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例会報告要旨
二〇一八年度第二回例会 二〇一八年十月十三日(土)一一時〜一二時三〇分 於 横浜市歴史博物館講堂 参加者一七名旅の土産品
〜大森麦わら細工と箱根寄木細工〜
藤 塚 悦 司 第二回例会は横浜市歴史博物館と共催し、同館講堂において 大田区立郷土博物館学芸員の藤塚悦司氏を講師に「講演会」と い う 形 で 開 催 し た。 以 下、 同 講 演 会 の 内 容 を 要 約 し た も の を 「例会報告要旨」としてまとめ掲載する。 麦わら細工と聞いて現在の人々の多くは、わらじや注連飾り のような稲わらを材料としたものを想像するかも知れない。し かし、麦わらは稲わらとは用途も風合いもまったく異なるもの で、装飾や玩具の素材として用いられていた。また、麦わらは 表皮が滑らかで艶やかなため、光の当たり方によっては輝いて いるように見えるのも特徴である。 現在の東京都大田区大森は東海道の品川宿と川崎宿の間に位 置 し、 江 戸 時 代 に は 土 産 品 を 商 う 店 が 建 ち 並 ん で い た。 こ の 一 帯 で は 、 麦 わ ら を 用 い た 「 編 み 細 工 」 と 「 張 り 細 工 」が 作 られ て お り 、「 編 み 細 工 」 は 色 と り ど り に 染 め た 麦 わ ら を 、 特 別 な 編 み 方 で 動 物 や で ん で ん 太 鼓 の 形 に 編 ん だ も の で 、「 張 り 細 工 」 は 藤塚悦司氏による講演風景− 74 − 染めた麦わらを縞や絵模様にして木箱に張り込んだものである。 これらが、東海道を利用する旅人の土産品として親しまれてい た。 大森で麦わら細工が始まった年代は明らかではないが、享保 年間(一七一六〜一七三六)に漁業で生計を立てていた大森村 が不漁で困窮した時、地元の大林寺の住職が村人に教え広めた という説がある。ただ、その住職自身が麦わら細工の技法を考 案したのか、もしくは他の地域から伝わってきたものだったの か、詳細はわかっていない。 興味深い説としては、今も麦わら細工を伝統工芸として製作 している兵庫県城崎において、享保年間に半七という人物が竹 笛に赤、青、黄の麦わらを巻きつけて売り出したのが、城崎で の麦わら細工の始めだという言い伝えがあり、この半七は江戸 近郊で麦わら細工の技法を習い、城崎で広めたと言われている。 大 森 と 城 崎 の 麦 わ ら 細 工 の ど ち ら が 先 に 行 な わ れ て い た の か、 どうやって伝わったかについては不明だが、遠く離れた大森と 城崎で人や技術の交流があった点は興味深い。 大森において麦わら細工が最も盛んだったのは、江戸時代後 期の文化・文政(一八〇四〜一八三〇)頃から明治時代初期で あったようで、東海道を行き交う人々がこれらを土産品として 買い求めていたのは、版本や浮世絵において大森の麦わら細工 がしばしば紹介されていることなどからも明らかである【写真 1参照】 。 また、文政三年(一八二〇)に「蒲田の梅園」とも呼ばれて いた梅屋敷の主人である山本半藏の義弟、久藏が中心となって 細工人に麦わら細工を仕立てさせ、浅草寺の奥山で見世物興行 を行なったという記録が残っている。それは葛飾北斎が描いた 【写真1】 『江戸名所図会』中に描かれた「大森麦藁細工」大田区立郷土博物館藏
− 75 − た動きは見られなかった。 そ の 一 方、 明 治 時 代 に な る と こ の 地 で 日 本 初 の 麦 わ ら 帽 子 が 誕 生 す る。 横 浜 で 麦 わ ら 帽 子 を 被 っ て い る 外 国 人 を 見 て、 大 森 近 在 の 六 郷 の 人 が そ れ を 真 似 て 作 り 始 め た の が 始 ま り と 言 わ れ る。 麦 わ ら を 平 ら に 編 ん だ 長 い 紐 で、 絹 や 木 綿 の 真 田 紐 の 連 想 か ら「 麦 稈 真 田( ば っ か ん さ な だ )」 と 名 付 け ら れ た も の で あ る。 こ の 地 に は 長 年 培 っ た 編 み 細 工 の 技 術 が あ っ た の で、 複 雑 な 編 み 細 工 の 作 品 に 比 べ れ ば、 平 織 り の 帽 子 材 料 の麦稈真田を作ることなど、さして問題なかったと思われる。 こ れ だ け の 技 術 が あ り な が ら 大 森 の 麦 わ ら 細 工 が 衰 退 し て い っ た の は、 も ち ろ ん 鉄 道 へ の 移 行 に よ っ て 人 の 流 れ が 変 わ っ た と い う 要 因 が 大 き か っ た と 思 う が、 麦 わ ら 細 工 は 水 や 湿 気、 乾 燥 に 弱 く 傷 み や す か っ た た め、 鑑 賞 さ れ た り し た 後 に 捨 て ら れ て し ま う と い う、 安 価 な 土 産 品 で あ る が 故 の 宿 命 で も あ っ た の だ ろ う。 昭 和 時 代 初 期 に は、 そ の 技 術 の 伝 承 も 途 絶えてしまった。 大 森 麦 わ ら 細 工 に 対 し 箱 根 の 寄 木 細 工 は、 今 も 箱 根 を 代 表 す る 地 場 産 業 で あ り 土 産 品 な の で、 見 知 っ て い る 人 は 多 い だ ろ う。 し か し、 今 で こ そ 寄 木 細 工 の 産 地 と い え ば 箱 根 や 小 田 原 地 域 で あ る が、 か つ て 江 戸 か ら 明 治 時 代 に か け て は 駿 河 の 寄 木 細 工 の 方 が 有 名 で あ り、 箱 根 寄 木 細 工 の ル ー ツ も 駿 河 に 求めることができる。 箱 根 で 寄 木 細 工 が 盛 ん に な っ た 理 由 と し て は、 豊 富 な 木 材 が あ っ た の に 加 え、 街 道 や 温 泉 場 を 訪 れ て 木 象 嵌 や 寄 木 細 工 下絵を元に製作した、 長さ七丈二尺(約二二メートル)の青龍 刀や一丈(約三メートル)の背丈の大象、 三国志の人物といっ た様々な張り細工で、 大変な評判を博したという。北斎に張り 細 工 の 下 絵 を 依 頼 し た あ た り に 当 時 の 大 森 に お け る 麦 わ ら 細 工の勢いが感じられる。 なお、 大森麦わら細工について興味を抱いたのは日本人だけ でなく、 文政九年(一八二六)四月に江戸参府を終えたシーボ ルトは長崎のオランダ商館に戻る旅において、 大森村で麦わら 細工を売る店を見たということを、 故国でクリスマスの折に飾 るオーナメントの思い出と共に 『江戸参府紀行』 に残している。 さ ら に シ ー ボ ル ト から 半 世 紀 後 に 来 日 し 、 大 森 貝 塚 を 発 見 し た 博 物 学 者 の モ ー ス も 大 森で 麦 わ ら 細 工を 見 て い て 、 母 国 ア メ リ カ の マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 州 に あ る ピ ー ボ デ ィー ・ エ セ ッ ク ス 博 物 館 、 ち な み に 同 館は 大田 区 立 郷 土 博 物 館 と 姉 妹 館 で も あ る の だ が 、 こ こ に は モ ー ス が 持 ち 帰 っ た と さ れ る 亀 や 犬 の 形 を し た 「 編 み 細 工 」 の 作 品 が 収 蔵 さ れ て い る 。 このように大森名産として知られ、 工芸品としての魅力もあ った麦わら細工だったが、 明治時代に入ると衰退の一途をたど ることとなる。その理由の一つとして、 江戸時代は徒歩や駕籠 などで東海道を行き来していたのが、 明治になって鉄道が敷設 されると、 間の宿である大森に足を運ぶ人が少なくなった点が あげられよう。時代の変化に合わせて、 外国人向けの土産品と し て 東 京 や 横 浜 な ど で の 販 売 も 視 野 に 入 れ て 販 売 促 進 に 力 を 注いでいれば、 状況はまた違っていたかも知れないが、 そうし
− 76 − を土産品として買っていく大勢の人たちの存在も、これらの技 術の伝承の支えとなっていたと思われる。また日本が開国して 横浜に外国人居留地が出来ると、欧米諸国との商品取引が増え て行ったが、箱根の寄木細工に外国人が目をつけて人気が高ま り、そうした人気に合わせて外国人向けの家具などが大量に作 られるようになった【写真2参照】 。 明治三〇年代頃に箱根湯本で撮影された土産品を商う店の写 真には、寄木細工のチェステーブルや飾棚などの調度品が写っ ているが、箱根を訪れた外国人向けに販売したものだろう。こ れらの品々は、小田原の国府津を経由して船で、あるいは東海 道線開通後は鉄道を利用して横浜に運ばれ、横浜から外国航路 の貨客船などに積み込まれて海外に渡っていったことが、近年 の調査で明らかとなっている。 以上、横浜市歴史博物館で現在開催されている特別展「寄木 細 工 Art & History 金 子 皓 彦 コ レ ク シ ョ ン を 中 心 に 」( 同 展 は、九月二二日〜十一月一一日の期間開催)に合わせ「旅の土 産品」と題して、大森麦わら細工と箱根寄木細工についてを紹 介した。講演では、大森麦わら細工に話が集中してしまったが、 箱根寄木細工に関しては、今回の展示で日ごろ目にすることが ない珍しい寄木細工の作品が数多く紹介されているので、ぜひ 実物を前に展示を見学して寄木細工の歴史と魅力を味わってい ただければと思う。ご清聴をいただきありがとうございました。 (文責・谷田有史) 【写真2】箱根湯本で箱根寄木細工を販売していた田中庄吉商店の店頭風景(明治30年代頃)。 店の奥には、チェステーブルや飾棚などの調度品も陳列する。金子皓彦氏藏