• 検索結果がありません。

スポーツに内在する暴力性の社会的意味 : 指導者と選手のアイロニカルなコンヴィヴィアリティ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "スポーツに内在する暴力性の社会的意味 : 指導者と選手のアイロニカルなコンヴィヴィアリティ"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

.人権の時代としての現代社会 人,モノ,資金,情報など,あらゆるものが地球規模で流動化するグロー バル市民社会において,もっとも尊重されなければならない普遍的価値が人 権であることは論を俟たないだろう。そして現代日本社会で人権教育を最前 線で担っているのは学校だ。教育基本法の前文で「個人の尊厳を重んじ,真 理と正義を希求し,公共の精神を尊び,豊かな人間性と創造性を備えた人間 の育成を期する」という理念を高らかに掲げ,それを実現するべく,授業や 部活動,あるいは生活指導や課外活動などあらゆる機会をとおして人権教育 をおこなっている。 そのような思想と実践が人びとに直接の身体的経験として共有されること で,私たちは学校に信頼を寄せることができる。と同時に,そのような社会 的かつ集合的な期待と願望によって,実際はそうではないと知りつつも,学 校は「人権の砦」だと眼差されるようになる。しかし皮肉なことに,だから こそ「人権の砦」で起こるいじめや体罰というような悪質な人権侵害は,驚 きを持って,大きな社会問題として議論の的となるのだ。 近年の日本の教育現場において,激烈な体罰とその後の不可解な展開に

スポーツに内在する暴力性の社会的意味

指導者と選手のアイロニカルなコンヴィヴィアリティ

キーワード:スポーツ,暴力,桜宮高校,コンヴィヴィアリティ

大 野 哲 也

(2)

よって,社会を震撼させた事件が 年に起こった。男子バスケットボー ル部の主将が顧問の暴力を受けて自殺した,いわゆる「桜宮高校事件」であ る。体罰の内容もさることながら,事件後の,自殺した生徒を非難しつつ顧 問を擁護する動きが驚きを持って社会的に注目されたのでいまだに記憶して いる人も多いことだろう。 人権意識が高まっている現代日本社会において,しかも学校教育法第 条で「校長及教員は,…(略)…体罰を加えることはできない」と明言され ているにもかかわらず,桜宮高校事件における,暴力を公認しようとする意 志の根元にはなにがあるのだろうか。しかもこれが「人権の砦」であるはず の教育現場でおこなわれていたことを思えば,この状況はまさに異常かつ奇 怪と言ってよい。 しかも,現在の学校教育のとくに運動部活動の現場では,桜宮高校事件が 大きな教訓になったはずなのに,いまだに体罰事件が後を絶たない。文部科 学省の調べによると, 年度に全国の小学校,中学校,義務教育学校, 高等学校,中等教育学校,特別支援学校で起こった体罰事案は 校, 件におよぶ(文部科学省 )。もちろんこの数字は,運動部活動に特化し たものではないが,この数字から運動部活動でも相当数の暴力事案が起こっ ていることは容易に想像がつく。暴力を伴った指導がいけないことだとわ かっているにもかかわらず,それでもなお,それをやめることができないの はなぜなのだろうか。 本論では,人権こそが現代世界において至上の価値を持つということが人 びとに共有されており,しかもその普遍的価値を支える最重要機関であるは ずの学校という場において起こった,この悲劇的な事件を分析の俎上にのせ ながら,スポーツに内在する暴力性について考察してみたい。

.桜宮高校事件の概要

年 月,大阪市立桜宮高校の男子バスケット部主将(当時 歳) 2 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(3)

が自ら命を絶った。毎日のように繰り返される顧問からの執拗にして陰湿, そして激烈な体罰によって精神的に追い詰められた末の自死だった。 桜宮高校男子バスケットボール部は公立校としては傑出した力量を誇って いた。全国大会の常連校であり続けたのは当該校に 年にわたり在籍する 顧問の力によるところが大きかった。ただし,彼の指導法は体罰による選手 の「調教」を思想信条としていた。 公立学校の場合,一般的には新陳代謝のために教員はある程度の年限で他 校に移動していくことが通例で,顧問のような長期間の在籍は相当イレギュ ラーだ。レア・ケースをもたらしたのは,ひとえに顧問の実績にほかならな い。 だが桜宮高校の場合は,学校の特色としてスポーツに力を入れていたの で,男子バスケットボール部をはじめとして,勤続年数が長い運動部活動の 顧問が何名か在籍していた。そして彼らは指導方法として「体罰」を共有し ていた。 主将が受けた暴力はどのようなものであったか。その一端として,自殺す る前日に撮られた映像が残っている。これは練習試合をデータとして記録す るために撮られたものだが,そこに生々しい凄惨な暴力も記録されていた。 試合中,主将を呼びつけた顧問は突然左右のビンタを見舞いはじめた。あ まりの威力に後退りして試合中のコートに入ってしまった主将を追って,顧 問自らもコートの中に入り執拗に左右の手を力一杯振り続けた。コートでは 両チームの選手が一つのボールを追って行き来しているにもかかわらず,あ たかもそこだけが治外法権であるかのようにプレーヤーが近づくことはな かった。それを幸いとして,顧問は平然とコートを横切りながら主将を追い 続け,最後には体育館の壁にまで追い込み,動きが取れなくなった主将に心 置きなくビンタをふるった。 主将は帰宅後,母親に「 発か 発くらい叩かれた」と言ったという (島沢 : ­ )。 スポーツに内在する暴力性の社会的意味 3

(4)

これが,顧問が長年続けてきたいつものやり方であり,主将の日常だっ た。 じつは自死の 日前に主将は顧問宛に手紙を書いていた。結局,それは顧 問に渡されることはなかったが,そこには以下のようなくだりがあった。 なのに,なぜ,翌日に僕だけがあんなにシバき回されなければならないの ですか?一生懸命やったのに納得いかないです。理不尽だと思います。 僕は,今正直,何やっても無駄だと思います。キャプテンをしばけばなん とかなると思っているのですか?毎日のように言われ続けて,僕は本当に 訳が分からないとしか思っていません。(島沢 : ­ ) 結局,顧問は懲戒免職になったばかりか刑事裁判では「懲役 年,執行猶 予 年」の有罪判決を受け,民事裁判では 万円にのぼる損害賠償・慰 謝料の支払いを命じられた。顧問の悪行は,こうして断罪されることになっ たのだが,奇怪なのは,事件発生直後からはじまった周囲の異常ともいえる 反応と対応である。 四十九日の法要に出席した生徒の中に,焼香をしながら笑い出した者がい た。また玄関先では談笑している生徒もいたという(島沢 : ­ )。 つまり「同じ釜の飯を食った仲間」の中には主将を失ったことに対する喪失 感もなければ,悲しみもない,そして顧問に対する怒りさえもないという者 が複数人いたのだ。 そればかりではない。 じつに 人にもおよぶ人たち,多くは保護者だったようだが,顧問に 対して寛大な処分(つまり免職処分を科さないでほしいということ)を求め る嘆願書を大阪市教育委員会に提出したのである。もちろんこの行為の背後 には指導者のバスケットボール部への復帰願望がある。 また,事件直後の謹慎処分を受けている最中に,顧問が他の学校に赴いて 4 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(5)

バスケットボールなどのスポーツ指導をおこなっていたことも発覚する。他 校の運動部活動の指導者が,顧問の境遇を慮って出前指導を要請していたの だ。 さらには,桜宮高校自体も校長をはじめ,当初は顧問をかばう姿勢を強く 打ち出していた。 こうした,ことの重大性をまったく認識しない空気が充満していたからだ ろう,顧問自身も罪悪感や贖罪の気持ちなどは微塵も抱いていなかった。な んと 年の年明け早々に,遺族に対して「職場復帰を許してくれないか」 と要請するのである。 高校を管轄する大阪市の態度も慇懃無礼そのものだった。社会的に注目を 浴びていた裁判前には猛省した態度で内容についてはいっさい争わない姿勢 を見せていたのだが,いざ裁判が始まると争う姿勢に転じて,「親にも被害 生徒に対して過大な期待をするなどの責任があった」と主張して,その責任 を保護者に転嫁しようとしたのである。 つまり,顧問自身も,学校も,教育委員会も,大阪市も,多くの生徒と保 護者も,さらには他校のバスケットボール関係者も,顧問に責任があるとは 考えていなかったのである。この事件は精神的に弱い主将が自ら引き起こし たもので,その責は主将と保護者にあるとさえ思っていた。こうした認識が 共有された空間においては,顧問はとばっちりを受けた被害者でさえあっ た。

.全国大学体育連合の緊急アンケートを読む

桜宮高校事件を重くみた文部科学省は 年 月に「運動部活動の在り 方に関する調査研究報告書 ∼一人一人の生徒が輝く運動部活動を目指して ∼」をまとめて公表した。報告書は「運動部活動の場において,毎年,指導 者による体罰の事案が報告され,平成 年 月には,顧問の教員の体罰を 背景として高校生が自ら命を絶つとの痛ましい事案が発生しました。学校教 スポーツに内在する暴力性の社会的意味 5

(6)

育における体罰は,従来より学校教育法で禁止されている決して許されない 行為であり,文部科学省からは,上記の事案の発生を受け,改めて体罰禁止 の徹底,懲戒と体罰の区別等についての通知が発出されています」(文部科 学省 : )と明記して,学校現場における暴力を厳しく戒めた。 この報告書を受けて,公益社団法人全国大学体育連合は 年 月 日 から 月 日の期間に,首都圏の 大学,東海地方の 大学,近畿地方の 大学・ 短期大学,九州地方の 大学・ 短期大学の協力を得て,男子 名,女子 名,性別無回答 名の計 名の学生にアンケート調 査をおこないデータを収集した。そして 年 月に,得られたデータを まとめて「運動部活動等における体罰・暴力に関する調査報告書」と題して 公表した(公益社団法人全国大学体育連合 )。 この調査結果は本論を進めるにあたり非常に重要であるので,以下では データのいくつかを詳細にみていきたい。それによって,スポーツの現場で 指導者が振るう暴力がいかに根深いものであるかが浮き彫りになるだろう。 調査に協力した 名の大学生のうち,運動部活動経験者は 名で, そのうち .% の者が過去の部活動において「体罰経験がある」と回答し ている。 体罰を受けたのは,小学校期 .%,中学校期 .%,高校期 .%, 大学期 .% だった。 体罰の頻度は,「ほぼ毎日」 .%,「週に ∼ 回」 .%,「月に 回く らい」 .%,「数か月に 回くらい」 .%,「その他」 .% だった。 回 に お こ な わ れ る 体 罰・暴 力 の 回 数 は,「 回」 .%,「 ∼ 回」 .%,「 ∼ 回」 .%,「 回以上」 .%,「その他」 .% だった。 体罰に至った経緯は,「その他」 .% を除き,上位から「ミスをした場 合」 .%,「試合やプレーの成績や内容」 .%,「自分が悪い」 .%, 「理不尽な理由」 .%,「無気力なプレーをした場合」 .% などが続く。 興味深いのは「体罰を受けたその後どうなったか」という質問に対する回 6 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(7)

運動部活動経験あり 運動部活動経験なし 危険な行為をした場合 .% .% 礼節が守れない場合 .% .% 日常生活で不適切行為があった場合 .% .% チームの規律を乱した場合 .% .% 無気力なプレーをした場合 .% .% 練習などで指導者の言うことを聞かな かった場合 .% .% 練習や試合に遅刻した場合 .% .% 練習や試合に欠席した場合 .% .% 遅刻や欠席の理由が不可避でない場合 .% .% ミスをした場合 .% .% ミスを繰り返した場合 .% .% 同じミスを繰り返した場合 .% .% 試合に負けた場合 .% .% プレーが上達しない場合 .% .% その他 .% .% 表 「指導上体罰・暴力が必要なのはどんな場面だと思いますか?」という質問に対する回答(複数 回答可) 公益社団法人全国大学体育連合( : )から筆者作成。 答 で あ る(複 数 回 答 可/n= )。驚 く こ と に「精 神 的 に 強 く な っ た」 .%,「技術が向上した」 .%,「指導者の気持ちがわかった」 .%, 「試合に勝てるようになった」 .% と,じつに多くの者が暴力を肯定的に 捉えている) 「体罰経験有無別の分析」という項目も興味深い。体罰経験が「ある」と 答えた 名のうち .% が,そして体罰経験が「ない」と答えた 名 のうち .% が,「体罰は必要」だと答えている。 彼らはどのような場面で体罰が必要だと考えているのだろうか。それを 探ったのが次の質問である。 )そのほかの回答は,「プレーが萎縮した」 .%,「体罰・暴力を受けることが不 安になった」 .%,「反抗心を持った」 .%,「その他」 .% となっている。 スポーツに内在する暴力性の社会的意味 7

(8)

桜宮高校事件の悲惨さが社会に伝えられている最中におこなわれた調査に おいても,これほど多くの者──当事者といってもよい──が,自分自身に 降りかかるかもしれない暴力を肯定的に捉えているのだ。 だが,このデータを筋道を立てて読み解けば,彼らの暴力に対する考え方 には合理性があることに気づく。すなわち指導者が暴力を振るうのは,「日 常生活で不適切行為があった場合」「礼節が守れない場合」など,自分自身 に非があるからだ。だから鉄拳制裁を受けるのも止むを得ない。しかし顧問 の暴力によって自分は「精神的に強くなった」り「技術が向上した」りす る。暴力を受けることで自分自身が成長できるのだから「体罰もアリ」とい うことになる。顧問が振るう暴力は人権を侵害する行為ではなく,自分自身 を成長させてくれる「愛の鞭」として読み替えられ,公認されているのである。

.指導者のタイプと指導の本質

桜宮高校事件後,運動部活動の顧問の指導方法はどのように変わったのだ ろうか。以下では,スポーツの指導者を つのタイプに分類したうえで考察 していこう。ただし,この分類はあくまで理念型であり「すべての指導者が 掲げるタイプのどれかに必ず当てはまる」という意味ではないことをあらか じめ断っておく。 .暴力タイプ このタイプは,まさに桜宮高校の男子バスケットボール部顧問を典型とし ている。監督と選手という「支配─服従」という権力関係を利用して,直接 的な身体への暴力によって選手を支配するタイプだ) 。桜宮高校事件の顧問 )桜宮高校事件後に,全国の中学と高校の部活動指導者を集めて開かれた「平成 年度運動部活動指導者研修会」では,NHKのインタビューに答えて,運動部 活動の顧問が「どこからどこまで体罰を容認するか」「体罰が必要なんだという 声がまだ根強く残っている」と,堂々と発言していた。体罰信仰は相当根強いこ とがここからわかる(NHK )。 8 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(9)

は「叩かれてやるのは動物園やサーカスで調教されとる動物といっしょ や!」と罵りながら選手を叩いていたので,本人には「動物と同じように調 教する」という指導法に強い信念があったのだろう) 。 .暴言タイプ 桜宮高校事件を契機として増加したと言われている。直接的な身体的暴力 を振るうことができなくなったので,「死ね」「バカ」「存在価値がない」な どの暴言を吐いたり,ミスをした選手に土下座をさせたり,長時間走り込み をさせたりする(NHK )。こういう行為は社会的にはまぎれもなく暴 力そのものだが,学校の部活動では「暴力ではない」と認識している指導者 がいる。 .テクニカルな事柄に特化して指導するタイプ 部活動では生活態度や学習面など,生活全般まで支配しようとする顧問も 多い(たとえば桜宮高校事件の顧問は,日常,ポケットに手を入れて歩くこ とさえも禁止していた。守れない選手がいると彼の代わりに主将を厳しく叱 責していた)。だが生活面にまで指導の範囲を広げると膨大な時間と労力を 費やすので,それを嫌い,顧問自身がその競技をしていたという経験を生か して,可能な限り競技の技術面に特化して指導するタイプが現れてきた。指 導範囲を競技の技術面に可能な限り限定する(それ以外の生活面などについ てはできる限り目を瞑る)ことで選手と良い関係性が構築できると考える者 も多い。 )事件後,教育委員会の調査で顧問は「強いチームにするために体罰は必要だと 思っていた」と答えた。またあるOBは,「実際にたたかれて発奮して活躍する選 手もいたし,自分もそうでした。この人についていけば全国大会に出られるとい うのがあったので,その時たたかれても体罰だと思ったことはなかった」と語っ ている。 スポーツに内在する暴力性の社会的意味 9

(10)

.褒めて伸ばすタイプ 暴力によって選手を支配するという指導方法のアンチとして,以前から少 数ではあるが一定程度の支持者が存在していた。選手の欠点を指摘すること よりも,良いところを見つけてそこを褒めることで選手の能力を伸ばそうと するタイプだ。生徒と良好な関係を築けることが多い。 .自己肯定感を高める指導をするタイプ 暴言タイプと同様,桜宮高校事件を契機として急増した指導法。「ただ褒 めているだけでは選手は伸びない。伸びるか伸びないかは本人が自己肯定感 を持てるか持てないかで決まる」という考えをベースにして指導に取り組む タイプ。現在,教育現場ではこの「自己肯定感」がキーワードになってお り,指導法のメインストリームとなっている。 .選手の自主性に任せるタイプ 顧問が手取り足取り細部にまで口出しをする指導方法に疑問を感じ,選手 たちの自主性を尊重しながら部を運営していこうとするタイプ。部活動は生 徒個々人の主体性を伸ばす場でもあるので,そこに重きを置いている。た 図 朝日新聞における「褒めて伸ばす」と「自己肯定感」という語句を含む記事数の年次変化 両語句とも 年以前は,記事数は である。 年の年末に起こった桜宮高校事件をきっかけに して 年に両語句の記事数が増加していることは注目に値する。朝日新聞のデータベース「聞 蔵」をもとに筆者作成。 10 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(11)

だ,選手たちの自主性だけでは部は強くはならないので,勝利に対しては強 いこだわりを持っていない場合が多い。 .ポリシーをもって指導をしないタイプ 時間外労働が「当たり前」であり,肉体的にも精神的にも苦痛と困難を伴 う部活動を教員が担当するという制度自体に反対しており,「指導はしない」 という考えを貫いているタイプ。部の顧問という書類上の肩書は引き受けて いたとしても,部活動に対しては「そもそも論」で強固に反対している。教 員が指導することに反対しているので,実際の部の活動内容はもちろん,試 合の勝敗にも,思うところはあるにせよ,口出しを控えている。 .部活動に関心がないので放任しているタイプ とは違い,部活動に興味関心がなく,部の運営に極力かかわらないよう にしているタイプ。仕方なく顧問を引き受けているだけなので,部活動に顔 を出すこともなく,可能な限り放置を決め込んでいる。ただし,教員である 以上,無関心であることを公にするわけにはいかないので,対外的には や のタイプを装っている。 便宜上 つに分類したが,これらのタイプにはある共通した価値観が内蔵 されている。それは,どの指導者もなんらかの「ゴール」──「部を強くし たい」「優勝したい」「人間性を高めたい」「教員が部活動指導をするという 制度を廃止したい」──をあらかじめ設定しているというメンタリティであ る。 つまり指導者が,「いま・ここ」の地点から,指導の先にある彼/彼女なり のゴールを見据えているのならば,それぞれのゴールは違えども,そこへ歩 んでいくという行為そのものは軌を一にしているということだ。ゴール自体 と,そこまでの手段が違うだけで,「ゴールへ向かう」というメンタリティ スポーツに内在する暴力性の社会的意味 11

(12)

は共通・共有しているのである。 このアイロニカルな帰結は,現代日本社会の価値観ともみごとに一致して いる。それは「試験に合格するために努力する」「目指す職業に就くために 勉強する」というような,ゴールに向かって進んでいく生き方をよしとする 価値観だ。この価値観を善とする社会であるからこそ,教育という制度の中 でその価値観が反復され,生徒に刷り込みがおこなわれているのだ。この価 値観が生徒たちへの指導・教育をとおして日々再生産されているといってよ い。社会の価値観を教育する場が学校である限り,社会の縮図として学校は 機能し続けるのである。 ではなぜ,価値観の共有が部活動で成立するのだろうか。その理由の一つ は松田素二が指摘する「コンヴィヴィアリティ」(松田 : )にあるの だろう。松田は「アフリカ社会には,自らを「不完全なもの」としてとら え,同じような「不完全なもの」である他者と排斥しあうことなく相互に依 存しあって共生的秩序を創造する力を秘めている」(松田 : )と述 べ,そこに「異種結節装置」(ニャムンジョ : ­ )としてのコン ヴィヴィアリティが生起する契機があると主張する。 松田のコンヴィヴィアリティ論を前提とすれば,本論で取りあげている桜 宮高校事件は,異なった位相がみえてくる。それはつまり不完全なもの同士 であるがゆえの,アイロニカルな結節である。 部活動の指導者は出場するすべての大会でチームを優勝に導けるわけでは ない。もしも,あらゆる大会に毎回優勝するチームがあったとしたら,その チームは「完全」な存在であろう。そしてそのチームを率いる指導者は「完 全」な指導者であるだろう。逆にいえば,参加した大会で優勝できなかった チームは,そのチームが不完全であった証なのである。何かの欠点や弱点が あったからこそ,優勝できなかったのだから。ひいては,そのようなチーム しかつくることができなかった指導者は,彼/彼女の指導力が「不完全」で あることをも意味する。 12 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(13)

同様に,選手は常に不完全な存在だ。もしも完全無欠な選手がいたとした ら,その選手は上達を目指して練習する必要はもうない。不完全な存在とし ての自己を自覚しているからこそ「完全なプレーヤー」を目指して日々の練 習に取り組むことができるのだ。 桜宮高校事件は悲劇であったが,その悲劇をもたらしたメカニズムの一つ は,「不完全なものが相互に依存しあう」ことによってコンヴィヴィアルな 状況が生じたことにある。 顧問は選手を叩くという行為によって,図らずも自らが不完全な存在であ ることを自白していた。一方,主将は真面目であるがゆえに強い向上心を 持っていたからこそ,すなわち自己の不完全性を謙虚に自覚していたからこ そ,顧問の暴力を甘んじて受け続けた。主将の自死は,このコンヴィヴィア ルな結節が臨界点に達したことで生じたのだ。

.部活動の功罪

運動部活動が置かれている現在の状況にはさらなる問題点がある。それは ゴールに向かって進んでいくことをよしとする価値観がもたらす問題だ。 顧問にすれば,チームを強くすることで自尊感情が高まる。桜宮高校事件 の場合,顧問はその実績を買われて 年度には 歳以下の男子日本代表 チームのアシスタントコーチに選ばれている。 また,顧問は大阪市教育委員会の「同一校勤務は 年」というルールを 大きく逸脱する異例の措置で桜宮高校に 年間勤務していた。カリスマ化 した顧問は同校で「絶対的存在」だった(朝日新聞 年 月 日)。 こうしたスポーツにおける指導者の卓越化(顧問にとっては一つの「ゴー ル」)は,指導者にとっては麻薬的な快感であるだろう。 選手にしてみれば,桜宮高校事件の被害者もその一人であるが,高校での スポーツの成績によって大学への進学の可能性が広がっていくということが ある。典型的なのは,大学における「スポーツ推薦」制度だ。また日本を代 スポーツに内在する暴力性の社会的意味 13

(14)

表するような選手であれば特待制度もある。スポーツが人生の可能性を広げ ていくという状況(=前に進んでいける可能性)が,選手に体罰を容認させ る一因になっている。 保護者にとっても我が子の活躍は,保護者の自尊感情を高めることになる だろう。さらには我が子の進学にとって好材料になるとすれば,体罰は暴力 ではなく「愛の鞭」に変換されることとなるだろう。 学校にすれば,学校の社会的評価を高めることに直結している。学校の正 門前や校舎によく掲げられている「祝 ⃝⃝部,全国大会出場」というよう な垂れ幕は,そのようなメンタリティをよく表している。 さらに地域社会にとっては,我が町の誇りにほかならない。甲子園で優勝 したチームが地元に帰って優勝パレードをして地域住民から大歓声を浴びた というニュースは,春と夏の風物詩でさえある。 加えて,体罰がのちに「精神的に強くなった」「技術が向上した」という ようにプラス効果をもたらすならば,たとえ人権教育の最前線という学校と いう場で起こる人権侵害の際たる「暴力」であっても,それを止める理由 は,もはやない。 桜宮高校でも事件が起こる前,全国大会の壮行会では保護者が入れ替わり 校長を訪れ,「顧問にはよく指導して頂き,子どもの成長を喜んでいます」 と頭を下げていたという(朝日新聞 年 月 日)。またあるOBは,当 時は「何でやねん,くそー」と思ったが,「 発たたかれた。でも,気持ち 伝わる指導だと」(朝日新聞 年 月 日)と過ぎた日を美化しつつ顧 問を擁護している。このような発言は,「⃝⃝があったからこそ,今の自分 がある」というような,典型的な記憶の浄化作用のなせる技だろう。そして これはゴールに向かって進んでいくことをよしとする価値観を肯定する心性 そのものにほかならない。 スポーツにおける体罰指導に,こうしたプラスのフィードバックがある限 り,暴力的な指導がなくなることはない。逆に言えば,このような回路を取 14 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(15)

り除いた先に,新しいスポーツ指導のあり方が浮かび上がってくることだろ う。

.二重のアイロニー

ノベルト・エリアスが指摘しているように,人間が持つ他者に対する暴力 性を,人間は文明化の過程でスポーツを使って飼い慣らして/飼い慣らされ てきた(エリアス )。他者に対する暴力は,ボクシングやレスリングな どの格闘技系のスポーツはもちろんのこと,野球における「攻撃」という タームや,バスケットボールにおける「ディフェンス」と「オフェンス」と いうワード,あるいはゲーム(狩猟)など,スポーツ全般に,変形させて浸 潤しつつルールに落とし込むことで公認されている。 ルールから逸脱した他者に対する暴力にはペナルティが課せられるが,そ れがルールに則った暴力であるならば正当化される。つまりスポーツは, ルールに則った,他者に対する攻撃であり暴力なのだ。 そのようなスポーツにおける暴力性を前提とするならば,桜宮高校事件の 顧問が振るった暴力には,もう一つの可能性が浮かび上がる。以下ではそれ を考察していこう。 顧問は,同僚の誰よりも長く桜宮高校で教壇に立ち,カリスマとさえ呼ば れるようになっていた。たとえ校長であろうとも,顧問に口出すことは憚ら れる雰囲気がその間にいつしか醸成されていた。 そして顧問は男子バスケットボール部を全国区に育て上げ,自身も全日本 のコーチを務めるほどに知名度を上げた。保護者からは絶大な支持を受け, 顧問の元で育った選手たちからは顧問から受けた暴力に感謝されるようにな るまでになっていた。選手の中にはバスケットボールの成績や実績を社会資 本として大学進学や就職活動に活用した者もいた。 もちろん,地域社会からは地域の誇りとしてもてはやされた。 このような状況を踏まえると,欲望と快感をめぐる転倒したメンタリティ スポーツに内在する暴力性の社会的意味 15

(16)

が浮かび上がる。すなわち,顧問自身は,自分が振るう暴力は社会的に公認 されていると思っていたのではないか。そして顧問は,公認されている暴力 を毎日ふるい続けた,という可能性だ。それは練習試合の最中に,ベンチに 引っ込めた主将を叩き続け,後退りした主将を追いかけ試合がおこなわれて いる真っ只中のコートに立ち入ってまで叩き続けたという顧問の行動からも 確認できる。 試合中に,出場選手以外の者がコートに入ることは許されていない。だ が,顧問は主将に暴力を振るうために躊躇することなく堂々とコートの中に 入り続けた。そして審判も,相手チームも,さらには観客も,それに対して クレームをつけることはなかった。審判も選手たちも,顧問と主将がコート に入ってきたことを知りながら,いったんボールデッドにするのではなく, そのまま試合を続けたのである。あの時,顧問の暴力は社会的にもスポーツ のルール的にも公認されていたのである。 大学生時代,バスケットボール部に入部していた顧問は,当時ならば練習 や試合で他者に対する暴力をルールに則りながら発揮できたことだろう。し かし指導者になった今は「他者に攻撃する」というカタルシスを味わうこと はできない。指導者となった顧問が暴力性を発揮できるのは,選手への体罰 しかなかったのだ。 ボクシングで対戦相手をノックアウトしたボクサーはリング上で狂喜乱舞 する。柔道で相手を投げ飛ばした選手は雄叫びを上げる。ラグビーで相手に 猛タックルを決めた選手はガッツポーツを決める。スポーツに内在する暴力 性はそれほど麻薬的な快感を当人に与えるのだ。このことは,オリンピック で相手を“打ち負かして”金メダルを獲得したアスリートが直後のインタ ビューで「チョー,キモチイイ!」と叫んだことでも理解できる。 すなわち顧問はあのとき,周囲の注目を感じながら,主将を叩くことで, 自分の振るう暴力が,改めて社会的に公認されたことに自己肯定感を抱きつ つ,他者に対する攻撃と叩いている自己に陶酔していたのではなかったのか。 16 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(17)

コンラート・ローレンツ( )やリチャード・ドーキンス( )が指 摘したように,他者に対する攻撃的な暴力性が人間を含むすべての動物の 「生」に深く埋め込まれているのだとしたら,私たちは,どこかで,誰かに 向かって,文明化された現代社会では禁じられている暴力性を,公認するか たち(=ルールに則ったかたち)で発散しなければならない。人権こそが最 も尊重されるべき価値である現代社会では他者に対する暴力性を直裁的に発 揮することは禁じられている。だが,最上級の禁止だからこそ,その禁断の 果実は甘く,それへの誘惑に抗うことは難しい。 この「公認された暴力」を発揮できる場を,顧問は指導者として日々を過 ごすプロセスでいつしか発見した。顧問は,厳禁されている暴力への押さえ 難い誘惑を,選手を相手に爆発させていたのだ。 つまり顧問は,「選手を上達させるため」「良いチームをつくるため」に叩 いたというよりは,叩くことが第一義だった。顧問は,自身の特権的な地位 を利用して,絶対反抗しない相手に対して暴力を振るうという快楽を貪っ た。さらに他者に対する暴力は,不完全な自分自身を救済する行為にもなっ ていた。 しかも自分の暴力的指導を 人におよぶ人たちが嘆願書という形で認 めてくれた。全日本のコーチにも抜擢された。桜宮高校では自分はカリスマ 化している。試合中に,暴力を振るうためにコートに入ることも許されてい る。「自分の行為は社会的に公認されている」と顧問は確信していたことだ ろう。 そして暴力の結果かどうかは不問にしながら,選手たちは上達し,チーム は強くなっていったのである。それを顧問は,ひとえに暴力的な指導の結果 だと自画自賛した。顧問は,いつしか目的と手段とその帰結が転倒していた のだ。 自死する 日前に主将が顧問に宛てた手紙に「僕は本当に訳が分からな い」と書かれてあったが,それも無理はない。主将は,顧問が自分に暴力をふ スポーツに内在する暴力性の社会的意味 17

(18)

るい続けた理由が,まさか快楽を得るためだとは思いもしなかったであろう。 もちろん私たちには,顧問の「本当」の気持ちはわからない。おそらく今 となっては顧問自身にもわからないだろう。しかし私たちはそう考えること によって,顧問がなぜ主将を自死に追い込むまで暴力をやめられなかった か,その異常な心理を納得することができる。 そしてそのような理解から,スポーツに内在する暴力性と,学校部活動に おける暴力的な指導を考察することによって,このアポリアの解決に向けた 第一歩を踏み出すことができるのである。 文献 ノベルト,エリアス, ,『文明化の過程 興奮の探求』法政大学出版局。 朝日新聞, 年 月 日, 月 日。 リチャード,ドーキンス, ,『利己的な遺伝子〈増補新装版〉』紀伊國屋書店。 公益社団法人全国大学体育連合, ,「運動部活動等における体罰・暴力に関する 調査報告書」。 コンラート,ローレンツ, ,『攻撃 悪の自然史』みすず書房。 松田素二, ,「序章「アフリカ潜在力」の社会・文化的特質」松田素二・平野 (野元)美佐編『アフリカ潜在力 紛争をおさめる文化 不完全性とブリコラー ジュの実践』京都大学学術出版会,pp.­ 。 文部科学省, ,「運動部活動の在り方に関する調査研究報告書 ∼一人一人の生 徒が輝く運動部活動を目指して∼」。 文部科学省HP, ,https://www.mext.go.jp/content/20191224-mxt_zaimu-000003245_ H 30_taibatsuzittai.pdf 年 月 日閲覧。 フランシス,ニャムンジョ, 「フロンティアとしてのアフリカ,異種結節装置と してのコンヴィヴィアリティ 不完全性の社会理論に向けて」(楠和樹・松田素二 訳,松田素二・平野(野元)美佐編, 『アフリカ潜在力 紛争をおさめる文 化 不完全性とブリコラージュの実践』京都大学学術出版会,pp. ­ )。 NHK, ,「体罰 なぜ繰り返されるのか」『クローズアップ現代』。 NHK, ,「「死 ね!バ カ!」こ れ が 指 導? ∼広 が る“ブ ラ ッ ク 部 活”∼」『ク ローズアップ現代』 18 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

(19)

大野哲也, ,『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』世界思想社。 島沢優子, ,『桜宮高校バスケット部体罰事件の真実 そして少年は死ぬことに決

めた』朝日新聞出版。

(20)

The most esteemed universal value in contemporary society is human rights. Today, the school functions as the front line of human rights education.

Nevertheless, at a school in Osaka in 2012, there was a case involving a violation of human rights that shook Japanese society, featuring intense violence and a mysterious development. The captain of high school boys basketball club killed himself after suffering violence from the coach.This case is called Sakuranomiya-koukou jiken (the Sakuranomiya High School incident).

Certainly, many people still remember the incident because the subsequent moves to blame the student and to protect the coach shocked and caught the attention of the public.

What is at the root of this willingness to authorize violence in the Sakuranomiya High School incident, despite the prohibition of corporal punishment clearly stated in the School Education Act, in a modern society where there is increasing awareness of human rights?

In this paper, I would like to examine the violence inherent in sports by subjecting this tragic event to close analysis.

Keywords : sports, violence, Sakuranomiya High School, conviviality

Social Meaning of the Violence Inherent in Sports:

Ironical Conviviality between the Coach and Players

OHNO Tetsuya 20 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号

参照

関連したドキュメント

Analogs of this theorem were proved by Roitberg for nonregular elliptic boundary- value problems and for general elliptic systems of differential equations, the mod- ified scale of

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A

Definition An embeddable tiled surface is a tiled surface which is actually achieved as the graph of singular leaves of some embedded orientable surface with closed braid

Our method of proof can also be used to recover the rational homotopy of L K(2) S 0 as well as the chromatic splitting conjecture at primes p > 3 [16]; we only need to use the

While conducting an experiment regarding fetal move- ments as a result of Pulsed Wave Doppler (PWD) ultrasound, [8] we encountered the severe artifacts in the acquired image2.

The important dynamical difference between the transient AIDS state in the acute infection stage and the chronic AIDS state that signals the end of the incubation period is the value

“Indian Camp” has been generally sought in the author’s experience in the Greco- Turkish War: Nick Adams, the implied author and the semi-autobiographical pro- tagonist of the series

[r]