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カントにおける自然概念の多義性

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カン トにおけ る自然概念の多義性

カン ト哲学に現れ る重要な概念は しば しば多義 的である。ひ と り自然概念 もその例外ではない。 しか もカン トの場合には或 る一つの概念は時には 他の概念 との比較 ・対照において現れ, 自然概念 に も同様 の事態がみ られ る。 このことは,三批判 書をは じめ とす る彼の著作を播けば,おのず と明 らかにな るであろ う。 カン トにおける自然概念が いかに多義的であるかを,われわれは以下の論述 において次第に明らかに したいと思 う。 自然をいかなるものと看 なすかは,観点の相違 に よって異 なって くる。「-- 自然概念 (た ん に 理論的認識に属す るところの)は,形而上学的に, 完全にア ・プ リオ リに思考可能であるか,あるい は物理学的に,言いか えれば,ア ・ボステ リオ リ に,また必然的に特定の経験によってのみ思考可 能であるかのいずれかである(1)。」つま り自然 とい う概念は metaphysischであるかphysischで あるかのいずれかである。 自然概念はア ・プ リオ リであるか,あるいはア ・ボステ リオ リであるか である。 physiscbeNaturは経験的特殊的法則に従 う 自然の謂である。 ところが, この経験的特殊的法 則は無限に多様であ り,われわれの洞察に とって は全 く偶然的である。それだからこそ,それはア ・プ リオ リに認識 されないのである。 しか し,こ の ような法則に従 う自然に関す る経験 も可能的経 験 の一つ の体系をなす ものである。 ここでい う自 然は時間 ・空間 とい う直観の形式に従 う。そ して カソ トに よれば,時間 ・空間における自然の統一 とわれまっれに可能な経験の統一 とは同 じものであ る(幻.経験的特殊的法則に従 う自然は特殊的 自然 である。特殊的 自然は普遍的 自然に包摂 され るも の と,われわれは考えなければならない。われわ れは 自然数の総てを挙げることはで きない。だが しか し,われわれは 自然数を完結 したdasgro8e Ganze として思惟す ることはできる。 このよ う な 自然数の概念は全 くア ・プ リオ リである。現代 の集合論において 自然数は一つの集合 と宕なされ るが,この集合はまさにア ・プ リオ リに思惟 され た ものである。 このよ うな 自然数の集合 との類比 において,われわれは普遍的 自然を思惟す ること がで きる。われわれは特殊的 自然の総てを尽す こ とはできないが,特殊的 自然の全体を包摂す るも のとして普遍的 自然を思惟す ることがで きる。 こ のよ うな普遍的 自然の概念は全 くア ・プ リオ リで ある。普遍的 自然は metaphysiscbeNaturで あ り,したが って形而上学 の対象であ る。形而上 学の対象 としての 自然はア ・プ 1)オ リな統一的全 体をなす ものである。 さて,形而上学の立場か らみた 自然は,有機体 に関 しては 目的体系 としての自然 と看 なされ る。 日的体系 としての自然は, 目的因に よって脈絡づ けられた,いわば完結 した統一的全体 としての自 然であるが,もとよ り目的田は今 日の 自然科学的 概念ではない。 日的因は自然を一つの統一的全体 として理解す るために想定 された統制的原理にす ぎない。現代の自然科学においては 自然に 目的因 を認める考 えは もはや妥当性を もたない。 自然は 自然科学的には専 らMechanismusの立場か ら 把捉 されなければならない。 自然 目的 とい う概念 はあ くまで も統制的原理である。 しか し,カン ト では 「-・・・自然 目的 とい うこの概念は 目的の規則 に したが う一つの体系 としての総体的 自然 とい う 理念へ と必然的にゆ きつ き, しか もこの理念に理 性の諸原理に したが う自然のすべての メカニズム 紘 (少な くともこの理念で 自然現象をため してみ

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るためには)従属 させ られなければならない(3)。」 目的論的な立場に立つ限 り, 自然は単に

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な もの として把捉 され る。 一 般 に 技 術

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が或 る目的を実現するために存在す る よ うに,自然を 目的論的に考 える限 り,それは技 術 ない し技巧

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の体系 と宕なされ るの である。『判断力批判』では しば しは このよ うに 考 えられている。 カン トでは 自然 の概念は更に自由の概念 との対 比において論 じられている。 この自然の概念に関 しては,ア ・プ リオ リな原理に従 う理論的認識が 可能なのである。『判断力批判』の示す とこ ろ に よれば,自由の概念が学の対象 としては,道徳哲 学 としての実践的部門を形成するのに対 し, 自然 の概念は学 の対象 としては, 自然哲学 としての理 論的部門を構成す る(4)。 自然の概念は 自由の 概 念 と並んで,極めて包括的な概念であ り,また同時 に これ ら二つの概念は カン ト哲学では相互に対極 をなす ものである。 「すべての事実は, 自然概念 に屈す るか,あるいは 自由概念に属す るかのいず れかであるが, 自然概念は,おのれ の実在性を, すべての自然概念に先立 って与 えられた (ない し は与えられ ることの可能な)感官の諸対象で証 明 し,自由概念は,おのれの実在性を,理性が道徳 的法則において不可抗的に要請す る理性の原田性 に よって,この原 因性に よって可能な感性界にお け る或 る種の諸結果に関 して十分に立証す る(5)。」 カン トに よれは, 自然概念が 自由概念に よる立法 に影響を及ぼす ことはな く,逆に 自由概念は 自然 概念の立法を妨害 しないのである(6)。 自然概念に ついてはその対象は直観において表象 され るが, この対象はあ くまで も現象である。物 自体 と現象 との間にはいわば一種の裂け 目がある.つま り超 感性的な もの としての自由の領域 と感性的なもの としての自然の領域 との問には間隙がある。 しか し, 自由の概念はおのれ の法則に よって課せ られ た 目的を叡知界において実現す るであろ うが,叡 知界は感性界に接続 した ものでなけれ ば な ら な い。けだ し人間は叡知的存在であると同時に感性 的存在である。 自然はこの ように さまざまな観点か ら考察 され る。すなわち,それは或 るときには経験的な立場 か ら,また或 るときにはア ・プ リオ リな立場か ら 考察 され る。それはまた 目的論的に考察 され,自 由との対比において論 じられ る。 し か し, 自然 の考察は これで尽 きるものではない。 カン トでは

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はまさに 「自然」を意味す るが,更に 「本 性」を意味す る場合 もある。『純粋理性 批 判』で は,このよ うな 「本性」を意味す る

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が し ば しは現れ る(7).また

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は 「自然」を意味 す ると同時に 「本性」を意味す る場合 もある。

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が まさしく 「自然」を意味す る場 合 に ち,極めて一般的に法則 との関連において論 じら れ る場合 と,個別的ない し特殊な意味において現 れて くる場合 とがある。以下でわれわれは順を追 って これ らについて論 じたい。 カン ト哲学では 自然概念は極めて一般的 ・包括 的な意味 と特殊 な意味 とにおいて現れ る。われわ れは先ず一般的な意味における自然について論ず ることに しよう。 カン トに よれば 「自然 とは,普 遍的法則に したが って規定 されている か ぎ りで の,物 の現存在である(8)。」おそらくこれが 自然の 最 も一般的な定義であ るであろ う。 ここでい う普 遍的法則 とは悟性法則のことである。 したが って 一般的な意味における自然,ない し自然一般は, 『純粋理性批判』の内容に即 していえば,悟性の 支配す る世界 とみて よいであろ う。 カン トは悟性 界を原型的 自然

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と称す る。 これに対 して感性界は意志の規定根拠 としての原 型的 自然 とい う理念の可能的結果を含む とい う理 由からして,模造 された 自然

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と呼ばれ る(9)。 いずれにせ よ, 自然 と普遍的法則 とは不可分 の関係にあ る。 このことは, カソ トの 先験的哲学におけ る認識の先験的構成主義か らす れば,けだ し当然のことであろ う。 ところで,カン トは感性界 とか悟性界 とか とい う概念を しば しば 口にす るが,世界 と自然 とは全 く別のものであろ うか。あるいは同一物をその見 方に よって或 るときには世界 と呼び,また或 ると きには 自然 と称す るのであろ うか。両者には共通 点が存在す るのであろ うか。 これ らの点について カン トは次の ように述べている。「私た ち は,世 界 と自然 とい う二つの表現を もってい るが,両者 は ときとして混同されている。世界は,すべての 現象の数学的全体 とすべての現象の綜合の総体性

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2-とを意味す るが,大規模に も小規模に も,言いか えれば, この綜合が合成に よって進められ る場合 に も,分割に よって進められ る場合に も,そ うで ある。 しか し,まさに この同 じ世界が 自然 と呼ば れ るのは,世界が一つの力学的 (〔全体〕) とし て 考察 され るかぎ りにおいてであ り,だか ら,空間 ない しは時間における集合が注 目され,か くして 世界が量 として成立す るか ぎ りにおい て で は な く,諸現象の現存在におけ る統一が注 目され るか ぎ りにおいてであ

Q。」自然は単なる量的集合で はな く,統一的全体をなす ものと考 え ら れ る。 このよ うな統一的全体を対象 とす る学 が 自然 学

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である。 カン トに よれば 「内 的 連結を対象 とす る自然学は,全 自然の自然学,言 いかえれば,超越論的世界認識であ り,外的連結 を対象 とす る自然学は,全 自然 と自然を越 えた或 る存在 との脈絡の 自然学,言いかえれば,超越論 的神認識 である8D。」結局,自然 と世界は別個の も のではな く,考察す る立場 の相違に よって,同一 の ものが或 るときには 自然 と称 され,また或 ると きには世界 と称 され るのである。 自然に関す るカソ トの考察は更に具体的にな さ れ る。われわれは次に この点について論 じなけれ ばならない。 カン トは 『プロレゴーメナ』で,「いかに し て 自然その ものは可能であるか?09」 とい う問いを 提出 し,「この問題は,超越論的哲学がお よ そ 触 れ ることのできる,また,超越論的哲学がその限 界お よび完成 としてそれに導かれなけ れ ば な ら め,最高 の点であるが,それは元来,二つの問題 を含んでいる的。」と述べてい る。彼の言葉を要約 す るならば,質-の問題は 「いかに して 自然は実 質的意味 において可能であるか細」 とい うことで あ り,第二 の問題は 「いかに して 自然は形式的意 味において可能であるか咽」 とい うことである。 この よ うにカン トでは自然は実質的意味におけ る自然 と形式的意味における自然 とに分けて考察 され る。 このよ うな考察の仕方はおそらくカン ト 自身の独創に よるものではないであろ う。彼はア リス トテ レスの自然学

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a) か らこの考察 方法を学 んだ ものと思われ る。夙にア リス トテ レ スは 自然 に質料 と形相の二義を認 め,質 料 と し ての自然 と形相 としての自然について 論 じ て い る的O ァ リス トテ t/スに よれば,質料 としての 自 然は実在 としての 自然である。 カン トは先験的観 念論の立場か らア リス トテ レスの考 えを更に彫琢 錬磨 して体系化 した ものと思われ る。 もとよりこ のことはカン ト哲学の学問的価値をい ささかな り とも低下せ しむ るものではない。哲学,いな広 く 一般に学問は過去 の蓄積の上に,それを程 として 構築 され るものである。 われわれは先ず形式的意味におけ る自然につい て論ず ることにす る。 カン トはこの 自然を 『純粋 理性批判』では

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的と 表現 し七い る。「自然は,形容詞的に (形式的に) 解 され るときには,原田性 とい う一つの内的原理 に したが う或 る物 の諸規定の脈絡を意味す る晒。」 このよ うな 自然は物の合法的結合を意味す る。形 式的意味における自然は, 自然を専 ら法則の立場 か らみた ものであ る.「もしも自然 とい う言 葉 が 単に姦真由意義 〔謂 長い〕に解 されて,或 る物の現 存在に属 しているすべてのものの第一義的な内的 原理を意味す るとすれば,種 々の物はその種類を 異にす るにつれて,それぞれそれの現存在に属 し ている諸規定の独 自な内的原理を含 んでい るはず であるか ら,それ ら種 々の物 の存在す ると同じだ け多 くの自然科学が存在 し うることになろ う09。」 とカン トは述べてい るが,確かにカン ト自身 も論 ず るように さまざまな 自然科学が存在す る。 ところで,形式的意味におけ る自然は 自然法則 の立場か らみた 自然のことであるが, 自然を認識 す る場合に,認識主観 自身が,更に具体的には悟 性が 自然に関 してその立法者である。それ故に認 識主観を離れて,形式的意味におけ る自然を論ず ることは不可能である。形式的意味におけ る自然 は悟性 と不可分の関係にあ る。悟性はい うまで も な く認識能力であ る

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コ-エソに よれば,認識 とは経験

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のことであるか ら,結 局,自然の可能性を論ず ることは経験の可能性を 論ず ることにつなが る。 自然の可能性の制約は同 時に経験の可能性の制約である。 カン トは 自然 と い う語で物一般 の現存在 の合法性のみ を 表 す 場 令,この自然を狭義の自然 と解 してい る。そして 「--・この狭義におけ る自然の形式 の面は,経験 のすべての対象の合法性であ り,そ して,この合 法性が ア ・プ リオ リに認識 され るか ぎ りでは,経

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験の対象の必然的合法性である餌.」 すでに述べた ごとく形式的意味における自然は 法則の立場か らみた 自然であ り,この法則はまさ に悟性の一般的法則である。それ故にこのような 自然はいわゆる個別的 自然科学の対象ではない。 形式のみで,内容なき自然は現実には 存 在 し な い。形式的意味における自然は,自然の内容が一 応捨象 されて,形式の面か らのみ考察 された 自然 であ り, したが って方法論的に定立 された自然で ある。 このような自然は抽象的 自然である。概念 と直観に関 して,カン トが 「内容を欠 く思想は空 虚であ り,概念を欠 く直観は盲 目である郎o」とい ったが,実在す る自然は,概念のみならず直観に もかかわ るO直観にかかわ る自然がまさに実質的 意味における自然である。 形式的意味における自然が先験的論理学の対象 であるのに対 し,実質的意味における自然は先晩 的感性論の対象である。それではカン トにあって は実質的意味における自然は,具体的にはいかな るものであろ うか。『プロレゴーメナ』では 自然 とい う概念は認識の対象の規定にかかわ る意味を もっている.「・・・・・・自然は,実質の面か ら

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みれば,経験のすべての対象の総括であ る的。」実質的意味における自然は結合せ る対象の 総体をさす ものである。 カシ トは形式的意味にお ける自然 と実質的意味における自然 とを比較 ・対 照 して,次のよ うに述べている。「自然 は,形 容 詞的に (形式的に)解 され るときには,原田性 と い う一つの内的原理に したが う或 る物の諸規定の 脈絡を意味す る。 これに反 して自然が 名 詞 的 に (実質的に)解 され るときには,諸現象が原田性 とい う一つの内的原理によってあまね く脈絡づけ られているかぎ り,それ らの諸現象の総括を意味 す る。第一の意味において人は,液体の自然,火 の自然その他について語 り,だから自然 とい うこ の語を形容詞的に使用す る。 これに反 して人が 自 然の諸物について語 るときには,人は或 る存立 し ている全体を念頭に置いているのである的O」液体 の自然 とか火の自然 とか とい う場合に,自然は本 性をも意味す る。先にわれわれはNaturに本性 の意味があることを指摘 したが,本性にも二つの 場合がある。すなわちその第一は端的に本性を意 味す る場合であ り,第二は,上述の例のごとく, 形式的意味における自然が同時にその本性を意味 す る場合である。 さて,カテ ゴリーは本来,現象に適用 されての み客観的妥当性を有す るものであ り,物 自体に適 用 されてはならない。 カテゴリーを物 自体に放て 適用すれば,それは超験的 (transzendent)に ならざるを得ない。それ故にカテ ゴリーと実質的 意味における自然 とは不可分の関係に あ る。「カ テ ゴリーは,諸現象に, したがってす べ て の 現 象の総括 としての自然 (実質からみ ら れ た 自然

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に,諸法則をア ・プ リオ リに指定す る概念である-

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朗。」 以上のことか らすれば,実質的意味における自 然は,節-にわれわれに与えられ る諸々の対象を 意味することになる.つま り実質的意味における 自然は,感性的直観の対象 と宕なされ得 る限 りに おける一切の事物の総体であ り,結局,感性界を さす ことになる。実質的意味における自然を,カ ン トはその他さまざまな言葉で表現 している。例 えば 「諸現象の総括 としての自然的

「感官のすべ ての対象の総括 としての自然軸」 な どを,その典 型 として挙げることができる。 ところで,実質的意味における自然はわれわれ の認識能力に応 じて更に二分 され る。す な わ ち 「この自然には二通 りあって,それは,思考す る 自然であるか,あるいは物体的 自然であるかのい ずれかである的。」思考す る自然 とは,内官の対象 であ り,精神的 自然である。物体的 自然 とは外官 の対象であ り,広が りをもった自然である。およ そ学の対象にな りうる,思考す る精神 的 自然 と は,人間の一面をさす ものであろ う。人間を自然 として把捉することは,理論理性の立場からのみ 許 され る。実践理性の立場か らは,人間は自由の 主体 として考察され る。 しか し,人間は単なる精 神的存在ではない。身体を無祝 して精神は考えら れない。人間が精神的存在であ りながら同時にま た物体的存在であることを,われわれは忘れては ならない。 カン トでは一方において物体的 自然 と思惟的 自 然が このように内在的 (immanent)な意味で把 握 されているが,他方では必ず しもそ うで は な い.例 えは思惟的自然は超験的(transzendent) な理念 として把捉 されている場合がある。思惟的

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4-自然(魂)としてのみ考えられるときの自我は一種 の理念であ り,悟性認識の対象ではない。 カン ト は次のよ うにい う。「たんなる思弁的理性 の 第二 の統制的理念は世界概念一般である。なぜなら, 自然はもともと,理性がそれに関 して統制的原理 を必要 とす る唯一の与えられた客観にすぎないか らである軸。」ここでい う自然は,先に示 された物 体的自然 と精神的 自然をさす。カン トに よれば, 物体的 自然を対象 とす る学は Physik と称 され るものであるが,これはア ・プリオ リな自然認識 の原理だけを含むべ きであるとされ,結局 ratio・ male Physikである。同様に,思考す る自然の 形而上学は精神的 自然の合理的認識を意味す るも のであ り,結局 rationalePsychologieである。

如上の学の うち,少な くとも合理的 心 理 学 は 『純粋理性批判』で批判の対象 となるものである が,カン トは合理的心理学を immanent ePhy-siologieに属す るものとしている。 しか し,この 学はimmanentな学 と称す ることが果 して許さ れ るであろ うか。 む しろ合理的心理学は t ran-szendentな学ではなかろ うか. カン ト自身は合 理的神学 (rationaleTheologie)と合理的宇宙

請 (rationaleKosmologie)をtranszendente Physiologie に含めているが,合理的心理学 も

transzendentePhysiologieに含めるべ きでは なかろ うか。 このことは 『純粋理性批判』の 「先 験的弁証論」に よって明らかである。 カン トは次 のようにい う。「・--すべての純粋概念は総 じて 諸表象の綜合的統一 とかかわ りあいをもつが,鍾 粋理性の概念 (超越論的理念)はすべての諸条件 一般の無条件的な綜合的統一 とかかわ りあいを も つ。 したがって,すべての超越論的理念は三種類 に分けられ るが,その うちの第-のものは思考す る主観の絶対的 (無条件的)統一を,第二のもの は現象の諸条件の系列の絶対的統一を,第三のも のは思考一般のすべての諸対象の条件の絶対的統 一を含む ものである倒。」これ ら三つのものを対象 とする学は,今の引用文に引き続いてカン トが述 べてい る事がらか ら判断すれ ば, それぞれ ♪s

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であることは明 確 である榊。 経験的心理学の対象はい うまで もな く 経験的であ り,内在的である。 ところが,このよ うな経験的心理学 と合理的心理学 との区別が,カ ン トでは しば しは暖味である。彼は学問を論ずる 場合に,それを或るときには専 ら体系的形式を中 心に して考え,また或るときにはその内容に重 き をおいて論ずる。 ここに混乱が生ず る原因の一つ がある。例えば "rational"は,詳細に検討する と,二つの意味をもつ ことが明らかになる。 この 事実を筆者はすでに指摘 したが糾, いま一度問題 にしてみたい。主観的基準からすれば,つま り認 識主観の立場からすれば,認識は「合理的」か 「歴 史的」かになる。 しかるに客観的基準 か らす れ ば,認識は 「合理的」か 「経験的」かになる。「経 験的」に対立す る 「合理的」を,カン トは 「純粋」

とも称 している。われわれがrationalePsyc hO-logieとか rationale Kosmologieとか とい う 場合に"rational川は"empirisch"に対立す る

ものであ り,"rein"を意味する。

さて, rationale Physikは一種の物体論で あ り,また物体的自然の形而上学でもある。それ は物質一般の概念の完全なる分析を課題 とす るも のである。 しか し,概念の単なる分析だけでは物 体論は自然科学 とな り得ない。物体論は,それに 数学が適用されてのみ 自然科学 とな り得る。 した がって数学 が い ま だ適用 され ざる Physikは 自然のMetaphysikにすぎないのではなかろ う か。また,カン トでは数学が適用 され得る学のみ が真の自然科学であった。数学は直観による概念 の構成において成 り立つ学であるが,本来の自然 科学は概念 と直観を必要 とする学である. カン ト によれ

は「

- ・・・一定の自然物があ りうるとい うゆ えんは,その単なる概念からは認識 されない餌。」 「・・-・このような自然物をア ・プ リオ リに認識す るためには,なお,概念に照応するア ・プ リオ リ な直観が与えられ ること,すなわち概念が構成 さ れることが必要である絢。」 内官の対象にせ よ,外官の対象にせ よ,それ ら の総体はいずれ もわれわれの感性を超 えている。 それ らはまさに超感性界 といあるべ きである。わ れわれはそれを物 自体の世界 といまっざるを得ない であろ う。 このように考 えると,実質的意味にお ける自然には,経験の対象 としての自然 と,物 自 体 としての自然 とがあるといわねばならない。 し たがって一 口に 自然 といっても,カン トの場合に

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それは誠に多義的であ り,それ故に 自然を対象 と す る学 も実に多様である。 自然を対象 とす る学の 多様性については,筆者はすでに論 じた ことがあ る朗。ただ カン トにあっては 自然は多 くの場合に, 体系的見地か ら整合的に考察 され ることが多 く, 歴史的に考察 され ることが極めて少なか った。唯 一 の例外 といえるほ ど自然を主 として歴史的に考 究 した ものに 『天体の一般 自然史 と 理 論』(1755 午)があるとい って よいであろ う。 カン トの研究 の出発点は 自然に関す る問題であ った。 このことは彼の著作 とその成立年代をみれ ば明らかである。彼の眼は初めは専 ら外なる自然 に向けられていた。 しか し,彼の哲学が一つの体 系 として完成の域に近づ くにつれて,彼の関心は 内なる自然に向けられてきた。内なる自然 とはま さに人間の自然である。それは人間の本性のこと である。 このことを考 えあわせ るならは,カン ト の哲学は究極的には人間学を もって完成す るとい えるであろ う。 もとよ りこのことをカン トがみず か ら意識 していたか,否かは必ず しも明確ではな い。 しか し,哲学の問題が究極的には 「人間 とは 何であるか餌」 に帰着す ると,カン トが考 えてい た ことか らすれば,彼が如上のことを少な くとも 意識 していた と考 えるのが妥当であろ う。啓蒙主 義の時代に生 きた カソ トに とっては,人間の自然 すなわち人間の本性が関心の大 きな的であった こ とは確かである。彼がル ソーの 『- i-ル』を耽 読 したの も,人間の本性-の強い関心 と深い同情 の念か らであろ う。 ところで先に も少 し触れたが, カン トでは 目的 論的な意味において 自然が論 じられ る こ と が あ る。 この場合には技術 と自然 とが しば しは対比 さ れている。 カン トは 『判断力批判』で, 自然 との 閑適において技巧(Technik)とか技術(Kunst)

とい う語 を しば しは用いている。 自然を 目的論的 見地か らみた場合に, 自然の技巧はまさに反省的 判断力の原理であ り,それは更に 「たんなるメカ ニズムとしての 自然についての私たちの概念を, 技術 としてのまさに同一の 自然についての概念へ と拡張す る榊。」一方では このように 自然の概念に は技術 としての 自然の概念 もあるが,他方では 自 然 と技術は明らかに区別 されている。 ア リス トテ レスにあっては 自然 と技術は相対立す る概念であ ったが,カン トの場合にもその ような ことが しば しば見受け られ る。技術は 自然か ら区 別 さ れ る が,また学か らも区別 され る。おそら く技術は 自 然 と学 との中間に位置す る ものであろ う。 カン ト は反省的判断力の立場か ら自然に 目的 を 認 め た が,同様に技術の産物に もその前提 として 目的が 存在す るとしてい る。 この 目的 とい う点では 自然 と技術は同一である。 しか し,技術におけ る目的 は人間の意志に由来す るものであるが, 自然にお け る目的は人間の意志に よるものではな く,反省 的判断力の立場か ら自然に 目的を認め よ う と す る, 自然に対す るわれわれ の一つの表象様式であ る。 この点で技術 と自然 とは明らかに異なる。以 上 のよ うにカン トでは技術な らびに 目的 との関連 において も自然は しば しば問題にされている。 こ のよ うな 自然は 目的論的な意味における自然 と称 して もよいであろ う。 更にカン トでは自然は道徳 の立場か らも論 じら れ る。われわれが認識の対 象 とす る自然は先ず感 性の対象 となる自然であ り,いわば感性的 自然で あるが,カン トは この外に更 に超感性的 自然をも 挙げている。 ここでい う超 感性的 自然は道徳法則 の支配す る世界のことであ る。例 えは 『実践理性 批判』で カン トは次のように述べて い る。「--道徳的法則は如何なる展望 をではないけれ ども, しか も一つの,感性界のあ らゆ る与件 とわれわれ の理論的理性使用の全範囲 とか らは絶対的に説明 すべか らざる事実を供給す る。 この事実は純粋な 悟性界を告示 し,その上に この世界を積極的に規 定 し,われわれにそれの重要 な事柄,すなわち, 一つの法則を認識せ しめるのである的。」更に引 き 続いて彼は次のようにい う。「この法則は感性的 自 然 (理性的存在者に関する ところの) としての感 性界に対 して,悟性界の,す なわち超感性的 自然 の形式を提供す るはずであ る。 しか しかの感性界 のメカニズムを破壊することはない。 さて, 自然 とは もっとも一般的な意味において,法則のもと における,諸事物の現存であ る。理性的存在者の 感性的 自然一般は経験的に制約せ られた法則のも とに理性的存在者が現存す る ことであって, した が って理性に とっては他律 である。 これに反 しち ょうど同 じ理性的存在者の超感性的 自然 とは,め らゆる経験的条件か ら独立であ り, したが って純 - 6

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粋な理性 の自律に属す る諸法則にもとづいたその 現存である。そ うして,それによって事物の現存 在が認識に依存す るところの法則は実践的な法則 であるか ら,超感性的 自然 とは,われわれがそれ の概念を 自分に作 りうるかぎ りで,純粋な実践的 理性の自律のもとにおける自然にはかならないの であるC39。」 先に少 し触れたが,カン トでは超感性的 自然は 原型的 自然

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と称 され,感 性的自然は模造 された 自然

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と 称 される。原型的 自然はプラ トンのイデアの世界 に相当す るものと考えられ る。これに対 して模造 された 自然は現象界をさす ものと解 される。 プラ トンは,現実の個物がイデアを分有 し,イデアに 関与 していると考えて,イデア界 と現象界 との結 びつきを考 えたが,カン トのい う原型的自然 と模 造 された 自然の関係は,プラ トンの説 く二世界の 関係 との

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において理解 されるであろ う。 カン トは理性をめ ぐって二つの課題 を 提 供 す る。第一 の課題は 「如何に して純粋な理性がア ・ プ リオ 1)に客体を認識することができるか09」 と い うことであ り,第二の課題は 「如何に して純粋 な理性が直接に意志の規定根拠た りうるか脚」 と い うことである。第一の課題は 『純粋理性批判』 の課題であ り,第二の課題は 『実践理性批判』の 課題である。 さて,理論的な自然認識 の 問 題 は 『純粋理性批判』の問題であるが,超感性的自然 の概念 とその可能性は 『実践理性批判』で問題に される。 カン トによれば 「道徳的法則 こそ実際 自 由による原因性の法則であ り,それゆえに超感性 的 自然の可能性の法則なのである如。」 ところで,経験の対象である感性的 自然に関 し ては,われわれは この自然を一つの体系 として, 物理学的法則に従 って学的に構成 し得るが,超感 性的自然に関 しては事情は全 く異なる。超感性的 自然については,理論理性の立場からその客観的 実在性を何ら保証することができない。超感性的 自然の客観的実在性を保証するものは実践理性で ある。 この点についてカン トは次のように述べて いる。「--なるほど一つの自然全体を受動的(物 理的)法則に従 って形成 Lはするけれ ども,しか し,ただわれわれの意志に よって純粋な実践的法 別に従 って可能であるような一つの自然を形成 し ない ものは,実に 〔われわれの〕私的な傾向性な のである。それにもかかわ らず,われわれは理性 によって法則を意識 してお り,この法則に対 して 紘,あたか もわれわれの意志によって同時に一つ の自然的秩序が生起せねばならないかのように, あらゆるわれわれの格率が服従せねばならないの である。それゆえ,この法則は経験的には与えら れないが,それに もかかわ らず意志に よって可能 な,したがって超感性的な自然の理念でなければ ならない。そ うしてこの超感性的自然に対 して, われわれは少な くとも実践的関連においては,客 観的実在性を与えている。何 となればわれわれは この自然を純粋な理性的存在者 としてのわれわれ の意志の客体 と見なすからである

的.

以上で,われわれは幾つかの観点か らカン ト哲 学における自然の概念をみてきたが,それでは, 自然の概念 とこれを対象 とす る学 とはいかなる関 係にあるであろ うか。 カソ トの哲学を理論哲学 と 実践哲学に分けるならば,前者は自然の概念につ いて論 じ,後者は自由の概念を扱 うといえるであ ろ う。 しか し,今みた ように 自然の概念には超感 性的 自然の概念 もあるから,理論哲学で問題にさ れ る自然の概念は感性的自然の概念に限定されな ければならない。超感性的 自然の概念はむ しろ実 践哲学の問題である。 カソ トは,カテ ゴリーの四 つの項 目に対応す る四つの宇宙論的理念を挙げ, これに関連 して次のように述べている。「背 進 が めざす ところの,数学的に無条件的な ものと力学 的に無条件的なものとの区別に関 しては,私はそ れでも,さきに表示 した四つの宇宙論的理念の う ちの (〔最初の

)二つを狭義において 世 界 概 念 (大規模の世界 と小規模の世界 とい う) と名づけ, 残 りの二つを超越的自然概念 と名づけるべ きであ ろ う的.」このような自然概念は実質的意味におけ る自然にかかわるが,絶対的総体 としての自然は 認識の対象にな り得ないのである。 このような自 然はもはや現象ではな く,物 自体 と考 えられる。 カソ トは認識主観の立場か ら,認 識 を 「歴 史 的」か 「合理的」かに分けたが,自然を対象 とす る自然論

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e) に もこ_の分け方を適用 した。歴史的自然論は自然を主 として歴史的に論 ずるものであ り,これは更に 自然記述

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(8)

7-beschreibung)と自然史 (Naturgeschichte)に 細分 され る。 これに対 し合理的 自然論はいわゆる 自然科学である。 カン トは この 自然科学を更に非 本来的な 自然科学 と本来的な 自然科学 とに分類 し てい る。前者 は確かに合理的であるが,偶然的な 経験法則に従 う科学であ り, したが ってapodik -tiscb でない科学である。 カン トに よれば, これ はむ しろ体系的技術である。 これ とは対照的に本 来的な 自然科学 は必然的な原理に基づ くものとさ れ る。 われわれが今 までに論 じた ことか らすでに明ら かであ るが, カ ン ト哲学におけ る自然概念は誠に 多義的である。 しか し, この多義性 は カン ト自身 の盗意に よるものではな く, 自然その ものの構造 の必然性に由来す る。 自然概念の多義性を明らか にす ることは, 自然に内在す る秘密をやがて暴 く ことにつなが るであろ う。 (1979年10月31日) (後記)本論文作成中,にわかに雑務がふ え, そ うこ うす る うちに原稿提 出期限が迫 り,執筆 を 急が ざるを待 な くな った。今,原稿 を統み返 して み ると,筆者 自身の意に満た ざるところが多 々あ る。特 に論述 の根拠 となるべ き文献 を必ず しも十 分に明示す ることがで きず, この点 を甚だ追憶に 思 う。不備 を補 うために,他 日を期 して,本論文 の問題 を再度論 じたい。 註 ◎ カントの著作か らの引用文の邦訳 は,理 想 社 版 『カント全集』によった。 ◎ 上記の全集における訳語の若干の不統一に筆者の 好みも加わり,本論文では訳語に多少の不統一がみ られるが,敢て統一しなかった。 (1) Ⅰ.Kant,Ⅹritik der Urteilskraft.In:Ⅰ. XantsWerke,hrsg.V.ErnstCassirer,Band V,S.558.(以下 本著作集をK.W.と略記する。) (2) Vgl.Ⅰ.Kant,ErsteEinleitungindieKritik derUrteilskraft.In.K W.,Band V,S.190. (3) I.Kant,Ⅸritik der Urteilskraft.In:K. W.,BandV,S.457. (4) Vgl.Ibid.,S.239. (5) Ibid.,S.557f. (6) Vgl.Ibid.,S.243.

(7) Vgl.∫.Kant,Kritikderreinen Vernun

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,

B414,B494,B812.

(8) Ⅰ.Kant,Prolegomenazueinerjedenkiinf・ tigen Metaphysik, die als Wissenschaft w

i rd auftreten k6nnen,i14.(以下.本書を Prolegomena と略記する。)

(9) Vgl.I.Kant,Kritik derpraktischenVer -nunft.In:K.WりBandV,S.50.

(10 I.Kant,KritikderreinenVernun

f

t,B446f.

¢カ Ibid.,B874. 8う Ⅰ.Kant,Prolegome

n

a,S36.

8

う Ibid.,S36. (14 Vgl.Ibid.,S36. 89 Vgl.Ibid.,S36. 的 『ア リス トテレス全集』(岩波書店)第3巻 51ペ ージ,76べ-ジ参照。

87) Ⅰ.Kant,KritikderreinenVernun

f

t,B165.

8

尋 Ibid.,B446.

8

9 I.Kant,MetaphysischeAnfangsgrtindeder Naturwissenschaft.In:K.W.,BandIV,S. 369.

納 Ⅰ.Kant,Prolegome

n

a,S17.

(2カ Ⅰ.Kant,KritikderreinenVernun

f

t,B75. 田 Ⅰ.Kant,Prolegomena,S16.

餌 Ⅰ.Kant,ⅩritikderreinenVernllnft,B446. (訳文の一部分を次のように改めた。念頭に主三い る- 念頭に匿ヒエいる) 朗 Ibid.,B163. 鑑み Ⅰ.Kant,Kritik der Urteilskraft.In:K. W.,BandV,S.235. 餌 Ibid.,S.242.

eカ Ⅰ.Kant,ⅩritikderreinenVernun

f

t,B712. 餌 Ibid.,B712.

a)Ibid.,B391.

朗 Vgl.Ibid.,B39lf.

(38 拙稿 「カントにおける学問の分

」『本州大 学 紀 要』第2号 (昭和48年3月)所収。

鋤 Ⅰ.Kant,MetaphysischeAnfangsgr血 deder Naturwissenschaft.In :K.W.,BandIV,S. 372.

脚 Ibid.,S.372.

朗 拙稿 「カントにおける自然概念と自然 科 学 の 問 題」『長野大学紀要』第1巻第1・2号合併号 (昭 和54年11月)所収。

脚 Vgl.I.Kant,Logik.In:R.W.,BandVIII, S.343f.

(9)

-榊 Ⅰ.Kant,Kritikder Urteilskraft.In:K. (4Cb Ibid.,S.51. W.,BandV,S.317. 色カ Ibid.,S.54. 的 Ⅰ.Kant,KritikderpraktischenVernunft. (129 Ibid.,S.50f.

In:K W.,BandV,S.49. 姻 Ⅰ.Kant,Kritik der reinen Vernunft

,

幽 Ibid.,S.49. B447f.

参照

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