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2007年北京春節廟会巡り

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(1)2007年北京春節廟会巡り                                  奈良 行博 はじめに.  六十甲子回りで24番目にあたる「丁亥」の今年は、中国では「金猪」の別名があり、と りわけ期待の膨らむ年である。それは、60年に一度巡ってくるこの年に生まれた子供が強 運の持ち主になると信じられているからである。そのような子を得ようと、昨年ぢゆうに 駆け込み結婚したカップルがずいぶん多かったと伝え聞く。日本では、そのような迷信を 本気にする人はいないだろうが、同じく43番目の「丙午(ひのえ・うま)」で出生率が下 がるという現象があることを思えば、決して他国のことを笑えない。  亥は日本では猪(いのしし)に相当するが、中国ではその猪がブタであることぐらいは、. 中国語を少しでもかじったことのある人なら知っているだろう。しかし、ブタがニワトリ とともに多産の象徴で縁起の良い動物とされていることを知る人は少ない。亥がイノシシ ではなくてブタを表すことは解るが、ではなぜ「金」なのかと思って、インターネットで. 検索してみた。諸説紛々で明快な答えはないが、丁の音TINGが金JINに詑つたとする説、 十干の丁を五行の配当に振り分けたとき「火弟(ひのと)」に当たり、炎のように勢いがよ. いが、縁起の良さでは金にはかなわないので金にしたとする説など、俗説はさまざまであ る。要するに、何が何でも良い年にしたいがための庶民感情が語呂合わせのこじ付けを生 み出した、というのが実情らしい。・.  亥は十二支回りの最終順位にあり、明年の2008年は振り出しの「子(ねずみ)」に戻る。. 数字の8が中国では「発」の音に通じ「発財」つまりお金儲けをして大成功する意味に解 釈されていることは知っていたが、中国がオリンオリンピック招致に成功したことの大喜. びが、8の付く年に実現できたことにあるとまでは考えなかった。しかも、十二支の先頭 に立ち戻ってスタートラインに立つというのは、縁起を担ぐ国民性には絶好の巡り合わせ だったらしく、歓喜に沸いた意味が今更ながら合点できた。(1).  さて、春節とは旧暦の正月であることは周知のことであるが、三会の実態について知る 人は決して多くなく、理解している人はかなりな中国通だろう。三会とは日本の縁日に相 当する行事で、もとは寺院の宗教行事に合わせて門前や参道に店を張る交易市場や見世物 小屋の営業区画、あるいはその活動およびそれが開かれる日を言ったものである。清朝末 期から中華民国にかけての北京における旧時代の廟会については、二階堂善弘氏が廟会開 催地となっていた寺廟の現状と併せて報告されている(2)のでご参照いただくとして、本稿 では、文化大革命後の新しい廟会活動の実態について報告したい。.  筆者は1987年秋から1年半、文部省(当時)派遣の高線三三生つまり大学院相当の留学 生として北京大学に滞在した。中国全土の道教寺院を視察調査することが目的の留学だっ たので、ほとんど北京にいることはなかったが、大きな行事があるときは北京に戻って視 察した。留学中、88年、89年の春節は参観できたが、それ以後、自身が抱える制約もあっ. 一78一.

(2) て連続して定点観測することができなくなり、廟会活動の変遷について年代を追った取材 が果たせなかった。今回、かつて留学時代に視察して回った地点をなぞってその変貌ぶり を確認したので、約20年の時間差で北京の廟会がどう変わったかを述べていく。・. 1 80年代末の北京春節民会  留学当時、宿舎の先輩から聞いたところでは、文化大革命以後の北京では、1980年代の 中ごろから春節六会が復活し始めていたとのこと。前記したように、筆者が実際に参加体 験することができたのは88年、89年のことだから、再開して間も無しの頃の新廟会を見た ことになる。最も伝統ある北京白雲観をはじめ、地壇公園、文言(ラマ寺の雍和宮の西、 当時は首都博物館)、心心寺(大綬寺)、龍潭湖公園、万寿寺など、主に宗教と関わりのあ. る場所で廟会が開かれていた。ほかの場所でも開かれていたかもしれないが、聞き伝えで 情報を集めて実際に訪れることができたのはこれくらい。継続して開かれないこともあり、. 開催場所についてはその年ごとに地元通のタクシー運転手か、各廟堂の実行委員に関連情 報を確認する必要があった。人出の多くなる催し物なので、警戒に当たる北京市人民政府 の公安関連部署なら、開催申請の書類を集計してどこで何があるかぐらいは把握している だろうが、その情報が正確に新聞報道されないので、ムダ足を踏まされたりすることもあ る。.  これらの開催地の中で宗教者が祈りをささげていたのは白雲観だけなので、実際は宗教 地というより、市街地で催し物が開けるような整備された広場が他所で確保できなかった ことが開催の理由だったのかもしれない。また、区内の実行組織の団結力や老人会などに よる伝統芸の練習サークル結成、さらに物売り屋台や芸能関係者を呼び集めたりする人的 関係の強固な連絡網、などが関わっているのだろうが、そこまで深く立ち入って調査する 手立てを持たなかったので、廟会の開催の組織構成については全く不明である。.  80年代末のころの廟会は、屋台もまばらで境内、域内に小さくまとまっていて、演じら れる伝統芸も小越ながら種類が豊富であった。民間京劇、熱血(掛け合い漫才)、物まね、 コミカルなチャルメラ競演、講談、琵琶つきの語り物、現代寸劇、雑技、手品、蛇使い、 モーター・バイクの曲乗り、田植え踊りの秩歌(ヤンコー)、舟遊び踊りの鉋旱船(パオハ ンチュアヌ)、高足踊りの高跣(カオチアオ)、獅子踊り、龍踊りなど、当時は人出の混み 合いを気にすることなく、かなりゆとりを持って見ることができた記憶がある。.  軽食の屋台についても手延べうどん、澱粉でとろみをつけた各種の茶「茶湯(チャァタ ン)」、ウズラの串焼き、シシカバブ、焼きソーセージの灌腸、正月餅の「年樵(ニエヌカ オ)」、サトウキビ、サンザシの実を数個串刺しにして飴で固めた「糖胡芦(タンフゥルゥ)」、. 各種具入りの粥など、どの店も構えに個性があり、それぞれ手作りの感触があった。それ にまだ中国南方の食文化や西欧新来の食品を見ることはなかった。箸は「割り箸」だった が、食器は洗って使用していた。果たしてどのような水で洗浄していたのか気になるとこ ろだが、便利な使い捨ての発泡スチロール製の容器が簡易食品売り場に一般化するのは、. 一79一.

(3) 90年代に入ってからのことだったと思う。  正月用の玩具は風車:、ガラス管細工の鳴り物・“ポッペン”、鳴り独楽の“空竹”、魚形の. 提灯、棒先に挿した粘土製のキャラクター(制作実演と販売)、ディズニー・キャラクター のプラスチック製人形など。.  正月用の飾り物では、福字、郭話、吉祥きりえ、春画(正月用の対聯)、吉祥版画の“年 画”、魔よけの門島、五毒(トカゲ、ペビ、サソリ、カエル、ムカデ)(3)を縫い付けた子. 供用衣類、虎の形の装飾が付いた帽子や布靴竹やキビで作った玩具、いずれも北方地域 の伝統品目ばかり。.  当時目にした事柄の詳細を書き連ねても、とても書ききれないし見落としもあって正確 な再現はできないと思うので、記憶をたどるのはこれまでにする。ここでもし、筆者にと って最も印象的な春節風物はと謡われたら、キビと竹ヒゴで作った風車に仕掛けられた小 さな鼓の鳴り音“カタカタ”、鳴り独楽の回転音“ビョォー”。そして、大きな盆状の鉄板. 上たっぷりの油で焼かれるソーセージ“灌腸”の白っぽい小片、注ぎ口が龍の頭になって いる大きな銅製のやかんから熱湯を注いで溶き上げられる片栗茶の湯気、と答えるだろう。. 少々感傷的な表現であるのは遺憾であるが、記憶の鮮明さでいえばこれらに絞りきれてし まう。.  では、どこで何がどのように行われていたか、過去の状況を文字だけで表現するのは容 易ではないので、以下に、今回の訪問で知った現状と比較しながら併せて述べることにし よう。. H O7年の北京春節廟会..  自身が抱える制約のために、春節の調査が思うよう.にできなくなったと先にのべた。そ. の制約とは、廟会の開催時期が大学の学年末試験の時期と重なるということである。春節. とは、言うまでもなく旧暦の正月初一。毎年、通常は1月の末から2月の頭にめぐってく る。しかし昨年の旧暦には「七月」の次に「閏七月」があって、一年間に13ヶ月配当さ. れた。おかげで、今年の春節の到来が2月18日と随分遅くなり、晴れて廟会参加が実現 できたという次第だ。.  北京の春節廟会は、後にインターネットで検索したところによれば、「北京9大廟会」の. ふれこみがあり、9箇所の開催地が紹介されている。開催期間はほぼ2月18日∼同24日 の公的な長期休暇期間中(春節当日から一週間)に設定されている。春節の期間中の爆竹 が13年ぶりに解禁になったことは日本の新聞でも報じられていたが、北京の市内を走る公 共バス内の電光掲示板には、市街区では「露虫路内、正月初二∼十五までの間、7:00∼24:00」. の条件で許可されていると知らせていた。廟会9箇所の内訳については、ネット情報によ って多少違いはあるが、(A)『北京週報(日本語版 2007年2月13日)』「今年の春節、北 京で九大面会が同時開催」(4)では、①廠旬、②東岳廟、③龍潭湖、④地壇、⑤蓮花湖、⑥ 大観園、⑦朝陽公園、⑧石景山、⑨東城区(室内廟会)を列記し、(B)『北京メディアウオ. 一80一.

(4) ッチ』「大晦日の〈春節直前 耳より情報〉」(5)では、上記の⑨がなくて、代わりに白雲. 観と玉出潭(海淀区)を加えて10箇所紹介している。(B)では入場料金も紹介していて、 10元徴収が5箇所、最高額が⑥の15元、無料のところも一二ある。  上記の記事を見る限りでは、筆者が80年代末に訪問した文廟、覚生寺、万寿寺では廟会 は開かれていないことになる。油鼠は④地壇の近くなので今回訪れてみたが、正門は閉じ られて開放しておらず、かっての首都博物館としての機能も無いようである。俗称「大鍾 寺」の覚生寺は、すぐ隣に骨董商店が集まるビルが建ち、日常的に伝統工芸品を売買する 拠点となっていた。期間中にここを訪問していないが、.市内の様子に詳しいタクシー運転. 手は上記の①②③④⑥を推薦し、大鍾寺での廟会開催は聞いてないと教えてくれた。また 万寿寺については、80年代末に筆者が訪れたとき屋台が出るほどの規模ではなく、老人会 の日ごろの活動の成果を発表する場になっていただけで、その後の開催は中止になったの だろう。.  以下に、07年の春節廟会について報告するが、その前に、各所に見られた出店の内容に ついて全体的な印象を述べておこう。.  タクシーの運転手からも聞いた言葉「大同小異」のとおり、はっきり言って似たような. 内容のものばかり。さして興味を引く特色ある品物は無く、5元、10元と割高な値段の軽 食やアクセサリーを買って散財の快感を味わっているかのようである。伝統的な正月用の 門飾りも姿を潜めていたし、手仕事の伝統工芸品より大量生産の流行商品が幅をきかせて いるのは、寂しい限りであった。フセイン、ウサマ・ビンラディン、ブソシュなど政治活 動家の顔形をしたゴム製の大きな被り物が注目を浴びていたが、笑いの質の変化を感じる とともに、自由な気風に市民の豊かさを知った気がする。.  商品の大きな変化を言えば、南方・西方など中国の遠隔地からの珍しい食品や民芸品が 増えたことがあげられる。また海外近隣国の品も見られ、日本のものでは「たこ焼き(章 魚小丸子)」「うなぎの蒲焼き(蒲焼白魚)」を実演販売していたし、装飾品では「鯉のぼり」. が大人気で、60センチほどの長さの布製のものがよく買われていた。中国では、魚は余と 同音で「有り余る幸せ」を象徴する図柄としてよく用いられていて、正月十五日の元宵節 (灯節とも言う)に金魚形の提灯がよく飾られたものだが、中国の春節時、日本の「端午 の節句」に飾られる鯉のぼりと同じものを見たことに、正直に言って驚いた。国内外の流 通の広がりを示すこれらの商品は、物だけが移動して背後の文化が切り捨てられることの 違和感を生じさせるが、文化の交流はこのような一種の誤解を繰り返して展開されていた ことを知る良い機会でもあった。  では筆者が訪問した地点を順次紹介する。.  ・白雲観(2月18日〈正月初一〉に訪問、以下同じ)    白雲観は、地下鉄「木台地」駅と「南礼士路」駅の中ほどにある南北の通り白雲路   を南下し堀(永定河引水渠、南下して西護面河)にかかる橋を渡った東にある。中国   固有の宗教である道教の代表的寺院で、道教協会の本部が置かれる。. 一81一.

(5)  ここは、文化大革命後、・宗教信仰の自由が認められるようになってからいち早く活. 動を再開させた宗教地で、80年代中ごろから三会が開かれていた。この地の正月行事 は歴史が古く、参拝客か乞食:かに身を装った仙人が境内に現れ、幸いにもその所在に. 気がつけば長寿が得られる、などの仙人説話が残り、長寿を願う参拝客が後を絶たな いという(6)。80年代末のころは、境内の入り口付近の庭と門前通りに各種屋台が店舗. を連ねて正月用品や装飾品が売られ、境内奥部の広場や祠殿群固有の舞台設備「戒台」. は各種演芸の上演揚所となっていた。祭祀が行われる「出面堂」では、午前と午後に 一年の安泰を祈る儀i式が正装した道教の僧である道士によって催されていた。参拝客 の目当ての一つは境内の山門の一角に彫り刻まれた猿のレリーフで、これに触れると 幸運が得られるとする俗説があって、それがいつの間にか儀式化してしまっていた。 それも当時は、通りすがりに触れる程度で、遊び半分が多かった。.  今回訪問してみて驚いたのは、白雲観の入り口のはるか遠方から行列が見えだし2 3百メートルは延々と続いていた。これは、入場チケットの購入のためでなく、猿の レリーフに混乱なく触れさせるための行列で、警備員が特設の入場ゲートを見張るな か参拝客が並んでいたのである。猿に触れることを希望しなければ境内へはすんなり 入り込むことができるのだが、参拝客の8割がたは長蛇の列の後尾に向かっていた。  山門をくぐると窩風病がある。この橋はアーチ型になっていて下の池には水がなく、. 橋の下には穴あき硬貨の形をした金属板がぶら下げられる。硬貨の穴の部分にはこぶ し大の釣鐘が掛けてあり、参拝客は投榔用のコインを購入して、釣鐘をめがけて放り 投げる。うまく当たって爽やかな音が響けば幸運にめぐり会える、という運試しの場 所になっているのである。ここは猿のレリーフのすぐ背後に位置するので、幸運がど の程度のものかを試すべく、』多くの参拝客が投榔に興じる。この池は、80年代末のこ. ろまでは埋められていて、89年に修復された。修復に高額の賛助金を提供した人の名 簿には、日本の神道系の新興宗教の代表者の名が筆頭にあがっていたのを思い出す。.  境内の第一殿となる霊官話は、境内を監視する神である王霊官が祀られる。殿のす ぐ前に置かれた焼香用の大きな香炉が熱せられて高温になるので、近づけないように 柵で囲いがしてあった。熱心な参拝客は柵内にいる係りの警備員か道士に託して線香 束を香炉に入れてもらっていたが、待ちきれない者は投げ入れて去っていた。境内の 南北中軸線上に並ぶ祠殿には道教の主要な神が祀られていて、そのいかめしさゆえ庶 民には縁遠いが、東西両脇に配置されている民間神を祀る祠殿の前は線香束が山盛り になっていた。財神殿、元君殿(子宝の女神である泰山碧霞元山を祀る)、文昌殿(学 問の神である文昌星、孔子などを祭る)、元辰殿(北斗七星の母である直面〈とぼ〉元. 君を中心に六十甲子の守り神を祀る)など、特に財神殿の前がひときわ混雑していて 身動きもとれないほどだった。これは、庶民の道教信仰の狙いがどこにあるかをよく 見せ付けてくれる恰好の例だろう。それにしてもこの線香束の多いこと。人が増えた のと、一人の消費量が増えたことが原因しているようだ。. 一82一.

(6)  白雲観の境内は、宗教施設としてのみ使用され、かつて見られた演芸出し物や軽食 屋台の類は、数もはるかに増えて敷地外周の道筋に並べられるようになった。. ・地壇公園(2月19日く正月初二〉).  当公園は地下鉄環状線の「雍京北」駅を下車して、すぐ北にある。.  春は地面からさまざまな活動が始まる時期なので、地の神を祀る地壇は春節のこの 時期にはとりわけ念入りに一年の安泰を祈らなければならない、と留学時代に宿舎の 同じフロアにいたロシア人から教わった。実際、そういう意味合いもあって地壇での 廟会活動は白雲観とともに、文化大革命後の中国で重要な地点となっていた。80年代 末の廟会では、地壇の壇上(方沢壇)には清時代の儀式を模して犠牲の動物(模造品 の三牲で、牛、ブタ、羊)が献台に祭ってあった。.  今回の訪問でも同様のセットが準備してあるのを見たが、開催時刻(10:30∼11: 00)に間に合わず実際の儀i式を見ることはできなかった。.  四角い壇の周囲は、幾つかのステージが設けられて、歌あり、演奏あり、ゲームあ りと、大音量のスピーカーが賑やかだった。また、大きな人形やぬいぐるみが隙間な くぶら下げてあるコーナーが数箇所あって、的を射たり、穴に入れたりと簡単なゲー ムで大きな景品がもらえるという、射幸心を煽る遊びの場となっていた。景品の人形 は布製なので、北京特有の細かな砂塵を避けるために一つ幽つビニールの袋がかぶせ てあった。その覆いのないものは無残な汚れ方をしていた。.  壇の西部区域では軽食、吉祥装飾、民芸品など販売品の種類ごとに分けて出店が並 んでいたが、全く同じ商品を売る店も多くあり、大量仕入れをしてそれを分散して販 売していることが想像できる。茶館を再現したコーナーやホールでの民間工芸品の展 示や制作実演も同時に開催されていた。野外ステージでは、大太鼓の合奏、河南省か ら来たグループの獅子と龍の舞い、高足踊り、地元婦人会の祝賀舞踊「花会(ホァホ イ)」などが披露されていた。どれも大型化し、大音量のスピーカーが設置きれて、大. いに賑やかになったが、しっとりじっくり聞かせる小芸の出し物が、都会的テンポに ついて行けないせいか消えていったように思われる。. ・龍潭湖公園(2,月20日く正月画趣〉).  当公園は天壇の東隣にあり、湖を中心に広大な敷地を持つ。80年代品には、アーチ 状にせり出た独特な屋根を持つ西北門の一角の敷地に催し物が集中し、物売りの屋台 の数は、散策路を埋め尽くすほどではなかったように記憶する。当時、ここで見た高 足踊りの高評(カオチアオ)は、通常の足の二倍以上はありそうな長さで、出番待ち をしていた演者の男性が高い立ち木の枝に寄りかかりながらタバコを吸っていたのを 思い出す。ここでは舟遊び踊り「胞旱船(パオハンチュアヌ)」の集団演技を始めて見 ることができ、腰につけた舟形の飾り物が珍しかった。. 一83一.

(7)  今回、近代的な新しい門が構える北門から入場した。物売り屋台は湖の周囲を取り 巻く散策路に隙間無く並んでいて、屋台をひやかしながら人の流れに沿ってゆっくり. 歩いていると、一周するのに1時間はかかるほど多い。屋台の内容は上記の地点のも のと大きな変わりは無く、同種のものが点在して全く同じ看板を掲げているものもあ った。餅菓子「朝鮮打点」が珍しく、餅つきの実演で人目を引いていた。杵の形は日 本のものとさして変わりないが、石臼は中央が窪んでおらず平板な石台だった。蒸し 上げた餅米が乞いたときに飛び散らないようにと臼の周囲にブリキ板の囲いがしてあ ったが、収まりが悪く、いかにも眠きにくそうであった。.  特設舞台は演目の内容ごとに建ち、近代的な内容のファッションショーなどと伝統 的な内容の京劇などとは、それぞれ別の舞台で演じられていた。. ・東岳廟(2月22日く正月初五〉).  地下鉄「朝陽門」駅から出て東に向かうと朝陽門外となり、そのまま東進すると当 廟に至る。かつて正一道教の拠点として栄えたこの東岳廟は、華北地区を代表する重 要道観であった。白雲観が出家主義の全真道教であるのに対して、こちらは在家主義 の道教である。東岳は冥界の統括者とも考えられていて、もとは東岳泰山の守り神で あった。土地神の上位の城隆神、その又上位に君臨するのが:東岳。冥界に入った人た. ちへのひいきを願って家族の者がお参りし、あるいは自身の加護をお願いしに参拝し ていたのである。新中国になってからは、迷信の拠点であったために宗教施設として の復活がかなわず、長らく共産党の幹部学校の校舎として使用されていた。80年代末 の留学中、何とか生徒にまぎれて進入できないものかと試みたが、厳しい門衛によっ て許可されなかったことを思い出す。.  当主は西暦1996年から修復工事にかかり、完成後の画会活動は今年で6回目を迎え る。民俗博物館としての機能もあるだけに、活動内容は非常に伝統色が濃くて興味深 い。前時代の芸能を見せ、民俗工芸品を販売しているので、北京らしい春節風物を味 わうのはここが一番と言っても良いだろう。.  正一道教の活動拠点だった名残があり、廟内で演奏される「廟楽」は道教音楽に由 来するもので、他所では聴くことができない。夕刻に一度演奏が行われたが、リズミ カルな吹打の演奏に聞き惚れて演奏者の写真を撮っていたら、録音機のスイッチを入 れるのを忘れていた。奏者の構成は7人ほどで、楽器を持ち替えながら演奏は進んだ。 太鼓、ひちりき(管守 クワヌズ)、チャルメラ(喧ロ内 スゥォナァ)、にょうばち(鏡. ナオ、もち手の部分がお椀のように突出したシンバル)、四角い木魚のような拍子木(榔 子 バンズ)、笙、編鉦など、演奏に込められた力は、吹き手の首筋によく表れていた。. テーブルの上には、アルコール度数の高い焼酎「二鍋頭(アルウォトウ)」の大瓶がお. かれていた。この人たちは「善会」のメンバーらしく、すぐ傍に、かつて宮漏参りの 途中で茶の無料提供をして信者の労をねぎらった慈善団体の名「万代助善 福茶聖会」. 一84一.

(8) が墨書された旗が立っていた。この旗の下には、円筒形をした大きな道具入れが置か れる。この独特な道具箱は、善会のほか地元の人たちで作る寺庄の奉賛会など伝統的 な行事の団体が、祭りの道具を入れて保管したり、天秤棒で担いで移動したりすると き使うものである。かつて80年代末、白雲観でも雨漏寺(酒薬寺)でも、門前に置か れているのを見た。この道具箱があると、神々への奉納のための獅子舞や鼓ど“にょ うばち”の合奏が行われるのである。東岳廟のこの善会は無料の茶と粥とを提供して いて、参拝客はいつでも求めれば自由に頂くことができるのである。この粥にも道教 の名残があって、かっては廟の道士が振舞ったとのことである。粥の名は「獅子頭八 宝粥」と解説されていた。.  訪問当日、廟内で実演していた伝統芸は、獅子踊り、アクロバットの雑技、幟竿を 頭上に立てバランスを保つ中幡(チュンファヌ)など。他に、飴細工のコーナーは人 だかりが絶えず、大人も子供も製作実演に見入っていた。熱して軟らかくなった飴で 小さな筒を作り、それを引っ張って細い管にし、管の先端から息を吹き入れて膨らま せ、その途中、冷えて固まるまでにさまざまな動物の形に整えるのだが、実際、絶妙 としか言いようがない高度な技である。色塗りの仕上げが済んで、客が受け取るとき の顔は満足そのものである。ハツカネズミのサーカスがあったが、ネズミの動きに敏 捷性が欠けていたので、少々期待はずれの感があった。また、広台戯(ドゥタイシイ ー)はほとんど廃れた芸だが、家芸として伝統を守っている男性が廟に来て演じてい た。これは、少し高い位置に設定した人形劇用の小さな舞台の下に演者がもぐりこみ、. 両手に被せた人形でドラマを展開させる。語りは本人が地声でやり、舞台上の人物は 声色ではなくてチャルメラの吹き口(?)の音で言葉にしている。言葉として聞き取 りにくいところは、地声の語り声で繰り返しなぞる。劇中、わが子を虎に食われた母 親が泣いている場面があり、そこに男性の人形が出てきて「別実話(ピエタゥラ〈泣 いてはいけません〉)」に似た音が出る。すると、観客の中の勘の良い子供がいち早く. 言葉にしてみせる。芸・客一体となっているところがなんとも言えず微笑ましい。舞 台の裾は地面まで届く幕が張られて垂れているので演者の足は見えず、観客は不思議 と舞台の内容に移入してしまう。人形さばきと楽器で発する言葉の妙が、庶民芸の素 朴な味わいを出していた。ハツカネズミ回しも独台戯も共に呉橋(河北省南部の都市) の芸人だった。.  廟内の民芸晶売り場も手仕事の作品にあふれ、民話省の作品を売る「話芸」店には 魔よけの虎が刺繍してある枕や布靴、縁起物の二匹の魚の飾り物など素朴な味わいが 見られた。寸話(河北省南部)の吉祥版画「年画」も美しい刷り上がりで展示販売し ていたし、北京の工芸品で月の精を泥人形にした「比比爺(トゥールイェ)」も大小さ まざま並べて販売していた。.  境内でひときわ目を引くのが「財神山」。これは財神の大小さまざまの陶器像を雛壇 に. 一85一.

(9) 並べ、一種目塔に仕立てたものである。これだけの財神像を一箇所に並べれば、どれ かの像が効力を発するであろうとの考えか、ともかくその数に圧倒される。各像は砂 塵除けのためそれぞれラップで覆ってあって、一体一体が妙な光線を反射させていた のが印象的であった。そのすぐ隣は、白雲観と同じコイン投榔コーナーになっていた。.  帰り際、大きくロの字形に並ぶ七十六の地獄の裁判官を見回してみて、赤い願掛け 札「請福紙」が多くぶら下がる殿を探してみた。すると、やはり子宝、財産、長寿を 司る冥界役人だった。その表札には積財司、門神司、子孫司・正直司、長寿司、注福 司などとある(7)。このうち「正直」とは土地神のことである。ここでもやはり信仰の. 狙いは白雲観とほぼ同じで、どの宗教地でも人々が持ち込む願いは変わらないようだ。  正:門の外の両脇にも屋台は並び、主に骨董品が場所を占めていた。. ・廠旬(2,月22日く正月出直〉).  廠旬(チャンティエヌ)は書画骨董で有名な琉璃廠(リィゥリィチャン)の別名。 地下鉄「和平門」駅を出ると、すぐ南に廟会入口の大きなゲートが見えた。北京ダッ クで有名な料理店「全盛徳」を起点に、そこから南へ一直線に1キロメートル足らず。. 幅の広い自動車専用の大通り(南新華街)が完全開放されて歩行者天国になり、その 両側に屋台が連なる。大通りは、それを埋め尽くすかのように人の波が続き、改めて スケールの大きさを感じさせる。.  演目のリストが無いので全てのことは分からないが、当日観覧できたのは中幡の竿 回し、若手の掛け合い漫才、京劇など。ときおり仮装行列のような形で一行が練り歩 き、動物や漫画キャラクターの着ぐるみ隊、清士職人装束の隊列、静止していると銅 像かと思わせるような黒塗り化粧を施した清代書生姿の一隊など、意表をついて遊覧 客を楽しませてくれていた。.  琉璃廠はこの大通りの中ほどを直角に東西方向へ突き抜けて伸びる細い通路だが、 このうち東側の通路に正月用の吉祥工芸品ばかりを集めた売り場が設けられていた。. 由緒ある文物骨董街なのだから悪い晶を置いているはずはないと思うが、残念ながら 詳しく見るチャンスを逸してしまった(8)。それでも、このコーナーで購入したのだと. 思われる魔よけの虎の刺繍がついた赤い枕を持って歩く女の子が何人かいたので、古 い伝統文化も見捨てられたわけではないことが確認できた。. ・(附)天津天后宮(2月24日く正月初七〉).  天津は北京から120キロメートルばかり、日本の長崎、神戸、横浜のようにハイカ ラな港町として知られる。しかし、ハイカラばかりではなくて、北京に負けず劣らず 伝統文化が大切にされている土地でもある。筆者の所蔵する泥人形、きり絵、密画な ど正月用の装飾品や民芸品の多くは天津で購入したものである。今回、販売される正 月用品「年貨(ニエヌフオ)」にどのような変化があるかを確認すべく訪れてみた。. 一86一一.

(10)  実は、2,月21日に一度訪問を試みたのだが、濃霧と高架高速道路の建設工事の影響 で予想外の時間浪費(3時間あまりの所要)をさせられて市内見学の時間が無くなっ たので、その日は何も見ないで引き返していたのである。.  24日は列車を利用したので移動時間の短縮はできた(79分間の所要)ものの、列車 駅の移転や市街区の大整備のかげで、方向感覚がっかめずに随分と迷わされた。  結局、市街区中心の鼓楼と古文化街を訪れて他の廟会特別区は訪れずに終わったが、. どちらも北京ほどに人込みの圧力がなかったので、くつろいで散策できたことは幸い だった。それもそのはず春節休みも最終日となっていたので、人出が少なくなるのは 当然のことだったのかもしれない。.  鼓楼の一帯は大きな変化が見られず、常設の屋台だけで人影もまばらだったが、天 恩宮を中心とする古文化街は一帯が全面改修されて全ての建物がコンクリート造りに なってしまっていた。まだ整備工:事の最中であったが、工芸晶売り場は基本的には本. 格的な営業体制にあった。しかし、春節期には必ずといってよいほどに正月用の装飾 品が売りの露店がひしめいていた天后宮前の広場は、小物や食品の売り場になってし まっていた。珍しいものでは、熱して溶かした飴を平たい石板に流して作る飴絵の菓 子:、植物の葉を編んで作る昆虫、棒に刺した粘土の人形、いずれも目の前で制作して 売っていた6.  恵良宮の祠殿群にも若干の変化があり、本殿背後の両脇に文面神の比干、武富裕の 関帝を祀る二つの財神殿が修復されたし、民俗展示のあった一角はすっかり片付けら れて、女神である天后の神像が置かれるようになってしまった。婚姻や出産に関わる 旧時代の展示物は、訪問のたびごとに見るのを楽しみにしていたのに姿を消したのは 残念なことである。新しい別の博物館に移されてもっと豊富な展示になっていること を期待したい。.  廟が信仰の場として形を整える時、変化するのはやむをえないとしても、いつも顔 を出すのが「財」というのは寂しい気がする。もっともこれは、旧時代の状態を復元 して本来の姿になったのだから、一外国人が口を挟むべきことではない。むしろ、こ れで中国の国民性、民族性がより分かりやすくなったのだと喜ぶべきことなのかもし れない。.  07年の春節廟島巡りでは、以上のような視察結果を得た。大きなところでは蓮花池面会、 大観園紅血廟会を訪問できなかったのは心残りだ。しかし、一日に一箇所訪問が限界で、. 無理をして二箇所訪れたとしても、結局はどちらも味わいが中途半端になってしまうので. やむをえない。それに、どの廟会も夕刻4嫁ごろには片付けにかかるので、これもまた行 動上の制約になっていたのである。.  また、廟会に準ずるような催し物が他所でもいろいろあるらしく、公共バス車内の電光 掲示板では、北海公園、海瀬公園などでの提灯祭りのプログラムを紹介していた。なかで. 一87一.

(11) も虚病公園の電光装飾「ルミナリエ」を「路美梛麗夜」と漢字表記していたのには目を引 かれた。これは意味と音とを見事に織り込んだ名訳で、中国語ならではの言葉遊びである。.  春節の締めくくりは元宵節なので、正月十五(3月4日)まで滞在したかったが、今回 は実現できなかった。せめてその準備だけでも見ておきたいと思って、帰国前日の2月2 5艮〈正月越智〉に朝陽公園の「国際風情祭」を訪れてみたが、人けは無く、廟会屋台あ とが続くだけだったので、引き返して帰国準備にかかった。地元の人に言わせれば、春節 行事の「半分」を見そこなったことになるのかもしれないが、またの機会に期待するしか ない。. おわりに.  筆者の個人的な印象として、春節の風物を象徴するのは風車と鳴り独楽の音だと先に述 べていたが、今回の訪問でもやはりその印象は同じで、しばしばその音を耳にした。しか し、風車の羽根は色染めのある紙ではなく、メタリックな光沢を持つナイロン製のものに 取って代わったし、木製だった鳴り独楽もプラスチック製が幾箇所かで売られていた。破 れない、壊れない、は消費者にとっては有難いことではあるが、手にしたときの感触の変 化とゴミになったときの処理の問題は小さくないように思う。自然にある材料を是非とも 使い続けていだきたいものである。.  今回の廟会は、2008年の北京オリンピックの「前祝い」を兼ねて、経済効果の上げ方を 模索している部分もあって、拡大のために随分と力がこめられたものと推察する。今後、. 豊かな市民層が増えて直会の人出が多くなり、催しの規模もますます大型化していく。し かし終わってみて、生じた有害ゴミ(たとえば食品の容器)の量も明らかになったと思う。 是:非とも、周辺国に害の及ばない有効な処理対策を考えてほしい。.  廟会期間中、車椅子の老人を各所で見かけた。しゃがみこんで老人の希望を聞こうと耳 を傾ける中年男女の姿は、’家族の太い絆を感じさせたし、車椅子を受け入れる廟会の場の. 雰囲気に優しさも感じることができた。中国のこの廟会は、まさしく年齢の垣根のないお 祭りであることが再確認できた。.  また、各廟の財神は、参拝客が増えて大満足だろうが、どうか、財神のカで格差にあえ ぐ底辺の人々の生活向上も果たしてもらいたい。そして、初詣客が増えて廟の経済も潤っ たことだろうが、その潤いが宗教者自らの行いをより清め、人々の心の潤いへと還元され るよう祈りたい。.  最後に、筆者が20年前に見た廟会と今回とでは規模も内容も大きく変わったが、風車の カタカタと鳴り独楽のビョーだけは残った。恐らく、筆者の見た廟会の20年前つまり1960 年代もカタカタとビョーは響いていたことだろう。これから20年経った時、果たして同じ ように鳴っているかどうか心配であるが、もし残っているなら風力で鳴り、空気を震わせ て鳴るという仕組みだけは残して欲しいものである。北京に爆竹禁止令が出されていた間、 市民に出回っていたという爆竹音CDのように、電気仕掛けにだけはなってもらいたくない、. 一88一.

(12) と願っている。. 註. (1)中国庶民が縁起かつぎや語呂合わせを好むことはしばしば言われているが、日本の庶民.  とて同様だと思う。しかし、「8」に対する執着は相当なもので、ある中国人の友人によ.  ると、2008年の北京オリンピックの開催式は8月8日8時8分8秒に始められるだ  ろう、と冗談交じりで言っていた。 (2)「北京旧廟会と寺廟跡地について」.  『近代中国都市芸能に関する基礎的研究 成果報告論文集』(平成9−11年度科学研究.   費基盤研究C)(課題番号 09610462)所収  当論文では、郭子昇『北京熱気旧俗』(中国華僑出版社 1989年遅)        常人春『老北京的風俗』(北京燕京出版社 1990年刊)        趙露華『老北京廟会』(北京城市出版社 1999年刊).  などの最新出版の資料を参照しつつ、旧廟会の開催状況などについて考察し、開催場所  となった地点の現状について報告している。(インターネットで閲覧可) (3)五帝は、それらの生き物が持つ毒素を身に付けてくと免疫力ができて、害を予防できる.  と考えられたもの。平面の布切れや綿をつめた立体的なものを服や帽子に縫い付けたり、  あるいは虫の形を小麦粉で作ったものを食べたりした。 (4)htt://㎜. ekinshuho. com/1v/txt/2007−02/content 55979, htm を2007年3月11.  日に参照 (5)htt●//ekirmedia Ou em’/?eid=40 を上記と同日に参照. (6)『北京風俗大全 城壁と胡同の市民生活誌』(羅信耀著 藤井省三他訳 平凡社  1988年刊)「お寺詣で」〈会神仙〉を参照。この仙人の記事:は清・敦崇の編『燕京歳時記』.  「正月」〈白雲観〉の項にも見える。89年の廟会では、八仙の大きな着ぐるみ像が境  内を練り歩いていたが、現在でもその行事が継続されているか否かは不明。 (7)東岳廟の祠殿配置と地獄役人の配置については『白雲観志 附東岳廟志』(小柳司気太 編 国書刊行会 原本刊行1934年)の付図を参照。 (8)廠旬については、前出『北京風俗大全』の「廠凶漢の市」に詳しい。. 一89一.

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参照

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