行為が具現化する資源: 臨書行為を環境-身体システムとして記述する試み
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(2) 256. 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. はかならずしもゴールが見えない状況で,思考,情. にも思える.しかし,描画痕跡を積層化し陰影の量. 動,行為が絡まり合いながら進行するプロセスであ. 塊を形成するデッサンと異なり,書はかきなおしの. る.その中でも生態学的制約は,美術家の行為と環. 効かない線の芸術である.線は紙上に凍結した運動. 境内の作品が結びついて時間発展する結節点に当. の痕跡であるが,同時に,それを生成する運動ダイ. たる.. ナミクスや滲みひろがる墨を,生のまま露出させて. 制作行為は物に囲まれた環境で進行する.行為は. いる (Jullien, 1992 中島訳 2004).臨書とは,この. 環境と身体の関係を変化させるが,環境の変化もま. 紙上に凍結された運動を,自らの運動によって解凍. た,新たに行為を制約する.では,進行中の制作プ. する行為である.したがって,書家の身体行為と紙. ロセスを,物の表面に残った行為の痕跡が,ただち. 上の制約の循環は,痕跡を積層化させる絵画とは,. に次の行為を導いて物を変形させてゆくような,環. 異なる時間発展を辿ると推測される.本稿が身体運. 境と行為の循環として記述することはできないだ. 動という現象面から臨書を扱うのは,この書に埋め. ろうか.この目的のために,本稿はケーススタディ. 込まれた時間性を明らかにするためでもある.. で美術作品の制作プロセスを分析し,生態学的制約 と行為がどのように相互作用しているのかを検証. 1.3 書家の知覚に焦点を当てる. する.. 以上のように本稿は,書家の運動データから臨書 行為を検討するが,すでに野澤 (2017) は,今回の. 1.2 臨書行為に焦点を当てる. 実験と同一の画像データを用いて,紙面上の文字配. 制作行為のパラダイムとして,本稿は,書におけ. 置・形態を分析している.このため本稿は,先行研. る臨書行為に焦点を当てる.臨書とは,指導者がか. 究をもとに運動データの分析方針をたて,議論にお. いた手本や過去の古典を模倣する行為である.書. いて,本稿の結果と,画像分析の結果を比較する構. を学ぶ過程の大部分は臨書によって達成される.ま. 成を取る.. た,優れた臨書は自立した作品として評価されうる.. 野澤 (2017) は,画像データの試行間差分から,文. 臨書とはこの意味で単なる模倣ではなく,その書家. 字の形態・配置の縦断的な調整プロセスを分析して. にしかできないかき 1) 振りで古典を再制作するこ. いる.ここで検討されている変数は,文字の面積・. とによって,個人内での新規性と,それが属する歴. 位置・縦横比・文字間の 4 変数である.結果を要. 史的な文脈とを架橋する行為である (Boden, 1990).. 約すれば,書家の臨書制作プロセスは,課題特定的. 臨書に関する先行研究は,熟達者と初学者の横断的. な制約に対して,文字の形態と配置を,漸次的に変. な比較 (滝本, 2009; 横山他, 2012) が中心であり,作. 形する過程であった.より具体的にいえば,書家は. 品制作のダイナミクスとしてこれを研究した例はな. 文字の面積を減少させることで,文字位置を調整. い.以上の理由から本稿は,臨書の制作プロセスを. するための余白を確保し,同時に,行頭文字群の形. 分析することで,生態学的制約と行為がいかに相互. 態を横長に,行中文字群の形態を縦長に変形させる. 作用するのか,新たな仮説を生成することを目指す.. ことで,行中央の余白と文字位置のバランスを調整. 実験では,大型の紙面に古典を臨書する課題を課. していた.さらに書家は,この行中央の余白の調整. し,熟達者が臨書作品を作り上げる過程を検証した.. を支えるために,行頭文字群の位置変動を抑える方. 本稿の一つ目の狙いは,書家の視覚探索と文字描画. 略を取っていた.この研究ではまた,臨書の見本に. のプロセスに焦点を当て,所与の制約に適応する書. 対する類似度の指標として,画像の平均相互情報量. 家の技能を明らかにすることにある.本稿の二つ目. (Mutual Information)も算出したが,臨書と見本の. の狙いは,書という表現にとって特定的な生態学的. 平均相互情報量を,試行数の要因で検討した 1 要因. 制約を浮かび上がらせることである.臨書は文字の. 分散分析の結果,有意な主効果は認められなかった.. 光学的な情報を紙にかく描画行為の一種であり,他. つまり,臨書は少なくとも見本に対する機械的な類. の描画課題,たとえばデッサンと一見似ているよう. 似度を直線的に上昇させる課題ではない.むしろ臨. 1) 本稿は,石川 (1992) が甲骨・金文時代の「掻く」「欠 く」行為と,毛筆による「書く」行為との連続性を強調し ていること,また,東アジアの書画一致の思想 (張, 1996) を考慮し, 「かく」と表記する.. 書は,周囲の制約を利用して文字の配置・形態を変 形させるプロセスであった.先行研究の達成は,文 字の変数に共変関係が築かれることによって,紙面.
(3) 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 257. 上の余白が制御されていることを明らかにした点に ある. しかしながら,野澤 (2017) の示した文字の制御 方略は,各試行の画像分析から得たものであり,進 行中の制作場面における,複雑な環境の中での行為 は考慮されていない.書家は大型の紙面に周囲を取 り囲まれており,文字をかくたびに身体位置は移動 した.また,文字をかきついでゆくにつれ,紙面上 の制約も変化した.つまり臨書とは,紙面に限定さ れた問題を,その外部に置かれた操作者が解決する ような課題ではない.むしろ本稿は,複雑な環境に 囲まれた書家が,その環境を資源として利用するこ とで,問題を解決している可能性があると考える. この立場から見れば,紙面上の文字の制御方略も, それがいかなる周囲の知覚に支えられていたのか, という視点から再検討できる可能性がある. 以上の理由から本稿は,書家の臨書制作が,どの ような周囲の環境の知覚に支えられて実現してい たのかに焦点を当てる.分析では,紙面と身体とい うマクロなレベルから,書家の制作プロセスを浮か び上がらせる.書家は文字を描画するために,周囲 を取り囲む紙面,自己のかいた文字,見本の文字と いった周囲の環境に,身体を持続的に定位させなけ ればならない.この環境に対する機能的に安定した 関係には,そのつどの環境の文脈に対する柔軟な適 応や,探索的動作も含まれていると考えられる.し たがって本稿は,環境に対する身体の安定性を分析 しつつ,その安定した動作に含まれる,文脈特定的 な適応や探索を浮かび上がらせる手法を取る.この ため分析では,書家の頭部高,文字ごとの頭部旋回 の回数と頻度,周囲を見回す書家の頭部旋回の方向. 図1. 上・中:実験風景.下: 『鄭羲下碑』の複製本.. 分布を検討する.. 2. 方 法. (横幅 35 cm ×縦幅 135 cm)に「形臨(外形に忠実 な臨書)」するよう指示した.墨汁,筆,用紙(雁. 2.1 課題と機材. 皮紙)は,書家が普段使っているものを使用した.. 実験では,プロの書家 1 名が古典を臨書する過程. 実験時間は最大 8 時間,試行数の制限はなく,参加. の運動データを記録した.参加者は 30 代の書道熟. 者が完成を申告した時点で実験終了とした(図 1 上. 達者 F 氏.免許皆伝を受け書家として活動しなが. 中).なお,実験において使用したのは A4 サイズ. ら,大学で書道教育もおこなっている.書家自身に. 見開き(横幅 42 cm ×縦幅 29.7 cm)の拓本の複製. とって充分に難度の高い課題を課すため,臨書の対. (二玄社, 1989) であり,縮尺は 100%であるものの,. 象作品は打ち合わせのうえ選択した.その結果,北. 数文字ごとに切り抜きされているため,字間はオリ. 魏の碑文『鄭羲下碑』(鄭 道昭, 511/1989) が選択さ. ジナルと異なっている(図 1 下).. れた.実験では,拓本から抜き出した 17 文字「父. 今回の実験条件は,作品展に出品する臨書作品の. 官子寵才徳相承海内敬其榮也先假公」を,半切用紙. 制作,もしくは,作品展のための古典研究といった.
(4) 258. 図2. 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 文字描画中の頭部旋回の典型例.1 試行目 1 文字目「父」.プロットは書家の頭部旋回の軌道.軌道は頭 部 3 点のマーカーから再構成した頭部の重心と額を結ぶ線分を,紙面高まで射影した x 座標を用いた.y 軸の負方向が見本側,正方向が臨書側を示す.1a–4a は紙面下のガラス越しに撮影した画像.1b–4b は書 家の描画過程の画像.. 状況を想定している.書家は課題で,碑文から抜き. い.たとえば書家の柿沼 (2002) は,毎日必ず「ス. 出した大振りな楷書 17 字を壁面大の紙面に臨書し. ポーツ選手のトレーニングのように」古典を臨書す. なければならない.対象作品の『鄭羲下碑』は,明. ると述べている.そのトレーニングとは,たとえば. 治以降の日本において何度も臨書された代表的古典. 空海の『風信帖』を 5 時間かけて臨書するというよ. である.このように,見本と臨書の類似度を定量評. うに,ひとつの作品に対する理解を数時間かけて深. 価するために「形臨(外形に忠実な臨書)」を指示し. めてゆくものである.. たものの,選択した古典とサイズは,展示レベルを. 実験中の運動データは VICON SYSTEM(60 Hz). 想定している.複製本は,書の学習で通常使用され. で計測した.モーションマーカーは筆管 3 点,頭. る古典作品集を用いた.和様(仮名)や法帖(紙に. 部 3 点,C7,L4,両肩峰 2 点,両肘 2 点,両手首. かかれた中国の書蹟を書籍や巻物に仕立てたもの). 4 点,手甲 2 点の合計 18 点に添付した.このうち. と異なり,碑文はオリジナルの岩石が巨大であるた. 分析に使用したのは筆管と頭部のマーカーである.. め,文字間を切り離して掲載される.このため,書. 計測した各マーカーの位置座標時系列は,3 次スプ. 家は文字の配置を紙面上で調整しなければならない. ライン補完で欠損値を補完し,バターワースロー. が,この条件は碑文から書を学ぶ際には一般的に生. パスフィルタ(カットオフ領域 = 2.25 Hz,次数 =. じるものである.また,最大 8 時間の実験時間も,. 5)を用いて平滑化処理をおこなっている.描画の. 日常的に臨書を重ねるプロの書家にとって珍しくな. 過程は,紙面裏側のガラス越しに設置した HD 画像.
(5) 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 259. (29.97 Hz)で同時撮影し,描画時間の記録(目測) に用いた(図 2).. 3. 結 果 3.1 臨書過程の定性的な報告 基本統計量を検討する前に,書家の臨書行為がど のように進行したのか,典型例のプロットを示しつ つ,定性的に言葉で描写する. 書家は,台座に文鎮で固定された横幅 35 cm ×縦 幅 135 cm の半切紙面に対して,1 行目に 8 文字,. 2 行目に 9 文字と,合計 2 行にわたって 17 文字を かいた.書家は右膝を立て,左膝を床についた姿勢 で,紙面の上に跨るように座り,左手で A4 サイズ の見本を床に押さえつけ,利き手である右手で筆を もって文字をかいた(図 1 上中).書家の向かって 右側には,墨液の容器,水容れのスポイト,墨容れ が置いてあり,これらの用具は文字をかき進めるに つれ,位置をずらして何度も使用された.. 図3. 文字描画直前・描画中・描画直後における頭 部旋回の典型例.1 試行目 1 文字目「父」.軌 道は頭部 3 点のマーカーから再構成した頭部 の重心と額を結ぶ線分を,紙面高まで射影し た xy 座標を用いた.x 軸の負方向が見本側, 正方向が臨書側を示す.ここでは文字描画の 前後 8 秒を例示した.. 文字の描画は次のような手順で行われた.書家は 片膝を立てた姿勢を保ったまま,筆を墨容れに浸し. 合には,字画と字画のあいだでも墨を付け足した.. て墨をふくませた後,上体前面と紙面のあいだの空. 書家の身体位置の移動は,膝をついたまま後方に後. 間に筆を移動させる.書家は描画前の紙面と見本を. 退りする仕方が大部分であったが,立ち上がって前. 何度か交互に見た後,紙面に筆を接地させ,1 画目,. 傾姿勢で移動することもあった.改行の際,書家は. 2 画目,3 画目と字画をかきついでゆく.この際,書. 立ち上がって移動した.. 家は 1 字画をかく最中にも,紙面に筆を接した状態 で,見本と自己の文字をくりかえし交互に見た.. 3.2 基本統計量と自己評価. たとえば図 2 は,1 試行目の「父」の描画過程を. 実験の結果,書家の試行数の合計は 16 試行,試. 例示したプロットである.軌道は文字描画中の書家. 行時間は平均 17 分 53 秒(SD = 2 分 31 秒)であっ. の頭部旋回(負方向 = 見本側,正方向 = 臨書側). た(図 4,図 5).試行時間の合計は約 4 時間 46 分,. であり,灰色の色面は筆尖が紙に接地している字画. 試行間の休憩時間は平均 5 分 18 秒であり,書家は. 描画の時間帯であるが,書家はこれらの字画描画. 総計約 6 時間 5 分かけて臨書を制作したことにな. 中,1 画目に 1 回,2 画目に 1 回,3 画目に 2 回,. る.なお,書家は 2, 3, 4, 8 試行目では 16 文字しか. 4 画目に 3 回,見本側に頭部を旋回させている.つ. かかず,7 試行目には 18 文字をかいているが,この. まり,書家は一本の線をかく最中にも,自己の臨書. 18 文字目は分析で除外している.実験の直後,書家. の観察,見本の観察,描画動作を相互に噛み合わせ. が最もよくかけたと評価した書は 15 試行目であっ. ていた.1 文字の描画が終わると,書家は文字をか. た.また実験の 2 年後におこなったインタビュー. きおえた周囲の紙面を見た後,両膝を後方にずらし. では,自分の書に近づいているという理由で,16,. て,次の文字の描画に入る.. 15 試行の順に高い評価を与えた.本稿ではインタ. 図 3 は,文字描画直前・描画中・描画直後の頭部. ビューの詳細を割愛するが,15, 16 試行目に対する. 旋回を極座標でプロットしたものであるが,頭部旋. 書家の自己評価のみを,参考データとして使用する. 回の方向分布は,各時間帯で異なっているように見. ことにする.. える.なお,書家は多くの場合,文字を描画する直. 1 文字あたりの描画時間に対する,試行数,文字. 前のインターバルで筆に墨を付け足したが,画数の. の画数の影響を検討する.各試行の所要時間で見る. 多い文字をかいている途中で墨の足りなくなった場. と,試行時間は 1 試行目の 12 分 10 秒から 16 試行目.
(6) 260. 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 図4. 図5. 参加者の全試行. 頭部軌道と筆尖軌道の典型例.1 試行目の文字描画中.筆尖軌道は筆管 3 点のマーカーから筆尖位置を再 構成した.頭部軌道は前頭部 2 点のマーカーから額中央の位置を再構成した..
(7) 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 261. の 20 分 54 秒まで,試行を重ねるにつれ増加する傾. 変化は,10 試行目以降に臀部をより床に接近させ. 向にあった.しかし,各文字の描画時間について試. るようになった,書家の姿勢変化を反映している.. 行数を要因とする 1 要因分散分析をおこなった結果, 有意な主効果は認められなかった,F(15, 252) = .72,. p = .76.一方,文字の画数と描画時間の相関係数. 3.5 文字描画中の頭部旋回の回数と頻度 文字描画中の頭部旋回の回数と頻度を検討する.. は,強い正の相関(r = .93, p < .001)を示してい. 視線探索の指標として用いたのは,書家の頭部の. た.この結果は,各文字の描画時間が試行数より画. 方向である.頭部の動きは眼球運動と厳密には対応. 数に依存していたことを示している.. しないものの,右側と左側を交互に見る,紙面のフ レームを見回すといった,マクロな環境に対する知. 3.3 分析の方針. 覚探索は一定程度反映していると考えられる.本稿. 分析では,周囲の環境に対して,書家が知覚をど. では紙面に対する身体の定位を検討するため,頭部. のように調整していたのかに焦点を当てる.書家. 運動を視線探索の指標として用いた.分析では,頭. は描画中,頭部を左右に旋回させ,自己の文字と見. 部 3 点のマーカーから再構成した頭部の重心と額. 本の文字を交互に観察していた.また書家は,次の. を結ぶ線分を,紙面高まで射影した x 座標を用い,. 文字をかきはじめるまでのインターバル中にも,周. 臨書(右側) ・見本(左側)を交互に向く書家の頭. 囲の紙面を観察していた.これに加え,今回の実験. 部旋回の極大・極小値を算出した(図 2).極大・. で使用した半切用紙は,座位姿勢を取る書家の身体. 極小値の算出には MATLAB のルーティンコマンド. よりも前後長が長かったため,書家は紙面のフレー. を用い,頭部のグローバルな位置変動と x 軸の平均. ムに前後を取り囲まれた状況で臨書をおこなってい. 値を除算した後,他の極大・極小値に対する相対的. た.こうした状況から,自己の身体を紙面に対して. な突出度からピーク値を求めた.なお,頭部旋回は. 定位しつつ,文字を描画するために,いかに周囲を. 臨書側から見本側への旋回と,見本側から臨書側へ. 探索するかが,大型の臨書制作においてクリティカ. の旋回を別個にカウントしている.たとえば 1 試行. ルであったと推測できる.以上の理由から,分析で. 目 1 文字目の「父」 (図 2)では,臨書側 11 回,見. は,書家の紙面に対する姿勢(頭部高),文字ごと. 本側 10 回,合計 21 回の観察とカウントされる.. の頭部旋回の回数と頻度,描画中・インターバルの 頭部旋回の方向分布を検討する.. 検定では,頭部旋回の回数と頻度に対して,文字 の画数,試行数がどのような影響を与えていたのか を検証した.全 268 文字での旋回数は 1 文字あた. 3.4 書家の頭部高. り平均 50.42 回(SD = 23.84 回)であった.旋回. 書家の描画姿勢のおおまかな推移を把握するた. 数について試行数を要因とする 1 要因分散分析を. めに,頭部高を検討する.紙面に対する書家の頭部. おこなった結果,有意な主効果は認められなかった. 高は全文字平均 559 mm であった.頭部高につい. (F(15, 252) = .43, p = .97).また,旋回数と画数. て試行数を要因とする 1 要因分散分析をおこなっ. の相関係数は,強い正の相関(r = .94, p < .001). た結果,主効果は有意であり(F(15, 252) = 29.33,. を示していた.この結果は,観察回数が文字の画数. p < .001),Tukey 法による多重比較の結果,1 試行. に強く依存していたことを示しており,描画時間が. 目と 10∼16 試行目,2 試行目と 10∼16 試行目,3. 文字の画数と正相関(r = .93, p < .001)した結果. 試行目と 10∼16 試行目,4 試行目と 10∼16 試行目,. と一致している.. 5 試行目と 10∼16 試行目,6 試行目と 10∼16 試行. 一方,全 268 文字での頭部旋回の頻度は 1 文字. 目,7 試行目と 10∼15 試行目,8 試行目と 10∼13,. 平均 1.11 回/1 秒(SD = 2.33 回)であった.旋回. 15 試行目,9 試行目と 10∼15 試行目との組み合わ. 頻度と画数の相関係数は弱い正の相関(r = .32,. せに,有意水準 p < .01 で有意差があった.有意差. p < .001)を示していた.また,1 文字あたりの旋. のある試行の組み合わせは,全体として 1∼9 試行. 回頻度について試行数を要因とする 1 要因分散分. 目と 10∼16 試行目との間に集中しており,書家は. 析をおこなった結果は,有意な主効果が認められ. 1∼9 試行目では平均 591 mm,10∼16 試行目は平. (F(15, 252) = 3.83, p < .001),Tukey 法による多. 均 531 mm の頭部高で,文字を描画していた.この. 重比較の結果,16 試行目と 1∼3, 6 試行目との組み.
(8) 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 262. 合わせに,有意水準 p < .01 で有意差が見られた. 以上の結果をまとめると,頭部旋回の頻度が画数と 正の相関にあったことは,1 文字の含む字画形態が 多様になるほど,旋回が高頻度になる傾向を示唆し ている.また,旋回頻度は,およそ前半 3 分の 1 試 行では高頻度であり,16 試行目では低頻度であっ た.1 試行目と 16 試行目を比較すると,旋回頻度 は平均 0.14 秒遅くなっていた.. 3.6 頭部旋回の方向分布 書家が,自己の身体を周囲の環境にどのように定 位させていたのかを知るために,文字描画中の時間. 図6. 描画中とインターバルの頭部旋回.全文字で の確率密度.0 ↔ 180 度が水平方向,90 ↔ 270 度が垂直方向を示す.統計量は極座標の 成分の左右/前後比.. 帯と,文字描画前のインターバル時間帯の,書家の 頭部旋回の方向分布を検討する.分析では,頭部 3. 後・左右成分は,描画中とインターバルで質的に異. 点のマーカーから再構成した頭部の重心と額を結ぶ. なっていたといえる.. 線分を,紙面高まで射影した x, y 座標を用いた.行. 描画中とインターバルの方向分布への試行数の. 頭の文字は描画 5 秒前をインターバル時間帯とし. 影響を検討する.描画中の頭部旋回の左右/前後比. た.書家が筆に墨を付け足した時間帯(筆尖位置が. と,試行数との Kendall の順位相関係数は,弱い. 紙面右側境界の x = 540 mm 以上)と,書家が立位. 正の相関(rτ = .21, p < .001)を示していた.一. 姿勢を取った時間帯(頭部高 1 m 以上)は,分析か. 方,インターバルの頭部旋回の左右/前後比と,試行. ら除外している.. 数との Kendall の順位相関係数は無相関(rτ = .16,. p < .001)であった. 3.6.1 描画中とインターバルでの頭部旋回の方 向分布. 以上の結果は,書家が描画中とインターバルにお いて,異なる頭部高で,質的に異なる視線探索をお. まず,文字描画中とインターバルにおける,頭部. こなっていたことを示している.文字描画中の方向. 高と頭部旋回の方向分布を検討する.書家の頭部高. 分布が双峰性を示していた一方,インターバルの方. は,描画中は平均 559 mm(SD = 32 mm),イン. 向分布には周囲を見回す上下成分が含まれており,. ターバルは平均 628 mm(SD = 37 mm)であり,両. 相対的に変異も大きかった.また,描画中の方向分. 時間帯を比較した t 検定(対応無,両側)の結果は,. 布は,試行を重ねるにつれ左右成分の生起確率をわ. 有意差を示していた,t(534) = −23.11, p < .001.. ずかに増加させる傾向にあった.インターバルに関. 平均値から見れば,インターバル中の書家の頭部は. していえば,試行数との相関係数は無相関であった.. 平均 69 mm 高い位置から紙面を観察していた. 描画中とインターバルにおける頭部旋回の方向 分布を,極座標内での割合から検討する.書家の. 3.6.2 頭部旋回の方向分布への紙面位置の影響 つぎに,文字描画中とインターバルの頭部旋回に,. 頭部の極座標の成分を確率密度で算出した後,前. 紙面位置がどのような影響を与えていたのかを検証. 後・左右成分に分け,左右成分を前後成分で除算し. する.描画中とインターバルの両時間帯は,それぞ. た比は,描画中が平均 2.04 倍(SD = .25 倍),イ. れ質的に異なる動作だが,その振る舞いが紙面に対. ンターバルが平均 1.11 倍(SD = .4 倍)であった. する身体位置に依存しているという点から見れば,. (図 6).描画中の前後成分とインターバルの前後成. 差異と共通性の両面を持っていると考えられる.書. 分とを比較した t 検定(対応有,両側)の結果には. 家は半切用紙に 2 行にわたって 17 文字をかいたた. 有意差があり(t(267) = 42.63, p < .001),描画中. め,ここでは時間帯と文字種を要因とする 2 要因分. の左右成分とインターバルの左右成分を比較した t. 散分析を使用して,紙面位置の影響を検証した.. 検定(対応有,両側)の結果にも,有意差があった. 頭部旋回の左右・前後方向の成分比について,時. (t(267) = 9.45, p < .001).つまり,頭部旋回の前. 間帯(描画中・インターバル)と文字種(17 種)を.
(9) 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 図7. 263. 上:文字描画中の頭部旋回の左右/前後比.多重比較の有意な組み合わせを記載した.下:インターバル中 の頭部旋回の左右/前後比.多重比較の有意な組み合わせを記載した.. 要因とする 2 要因分散分析をおこなった結果は,時. は,文字描画中とインターバルの両時間帯で質的に. 間帯,文字種のいずれにも有意な主効果が認めら. 異なっていた.なおかつ,両時間帯における方向分. れた(時間帯,F(1, 502) = 1505.55,p < .001; 文字. 布は,紙面上の文字位置によっても異なっていた.. 種,F(16, 502) = 13.57,p < .001).一方,交互作用. 描画中とインターバルの方向分布は共通して,行頭. にも有意な主効果が認められた(F(16, 502) = 4.3,. 文字では左右成分に偏る傾向にあった.また,イン. p < .001).このため,単純主効果を検討した結果,. ターバルの方向分布は,行中・行末文字では前後成. 2 つの時間帯,17 種の文字のいずれにおいても,有. 分に偏る傾向があった.左右/前後比の平均値と標. 意水準 p < .01 で有意な単純主効果が認められた.. 準偏差から見たとき,描画中に比べて,インターバ. 頭部旋回の紙面位置への依存性をより詳しく検討す. ルは相対的に変異が大きい(描画中,SD = .25; イ. るために,文字描画中とインターバル中のそれぞれ. ンターバル,SD = .4).これらの結果を総合する. について,文字種要因を Tukey 法で多重比較した. と,書家の頭部旋回は,インターバルの時間帯にお. 結果,インターバル中は,1 文字目と 3∼8, 10∼17. いて,紙面位置からより大きな影響を受けていた.. 文字目,2 文字目と 4∼6, 11∼15 文字目,9 文字目. これは紙面位置に拘束された,文字を紙上に配置す. と 3∼8, 11∼17 文字目,10 文字目と 5, 15 文字目. るための予期的な視覚探索であると解釈できる.. の組み合わせに,有意水準 p < .01 で有意差が見ら れた.有意差のあった文字は,1 行目の行頭「父」. 4. 議 論. 「官」,2 行目の行頭「海」と,他の文字との組み合. 本稿の目的は,臨書の制作プロセスにおいて,生. わせが大部分であった(図 7 下).一方,文字描画. 態学的制約と身体行為が,どのように相互作用して. 中の多重比較については,1 文字目と 3 文字目,13. いるのかを検証し,新たな仮説生成を試みることで. 文字目と 1, 7, 9 文字目の組み合わせに,有意水準. あった.議論では,本稿の結果をまとめた後,作品. p < .01 で有意差が見られた(図 7 上).有意差の. 制作のダイナミクスを,環境と行為の両面から包括. あった文字は,行頭文字と行中文字の組み合わせが. 的に説明する仮説を提示する.. 多かったが,有意な組み合わせの総数はインターバ ル中の方が多かった. 以上の結果をまとめると,頭部旋回の方向分布. 本稿における周囲の環境の条件とは,素材の物質 的特性と,臨書課題の初期条件から成る.たとえば 道具の摩擦率や墨の粘性は,書家の身体をかこむ環.
(10) 264. 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 境の物質的特性であり,雁皮紙のサイズとプロポー. れていた一方,描画中の方向分布は,見本と臨書を. ション, 『鄭羲下碑』の 17 文字は,課題特定的な初. 交互に観察する双峰性の分布を示していた.これに. 期条件である.. 対して,環境に対して柔軟に変化する側面とは次の 点である.書家の視覚探索は,描画中とインターバ. 4.1 周囲の環境に埋め込まれた知覚と行為. ルで共通して,そのつどの紙面位置におうじて柔軟. 今回の課題は,作品展を想定した大型の紙面に,. に変化していた.描画中とインターバルの方向分布. 石碑の拓本から抜き出した大振りな楷書 17 文字を,. は,行頭文字で左右成分に偏る傾向にあった.とり. 半切用紙に臨書することであった.台座に固定され. わけ,インターバルの方向分布は,行頭文字で左右,. た半切用紙は,課題における環境のマクロな構造を. 行中文字で上下方向に成分を変化させており,紙面. かたちづくっており,書家は身体大の紙面のフレー. 位置に強く拘束された予期的な視覚探索を含んでい. ムに前後を取り囲まれた状況で,17 文字を紙面に. た.これらの結果は,紙面に対して文字をかくため. 配置・描画しなければならなかった.さらに,文字. に一貫して分化した描画手順が,周囲の環境に対す. を描画するたびに紙面の余白の制約は変化した.こ. る能動的な調整に埋め込まれたかたちで,遂行され. のような状況において,書家は,紙面の光学的な情. ていることを意味する.. 報を安定させるために,周囲の環境に対して自己の. 一方で,書家の行為には,16 試行を通じて変化. 身体を持続的に定位しなければならなかったと考え. した面もあった.書家の頭部高は,後半 3 分の 1 試. られる.. 行で,より紙面に接近した姿勢で文字を描画してい. ここで本稿が述べる定位とは,たんに紙面上のど. た.また,文字描画中の頭部旋回の頻度は,およそ. の位置に自分の身体が置かれているのか知覚するこ. 前半 3 分の 1 試行では高頻度であり,16 試行目で. とだけを意味しない.制作行為における身体の定位. は低頻度であった.頭部旋回の方向分布は,描画中. とは,いま紙面上のどこに文字を描画しているのか,. にかんしていえば,試行を重ねるにつれ左右成分の. いま書いている文字は紙面のフレームに対してどの. 生起確率をわずかに増加させる傾向にあった.つま. くらいの大きさなのかといった,紙面・身体・文字. り,書家はおよそ前半 3 分の 1 試行において見本. の入れ子化された関係において,身体を定位するこ. を高頻度で観察し,およそ後半 3 分の 1 試行にお. とを意味する.画面内の造形要素が,どのような形. いては,紙面により接近した姿勢で,また描画中に. として体制化され知覚されるかは,要素の周囲の条. 上下を見回す割合を減少させて,より遅い観察頻度. 件に依存している.さらに,作品のサイズが大きい. で,文字を描画していたことになる.また,これに. 場合には,作品全体の見え方も,身体との距離・角. 加えてインタビューの結果を見ると,書家は実験直. 度に依存する.美術家は,これら複数の条件の中に. 後に 15 試行目を最も高く評価し,2 年後のインタ. 自らの身体を埋め込んだ状態で,何らかの仕方で作. ビューでも,自分の書に近づいているとして,15,. 品制作の方向をコントロール可能にしなければなら. 16 試行目に高い評価を与えていた.. ない.. 今回の研究はケーススタディであるため断定はで. 分析から明らかになったのは,書家 F の視線探索. きないが,一つの解釈として,後半の試行における. が,周囲の環境の生態学的制約に対して,適応的な. 臨書行為の何らかの変化が,観察動作の変化と,書. 振る舞いを見せていたことだった.この適応の内実. 家の自己評価の双方に,影響を与えた可能性はある. とは,そのつどの環境にかかわらない一貫した描画. だろう.後半の試行におけるこの変化の結果,自己. 手順の側面と,そのつどの環境に対して柔軟に変化. の臨書をより長時間観察した,自己の評価の高い書. する側面から成り立っている.. が生成された,と考えることはできる.. 一貫した描画手順の側面とは次の点である.書家 は,周囲の環境を見まわすインターバルの時間帯. 4.2 文字配置・文字形態の変形プロセスとの比較. と,臨書と見本を交互に観察する文字描画中の時間. ここで,本稿の明らかにした書家の視線の振る舞. 帯とのあいだで,視線探索の方向分布を分化させる. いを,先行研究と比較する.野澤 (2017) において,. ことによって,臨書行為を遂行していた.インター. 書家は,直前の試行と次の試行で,文字の位置と形. バルの方向分布には周囲を見回す上下成分が含ま. 態を漸次的に変化させるダイナミクスを通じて,臨.
(11) 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 図8. 265. 文字配置・形態の変形プロセス.上段:文字の縦横比の縦断的変化.実線が臨書,点線が見本の縦横比,色 を塗った領域が縦方向,横方向への変動を示す.下段右:文字の位置(y 座標)の縦断的変化.下段左:全 試行の画像を重ね合わせたもの.すべて野澤 (2017) より引用.. 書を完成に導いていた.. おける書家の視線探索を照らし合わせたとき,両者. 紙面上の文字配置は 16 試行を通じて,1, 2 行目. の結果は表裏をなしている.本稿において,視線探. の行頭 4 文字は位置変動が小さく,行の中央・下部. 索の方向分布は,行頭では左右方向に,行中央では. ほど,位置変動が大きい傾向が見られた(図 8 下段. 上下方向に偏る傾向にあった(図 7 上下)が,この. 左右).また,文字の縦横比は 16 試行を通じて,1,. 結果と併行して,行頭文字,行中文字の形態変形プ. 2 行目の行頭 4 文字が横方向に,行中央の文字が縦. ロセス(図 8 上段)も,それぞれ横長,縦長に伸長. 方向に伸長するかたちで遷移していた(図 8 上段).. する過程を辿っていた.紙面の中央の余白は,視線. これらの結果は,文字の配置と形態の変化が,紙面. 探索と文字形態の両面から調整がされた結果として. のフレームに対する文字位置に依存していたことを. 生まれていた.. 示している.書家は,行頭 4 文字の位置変動を抑え. このように,本稿と野澤 (2017) を比較したとき. つつ形態を横長に変形させることで,行中央での文. 浮かび上がるのは,書家が周囲の環境の知覚と,文. 字の位置と形態を調整する,紙面の余白を生み出し. 字の描画を一体化したかたちで,自己の技能を発達. ていたと考えられる.行頭 4 文字は,行中央におけ. させていたことである.. る配置と形態の変形を支える,調整の足場として機 能していた. 上記の文字配置・形態の変形プロセスと,本稿に. 4.3 環境の中で柔軟に組織された動作の一貫性 本稿の結果を書字研究の文脈から検討し,作品制.
(12) 266. 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 作という場面において,書家 F の発揮していた技 能がいかなるものであったか考察する.. 4.4 臨書行為を環境−身体システムとして理解 する. 書字行為は,運動等価性を示す古典的な運動課. つぎに,書家の身体行為と環境内の制作物が,い. 題である (Wing, 2000).Lashley (1942) は,利き手. かに相互作用していたかという視点から,本稿の結. や,非利き手や,鏡映しや,歯をつかって文字をか. 果を考察する.画像分析 (野澤, 2017) との比較は,. く課題で,どの条件においても個人の筆跡の特徴. 知覚探索と文字描画が,表裏一体に結びついて進行. がおおまかに維持されることを見出した.Lashley. していたことを示している.物と行為がこのように. の知見は,出力器と独立的に保存された運動表象. 絡み合ったプロセスを記述するためには,環境−身. (Generalized Motor Program)が出力される過程と. 体が系をなして時間発展する,システム理論の観点. して書字行為を捉える,現在の研究に直接的な影響 を及ぼしている (Schmidt & Lee, 2014).. が必要であるように思われる. 本稿は,書家の身体と環境が結んでいた関係を,. 一方 Gibson (1997) は,Lashley の実験が示してい. Bernstein (1996 工藤・佐々木訳 2003) の構想した. るのはむしろ,同じ機能的な目的を果たすために,. 「協応構造」として理解することを提案する.協応. 変異する環境下で様々な方法や方略を組み合わせる. とは,身体の冗長な自由度を機能的に関連づけ,運. ことのできる,行為システムの柔軟性だと指摘して. 動系を制御可能なシステムに転換することである.. いる.この考え方に従えば,運動が発達するとき,. たとえば鍛冶職人は,打撃動作にかかわる各関節. そこで発達しているものは,特定の筋活動のセット. の軌道が,ばらつきを含み多様であるにもかかわ. ではなく,多様な環境の文脈下で機能的な目的を. らず,槌を必ず鑿に打ち当てることができる (Bern-. 達成するために,代理的な方法を用いたり動作を. stein, 1967).つまり人間は,多数の関節の参入する. 調整することのできる,柔軟性の方である (Gibson,. 変異の大きな運動を協応構造として組織化すること. 1997; Gibson, 1966 佐々木他訳 2011; 西尾他, 2018;. で,結果的に機能的に安定した柔軟な行為を実現し. Nonaka, 2013; Nonaka & Sasaki, 2009).. ている.このように,運動学的変数の共変関係に着. このように,書字研究には,環境の変異や出力す. 目することによって,目的を安定的に遂行するため. る効果器に依存しない,不変な運動パターンからこ. に相補的に結びついた協応構造という観点から,制. れを捉える見方と,環境の変異に応じた柔軟な運動. 作を含めた熟練行為を捉えることが可能になる (工. パターンの組織化から捉える見方がある.しかし,. 藤, 2013).. この二つの見方は排他的ではない.個人の獲得した. このような視点から見たとき,書家 F の臨書制作. 固有な書字のダイナミクスが存在することと,周囲. プロセスは,頭部旋回の方向分布と,文字の形態・. の環境の構造や代理的な方法を利用して,そのダイ. 配置との間に,共変関係が形成される過程であった. ナミクスを環境の中に埋め込んだかたちで遂行する. と考えることができる.すなわち,書家の環境−身. 能力は,むしろ補完的な関係にあるからだ.. 体システムは,自己の行為変数と,制作物の変数と. 本稿の示した書家の知覚にも,環境に依存しない. の間に共変関係を築くことで,紙面の余白を探索す. 描画手順の一貫性と,そのつどの環境に適応する動. る目的を達成していた.以上の考察から本稿は,臨. 作の柔軟性の,二側面が見られた.しかし,今回研. 書行為が,能動的な視覚探索と,文字描画の両面か. 究対象とした作品制作プロセスという状況に限って. ら,環境資源を採掘するプロセスであった,と仮説. 考えるならば,書家の技能の際立った特徴とは,一. を提案する.. 貫した描画手順を,そのつど変化する環境の制約の. 知覚と行為を一体化させた書家の技能は,環境の. 中に埋め込むことのできる,知覚と行為の柔軟な調. 変数が認知システムの一部を構成する,拡張された. 整能力の方にあったといえる.書家は個々の漢字の. 身体性認知 (Clark, 1997 池上・森本訳 2012; 染谷,. かき方をすでに獲得しており, 『鄭羲下碑』を臨書す. 2017) の一例でもある.野澤 (2017) の画像分析は,. るのも今回が初めてではなかった.作品制作という. 長時間かけて調整された文字の変数が,文字の周囲. 状況において重要なのはむしろ,個々の文字の書き. の変数と緊密に結びついていたことを示していた.. ぶりを,身体大の紙面の中に埋め込む能力であった と考えられる.. 「紙面上に配置された文字群は,単独の文字の加算 的な集積ではない.. . . [中略]. . . 一文字の面積・比.
(13) 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. 267. 率・形態は,他の文字の面積・比率・形態,さらに は紙面のフレームといった条件との関係を相補的 に反映している.文字は,これら周囲の変数群と, 自らの変数とを緊密に結びけることによって,はじ めて紙面上に自らを定位させることができる (野澤,. 2017)」.制作する身体は,環境の変数を認知シス テムに取り込むが,このシステムの時間発展を通じ て生成した作品は,部分の変数が周囲の変数を映し 出すかたちで,構造化されるに至ると考えられる.. 4.5 行為が具現化する資源 Bernstein (1996) は,環境の資源を有効に活用し て運動問題を解決する人間の能力を「巧みさ(Dex-. terity)」と呼んだ.この資源活用は,環境の変動に. 図9. 環境−身体システムの模式図. 対する動作の安定性と,予期的な知覚情報にもとづ く動作の柔軟性によって可能となる.ここではこの. 変数に制約を自ずから生成しつづけていくことで,. 資源活用性という観点から,書家の環境−身体シス. 新たな資源が発見され,さらに高次なレベルでの探. テムにおいて,制約・行為・資源がいかに循環して. 索が可能になる.このことは,初期条件からア・プ. いたかを,より定式化されたかたちで記述する(図. リオリに予測することのできない資源− − −行為が制. 9).. 約を自己組織的に生成することで,はじめて具現化. 課題の初期条件−−−書家を取り囲んでいたマクロ. する資源が存在しうることを意味する.. な環境の構造は,文字を配置・描画する自由度を与. 行為の具現化する資源とは,環境−身体システム. えるという意味において制作の資源であるが,同時. が,環境との機能的な安定性を確保しつつ,動作調. に,書家の描画行為を拘束する.結果として,書家. 整の余地を探索するプロセスをつうじて発見され. の視覚探索は,周囲の環境を探索する局面と文字描. た,環境の行為可能性である.この環境の資源は,. 画の局面とに,一貫して分化した描画手順を遂行し. 行為のプロセスに組み込まれる以前から,行為者と. つつ,そのつどの環境に応じて柔軟に変化する振る. は独立に存在している.その可能性が実際に現実化. 舞いを示していた.. されるか否かは,環境を能動的に探索する行為者の. 書家の一貫した描画手順と,紙面フレームへの視 覚探索の適応は,書家の行為変数に,制約が自ずか ら生成されていることを意味する.しかし同時に,. 側にかかっている (Reed, 1996 細田・佐々木訳 2000; 染谷, 2017). このように,制作行為をシステムとして捉えるひ. 書家の行為が制約されるからこそ,その上に新たな. とつの利点は,行為を限定すると同時にその資源で. 動作探索の資源が発見されるともいえる.. もあるような,制約の両面性を記述できることにあ. たとえば,紙面のフレームに拘束された書家の視. る.本稿は,システムの状態や時間発展を記述する. 覚探索は,行頭・行中でそれぞれ左右・上下方向に. ことによって,そこで働いている制約を明らかにす. 偏っていたが,これと併行して,紙面上の行頭・行. るアプローチを取った.この意味で,本稿における. 中文字は,それぞれ横長・縦長に変形するプロセス. 生態学的制約とは,資金や時間制約のように予め定. をたどっていた.とりわけ,行頭文字が位置変動を. められた行為の選択幅ではない.それは,環境の構. 抑えつつ形態を横長に変形させたことによって,行. 造として実在するが,システムの時間発展を通じて,. 中央では文字の位置・形態を変形するための紙面の. 制約および資源として,具現化されるものである.. 余白− −−新たな環境資源が発見されていた.. 以上のように本稿は,臨書が,制約された状況に. いいかえれば,初期条件としての生態学的制約. おいて資源の活用を追求する行為であることを明. は,環境の構造,課題の条件,美術家の身体が出会. らかにした.本稿は限定された素材によるケース. うことで立ち現れるが,環境−身体システムが行為. スタディであるが,本稿の示した知見は,制作行為.
(14) 268. 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270. を記述するための,有効な方法論となる可能性が. らない.このため,序盤において画家は,頭部を小. ある.人間の制作する物のほとんどは行為の痕跡を. 刻みに回転させてモチーフ・画面を交互に見る動作. 保持する可塑的な素材でできており,自己の行為の. と,描画動作の周期を同期させることで,二つの動. 痕跡を利用した制約の生成が可能である.Bateson. 作を埋め込んだリズミックな協調パターンを形成し. (1972 佐藤訳 2000) はバリ島の絵画を情報理論の用. ている.一方,モチーフのかたちを取り終え,細部. 語を用いて分析し,芸術と呼ばれる行動とその産物. の描き込みに移った中盤以降では,モチーフを見ず. には,ほとんどつねに技能と冗長性(パターン)が. に画面上の情報を利用して細部を修正することが. 含まれており,芸術家の技能は,冗長性の維持と変. 可能になるため,頭部の回転の規則性は低下する.. 奏に発揮されると指摘している.ここで冗長性の維. このデッサンの前半・中盤・後半の変化は,対象の. 持と変奏とは,情報をパターン化し予測可能性を増. 輪郭の特徴点の把握・陰影量感の描写・細部の描き. 大させることを意味する.いいかえれば,人間が可. 込みという,遠近法にもとづくデッサンの制作手順. 塑的な素材で制作をするとき,制作物と行為の系に. (谷川他, 2001) に対応している.. は自由度が存在し,系を組織化するためには,造形. デッサンと書は,異なる素材を用いた表現形式. 面であれ行為面であれ,何らかのパターン形成を通. であり,完成に至るまでの試行数も異なっているた. じて,制約を自己生成しなければならないと考えら. め,制作プロセスの全体を通して両者を比較するこ. れる.. とはできない.しかし,白い紙面の光学的な情報を 安定させなければならない局面にかぎっていえば,. 4.6 書にとって特定的な生態学的制約. 両者の視覚探索には共通点があるように思われる.. 最後に,書という表現にとって特定的な生態学的. デッサンにおいては,画面上に自己の描画痕跡を累. 制約が何であるかを,本稿の明らかにした書家の視. 積させることができるため,最もクリティカルな描. 線探索と,描画中の視線に関する先行研究とを比較. 画初期の局面を持ち堪えた後は,リズミックな協調. して検討する.人物の輪郭を硬筆でスケッチする際. パターンは見られなくなる.これに対して書は,つ. の画家の視線を計測した研究 (Land, 2006; Miall &. ねに白い紙面に対して線を描画し,しかもかきなお. Tchalenko, 2001) では,時間負荷を与えるほど画家. しが効かないという条件をもつ.したがって,これ. がモデルを観察する頻度が高くなることが知られて. ら描画研究との比較を総合したとき,紙面の光学的. おり,40 秒でスケッチをおこなう条件では 36 回/. な情報を安定させるのが困難な局面が,長時間継続. 分に達する.これらの先行研究と本稿の結果を比較. することが書の生態学的制約の特性であり,この要. すると,書家が見本を観察する頻度は 33.33 回/1 分. 求に応えるために,高い頻度の観察動作を継続でき. (見本側と臨書側を別個にカウントした頭部旋回の. る身体を書家が発達させていた,という推測が成り. 頻度,1 文字平均 1.11 回/1 秒から換算)であり,時 間負荷をかけて画家がスケッチする条件と同程度の. 立つ.. 高頻度の観察をおこなっている.また,書家の試行. 5. 総括と結論. 時間は 1 試行平均 17 分 53 秒であるため,臨書が,. 本稿は,書道熟達者 1 名が 16 試行を重ねて臨書. 高頻度の視覚探索を持続的に要求する課題であると. を制作するプロセスを,運動データから縦断的に. わかる.. 分析し,生態学的制約と身体行為がどのように相互. 一方,観察と描画の噛み合わせに着目するなら. 作用しているかを検証した.分析では,周囲の環境. ば,本稿の示した書家の振る舞いは,デッサンの描. を反映する書家の能動的な視線探索に焦点を当て,. 画序盤におけるリズミックな協調パターンと類似. 書家の頭部高,文字ごとの頭部旋回の回数と頻度,. しているように思われる.野中他 (2010) によれば,. 周囲を見回す頭部旋回の方向分布を検討した.分析. デッサンの開始時,何もかかれていない白紙の画面. の結果,紙面に対して文字をかく一貫した描画手順. には,鉛筆の動きを支える情報が存在しないため,. が,周囲の環境に応じて柔軟に変化する視線探索に. 画家は,情報の乏しい画面上での慎重な鉛筆の操作. 埋め込まれたかたちで,遂行されていることが明ら. と,モチーフの視覚探索を,相互に阻害しないよう. かになった.書家は,周囲の環境の知覚と,文字描. 共起させ,モチーフのかたちを写し取らなければな. 画を一体化して,自己の技能を発達させていた..
(15) 野澤/認知科学 (2021) 28(2) 255–270 さらに,本稿と野澤 (2017) を比較した結果,書 家が,身体運動の変数に制約を自己生成すること. 269. 謝 辞. によって,文字の配置と形態を調整するための,紙. 長時間の実験とインタビューを,快く承諾してく. 面上の余白を探索していることが示された.この結. ださった参加者の方に,最大限の感謝を表明いたし. 果は,課題の初期条件からア・プリオリに予測でき. ます.多摩美術大学の佐々木正人先生には,修士論. ない,行為が制約を自己生成することで,はじめて. 文の段階からご指導をいただきました.現在の指導. 具現化する環境資源が存在することを意味する.総. 教官の東京大学の工藤和俊先生からは,分析手法か. じて,本稿の結果は,臨書が,所与の制約下におい. らディスカッションにいたるまで,貴重なご指導,. て資源の活用を追求する行為であることを示して. ご助言をいただきました.佐々木研究室のメンバー,. いる.. 工藤研究室のメンバーからも,貴重なコメントをい. 6. 今後の課題. ただきました.最後に,未熟な筆者の原稿に辛抱強 いアドバイスをいただいた 3 名の匿名査読者の方々. 本研究は,熟達者 1 名の作品制作に焦点を当てた. と担当編集委員の丸山慎先生にも,心より感謝し. ケーススタディであるため,一般化可能性には限界. ております.とりわけ,査読者 2 様からは,積極的. がある.しかし,インタビュー・画像データ・運動. な改稿のご提案も含め,多くを学ばせていただきま. データを用いて,書家 F の作品制作のダイナミクス. した.本論文の作成にあたりご指導いただいた皆様. を総合的に理解することは可能だと考えられる.本. に,この場を借りて感謝申し上げます.. 研究は今後も,複数の量的・質的データを用いて, 参加者内での信頼性を確保した,作品制作プロセス の解明を進めていく. また,本稿で検討することのできなかった書家の 身体運動として,とりわけ体幹でおこなわれてい た,姿勢調整が挙げられる (Bernstein, 1996).体幹 における姿勢動揺には,たとえば壁面の視覚刺激を 注視するあいだは動揺が小さくなるなど,知覚シス テムの様々な情報が,統合された状態として現れる. (Gibson, 1966; Stoffregen et al., 2000).このため,体 幹における姿勢調整の分析は本来不可欠であった. 書家の描画姿勢は,日本近代書史・美術史から見 ても重要性をもつ.今回の実験に用いた『鄭羲下 碑』は,明治以降日本に輸入された北碑(南北朝時 代に非漢民族の鮮卑が刻した金石文の総称)の代表 的古典であった.北碑をかく筆法は未確立であった ため,日本近代の書家たちは,さまざまな新しい描 画姿勢を考案し,文字をかく自己の身体を作り変え なければならなかった (日下部, 1925; 中西, 1986; 魚 住, 1990).HD 画像を定性的に観察するかぎりでは, 書家 F も日本近代の書家たちの描画姿勢を,部分 的に継承していると思われる.したがって,書家の 体幹を検討することは,書家の身体システムの全体 像を明らかにするためにも,書家の描画姿勢の歴史 的な継承性を明らかにするためにも,重要であると 考えられる.. 文 献 Bateson, G. (1972). Steps to an ecology of mind: Collected essays in anthropology, psychiatry, evolution, and epistemology. Jason Aronson, Inc. (ベイトソン, G. 佐藤 良明 (訳) (2000). 精神の生態学 改訂第 2 版 新思 索社) Bernstein, N. A. (1967). The coordination and regulation of movements. Pergamon Press. Bernstein, N. A. (1996). Resources for ecological psychology: Dexterity and its development (M. L. Latash, & M. T. Turvey, Eds.). Lawrence Erlbaum Associates, Inc. (ベ ルンシュタイン, N. A. 工藤 和俊 (訳) 佐々木 正人 (監 訳) (2003). デクステリティ:巧みさとその発達 金子 書房) Boden, M. A. (1990). The creative mind: Myths and mechanisms. George Weidenfeld and Nicolson Ltd. 張 彦遠 (1996). 歴代名画記 岩波書店 Clark, A. (1997). Being there: Putting brain, body, and world together again. MIT Press. (クラーク, A. 池上 高志・ 森本 元太郎 (監訳) (2012). 現れる存在:脳と身体と世 界の再統合 NTT 出版) Gibson, E. J. (1997). An ecological psychologist’s prolegomena for perceptual development: A functional approach. In C. Dent-Read, & P. Zukow-Goldring (Eds.), Evolving explanations of development: Ecological approaches to organism-environment systems (pp. 23–45). American Psychological Association. https://doi.org/10. 1037/10265-001 Gibson, J. J. (1966). The senses considered as perceptual systems. Mifflin and Company. (ギブソン, J. J. 佐々木 正 人・古山 宣洋・三島 博之 (監訳) (2011). 生態学的知覚 システム:感性をとらえなおす 東京大学出版会) 石川 九楊 (1992). 筆蝕の構造:書くことの現象学 筑摩 書房 Jullien, F. (1992). La Propension des choses. Pour une his-.
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