• 検索結果がありません。

高度成長期の労働移動─移動インフラとしての職業安定所・学校(PDF:855KB)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "高度成長期の労働移動─移動インフラとしての職業安定所・学校(PDF:855KB)"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

 目 次 Ⅰ はじめに Ⅱ 高度成長期における労働(人口)移動 Ⅲ 移動インフラとしての職業安定所・学校 Ⅳ 高度成長期の労働移動と職業安定所・学校 Ⅴ おわりに

Ⅰ は じ め に

1955 年から 1973 年にかけて生じた高度経済成 長によって,日本の労働力には二つの大きな変化 が生じた。ひとつは地域間の労働(人口)移動で あり,もうひとつは労働力の産業構成の変化であ る。「民族大移動」とも形容される都市部への激 しい人口流入と,農業から非農業への急激な労働 力の移動が同時に生じたところに,高度経済成長 の一つの特徴があるといえよう。そして,このよ うな変化が生じたことによって,経済成長にとも なって急激に拡大した労働需要を賄うことが可 能となると同時に,流入人口によって形成された 新規世帯が大きな耐久消費財需要を生み出し,高 度成長を下支えした1)。さらに,このような変化 は,地域間格差の縮小という一つの重要な帰結 をもたらすことになる。深尾・岳(2000)が論じ ているとおり,貧しい地域から豊かな地域へと 人口が移動したことによって,就業者1人あた り GDP で測った地域間の格差が縮小することに なったのである。 このように,高度成長期の日本において,労働 移動が日本経済に与えた影響は非常に大きい。し かし,このような移動がどのようにして生じたの か,その具体的なイメージについては,データの 不足もあり必ずしも明らかになっていない。そ の中で,苅谷・菅山・石田(2000)や菅山(2011) 等による新規学卒者(中卒および高卒)の就職動 向にかんする研究は,高度成長期の潤滑な労働移 動と制度(具体的には職業安定所および学校の職業 紹介機能)との関係を明らかにしている点で,注 目に値するものである。 本稿では,上記の研究を含めた既存の諸研究を 手がかりに,戦前からの歴史的経緯も考慮に入れ ながら,高度成長期の労働移動がどのような制度

特集●日本の高度成長と労働

高度成長期の労働移動

攝津 斉彦

(武蔵大学講師) 高度成長期において,日本の産業構造は大きく変化し,急激な労働移動が生じた。このよ うな労働移動を支えるインフラストラクチャーとして機能したのが,職業安定所ならびに 学校であった。本稿では,既存研究に依拠しながら,戦前からの歴史的経緯に注意を払い つつ,これら二つの職業紹介機関がどのようにして,求人・求職活動ならびに人々の地域 間移動に介入していたのかを検討する。さらに,職業安定所の広域職業紹介にかんする就 職状況表を用いて,高度成長期における職業安定所・学校を経由する地域間移動と,各都 道府県の人口1人あたり県内総生産で測った豊かさとの関係を明らかにする。分析の結果 として,高度成長期における学校と職業安定所には,人口移動と豊かさとの相関が弱まる 高度成長期後期においても,貧しい都道府県から豊かな都道府県へと労働力の移動を促す 機能があった可能性が示される。

─移動インフラとしての職業安定所・学校

(2)

によって支えられていたのか,そして制度がど のように機能したのか,そのイメージの素描を試 みることにしたい。本稿の構成は以下の通りであ る。次節では,『国勢調査』等の公刊統計を用い て,先に述べたような労働移動の実態を把握す る。Ⅲでは,先行研究に依拠しながら,就職を通 じた労働移動に職業安定所・学校がどのように係 わっていったのかを歴史的経緯を踏まえながら論 じる。Ⅳでは,職業安定所の広域職業紹介にかん する就職状況表を用いて,高度成長期における職 業安定所・学校を経由する地域間移動と,各府県 の豊かさとの関係を明らかにする。Ⅴでは本稿を 通じて得られたインプリケーションを述べること とする。

Ⅱ  高度成長期における労働

(人口)

移動

まず,高度成長期に生じた産業構造の変化を, 非農化という観点から確認しておこう。図 1 は 1955 年,1965 年,1975 年における就業者に占 める第一次産業(農林水産業)従事者の割合を都 道府県別に示したものである。1955 年時点では, 東京,神奈川,愛知,京都,大阪,京都,兵庫, 福岡などの大都市を含む都道府県を除き,第一 次産業比率が 40%から 60%と高い水準にあった (最も高いのは鹿児島の 67%)が,1965 年には全国 的に比率が低下し,高度成長期終了後の 1975 年 には,最も比率の高い岩手県にあっても 35%程 度(1955 年時点で 63%)にまで大幅に縮小した。 同じ資料から全国値の動向を見ると,1955 年に 38%だったものが,1965 年に 23%,1975 年には 13%にまで低下している。 次に,人口移動の状況を見てみよう。図 2 は, 各都道府県の人口の社会増加の状況を示したもの である2)。期首の人口を分母とし,1955 年から 65 年,65 年から 75 年までの人口の社会増加数を 分子とした社会増加率でみると,1955 年から 65 年にかけては,東京,埼玉,神奈川,千葉の首都 圏と,愛知および大阪,兵庫,京都に人口の純流 入が,そのほかの都道府県では人口の純流出が生 じていたことがわかる。最も純流出が大きかった のは佐賀で,20%の純流出を記録した。佐賀以外 でも福岡を除く九州各県の純流出率は大きく,同 じく人口流出地域であった東北地方と比較して も,高い人口流出率を示している3)。一方,1965 年から 1975 年にかけては,純流入県が大都市圏 周辺に拡大する一方で,東北地方では宮城が純流 入県となり,首都圏では東京が純流出県に転じる (いわゆるドーナツ化現象の発生)という変化が起 こっている。 最後に,このような就業者ベースでみた産業構 造の変化と人口の移動によって,都道府県間の経 済格差が縮小したとする議論を紹介して本節を 締めくくることにしよう。図 3 に示したとおり, 1955 年から 1975 年までの間に,人口 1 人あたり 県民総生産で測った都道府県間の経済格差は縮小 していった。深尾・岳(2000)によれば,貧しい 県から豊かな県への人口移動が,格差の縮小をも たらしたという。同論文では,(人口 1 人あたりで はなく)就業者 1 人あたりの県内総生産,つまり は労働生産性の都道府県間格差がどのように変化 したのかを検討し,1955 年から 1973 年に観察さ れた地域間格差の縮小がどのような要因で生じた のかを分析している。その分析の結果,各都道府 県における民間資本ストックの増大は格差を拡大 する効果を持ち,公的資本ストック,学歴で測っ た人的資本および就業者数の増大は格差を縮小す る効果を持ったことが明らかになった4)。そして 格差縮小の要因として最も寄与が大きかったの は,豊かな地域ほど就業者数が増大したという就 業者数の変化による効果であった。さらに,この ような就業者数の増加と人口の純転入率(=社会 増加率)との間には強い相関が観察されるため, 高度成長期に生じた人口移動が都道府県間格差の 縮小をもたらしたと結論づけている5) この点を,期初の1人あたり GDP と当該期間 の社会移動率との相関を見ることで簡単に確認 したものが,表 1 である。豊かさの指標を人口 1 人あたり GDP でとるか,就業者 1 人あたり GDP でとるかによっても結果が異なるが,1955 年か ら 1960 年にかけての相関が非常に高く,それが 次第に低下していくというトレンドは一致してい る。つまり,高度成長期初期においては,豊かな 都道府県が人口を引き寄せる強い力を持っていた

(3)

1955年 1965年 (%) 60 50 40 30 20 10 欠損値 (%) 60 50 40 30 20 10 欠損値 1975年 (%) 60 50 40 30 20 10 図 1 府県別第一次産業就業者比率(1955・1965・1975) 注:1955 年,1965 年は沖縄を含まない。 出所:『国勢調査』各年版

(4)

1955∼1965 1965∼1975 (%) 30 20 10 0 −10 −20 (%) 30 20 10 0 −10 −20 0 0.05 0.1 0.15 0.2 0.25 0.3 0.35 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 人口1人あたり県内総生産 就業者1人あたり県内総生産 図 2 人口の社会増加率にみる高度成長期の労働(人口)移動 図 3 変動係数で測った地域間格差 出所:人口および就業者数は国勢調査各年版。県内総生産のデータは 総務省ホームページ「県民経済計算(昭和 30 年度〜昭和 49 年 度)(68SNA,昭和 55 年基準計数)」および「県民経済計算(昭 和 50 年度〜平成 11 年度)(68SNA,平成 2 年基準計数)」 出所:日本統計協会(2006)表 2-6

(5)

が,時間の経過とともにその力が弱まっていった と考えられる。 以上の分析を通じて,高度成長期の日本におい ては,産業構造の変化と労働力移動が地域間格差 の縮小を伴いながら急激に進行したことが確認で きた。次節では,このような変化の背後にあった 制度の役割について,歴史的経緯を踏まえた上で 検討してみたい。

Ⅲ  移動インフラとしての職業安定所・

学校

1 歴史的経緯─戦前の労働移動と学校・職業  紹介所 高度成長期において職業安定所・学校が労働移 動に果たした役割を検討する前に,戦前の状況が どのようなものであったのかについて触れておき たい。これは,戦前の実態を把握することが,戦 後の状況をよりよく理解することにつながると考 えるからである。 まず,戦前における非農化と労働移動の動向で あるが,梅村他編(1988)によれば,有業者に占 める第一次産業有業者数は,1906年で62%であっ た も の が,1920 年 に は 54 %,1930 年 に 50 %, 1940 年に 44%と,高度成長期と比較するとその ペースは緩やかであったものの,着実に非農化 が進んでいたことがわかる6)。人口移動にかん しては,日本統計協会(2006)および筆者が袁他 (2009)で推計した都道府県別人口系列を使って 試算した戦前の社会移動率7)を見ると,北海道 への大規模な移住が存在したこと,高度成長期に は人口流出県であった福岡が人口流入県であった ことなどを除くと,関東,中京,関西の大都市圏 への人口流入という高度成長期と同じ現象が生じ ていたことがわかる。また,戦前期の府県別県内 総生産を推計し,地域間格差の動向を分析した先 述の袁他(2009)によれば,1890 年から 1940 年 までの間に府県間の格差は緩やかに縮小し,その 格差縮小の要因として,豊かな府県に向けての人 口流入という,前節で論じた高度成長期と同じメ カニズムが機能していたとことが挙げられるとい う。つまり外形だけをみた場合,労働(人口)移 動の様相は,変化の速度に差はあるものの,戦前 期と高度成長期とでかなり似通っていたと考えら れる。 次に,戦前期の労働移動および雇用にかんする 研究によりながら,その移動メカニズムをより詳 細に見てみることにしよう。 まず,戦前の労働力の地域間移動を分析した西 川(1966)を見てみよう。西川は,内務省が刊行 した『労働者募集年報』に掲載されている地域間 移動表を利用して,戦間期における繊維労働者 (製糸ならびに紡績)の労働移動を分析した。『労 働者募集年報』が把握する「就業者」は,「就業 のため住居を変更する必要のない場合」「広告に よって募集し,就業上だけで募集の取り扱いをし た場合」「移民保護法による募集の場合」「公営職 業紹介所による募集の場合」は含まないという特 徴を持つ8)。つまり,『労働者募集年報』は,民 営の職業紹介業者による府県間をまたぐ就職斡旋 事例を把握していると考えられる。 西川は上記の史料を用いて,i 県から j 県への 繊維労働者の移動が,どのようなメカニズムで生 じるのかを分析した。具体的には i 県と j 県との 賃金格差や距離,i 県の農業生産額,さらには累 計移動量(=累計移動者数)で測った i 県から j 県 への出稼ぎ習慣などの変数を説明変数とし,i 県 表 1 初期時点の 1 人あたり県内総生産と人口の社会移動率との相関   人口 1 人あたり県内総生産 就業者 1 人あたり県内総生産 1955-1960 0.78 0.83 1960-1965 0.48 0.60 1965-1970 (0.47)0.27 (0.46)0.39 1970-1975 0.03 0.21 (0.27) (0.37) 注:沖縄は除く。括弧内は東京を除いた場合の値。 出所:図 2 および図 3 と同じ。

(6)

から j 県への移動者数を被説明変数とした回帰分 析を試みている。無論,内生性などは一切考慮さ れておらず,現代の水準から見れば粗い分析と なってはいるが,その分析結果は非常に興味深 い。すなわち,「累計移動量が労働の地域的移動 に影響する社会経済的因子の指標であるとすれ ば,(それにはなお質的に疑問の余地があるが),そ の影響力はまさしく決定的であって,賃金,所得 などの経済的誘因の作用はごくわずかで,無視し うる程度といえよう」という一文が端的に示す通 り,地域間の移動はある種の移動慣習によって強 く規定されているというのが,西川の見解であっ た9) 順序はやや前後するが,ここで戦前期の職業紹 介制度のあらましを神林(2000)によりながら, 簡単に説明しておこう。日本の職業紹介事業は, 口 くちいれ 入屋やや桂けいあん庵などという呼称で古くから存在する ものであるが,明治維新以降の工業化によって, その重要性は増していくことになる。それと同 時に,仲介業者による不正行為(詐欺,誘拐,人 身拘束)や人材の引き抜きが問題となり,このよ うな弊害を取り除くべく,各府県単位で募集取締 規則が制定されることになった。このような規制 がどの程度機能したのかは判然としないが,1911 年に工場法が成立し公布されると,恒常的な公営 職業紹介事業確立の動きが活発になり,東京市や 大阪市に公営の職業紹介所が設置された。1920 年に第一次大戦後の恐慌が生じると,内務省は各 地方自治体に失業対策事業の一環として,職業紹 介所の設置を行うよう行政指導を強化し,これに 呼応するように同年,財団法人協調会によって職 業紹介の全国的連絡機関である中央職業紹介所が 設立される。 しかしながら,このような内務省の意向にもか かわらず,町村レベルでは実質を伴った公営の職 業紹介事業は十分には展開しなかった。そこで内 務省はこれまでの行政指導にかえて,法律を制定 することで事態の打開を図ろうとする。1921 年 に職業紹介法が制定され,市町村営の職業紹介所 を設立し,それに国庫補助を与え,さらには協調 会に中央職業紹介事務局を設置して全国の職業紹 介を管轄させ,地域間の紹介を円滑化するために 連絡協議会を設置した。しかし,国庫補助金が十 分でなかったこと,職業紹介のノウハウが地方自 治体に十分蓄積されていなかったことなどから, やはり公営紹介は広く進展しなかった。 1927 年に民営紹介事業を規制する営利職業紹 介事業取締規則が施行されると,民営職業紹介業 者数は減少するものの,民営紹介所にたいする求 人・求職数は堅調に推移した。その一方で,1927 年を境として,おもに製糸・紡織にかんする求人・ 求職の取り扱いを拡大する形で公営職業紹介所の 勢力が伸張していき,ここに公営と民営の職業紹 介の棲み分けが成立することになる。その後戦時 色が強まる中,1938 年に職業紹介法が改正され, 国家総動員の名目の下に民営職業紹介は禁止,公 営職業紹介事業は国営化されるに至るのである。 以上が,戦前の職業紹介所にまつわる歴史的 な経緯であるが,神林(2000)および神林(2005) では,ここで取り上げられている公営および民営 職業紹介所のマッチング効率性を比較検討してい るので,この点についても取り上げておこう。神 林(2000)では,民営紹介が公営紹介よりも高い 効率性を持っていたことを,当時の統計および事 例を示すことによって明らかにしているが,神林 (2005)ではこの点にさらに踏み込み,公営紹介 と民営紹介が併存した期間について,パネルデー タを用いてマッチングファンクションを推計し効 率性の数量比較を試みている。その結果,1930 年前後までは民営紹介がより高いマッチング効率 性を実現していたことが明らかになった。神林は 両論文のなかで,このような民営紹介の高い効率 性は,① 求人側と長期的な関係を保ち,求人者 の情報を蓄積していたこと,② 求職者の希望を うまく聞き出し,求人者・求職者間の情報伝達を 促進したこと,③ 就職後に問題が生じた際の仲 介をし,求職者の身元調査を実施するなど,就職 後の雇用関係にも影響力を持ったこと,によって 実現されたとしている。 また,神林は職業紹介所が果たす役割を,労働 市場参加者の嗜好,技能,能力を把握し,相性の 良いものを結びつける matchmaker としての役 割と,就職後の雇用関係に介入しながら労働者や 企業に保証を与えることで,良好な雇用関係を維

(7)

持する middleman としての役割という二つに分 け,戦前の民営紹介はこの二つの役割をかなりの 程度担いえたが,公営の場合は,この役割のどち らも十分には果たすことができなかったと論じて いる10)。この議論が,府県をまたぐような労働 移動にたいしてどれだけ当てはまるのかについて は,別途検討の余地はあるが,先の西川の結論を 考え合わせると,地域間移動についても移動元 と移動先との間に何らかの長期的なつながりが生 じることによって,それが職業紹介者の match- match-maker および middleman としての機能を強化し た可能性は十分にあるといえよう。 さて,ここで視点を変えて,労働者を雇う立場 である企業側の史料をつかって戦前・戦後の就職 事情を明らかにした菅山(2011)を見てみること にしよう。官営八幡製鉄所の就業者にかんする史 料によれば,戦前のホワイトカラー(=事務職員・ 技術者層)は,1900 年以前については旧士族層が 様々な職および職場を転々としており非常に流動 性が高いが,1900 年以降は,1880 年代に教育を 受けた平民が台頭してくる11)。八幡製鉄の場合, 1901 年に新規採用者の学歴の目安が制定され, 事務職員の高学歴化が進むことになる。ホワイト カラーのなかでも,技術者については当時まだ希 少な存在であったことから,八幡製鉄でもその確 保に力を注ぎ,1897 年から 1919 年頃においては, 中途採用と並行して,大学などの高等教育機関に 紹介を依頼する形で新規卒業者の採用を実施して いる。 さらに菅山によれば,不況期の制度改革を経た 1925 年頃から 1933 年までの間に,学校への紹介 依頼と社内選抜を組み合わせる形で,ホワイトカ ラーにかんする新卒定期採用が定着したという。 つまり,ホワイトカラーについては,学校と企業 の結びつきが一貫して重要な役割を果たしていた ことになる。また,この両者の結びつきにかんし て注目すべきは,1930 年代に工業学校,商業学 校などの実業学校の学校紹介就職率が上昇した背 景に,校長や教員による求人開拓などの積極的な 就職斡旋活動および就職後の勤務状況調査などの 努力があったという指摘であろう。先の議論を敷 衍すれば,これは当時の学校が middleman とし て有効に機能していたことを示しているといえよ う12) このように,新卒定期採用が定着していったホ ワイトカラーにたいして,ブルーカラーの就業に かんしてはどのようなことがいえるだろうか。 菅山は 1951 年に実施された『京浜工業地帯調査 (従業員個人調査)』の調査票のうち,日本鋼管川 崎製鉄所のデータを抜き出して丹念に分析し,そ の結論として,戦間期のブルーカラー雇用は,縁 故による採用がほとんどであったとしている13)。 ただし,職種別に見るとその採用パターンは大き く異なっており,職人的熟練労働者(旋盤工,鋳 造工)については地理的にも比較的広い範囲で労 働市場が成立しており,必要に応じて外部から (縁故を通じて)労働力を確保することができた が,技術よりも体力が物をいうプロセスワーカー (製銑工,圧延工)については OJT によるキャリ ア形成が行われており,素人工を遠隔の,しかし なじみのある(地縁のある)農村地域から集めて いた14)。このように職人的熟練労働者とプロセ スワーカーとでは,キャリア形成のパターンは大 きく異なっていたが,これは戦後にもそのまま引 き継がれることになる。 しかし,戦時中には,縁故による採用の比率は 依然として大きいものの,熟練労働者,プロセス ワーカー,工場に据え付けられた大型機械の運転 工であるオペレーター(起重機運転工やボイラーマ ン)のいずれの職種においても職業安定所・学校 の紹介による就業者の比率が飛躍的に上昇し,こ の動きもまた戦後へと継続していく。先にも述べ たとおり,1938 年に職業紹介法が改正されると, 職業紹介所が経済統制(計画化)の道具として利 用されることになったが,この計画化の過程のな かで新規学卒者(ここでは中退者を含む小学校新規 卒業者)の適正配置計画を実行するために作り上 げられたシステムが,戦後に継承され,発展して いくことになるのである。 2 戦後および高度成長期の学校・職業安定所 本項では,前項でもとりあげた菅山(2011)に 依拠しながら,前節で確認した高度成長期に見ら れた激しい労働移動にたいして,学校・職業安定

(8)

所が果たした役割を検討したい。 ここではまず先に,戦後の企業がどのような労 働者をどのように採用していたのか,再度,日本 鋼管川崎製鉄所のデータに基づくブルーカラー 労働者の分析を通じて見てみよう15)。同社では, 終戦から 1950 年代前半にかけてのブルーカラー 労働者の採用については,新規中卒者を採用して 教育する養成工と必要に応じて採用する臨時工 (臨時工の一部を銓衡のうえ本工に採用する)の二本 立てであったが,養成工のウェイトは非常に低 く(1952 年時点で日本鋼管川崎製鉄所の労働者全体 に占める割合は 0.7%),労働者の多くは臨時工とし て採用されていた。採用方法としては,養成工の 多くは職業安定所経由で,臨時工についても戦後 すぐの段階では学校・職業安定所による斡旋が多 かったが,ドッジラインによる労働需要減退の影 響を受け,50 年代初頭に縁故を通じて臨時工を 採用するようになる。しかし,先述の通り,戦間 期に見られた職種によって異なる採用パターンの 違いという特徴は,戦後にもそのまま引き継がれ ていた16)。このような状況が一変するのは,高 度成長が本格化した 1960 年代に労働の需給が逼 迫してからのことであった。 1947 年に制定された職業安定法は,職業選択 の自由をその根本に置きながら,戦後復興のため の労働力の「調整」と「計画」の必要性について も言及していた17)。特に,毎年新たに労働者と して市場に参入してくるもののうち最大の割合を 占める新規学卒者,なかでもまだ卒業時に 15 歳 でしかない新制中学卒業者については,一般紹介 とは異なる需給の調整制度が確立されることにな る。それが,戦時期の労働力統制システムの遺産 を継承しつつも『自由な「市場」の存在を前提に して,「未結合」の求人,求職を結合させるため の「場」』として職業安定所に形成された,全国 需給調整会議を通じた広域職業紹介システムで あった18)。 1949 年,職業安定法が改正され,中学校と職 業安定所が連携して新規中卒者の職業紹介業務を 実施することになる。しかし,制度が発足した当 初は新規中卒者の職業安定所経由率は低く,1950 年で中学から高校に進学しなかったもののうち 15%のみが,職業安定所を介して就職していたに 過ぎず,この時期の職業安定所は,就職確保のた めの求人開拓に追われていたという19)。1955 年 以後高度成長がはじまると,急速に職安経由率は 上昇し,1959 年には 45%となった。その一方で, 景気拡大によって求人倍率が上昇しながらも充足 率が低下し,新規中卒者獲得を巡る企業間競争が 過熱することになる。このような社会状況下で, 求人秩序の確立が政策課題として浮上し,敗戦直 後の出生率激減期に生まれた世代が中学校を卒業 する 1961 年,労働省は各都道府県知事にたいし 「新規学校卒業者(中学)需給調整要領」を通達 した。通達の内容は,職業安定所に持ち込まれる 求人にたいする指導を実施すること,業種別の求 人倍率が地域間で一定になるように全国需給調整 会議で求人者の採用希望地を強制的に変更するこ となど,市場の調整を強化するものであった。 求職者にかんしては,1960 年以前から,職業 安定所の職員が新規学卒者の希望職業や希望就職 地の決定にたいして変更を迫るような「指導」を 実施していた事例20)があり,上記の求人にたい する調整とあわせて,行政は当時の労働市場にた いして「強力な需給調整」を実施していたとい える。菅山は,このような職業安定所の活動が, 1950 年代から 60 年代にかけての日本社会の構造 変化を支えていたと評価している21)。しかしな がら,職業安定所が強い権限を持って労働需給調 整を行う時代は長くは続かなかった。高校進学率 の急上昇によって,新規学卒者に占める中学生の 割合は急激に低下し,大企業におけるブルーカ ラー労働者が臨時工から定期採用による養成工へ と転換したことと相まって,企業の新規採用は急 速に高校生の定期採用へと傾斜していくことにな るのである。先述の通り,戦前の実業学校以来の 伝統をもつ高校は,古くからの企業とのつながり を持ち,独自に就職斡旋を実施しており,企業側 も直接求人を学校に出すことがすでに一般化して いたため,(行政によるさまざまな制度変更が試み られたが)職業安定所が新規高卒者の労働市場に 介入する余地は,高校にたいする求人票のチェッ クを除いてなかったというのが実情であった。 さて,最後に,以上のような職業安定所および

(9)

学校による職業紹介事業をどのように評価すべき かについて触れておこう。新規中卒者にたいする 求人,求職への「強力な需給調整」について菅山 は,確かに行政のおこなう労働需給調整の必要性 は職業安定法にも謳われている(第 4 条)が,当 時国家的な意義を持っていた新規中卒者の就職問 題を解決することが優先されたために,自由な求 人,求職活動の保障という職業安定法のもう一方 の理念の追究はなされなかったとしている22) また,高校による職業紹介についても,企業から 与えられる求人枠の制約の下で生徒に様々な情報 を与え,「生徒の主体性を尊重しつつ,生徒の希 望を変える」という作用があったとしている23)。 このような調整がもたらしたものは,しかし,日 本の新規学卒者の離職率低下というある意味望ま しい結果であった。高度成長期の職業安定所と学 校による職業紹介事業には,求職者の希望をコ ントロールしながら求人とのミスマッチを事前に チェックするという機能があったのである。 このような機能を,前項で触れた matchmaker と middleman にかんする議論に照らして考える と,求人側および求職側に深くコミットしなが ら,高度成長期の激しい産業構造の変化ならびに 労働移動を支えた職業安定所ならびに学校による 調整は,非常に効率的なものであったと評価しう るかもしれない24)。この効率性が,市場の機能 を阻害する統制に近い形で実現されたと考えるの か,それとも情報の非対称性や不確実性による市 場の失敗を防ぐために整備された制度によって実 現されたと考えるのかは,各人の見方に依存する 問題ではあるが,恐らく現実は両者の中間にある のではないだろうかというのが筆者の感触である。

Ⅳ  高度成長期の労働移動と職業安定

所・学校

前節までの議論によって,高度成長期に生じた 産業構造の変化と労働移動の背後には,強力な調 整機能を持つ職業安定所ならびに学校の存在が あったことが示された。そこで本節では,職業紹 介所と学校が実際に労働の地域間移動にどのよう な役割を果たしたのかを検証すべく,統計データ を用いたエクササイズを試みることにしたい。 労働省職業安定局刊行の『労働市場年報』に は,広域職業紹介にかんする就職状況表が掲載さ れている。これは,職業紹介所が斡旋した府県間 をまたぐ就職について,その移動元と移動先のマ トリクス(Origin と Destination の頭文字をとって OD 表とよばれることもある)が掲載されている。 ここでは,このデータから各都道府県別の純移動 率を求職のタイプ別に算出し,先に表 1 で試みた ような都道府県別の人口 1 人あたり県内総生産と の相関を見てみることにしたい。 Ⅰでも述べた通り,初期時点の人口 1 人あたり 県内総生産とその後の社会移動率との間には,特 に高度成長期の初期において強い相関が見られ た。しかし,高度成長が進むに従って都市の過密 化が進んだ結果,ドーナツ化現象が発生し,豊か な都道府県(典型的には東京)からの人口流出が 生じた。人口がこのような動きをすると,豊かさ と社会移動率との相関は弱まってしまう。しか し,職業安定局の手による OD 表は,居住地間の 移動ではなく,居住地(もしくは職業安定所のある 場所)から就業地までの移動を把握していると考 えられるので,このような問題が生じにくいはず である。また,職業安定局は労働のタイプ別(常 用労働,臨時・季節労働など)の OD 表,さらには 前節で取り上げられた新規学卒者の OD 表も作成 しているので,このような要素が地域間移動にど のような影響を与えるのかについても一定の知見 が得られるはずである。分析結果を検討するに先 立って,データの概要について簡単に説明してお こう。 管見の限りでは,労働市場年報に OD 表が掲 載されるようになるのは,昭和 36 年版(1961 年 版)からである。同書には,1951 年から 1960 年 までの OD 表が掲載されているが,最初の数年分 については,季節労働者についてのみの表となっ ている。一般労働者の OD 表は 1955 年分から掲 載され,1959 年からは中学校卒業者ならびに高 等学校卒業者にかんする表が追加されている。昭 和 36 年版以降は,各年版にほぼ OD 表が掲載さ れるようになるが,昭和 38 年についてのみ残念 ながら OD 表が発見できなかった25)。また,中

(10)

学,高校学卒者の OD 表は省略されることがある ため,年次によってはデータがとれないことがあ る。 次に用語の定義であるが,この点については 少々注意が必要である。各年版の『労働市場年 報』の冒頭には,必ず年報内で使用される言葉 の定義が記載されているが,これがしばしば変更 されている。特に大きな変更と考えられるのが, 「一般労働」の定義にかんするものであろう。10 カ年分の OD 表が掲載されている昭和 36 年版で は,一般労働は「常用労働と臨時労働とを併せ称 えるものに用いる」となっており,OD 表はこの 一般労働,季節労働,中卒,高卒の別で作成され ている26)。これが,翌年の昭和 37 年版になると, 「一般労働とは常用労働と臨時季節労働とを併せ 称えるものに用いる」と定義が変更される。しか しながら,データの時系列的な連続性に配慮した のか,37 年版の OD 表の表章に変更は加えられ なかった。定義変更以前は臨時労働が一般に含ま れ,季節労働が別立てとなっていたわけである が,昭和 39 年版からは一般,常用,臨時季節の 別で OD 表が作成され,臨時労働が季節労働と合 算され,常用と臨時季節を合算して一般としたた め,ここでデータの連続性が途切れてしまうこと となった。ただし,本稿では変更前の一般労働者 と変更後の常用労働者,および変更前の季節労働 者と変更後の臨時・季節労働者とをそのまま接続 してデータを作成したとしても,数年分を合算し て利用する分には大過ないと判断し,そのような 措置をとることとした。 さて,前置きが長くなったが,分析の結果をま とめた表 2 を見てみよう。一般・常用の 1955 〜 1959 年や臨時・季節労働の 1955 〜 1964 年を除 けば,いずれも非常に高い相関係数となってい る。『国勢調査』の結果から計算された社会移動 率を使った表 1 の結果と比較すると,表 2 の方が 高度成長期後半になっても係数の高さを維持して いる点が特徴的である。これは,職業安定所と学 校が,相対的に貧しい地域から豊かな地域への労 働移動を,高度成長期前半はもとより,後半にお いても下支えしていたことを示していると考えら れる。 また,臨時・季節労働の場合も興味深い結果と なっている。このカテゴリにおいては,高度成長 前半においては係数が小さいものの,後半になる と急激に上昇している。これは別途検討が必要で はあるが,おそらくは,初期において見られた東 北から北海道,新潟から静岡,群馬,埼玉への盛 んな季節労働移動が,高度成長が進むにしたがっ て減少し,より豊かな地域への臨時・季節労働移 動へと転換していったことを示唆しているのかも しれない27) 以上の簡単な分析から何かを断定的に述べるこ とは難しいが,高度成長期の職業安定所と学校に よる「強力な需給調整」が,豊かな地域への急激 な労働移動を実現する移動インフラとして機能し た可能性は示せたのではないかと思う。

Ⅴ お わ り に

以上,本稿では,日本の高度成長期において職 業安定所と学校が果たした役割を,歴史的経緯を 踏まえながら縷々述べてきた。戦前から高度成長 期を通じた職業紹介業ならびに労働移動の歴史を 振り返ると,スムーズな移動を実現する職業紹介 のあり方が見えてくる。重要なのは,すでに本文 表 2 初期時点の 1 人あたり県内総生産と職業安定所経由の社会移動率との相関   一般・常用労働 臨時・季節労働 中卒 高卒 1955-1959 0.56 0.28 1959-1962 0.86 0.83 1960-1964 0.78 0.34 1965-1969 0.80 0.80 1967-1969 0.80 0.70 1970-1974 0.77 0.77 0.78 0.92 注:1960 〜 1964 にはデータの欠損している 1963 年は含まれず,4 カ年のデータを使って移動者数を算出し ている。 出所:労働省職業安定局『労働市場年報』各年版,1 人あたり県内総生産については,図 3 と同じ。

(11)

でも触れたとおり,求人側と求職側の双方に長期 的に深く係わるという 1 点である。西川が論じた ように,戦前期の繊維女工の労働移動は,賃金な どの経済的な誘因というよりも,むしろ地縁のよ うな長期的な繫がりによって規定されていた。神 林が示した民営紹介所の高いマッチング効率も, 求人側との長期的な関係を保ちつつ,求職者の要 求を丁寧にくみ取り,就職後の雇用関係にもある 程度介入することで実現されていた。菅山が戦前 から高度成長期までを包括する大きな枠組みのな かで明らかにしたのは,学校と企業の長期的な繫 がりや,本当に良いものであったかどうかは別と して,生徒に対する入念な「指導」の存在が,新 規学卒者の就職に大きな役割を果たしたというこ とであった。 職業安定所が新規学卒者の労働市場に深く介入 したのは,まさに経済が急激に成長する時期で あったが,一方で,労働市場が逼迫するこのよう な時期であったからこそ,菅山が「強力な需給調 整」と呼ぶ求人側,求職者側に双方にたいする行 政の介入が可能となったという側面もある。翻っ て,高度成長期がすでに我々歴史家の研究対象と なった現在において,高度成長期と同様の行政に よる市場介入が実行可能かというと,それは難し いと誰しもが考えるであろう。その一方で,労働 市場の流動化は今後ますます進む可能性がある。 このような状況下でわれわれが職業安定所に求め るべきは,matchmaker としての機能よりも,強 力な middleman としての機能なのではないか, というのが筆者の根拠のない直感である。公共職 業訓練の質を向上し,求人側のニーズに合った人 材の育成に努めることが必要といった議論は誠に 月並みではあるが,その人材育成の過程のなか に,戦前の教育機関が持っていたような,学校に は就職後も卒業生を教え導いていく責任があると いう「思い入れ」があってほしいと願うことは, 単なる懐古趣味に過ぎないのであろうか。  1) 日本の高度成長期にかんする概説書は数多あるが,まずは 吉川(1997),安場・猪木編(1989)等を参照のこと。  2) 人口の社会増加とは,各府県の人口増加分から出生,死亡 による自然増加を差し引いたもので,プラスになれば人口の 純流入数を,マイナスになれば純流出数を表す。  3) 東北地方(青森,岩手,宮城,秋田,山形,福島)はすべ て人口流出県であったが,6 県の平均で 13.3%の純流出率で あったのにたいし,九州地方(福岡,佐賀,長崎,熊本,大 分,宮崎,鹿児島)の平均は 16.1%であった。  4) ソローによる経済成長モデルに従えば,資本ストックが大 きい地域ほど,収穫逓減によってその後の資本ストックの成 長率が低下する。このメカニズムが機能すれば,地域間の経 済格差は収束するはずであるが,このようなモデルは日本の 高度成長期には当てはまらない,というのが深尾・岳(2000) の主要なメッセージの一つである。  5) 同論文によれば,1973 年以降は人口の移動が以前ほど活 発ではなくなったために,格差の縮小がそれほど進まなく なったという。  6) 1920 年以前は,内地人人口であり国内に居住する外国人 を含まない。なお,戦前の産業別有業人口を考える場合に は,副業の存在が大きな意味を持つがここでは考慮していな い。詳しくは SaitoandSettsu(2010)を参照のこと。  7) 具体的には,袁他(2009)で推計した府県別の現住人口の 増加数から,高橋・中川編(2010)で推計されている各府県 の自然増加数(=出生数−死亡数)を差し引くことで社会増 加数を算出する。  8) 西川(1966:32)  9) 西川(1966:183) 10) 戦前期の公営および民営の職業紹介所については,神林 (2009)も参照のこと。 11) 菅山(2011:第 2 章)を参照。なお,近代的教育制度の根 幹をなす学制が公布されたのは,1872 年のことである。 12) ただし,学校が果たした middleman としての役割を考え るにあたって,菅山は当時の学校や教育が持っていた社会的 な信頼,もしくは,学校には就職後も卒業生を教え導いてい く責任があるというある種の「思い入れ」の存在を,営利 職業紹介所との違いとして強調している。(菅山2011:167-171)。 13) 菅山(2011:第 4 章)を参照。 14) 日本鋼管川崎製鉄所の場合,もっとも地縁が深かったのは 群馬県であった。これは,日本鋼管の創設時に取締役であっ た今泉嘉一郎が群馬県の出身であったことによるという(菅 山2011:281)。 15) 菅山(2011:第 4 章)を参照。 16) OJT が必要なプロセスワーカーが養成工ではなく,臨時 工によって賄われていた(菅山2011:307-312)とすると, 戦間期において日本の工業部門に生じた大企業と中小企業間 の賃金格差(いわゆる二重構造問題)の理由を,大企業にお ける子飼い労働力育成制度の定着に求める見解(たとえば, 尾高1984 など)と対立が生じるように見える。この点につ いては,今後より詳細な検討が必要となろう。 17) 菅山(2011:306-307)。 18) 菅山(2011:354)。 19) 菅山(2011:356-357)。 20) 菅山(2011:第 5 章 5 節)を参照。 21) 菅山(2011:383)。 22) 菅山(2011:379)。 23) 菅山は,このような職業指導のあり方は,具体的な求人に 先立って自らの適職を見つけるという職業指導本来のプロセ スとは異なるとしている(菅山2011:441)。 24) 加瀬(1997)は,高度成長期における職業安定所と学校に よる調整が,必ずしもうまく機能しなかった事例を多数挙 げており,職業安定所と学校が必ずしも優秀な matchmaker や middleman ではなかった可能性を示している。 25) 昭和 36 年(1961 年)の OD 表は 36 年版にはなく,昭和 37 年版に 37 年の OD 表とともに掲載されている。また,昭

(12)

和 42 年版(1967 年版)の『労働市場年報』にも OD 表がな いが,『昭和 42 年 労働力の地域間移動状況調査結果表』な る別冊に掲載されている。 26) 常用労働とは,雇用期限のない仕事,労働もしくは季節労 働を除いて 4 カ月以上の雇用期限が定められている仕事,労 働をいう。臨時労働とは,1 カ月以上 4 カ月未満の雇用期限 がある仕事,労働をいう。季節労働とは,通常季節的な労働 需要に対し,臨時的に一定の期間を定めて就労する者,ある いは年間を通じての労働需要に対して季節的労働余暇を利用 して臨時的に就労する労働をいう。詳細については,『労働 市場年報』各年版を参照のこと。なお,ここで挙げられてい る常用,臨時,季節の各労働の定義については,途中で名称 変更等があったものの,基本的に変化していない。 27) なお,常用労働,臨時季節労働,中高学卒すべてのデータ が得られる年次について,職業安定所と学校による移動者数 を住民基本台帳移動報告による人口移動量と比較すると,前 者の後者にたいする前者の後者にたいする比率は,1959 年 から 1962 年については平均で 15%程度(季節労働を除くと 11%),1967 年から 1975 年については平均で 10%程度(臨 時季節労働を除くと 6%)となる。 参考文献 Saito,OsamuandTokihikoSettsu(2010)“UnveilingHistori-calOccupationalStructuresanditsImplicationsforSectoral LabourProductivityAnalysisinJapan'sEconomicGrowth,” GlobalCOEHi-StatDiscussionPaperseriesNo.143. 梅村又次・赤坂敬子・南亮進・高松信清・荒井玄武・伊藤繁(1988) 『長期経済統計 2 労働力』東洋経済新報社. 袁堂軍・攝津斉彦・ジャン = パスカル バッシーノ・深尾京司 (2009)「戦前期日本の県内総生産と産業構造」『経済研究』60 巻 2 号,pp.163-189. 尾高煌之助(1984)『労働市場分析─二重構造の日本的展開』 岩波書店. 加瀬和俊(1997)『集団就職の時代─高度成長のにない手た ち』青木書店. 苅谷剛彦・菅山真次・石田浩(2000)『学校・職安と労働市場 ─戦後新規学卒市場の制度化過程』東京大学出版会. 神林龍(2000)「国営化までの職業紹介制度─制度史的沿革」 『日本労働研究雑誌』No.482,pp.12-29. ─(2005)「民営紹介は公営紹介よりも「効率的」か─両 大戦間期のデータによる検証」『日本労働研究雑誌』No.536, pp.69-90. ─(2009)「なぜ職業紹介は国が行うのか」『日本労働研究 雑誌』No.585,pp.66-69. 菅山真次(2011)『「就社」社会の誕生─ホワイトカラーから ブルーカラーへ』名古屋大学出版会. 総務省ホームページ「県民経済計算(昭和 30 年度〜昭和 49 年 度 )(68SNA, 昭 和 55 年 基 準 計 数 )」http://www.esri. cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/ main_68sna_s30.html(2013 年 3 月 4 日アクセス) ─「県民経済計算(昭和 50 年度〜平成 11 年度)(68SNA, 平成 2 年基準計数)」http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/ data_list/kenmin/files/contents/main_68sna_s50.html(2013 年 3 月 4 日アクセス) 高橋眞一・中川聡史編(2010)『地域人口からみた日本の人口転 換』古今書院. 西川俊作(1966)『地域間労働移動と労働市場─昭和戦前期・ 繊維労働者の地域間移動』有斐閣. 日本統計協会(2006)『新版長期経済統計総覧』. 深尾京司・岳希明(2000)「戦後日本国内における経済収束と生 産要素投入─ソロー成長モデルは適用できるか」『経済研究』 51 巻 2 号,pp.136-151. 安場保吉・猪木武徳編(1989)『日本経済史 8 高度成長』岩波 書店. 吉川洋(1997)『高度成長─日本を変えた6000日』読売新聞社.  せっつ・ときひこ 武蔵大学経済学部専任講師。最近の主 な著作にOsamuSaitoandTokihikoSettsu(2010)“Unveil-OsamuSaitoandTokihikoSettsu(2010)“Unveil-(2010)“Unveil-2010)“Unveil-)“Unveil- “Unveil-ing Historical Occupational Structures and its Implications for Sectoral Labour Productivity Analysis in Japan’s Eco-nomicGrowth,”GlobalCOEHi-StatDiscussionPaperseries No.143.日本経済史専攻。

参照

関連したドキュメント

雇用契約としての扱い等の検討が行われている︒しかしながらこれらの尽力によっても︑婚姻制度上の難点や人格的

 講義後の時点において、性感染症に対する知識をもっと早く習得しておきたかったと思うか、その場

より早期の和解に加え,その計画はその他のいくつかの利益を提供してい

次のいずれかによって算定いたします。ただし,協定の対象となる期間または過去

を負担すべきものとされている。 しかしこの態度は,ストラスプール協定が 採用しなかったところである。

もうひとつ、今年度は安定した職員体制の確保を目標に取り組んでおり、年度の当初こそ前年度から かしの木から出向していた常勤職員 1