ガージャール朝期イランにおける都市変容 ―都市
間の比較分析を通して―
著者
近藤 百世
学位授与機関
Tohoku University
学位授与番号
11301甲第17623号
URL
http://hdl.handle.net/10097/00120396
博士論文
ガージャール朝期イランにおける都市変容
―都市間の比較分析を通して―
Transformation of Iranian Cities in the Qajar Period:
Comparative Analysis of Qazvin, Tehran and the Other Cities
東北大学大学院国際文化研究科
国際地域文化論専攻 イスラム圏研究講座
近藤 百世
A9KD1003
i
目次
凡例 ⅳ 図表一覧 ⅶ 序章 1 第1 節:研究の目的と方法 1 第2 節:先行研究と本論文の課題 2 第3 節:資史料について 6 第4 節:論文構成について 8 第5 節:特記事項 8 第1 項:自然条件がイランの諸都市に与える影響について 8 第2 項:水利施設の発達 10 第3 項:本論文における都市構成の要素の分類 13 【第1 部:ガージャール朝期イランにおける近代化事業の影響】 第1 章:イランにおける近代化事業の興りと進展 16 第1 節:イランを取り巻く政治状況 16 第1 項:列強勢力のイラン侵入 16 (1)初期におけるロシア勢力の侵入 16 (2)初期におけるイギリス勢力の侵入 17 (3)イラン・ロシア戦争をきっかけとした従属化の始まり 19 第2 項:列強への従属化の進展と内部情勢 23 (1)政情不安とバーブ運動 23 (2)利権供与による従属化の進展 25 (3)国内の反発 28 第2 節:イランにおける改革の流れ 31 第1 項:改革の始まり 31 (1)新式軍隊設立がもたらした影響 31 (2)留学生派遣の影響 33 第2 項:ナーセリー期の改革 35 (1)アミーレ・キャビールによる成果 35 (2)ナーセロッディーン・シャーの親政 37 (3)セパフサーラールの改革とその後 40 第3 項:モザッファリー期の改革 41 (1)教育協会の影響 41 第3 節:イランの経済と社会の変化 43 第1 項:イラン経済の変容 43 第2 項:経済圏の拡大と社会変化 45 小結 49 第2 章:都市の近代化:首都テヘランの変化・変容とその影響 50 第1 節:ナーセリー期以前のテヘラン 50 第1 項:テヘランの地理 50ii 第2 項:ガージャール朝期に至るまでの都市形成史 52 (1)サファヴィー朝期以前のテヘラン 52 (2)サファヴィー朝期からザンド朝期にかけてのテヘラン 53 第3 項:ナーセリー期までのテヘランの成長 56 (1)アーガー・モハンマド期 57 (2)ファトフ・アリー期 59 (3)モハンマド期 62 第2 節:ナーセリー期の大改造 65 第1 項:大改造直前のテヘラン 65 第2 項:大改造期のテヘラン 68 第3 項:宮殿域の変化 71 第3 節:建造物から見る他都市への影響 76 第1 項:シャー・モスク・プロジェクト 76 第2 項:モスク・マドラサ複合体の増加 80 第3 項:世俗的建造物の増加 81 小結 83 【第2 部:中継都市ガズヴィーンに見るガージャール朝期の都市変容】 第3 章:中継都市ガズヴィーンの形成 84 第1 節:ガージャール時代に至るまでのガズヴィーンの諸状況 84 第1 項:ガズヴィーンの地理的状況 84 (1)自然条件 84 (2)水利条件 86 第2 項:都市形成史 97 (1)興りから遷都まで 97 第2 節:サファヴィー朝期の都市変容 100 第1 項:サファヴィー朝期の都市構成 100 第2 項:サファヴィー朝期の宮殿域 105 第3 節:ガージャール朝期の都市構成 109 第1 項:都市域の構成 109 第2 項:街区構成 112 第4 節:ガージャール朝期の都市社会 115 第1 項:ナーセリー期の人口調査 115 第2 項:人口構成 117 小結 122 第4 章:ガズヴィーンの都市変容 123 第1 節:ガズヴィーンの再興と再発展 123 第1 項:ザンド朝期からモハンマド期までの都市の再構成 123 (1)宗教関連施設の動向 123 (2)水利施設の動向 126 (3)その他の建造物の動向 127 第2 項:ガズヴィーンの再発展 128
iii (1)ガズヴィーンの再興 128 (2)ガズヴィーンの再発展とアーブ・アンバールの充実 131 第2 節:都市内交通の整備と都市変容 135 第1 項:ナーセリー期の都市変容 135 (1)宗教関連施設の動向 135 (2)水利施設の動向 137 (3)商業関連施設の動向 137 (4)世俗的建造物の動向 139 第2 項:幹線道路整備と関連事業の影響 140 (1)テヘラン=ガズヴィーン街道と都市間交通 140 (2)メフマーンハーネと都市内交通 143 (3)都市社会の変容 149 第3 節:都市社会の変化 154 第1 項:ガージャール朝末期の都市構成 154 (1)宗教関連施設・水利施設・商業関連施設の状況 154 (2)世俗的建造物の増加 155 第2 項:近代化事業の影響 157 (1)ガズヴィーンの識者の活躍 157 (2)ガージャール朝末期のガズヴィーンの都市社会 162 小結 164 終章 総括と課題 165 参考資料 168 参考文献一覧 235 謝辞 244
iv 凡例 〇ペルシア語の転写方法について ペルシア語は原則として、黒柳恒夫『新ペルシア語辞典』大学書林(2002 年)の表記に 従い、ラテン文字に転写して下記のとおり表記する。 (1) 子音に関しては、b, p, t, s, j, ch, h, kh, d, z, r, z, zh, s, sh, s, z, t, z, ʻ, gh, f, q, k, g, l, m, n, v, h, y を用いる。
(2) 母音に関しては、短母音は a, e, o、例外として i。長母音は ā, ī, ū。二重母音は ei, o u、例外として ai(ay)を用いる。 (3) 語末の無音のه(h)は基本的に省略する。 〇固有名詞・人名について 固有名詞は原則として原音に忠実な形で片仮名表記するが、キーワードとなる語につ いては、著者による邦訳を付す場合がある。人名についても片仮名表記とする。いずれも 初出の際、論述に必要なものには括弧付きでローマ字表記を付す。 〇暦について 暦は原則として西暦を用いるが、場合によってはヒジュラ太陰暦、イラン太陽暦を用いる。 前者を用いる際も、史料などでヒジュラ太陰暦やイラン暦が付されている場合は、括弧付き
でヒジュラ太陰暦をA.H.(anno Hegirae)、イラン太陽暦を A.P.(anno Persico)として表記
することとする。 〇引用文献について 引用文献中の( )は文献の著者による補筆・説明、【 】は本論文の筆者による補筆・ 説明であることを示す。 〇参考文献 引用文献や参考にした文献はその都度脚注にて簡略化した形で書誌情報を付す。なお、巻 末に参考文献一覧を付した。また、脚注での書誌情報の表記に関して、文献に西暦が表記・
v
併記されている場合はそれを表記し、そうでない場合は参考文献一覧にのみ西暦を換算し て併記し、脚注では文献に掲載された出版年を記すこととする。
〇雑誌・文献の略号について 下記のように対応する。
・Bargī: Bargī az Tārīkh-e Qazvīn, Tabātabāʻī, Seyyed Hosein Madrasī (A.P.1361, 1982/3), Khaiy
ām, Qom. *文書についてはページ番号の前に(数字)で番号を示す。
・CHIⅥ:The Cambridge History of Iran,Ⅵ, The Timurid and Safavid Periods, ed. Lockhart ,La
urence; Jackson, Peter, Cambridge, 1986.
・CHIⅦ:The Cambridge History of Iran,Ⅶ, From Nadir Shah to the Islamic Republic, ed. Aver y, Peter, Hambly, Gavin and Melville, Charles Peter, Cambridge, 1990.
・EI:The Encyclopaedia of Islam.
・EI2 : The Encyclopaedia of Islam, new (second) edition. ・EI3 : The Encyclopaedia of Islam, Three
・EIR: Encyclopaedia Iranica
・EIR Online : Encyclopaedia Iranica, Online, なお、括弧書きにて書籍版もしくは、最終ア ップデートの情報を付す。出版年は最終アップデート年で統一する。
・Mīnūdar: Mīnūdar yā Bāb ol-Jannat Qazvīn, Golrīz, Muhammad ʻAlī (A.P.1337, 1958/9), 2v
ols, Tehran.
・QI : Qajar Iran: Political, Spcial, and Cultural Change,1800–1925, Bosworth, Edmond and Hil
lenbrand Carole (eds.), Mazda Publishers, 1992.
・Sīmā: Sīmā-ye Tārīkh va Farhang-e Qazvīn, Varjāvand, Parvīz (A.P.1377, 1998/9), 3vols, Tehran.
〇略称について 下記のように対応する。 ・シャー:国王(Shāh)を指す。王名の繰り返しを避けるために使用する場合がある。 ・アーガー・モハンマド期:ガージャール朝初代君主アーガー・モハンマド・ハーン(シ ャー)の活躍時期及び統治期間(doure-ye Āqā Mohammad Khān, Shāh)の略称。本論 文では、キャリーム・ハーンの死後、ガージャール族の族長アーガー・モハンマド・ハ ーンとして活躍した期間(1747‐1788/9, A.H.1160‐1203 年)とガージャール朝初代君
vi 主アーガー・モハンマド・シャーとして統治した期間(1788/9‐1797, A.H.1203‐1211 年)の双方に渡る、1747 年から 1797 年までを指している。略号:(A.M.)。 ・ファトフ・アリー期:第2 代君主ファトフ・アリー・シャーの統治期間(doure-ye Fath ʻAlī Shāh)の略称。1797‐1834(A.H.1212‐1250)年の期間を指す。略号:(F.)。 ・モハンマド期:第3 代君主モハンマド・シャーの統治期間(doure-ye Mohammad Shāh) の略称。1834‐1848(A.H.1250‐1264)年の期間を指す。略号:(M.)。 ・ナーセリー期:第4 代君主ナーセロッディーン・シャーの統治期間(doule-ye Nāserī, N
āser od-Dīn Shāh)の略称。1848‐1896(A.H.1264‐1313)年の期間を指す。略号:(N.)。
・モザッファリー期:第5 代君主モザッファロッディーン・シャーの統治期間(doule-ye
Mozaffarī, Mozaffar od-Dīn Shāh)の略称。1896‐1907(A.H.1313‐1324)年の期間 を指す。略号:(Mz.)。 〇用語について 下記のように対応する。 ・商館、隊商宿:ペルシア語のkārvānsarā、sarā、khān は、商取引や宿泊施設の場となる商業 活動のための複合施設を指す用語である。本論文ではこれらを細かく訳し分けず、その役割 から、都市のものを商館、街道沿いのものを隊商宿と称する。 ・都市域:本論文では、都市的地域(urban area)の概念に加え、イランの都市(shahr)を構成 する諸要素、中心となる会衆モスク(masjed jāmeʻ)行政の場である宮殿域(arg)、経済活動 の中心であるバーザール(bāzār, 市場)、複数の街区(mahalle)に分かれた居住空間などを有 し、市壁(darvāze)や堀(handaq)によって境界が定められたエリアのことを指している。 ・トポグラフィー(topography):地勢(図) ・モスク(mosque):ペルシア語ではマスジド(masjed)と呼ばれ、イスラーム寺院のことを 指す。本論文においては混乱を避けるため英語のモスクで統一する。なお、建造物名の原語 を表記する場合に限り、masjed を使用する場合がある。 ・マドラサ(madrasa):ペルシア語ではマドラセ(madrase)と呼ばれ、イスラーム学院のこと を指す。本論文においては混乱を避けるためアラビア語のマドラサで統一する。なお、建造 物名を表記する場合に限り、madrase を使用する場合がある。
vii
図表一覧
第2 章 図 1:サファヴィー朝以前のテヘラン概念図 53 図 2:サファヴィー朝期のテヘラン概念図 54 図 3:サファヴィー朝滅亡後からザンド朝末期までの宮殿域 56 図 4:アーガー・モハンマド期のテヘラン概念図 58 図 5:アーガー・モハンマド期の宮殿域 59 図 6:ファトフ・アリー期のテヘラン概念図 60 図 7:ファトフ・アリー期の宮殿域概念図 62 図 8:モハンマド期テヘラン概念図 63 図 9:大改造直前のテヘラン概念図 65 図 10:大改造直前の宮殿域概念図 67 図 11:大改造後のテヘラン概念図 69 図 12:大改造後の宮殿域 73 図 13:シャー・モスクが置かれた都市 79 表 1:テヘランにおけるモスク・マドラサ類型 80 第 3 章 図 1:テヘランとガズヴィーンの関係から見た交通の流れ概念図 86 図 2:ガズヴィーンのガナートの給水範囲概念図 91 図 3:ガズヴィーン平野のガナート分布 93 図 4:ササン朝からアッバース朝期までのガズヴィーン概念図 98 図 5:イル・ハン朝期から 16 世紀前半までのガズヴィーン概念図 99 図 6:サファヴィー朝期のガズヴィーン概念図 102 図 7:サファヴィー朝期の宮殿域概念図 106 図 8:ガズヴィーンの都市構成(旧市街地)概念図 111 図 9:ガズヴィーンの街区概念図 113 表 1:ガズヴィーンのガナート一覧 89 表 2:ガズヴィーンの重要なアーブ・アンバール 96 表 3:ガズヴィーンの人口調査結果まとめ 118 第4 章 図 1:ザンド朝期からモハンマド期までのガズヴィーン概念図 124 図 2:ガズヴィーンのアーブ・アンバール分布概念図 133 図 3:ナーセリー期のガズヴィーン概念図 135 図 4:ガズヴィーンのバーザール概念図 138 図 5:メフマーンハーネ概念図 145 図 6:ガージャール朝末期のガズヴィーン 155 終章 図 1:ガージャール朝期ガズヴィーンの開発エリア概念図 1671
序章
第 1 節 :研 究 の目 的 と方 法 本論 文の 目的 は、ガ ージ ャール 朝期(doure-ye Qājār, 1786‐1925 年)に 起 こった 変化・ 変容の 内実 を明 らか にす ること であ る 。具体 的に は、 都市 の分 析を通 して イ ラン内 部に 起 きた変 化・ 変容 の具 体的 事例を 示し 、 それら がど のよ うな 経緯 でもた らさ れ たのか 、あ る いは他 の地 方に 影響 を与 えたの かに つ いて 都 市間 のつ なが り と いう点 から 読 み解い てく も のであ る。 そし て、 現代 のイ ラン =イ スラー ム 共 和国 (Jomfūrī-ye Eslāmī-ye Īrān, 以下 、 イラン, 1979 年~ )1の基盤 を形成 した 時代と いえ る ガ ージ ャー ル朝期 の変 化 の実態 を明 ら かにす る。 この目 的は 、 次の 3 点の 問題意 識を 背 景とす る。 まず は、 ガー ジャー ル朝 期 を通し て起 こった 変化 を理 解す るこ とが、 現在 の イラン をと らえ る際 に重 要であ ると 考 えるた めで あ る。ガ ージ ャー ル朝 期は 、 列強 の影 響 力や時 代の 変化 によ り、 新しい 文物 の 流入 や 近代 化 政策な ど、 近代 化の 萌芽 が見ら れる 時 代であ る。 イラ ンの 近代 化そ の もの は 、 続く パフ ラヴ ィー 朝期 (doure-ye Pahlavī, 1925‐1979 年) に達成 され たも ので ある ことに 異論 は ない。 しか し、 その 近代 化への 準備 が ガージ ャー ル 朝期に 行わ れた 様々 な試 みの中 から 始 まった こと を無 視す るこ とはで きな い 。そこ で本 論 文では 、ガ ージ ャー ル朝 期を現 代の イ ランへ つな がる 鎹の 時 代 である と同 時 に、 後 の近 代 化のた めの 布石 を打 った 時代 と 位置 付 けて 、この 時期に 起こ った 変化・変容 に 注目し たい 。 2 点目 とし て、 ガー ジャ ール朝 期の 分 析に、 都市 研究 の視 点を 考慮す る必 要 がある ので はない かと いう 点で ある 。 近代 化以 前 、 イラ ンを 構成 する 基本 的な単 位は 都 市であ った 。 歴 史 の 舞 台 と な っ て き た イ ラ ン 高 原 の 大 部 分 は 砂 漠 も し く は 砂 漠 周 縁 気 候 に 属 し て お り (後述 )、 その 都市 の大 部分が オア シ ス都市 とし て自 立的 な性 格を持 って い た。 こ れら の 都市の うち 、大 きな もの が地方 勢力 の 拠点を 形成 し 、 時々 の王 朝や支 配勢 力 と協調 ・対 立 を繰り 返し なが ら存 続し てきた 。つ ま り、イ ラン の歴 史研 究に おいて 具体 的 な分析 を行 う には都 市と いう 存在 を無 視する こと は できな いの であ る 。 そし て、ガ ージ ャ ール朝 期は 人 とモノ の流 れ の 加速 にあ わせて 、こ の ような 都市 の在 り方 に変 容がも たら さ れた時 代で あ るとい える 。そ れは 、都 市間交 通が 整 えられ るこ とで 中央 集権 化への 舵が 切 られ、 都市 の 独自性 が失 われ てい くた めであ る 。 こ のこと から 、イ ラン 全体 の変化 を捉 え ようと する と き、こ れら の変 化・ 変容 を追う 必要 が あると 考え るの であ る。 1 国 号 と し て イ ラ ン が 正 式 に 用 い ら れ る の は 1927 年 以 降 であ り 、 そ れ 以 前 は ペ ル シ ア と の 併 用 で あ っ た が 、 本 論 文 で は 混 乱 を 避 け る た め 呼 称 を イ ラ ン で 統 一 す る 。 ま た 、 本 論 文 で イ ラ ン の 呼 称 を 用 い る 際 、 現 在 の イ ラ ン = イ ス ラ ー ム 共 和 国 の 領 土 を 指 す 場 合 と 、 当 時 の 支 配 王 朝 の 勢 力 範 囲 全 体 を 指 す 場 合 と が あ る 。 特 に ガ ー ジ ャ ー ル 朝 期 に お い て イ ラ ン の 呼 称 を 用 い る 場 合 は 、 対 外 勢 力 、 王 朝 、 文 化 に 対 す る 勢 力 範 囲 、 文 化 圏 と い う 意 味 で 用 い て い る 。 国 境 線 画 定 以 後 は 、 そ の 範 囲 内 を イ ラ ン と し て 扱 う 。2 本論文 でも 注目 する 幹線 道路の 整備 は 、単に 広く 安全 な交 通路 が成立 した と いう事 実だ けが重 要な ので はな い。 これら の整 備 によっ て都 市間 交通 がそ れまで にな い 安全性 と速 度 をもっ て確 立さ れ、 各都 市を有 機的 に つなげ たこ とに よる 効果 が重要 なの で ある。 また 、 都市間 交通 と市 内交 通と 結びつ くこ と で、都 市の 中も より 早く 、より 安全 に 物流が 行わ れ るよう に変 容を 遂げ てい くこと とな る 。この 流通 との 結合 が都 市の内 部に 様 々な変 化・ 変 容をも たら す要 因と なっ た 。こ の時 期 に起こ る 都 市構 成 の 変化 は、イ ラン 全 体から ある い はイラ ン全 体に 影響 を及 ぼす何 らか の 変化・変容 の サイ ンで ある と考 えら れる 。その ため 、 本論文 では 、人 とモ ノの 流れを キー ワ ードと して 議論 を進 める ことと する 。 最 後に 、 都市 ガズ ヴ ィー ン (Qazvīn)へ の注 目 の必 要性 が 挙げ られ る 。ガ ズヴ ィー ンは その歴 史的 重要 性に もか かわら ず、 研 究対象 とし て あ まり 注目 を集め てこ な かった 都市 で ある。 特に 近年 は首 都テ ヘラン に都 市 機能を 吸収 され たこ とか ら 存在 価値 が 薄れて いる 。 しかし 、イ ラン史 全体 にお ける ガズ ヴィ ーンの 重要 性を 考慮 すれ ば 、そ の価 値を 再評価 し、 研究を 充実 させ る 必 要性 がある と考 え る。 ま た、 本論 文の 論点 に則し てい え ば、 ガ ージ ャ ール朝 期の 人と モノ の流 れを考 察す る 上で、 ハブ 都市 とし ての ガズヴ ィー ン の存在 には 特 異な点 が認 めら れる 。そ して、 その 分 析はガ ズヴ ィー ン一 地方 に留ま らず 、 イラン の地 域 研究な らび に王 朝史 研究 におい ても 意 義のあ るも ので ある と考 えられ る 。 以上 のよ うに 、本 論文 はガー ジャ ー ル朝期 とい う 近 代化 を目 前に控 えた 変 化 の時 代に お いて、 イラ ン内 部で これ らの影 響が ど のよう に受 け止 めら れ、 波及し 、変 容 をもた らし て いった のか を都 市と それ らのつ なが り に 注目 する こと で 明 らか にする こと を 目的と して い る。本 論文 の意 義は 、王 朝史や 政治 ・ 思想と いっ た大 きな 視点 からで はな く 、都市 とい う 具体的 な視 点 に 落と して この時 期の 変 化 ・変 容を 描き 出す 点に ある。 これ ら を通し て、 イ ランに おけ る近 代化 の進 展をよ り立 体 的に行 うこ とが 可 能 とな るだろ う。 本論 文は 基本 的に 歴史 研究の 立場 を と って 文献 研究 を行 って いる が 、特 に都 市の構 造( ハ ード面 )に 注目 を置 いて いるた めに 、 人文地 理学 や都 市研 究の 分野に 論及 し ている こと を 明記し てお きた い 。 第 2 節 :先 行 研究 と 本論 文 の課 題 ガー ジャ ール 朝期 は、 列強の 侵入 と 利権譲 渡に よっ て政 治的 ・経済 的隷 属 化を招 いた 時 代であ ると 同時 に、 領土 を確定 する な ど、現 代に 続く 基礎 を築 い た時 代で あ る。ま た、 列 強の侵 入を 許し た要 因と もされ る支 配 体制の 脆弱 さが 、様 々な 種類の 抵抗 運 動を生 んだ こ とで、 大小 様々 な改 革の 動きを 生み 出 し、後 の立 憲闘 争へ とつ ながる 大き な 変動を 呼ん だ 時代で もあ る。 とも すれ ば、ガ ージ ャ ール朝 期は 内憂 外患 の時 代とし て否 定 的に捉 えら れ
3 がちで ある が、 この 時代 の様々 な動 き が 後の 近代 化へ とつ なが るもの であ っ た点も 考慮 さ れて研 究が 展開 され てい る2。 地方へ 対す る注 目は 、中 央と地 方の 関 係性を 念頭 に置 いて 研究 が進め られ て いる。 統治 機 構 に 関 し て は 支 配 体 制 と 地 方 政 権 の 関 係 を 考 察 し た バ フ シ ュ3な ど の 研 究 が 一 定 の 成 果 を収め てい る。 また 、立 憲革命 に関 す る研究 では 、地 方の 動き が重要 であ っ たこと から ギ ー ラ ー ン地 方4や タ ブ リ ー ズ5な ど の 研 究 が あ る 。 この よ う に 、 イ ラ ン の社 会 変 化 に 関 する 研究は 、中 央と 地方 に関 係への 注目 が 集まっ てき た 。 また 、都市 のつ なが りに 関し ては 、金 融 や流 通に 注目 した 研究 も 成果 を上 げ ている6。こ れらの 研究 は特 に経 済活 動・金 融活 動 に主眼 をお き、 ガー ジャ ール朝 期が 、 イラン 経済 が 世界経 済シ ステ ム の 中へ 組み込 まれ る 過程で ある こと を明 らか にして いる 。 また、 統治 者 に注目 して 地方 政権 と首 都との つな が り を明 らか にす るタ イプ の研究 も盛 ん である 。中 で
も、 ヴ ァル ヒャ ー によ っ てま と めら れ たゼ ッ ロル ソル タ ーン (Masʻūd Mīrzā Zell ol-Soltā
n, 1849-1918 年)7治下 のエ スファ ハー ンの研 究 が 代表 的な もの として 挙げ ら れる 。これ は、 知事を 中心 に地 方統 治の 方法や 列強 と のやり とり など の様 子を 描き出 すこ と によっ て、 一 地方が 施政 者の 影響 を受 けつつ 時代 の 変化に 対応 して いく 様子 が明ら かに さ れてい る8。地 方に主 眼を おい て ま とめ られた 研究 の 中で 記 念碑 的な 研究 とい えるの が 、 タ ブリー ズに 関 するヴ ェル ナー の研 究で ある9。これ は 不動産 関連 の動 きに 注目 し、土 地所 有 の 変容 から 地 方の変 化を 描き 出し たも のであ る 。 ま た直近 の成 果で は、 グス タフソ ンに よ るケル マー ン 研 究 が 挙 げら れ る10。 こ れ は ケ ル マ ー ン の 地 方 有 力者 に 注 目 し て そ の 血 脈 によ る ネ ッ トワ ークと 経済 活動 の広 まり を明ら かに し 、ガー ジャ ール 朝と の関 係から 、ケ ル マーン にお け るモダ ニテ ィの 変容 を明 らかに した 。 都市 間の 差異 に関 する 研究は 、 主 に 社会学 の分 野を 通し てあ る程度 明ら か にされ てき た。中 でも フロ ール によ る一連 の研 究 によっ て、 都市 行政 の在 り方や 行政 官 の職能 に地 方 差があ った 点が 明ら かに されて いる11。 同様の 指摘 は 水 田に よっ ても行 われ て いた12。加
2 例 え ば 、 Abrahamian (1974), (1982); Bayat (1991), Jahanbegloo(ed.) (2003); Keddie (1966), (1971), (1
991); Ringer (1998), (2001) な ど 。 3 Bakhsh (1978), (2011) な ど 。 4 黒 田 (1984), (1988), (1989), (1992), (1994), (2008); 後 藤 他 ( 編 ) (1997): 227-268 な ど 。 5 八 尾 師 (1998); 佐 野 (2010) な ど 。 6 例 え ば 、 Floor (1972), (1998); Issawi (1971); 坂 本 (1983b), (2003), (2015); 水 田 (1987), (1993), (20 03), (2009)な ど 。 7 第 4 代 君 主 ナ ー セ ロ ッ デ ィ ー ン ・ シ ャ ー の 長 子 。 1872 年 から 1907 年 の 長 期 に わ た り エ ス フ ァ ハ ー ン を 統 治 し た 。 8 Walcher (2008). 9 Werner (2000). 10 Gustafson (2015). 11 Floor (1971), (1998). 12 水 田 (1989).
4 えて岡 崎13、河田14らの 研究 によっ て、 地 方統治 にお ける 知事 職の 重要性 が指 摘 されて い る。こ れら の成 果に よっ て 、イ ラン に おける 地方 統治 の多 様性 が示唆 され て おり、 分析 の 際に地 方性 に配 慮す る必 要性が 確認 さ れてい る。 地方 に注 目し た 研究 は、 い ずれも 地方 統 治を体 系的 に論 じる ので 、当該 地方 や 中心都 市に つい て あ る程 度詳細 な言 及 をして いる 。 しかし 、都 市の 全体 像を 描き出 すよ う なタイ プの 研究 では ない ため、 時系 列 的な変 化を 確 認する こと はで きな い。 このよ うに 、 現在地 方の 研究 の進 展が みられ るも の の、そ の中 心 となる 都市 その もの への 注目 度 は低 い という 状況 にあ る。 都市 構成 に対 する 研究 は、古 くは 歴 史地理 学、美術史 、建 築史15の分野 が牽 引し、その 後 歴史研 究の 分野 にお いて も盛ん にな っ た。 そ して 現在 では 、都 市研究 は、 先 述のよ うに 地 方とい うキ ーワ ード に置 き換え られ 、 地方研 究の 一環 とし て進 められ てい る 場合が 多い 。 日本に おい て は、「イ スラー ム都 市研 究 プロジ ェク ト」(1988-91 年)16を一 つの頂 点とし て 、 都 市 そ の もの が 考 察 対 象 と し て 前 面に 押 し 出 さ れる 研 究 は 減 少 し た17。 そ れ は ひ と え に、 このプ ロジ ェク トの 後、 地方の 中心 都 市とそ の周 辺の つな がり を体系 的に 捉 えた上 で、 地 域全体 の中 でそ れを 位置 づける とい う 視点か ら研 究が 展開 され たため であ る 。 しか し、 近 代化に よっ て都 市間 交通 が発達 する 以 前は、イラ ンを構 成す る単 位は 確か に都 市であ った 。 そのた め、 歴史 研究 を行 う上で 、都 市 という キー ワー ドを 無視 するこ とは で きない と考 え られる ので ある 。 都市 研究 の中 で、 特に 多くの 蓄積 が あるの が首 都テ ヘラ ンで ある。 イラ ン 国内の 研究 で は 建 築 史 に関 連 し た ナ ジ ュ ミ ー の 研究18が テ ヘ ラ ン に 関 し て 体系 だ っ て ま と め ら れ た 中で 最も古 いも のと され てい る。その 他に 、都 市史 をま とめ た シャ ヒー ディ ー19の研究 、社 会史 に 関 し て まと め た シ ャ フ リ ー の 集 成20な ど が 挙 げ られ る が 、 い ず れ も 考 察 や分 析 と い うよ りは史 料集 成の 色合 いが 濃いも ので あ る 。こ れは テヘ ラン に限 ったこ とで は なく、 他の 都 市に関 して も同 様で ある 。 但し 、こ れ らの集 成は 二次 史料 とし ての価 値が あ り、特 に地 図 などと 照ら し合 わせ て都 市の構 造を 捉 えるの に役 立つ こと が多 い。 テヘラ ン 内 部の 個別 的な 事象に 関す る 研究は 、 特 に文 書を 積極 的に扱 って 当 時の様 相を 描き出 す都 市社 会史 の分 野にお いて 盛 んであ った 。ガ ージ ャー ル朝期 に関 し ては、 ナー セ 13 岡 崎 (1985b). 14 河 田 (2002), (2006), (2012). 15 例 え ば Pope (1969); Hillenbrand (1994). 16 文 部 省 の 重 点 領 域 研 究 「 イ ス ラ ム の 都 市 性 Urbanism in Islam」 プ ロ ジ ェ ク ト ( 1988‐ 91 年 )。 1967 年 の 「 イ ス ラ ム 化 プ ロ ジ ェ ク ト 」( 東 京 外 国 語 大 学 ア ジ ア ・ ア フ リ カ 言 語 文 化 研 究 所 ・ 代 表 : 板 垣 雄 三 ) を 引 き 継 ぐ 形 で 展 開 さ れ た 。 イ ス ラ ー ム 文 明 の 特 質 を 都 市 性 に あ る と と ら え て 、 都 市 的 な 生 き 方 の 諸 相 を 比 較 の 手 法 に よ っ て 明 ら か に す る こ と を 目 指 し た 。 そ の 成 果 は2 度 の 国 際 会 議 と 事 典 ( 板 垣 雄 三 他 編 (1992)) の 刊 行 に 集 約 さ れ て い る 。 17 三 浦 (1997a): 2-4; (1997b)な ど 。 18 Najimi (1984a), (1984b). 19 Shahīdī (A.P.1383). 20 Shahrī (1989).
5 リー 期に 行 われ た 3 回 の人 口 調査21に 焦点 を当 て た エ ッ テハ ーデ ィ ーエ の 研 究22が挙 げら れる。 これ は、 統計 資料 の整理 ・分 析 を通し て 、 テヘ ラン が 人 口増加 に伴 っ て都市 域を 拡 大させ てい く様 を、 街区 毎の人 口の 変 化を元 にし て 明 らか にし たもの であ る 。 日本 でも こ の 成 果 を 受け て 坂 本 が 都 市 の 拡 大 と人 口 移 動 に 関す る 研 究 を 行 っ て い る23。 い ず れ の 研究 も、建 造物 を中 心と した ハード 面の 変 化への 言及 が不 足し てい ると指 摘さ れ てきた 。 これ に対 し、 ワク フ文 書を用 いて 不 動産の 所有 関係 を明 らか にする こと で 、テヘ ラン の 発達を 描き 出し てき た近 藤の一 連の 研 究が大 きな 示唆 を与 えた24。また 、現 地 調査に 基づ いたソ レマ ニエ によ るテ ヘラン の大 バ ーザー ルの 発達 史25などは テヘラ ンの 都 市成長 にこ の区域 が果 たし た役 割を 明らか にし て いる 。 モオ タメ ディ ー に よって 概観 さ れたテ ヘラ ン 成立史 とガ ージ ャー ル朝 期の 都 市構 成 の集成 は、 地図 の分 析に 基づい てお り 、水利 と都 市 構成を 結び 付け て捉 えて いる点 で、 筆 者の関 心に 近い26。ま た、 建築史 の分 野 では、 ソル ターン ザー デに よっ て 示 された 、サ フ ァヴィ ー朝 末期 から ガー ジャー ル朝 期 に かけ て広 ま ったモ スク ・マ ドラ サ 複 合体(masjed-madrese) とい う新 しい建 築様 式が 、ガ ージャ ール 朝期の 都市 社会 や宗 教と 人々と の関 わ りを分 析す る一 指標 とし て注目 を集 め ている27。 この よう に、 テヘ ラン の研究 は主 に 不動産 関連 の動 向を 調査 するこ とで そ の変遷 を明 ら かにす る方 向で 研究 が進 められ てき た 。特に 宮殿 域と バー ザー ルに研 究が 集 中して おり 、 テヘラ ン全 体の 動向 を分 析する タイ プ の研究 はそ こま で多 くな い。 ま た、 テ ヘラン の変 化 が他都 市に どの よう な影 響を与 えた の かとい う点 につ いて も 、 建築的 な流 行 に関す る論 考 はある もの の、 具体 的な 動向と して は 明らか にさ れて いな い部 分が多 い。 本 論 文 が注 目 す る ガ ズ ヴ ィ ー ン に関 す る 先 行 研究 は 、 他 都 市 の も の と 比べ て 少 な い28。 特 に イ ラ ン国 外 の 研 究 に 関 し て は 、 ニ ザ ー ル 派 の研 究29や 、 サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 研 究 の 中 で言 及 さ れ る こと は あ っ て も30、 ガ ズ ヴ ィ ー ン そ の も のに 注 目 し た 研 究 は 稀 で ある 。 サ フ ァヴ ィー朝 期か らガ ージ ャー ル朝期 まで に ガズヴ ィー ンを ある 程度 体系だ って 研 究対象 とし て きたの は、 主に 建築 や美 術の分 野で あ った31。 イラ ン国 内に おい ても 、ガズ ヴィ ー ンその もの への 注目 は乏 しく、 研究 の ほとん どが 地 元出身 の研 究者 によ って 行われ てき た 。代表 的な のは パフ ラヴ ィー 朝 期に 当 地の地 誌を ま 21 第 1 回 : 1852/3( A.H.1269) 年 、 第 2 回 : 1869/70( A.H.1286) 年 、 第 3 回 : 1899/1900‐ 1902/3( A. H.1317‐ 1320) 年 22 Ettehadiye (1983), (1999). 23 坂 本 (1982), (1984). 24 近 藤 (1994), (1997), (2003), (2006a), (2006b), (2007), (2012). 25 ソ レ マ ニ エ (2009a), (2009b). 26 Moʻtamedī (2002).
27 Soltānzāde (1993); Idem (1378A.H.); モ ス ク ・ マ ド ラ サ 複 合 体 へ の 指 摘 は 、 例 え ば 、 エ ス フ ァ ハ ー ン
の 調 査 報 告 ( 深 見, 1999) や テ ヘ ラ ン の モ ス ク の 分 析 ( 近 藤 , 2003) な ど に 見 ら れ る 。
28 後 藤 他 ( 編 ) (1997): 330-350; 八 尾 師 ( 編 ) (1997).
29 例 え ば 、 ル イ ス (1973), Daftary (1995), Hodgson (2005) な ど 。 30 例 え ば 、 ブ ロ ー (2012), 平 野 (1997), (2000) な ど 。
6 とめた ゴル リー ズ32、ヴァ ルジャ ーヴ ァ ンド33、タビ ール スィ ヤー ギーら34の著 作 が挙げ ら れる。 これ はそ れぞ れの 著者が 集め ら れる限 りの 史料 や自 身の 聞き取 り調 査 の成果 など を 編纂し たも ので あ る 。テ ヘラン と同 様 に、 い ずれ も資 史料 集成 の色合 いが 濃 く、 分 析が 不 十分な 点も 見受 けら れる が、 ガ ズヴ ィ ーンに 関わ る諸 項目 が百 科事典 的に ま とめら れて お り、二 次史 料と して 価値 の高い 研究 で ある。 近年 目立 った 成果 を上げ てい る のは 、 郷土 史 研 究 家 の ヌー ル モ ハ ン マ デ ィ ー の 一連 の 著 作 で ある35。 こ れ ら の 研 究 は 、 氏 の 関 心 が 立憲 革命史 にあ るこ とか ら 、 近代化 直前 の ガズヴ ィー ンの 都市 社会 につい て の 考 察が多 い。 し かし、 これ らは いず れも イラン 史全 体 の大き な枠 組み の中 でガ ズヴィ ーン を 論じる とい う 視点が 弱く 、 そ の変 遷も ガズヴ ィー ン の中だ けに 留ま って いる 。 以上の 先行 研究 を踏 まえ 、 本論 文の 課 題を、 ガー ジャ ール 朝期 の変化 を 、 都 市変容 の側 面から 考察 する こと と定 める。 具体 的 には、 ガー ジャ ール 朝期 の改革 事業 に 注目し て、 首 都テヘ ラン と ガ ズヴ ィー ンが、 どの よ う な変 化・ 変容 を遂 げる かを明 らか に し 、そ れら の 動きが どの よう な影 響か ら生じ たも の かを考 察す る。 その 上で 、ガー ジャ ー ル 朝期 の近 代 化政策 が、 都市 とそ こに 住む人 々に ど のよう な変 化 ・ 変容 をも たらし たの か を 考察 して い きたい 。 対象期 間は 、変 化 ・ 変容 を大き な流 れ の中で 捉え てい くた めに 、 ガー ジャ ー ル朝期 全体 となる が、 適宜 その 前後 の時代 も考 察 対象に 含め る 。 ただ し、 大きな 変化 が 見られ る 第 2 代君主 ファ トフ ・ア リー ・シャ ーの 時 代から第 5 代君 主モ ザッ ファロ ッデ ィ ーン・ シャ ー の時代 まで の約 100 年間 につい ての 考 察が主 とな る。 中で も、第 4 代 君主 ナ ーセロ ッデ ィ ーン・ シャ ー の 統治 期間 につい ては 、 変化・ 変容 の転 換期 とな るため 、議 論 が集中 する こ ととを 明記 して おき たい 。 第 3 節 :資 史 料に つ いて 都市形 成史 に関 して は 、 先行研 究に よ る成果 を主 に参 考と して いる。 テヘ ラ ンに関 して は、特 にモ オタ メデ ィー による 解説36と ソレマ ニエ の現 地調 査の 成果37を参照 し た。 ガズ ヴィ ーン に関 して は、 先 行研 究 から、 調査 資料 や建 造物 の 分析 やリ ス トなど を利 用 した。 文書 に関 して は、 タバー タバ ー イーが 編纂 した シャ ーザ ーデ・ ホセ イ ン廟に 関す る 文書の 集成 を利 用し てい る38。また、 調 査関連 の報 告と して は、 ガズヴ ィー ン のメフ マー 32 Mīnūdar. 33 Varjāvand (A.P.1351); Sīmā.
34 Dabīrsiyāqī (A.P.1380a), (A.P.1380b), (A.P.1381). 35 Nūrmohammadī (A.P.1380), (A.P.1390), (A.P.1392). 36 Mo’tamedī (2002).
37 ソ レ マ ニ エ (2009a), (2009b). 38 Bargī.
7 ンハー ネ(mahmānkhāne)に 関す るポ ルヒー ズカ ーリ ー39の報告 を始め 、パ フ ラヴィ ー朝 期に行 われ た 文 化芸 術省 の調査 報告 書40がある 。 人口 調査 史料 は、 テヘ ランに 関し て は、サ アド ヴァ ンデ ィヤ ーンと エッ テ ハーデ ィー エ による 校訂 本41を利用 して いる 。ま た考 察に際 して は 、これ らを 分析 した 研究42につい て も 副 次 的 に 参照 し て い る 。 ガ ズ ヴ ィ ーン に 関 し て は、 ゴ ル リ ー ズ43、 ヴ ァ ル ジ ャ ー ヴ ァ ンド 44、ダビ ールス ィヤ ーギ ー45の各研 究で 計 算され てい るも のを 参照 してい る。先 行研究 では 、 ゴルリ ーズ の記 録が 最も 引用さ れる 数 値であ るた め、 計算 が合 わない 場合 や 、数値 にブ レ がある 場合 は、 基本 的に ゴルリ ーズ の 数値を 採用 する こと とし た 。ヴ ァル ジ ャーヴ ァン ド は基本 的に ゴル リー ズの 数値の トレ ー スであ るの で、 副次 的に 参照し てい る 。ダビ ール ス ィヤー ギー のも のは 、3 者のう ち最 も 詳しく 数値 が示 され てい るもの の、 全 体的な 計算 が あわな い場 合が 多い 。そ のため 、全 体 的な数 値は ゴル リー ズの もの採 用す る 代わり に、 街 区ごと の詳 細に 関し ては 、こち らの 数 値を中 心に 考察 する こと とした 。 こ れ らの数 値に つ いては 、巻 末に 参考 資料 として まと め たもの を添 付し てい る( 参考資 料:2) 地図は 、テ ヘラン に関 して は、ガ ージ ャール 朝期 に作 成さ れた 、ベレ ズィ ン46、クル ズィ ズ47、アブド ゥル ガッ ファ ール48によ る地 図が残 され てい る。本論 文で は、基本 的に 、ケ ル ズィズ の地 図に よっ て作 成され たモ オ タメデ ィー の概 念図 を利 用しな がら 、 ケルズ ィズ と アブド ゥル ガッ ファ ール の地図 を読 み 解いて いる 。議 論に 必要 なもの に関 し ては、 適宜 概 念図を 作成 した 。 ガズヴ ィー ンに 関し ては 、イ ギリ ス49とロシア50によ って 作成 された 2 枚 の地 図 と、パ フ ラヴィ ー朝 期に 作成 され た地図51が存 在 する。ただ し、いず れも 20 世 紀以 降、都市改 造が 行われ て以 降の 地図 であ る。そ のた め 、それ 以前 の 都 市構 成 を 再現す るた め に、イ ラン 陸 39 Parhīzkārī (A.H.1386).
40 文 化 芸 術 省 調 査 報 告 書 1021, 22681( Iranshahr: Encyclopaedia of the Iranian Architectural History, ht
tp://ancientworldonline.blogspot.jp/2010/11/encyclopaedia -of-iranian-architectural.html) か ら 参 照 ( 2015 年4 月 ア ク セ ス , 現 在 ア ク セ ス 不 可 )
41 Saʻdvandiyān & Ettehadiye (ed.) (A.P.1368). 42 Ettehadiye (1992), (1998); 坂 本 (1984a) な ど 。 43 Mīnūdar: 427-442.
44 Sīmā: 340, 783-797. 45 Dabīresiyāqī (A.P.1380a).
46 1852 年 作 成 。 モ ハ ン マ ド 期 テ ヘ ラ ン を 訪 れ た ロ シ ア 人 東 洋 研 究 者 ベ レ ズィ ン が 帰 国 後 に 出 版 し た も
の 。 ロ シ ア 軍 が 偵 察 目 的 で 作 成 し た 地 図 修 正 に 収 め ら れ て い る (Pictorial Documents of Iranian Cities in the Qajar Period, Iranian Cultural Heritage Organization, Tehran, 2000 : 51)
47 1857 年 作 成 。 イ ラ ン 政 府 の 命 令 で 作 成 され た 初 め て の 測 量 地 図 ( Kerziz, August, Naqshe-ye Dār ol-
Khelāfe-ye Tehrān, A.H.1275, 1858/9, repr. Tehran, A.H.1370, 1991/2 )。
48 1891 年 作 成 。 第 2 回 人 口 調 査 の 責 任 者 で あ っ た ア ブ ド ゥ ル ガ ッ フ ァ ー ル に よ っ て 作 成 さ れ た 測 量 地
図 。 大 改 造 後 の テ ヘ ラ ン の 様 子 が 分 か る (Abd ol-Ghaffār, Naqshe-ye Dār ol-Khelāfe-ye Tehrān, Tehran, A.H.1309, 1891, repr. Tehran, 1984)。
49 1919 年 作 成 。 縮 尺 : 1/253,440( Mīnūdar: 281, Alai, 2005:326) 50 Mīnūdar: 281
8 軍参謀 本部 によ って 作成 された 地図 を ベース に、 筆者 が適 宜概 念図を 作成 す ること で対 応 してい る。 図・写真 資料 に関 して は、ゾカ ーと セム サール によ る集 成52から多 くを引 用し て いるが 、 原典も しく は出 典に あた れる場 合は そ ちらの もの を優 先し た。 ガズヴ ィー ン に関し ては 、 ヌール モハ ンマ ディ ーの 集成53から多 く 引用し てい る 。ま た、建造 物の 写真 に 関して は 、筆 者によ る撮 影も 含ま れて いる 。これ ら は巻末 に参 考 資 料と して 添付し てあ る(巻末 資料 7)。 第 4 項 :論 文 構成 に つい て 構成 は下 記の 通り とな る 。本 論文 は 、序章 と終 章を 除き 、2 部 4 章 構成 に なって いる 。 大まか な流 れと して 、第 1 部( 第 1 章 ・第 2 章) でガ ージ ャー ル朝期 の全 体 的な変 化の 動 きを概 観し 、第 2 部 (第 3 章・ 第 4 章 )では その 動き が地 方都 市にど のよ う な影響 を及 ぼ してい たの かを 考察 する 形で議 論が 展 開され る。 第 1 章で は、 イラ ンを 取り巻 く国 際 情勢を まと めた 上で 、 近 代化事 業の 経 緯を概 観し 、 当時の 経済 状況 につ いて 全体の 動き を 概観す る 。 第 2 章では 、首 都テ ヘラ ン の都 市構 成 の変化 を追 いな がら 、近 代化事 業に よ ってど う変 化した のか を 考 察す る。 そして 、 地 方 にどの よう な変 化が あっ たか に つい て 考察す る。 第 3 章では 、ガ ズヴ ィー ンの都 市構 成 と特徴 につ いて まと める 。特に 、都 市 構成と 人口 構成を 分析 する こと を通 して、 ガズ ヴ ィーン の特 徴を 明ら かに する 。 第 4 章では 、具 体的 にガ ズヴィ ーン の 都市 変 容を 見て いく こと で、ガ ズヴ ィ ーンの 中で 起こっ た様 々な 変化 が 、 いつど のよ う にもた らさ れた もの かを 明らか にし 、 その特 徴を 分 析する 。 これら4 章 をふ まえ 、終 章では それ ま での議 論を 総括 し、 ガー ジャー ル朝 期 におけ る 都 市変容 つい てま とめ る。 また、 都市 構成 に関 する 議論 を 進め る ために 、イ ラン の都 市の 成立条 件と 水 利施設 に関 する説 明を 次節 にま とめ た。こ れら の 議論は 、テ ヘラ ンと ガズ ヴィー ンの 都 市構成 につ い て議論 する 際の 前提 知識 となる 。 第 5 節 :特 記 事項 第 1 項 :自 然 条件 が イラ ン の諸 都 市に与 え る 影響 に つい て 本論に 入る 前に 、 ガ ージ ャール 朝期 に おける 都市 変化 を理 解す る前提 とし て 、 都市 の成 立条件 と特 徴を 確認 して おきた い。 イ ランの 都市 、特 に本 論文 が分析 の対 象 として いる ガ ズヴィ ーン やテ ヘラ ンは 、イラ ン高 原 上に位 置し てい る。
52 Zoka & Semsar (A.P.1369). 53 Nurmohammadi (A.P.1390).
9 イラ ン高 原の 諸地 域に お ける 都市 の 成立あ るい は発 展は 、自 然条件 とそ の 当時の 王朝 と の関係 に左 右さ れて きた。イラ ンの 国 土の大 半は 山岳 地帯 で、標高 1,500m ほ どの高 地で あ る。西 部に は北 西部 のア ゼルバ イジ ャ ン地方 から 南東 部の ペル シア湾 にか け てザク ロス 山 脈が囲 み、北 部に は最 高峰 ダマー ヴァ ンド山(5,671m) を有 する アルボ ルズ 山脈が カス ピ 海南岸 に沿 って 連な って いる。 東部 は ソレイ マン 山脈 に連 なる 東部山 系が ア フガニ スタ ン との国 境域 に走 って いる 。そし て、内 陸部は キャ ビー ル 砂 漠(dasht-e kavīr)やルー ト砂 漠 (kavīr-e Lūt) とい っ た 広大 な 砂 漠を か かえ て い る。 こ れ らの 砂 漠 地帯 は 湖 が 干上 が って できた もの で塩 分を 含ん でおり 、そ の 周辺に は塩 湖も 点在 して いる。 平野 部 は少な く、 大 きなも のは カス ピ海 沿岸 の平野 とア ル ヴァン ド川 (シ ャッ トゥ ルアラ ブ川 ) 河口部 にあ た るペル シア 湾北 端の 平野 だけで ある 。そ の他小 規模 な平 野 部 はペ ルシア 湾、ホル ムズ海 峡、 オマー ン湾 の沿 岸部 に点 在する 。 国土の 大部 分は 大陸 性気 候に属 して お り、降 水量 が少 なく 、年 較差や 日較 差 も大き く 54、亜熱 帯高 圧帯55の影 響下 にある ため 砂 漠が多 く存 在す る。 カス ピ海南 岸の 温 暖地域 、 アルボ ルズ 山脈 とザ クロ ス山脈 の周 り の高地 の山 岳温 暖地 域を 除き、 残り の 台地の 大半 は 乾燥・ 半乾 燥地 域56である 。そ して 、こ の乾燥 ・半 乾燥 地域 は灌 漑を絶 対条 件 とする と いう特 徴を 持っ てい る。 これら はイ ラ ンの土 地制 度や 農業 の研 究の際 に、 そ の水の 少な さ によっ て注 目さ れて き て いる。 例えば 、岡 崎は イラ ンの 農業と 水利 に 関する 研究 の中 で気 候と 農業の 関係 に 着目し 、イ ランの 国土 を「 西」( 年間 降水量 250mm 以上 )と 「東」(年 間降 水量 250mm 以下) に概 念 的に区 分し た。 そし て、「 西」 は乾 地農 法が可 能で ある 地域、「東 」は ガナ ート による 灌漑 農法が 主た る農 法で ある ことを 指摘 し ている57。こ の概 念に従 えば 、イ ラン の 国土の 実に 7 0%以 上が「東 」に 属し 、灌 漑を 必要と する地 域 と なる 。そ して 、夏 季の 酷暑 と乾燥 、山 岳 地系に よる 農業 の困 難さ から、イ ラン の耕地 面積 は 約 19,000,000 万ヘ クタ ー ル(国土 の約 1 割)に 満た ない 。 54 大 陸 性 気 候 の 影 響 下 で は 、 次 の よ う な 特 徴 が あ る 。 ① 年 間 降 水 量 が 少 な い 。 ② 年 較 差 ( 1 年 の う ち の 最 高 ・ 最 低 気 温 ) が 大 き い 。 ③ 日 較 差 (1 日 の う ち の 最 高 ・ 最 低 気 温 の 差 ) が 大 き い 。 と い っ た 特 徴 が 挙 げ ら れ る 。 イ ラ ン 、 ト ル コ 、 中 央 ア ジ ア の 一 部 が こ れ に 属 し 、 こ れ ら の 地 域 で は 降 水 の ピ ー ク が 冬 に 集 中 す る た め 、 春 の 雪 解 け の 季 節 に 洪 水 が 発 生 し や す い と い う 特 徴 が あ る 。 55 亜 熱 帯 高 圧 帯 と は 、 緯 度 20~ 30 度 付 近 の 地 域 に 形 成 さ れ る 高 気 圧 帯 の こと で 、 中 緯 度 高 圧 帯 と も 呼 ば れ る 。 赤 道 上 で 生 じ た 上 昇 気 流 の っ た 空 気 が 緯 度30 度 付 近 で 溜 ま る こ と で 下 降 気 流 が 形 成 さ れ る の だ が 、 こ の 下 降 気 流 は 高 温 で 乾 燥 し て お り そ の 下 で は 砂 漠 が 形 成 さ れ る と い う 特 徴 が あ る 。 56 メ イ グ ス の 分 類 ( Meigs, 1952) に 従 う と 、 乾 燥 地 域 は 次 の 地 域 に 分 け て 捉 え る こ と が で き る 。 ① 乾 燥 地 域 (arid area): 年 に 1 月 以 上 降 雨 の あ る 地 域 で 年 間 降 水 量 が 200mm 以 上 の 地 域 。 雨 期 の タ イ ミ ン グ と 気 温 に よ っ て 細 分 類 を す る 。 ② 半 乾 燥 地 域 (semi-arid area): 年 間 降 水 量 が 100mm~ 200mm 程 度 あ る 地 域 。 雨 期 の タ イ ミ ン グ と 気 温 に よ っ て 細 分 類 す る 。 ③ 極 乾 燥 地 域 (extreme arid) 年 間 降 水 量 が ほ と ん ど な い 完 全 な 砂 漠 。 気 温 に よ り 、 極 暑 ( サ ハ ラ 砂 漠 )、 温 暖 ( ア タ カ マ 砂 漠 )、 寒 冷 ( タ ク ラ マ カ ン 砂 漠 ) の 各 砂 漠 に 細 分 類 し て と ら え る 。 57 岡 崎 (1988b): 20-32.
10 更に 、原は この「西 」と「 東」を年 間降 水量及 び海 抜に よっ て、砂漠 地域(年 間降水 量: 100mm 以 下 , 海抜:200~1,000m)、砂 漠周縁 地域(100~200mm, 1,000~2,000m)、山 岳地 域(200~300mm, 2,000m 以上 )の 3 つ の地域 に分 類し てい る。砂漠地 域は 、キャビ ール 砂 漠、ル ート 砂漠 の位 置す る イラ ン高 原 中央部 にあ た る 。砂 漠周 縁地域 は 文 字 通り、 この 砂 漠地域 の周 縁 に 存在 する 地域に あた る 。この 地域 は、 テヘ ラン を始め 、エ ス ファハ ーン 、 ガズヴ ィー ンと いっ たイ ランの 主要 都 市の大 半を 含ん でい るた め、本 論文 で はこの 砂漠 周 縁地域 とい う概 念に 基づ いて分 析を 進 めるも のと する 。 そして 、原 は砂 漠周 縁地 域の 自 然、 技 術、社 会の 特徴 は次 の 5 点 に要 約し て いる。 1 点 目はガ ナー トに よる 灌漑 が行わ れて い る こと 。2 点目は 農作 物が 穀類 のほ かに 良質な 豆類 、 瓜類と いっ た夏 作物(特 にメ ロン )が 採れる こと 。3 点 目は 家畜 放牧(定 住農 耕民:夏 と冬 に山地 ・平 地間 で短 距離 放牧/ 遊牧 民 :山地 の夏 営地 と平 地の 冬営地 間で 長 距離放 牧 ) が 行われ てい るこ と 。4 点目 は農村 工業(織 物、窯業 )が 発達 してい るこ と。5 点目は 農業 外 労働者 (牧 畜、 手工 業、 出稼ぎ など ) が多く 、人 口が 流動 的で ある こ と、 以 上 5 点であ る 58 。 これ らの 特徴 から わか ること は、 イ ランの ほと んど の地 域に おいて 給水 は 重要な 問題 で あり 、農 業形 態や 生活 形態な ど に 大き な影響 を及 ぼ し てい ると いうこ とで あ る 。特に 砂漠・ 砂漠周 縁地 域で は、 村落 、都市 など の 居住地 域 の 形成 は 水 利の 問題に 直結 し ており 、平 地 に存在 する 村の ほと んど が大規 模な 灌 漑農業 によ って 作ら れた 人工村 とな る のであ る 。 第 2 項 :水 利 施設 の 発達 降水量 だけ でな く 、乾燥 気候 ・班乾 燥気 候によ る ワ ジ(涸川 )の多 さと 恒常 河 川の少 なさ も59、半乾 燥地 域 の 農村 や都 市の成 立に 灌漑を 絶対 条件 とす る 要 因とな って き た 。そし て、 こ の 灌 漑 のほ と ん ど は ガ ナ ー ト60に よ っ て 行 わ れ てき た 。 ガ ナ ー ト の 歴 史 は古 く 、 そ の最 58 砂 漠 周 縁 地 域 は 、 更 に 北 東 型 砂 漠 周 縁 地 域 ( 砂 漠 と 山 岳 地 帯 に 挟 ま れ た 帯 状 の 地 域 : カ ー シ ャ ー ン = セ ム ナ ー ン = ダ ー ム ガ ー ン = ネ イ シ ャ ー プ ー ル = ガ ー エ ン = ビ ー ル ジ ャ ン ド ) と 西 南 型 砂 漠 周 縁 地 域 ( 砂 漠 と 山 岳 地 帯 に 挟 ま れ た 平 地 部 分 : エ ス フ ァ ハ ー ン = ナ ー イ ー ン = ヤ ズ ド = ケ ル マ ー ン ) に 分 け る こ と が で き る 。 前 者 は 比 較 的 集 落 が 多 く 、 農 業 が 活 発 で あ り 牧 畜 業 は 付 属 的 で あ る 場 合 が 多 く 、 農 村 型 家 内 工 業 が 盛 ん で あ る と い う 特 徴 が あ る 。 後 者 は 、 牧 畜 が 主 体 で 、 バ フ テ ィ ヤ リ ー 族 や カ シ ュ ガ イ ー 族 と い っ た 有 力 な 遊 牧 部 族 が 存 在 し 、 長 距 離 遊 牧 が 行 わ れ る 点 が 特 徴 的 で あ る ( 原, 1997: 6-11)。 59 イ ラ ン の 河 川 の ほ と ん ど は 、 夏 の 高 温 に よ っ て 蒸 発 し て し ま い 、 恒 常 河 川 で も 塩 分 を 含 む 水 質 の 悪 い 川 が ほ と ん ど で あ る 。 こ れ は 、 イ ラ ン 高 原 の 帯 水 層 の 浅 さ が 原 因 で あ る 。 直 接 河 川 の 水 を 利 用 す る こ と が 難 し い 地 域 が 多 い 。 イ ラ ン に お い て 利 用 可 能 な 大 河 川 は 、 ザ ク ロ ス 山 脈 に 水 源 を 持 つ エ ス フ ァ ハ ー ン 地 方 の ザ ー ヤ ン デ ・ ル ー ド 川 、 ホ ー ゼ ス タ ー ン 平 野 の シ ャ ッ ト ル ・ ア ラ ブ 川 、 そ し て カ ス ピ 海 沿 岸 の セ フ ィ ー ド ・ ル ー ド 川 ぐ ら い で あ る ( 岡 崎, 1988b: 37-40; 板 垣 他 , 1992: 385-387, 390-391; Planhol, 2012a)。 60 ガ ナ ー ト は 灌 漑 用 に 地 下 に 掘 削 さ れ た 水 路 、 導 水 暗 渠 ( pūste) の こ と で あ り 、 イ ラ ン に 限 ら ず 乾 燥 地 域 を 中 心 に 、 広 範 に わ た っ て 灌 漑 に 利 用 さ れ て き た も の で あ る 。 イ ラ ン や ア フ ガ ニ ス タ ン 方 面 で は 別 名 カ ー レ ー ズ (kārēz) と も 呼 ば れ 、 イ ラ ク や シ リ ア な ど で は フ カ ラー ( fuqarā)、 ア ラ ビ ア 半 島
11 古の記 録は 紀元前 700 年 ごろの アッ シ リアの サル ゴン 2 世(B.C.722-705 年)の時代 に求 め られる 。そ して イラ ンに おいて は、 メ ディア を滅 ぼし たア ケメ ネス朝 ペル シ アの統 治下 に おいて 盛ん にガ ナー ト建 設が行 われ る ように なっ た61。 ガナー トは 、そ の水 源に 掘ら れる 母井 戸(mādar chāh)が平 均して 40~50m の深さ があ り62、水 源部 から 出口 まで は平均 5~10km63ほどの 長さ があ る。そ して そこ から 30~40m お きに竪 坑が 掘ら れ、2 本 の竪坑 の間 に 横坑を 通す 形で 掘り 進め られて いく の である 。ガ ナ ートの 掘削 は 1 日 に 2m ほ どし か進 め ること がで きず 、完 成に は長い 年月 と 巨額の 費用 を 要した64。そ のた め 、ガナ ート の創 設は 大抵 町 に住 む富 者に よっ て行わ れ て き た65。岡崎 は これを もっ て、 ガナ ート を必要 とす る 地域 で は、 しば しば ガナ ートを 介し て 都市 が 農村 を 作って きた と評 して いる66。 更に、 ガナ ート のメ ンテ ナンス 費用 は 、水源 とな る母 井戸 から 地表に 出 る ま での長 さ とそれ が通 って くる 土質 によっ て異 な ってい る。 創設 に巨 額の 費用が かか っ たよう に、 メ ンテナ ンス にも 通常 大変 な額が かか っ た。ガ ナー トの 通る 土質 が崩れ やす い 場合、 絶え ず 浚渫( lālūbī) や陥 落防 止の 陶製の 輪( kavarl, kūl, gūm, nār)を はめ る補 強工 事の必 要が 生じた 。こ のメ ンテ ナン ス作業 の責 任 は地方 によ って 異な るが 、いず れも 大 変な労 力と 費 用を要 する もの であ る。 そのた め、 ガ ナート の新 設や 修繕 は、 そのほ とん ど がこれ らの 費 用を賄 いう る大 地主 が出 てくる 平和 な 時代に 集中 して おり 、戦 乱期に は見 捨 てられ て廃 墟 付 近 で は シ ャ リ ー ズ (sharīz)、 北 ア フ リ カ で は フ ォ ガ ラ ( foggariur) な ど と 呼 ば れ る 。 中 国 の 坎 児 井 や 日 本 の マ ン ボ な ど も 同 様 の 仕 組 み を 持 つ も の で あ る ( ヴ ル フ, 2001: 253-254; Planhol, 2012c) 谷 か ら 山 麓 傾 斜 地 に 向 か う 沖 積 扇 状 地 の 帯 水 層 ( āb deh) を 水 源 と す る 。 こ こ に 母 井 戸 と 呼 ば れ る 元 井 戸 を 掘 り あ て 、 そ こ か ら 地 表 の 扇 状 地 形 よ り も 緩 や か な 勾 配 で 横 抗 (kūreh) が 掘 ら れ る 。 ガ ナ ー ト の 横 坑 の 勾 配 は ほ と ん ど が1/1000~ 1/1500 ほ ど で あ り、 ガ ナ ー ト の 距 離 が 長 い ほ ど 水 平 に 近 づ く と い う 性 質 を 持 つ 。 流 れ を 緩 や か に す る こ と で 側 壁 を 傷 つ け な い よ う に す る た め で あ る 。 横 坑 は 水 源 部 に あ た る 帯 水 層 ズ ィ ヤ ー ド ・ ア ー ブ デ (ziyād āb deh)、 地 隙 水 の た ま っ た 帯 水 層 キ ャ ム タ ル ・ ア ー ブ デ (kamtar āb deh)、 土 壌 中 の 水 分 の 多 い 透 水 層 タ ル ・ オ ・ ホシ ュ ク ( tar-o-khoshk)、 乾 い た 土 壌 を 持 つ 透 水 層 の ホ シ ュ ケ ・ カ ー ル (khoshk-e kār) と 呼 ば れ る 4 種 類 の 土 壌 の 中 を 通 っ て そ の 出 口 ( mazhar) に 至 る 。 横 坑 は 一 気 に 掘 り 進 め る こ と が で き な い の で 、 一 定 の 間 隔 を 開 け て 竪 坑 ( mīleh, chāh) が 作 ら れ 、 そ こ か ら 縫 う よ う に し て 掘 り 繋 げ ら れ る 。 ま た 、 出 口 付 近 で は 通 常 水 面 は 地 面 よ り 低 く 作 ら れ 、 し ば ら く 開 渠 の 堀 ( haranj) が 続 き 、 耕 地 へ と 注 が れ る ( ヴ ル フ , 2001: 253 -258; 織 田 , 1984: 50-17; 岡 崎 1988b: 32-37; 原 , 1997: 39-44; Planhol, 2012d)。 61 サ ル ゴ ン 2 世 が イ ラ ン 北 西 部 の オ ル ミ ー エ 地 方 へ 遠 征 し た 際 に 無 数 の 地 下 水 路 に よ る 灌 漑 組 織 を 破 壊 し 、 首 都 を 陥 落 せ し め た 旨 が 刻 ま れ た 楔 形 文 書 が 残 さ れ て い る ( 織 田, 1984: 49; 岡 崎 1988b: 46-4 8) 62 最 長 で 300m に 及 ぶ も の も あ る 。 63 最 長 で 70km に 達 す る も の も あ る 。 64 ま た 、 ガ ナ ー ト の 掘 削 は モ カ ン ニ ー ( moqannī, ガ ナ ー ト を 作 る 人 の 意 ) と 呼 ば れ る 職 人 に よ っ て 行 わ れ た 。 ヤ ズ ド の モ カ ン ニ ー が 最 も 熟 練 し て い た と い わ れ る 65 砂 漠 に ガ ナ ー ト を 引 く こ と で 農 耕 地 を 形 成 し た ( ヴ ル フ , 2001: 253-258; 織 田 , 1984: 50-17; 岡 崎 1 988b: 32-37; 板 垣 他 , 1992:390-391) 66 板 垣 他 (1992): 390.
12 となる ガナ ート も数 多く 存在し た 。 し かし、 ガナ ート がな くて は村や 町の 存 続は難 しい 。 そこで 、大 抵の 場合 、ガ ナート は 私 有 財産で なく 、ワ クフ 財67とされて きた の である68。 また 、ガ ナー トは 農業 用水と して 引 かれる だけ でな く、 生活 用水と して も 利用さ れて お り、イ ラン の都 市の 大部 分の給 水も ガ ナート によ って 賄わ れて いた。 都市 部 へ 引か れる ガ ナート は、 大抵 の場 合、 町と郊 外の 境 目に 結 節点 が設 けら れた 。母井 戸か ら 村まで 引か れ たガナ ート を、 中継 する 村で町 への ガ ナート に連 結さ せた ので ある 。 こう した 水の 希少 性は 、灌漑 技術 や ガナー トに よる ネッ トワ ークだ けで な く、そ の価 値 か ら 精 神 的 、 文 化 的 、 宗 教 的 に も 重 要 な 意 味 を 有 し て い た 。 例 え ば 、 公 共 の 水 場 (zahīr) が主要 な道 路沿 いや バー ザール の内 部 、住宅 地の 中な どに 設置 され、 道行 く 人に水 を提 供 する場 とな って いた 。こ れらは タイ ル などで 美し く装 飾さ れ町 の景観 をよ り 美しい もの と する役 割も 担っ てい た69。また 、宗 教的 な必要 性か ら70、モス クや マド ラサ の中 庭 ある い は 前庭 に 泉亭 (khouzkhāne) が必 ず 設け られ て いる 。 そし て この 習 慣は 、 家屋 や商 館 など の 世俗的 な建 造物 の中 庭に も 見ら れる も のであ った 。 そし て 、公 共空 間で の水利 用の 中で 重要な のが 、公衆 浴場(hammām)で あ る。これ は身 を清め ると いう 宗教 的な 目的の 他に 、 健康 ・ 娯楽 ・社 交の 場と しても 機能 し ていた 。 そ し て、 限ら れ た水 を有 効 利用 す ると いう ため に 、 貯 水施 設で あ るア ー ブ・ アン バー ル (āb a nbār, 水蔵 の意 )も 、都 市に おいて は 重要な 機能 を持 って いた 。 アー ブ・ アン バー ルは 、水の 貴重 な 乾燥・ 半乾 燥気 候の 地域 におい て発 達 した 貯 水施 設 で 、 ガ ナ ート に よ っ て 運 ば れ た 水 を保 存 し て お く工 夫 と し て 発 達 し た も ので あ る71。 そ し て、ガナ ート と同 様にイ ラン 以外 の地 域でも 同様 の施 設が 見ら れる72。元 々こ の施設 は 、ガ ナート の給 水順 番が 回っ てきた 際に 水 を貯め てお くも のと して 、農村 のは ず れや 家 屋内 に 67 ワ ク フ ( waqf) と は 寄 進 も し く は 寄 進 財 産 の こ と を 指 す 。 あ る 物 件 の 所有 者 が そ の 用 益 権 を 放 棄 し 、 そ れ ら の 収 益 が 最 初 に 設 定 さ れ た 目 的 に 使 用 さ れ る 限 り 、 そ の 処 分 権 を 放 棄 す る こ と を 意 味 し て い る 。 モ ス ク や マ ド ラ サ な ど の 公 共 施 設 の 維 持 の た め に 寄 進 す る 慈 善 ワ ク フ と 、 子 孫 の た め に 寄 進 す る 家 族 ワ ク フ が あ る 。 ペ ル シ ア 語 で は ヴ ァ ク フ (vaqf) と 表 記 さ れる が 、 本 論 文 で は 慣 例 的 に 使 わ れ る ワ ク フ で 表 記 を 統 一 す る 。 68 ラ ム ト ン (1978): 216-223. 69 板 垣 他 (1992): 385-387. 70 イ ス ラ ー ム で は 礼 拝 ( namāz, salāt) の 前 に 水 な ど で 顔 や 手 足 を 清 め る こと が 義 務 付 け ら れ て い る 。 71 ア ー ブ ・ ア ン バ ー ル の ほ と ん ど は 焼 成 煉 瓦 製 も し く は 石 造 り の 堅 牢 な 建 造 物 で 、 耐 水 性 の モ ル タ ル (sārūj) で 上 塗 り さ れ て い る 。 貯 水 槽 部 分 ( makhzan) は 地 下 に 造 ら れ 、 厚 い 壁 で 外 界 と 遮 断 さ れ て い る 。 イ ラ ン に お け る 公 共 の ア ー ブ ・ ア ン バ ー ル の 貯 水 槽 量 は 最 小 で300 ㎥ 、 最 大 で 3,000 ㎥ と 様 々 で あ る そ し て 貯 水 槽 に は 少 な く と も1 つ 以 上 の バ ー ド ギ ー ル ( bādgīr, 風 採 り 塔 ) と 呼 ば れ る 換 気 シ ス テ ム が 取 り 付 け ら れ て い る 。 バ ー ド ギ ー ル は 貯 水 槽 の 横 も し く は 上 に 取 り 付 け ら れ 、 そ の 上 に 設 け ら れ た 小 部 屋 を 介 し て 貯 水 槽 内 の 空 気 を 循 環 さ せ 、 水 を 冷 た く 清 潔 に 保 つ 働 き を し て い る 。 水 を 新 鮮 な 状 態 に 保 つ た め に バ ー ド ギ ー ル は ア ー ブ ・ ア ン バ ー ル に は 欠 か せ な い シ ス テ ム と な っ て い っ た 。 こ の バ ー ド ギ ー ル の 技 術 は 屋 内 の 冷 房 シ ス テ ム と し て イ ラ ン 中 央 部 の 乾 燥 地 域 で あ る ヤ ズ ド で 発 達 し た も の で あ る 。 ヤ ズ ド に は バ ー ド ギ ー ル を6 本 も 有 す る ア ー ブ ・ ア ン バ ー ル も 存 在 す る 。 ま た サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 以 降 に イ ラ ン で 建 設 さ れ た ア ー ブ ・ ア ン バ ー ル に は 、2 つ 以 上 の バ ード ギ ー ル が 作 ら れ る よ う に な っ て い る ( ヴ ル フ, 2001: 262-264; Sotūda, 1982; Golāmhosein, 2003)。 72 ト ル ク メ ニ ス タ ン で は サ ル ダ ー バ ( sardāba)、 初 期 の ア ラ ビ ア 語 の 史 料 に は エ ス タ フ ル ( estakhr)、 ベ ル ク (berak)、 マ ス ナ ア ( masnaʻ) が 屋 根 の あ る タ ン ク や 貯 水 槽 を 指 す 言 葉 と し て 用 い ら れ る 。
13 ある貯 水池(houze)から 発展し たも の である 。そし てアー ブ・ア ンバ ール の うち 、私 有の ものは 正方 形か 長方 形の 平らな 屋根 を 持つも のが 多く 、 大 抵の 場合建 て増 し で作ら れる 。 そして 、大 きな アー ブ・ アンバ ール は 公共の もの とし て利 用さ れ るが 、こ れ らはド ーム や 円錐型 の屋 根を 持つ もの が多 か った73。 アーブ ・ア ンバ ール の 起 源その もの は 明らか にさ れて はい ない が、 水 の保 存 は 給水 が成 立して 以降 に必 要と なる と考え られ る ことか ら 、 ガナ ート より は新し い施 設 である と 推 測 され る。 アー ブ・ アン バー ルに 関す る 記述 で最 古の もの は 1473( A.H.878) 年の ヤズ ドの 大会衆 モス ク(masjed-e Jāmeʿ)のも のであ った74。 そし て 、都 市に 作ら れるア ーブ・ア ンバ ー ルは 、大抵 そこ に貯め た水 を利 用する モス ク・ マドラ サ・公衆浴 場・商館 といっ た施 設 に付属 する もの とし て建 てられ るこ と が多か った 。 そして 、特 に大 きな もの やモス クな ど に付属 され るア ーブ ・ア ンバー ルは 、 しばし ばそ の 創設者 の威 光を 示す もの として 、壮 麗 なもの とな った 。 こ のよ うな装 飾さ れ たアー ブ・ ア ンバー ルに は正 門(sardar)が作 られて いて、創設者 もし くは 後援 者や 修繕 者 の名前 、日付 などを 刻ん だ碑 文が 掲げ られる こと が 多い。 アー ブ・ アン バー ルはヤ ズド や ナーイ ーン と いった 砂漠 気候 の都 市に 多く存 在す る が、砂 漠周 縁気 候の 諸都 市にお いて も 見るこ とが で きる。 特に 、 本 論文 が扱 う ガズ ヴィ ー ンにお いて は、 一時 期ア ーブ・ アン バ ールの 創建 が 集中す るな ど、 独自 の発 展を見 せて い る。 以上 のよ うに 、 イ ラン の都市 は、 そ の厳し い自 然条 件、 水利 条件に 左右 さ れて発 展し て きたこ とが わか る。 そし て、ガ ージ ャ ール朝 期 に 新し い変 化が 起きた 際も 、 これら のイ ラ ンの都 市が 元々 有し てい た条件 も少 な からず 影響 を与 えて いた ことに 留意 し ておき たい 。 第 3 項 :本 論 文に お ける 都 市構 成 の要素 の 分 類 建設事 業の 増加 は、 都市 の発展 の指 標 となる 。特 に大 規模 な創 建・修 繕事 業 は、十 分 な工期 と潤 沢な 資金 を有 したパ トロ ン の存在 を要 する ため 、当 該都市 の社 会 が平和 で繁 栄 してい る期 間に しか 行わ れない 。 本 論 文では この 点に 着目 し建 造物の 創建 ・ 修繕の 様相 を 明らか にす るこ とで 、都 市変化 ・変 容 を、読 み解 いて いく 。 本論文 では 、都市 を構 成する 要素 を 、宗教関 連施 設 、水 利施 設、商業 関連 施 設、世俗 的 建造物の 4 つの タイ プに 分類し てま と めるこ とと する 。こ れら の施設 は、 こ の時期 のイ ラ ンの都 市構 成に おけ る重 要な要 素で あ る。宗 教関 連施 設 に つい ては、 モス ク ・ マド ラサ と いった 礼拝 ・教 育の 場か ら、参 詣対 象 となる 墓廟 、シ ーア 派宗 教行事 の場 で あるテ キエ や ホセイ ニー エな どを 指し ている 。こ れ らは、 中東 のイ スラ ーム 圏諸都 市に お いて、 信仰 ・ 教育・ 巡礼 ・社 交と いっ た様々 な場 を 提供す るこ とか ら、 都市 内部に おい て 場合に よっ て 73 ヴ ル フ (2001): 262-264; Holod (1982). 74 ヤ ズ ド は イ ラ ン に お い て ガ ナ ー ト 技 術 が 発 展 し 優 秀 な モ カ ン ニ ー が 多 く 集 ま る 場 所 で あ り 、 ア ー ブ ・ ア ン バ ー ル の 技 術 も ヤ ズ ド か ら 術 が 伝 播 し た も の と 考 え ら れ る こ と か ら 、 イ ラ ン に お け る 水 利 施 設 の 建 築 技 術 は ヤ ズ ド に お い て 発 展 し た と 考 え ら れ る (Holod, 1982)。