが多い。その場合は、右三種は現金・買掛金・売掛金の物忌管理のための個別的 計算簿であって、覚書的機能を随伴している。まだ統一的計算目的によって体系化された記録ではない。 現金取引・掛取引登記された進貨流水︵仕入帳︶幅下流水︵売上帳︶によって買掛金・売掛金を管理することは容易でな いから、取引先が増加すれば内訳元帳といった機能を果すところの取引先別口座をもった帳簿を必要とするにいたる。そ こで夫々に総清簿を附随せしめることになる。 ・進貨総清々︵騰清簿︶店名別の項を設け、進貨流水簿に記録された仕入取引のうちから、現金取引以外を転記するもので、仕入先元帳 すなわち買掛金内訳元帳である。掛代金決済のときは銀砂流水簿から転記する。 ・批発総主簿︵各戸総清簿︶売掛金に関する得意先追掛債権を計算する帳簿である。食立流水・銀銭流水から右同様の手続で転記される この帳簿から清単︵請求書︶が作成される。また長年に亘る滞貸金があれば万年騰清簿に移される。日本の永代帳と同じである。︵有本 説、”貸倒損失〃は誤りと思う︶また小売部については門市簿が設けられる。 ・門市隠︵門荘簿・現認簿・門市流水簿︶小売部の現金小売の逐一記録である。批発流水簿と並行して用いる。現金売上高は一日分まとめ て銀銭流水簿に記入される。 。銀銭総清々銀位流水簿に記入したものを項に分類して転記するもので、総勘定元帳に相当する位置にあるけれども、決算の体系から いってその機能を果しているかどうかは疑わしい。 このようにして、各種流水簿を原始記録簿とし、各総清簿を転記簿とするという分類法乃至は体系が定説となった。この 場合原始記録簿を単純に仕訳帳と解釈してしまうのは早計である。銀銭流水簿は特殊仕訳帳化された現金勘定︵出納帳︶ であるが、幽翠・批発流水簿の方は仕入帳・売上帳に補助元帳たる買掛金元帳・売掛金元帳えの転記を司る機能をあたえ ているけれども、仕入帳・売上帳すなわち売上牧益、仕入費用を計算する機能は発揮されていないのである。中国簿記で 日中固有簿記法の関係 八七
日中固有簿記法の関係 八八 は貸借対照表系統による財産計算により損益を算出するのが一般で、損益計算書系統による損益計算はあまり行われてい ない。度門系華僑の大規模企業においては損益計算が行われるのであるが、それは﹁正清部﹂﹁規原部﹂といった中で行 われ、商品別商品一勘定法の構造になっている。これは南洋貿易に支配的勢力を有していた慶門系蘭印華僑の簿記法であ るから、西洋式簿記法の影響がないとはいえない。 大規模企業では童心総清簿に代えて、細目に分った諸総清本を備え、銀銭流水簿から転記するのである。 。資本総清里資本金勘定に当り、出資者別に出資額と利益配当額を累積計算する。中国では資本に対して↓定率の﹁壁書﹂を純益のあ るなしにかかわらす配当し、その上で﹁余利﹂が配当される。 これは筆者の調査した江州中井家の場合と同じである。また給料のと れる掌櫃的の場合、その給料は多くの場合出資金に繰入れられる。無限公司の場合は欠損があれば出資者︵櫃東﹀の出資金から差引か れる。このような計算がここで行われるのである。 ・荘号総清簿︵銭荘総清簿︶銀行別預金勘定である。 。存戸総清簿 預り金・借入金勘定 。欠戸総清簿 商店は銭業を兼業していた。その貸金の勘定。 。雑黒総清簿 その他の諸勘定を開いた帳簿である。造立︵家賃︶薪水︵給料︶伏食︵賄費︶など雑費勘定を通例とする。賄費が計上され るのは店員が住込であるためで、人件費であること日本の場合に等しい。 有本教授は第三の種類として補助簿に一括しておられるが、詳細に検討すると、送銀簿︵金銭判取帳︶送撞鐘︵貨物判取帳︶ までが同列に置いてある。会計帳簿というよりは証蔽である。戸田教授の分類に従うと次の如し、 明 細 簿 A 計算 簿 。門市簿 ︵小口小売売上帳︶前出。 。存貨簿 商品在高帳、売買損益計算を行う。 。貨本四 仕入荷物の附帯費用の計算。
。零用簿 小払資金明細帳に相当し、記入法は等しい、下級見習店員が記入する。 B 記 録 簿 ・生財簿 什器備品の取得原価と減価償却。 。本票根簿 支払手形記入帳。 ・.支票根簿 小切手記入帳。 。来票根簿 受取手形記入帳。 ・辛金簿 給料明細帳。 。暫記簿 仮勘定記入帳。 以上充分ではなかったが、有本教授の詳細な解説に基き、戸田教授の説に従って、やや体裁をかえて例示したもので、 根岸博士の報告と照合すると、寧波京津式と払えられる簿記法をも﹂ってしているが、南支系︵広東系・榎門系︶とりわけ慶 門系を参照してみたが、名称を異にするのみで、本質的に殆ど差異をみない。特に指摘した問題点を別にすれば、同列に 論じてもよいと思う。 ①有本教授﹁支那固有の会計と其改良問題﹂支那研究第二十三号、九二頁。 ②戸田教授﹁中国簿記の検討﹂支那研究第三十三号、二一五頁。 ③根岸博士﹁商事に関する慣行調査報告書−合股の研究﹂東第亜研究所資料二十三号C。 ④拙稿﹁我が国固有の簿記法展望﹂彦根論叢、大谷孝太郎先生還暦記念論文集、鳶職一頁。 ⑤同右、二二二頁。 ⑥戸田教授によれぽ慶母系簿記法では平衡残による締切が全面的に行われたという。﹁南支系中国簿記の研究﹂支那研究第六十一号、三九頁、根岸博. 士晶嗣損圓由雷、 一二六〇頁。 ⑦戸田教授﹁中国簿記の検討﹂支那研究第三十三号、二一九頁。 ⑧戸田教授﹁南支系中国簿記の研究﹂六一頁。 ⑨有本教授﹁支那固右の簿記法概説﹂支那研究、六一二頁。 日中固有簿記法の関係 八九
日申固有簿記法の関係 九〇 三 中国固有簿記法の決算概要 簿記法の実体を知るためには、その計算目的を確認するに如くはない。計算目的そのものは、主副あって単純なもので はない。しかし、種々の帳簿記録・計算を統一的な体系に組み上げるものは決算である。決算構造を明らかにすることに よって、各種帳簿の機能的位置づけができる。そこで簿記組織の全貌を比較するに先立って、中国簿記の決算法を検討し てみたい。 中国の小商業にあっては決算を全く行わないものが多い。合憲・公司のごとき共同企業にあって、はじめて決算を行う。 出資者と経営者との分岐が認められ、各出資者は、その出資の割合に応じて、無限責任を負担し、獲得された利潤は、官 利と言はれる定額配当として先づ出資者に分配され、残余は紅利または余意と称せられ、経営参加者に分配されるのであ る。経営参加者とは資本主たる股東以外の従業員のごとくであって、分配率は一定しないが、東六西四の場合、株主は六 ○%、他を経理、司賑、店員に四〇%を分つ、書記・学徒に分配があるかどうかは一定しない。 このような事情であるから、資本概念は前提として定立されており、簿記的に容易に表現されたのである。このような 資本概念が身代の大家族制における家産の通有部分または股扮とよばれる合有権に由来するという説と官吏の私産をコン メンダする出海と二百という関係に由来するという説のいつれもが、もっともらしいものであり、事情は西洋・日本も同 様である。 この利益分配のためには損益計算は不可欠であって、一般に、月並、年結または三年目に一度の決算を行った。月結は 一月の損益を算定するもので、総清簿を充分調査した上で各項︵勘定科目︶の残高を﹁存﹂と﹁該﹂に分けて配列し、そ の合計の差によって損益を求めるものである。これは皇籍報告単と呼ばれる報告書に作成されて、株主に報告される。
秘結は一年の決算で、終結の合計、または月結なきときは同要領で一年分一度に行う。挫骨報告単と称せられる報告書 を作成し、露虫と見出をつける。用紙が紅色のため紅帳と呼ばれる。その最終部には利益分配に関する記録を加えている 中国の決算書には損益計算書すなわち牧益と費用の対比による利益の計算は行っていないのであるが、直門系簿記にあ っては、﹁雑一部﹂﹁規原部﹂ ﹁総局﹂なる帳簿のいつれかの内でではあるが、商品売買損益計算を行い、次で、純損益 チヤプトウオ 計算に移る計算を行っている。もっとも、中国入にしばしば見られる﹁差出多﹂という考え方で、両計算に不一致があっ ても、 ﹁盈余﹂﹁不符﹂などと記するのみで、誤謬発見の努力はなされないのが通例であるという。 前にも引用したように雷門系簿記は、南支系華僑中経済的に有力であった福建腰細印華僑企業にみられるもので、例外 的存在であり、それが企業経営の発達の結果自然的に発達したものであるか、洋式複式簿記よりする何らかの影響であっ たかは決定し得ない。しかし、日本において固有帳合法が独自の発達から出発し、百年も以前に完備したものがあるのと 比較して、.全く事情が異ることは確実である。 次に南支系簿記における決算表例として戸田教授の論文から引用してみよう。 ]九二四年度
繰各諸シ李邸
資 工
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一.未 イ資資
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本本
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ム/\益料金金金金決
項 計差引純益金
日中固有簿記法の潤係 二、 算 五、○○○・○○盾 七、○○○・○○盾 二、四〇〇・○○盾 四、三四一・四〇盾 三二二・四〇盾 一、二二二・九〇盾 二〇・二八六・七〇盾 二四八・五八盾各水家倉否否商
量縛婁磐金品
計至震賃1翻
仮保敷割一
貸割有卸
渡証m
金金金奪却高高
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二ご、四九一・二〇盾 七八四・︼○盾 一、八○○・○○盾 六、 一六八・七八盾 ︸二〇・○○盾 四五・○○盾 一二六・二〇盾 二二、五三五・二八盾日中固有簿記法の関係 また寧波京清系の﹁結彩﹂例として有本教授の論文から引用し、 結 彩︵年度決算報告表︶ 各存︵諸積極項目︶ 一 一 一
“
一 存現金存現貨
存頂首
存生財
︵現金在高︶ ︵棚卸商品在高︶ ︵出資金在高︶ ︵什器備品在高︶ 計元⋮⋮⋮ ︵︶内に和訳を入れた。 九二 以上共計存規元九千九百七十八両四銭一分︵以上積極項合計規元九千九百⋮⋮⋮︶ 各該︵諸消極項目︶ 該資本 ︵資本金期首在高︶ ⋮⋮⋮ 該⋮⋮ ⋮⋮⋮ 以上共計該規元八千八百九十六両六銭八分 除該欺外浄齎余規元壱千零八十↓両七銭三分 ︵以上消極項合計規元八千八百⋮⋮⋮︶ ︵消極項差引純利益規元⋮⋮⋮⋮⋮⋮︶ 計開十五股派毎股計得元⋮⋮⋮︵利益処分︶ 付目東 ︵出資者︶
付目友 ︵従業員︶ 南支系の外見は西洋式の様式に酷似している。差引残高でなく平衡差額の形式で示すものもあるという。寧波系のもの は日本固有のものと一層酷似している。しかし、形式の類似をもって、同一性を想像し、本質的差異を見落してはならな い。中国簿記の記入法則は前項で示したごとく、上下二世に分った帳簿に、牧・付.来・去等の標字を用いて、現金出納記録に類せしめて、金銭以外の財貨用役についても入・出の関係に処理するのである。右の邦訳において﹁積極﹂﹁消極﹂ の語をもってしたのは西洋式における借方貸方のドイツ語用法とは関係なく、来去回付の意味である。 このようにして、二面形式は用いているが、借方・貸方のような合理的に仕組まれた統一的記帳整理め方式ばついに発 達しなかったもので、統一的原理に導かれた機械的処理の可能な機構になっていないのである。 減価償却、貸倒損失の見、積、未経過勘定の設定など、相当発達した会計処理を行っているのにひきかえて、全体として は現金主義会計であるという。﹁結彩﹂の構造は明らかに不充分な財産計算的損益計算であって、貸借対照表に類してい るが、損益計算書的なものがある場合も、両計算の一致という最大の長所要件を軽視したもので、試算表は全く無視され ていることはいうまでもない。この点、日本固有の簿記法に遙かに劣っている。 ①、戸田教授﹁中国簿記の検討﹂支那研究第三十三号、二一コニ頁。 ②有本教授﹁支那固有の簿記法概説﹂支那研究、第十八号、六四六頁。 ③根岸博士、前掲書、四・五頁。 ④有本教授、前掲論文、六四二頁。 ⑤ 戸田教授﹁南支系中国簿記の研究﹂支那研究、第六十一号、六七頁。 ⑥同右、七一頁。 ⑦同右、六六頁。 ⑧有本教授、前掲論文、六四六頁。 四 日中簿記法比較寸見 記帳から決算に到る概要が明らかとなったので、次に図式によって全構造の比較をする。 冒中固有簿記法の関係 九三
第 日中固膏簿記法の開傑
図寧波系組織図
第二図 村西家組織図 九経 O (仕 入) 進貨流水簿 支払高 掛債務進貨総清簿
︵仕入先元帳︶ 簿在一 ※考量編
垂置 結彩(B/s) 卸売 批発流水簿栞馨資本縫
帯購葡り鎚購
欠戸総清簿︵貸金%︶ 一雑項総清簿︵雑翼︶ 本根簿(山手a/c) 支根簿(小切手%う 来根簿(受手%) {売上) 小売 卸弓 門市長 現金売 掛債権 批発総.清簿 ハ得意先一兀帳︶ 現金小売回収高
● 一万年騰清瀬 進性がうかがえるのである。慶門系簿記法にあっては、 になるのである。村西商店では、 時代は同時である。 千 清単︵請求書︶ 手形取引 漫遊に西欧文明摂取の時代で、 (仕 入) 釦團峨
?@ ピ
禦椒呆固有帳合のう翻匙墨縄として引
三一 用した。第一寸寸の※印の点に損益計算書が出現する可能性 が潜在しながら、ついに実現しなかった点に中国簿記法の後 この点に商品別売買損益計算が成立して、村西商店に類似の組織 在来帳合の改良過程にあり、全くの固有帳合ではない。 掛 掛 п@ 買 売上当座帳 買入省座帳 一…1 大福帳離 貸借差引帳 Flll,・F 資産勘定帳 損益勘定帳 布類番付帳 布類仕入帳 布職出帳 支払高 印﹁立.溝薦i甑1毒1−j 雛貸借部 一レ品付立帳脅 一∼u仕i 量切1帳i 収, ,一1 高日常記帳 而決算記帳一 一 ﹃その他原始記入簿臼’常瀬簿 引出 ケ 預 囎差引・糟帳匝
支払 一 一㌦ 一一 冝@記 帳完全に固有と考えられる中井家帳合を同様の方式で組織図にまとめ次に掲げてみよう。日中轟音記法がその起源におい て関係があったか否かについては具体的史料による根拠は発見されていない。また今日知りうる限りの実践を比較検討す ることから、ある程度の推論を立てることができる。両落記法は一見非常に類似しているので、何らかの交流が存したか のごとくに思えるけれども、具体的に検討すると、根本的に、原理的に.異るものである。末梢的な記帳技法についてはい
野饗図 中井家組織図 ざ知らず、基本的計算原理にういては中国から日本に齎らされ
幻仕入帳貞・記︵史料馨ず︶ た、いう限跡は全く存しない。むしろ、呆の方覆計算構造
(仕 上) (売 店卸 目 録 売場控帳 等売上当座帳利豊1繍・醗徳
二部・部 益部1郡 掛( яq 、決算整理売立帳
i売上%)店卸下書
掛売 現金︵売色 大 福 帳 問屋仕切帳 i得意先元帳)@店 別
言言主部
過不足口 給’テ帳ゴ
店入用・口禦藩暮
回 鼻 争 桑園
請求書 ■ 日中固有簿記法の関係麓
「 回収高 合’は合計転記 〉金銀出納帳
(収 支) の完成が早く、清朝末期以降に日本から、簿記法が伝えられて いる。中国固有の簿記法は財産計算の体系のみをもった不完全 簿記法であったといいうる。 第一に、中国では個人財産によって構成されている個入企業 は稀で。合股などの共同事業であったから、家計と企業の分離 を特に計算上で行う必要はなかった。資本勘定はこのようにし て、簿記的計算構造の成立の以前から認識されていて、日本の 個人企業にあっ・て、簿記的計算方式が成立することによって生 じたのとは事情が異る。そのため、資本計算的損益計算、すな わち、財産計法算による損益計算がまつ成立した。その目的は いうまでもなく出資者に対する利益分配の必要からであった。 経営能率の管理という点は、重要であるはずにかかわらず、第 九五日中固有簿記法の関係 九六 二義的であった。この点は概ね掌櫃的の手腕に委ねられ、三年に一度の利益処分にあっては中国人的センスでもって、結 果的に検討されたものであろう。 日本にあっては牧羊費用の対応比較計算たる損益計算がまつ成立している。個人企業の企業主が自己管理の手段として この計算を尊重したのである。資本概念の成立は遅れ、財産系統の記帳は主として、個々の財産の在高管理を行うをもっ て任務とした。財産が総体的に包括されて、個人財産と観念的に区別されるに及んで、はじめて財産計算的損益の確定が なされるのである。本家と店、本支店といった分肢経営組織を原則とした近江老入にあって、複計算構造が成立したのも 故なしとはしないのである。 第二に、多帳簿式組織を採用している点、したがって、記入の正否検証のために、符合印を押捺することは、同巧異曲 と考えられないこともない。しかし、実質的に検討するとその機能は全く異るのである。中国では分業が進み、記帳が分 担せられたので、担当者の異る二帳簿問での一取引σ記入の符合を検討するための印であるのに対して、日本では、帳簿 方は限られていて、集中記帳制を採っている。したがって、符合印は、むしろ記帳者の自己検討の目的で行っている。転 記済の証印という役割はむしろ日本の場合に重要であって、中国の場合は簿記的記帳に組込まれた技法であるよりば、監 査的機能を重視している。中国では値引・割引に関する記帳は不確実であったといわれている。それだけ、記帳金額の完 全な符合、西洋式簿記法における貸借平均の原理に相当する生検作用ははじめから無視されているのである。日本中国と も完全に機械的に運用できる形の統一的記帳法則はついに成立しなかったのではあるが、日本では、中井家の場合に、そ れに近い原理が働き、符合印が全面的に押捺され、漏れのない限り、決算に際して組替を行えば、両計算系統の損益は一 致するという期待にもとづいて運用されているのである。 末端技法に亘っては中国では複式簿記を成立せしめるに必要な技法が徐々に発達していて、興味深いところである。紙
巾の都合上その一々を論ずることは別稿にゆづ.らねばならないが、少くとも.、右の二点を指摘して、 て発達途上での相互関係を推測することは不当であることが立証できるのである。 ①拙稿﹁洋式簿記法輸入後の我が国固有簿記法−村西商店の決算例1﹂彦根論叢第七十−七十二号、二四七頁。 ②戸田教授﹁中国簿記の検討﹂支那研究、第三十三号、二二三頁。 ③根岸博士、前掲論文、四三九頁。 外形上の類似をもつ ● ’ 日.中固有簿記法の関係 九七