• 検索結果がありません。

説一切有部における欲(chanda)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "説一切有部における欲(chanda)"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)『対法雑誌』第 1 号 2020 年 3 月 45–61 頁 対法雑誌刊行会. 説一切有部における欲(chanda) 梶. 哲也. はじめに ― 近代仏教学における説一切有部の思想研究 まず近代仏教学における説一切有部(以下 有部)の思想研究に関して、筆者の私見 を述べたい。日本における近代仏教学の特徴に関して、山口益 他[1961] 『仏教学序 説』はその緒言で次のように言う。 1876 年(明治 9 年) 、南条文雄・笠原研寿の二人の若い仏教学者が、サンスクリットを 学ぶために渡英してから、わが国の仏教学はまったくその面目を一新した。それは、前 世紀の初頭以来抬頭していたヨーロッパの仏教研究の影響によるものである。言語につ いていえば、サンスクリット・パーリ及びチベット語などが、われわれの仏教研究の新 しい要素として採りいれられた。資料についていえば、パーリ文南伝大蔵経と、いくた の梵文のネパールに伝来していたもの、及び西域地区で発見されたもの、並びに厖大な 分量からなるチベット大蔵経が、従来の漢訳大蔵経のほかに新たにわれわれのまえにお かれて来た。 (中略) とにかくそこに注意せられるものは研究方法の変化である。原典批判を始めとして、 批判的合理的精神の所産である新しい学の方法と態度とが次第に浸潤するに及んで、仏 教の研究はまったく新しい学問として幅広く再生しているのである1。. ここで、サンスクリット、パーリ、チベットの資料が研究対象となったことと、批 判的合理的精神に基づく学としての方法と態度とが仏教の分野にも採りいれられた ことが、日本における近代仏教学の特徴として挙げられている。 前者の研究対象となる言語、資料の広がりについては疑いない。しかし後者に関し て言えば、近代以前の仏教研究において批判的合理的精神がまったく欠落していた わけではないだろう。たとえば江戸期、1745 年には町人学者である富永仲基が『出. 1. 山口 他[1961]緒言 pp. 1–2. 45.

(2) 対法雑誌 第 1 号. 定後語』において経典を批判的に検討したうえで、大乗経典が釈尊の言行ではなく後 世の仏弟子たちによって成立したものであると結論づける。また法幢は、1763 年に 著した『阿毘達磨倶舎論稽古』2において、玄奘訳『倶舎論』の経典引用箇所を阿含 経に比定している。したがって、批判的合理的精神が明治以前の日本における仏教思 想に存在しなかったと言うことはできないだろう。 さて有部、とくに『倶舎論』の思想研究における研究状況に関しては、西義雄が国 訳『倶舎論記』の解題において、研究資料の著しい変化として 1. 梵文『倶舎論』の 出現、2. チベット訳『倶舎論』の公刊、3. ウィグル訳『倶舎論』の存在、4. 称友『倶 舎釈論』の発刊、5. 安慧『倶舎論実義疏』の存在という 5 点3を挙げたうえで、次の ように述べる。 現今の如き、倶舎論の梵文、漢、蔵等の訳書、並びに印度、中国、チベット等の倶舎論 の諸註釈を文献的に深く正確に研究することは、18, 9 世紀以来の分科学としての学問的 傾向として、此は是れで重要な意義の存することは多言を要しない4。. 有部の思想研究は『倶舎論』および諸註釈の、サンスクリットをはじめとする多言 語におよぶ新資料によって、近代仏教学のなかでも文献学的研究の対象が著しく変 化した分野の 1 つである。西はそれに言及した上で、続けて次のようにも言う。 然し一方、倶舎本論一部に限りて言えば斯る文献的研究の他面に、総合的に、倶舎論の 仏教思想史上に於ける歴史的意義の検討も亦、前者に劣らず重要な学問的意義がある。 (中略)インド、中国、チベット、朝鮮、日本に展開せる二千有余年に亘り連綿として続 けられた仏教思想史における玄奘訳「倶舎論」の果した役割はいかにを検討するというの が、総合的にみる「倶舎論」の仏教思想史的意義の研究である。 (中略)仏教思想の歴史 的総観的研究と共に、八宗乃至十宗の全仏教学の組織的研究も、他の文科系統と対比する ためには現時点に於いて最も大切ではなかろうか。 (中略)現今以後に於いても、唐以後 の中国・日本に発達した仏教各宗教義の組織的理解のためには、依然として一種の基礎学. 2 3 4. T64 2252 西[1977]pp. 343–345 西[1977]p. 346. 46.

(3) 説一切有部における欲(chanda)(梶哲也). として玄奘訳倶舎論やそのよき註釈の価値が、再認識されるべきだと考えられる5。. 西は、梵・漢・蔵の個別典籍の文献学的研究の重要性を認めつつ、玄奘訳『倶舎論』 をもとに営まれてきた近代以前の「倶舎学」6に関して、あらためて見直す必要性を 指摘する。そして、玄奘訳『倶舎論』とその諸註釈が「倶舎学」という仏教思想の一 分野に留まるものではなく、漢訳典籍に基づいて展開された東アジアの仏教各宗の 思想すべてにとって価値あるものであると主張する。 筆者もこの西の指摘に同意する。さらに言えば、 『倶舎論』とその諸註釈に関する サンスクリットやチベット語訳などの新資料は、東アジアの「倶舎学」に対してその 内からだけではなく、外から検討する視点を提供することもできるだろう。たとえ ば、玄奘によって同一の訳語が充てられたサンスクリットの複数の原語に対して、 「倶舎学」がどのように解釈するかといったことが考えられる。本論文では説一切有 部における欲(chanda)を対象として考察を行うが、上記のような視点からの検討も 試みることにする。. 1.説一切有部における欲(chanda)のもつ課題 1.1. 玄奘訳『倶舎論』における欲 玄奘訳『倶舎論』の中で、 「欲」が充てられる原語は多岐にわたる。平川 他[1977] によれば、chanda のほか abhilāṣa、icchā、kāma といったサンスクリットを確認でき、 真諦の訳語でもそれらは「欲」 「愛欲」 「意欲」などと重複して訳される。また kāmarāga、chanda-rāga、kāma-chanda という 3 種の複合語は玄奘によってすべて「欲貪」 と訳され、chanda-rāga と kāma-chanda は「貪欲」とも訳される 7。したがって、有部. 5. 西[1977]pp. 346–348. 6「倶舎学」をどのように定義づけるかということは本来、厳密に考えなければいけないものだ. が、それにはまず玄奘訳『倶舎論』に対する厖大な註釈、講録を丹念に検討し、それぞれ著者 がどのような態度、関心から『倶舎論』を学んだかということを確認しなければならない。し かし現在のところ、そのような網羅的な研究はなく、そもそもその夥しい註釈、講録等に関し て、何が現存しどのように系統立てて読むかといった基礎調査と方法論の検討もなされていな い。したがって、本発表では「時代、宗派を問わず玄奘訳『倶舎論』を通して仏教を学ぶこと」 を「倶舎学」とし、近代仏教学における多言語の資料を用いた『倶舎論』研究、説一切有部や 世親の思想研究と区別する語として使用することにする。 7 平川 他[1977]. 47.

(4) 対法雑誌 第 1 号. の漢訳典籍のなかでこの「欲」や「欲貪」を検討する際には、この chanda などの原 語の差異を慎重に見極める必要がある。. 1.2. 大地法としての chanda と煩悩としての chanda 説一切有部において chanda は十大地法に配される心所の 1 つであり、常に心とと もに生起する法である。水野[1964]は、この chanda に関する阿含経典、パーリ仏 教、有部、瑜伽行派の解釈をまとめている。要点を示せば以下になる8。 ・ 阿含経典において chanda は善、不善両様に用いられる9。 ・ パーリ仏教、有部、瑜伽行派いずれにおいても chanda の定義は「所楽の境に 対する希望」である。 ・ パーリ仏教では、初期には心所法として見なされなかったが、Visuddhi-magga 等により心所法として解釈されるようになる。ただし常に心と相応する法と は考えない。 ・ 有部では『界身足論』以来、一貫して心所法として解釈され、大地法に分類 されることによって常に心と相応する法であることが明確になる。 ・ 瑜伽行派では、 『成唯識論』の議論から chanda が常に心と相応するものでは なく、むしろパーリ仏教の説に近い。 このように有部における chanda の解釈は、常に心と相応する法であるという点で 他派とは異なる特徴を持つ。このような特徴を持つ直接的な原因は、有部が心所を大 地法や大煩悩地法といった地法に分類し、この chanda を常に心と相応する大地法に 分類したことによる10。. 8. 水野[1964]pp. 476–483 この阿含経典における chanda について水野は「元来欲の強烈なものは、それが邪なる欲なら ば貪となり、善法の欲ならば信とされるべきものであって、この點において心所としての欲は このように強烈なものを除いたものと見るべきであろう」と考察する。cf. 水野[1964]p. 477 10 水野が指摘するように、 『順正理論』には chanda が大地法に配される教証として『諸法本経』 (T1 602c)が挙げられる。これは大地法設定の根拠の 1 つであると考えられるが、他派がこの 教証を重視することはない。よって、これを根拠として大地法を設定しようとした有部の意図 については、さらに考察する必要がある。 9. 48.

(5) 説一切有部における欲(chanda)(梶哲也). 一方で水野[1964]が指摘するように、阿含経典においては chanda は不善法とし ても知られる。たとえば、kāma-chanda が五蓋と五順下分結という煩悩群に配される 煩悩の 1 つとして挙げられる。そして有部の煩悩論は、kāma-chanda を含むこの 2 つ の煩悩群を、七随眠をもとに独自に展開した九十八随眠説の体系の中に取りこむ 11。 また『倶舎論』では、有部が煩悩論に取りこんだ煩悩群の 1 つである四取の解釈をめ ぐって、世親が「欲望の対象(kāma)などに対する chanda-rāga が欲取(kāma-upādāna) などでもあると知られる」と有部の定説とは異なる解釈を示す12。 有部は chanda を常に心と相応する大地法に配す。これは染汚心、不染汚心を問わ ない解釈である。一方で、阿含経典における不善法として説かれる chanda を含む複 合語を、有部はそのまま煩悩として受け止めるのである。. 1.3. 説一切有部における chanda のもつ課題 以上をまとめれば、説一切有部における chanda に関する課題は次のようである。 まず、有部の思想において chanda は染汚心であろうと不染汚心であろうと、常に 心と相応する心所法として理解されながら、それを含む複合語を煩悩としても解釈 する。chanda を煩悩として解釈するならば、それとともに常に生起する心は不染汚 心以外にあり得ず、大地法に chanda を配することは不適当であると考えられる。こ の点を有部がどのように会通するのかを考察する必要がある。 そして、それを検討する際に参照する必要がある玄奘訳の有部論書においては、こ の chanda は kāma などの原語と「欲」という訳語を同じくし、またその複合語であ る kāma-chanda と chanda-rāga も「欲貪」や「貪欲」という訳語を kāma-rāga と共有 する。したがって、有部の chanda に関する解釈を検討する際には、訳語上の重複を 厳密に検討しなければならない。. 11. 五蓋における kāma-chanda :『倶舎論』p. 318, l. 7(T1558 110c5–6) 五順下分結における kāma-chanda :『倶舎論』p. 309, l. 21(T1558 109c529–110a1) cf. 梶[2017] 12 cf. 本論文 3.2 chanda-rāga について. 49.

(6) 対法雑誌 第 1 号. 2. 有部における大地法としての欲(chanda) まず常に心と相応する大地法としての chanda を検討するにあたって、 「欲(chanda)」 に関する有部の各論書における定義を確認する。水野[1964]は「欲とは所楽の境に 對する希望である」と解説する13。有部の論書においてそのように「対象を欲するこ とである」と明確に示されるのは、 『心論』14『雑心論』15『順正理論』16である。 『法 蘊足論』の定義は神足の解説のなかで説かれるものであるから「欲」の対象が限定さ れている17。一方、『界身足論』18『品類足論』19における定義は外延的定義であり、 「欲」の対象に関して具体的に言及しない。また『倶舎論』は、その論の構成などか ら見ても『雑心論』の定義を知っていたと考えられるが、定義のなかで chanda の対 象を明確には示さない20。 有部は chanda を心所法中の常に心とともに生起する大地法であるとする。 『婆沙 論』には『倶舎論』にも採りあげられる以下のような四句分別がある。 そうであるからここで四句が作られるべきである。 「大地法であり大煩悩地法ではないも の」がある。つまり、受、想、思、触、欲(chanda)である。 「大煩悩地法であって大地 法でないもの」がある。つまり、不信、懈怠、放逸、掉挙、無明である。 「大地法であっ て大煩悩地法でもあるもの」がある。つまり、忘念(染汚なる念) 、不正知(染汚なる慧) 、 心乱(染汚なる定) 、非理作意(染汚なる作意) 、邪勝解(染汚なる勝解)である。 「大地 法でもなく大煩悩地法でもないもの」がある。つまり、さきの相を除いた〔他の心所法〕. 13. 水野[1964]p. 480. 14『心論』欲者。受縁時欲受。 (T1550. 810c4) 881a6) 16『順正理論』希求取境。説名爲欲。 (T1562 384a29) 17『法蘊足論』云何欲。 (中略)此中欲者。謂依出家遠離所生善法所起。欲樂。欣喜。求趣。悕 望。是名欲。(T1537 471c18–22) 18 『界身足論』欲云何。謂欲。能欲性。現欲性。喜樂性。趣向性。希欲性。欣求性。 (T1540 614c17– 18) 19 『品類足論』欲云何。謂欲。欲性増上。欲性現前。欣喜。希望。樂作。是名爲欲。 (T1542 699c14– 15) 『衆事論』云何欲。謂心欲作。(T1541 62b22) 20『倶舎論』chandaḥ kartukāmatā /(p. 54, l. 21) 玄奘訳『倶舎論』欲謂。希求所作事業。(T1558 19a19–20) 真諦訳『倶舎論』欲謂。求作。(T1559 178b13) 15『雑心論』欲者。於縁欲受。 (T1552. 50.

(7) 説一切有部における欲(chanda)(梶哲也). である21。. これは大地法と大煩悩地法とに配される心所法に関する四句分別であり、論点は 大地法に配される念、慧、定、作意、勝解とは独立して、大煩悩地法として忘念(染 汚なる念) 、不正知(染汚なる慧) 、心乱(染汚なる定) 、非理作意(染汚なる作意)、 邪勝解(染汚なる勝解)が認められるかという点にある。 『婆沙論』は不信、懈怠、放逸、掉挙、無明、忘念、不正知、心乱、非理作意、邪 勝解が属する「十大煩悩地法」という分類が立てられることを認める。しかし、その 法としての実体は不信、懈怠、放逸、掉挙、無明の 5 つであって、忘念、不正知、心 乱、非理作意、邪勝解は染汚心中の念、慧、定、作意、勝解であると考える22。 この大地法は次のように定義される。 ある法があり一切の心の中で得られるものを大地法と名づける。つまり、染汚/不染汚、 有漏/無漏、善/不善/無記、三界の繋/不繋、学/無学/非学非無学、見所断/修所断/不断、意 地にあるもの、五識身〔にあるものというような〕一切の心すべての中で得ることがで きる〔法〕であるから、大地法と名づける23。. このように chanda は、染汚心/不染汚心、有漏心/無漏心といったありとあらゆる 心とともに生起する法である。また先の四句分別のように、有部の各論書は経典中に 説かれる言葉に関して、他の言葉との概念上の重複や差異、実有なる法として定義づ けられるかということを事細かに検討するが、複合語ではなく単独で用いられる. 21. 然於此中應作四句。有是大地法非大煩惱地法。謂受想思觸欲。有是大煩惱地法非大地法。謂 不信懈怠放逸掉擧無明。有是大地法亦大煩惱地法。謂忘念不正知心亂非理作意邪勝解。有非大 地法亦非大煩惱地法。謂除前相。 (T1545 220a19–24) 同じ四句分別は、 『倶舎論』にも述べられる。 ata evocyate, ye mahābhūmikā kleśamahābhūmikā api ta iti / catuṣkoṭikaḥ / prathamā koṭir vedanā cetanā saṃjñā cchandaḥ sparśaś ca / dvitīyāśraddhyaṃ kauśīdyam avidyā auddhatyaṃ pramādaś ca / tṛtīyā pañca kliṣṭā yathoktāḥ / caturthy etān ākārān sthāpayitveti /(『倶舎論』p. 56) 22 cf.『婆沙論』T1545 220a9–14 『倶舎論』ではこの 5 つの大煩悩地法に惛沈を加えて 6 つであるとし、 『婆沙論』とは異なる 分類をする。地法の分類の変遷については櫻部[1969]pp. 79–84 23 若法一切心中可得名大地法。謂若染汚不染汚。若有漏無漏。若善不善無記。若三界繋不繋。 若學無學非學非無學。若見所斷修所斷不斷。若在意地。若五識身。一切心中皆可得故名大地法。 (T1545 220b9–13). 51.

(8) 対法雑誌 第 1 号. chanda は一貫して大地法中の 1 つの法として理解される24。. 3.有部における chanda を含む複合語解釈 3.1. kāma-chanda について chanda を含む複合語であり、有部において煩悩として採りあげられるものには kāma-chanda と chanda-rāga がある。これらの複合語は、先に確認した大地法である chanda とどのような関係にあるのだろうか。 まずは kāma-chanda と chanda の関係を検討する。kāma-chanda は、阿含経におい て五蓋と五順下分結の 2 つの煩悩群に含まれる煩悩である。そして、これらの煩悩 群は有部煩悩論の中で、欲界を対象とした煩悩群として体系の中で整理される25。 『婆 沙論』中の五蓋の解説における kāma-chanda の解釈は次のようなものである。 問う。この五蓋は何をもって自性となるのか。答える。欲界の 30 の事をもって自性とな る。つまり、貪欲と瞋恚はそれぞれ欲界の五部であり 10 の事となる26。. これは五蓋に属する煩悩が有部の法体系の中でどの法であるのかに関する解説で あり、そこで貪欲が欲界の五部の 5 つの事であるとされる。先述のように、阿含経に おいて五蓋に含まれる 5 つの煩悩の中で貪りを示すものは kāma-chanda であるから、 この貪欲は kāma-chanda の訳語であると推定できる。つまり、この『婆沙論』の解説 は五蓋中の kāma-chanda の自性が欲界の見苦・見集・見滅・見道・修所断の五部の属 する rāga であることを示しているのである。また次のような解説もある。 また次に諸々の煩悩などには随眠であるものあり、あるいは随眠ではないものがある。 もし貪欲〔蓋〕、瞋恚〔蓋〕 、疑蓋について説けば、すべてこれは随眠であると知るべきで ある。もし惛沈・睡眠、掉挙・悪作について説けば、すべて随眠ではないものであると知. 24. cf. 勝又[1961]pp. 423–440, 西村[2002]pp. 57–135 cf. 梶[2017] 26 問。此五蓋以何爲自性。答。以欲界三十事爲自性。謂貪欲瞋恚各欲界五部爲十事。 (T1545 249b15–17) 『旧婆沙』 :問曰。蓋性是何。答曰。有三十種。欲愛蓋有五種。通六識身。恚蓋有五種。通六識 身。(T1546 194b24–26) 25. 52.

(9) 説一切有部における欲(chanda)(梶哲也). るべきである27。. ここでは種々ある煩悩には随眠であるものとそうではないものがあるとし、五蓋 の中では貪欲(kāma-chanda)、瞋恚、疑が随眠であって他は随眠ではないとされる。 これも先の五蓋の自性の弁別と同じ理解であり、貪欲(kāma-chanda)蓋が欲貪(kāmarāga)随眠であることを示している。同様に、五順下分結の解説においても kāmachanda が有部の法体系の中では rāga であるとされる28。 またこの五順下分結の解説中には、なぜ随煩悩が順下分結ではないのかという問 いを立て、理由の 1 つとして随煩悩には下界の有情の生涯を相続させる力がないか らであるという説をあげて『中阿含経』 「五下分結経」をその教証とするが、そこで は釈尊の教説として次の一文が引用される。 病んだ嬰児が床に臥せっているようなものである。彼は色などの欲望の対象である塵の ようなものですら充分に理解しないのに、どうして「貪欲」を起こして心に纏いつくこと ができるだろうか〔、いやできない〕 。そうであっても彼にはなお「欲貪随眠」がある29。. これは、病み生まれたばかりの子どもは何かを明確な対象として欲望を起こすこ とはないとしても、その子どもには断じられていない「欲貪随眠」があるのだ、とい うことである。そしてこの並行経である MN. 64 Mahāmāluṅkyasutta からは、この「貪 欲」が kāma-chanda であり、 「欲貪随眠」が kāma-rāga-anuśaya であることが確認でき る30。つまり有部は、彼らが受持する経典に基づいて kāma-chanda を kāma-rāga と同. 27. 復次諸煩惱等或是隨眠或非隨眠。若説貪欲瞋恚疑蓋。當知總説是隨眠者。若説惛沈睡眠掉擧 惡作。當知總説非隨眠者。(T1545 250a27–b1) 『旧婆沙』には対応箇所なし 28 T1545 252b19–21,『旧婆沙』T1546 195a26–29 29 如病嬰兒仰臥床上。彼尚不了色等欲塵。況能現起貪欲纒心。然彼猶有欲貪隨眠。 (T1545 253b10– 12) 『旧婆沙』:如嬰孩小兒仰臥床中尚無欲心。況爲欲蓋所覆。雖不爲欲蓋所覆。亦不得言不爲欲 使所使。(T1546 197a15–17) 『中阿含経』 「五下分結経」 :鬘童子。嬰孩幼小柔軟仰眠意無欲想。況復欲心纒住耶。然彼性使 故説欲使。 (T26 778c25–27) 『旧婆沙』には欲蓋と欲使とあり各群が明確であるので、それぞれの「欲」の原語が kāma-chanda と kāma-rāga であることが漢訳の上でも確認できる。 30 daharassa hi māluṅkyaputta kumārassa mandassa uttānaseyyakassa kāmātipi na hoti. Kuto panassa uppajjissati kāmesu kāmacchando, anusetitvevassa kāmarāgānusayo.(PTS. MN. vol. I, p. 433) というのも、マールンキヤよ。幼く怠惰な仰向けに寝ている子どもには「諸々の欲望の対象が. 53.

(10) 対法雑誌 第 1 号. 一視しているのである31。 以上のことから、 有部は大地法中の 1 つの法である chanda とはまったく無関係に、 kāma-chanda を rāga と同一の法として解釈していたことが確認できる。これは、有 部の法体系が単に言葉の有無、異同により組織づけられたのではなく、経典における その言葉の指示する内容に基づいて整理されたことを示している。. 3.2. chanda-rāga について 次に、chanda-rāga について検討する。有部の各論書の中で明確に chanda-rāga を判 別できるのは、『倶舎論』における四取に関する世親説である。有部は四取を三漏、 四暴流、四軛とともにすべての煩悩を含む群として位置づける32。それに対して世親 は、教証を示して次のように述べ、有部の定説とは異なる見解を示す。 また他の経において「chanda-rāga が取(upādāna)である」と説かれた。だから、欲望 の対象(kāma)などに対する chanda-rāga が欲などの取(kāma-ādy-upādāna)でもある と知られる33。. 世親は「chanda-rāga が取(upādāna)である」という教証34に基づき、欲取、見取、 戒禁取、我語取という四取をそれぞれ欲、見、戒禁、我語を対象とする chanda-rāga であると主張する。これに対して、 『順正理論』は次のように反論する。 仏は所化の機行のもちいるところを観察して、多くの体の中で仮に略して〔その中の〕1 つを挙げるのである。また経に、 「もし 1 つの法を断じれば、私はおまえが不還果を得る. ある」というようなことは生じないからである。どうしてこの者に欲望の対象に対して kāmachanda が生じるだろうか、 〔いや生じない〕 。他ならぬ「添い寝する」という理由で彼の kāmarāga anuśaya があるのである。 31 有部が受持していたものがこのパーリ蔵のものと全同であるとは言えないが、 『旧婆沙』の 当該箇所で「貪欲」が「欲蓋」 (kāma-chanda-nīvaraṇa)、 「欲貪随眠」が「欲使」 (kāma-rāga-anuśaya) であることをからも裏付けられる。 32 cf. 梶[2017] 33 chandarāgaś copādānam uktaṃ sūtrāntareṣv / ato vijñāyate kāmādy upādānam api kāmādiṣu cchandarāga iti /( 『倶舎論』p. 308, l. 5) 34 ここで世親が用いる教証は『雑阿含経』 (T2 58aff.)、SN. 22, 12(PTS. SN. vol. III, p. 167ff.)で ある。cf. 本庄[2014]pp. 687–688. 54.

(11) 説一切有部における欲(chanda)(梶哲也). ことを保証することができる。1 つの法というのは有身見である」と説くようにである。 〔実際には〕これ(有身見)を断じるだけで不還果を得るのではない。また〔別の〕経に は「忿を断害すべきである」と説くようにである。 〔この経の意図も〕他の煩悩について は断害するべきでないのではない。また「無明は有情の類いを蓋うことができる」と説 くようにである。さらに別の箇所では「蓋には 5 つある」と説く。この〔chanda-rāga が 取であるという〕経典も同様のことである35。. ここで『順正理論』は、chanda-rāga に関して、chanda と rāga の法としての同異や 複合語解釈について言及することはない。そして、釈尊の教説が説かれる相手の性質 によって様ざまな表現をもって説かれることを挙げて、この「chanda-rāga が取であ る」という教説もまた、相手の性質に応じて仮に略して説かれたものだとする。つま りこの教説は、有部煩悩論においてすべての煩悩を含む群であると解釈される四取 の一側面しか示していない、と反論するのである。それは、その煩悩論のなかで rāga が貪りを意味する一煩悩でしかなく、煩悩全体を包摂するような役割をもたないか らである。 このように『順正理論』においても、大地法である chanda と煩悩である rāga の関 係についてはなにも言及されず、もっぱら rāga が upādāna であるとした場合の、有 部煩悩論の体系における齟齬が問題視される。これにより、 『順正理論』 がこの chandarāga を煩悩法の 1 つである rāga と同一視していたことが確認できる。これも先の kāma-rāga と同じく、言葉の有無、異同ではなく、経典中の文脈に基づいて法の異同 を弁別する有部の経典解釈の態度の表れであるといえる。 また『倶舎論』のなかで、世親はこの「chanda-rāga が取であるという」という教 証を自身の十二支縁起説中の「取」の解説においても採りあげるが36、それに対して. 35. 佛觀所化機行所須。於多體中且略擧一。又如經説。若斷一法。我能保汝得不還果。一法者 謂薩迦耶見。非唯斷此得不還果。又如經説。應斷害忿。非餘煩惱不應斷害。又如説無明能蓋 有情類。然於餘處説蓋有五。此經亦爾。(T1562 641b29–24) 玄奘訳『倶舎論』の註釈である法宝の『倶舎論疏』は、 『順正理論』のこの部分をあげて註釈 をする。 (cf.『倶舎論疏』T1822 709a6–14) 36 teṣām upādānaṃ teṣu yaś chandarāgaḥ / evaṃ hi bhagavatā sarvatrākhyātam ''upādānaṃ katamat / yo 'tra cchandarāga'' iti /( 『倶舎論』p. 140, ll. 16–17) それら〔欲取や見取などの〕の取は、それら〔欲望の対象や見〕におけるあらゆる chanda-rāga である。というのも、世尊によって一切〔経〕においてこのように説かれたからである。 「取と は何であるか。これに対するあらゆる chanda-rāga である」と。. 55.

(12) 対法雑誌 第 1 号. 称友は次のように註釈する。 {chanda-rāga}とは、 「未だ得ていない諸境に対して求めること(prārthana)が{chanda} であって、すでに得た諸〔境〕に対するのが{rāga}である。それらの欲望の対象(kāma) などに対して chanda-rāga があるとき、それが{取(upādāna)}である37。. この称友の chanda-rāga 解釈は chanda と rāga を分解し、それぞれの対象を未得と 己得に限定させた解釈である。 この称友の解釈に類似したものが『阿毘達磨集論』とその釈論の「取蘊」の解釈に も見られる。そこでは、chanda が未来の蘊を求めること(abhilāṣa)であり、rāga が 現在の蘊に執着すること(adhyavasāna)であるとされる38。この『阿毘達磨集論』と ほぼ同じ解釈は、安慧の『五蘊論註』における「我慢」の註釈箇所にも見られる 39。 また本庄[1992]により、世親の『倶舎論』や AKVy.と関連が深いとされるヴィーリ ヤシュリーダッタの『決定義経註』における rāga と tṛṣṇā の解釈も、この 2 つの言葉 を実質的に同一の法とするともに、rāga が現在の対象への執着であり tṛṣṇā が来世を 求めることであると述べ、それぞれの対象を区別することが確認されている40。この chanda-rāga を chanda と rāga に分け、各々の対象を区別する解釈に関しては、今後、 さらなる検討を要する。. 4.「倶舎学」における「欲」の解釈 4.1. chanda の訳語に関する普光の解説について 先にも示したように、玄奘によって訳された有部の各論書において chanda のほか abhilāṣa、icchā、kāma といったサンスクリットが「欲」を充てられ、 「欲貪」にいた っては kāma-rāga、chanda-rāga、kāma-chanda という三種の原語がある41。よって、説. 37. {chanda-rāga} iti / aprāpteṣu viṣayeṣu prārthanā {chandaḥ} / prāpteṣu {rāgaḥ} / teṣu kāmādiṣu yaḥ chanda-rāgaḥ / tad {upādānaṃ} /(AKVy. p. 300, ll. 20–22)cf. 小谷・本庄[2007]p. 182, 註 15 38 cf.『阿毘達磨集論』pp. 57–96. p. 64 39 cf.『五蘊論註』p. 6, ll. 6–11 40 本庄[1992] 41 平川 他[1977]chanda は真諦によっても「欲」 「愛欲」 「意欲」と訳され他のサンスクリッ トと重複する。cf. 平川 他[1973]. 56.

(13) 説一切有部における欲(chanda)(梶哲也). 一切有部における欲(chanda)を検討する際には、パーリやサンスクリットによって 原語を同定可能な箇所に限定して考察し、chanda 以外の原語に充てられた「欲」や 「欲貪」を検討対象から外した。このような研究方法は、近代以降に可能となった多 言語の資料に基づく説一切有部の思想研究の方法である。対して近世以前の「倶舎 学」は対象とする資料が漢訳典籍に限られていたため、このような研究手法をとるこ とは不可能であった。 とはいうものの、有部は上述のように言葉そのものの有無ではなく、その言葉の文 脈を法体系の中で弁別し、経典解釈を行った。したがって、 「欲」や「欲貪」にみら れるような訳語の重複も、多くの場面では有部思想の理解を妨げることにはならな い。 しかし、場合によってはこの重複が漢文としての意味を不明確にする場合がある。 その一例として、先の『倶舎論』における四取に関する世親説の玄奘訳『倶舎論』を 挙げる。そして、 「倶舎学」の様ざまな註釈や講師が、原語の重複によって生じた「欲」 や「欲貪」のもつ多様な概念の差異を認識していたかという点を確認する。 サンスクリットで書かれた『倶舎論』における「取(upādāna)」に関する世親説を 再掲する。 また他の経において「chanda-rāga が取(upādāna)である」と説かれた。だから、欲望 の対象(kāma)などに対する chanda-rāga が欲などの取(kāma-ādy-upādāna)でもある と知られる42。. この箇所の玄奘訳『倶舎論』は以下である。 また他の経が説くには、 「欲貪を取と名づける」と。これにより知るべきである。欲など の〔欲、見、戒禁、我語の〕4 つに対して生起する欲貪を欲などの取と名づけるのである、 と43。. 42. chandarāgaś copādānam uktaṃ sūtrāntareṣv /ato vijñāyate kāmādy upādānam api kāmādiṣu cchandarāga iti /( 『倶舎論』p. 308, ll. 5–6) 43 又餘經説。 「欲貪名取」 。由此故知。於欲等四所起。欲貪名欲等取。 (T1558 108a15–16) 真諦訳は次のようである。 如此於餘經中説。愛欲亦名取。是故知欲等取。於欲等中唯愛欲爲取。(T1559 261c1–2). 57.

(14) 対法雑誌 第 1 号. このように chanda、kāma、rāga が「欲」や「欲貪」として重なる玄奘訳は、文意 が極めて不明瞭である。 「欲に対して生起する欲貪」を欲取とするのは容易に理解で きる。しかし、見、戒禁、我語という 3 つの対象に対して生起する欲貪もそれぞれ見 取、戒禁取、我語取とする。したがって、この箇所においては、欲貪の「欲」と欲取 の「欲」の差異が明確ではない。 有部の煩悩論においては、一般に「欲に対して生起する貪り」といえば欲界(kāmadhātu)の貪(rāga)であり、欲取の「欲」も欲界を示す。一方、ここでの欲貪は chandarāga であるから、この「欲」は欲界に限定されない。だから、見、戒禁、我語という 3 つの対象に対して生起するとされる。この 2 つの「欲」の差異が玄奘訳『倶舎論』 からだけでは判別できないのである。 この部分に対して普光は『倶舎論記』で次のように解説する。 {また他の経が説くには}から{欲取などと名づけるのである}にいたる〔箇所〕は、ま た経部が経を引いて四取は貪をもって本体とすること注釈して述べるのである。 {また他 の経が説くには、 「欲貪(chanda-rāga)を取(upādāna)と名づける」 }とは、つまり欲を貪と名 づけるのである。これは欲界の貪であるという理由から欲貪と名づけたのではない44。. ここで普光は、解説の最後に欲界(kāma-dhātu)の貪(rāga)という言葉を出し、 教証に「欲貪(chanda-rāga)を取(upādāna)と名づける」と示されるこの欲貪がそ のような欲貪、つまり kāma-rāga ではないことを示す。ここで普光は、取に関する世 親説にでる欲が欲界を意味する kāma ではなく chanda であることを明確にしたかっ たのである。普光は玄奘とともに『倶舎論』を訳出した人物でもあるから、この世親 説における欲貪の原語が chanda-rāga であることを認識しており、漢訳における kāma との混同に注意を払っていたとも考えられる。. 4.2. 普光以後の玄奘訳『倶舎論』の註釈に見られる chanda の解説 普光と同じく玄奘と共に『倶舎論』を訳しその註釈を著した法宝は、先の世親の四 取解釈を経部説だとして『順正理論』の反論を挙げるが、普光のように「欲」や「欲 44{又餘經説}至{名欲等取}者。又述經部引經釋四取以貪爲體。 {又餘經説。 「欲貪名取」}者。. 即欲名貪。非是欲界貪故名爲欲貪。(T1821 318a12−15). 58.

(15) 説一切有部における欲(chanda)(梶哲也). 貪」の原語に関して解説することはない45。また極めて限られた部分の確認ではある が、その他の大正大蔵経論疏部、続論疏部に収められた玄奘訳『倶舎論』の註釈に関 しても、この箇所の解説で普光のように「欲」について言及するものは見当たらない。 そのなかで、法宣の 1852 年の講録であり 1898 年に開版された『倶舎論講義』には、 この部分の「欲」と「欲貪」に関して次のように述べる。 又余経等と是は四取を明す。是も経説では貪を体とす。説欲貪名等と欲貪とは欲即貪な り。欲界の貪と云うことでもなく、五欲の境の貪と云うこともなし。欲と云うが即貪の ことなり46。. 法宣は普光の『倶舎論記』の解釈であるとは明示しないが、 「欲貪とは欲即貪なり」 とあるように文意としては普光の解釈に沿って「欲貪」を解説する。また欲界の貪 (kāma-rāga)や五欲(五妙欲, pañca kāma-guṇāḥ)を対象とする貪としての「欲貪」 とこの「説欲貪名等」における「欲貪」を区別する。ここからは、法宣がこの「欲貪」 が chanda-rāga であると認識していたかは明確ではない。とはいうものの、世親説の 意図を正確に把握したものであると言える。 以上、玄奘訳『倶舎論』における「欲」という訳語を対象とし、重複する原語に関 する「倶舎学」の理解を概観した。このような視点による「倶舎学」の検討は、サン スクリットをはじめとする多言語の資料を研究対象とした近代仏教学の成果の一つ である。と同時に、 「倶舎学」においても玄奘訳『倶舎論』中の一つの言葉の持つ多 様な概念が慎重に検討されており、その成果は現代においても説一切有部の思想研 究において参照すべき価値のあるものであることが、あらためて明らかになった。. 結論 ・ 有部の法体系において、kāma-chanda と chanda-rāga は大地法である chanda とはまったく無関係に煩悩の1つである rāga として解釈される。これは、有 部の法体系が単に言葉の有無、異同により組織づけられたのではなく、経典. 45『倶舎論疏』T1822. 709a6–14 328, ll. 3–5. 46『倶舎論講義』 「巻之六」p.. 59.

(16) 対法雑誌 第 1 号. におけるその言葉の指示する内容に基づいて整理されたことを示す。 ・ 玄奘訳『倶舎論』において kāma と chanda はどちらも「欲」を充てられ漢文 としての文意が不明瞭な箇所もあるが、普光はこの訳語の重複による不明確 な文意を、原語の指示する概念の差異に基づいて解説する。また法宣も普光 の解説に沿って「欲」のもつ多様な意味内容に注意を払い、四取に関する世 親説の意図を正確に把握する。. 一次文献及び略号 AKVy.. Sphuṭārthā Abhidharmakośavyākhyā (Yaśomitra) Ed. Unrai Wogihara. Tokyo: Sankibo Buddhist Book Store, 1971.. MN.. Majjhimanikāya. London; Pāli Text Society, 1993–1994.. SN.. Saṃyuttanikāya. London; Pāli Text Society, 1976–1994.. T. 『大正新脩大蔵経』大正新脩大蔵経刊行会, 1924–1932.. 『法蘊足論』. 『阿毘達磨法蘊足論』T 26, 1537. 大目乾連造, 玄奘訳.. 『界身足論』. 『阿毘達磨界身足論』T 26, 1540. 世友造, 玄奘訳.. 『品類足論』. 『阿毘達磨品類足論』T 26, 1542. 世友造, 玄奘訳.. 『衆事論』. 『衆事分阿毘曇論』T 26, 1541. 世友造, 求那跋陀羅訳.. 『婆沙論』. 『阿毘達磨大毘婆沙論』T 27, 1545. 五百大阿羅漢造, 玄奘訳.. 『旧婆沙』. 『阿毘曇毘婆沙論』T 28, 1546. 迦栴延子造, 五百羅漢釈, 浮陀跋摩, 道泰等共訳.. 『心論』. 『阿毘曇心論』T 28, 1550. 法勝造, 僧伽跋摩訳.. 『雑心論』. 『雑阿毘曇心論』T 28, 1552. 法救造, 僧伽跋摩等訳.. 『倶舎論』. Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research Institute, 1967.. 玄奘訳『倶舎論』 『阿毘達磨倶舎論』T 29, 1558. 世親造, 玄奘訳. 真諦訳『倶舎論』 『阿毘達磨倶舎釋論』T 29, 1559. 婆數盤豆造, 眞諦訳. 『順正理論』. 『阿毘達磨順正理論』T 29, 1562. 衆賢造, 玄奘訳.. 『倶舎論記』. 『倶舎論記』T 41, 1821. 普光述.. 『倶舎論疏』. 『倶舎論疏』T 41, 1822. 法宝述.. 60.

(17) 説一切有部における欲(chanda)(梶哲也). 『倶舎論講義』. 法宣述, 1852, 桜井宝鈴編, 1898.『倶舎論講義』, 護法館等, 京都.. 『中阿含』. 『中阿含経』T 1, 26. 瞿曇僧伽提婆訳.. 『阿毘達磨集論』 阿毘達磨集論研究会, 2015. 「梵文和訳『阿毘達磨集論』(1)」,『イ ンド学チベット学研究』19 号, pp. 57–96. 『五蘊論註』. KRAMER, Jowita, 2013. Sthiramati's Pañcaskandhakavibhāṣā, Part I: Critical edition, Sanskrit Texts from the Tibetan Autonomous Region, No.16/1, China Tibetology Research Center and Austrian Academy of Sciences, Beijing-Vienna.. 参考文献 小谷信千代・本庄良文[2007] 梶哲也[2017]. 『倶舎論の原典研究. 随眠品』大蔵出版, 東京.. 「説一切有部における煩悩論の構造と起点」博士論文, 大谷大学, 京都.. 勝又俊教[1961] 『仏教における心識説の研究』山喜房佛書林, 東京. 櫻部建[1969]. 『倶舎論の研究. 界・根品』法蔵館, 京都.. 西義雄[1977]. 『国訳一切経和漢選述部』 「論疏部五」大東出版社, 東京.. 西村実則[2002] 『アビダルマ教学 倶舎論の煩悩論』法蔵館, 京都. 平川彰 他[1973] 『倶舎論索引』第一部, 大蔵出版, 東京. [1977] 『倶舎論索引』第二部, 大蔵出版, 東京. 本庄良文[1992] 「貪(rāga)と愛(ṭṛṣṇā)との同異」 『仏教論叢』36 号, pp. 12–14. [2014] 『倶舎論註ウパーイカーの研究. 訳註篇. 下』大蔵出版, 東京.. 水野弘元[1964] 『パーリ佛教を中心とした佛教の心識論』山喜房佛書林, 東京. 山口益 他[1961] 『仏教学序説』平楽寺書店, 京都.. 本稿は、日本印度学仏教学会第 70 回学術大会パネル発表 A「説一切有部研究の 可能性を考える」 (2019 年 9 月 8 日、佛教大学)における発表を論文にまとめたもの である。. 〈キーワード〉説一切有部、煩悩、欲、chanda、倶舎学. 61.

(18)

参照

関連したドキュメント

 地表を「地球の表層部」といった広い意味で はなく、陸域における固体地球と水圏・気圏の

睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている

2.1で指摘した通り、過去形の導入に当たって は「過去の出来事」における「過去」の概念は

現地法人または支店の設立の手続きとして、下記の図のとおり通常、最初にオーストラリア証

関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて

式目おいて「清十即ついぜん」は伝統的な流れの中にあり、その ㈲

断面が変化する個所には伸縮継目を設けるとともに、斜面部においては、継目部受け台とすべり止め

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,