<記録II>ハミル館一〇〇年の歩み : 1918∼2018
著者
今田 寛
雑誌名
関西学院史紀要
号
25
ページ
133-164
発行年
2019-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00027601
ハミル館一〇〇年の歩み
1918
~
2018
今
田
寬
本稿は、 二〇一八年一一月三日(土) 、文学部主催で開催された、 「ハミル館一〇〇周年記念式典 ・ 講 演 会 」 で の 講 演 内 容 を ま と め た も の で あ る。 当 日 は 一 〇 〇 枚 に 及 ぶ 資 料 を 投 射 し な が ら の 話 で あ っ た が、 本 稿 で は 紙 数 と の 関 係 で 多 く の 資 料 を 割 愛 せ ざ る を 得 な い。 な お、 講 演 後、 本 稿 を ま と め る ま で に 幾 分 内 容 を 修 正 し た と こ ろ も 出 て き た。 ま た 私 が 探 し 切 れ て い な い 事 実 が ま だ ど こ か に 埋 も れ て い て、 今 後 さ ら に 修 正 が 求 め ら れ る か も し れ な い。 本 稿 で は 残 る 疑 問 点 も 記 し て お く の で、 今 後 検 証 さ れ た い。 ま た ハ ミ ル 館 の 歴 史 は、 そ の 背 景 を な す 関 西 学 院 や 時 代 を 抜 き に し て 語 れ な い の で、 す で に 知 ら れ て い る こ と と 重 複 す る が、 以 下、 コ ラ ム な ど も 交 え て 大 き な 時 代 背景と流れの中でハミル館一〇〇年の歩みをたどることにする。 はじめに 現在のハミル館 写 真 1 は 現 在 の ハ ミ ル 館 の 外 観 で あ る。 今 は 文 学 部 総 合 心 理 科 学 科 の 施 設 の 一 部 と し て 用 い ら れ て い る。 で は ど こ に あ る の か。 中 央 芝 生 か ら 文 学 部 と 神 学 部 の 建 物 の 間 を 抜 け、 モ ミ ジ の ト ン ネ ル の 小 径 を 北 に 進 む と 宣 教 師 住 宅 北 側 の 道 に 出 る。 そ こ か ら 更 に 坂 を 左 に 下 り た 一 段 低 い 所、 つ ま り 上 ヶ 原 キ ャ ン パ ス の 最 北 端 に 立 地 し て い写真1 現在のハミル館 写真2 定礎の年を刻んだハミル館の礎石 るのがハミル館である。坂を下り切った建物の角の植木の陰をのぞくと、そこに写真2のような礎石が見える。 正 面 に「 AD1917 」、 側 面 に「 大 正 六 年 建 之 」 と あ る よ う に、 こ の 建 物 は、 一 九 二 九( 昭 和 四 ) 年 に 関 学 が 上 ヶ 原 キ ャ ン パ ス に 移 転 し て き た 前 か ら あ っ た こ と を 物 語 っ て い る。 つ ま り ハ ミ ル 館 は 上 ヶ 原 キ ャ ン パ ス 最 古 の 建 物 で、 学院が建物建築百周年を最初に祝う記念すべき建物ということになる。 原田の森時代(一八八九~一九二九) ハミル館建設の背景 周 知 の よ う に 関 西 学 院 は 一 八 八 九( 明 治 二 二 ) 年、 ア メ リ カ 南 部、 南 メ ソ ジ ス ト監督教会の宣教師、 W ・ R ・ ラ ン バ ス に よ っ て 神 戸・ 原 田 の 森 に 創 設 さ れ た。 専 門 学 校 レ ベ ル の 神 学 部 と、 中 学 校 レ ベ ル の 普 通 学 部 の 二 学 部 で、 初 め は そ れ ぞ れ の 学 生 数 七 人、 一 二 人 が 五 人 の 教 員 の 下、 木 造 校 舎 二 棟 で 学 ぶ 小 さ な 学 校 で あ っ た。 図1は、 原田の森時代約 四〇
年 間 の 関 西 学 院 の 卒 業 生 数 の 推 移 を 示 し て い る。 こ の 図 か ら わ か る よ う に、 関 西 学 院 の 最 初 の 二 〇 年 間 の 歩 み は ま こ と に 細 々 と し た も の で、 年 平 均 卒 業 生 数 は 二 学 部 合 わ せ て も 六 人 に も 満 た ず、 卒 業 生 ゼ ロ の 年 が 各 学 部 と も 二〇年中九年もある。 図1 原田の森時代約 40 年間の関西学院卒業生数の推移 しかしこの状態は、 一九一〇(明治四三)年に、 後にベー ツ 院 長 を 輩 出 し た カ ナ ダ メ ソ ジ ス ト 教 会 が 関 西 学 院 の 経 営 に 参 画 す る こ と に よ っ て 大 き く 変 わ っ た。 こ れ に よ っ て 学 院 の 経 営 基 盤 が 強 固 な も の に な り、 そ の 結 果、 他 の 要 因 も あ る が、 図 に 見 ら れ る よ う に 大 正 年 間 を 通 し て 学 生 数 は 飛 躍 的 に 増 加 し た。 ま た 学 部 数 も、 神 学 部、 文 学 部、 高 等 商 業 学 部、 そ れ に 普 通 学 部 が 中 学 部 に な り、 合 計 四 学 部 に 増 え て い る。 更 に 校 地 面 積 も 初 期 の 一 万 坪 か ら 二 ・ 六 七 万 坪 へ と増えている。 こ の よ う に 学 生 数 が 増 加 す る 中、 関 西 学 院 内 に キ リ ス ト 教 教 育 の 拠 点 を 作 る 必 要 性 が 唱 え ら れ る よ う に な り、 一 九 一 五( 大 正 四 ) 年 に 関 西 学 院 教 会 が 設 立 さ れ た。 関 西 学 院 教 会 は、 現 在 は 上 甲 東 園 に あ り、 地 域 に 開 か れ た 普 通 の 教 会 で あ る が、 当 時 は 学 院 の 構 内 に あ り、 関 西 学 院 の 学 生・ 生 徒・ 教 職 員 を 主 た る 会 員 と し、 宗 教 主 事 が 牧 師 の 任 に あ た る 半 ば 閉 鎖 的 な 学 校 教 会 で あ っ た。 し か し そ の 影 響 力 は 大 き く、 一 九 一 六 年、 一 九 一 七 年 に 洗 礼 を 受 け た 生 徒・ 学生は、それぞれ一五名、三二名に及んだ。
そしてそのような中で一九一八(大正七)年に竣工 したのがハミル館であった。 ハミル館建設の目的と設立にいたる経緯 ま ず ハ ミ ル 館 と い う 名 称 は、 ア メ リ カ 南 メ ソ ジ ス ト 監 督 教 会 牧 師 で、 日 曜 学 校 教 育 に 熱 心 で あ っ た ハ ワ ー ド・ ハ ミ ル( H. M. Hamill, 1847-1915 ) に 由 来 す る。日曜学校とは、キリスト教の教えを子どもたちに 伝道するために日曜日に開かれる学校(今は教会学校 と 呼 ぶ ) の こ と で、 氏 は こ の 日 曜 学 校 運 動( Sunday school movement ) の中心人物であり、 『日曜学校教師』 ( Hamill, 1905 )という著書もある。ハミルは一九〇七 年から〇八年にかけて日本に六ヶ月間滞在し、その縁 で日本の日曜学校教育のために一〇〇〇ドルの特別献 金をしている。これから想像がつくように、ハミル館 は、この寄附をベースに内外の寄付金を合わせて建設 されたのである。写真3はハミル牧師である。 し か し お 金 が あ っ た だ け で は 建 物 は 建 た な い。 建 設 に 向 け て の 動 き が な け れ ば な ら な い。 そ の 動 き の 中 心 人 物 が 写 真 4 に 示 す 三 戸 吉 太 郎( 一 八 六 七 ― 一九二五)であった。三戸はW・R・ランバスが、関 写真3 ハミル牧師 (H. M. Hamill、 1847-1915) 写真4 三戸吉太郎牧師(1867-1925) 写真提供:山腰牧子
西学院の創立に先立ち広島を中心に伝道をしていた時 代に氏から洗礼を受け、一八九六年に関西学院神学部 を卒業した牧師であった。若い時から児童の宗教教育 を自らの使命とし、教派を超えた日曜学校運動の熱心 な推進者であり、後に日本メソジスト教会日曜学校局 長、日本日曜学校協会理事などの要職を務めた。なお 写真4の提供者の山腰(旧姓三戸)牧子は氏の孫であ り、一九六四年に関西学院大学文学部心理学科を卒業 し、ハミル館で学んだ。 一九一三年四月一七日、第七回関西学院理事会が開 催されたが、三戸はその席上、ハミル氏の特別献金に 基 づ き、 関 西 学 院 構 内 に 日 曜 学 校 教 師 養 成 の た め の 施設を建設させてほしいとの日本メソジスト教会日曜 学校局の要請を伝えた。そして同年一二月一六日に開 催 さ れ た 第 八 回 学 院 理 事 会 で は、 関 西 学 院 と 日 本 メ ソジスト教会日曜学校局から各四名選出された合同委 員 会 で、 ハ ミ ル 館 の 使 用 に 関 す る 同 意 書 が 作 成 さ れ、 一九一七年には定礎、一九一八年一〇月に竣工、一二 月二九日には献堂式がもたれるに到った。なお同意書 が作成された一年一ヶ月後の一九一五年一月二一日に ハミルは亡くなっているので、同氏はハミル館の完成 写真5 建設当時に作成されたハミル館の絵葉書
を知らない。 写 真 5 は、 一 九 一 八 年 当 時 の ハ ミ ル 館 の 外 観 で あ る。W ・ M ・ ヴォーリズの設計になる木造二階建てで、 スレートぶきの屋根は赤、 外壁は灰色、 窓枠は濃緑と 記録にはある。 図2は、 各階の平面図である。 建物は、 正方形の四隅を切り落とした八角形で、 天井高が一階 が三 ・ 七m、 二階が二 ・ 六mと一階の天井が二階に比べ て非常に高いのが特徴である。 なお建物を貫くコンセ プトは正方形のように思われる。 まず建物そのものの 原型は正方形であり、 写真5に見られるように外に面 した窓も正方形の枠に小さな正方形、 後に述べる内部 の扉や天窓(写真6、 25参照)も、 小さな正方形から 構成されており、ハミル館の特徴をなしている。 以下、 図2の平面図の各部屋に付された番号で説明 する。 一階の玄関1を入ると中央に大きなホール2が あり、 正面に舞台3がある。これは将来の日曜学校開 設を視野に入れた設計であろう。 そのホールと舞台の 様子は献堂式の写真6に明らかであろう。 な お 一 階 の 7 と 二 階 の 4、 5 に は「 畳 敷 」 と 書 き 込 みがあり、 2階4には床の間、 違い棚も記入されてい る が、 実 際 に 建 っ た 時 に は こ の 図 面 ど お り で は な く、 図2 ハミル館の設計図面(左1階、右2階) 図面では、フィートを長さの単位として用いている。
二 階 の 和 室 は 3 に 変 更 さ れ て お り( 写 真 11参 照 )、 一 階 の 7 は 写 真 10か ら 推 定 し て 洋 室 に 変 更 さ れ て い た と 思 わ れ る。二階の和室の変更は、上ヶ原移転後の姿と一致する(後の図7参照) 。 ハミル館で始まった日曜学校教師養成学校と日曜学校 写 真 7 は、 こ の よ う に し て 開 設 さ れ た ハ ミ ル 日 曜 学 校 教 師 養 成 所 の 一 室 で 執 務 中 の 三 戸 の 姿 で あ り、 写 真 8 は 会 議 中 の 三 戸( 左 ) の 姿 で あ る。 こ の 養 成 所 は、 当 初 交 わ さ れ た 同 意 書 に も あ る よ う に 関 西 学 院 神 学 部 の 全 面 的 協 力 に よ っ て 運 営 さ れ、 一 年 を 三 学 期 に 分 け、 順 序 を 問 わ ず 履 修 し て 一 年 で 修 了 で き る 課 程 が 準 備 さ れ て お り 写真6 ハミル館一階ホールにおける献堂式 (1918 年 12 月 29 日) ( 学 院 史 編 纂 室 資 料 番 号 19780 )、 キ リ ス ト 教 の 教 派 を 超 え て 利 用 す る こ と が で き た。 ま た そ の 計 画 が 壮 大 で あ っ た こ と は、 写 真 8 の 壁 に か か る 日 本 地 図( 当 時 は 台 湾 を 含 む ) や、 左 の ポ ス タ ー に「 日 曜 學 校 数 壱 千 校 以 上 教 職 總 数 三 千 人 以 上 生 徒 總 数 拾 萬 人 以 上 」 と あ る こ と で も わ か る。 会 議 に は 詰 襟 姿 の 神 学 部 学 生 も 参加している。 写真7 ハミル館の一室で執務中の三戸吉太郎 (写真提供:山腰牧子)
写真8 会議中の三戸とスタッフ (写真提供:山腰牧子) 写真9 ハミル館日曜学校開校式 (図2、1階部屋 2,3) 写真 10 ハミル館日曜学校分級(幼年科男生) (図2、1階部屋 7 と推定。設計変更後) 次 の 一 連 の 写 真 は、 養 成 所 開 設 二 年 目 の 一 九 一 九 年 か ら 始 ま っ た、 日 本 メ ソ ジ ス ト 教 会 日 曜 学 校 局 の 経 営 に な る ハ ミ ル 館 で の 日 曜 学 校 の 開 校 式( 写 真 9) と 分 級( 写 真 10、 11) の 様 子 を 示 し、 写 真 12は こ ど も の 日 礼 拝 当 日 の 集 合 写 真 で あ る。 写 真 11は、 設 計 変 更 後 の 二 階 の 違 い 棚、 床 の 間 つ き の 和 室 で 行 わ れ て い る 分 級 の 様 子 で あ る。 写真 12は、当時の日曜学校が盛んであったことを物語っている。 その後のハミル館 上ヶ原移転まで 上 記 の よ う に、 壮 大 な 計 画 で も っ て 発 足 し た ハ ミ ル 館 日 曜 学 校 教 師 養 成 所 で あ っ た が、 実 は 二 年 間 し か 続 か な か っ た( 図 3 第 1 行 参 照 )。 ま た 同 養 成 所 で 訓 練 を 受 け た 者 も、 横 田 栄 三 郎( 後、 頌 栄 女 子 短 期 大 学 学 長 )、 岸 千
写真 11 ハミル館日曜学校分級(中等科女生) (図2、2階部屋 3。設計変更後) 写真 12 子どもの日礼拝集合写真 (ハミル館西側の庭にて) 年( 後、 日 本 基 督 教 協 議 会 議 長 ) の 二 名 し か 記 録 に 残 っ て い な い。 三 戸 が 過 労 の た め 病 に 倒 れ た た め で あ る。 そ の た め 一 九 一 九 年 に 始 ま っ た 日 本 メ ソ ジ ス ト 教 会 の 経 営 に な る ハ ミ ル 館 日 曜 学 校 も、 一 九 二 二 年 か ら は 関 西 学 院 教 会 に 委 譲 さ れ、 原 田 日 曜 学 校 と な っ た( 図 3 第 2 行 参 照 )。 な お 原 田 日 曜 学 校 と な っ て い る の は、 当 時 関 西 学 院 神学部はいくつかの場所で日曜学校を開いていたことをも示唆している。 こ の よ う な 状 態 に な る と、 ハ ミ ル 館 は 日 曜 日 以 外 は 空 き 状 態 に な る。 そ こ で 一 九 二 〇 年 か ら は、 ま だ 本 校 舎 を も た ず 高 等 部 商 科 と の 同 居 で 肩 身 の 狭 い 思 い を し て い た 文 科( 一 九 二 一 年 か ら は 文 学 部 ) が、 週 日 は 仮 校 舎 と し て使用するようになった(図3第3行参照) 。 図 3 の 最 下 段 に つ い て 述 べ る 前 に 、 私 の 父 ・ 今 田 恵 の こ と に 触 れ な け れ ば な ら な い 。 今 田 恵 ( 一 八 九 四 ― 一九七〇)
図3 初期 11 年間のハミル館の用いられ方の推移 写真 13 1923 年にハミル館2階部屋 3 に開設 された心理学実験室(写真は 1926(大 正 15)年現在)。立位右側が今田恵 は メ ソ ジ ス ト 教 会 の 牧 師・ 今 田 参( わ か つ ) の 息 子 で、 宇 和 島 中 学 を 卒 業 後、 牧 師 に な る べ く 神 戸 の 関 西 学 院 神 学 部 に 一 九 一 二 年 に 入 学 し た。 一 九 一 七 年 に 卒 業 し 牧 師 の 資 格 を 得 る が、 心 理 学 を 学 び た く て 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 に 進 み、 一 年 志 願 の 兵 役 を 挿 み 一 九 二 二 年 に 卒 業 す る。 そ し て 卒 業 と 同 時 に、 母 校 関 西 学 院 か ら、 学 院 初 の 心 理 学 の 専 任 教 員 と し て 招 か れ、 一 九 二 二 年 に は ハ ミ ル 館 で 就 任 式 を 迎 え て い る。 そ し て 翌 一 九 二 三 年 に は、 基 本 図 書 や 実 験 機 器 の ド イ ツ・ チ ン メ ル マ ン 社 よ り の 購 入 が 許 さ れ、 ハ ミ ル 館 の 二 階 の 三 室 に 心 理 学 実 験 室 を 開 設 し て い る。 な お こ の 心 理 学 実 験 室 は、 日 本 の 私 学 で 最 古 の も の で、 国 立 を 含 め て も 東 大( 一 九 〇 三、 明 治 三 六 年 )、 京大(一九〇八、明治四一年)に次ぐ歴史をもつ実験室である。 そ れ で は ハ ミ ル 館 の 二 階 の 三 室 と は ど の 部 屋 で あ ろ う か。 写 真 13か ら、 こ の 部 屋 が 二 階 の 西 南 の 隅 部 屋、 つ ま り 図 2 の 二 階 の 部 屋 6 と そ の 東 側 の 5、 4 で あ る こ と が 確 定 で き る。 こ の 写 真 か ら も 部 屋 5、 4 が 当 初 の 和 室 の 計 画 か ら 洋 室 に 変 更 さ れ て い た こ と が わ か る。 そ れ で は ハ ミ ル 館 は 原 田 の 森 キ ャ ン パ ス の ど こ に あ っ た の か。 図 4 は 上 ヶ 原 移 転 直 前 の 原 田 の 森 キ ャ ン パ ス を 示 し
て い る が、 こ の キ ャ ン パ ス は 現 在 の 阪 急 電 鉄( 当 時 の 名 称 は 阪 神 急 行 電 鉄 ) 神 戸 線、 王 子 公 園 駅 の 山 側 に あ る 王 子 公 園 の 位 置 と ほ ぼ 重 な る。 当 時 の 神 戸 線 の 終 点 は、 こ の 地 図 の 左 下、 キ ャ ン パ ス の 隅 か ら 約 二 〇 〇 m 西 の 上 筒 井 に あ っ た。 実 は キ ャ ン パ ス の 中 央 に 原 田 神 社 が あ り、 ハ ミ ル 館 は そ の 境 内 入 口 に 立 地 し て い た。 な お 原 田 の 森 キ ャ ン パ ス と い う 名 称 の 由 来 は、 こ の 原 田 神 社 境 内 の 森 に あ る と い う が、 当 時 の 航 空 写 真 に 見 ら れ る こ ん も り と し た 森 や、 図 4 か らも納得できる。 な お 文 学 部 は 一 九 二 三 年 に は 新 築 の 専 用 校 舎 に 移 転 し た た め、 ハ ミ ル 館 に は、 上 ヶ 原 移 転 の 一 九 二 九 年 ま で は、 文 学 部 の 心 理 学 実 験 室 の み が 残 り 毎 日 用 い ら れ、 日 曜 日 に は 原 田 日曜学校の活動がおこなわれた。 図4 関西学院神戸原田の森キャンパス(1929 年当時) なお★印の建物はヴォーリズの設計であることを示す ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
コラム1 キャンパス移転 原田の森から上ヶ原へ 写真 14 大学昇格を願って 学生たちが作った ポスター 写真 15 教員の連署による関西学院の 仁川(上ヶ原)移転要望書の 最初の頁 細 々 と し た ス タ ー ト を 切 っ た 関 西 学 院 で あ っ た が、 図 4 が 示 す よ う に 大 正 年 間 に は す っ か り 充 実 し、 ハ ミ ル 館 建 設 以 後 も 中 央 講 堂、 文 学 部 棟、 高 等 商 業 学 部 棟 が 新 築 さ れ、 順 風 満 帆 の 発 展 を し て い た か の よ う に 見 え る。 し か し 一 九 一 八 年 の 文 部 省 に よ る 大 学 令 の 発 布 は、 学 院 に 大 き な 動 揺 を も た ら す こ と に な る。 大 学 令 の 発 布 に よ っ て、 そ れ ま で 国 立 大 学 に の み 許 さ れ て い た 大 学 の 設 置 が 私 学 に も 許 さ れ る よ う に な り、 早 く も 一 九 二 〇 年 二 月 に は 慶 応、 早 稲 田 が 専 門 学 校 か ら 大 学 に 昇 格 し、 大 正 年 間 に は 関 学 を 除 く 関 同 立 を 含 む 二 二 大 学 が 大 学 に 昇 格 し た の で あ る。 と こ ろ が 関 西 学 院 は 大 学 設 置 に 必 要 な 供 託 金 六 〇 万 円 の 準 備 が で き ず、 学 生、 教 職 員 の 強 い 要 望 に も 拘 わ ら ず 大 学 昇 格 へ の 道 は 難 航 し、 他 校 に 大 き な 後 れ を と る こ と に な っ た。 写 真 14は 当 時 の 学 内 の 雰 囲 気 を 物 語っている。 そ の よ う な 中 で 浮 上 し た の が、 原 田 の 森 か ら 現 在 の 西 宮 市 上 ヶ 原 へ の キ ャ ン パ ス 移 転 案 で あ っ た。 こ れ に は 学 内 に も 賛 否 両 論 あ り、 神 戸 市 の 猛 烈 な 引 き 止 め 工 作 も あ っ た が、 多 く の 教 員 が こ の 案 を 支 持 し て い た こ と は、 写真 15からもうかがえる。
写真 16 定方塊石画伯になる移転前の上ヶ原風景(1,2,3は池) そ し て 写 真 15の 要 望 書 が 提 出 さ れ 日 に 開 か れ た 理 事 会 に お い て、 上ヶ原移転が決定された。この決定の背後には、 当時市街化が進んで 地 価 が 上 が っ て い た 原 田 の 森 キ ャ ン パ ス 二 万 七 千 六 百 坪 が 三 二 〇 万 円 と い う 高 価 で 売 却 で き た こ と、 そ し て 写 真 16の よ う に ま だ の ど か な 農 地 で あ っ た 上 ヶ 原 の 土 地 七 万 坪 が 五 五 万 円 と い う 安 価 で 購 入 で きたことがあった。 写 真 16の 定 方 塊 石 画 伯( 一 九 〇 〇 年 普 通 学 部 卒 業 ) に な る 移 転 前 の 上 ヶ 原 風 景 に は、 甲 山 は も と よ り、 当 時 キ ャ ン パ ス 内 に あ っ た 三 つ の 池 が 青 色 で は っ き り 描 か れ て い る の で 場 所 が 確 定 で き る。 左 端 に は 現 存 の 新 月 池 1 が 見 え る の で、 手 前 の 農 道 の 端 あ た り が 現 在 の 正 門 の 位 置 で あ ろ う。 そ し て 甲 山 手 前 に は、 か つ て 時 計 台 裏 に あ っ た 池 2 が 見 え る。 ま た そ の 左 の、 背 後 の 林 が 切 れ る 手 前 に は、 後 の 高 等 部 校 舎( 移 転 当 時 は 中 学 部 ) の 北 側 に あ っ た 池 3 も 見 え る。 こ の 池 も 今 は な く、 体 育 館 南 棟 が 建 っ て い る。 移 転 予 定 先 は こ の よ う に 一 面 の 農 地 で は あ っ た が、 す で に 一 九 二 二 年 に は 甲 東 園 駅 が、 一 九 二 三 年 に は 仁 川 駅 が 開 業 さ れ て い た た め に、 学 生 の 通 学 の 便 の 見通しは立っていたのであろう。 このようにして関西学院は一九二九 (昭和四) 年に無事上ヶ原キャ ン パ ス に 移 転 を 果 た し、 一 九 三 二( 昭 和 七 ) 年 に は 悲 願 の 大 学 昇 格 が 認 可 さ れ た。 慶 応、 早 稲 田、 同 志 社 に 遅 れ る こ と 一 二 年 で あ る。 そ し て 一 九 三 四( 昭 和 九 ) 年 に は、 法 文 学 部 と 商 経 学 部 の 二 学 部 か らなる三年制大学が発足することになる。 1 2 3
上ヶ原時代(一九二九~ ) 上ヶ原移転後のハミル館 そ れ で は 上 ヶ 原 移 転 に 伴 っ て ハ ミ ル 館 は ど う な っ た の か。 実 は 原 田 の 森 キ ャ ン パ ス の 数 あ る 建 物 の 中 で、 唯 一 ハ ミ ル 館 の み が 上 ヶ 原 に 移 築 さ れ る こ と に な っ た。 そ の 理 由 は、 ハ ミ ル 館 は 学 院 キ ャ ン パ ス 内 に 建 て ら れ た が、 建 物 は 日 本 メ ソ ジ ス ト 教 会 の も の で あ り、 関 西 学 院 と の 間 で 交 わ さ れ た 当 初 の 同 意 書 に 基 づ い て、 日 本 メ ソ ジ ス ト 教 会 が ハ ミ ル 館 の 上 ヶ 原 へ の 移 築 を 希 望 し た た め で あ ろ う。 た だ し 移 転 に 当 た っ て 日 本 メ ソ ジ ス ト 教 会 は、 将 来 と も に キ リ ス ト 教 教 育 と 矛 盾 し な い 目 的 の た め に 使 用 す る こ と を 条 件 に、 ハ ミ ル 館 の 所 有 権 を 関 西 学 院 に 委 譲 し、 関 西 学 院 は そ れ を 関 西 学 院 教 会 専 用 の 建 物 と す る こ と で 日 本 メ ソジスト教会との約定に応じたようである。 写 真 17は、 移 転 当 時 の 関 西 学 院 キ ャ ン パ ス の 北 半 分 の ジ オ ラ マ で あ り、 写 真 18は ほ ぼ 同 位 置 の 現 在 の 航 空 写 真 で あ る が、 約 九 〇 年 の 間 に キ ャ ン パ ス は 大 き な 変 貌 を 遂 げ て い る。 し か し ハ ミル館の位置は変わらず、キャンパスの北端にある。 上 の よ う な 事 情 で 一 九 二 九 年 か ら 関 西 学 院 教 会 が 使 用 す る よ う に な っ た ハ ミ ル 館 は、 日 曜 学 校 活 動 を 継 続 す る と 共 に、 新 た に 仁 川 幼 稚 園 を 開 設 す る こ と な り、 一 九 五 四( 昭 和 二 九 ) 年 に 写真 17 上ヶ原キャンパス移転当時の関西学院キャンパス北半分のジオラマ。
写真 18 現在の上ヶ原キャンパス北半分の航空写真 仁 川 幼 稚 園 が 現 在 の 地 に 移 転 す る ま で、 そ れ ら の 活 動 が二四年間にわたって続けられた。 そ の 間 の 日 曜 学 校 の 活 動 は、 記 録 に よ る と 一 九 三 五 ( 昭 和 一 〇 ) 年 頃 ま で の 出 席 生 徒 は 六 〇 ~ 九 〇 名、 教 師 数 二 〇 名 前 後、 そ の 後 一 九 四 〇( 昭 和 一 五 ) 年 頃 ま で の 出 席 生 徒 は 八 〇 ~ 一 二 〇 名、 教 師 数 一 三 ~ 一 六 名 と 充 実 し た も の で あ っ た。 こ の よ う な 活 発 な 活 動 が 評 価 さ れ て、 ハ ミ ル 館 日 曜 学 校 は、 一 九 三 八( 昭 和 一 三 ) 年 の 日 曜 学 校 教 育 年 会 に お い て、 日 曜 学 校 局 名 誉 旗 を 授与されている。 一 方 教 会 付 属 の 仁 川 幼 稚 園 も、 図 5 が 示 す よ う に 順 調 な 発 展 を し、 一 九 五 四 年 に 現 在 地 に 移 転 す る ま で の 二五年間に六七四名の卒園児を送り出している。 私事に わたるが、 この二五年間に、 一九四一(昭和一六)年の 私の卒園を含めて、 私の兄弟姉妹が一九三二、 三五、 三八 年に、合計四人、仁川幼稚園から巣立っている。 こ こ か ら し ば ら く、 本 節 が 終 わ る ま で は、 私 の 時 代 感覚で年表示に元号を使用することを許してほしい。 実 は 仁 川 幼 稚 園 の ハ ミ ル 館 時 代 の 前 半 は、 日 本 が 次 第 に 戦 争 へ の 道 に 進 み 始 め た 時 期 で あ り、 昭 和 一 二 年 に は 日 中 戦 争 に、 ま た 昭 和 一 六 年 に は 太 平 洋 戦 争 に 突 ハミル館
図5 関西学院教会付属仁川幼稚園のハミル館時代の卒園者数の推移と保育証。 白丸の4年間は太平洋戦争の時期 入 し、 共 に 昭 和 二 〇 年 八 月 ま で 続 い て い る。 昭 和 一 桁 時 代 か ら 二 桁 時 代 に か け て の わ が 国 の 軍 国 主 義 へ の 傾 斜 は、 写 真 19 と 写 真 20の 二 枚 の 卒 園 写 真 の 違 い に も 如 実 に 表 れ て い る。 太 平 洋 戦 争 中 の 写 真 20で は、 壁 に 日 章 旗 が 掲 げ ら れ て お り、 子 ど も の 證 書 の 持 ち 方 が 見 事 に 右 上 に 統 一 さ れ て い る の に 対 し て、 写 真 19の ま だ 戦 争 が 始 ま る 前 の の ど か な 時 代 の 子 ど も の 證 書 の 持 ち 方 は バ ラ バ ラ で あ る。 ま た 写 真 20で は 男 児 は 坊 主 頭であるが、 写真 19は長髪である。写真 19の前列左端の子 (私 の 兄 ) な ど は、 證 書 を 縦 に し て 端 を 顎 に 当 て て お り、 中 に は 写真 19 昭和 10 年の卒園写真 写真 20 昭和 17 年の卒園写真
同類も見られる。 写 真 21と 22は、 ハ ミ ル 館 内 外 で の 保 育 風 景 を 示 し て い る。 写 真 21は 昭 和 一 七 年 の 昼 食 前 の 食 前 の 祈 り の 状 景 で あ る。 こ の 場 所 を 図 2 の 一 階 平 面 図 で 言 え ば、 1 の 位 置 か ら 2 の ホ ー ル を 通 し て、 扉 を 取 り 払 わ れ た 部 屋 4 を 正 面 に 見 て い る 状 景 で あ る。 写 真 22は 屋 外 で の 保 育 風 景 で あ る が、 ハ ミ ル 館 の 北 側 は 今 日 の よ う に 人 家 は な く、 松 林 を 通 し て 殆 ど 仁 川 ま で 見 通 せ る よ う な 状 態 で あ っ た 写真 21 食前の祈り(昭和 17 年) 写真 22 屋外での保育(昭和初期) こ と や、 ハ ミ ル 館 の 外 壁 は、 現 在 の ク リ ー ム 色 と 違 い、 原 田 の 森 時 代 の 灰 色 を 残 し て い る こ と な ど が わ か る。 な お 写 真 22の 庭 の 左 側( 西 側 ) に は、 松 の 木 が 点 在 す る 芝 の 低 い 小 丘 が あ り、 私 の 幼 稚 園 時 代 に は そ の 斜 面 を ゴ ロ ゴロと転がって遊んだものである。更にその西側には硬式テニス部のコートが三面あった。 ハミル館一〇〇年前半五〇年の要約と後半五〇年 図 6 は、 ハ ミ ル 館 一 〇 〇 年 の 前 半 の 五 〇 年 間( 一 九 一 八 ~ 一 九 六 八 ) を 要 約 し た も の で あ る。 こ の 図 で、 こ れ までに触れていないのは下二段の右端の塗りつぶした部分である。これについては、コラム2と次節で述べる。
図6 ハミル館 100 年前半 50 年の要約 JMC:日本メソジスト教会 心理学研究室専用棟となったハミル館 第 二 次 ハ ミ ル 館 時 代( 一 九 五 六 ~ 一 九 九 八 ) 先 に 述 べ た よ う に、 関 西 学 院 教 会 は 学 校 教 会 と し て 長 く 学 内 で 礼 拝 を 行 っ て き た が、 一 九 四 一( 昭 和 一 六 ) 年 頃 か ら、 関 西 学 院 か ら 独 立 し た、 地 域 に 開 か れ た 教 会 と し て 教 会 堂 を 学 外 に 移 す 計 画 が 起 こ り、 そ れ に 向 け て の 準 備 も 始 め ら れ て い た。 し か し 太 平 洋 戦 争 に よ っ て そ の 計 画 は 中 断 を 余 儀 な く さ れ た。 そ し て 戦 後 一 九 五 〇( 昭 和 二 五 ) 年 頃 か ら こ の 動 き は 再 び 活 発 化 し、 一 九 五 三( 昭 和 二 八 ) 年 に は 現 在 地 に 土 地 が 購 入 さ れ、 一 九 五 四( 昭 和 二 九 ) 年 に は 仁 川 幼 稚 園 の 園 舎 が 竣 工 し、 一 一 月 に は ハ ミ ル 館 か ら 現 在 地 に 移 転 し、 教 会 堂 も 翌 々 年 の 一 二 月 に は 竣 工 し、 今日に到っている。 こ の よ う に し て ハ ミ ル 館 は 空 き 家 と な っ た。 た だ 建 物 は か な り 傷 ん で い た。 そ の ハ ミ ル 館 が 文 学 部 心 理 学 研 究 室 の 専 用 棟 に な っ た の だ が、 そ の い き さ つ に つ い て は、 古 武 弥 正教授が次のように書き残している。 「 研 究 室 も ハ ミ ル 館 を 単 独 に 占 領 し て 以 来 大 変 好 都 合 で あ る。 ハ ミ ル 館 が ボ ロ ボ ロ に な っ て い た の で 私 が 眼 を つ け 今 田 先 生 に 相 談 し て 無 血 侵 入 を 企 て た 時 に は 文 学 部 の 教 授 会 で「 あ ん な き た な い と こ ろ で 何 を す る 気 か 」 と む し ろ あ わ れ ん だ 人 も い た。 と こ ろ が 三 百 万 円 か け て ハ ミ ル お ば あ さ ん を 化 粧 さ せ た と こ ろ 一 寸 立 派 な も の に な っ た。 「 心 理 学 は あ ん な い い 建 物 を も っ て け し か ら ん 」 な ど と い っ て い る 連 中 も い る。 」( 「 関 西 学 院 大 学 心 理 学 学 士 会 会 報 」、 一九六〇 ・ 一〇 ・ 二一より) 日曜学校 幼稚園 (関西学院教会付属) 高等学部文科 ('21∼文学部)仮校舎 心理学研究室* 住居他 *心理学実験室・研究室 日本メソジスト教会 日曜学校教師養成所 上ヶ原時代 開設 ハミル館へ全面移転 仁川幼稚園 上ヶ原移転 太平洋戦争 関西学院教会 原田の森 時代
コラム2 太平洋戦争終結(一九四五(昭和二〇)年八月)前後のハミル館 太 平 洋 戦 争 も 末 期 に な る と、 上 ヶ 原 キ ャ ン パ ス の 多 く の 建 物 は 軍 需 工 場 の た め に 接 収 さ れ た が、 終 戦 の 年 に は そ の 影 響 は ハ ミ ル 館 に も 及 び、 約 半 年 間、 ハ ミ ル 館 も 接 収 の 対 象 と な っ た よ う で あ る。 そ れ が 図 6 の 第 二、 三 行 の 白 抜 き で 表 現 さ れ て い る。 そ し て 一 九 四 五 年 八 月 の 終 戦 後 は、 住 宅 事 情 が 極 度 に 悪 い 中、 ハ ミ ル 館 の 2 階 に、 学 院 に 関 わ り の あ る 四 組 の 家 族 が 住 ま い、 台 所 も 風 呂 も な い 不 自 由 な 生 活 が 一九五一年頃まで続くことになる。 図 7 は、 ハ ミ ル 館 の 二 階 の 平 面 図 に、 当 時 の 四 組 の 居 住 者・ 家 族 名 を 記 入 し た も の で あ る。 こ れ は 当 時 居 住 し て い た 関 西 学 院 教 会 会 員・ 西 川 光 子( 元 中 <アメリカン フットボール部 仮部室> (1945-46) 教室・長椅子 教室 長椅子 <緒方> <高橋> 和室 <高橋> 2段ベッド 3台 図書室 <江口> <江口> <仙波> 違い棚・床の間 図7 戦後ハミル館の2階に住んだ4組の居住者 学部教諭・高橋信彦の長女)から提供された情報に基づくものである。なお高橋は原田の森時代の中学部の 教師であり、日曜学校教師としても大きな貢献をした人物であったが、一九四一(昭和一六)年に京城師範 学校に赴任し、戦後引き揚げて再び中学部教師となった。そして昭和二二年には新しく開設された新制中学 部の教諭として矢内正一部長を長く補佐し、モモちゃんの名で親しまれた博物学・理科の先生である。
高 橋 家 は 二 階 の 二 室 に 住 ん だ が、 そ の 一 室 に は 接 収 時 代 に 使 わ れ て い た 木 製 の 二 段 ベ ッ ド が 残 さ れ て お り、 そ こ が 高 橋 家 三 人 の 子 ど も の 寝 室 だ っ た よ う で あ る。 な お 仙 波 家 は、 ( 多 分 ) 上 ヶ 原 に 移 築 さ れ た 時 に 図 2 の 一 階 13の 部 分 に 建 て ら れ た 和 室( 後 の 図 9 に 関 す る 記 述 参 照 ) に 管 理 人 を 兼 ね、 施 設 課 に 勤 務 し な が ら 二 人 の 息 子 と と も に 居 住 し て お り、 二 階 の 一 室 は 仙 波 家 の 勉 強 部 屋 と し て 用 い ら れ た。 な お 図 2 の 一 階 13に あ っ た ト イ レ は、 お そ ら く 上 ヶ 原 移 転 時 に 増 設 さ れ た 13の 北 側 に 移 さ れ て い た( 図 9 の 14参 照 )。 緒 方 は 単 身 の 仁 川 幼 稚 園 の 先 生 で あ っ た が、 後 に 心 理 学 の 助 手 で あ り 関 西 学 院 教 会 の 会 員 で あ っ た 美 浜 春 久 に 嫁 い だ。 江 口 家は五人家族で、主人はキリスト教の伝道者であり、その妻は当時の神崎騎一院長の妹であった。 な お 米 田 満 の 回 想 に よ る と、 一 九 四 六 年 に 活 動 を 再 開 し た 大 学 の ア メ リ カ ン フ ッ ト ボ ー ル 部 が、 二 階 の 一 室(図7参照)を部室として一年ほど用いたとのことである。 や や 詳 し く な り す ぎ た か も し れ な い が、 生 き 証 人 の い る 間 に 記 録 に 留 め て お か な い と 失 わ れ て し ま う 情 報 と思い、まとめておいた。 確 か に 一 学 部 の 一 学 科 が、 庭 つ き の 独 立 棟 を 丸 ご と、 し か も 管 理 人 常 住 で 占 有 す る よ う に な っ た の で あ る か ら、 や っ か み も あ っ た で あ ろ う。 し か も 当 時、 今 田 恵 は 理 事 長、 古 武 弥 正 は 一 九 五 八 年 に は 総 務 部 長 に な る 実 力 者 で あ る。 し か し、 大 正 時 代 に 呱 々 の 声 を あ げ た 古 巣 に 心 理 学 研 究 室 が 戻 っ た と 云 え ば、 成 り 行 き と し て は 極 め て 自 然なので、ここでは一九五六年から始まる心理学研究室のこの時期を、第二次ハミル館時代と呼ぶ。 こ の よ う に し て ハ ミ ル 館 は 文 学 部 心 理 学 科 の 専 用 棟 と し て 一 九 五 六 年 か ら 四 二 年 間、 一 九 九 八 年 に 現 在 の F 号 館 に 心 理 学 科 が 移 転 す る ま で 用 い ら れ た。 た だ、 こ こ で は そ の 時 期 の 心 理 学 研 究 室 の 活 動 に つ い て 述 べ る こ と が 目 的 で は な い の で、 コ ラ ム 3 以 外 の 記 述 は 以 下 の 二 点 に 絞 る こ と に す る。 第 一 は、 ハ ミ ル 館 が 心 理 学 研 究 室 と な る こ と に よ っ て、 そ の 建 物 構 造 が ど の よ う に 変 化 し た か、 第 二 は、 ハ ミ ル 館 と い う 建 物 は こ の 時 期 の 心 理 学 研 究 室の諸活動に、他の建物では生み出し得ないどのよ うな特徴を生み出したか、である。
コラム3 大学(旧制)発足以後の心理研究室 一 九 三 四( 昭 和 九 ) 年 に 発 足 し た 関 西 学 院 大 学 法 文学部文科には心理学専攻が設置され、 一九三七 (昭 和 一 二 ) 年 に は 三 人 の 第 一 期 生 が 卒 業 し た。 写 真 23 は 大 学 発 足 当 時 の 心 理 学 研 究 室 の 模 様 で あ る。 古 武 弥正の姿が左端に見える。 写真 23 法文学部2階東棟の心理学研究室における文科 心理学専攻の第一期生と教員(今田恵を中心に 左に中江潓学内講師、右に正木正学外講師) 図8 旧制大学法文学部文科心理学専攻と新制大学文学部心理学科の時代の年次別卒 業生数を関連情報と共に示す。各柱の着色部分は男子学生数を示すが、薄い着 色部が心理学研研究室第二次ハミル館時代。 賀 昭和 平成 今 田 寛 古 武 旧制大学(3年制) 法文学部文学科 心理学専攻 発足 退 職 石 原 退賀集 職 退職 後 期 前期 新制大学 文学部 心理学科時代 ベトナム戦争 後期 前 期 今 田 恵 人 数 旧制大学時代 大学紛争 退 職 湾岸戦争 朝鮮戦争 新制大学(4年制) 文学部心理学科 発足 退 職 退職 宮 田 太平洋戦争 沖縄返還 バブル崩壊阪神淡路大震災 米・同時多発テロ 日中戦争 新 浜 死 亡 退 職
図 8 は 旧 制 大 学 法 文 学 部 文 科 心 理 学 専 攻 が 最 初 の 卒 業 生 を 送 り 出 し た 一 九 三 七( 昭 和 一 二 ) 年 か ら、 戦 後 一 九 四 八 年 新 制 大 学 文 学 部 心 理 学 科 発 足 以 後、 二 〇 〇 三 年 に 学 科 名 が 変 更 さ れ る ま で の 心 理 学 専 攻 の 卒 業 生 数 と、 心 理 学 科 の 卒 業 生 数 を 年 次 別 に、 関 連 す る 事 項 と 共 に 示 し た も の で あ る。 こ こ の 六 七 年 間 の 卒 業 生 総 数は二〇九三人、その内、第二次ハミル館時代は 四二 年、卒業生数は一七〇一人に及んでいる。 心理学研究室は二〇〇三年に創設八〇周年を祝い 『八〇年史』 (関西学院大学心理学研究室八〇年史編集委 員会、二〇一二)を刊行したので、心理学研究室の活動の詳細はそちらに詳しい。 ( 1) ハ ミ ル 館 の 建 物 に 生 じ た 変 化 幼 稚 園 舎 を 研 究 室、 し か も 実 験 心 理 学 を 標 榜 す る 研 究 室 が 用 い る こ と に な る の で あ る か ら、 当 然、 建 物 の 改 修 は 必 要 に な る。 図 9 は 心 理 学 研 究 室 に 改 修 す る に 当 た っ て の ハ ミ ル 館 一 階 の 設 計 図 を、 図 2 の 向 き に 合 わ せ て 右 九 〇 度 回 転 さ せ た も の で あ る。 二 階 の 図 面 は 見つけることができなかった。 図9 心理学研究室のためのハミル館改修図面。図2から構 造上大きく変わった場所のみ、図2と同じ番号を付し (3、13)、追加部分に新たに番号を付した(14、15)。 当初は 15 は建設されず、動物飼育室は図面の3の右、 教授研究室とあるところに設けられ、その後増築され た 15 を経て、最後は庭に独立棟が建てられた。
建 物 に 生 じ た も っ と も 大 き な 変 化 は ホ ー ル の 奥 の 舞 台 が な く な っ た こ と で あ ろ う。 図 9 に は 記 入 は な い が、 コ ラ ム 3 の 写 真 23で 見 た 文 学 部 本 館 二 階 の 旧 研 究 室 に あ っ た 実 験 機 器 収 納 戸 棚 が 丸 ご と ハ ミ ル 館 に 移 さ れ、 そ れ に よ っ て 一 階 の ホ ー ル と 舞 台 と が 区 切 ら れ、 舞 台 が 大 き な 暗 室 実 験 室 3 に 変 化 し た。 よ い 写 真 が 見 当 た ら な い が、 写 真 24に は 移 設 後 の 実 験 機 器 収 納 戸 棚 の 一 部 が 見 え る。 こ の 裏 に 暗 室 が あ る。 余 談 に な る が、 写 真 24の 右 の 部 屋 は私の研究室であり、 私が幼稚園時代にはお気に入りの大きな積み木が置かれていた部屋である。 私はこの部屋で、 実験心理学者として、積み木を積むような地味な仕事に長く携わった。 写真 24 文学部本館の旧研究室から移設され、1階ホールの正 面に据え付けられた実験機器収納戸棚が背面に見える。 座っている教員は賀集と今田。 写真 25 1階ホールにおける授業風景。 左端の教員は石原。
次 に 大 き な 変 化 は、 一、 二 階 の 北 面 の 四 室( 図 2 の 一 階 10、 11、 二 階 8、 9) が 暗 室 化 さ れ た こ と で あ る が、 外 見を損ねずに窓が塞がれたので、ダミーの窓は残ることになった。 写 真 25は 一 階 ホ ー ル で の 授 業 風 景 で あ る が、 こ こ に ハ ミ ル 館 の 特 徴 が い く つ か 出 て い る。 ま ず、 こ の 写 真 の 正 面 の 引 き 戸 に は、 ハ ミ ル 館 設 計 の 中 心 コ ン セ プ ト で あ る 正 方 形 が 多 く み ら れ、 す べ て の 引 き 戸 と 天 窓 の 正 方 形 に 模 様 ガ ラ ス が 嵌 め 込 ま れ て い た。 そ し て 四 方 の 壁 に は、 幅 八 セ ン チ ほ ど の 板 を 縦 に 貼 っ た 腰 が 張 り 巡 ら さ れ て い て、 これは二階も同じである(後の写真 36も参照) 。なお、 このホールに白い柱が見えるが、 右側にももう一本あり、 そ の 二 本 で 天 井 の 横 梁 を 支 え、 二 階 の 重 量 を 受 け 止 め て い る。 実 は こ れ は、 二 階 の 床 が 抜 け な い よ う に、 入 居 後 しばらくしてから追加工事されたものであり、今もある。 全体としては、 一階は多目的ホールと一部を除き実験室、 二階は教員の個室、 大学院生室、 図書室、 実験室であっ た。 な お、 す で に コ ラ ム 2 で も 触 れ た こ と で あ る が、 上 ヶ 原 移 転 時 に 図 2 の 13は 図 9 の 13、 14( ト イ レ ) に 変 更 さ れ た よ う で あ る。 そ し て 戦 後 は こ の 13の 二 室( 和 室 ) に 仙 波 家 が 住 ま い、 心 理 学 研 究 室 に な っ て か ら は、 図 9 で当初予定されていた第九実験室とはならず、この和室であった二室に管理人の岩坂家が住むことになった。 ( 2) 建 物 の 特 徴 等 が 教 育・ 研 究 活 動 に 与 え た 影 響 先 に も 述 べ た よ う に、 心 理 学 科 に は 独 立 し た 一 戸 建 て が、 庭付きで、 管理人常住で与えられ、 またキャンパス北端のこの建物は、 長年幼稚園に使われていたこともあってか、 校地外扱いと聞いていた。この独立性、 自由、 自己完結性に、 ハミル館という建物の構造上の特徴と、 時代のもっ て い た 大 ら か さ が 加 わ っ て、 心 理 学 研 究 室 第 二 次 ハ ミ ル 館 時 代 の 諸 活 動 は、 他 に は な い ユ ニ ー ク な、 学 び と 遊 び が共存した家族的なものとなった。 まず一階のホールの果たした役割は大きい。 このホールは、 教室 ・ 実験実習室であったが、 同時に授業外の時間は、 学 生 が 独 り で も 集 団 で も 自 由 に 自 習 で き る 場 と し て、 ま た 学 生・ 院 生・ 教 員 の 交 流・ 団 ら ん の 場 と し て 大 い に 利 用された。今日、 ラーニング ・ コモンズという名称でどの大学でも学生が自由に交流できる場が用意されているが、 心 理 学 研 究 室 に は、 時 代 に は る か に 先 ん じ て こ の よ う な 場 が 与 え ら れ て い た。 更 に 心 理 学 科 の 学 び に は、 仲 間 が
協力して、 体を動かしながら共に意見を出し合いながら学ぶ実験実習があり、 これには今日でいうアクティブ ・ ラー ニングの要素があり、この点でも時代を先取りしていたといえる。 ホ ー ル の 生 活 の い く つ か を 以 下、 写 真 と そ の 説 明 文 に 物 語 っ て も ら う が、 入 居 当 時、 ま だ ホ ー ル に 二 本 の ポ ー ル が な か っ た 時 代、 昼 食 時 に は ホ ー ル は 卓 球 場 と 化 し、 他 の 研 究 室 か ら の 訪 問 者 も 加 え、 ピ ン ポ ン に 興 じ た こ と も思い出深い。 こ れ ら の 写 真 で わ か る よ う に、 わ れ わ れ は 心 理 学 研 究 室 に 通 っ た と い う よ り は 住 ん で い た。 そ し て そ の 研 究 室 に 密 着 し た 活 発 な 研 究 活 動 が 多 く の 質 の 高 い 研 究 成 果 を 生 み、 関 学 心 理 は こ の 時 代 の 心 理 学 界 で は 注 目 さ れ る 存 在であった。 な お 第 二 次 ハ ミ ル 館 時 代 の 生 活 を 振 り 返 る 時 に、 ハ ミ ル 館 を 管 理 し て く れ た〝 岩 坂 の お ば さ ん 〟 を 忘 れ る こ と 写真 26 冬はストーブを囲んでの井戸端会議。それを 横目にレポート書きに余念のない学部生。 写真 27 ゼミのお茶の時間に、自分たちが作ったおぜ んざいを楽しむ学生たち。 はできない。 きれい好きな岩 坂 さ ん の お 陰 で、 古 い と は い え ハ ミ ル 館 は 常 に 清 潔 で、 水 道 の 蛇 口 す ら い つ も ピ カ ピ カ で あ っ た。 ま た 気 ま ま な 研 究 生 活 に 合 わ せ て 愛 情 を も っ て ハ ミ ル 館 を 管 理 し て く れ た だ け で な く、 学 生 に 対 す る 生 活 上 の 躾 も 厳 し く 行 っ て く れ た ハ ミ ル 館 の 慈母であった。
写真 28 しかし卒業論文提出が近づくと、 ホールは戦場と化し、学生たち の目の色が変わる。それに、指 導の院生たちが夜遅くまで付き 合い指導した。 写真 29 卒業式の日にはホールは学科の卒業式・送別会 場となる。助手・院生が総がかりで前日からお でんを煮込み、「ハミル鍋」で卒業生を送りだす。 コック姿の助手・院生。これは新聞記事にもなっ た(朝日新聞、1959 年 3 月 26 日、阪神版) 写真 30 ハミル館の庭も、恰好の息抜きの場であった。(A)はピッチングの新浜の雄姿、(B) はアメリカンフットボールの真似事に興ずる院生と宮田、今田。なお庭には、後に は動物飼育室、工作室、倉庫などが建ち、このようなことは出来なくなった。 (A) (B)
第 三 次 ハ ミ ル 館 時 代( 二 〇 〇 三 ~ ) 四 二 年 の 長 き に わ た っ て 続 い た 心 理 学 研 究 室 第 二 次 ハ ミ ル 館 時 代 も、 ハミル館の老朽化、 狭隘化から、 一九九八年には新築されたF号館に全面移転することになり、 閉幕することになっ た。 しかし二〇〇三年に文学部の改組によって心理学科が総合心理科学科となり、 規模が拡大されたことに伴って、 ハ ミ ル 館 は 再 び 修 復・ 改 築 さ れ て、 総 合 心 理 科 学 科 が 専 有 す る こ と に な っ た。 し か し 今 回 は 全 施 設 の 一 部 と し て 用いられることになり、今日に続く心理学研究室第三次ハミル館時代が始まることになった。 以下、この再入居にあたって建物に生じた変化を写真に語ってもらう。 写真 31 1階ホールで実習中の学生。ハミル館第二次時代 にはあった、正面の機器収納棚が撤去された。 写真 32 写真 25 と同じ位置から撮影した1階ホール。周 りの引き戸はすべて通常の扉に変わっているが、 天窓に正方形が残っている。床はすっかり張り替 えられた。
写真 33 写真 32 とは逆の位置から撮影された ホール。2つの出入り口に、昔ながらの スウィング・ドアが残されている。左が 玄関、右が2階の階段に通じる扉。 写真 34 このスウィング・ドアを開けると、 以前は写真 35 にある美しい螺旋 階段の姿が見えたのであるが、新 し い 建 築 基 準 に し た が っ て エ レ ベーター室が設置されたため見え なくなった。 写真 35 いかにもヴォーリズの設計らしい 螺旋階段。 写真 36 2階の廊下の幅は拡げられ、左にあった図書 室は実験室に変えられ、入り口の位置も変 わった。正面に見える扉の奥の部屋は、研究 室発祥の部屋の一部であり、創始者を覚えて 今田恵文庫がある。
写真 37 床はすべて張り替えられたが、この玄関の床に は 100 年前の木がそのまま残されている。油 拭きで黒くなっていた床の表面を削ったあとが 見える。 図 10 ハミル館 100 年の歩みの要約。1969 年に白抜きの部分が見られるが、全国の 大学を吹き荒れた大学紛争の折、ハミル館も一部学生によって占拠され、使用 不可能になった時期のあったことを示している。 おわりに 以 上 が ハ ミ ル 館 一 〇 〇 年 の 歩 み で あ る。 図 10に は 一〇〇年のハミル館の歩みがすべて要約されている。 最後に、ハミル館一〇〇年の歩みを振り返って二つ のことに触れて稿を閉じたい。 第一は、建造物としてのハミル館に関することであ る。ハミル館は一〇〇年の間に何度となく改修された 日曜学校 幼稚園 (関西学院教会付属) 高等学部文科 ('21∼文学部)仮校舎 心理学研究室* 住居他 *心理学実験室・研究室 原田の森 時代 上ヶ原時代 仁川幼稚園 上ヶ原移転 太平洋戦争 関西学院教会 日本メソジスト教会 日曜学校教師養成所 F号館へ全面移転 開設 ハミル館へ全面移転 再入居(部分)
に も か か わ ら ず、 こ れ ま で 随 所 で み た よ う に、 そ の 時 々 の リ フ ォ ー ム 担 当 者 が ヴ ォ ー リ ズ 設 計 の 原 型 を で き る だ け 損 ね な い よ う に 努 力 さ れ た 跡 が あ り、 こ の 姿 勢 に は 心 か ら の 敬 意 を 表 し た い。 例 え ば 最 後 の 写 真 37の 玄 関 の 床 に し て も、 美 し い 床 に 張 り 替 え る の は 簡 単 で あ っ た に も か か わ ら ず、 多 少 見 栄 え は 悪 く と も 一 〇 〇 年 前 の 材 を 残 している。この精神は今後も継承されるべきであろう。 第 二 は、 ハ ミ ル 館 の 用 い ら れ 方 に 関 す る こ と で あ る。 こ の 点 に 関 し て は 私 の 頭 か ら ど う し て も 離 れ な い こ と が あ る。 そ れ は、 関 学 が 上 ヶ 原 キ ャ ン パ ス に 移 転 し た 際 に、 日 本 メ ソ ジ ス ト 教 会 は、 将 来 と も に キ リ ス ト 教 教 育 と 矛 盾 し な い 目 的 の た め に 使 用 す る こ と を 条 件 に、 ハ ミ ル 館 の 所 有 権 を 関 西 学 院 に 委 譲 し た こ と、 そ れ に も か か わ ら ず 一 九 五 六 年 に 心 理 学 研 究 室 が ハ ミ ル 館 を 用 い る よ う に な っ て か ら は、 こ の 条 件 を 充 た し て い る と は と て も 言 え な い こ と で あ る。 こ の 点 を 厳 し く 指 摘 し た の が、 ハ ミ ル 館 の す ぐ 上 の 宣 教 師 館 に 住 ん で お ら れ た ブ レ イ 宣 教 師 夫 人 で あ っ た。 彼 女 は、 ハ ミ ル 館 は 本 来、 ハ ミ ル を 始 め、 多 く の キ リ ス ト 教 幼 児 教 育 の 大 切 さ に 賛 同 し た 内 外 の 信 者 の 善 意 の 寄 付 に よ っ て 建 て ら れ た 建 物 で あ る か ら、 心 理 学 科 が 実 験 室 に 使 っ て い る の は け し か ら ん と い う の で あ る。 こ れ は 耳 が 痛 い 指 摘 で あ る。 し か し、 わ れ わ れ も そ の こ と を す っ か り 忘 れ て い る わ け で は な い。 心 理 学 研 究 室 は、 第 二 次 ハ ミ ル 館 時 代 が 終 わ る 時 も、 第 三 次 ハ ミ ル 館 時 代 が 始 ま る 時 も、 当 時 の 田 渕 結 文 学 部 宗 教 主 事 をハミル館に招いて、 礼拝で幕を閉じ、 礼拝で幕を開けた。そして今回の一〇〇周年も、 舟木譲宗教総主事の司会、 田 渕 院 長 の 奨 励 で、 礼 拝 に よ る 記 念 式 典 を お こ な っ た。 ハ ミ ル 館 建 築 に 込 め ら れ た 思 い を 決 し て 忘 れ て い な い か らである。 最 後 に、 ハ ミ ル 館 に 多 分 誰 よ り も 長 く 関 わ っ た 私 の 個 人 的 な 思 い を 述 べ さ せ て ほ し い。 私 に は、 ハ ミ ル 館 の 仁 川 幼 稚 園 時 代・ 日 曜 学 校 時 代 に よ く 歌 っ た 好 き な 讃 美 歌 が あ る。 次 に 紹 介 す る「 小 さ い 羊 が 」 と い う 子 ど も 讃 美 歌( 『讃美歌 21』二〇〇番)である。歌詞に注目してほしい。 一、小さい羊が 家を離れ、ある日遠くへ 遊びに行き、花咲く野原の 面白さに、帰る道さえ 忘れました。 二、 けれどもやがて 夜になると、 辺りは暗く 寂しくなり、 家が恋しく 羊はいま、 声も悲しく 鳴いています。
三、情けの深い 羊飼いは、この子羊の 後をたずね、遠くの山々 谷底まで、迷子の羊を 探しました。 四、 とうとう優しい 羊飼いは、 迷子の羊を 見つけました。抱かれて帰る この羊は、 喜ばしさに 躍りました。 実はこの讃美歌は私の八〇余年の長い人生を導いてくれた。 意志の弱い私は、 幾度となく 「花咲く野原の美しさ」 に 負 け て、 「 迷 子 の 羊 」 に な り か け た こ と が あ っ た が、 そ の 都 度 ハ ミ ル 館 で 教 わ っ た こ の 讃 美 歌 が 蘇 り、 「 情 け の 深 い 羊 飼 い 」 に 救 わ れ、 大 き く 道 を 踏 み 外 す こ と な く 人 生 を 歩 む こ と が で き た よ う に 思 う。 こ の よ う に、 ハ ミ ル 牧 師 や 三 戸 牧 師 が 一 〇 〇 年 前 に ハ ミ ル 館 に 託 し た 思 い は、 私 の 長 い 人 生 の 中 に し っ か り 生 き 続 け、 ハ ミ ル 館 で の 教 員 生 活 の 根 底 に 通 奏 低 音 の よ う に 流 れ て い た よ う に 思 う。 こ の こ と を 今 は 亡 き ブ レ イ 夫 人 に 報 告 し て、 本 稿 を 閉じることにする。 引用文献・参考文献 Hamill, H. M. 1905.
The Sunday school teacher
. Nashville, Tenn.: Pub. House of the M.E. Church, South
Howar d M. Hamill, D.D. A tribute of love. (ハミル氏の葬儀に出席できなかった人々のために配布された小冊子。関学図書館 287:49 ) 今 田 寛 二 〇 一 七 関 西 学 院 教 会 創 立 百 周 年 記 念 講 演 関 西 学 院 と 関 西 学 院 教 会 と ハ ミ ル 館 関 西 学 院 教 会 百 年 史 : 八 〇 年史その後 pp.15-44. 日本基督教団 関西学院教会 今田恵 1959a 関西学院と私 関西学院七十年史編集委員会(編) 関西学院七十年史 関西学院 今田恵 1959b 関西学院と心理学―科学性の探究― 創立七十周年文学部記念論文集 関西学院大学文学部 関西学院文学会編集部(編)一九三一 文学部回顧 関西学院文学会 関西学院一〇〇周年記念事業委員会記念出版専門委員会(編) 関西学院の一〇〇年 一八八九~一九八九(図録) 学校法 人関西学院 関西学院百年史編纂事業委員会(編)関西学院百年史 1889-1989 通史編I 学校法人関西学院
関 西 学 院 創 立 一 二 五 周 年 記 念 事 業 推 進 委 員 会 年 史 実 行 委 員 会( 編 ) 関 西 学 院 事 典( 増 補 改 訂 版 ) 二 〇 一 四 学 校 法 人 関 西 学院 関西学院大学心理学研究室八〇年史編集委員会 二〇一二 関西学院大学心理学研究室八〇年史(一九二三~二〇〇三) ―今田恵の定礎に立って― 関西学院大学心理学研究室 長久清(編著)一九六六 教会五十年史 関西学院教会 内海義之(編)一九三四 文学部創立回顧 関西学院文学部文学会