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明代諸子学史略 ─ その形成過程を論じ地平の拡張に及ぶ ─

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明代諸子学史略 ─ その形成過程を論じ地平の拡張

に及ぶ ─

著者

三浦 秀一

雑誌名

集刊東洋学

119

ページ

21-40

発行年

2018-06-29

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129944

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21 明代諸子学史略(三浦)

明代諸子学史略

││

その形成過程を論じ地平の拡張に及ぶ

││

緒言 晩明の知識人による学術活動が、明代後半以降における 各種出版物の爆発的な増加傾向と双方向的な影響関係を有 していたことは周知のとおりであり、思想や文化、社会や 政治などあらゆる局面にその相互的関係の具体例を見出す ことは、さして難しくもない。たとえば﹃書目挙要﹄の共 編者周貞亮が、 中華民国三年 ︵ 1914 ︶、 所蔵の ﹁黄刻二十子﹂ に附した跋文の﹁明季人好彙刻子書﹂という冒頭の一句も ま た ︶1 ︵ 、この関係性をめぐる証言のひとつに数えることがで きる。明代末葉、諸子系大型叢書の出版はたしかに流行し た。では、この現象と当時の学術活動との関係とは具体的 に如何なるものであったのか。本稿は、子書出版の趨勢分 析という視座に拠り、この点の解明をおこなう。それとあ わせて、明代諸子学の形成過程にまで考察を溯らせ、その 後の歴史的展開についても略述する。 井上進氏の﹃中国出版文化史﹄は、明一代における諸子 書刊行の歴史を解析するためにも一章を割 き ︶2 ︵ 、その傾向を こ う 記 す。 ﹁ 明 初 以 来 の 百 余 年、 異 端 諸 子 は ま っ た く 読 ま れ な く な り、 む ろ ん 出 版 さ れ る こ と も な か っ た ﹂ の だ が、 この状態は﹁十六世紀に入り、儒教内部における異論、異 端の登場とともにはっきり変化しはじめ﹂ 、﹁ここから明朝 最末期に至る間、諸子が出版され、世に広まり、一般読書 界に受容されていった﹂ 。そしてその具体的経緯について、 明 版 の 諸 子 書 に 対 す る 広 汎 な 精 査 を も と に 解 明 す る 一 方、 こ の 時 期 の﹁ 諸 子 書 肯 定 の 風 気 ﹂ を め ぐ り、 そ れ が、 ﹁ 明 末的人間が良知という究極を措定し、そこから学術の全体 を、区々たる儒教を越える中国の学術を展望しようとした のと同じ心情﹂に淵源するとともに、その心情が、旺盛な 出版活動を媒介として社会に浸透したと推察される。 集刊東洋学 第一一九号 平成三〇年六月 二一 −四〇頁

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22 明末人士の﹁心情﹂問題に関しては、また別の解釈も可 能であろう。ただし出版文化の趨勢を掌握すべく遂行され た氏の文献調査に対し、筆者が全幅の信頼を置いているこ とはあらかじめ申し述べておきたい。 一、明代諸子学の形成過程 ︵一︶   ﹃五子書﹄の編纂出版とその重刻 元末至正十八年 ︵ 1358 ︶の跋文を附す宋濂撰 ﹃諸子辨﹄ は、 明代諸子学史上、 関鍵的書物だとみなせ る ︶3 ︵ 。右に井上氏が、 ﹁ 百 余 年 ﹂ の あ い だ は﹁ 異 端 諸 子 ﹂ を 読 む 人 士 が 途 絶 え た と述べ、 その起点を﹁明初﹂に据えたのも、 宋濂︵ 1310 -81 ︶ の逝去を歴史の一区切りと捉えたからに相違ない。たしか に そ の﹁ 百 余 年 ﹂ 後、 斯 書 に 注 目 す る 人 士 が あ ら わ れ た。 弘治九年︵ 1492 ︶、 ﹃新刊五子書﹄が﹁西安﹂において官刻 さ れ た 際 に、 当 時 陝 西 提 学 官 で あ っ た 楊 一 清︵ 1454 -1530 ︶ がこの新刊書に序文を贈り、そのなかに同書の評語を、肯 定的な立場から引用したのである。 ﹃ 五 子 書 ﹄ の﹁ 五 子 ﹂ と は、 鬻 子・ 鶡 冠 子・ 子 華 子・ 尹 文子・公孫龍子という五種類の子書を指す。そもそも﹃諸 子辨﹄は、鬻子から子程子まで四十種の﹁諸子﹂に対する 論評から成る書物であり、この﹁五子﹂に対しても宋濂は 批評を加えていた。冒頭の鬻子について、楊一清の序文が ﹁鬻子は蓋し子書の始め、篇章、舛錯して完からずと雖も、 其 の 文 は 質、 其 の 義 は 弘 く、 実 に 古 書 た る こ と 疑 い な し ﹂ と述べるのも、 ﹃諸子辨﹄の引き写しであ る ︶4 ︵ 。楊序は、 ﹁五 子﹂に関する該書の論評をひとあたり再述し、次いで論者 自 身 の 諸 子 観 を 以 下 の よ う に 開 陳 す る。 ﹁ 五 子 ﹂ を 含 む 諸 子一般を﹁異端曲学﹂と断じたのちの一段である。   五緯、奎︵宿︶に聚まり、諸儒、道を闡らかにしてよ り、士、稍や章句に通ずれば、 即 ちに孔孟を尊びて百家 を 黜 くるを知る。諸子、並びに世に生まるるも、 適 だ指 麾駆使の資となるに足るのみ。況んや眇焉として綫の如 きの言、 顧 ぞ吾が病いとなるに足らんや。且そも至理は 寓せざる所なく、蒭蕘も当に察すべき所あり。権度、我 に在らば、則ち寸長片善も、皆な取るべくして棄つべか らず。 此れ侍御公の志にして予は為に之を述ぶる者なり。 文 末 の 侍 御 公 が﹃ 五 子 書 ﹄ の 編 者 李 瀚︵ 1453 -1533 ︶ で ある。楊一清は、孔孟の大道が明らかな社会では諸子百家 もまた正統的価値観の支配下に置かれた末端の下僕でしか なく、その言葉に惑わされることはあり得ないと言う。し か し 一 方 で、 ﹁ 至 理 ﹂ は 遍 在 し て お り、 是 非 の 価 値 判 断 を 自身に確立させておくならば諸子書の片々たる有益さも採 用可能だとも主張する。諸子書の意義を控え目ながらも公

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23 明代諸子学史略(三浦) 然と説き、李瀚を自身の同調者と位置づけたわけである。 ﹃ 五 子 書 ﹄ は そ の 梓 行 か ら 五 十 余 年 を 経 て 再 刊 さ れ た。 そ の お り に 出 版 を 主 導 し た 欧 陽 清 に よ る 序 文 を 紹 介 し た い。江西上饒の欧陽清は嘉靖十一年の進士であり、 ﹁関中﹂ において刊行された﹃五子書﹄すなわち李瀚本のその翻刻 本を入手し、当該テキストの杜撰な校勘をただしたうえで 同 書 の 再 刊 を お こ な っ た。 嘉 靖 二 十 三 年︵ 1544 ︶、 か れ が 浙江按察司副使であった時期の事業である。かれは、その 序文に如上重刻の経緯を記したの ち ︶5 ︵ 、諸子書を読む者の心 構えをめぐり以下のような見解を提示した。   至理は人の心に具わる。心、未だ純なること能わざれ ば、言は 斯 ち雑なり。言を観る者、 苟 し能く吾が真知を 致 し て、 以 て 决 択 の 準 と な さ ば、 則 ち 精 粗 錯 出 す る も、 窮理を 害 げず、粋駁並陳するも、知言を害げざるなり。 欧陽清は、 ﹁至理﹂としての自己の﹁真知﹂を発揮させ、 精 粗 粋 駁 に 対 す る 判 断 基 準 を 内 面 に 確 立 さ せ て こ そ、 ﹁ 窮 理﹂や﹁知言﹂などの個別的実践が正当に遂行されると説 く。王守仁門下の王畿に﹁良知は無善無悪、之を至善と謂 う。 良 知 は 知 善 知 悪、 之 を 真 知 と 謂 う ﹂ と の 発 言 が あ り ︶6 ︵ 、 王学所説の実践認識を、欧陽清の序文に垣間見ることも可 能 で あ ろ う。 か れ は 次 い で、 ﹁ 性 知 の 真 ﹂ に も と づ く﹁ 知 言窮理﹂ の結果、 ﹁諸子﹂ からも有益さが引き出せると述べ、 最後に諸子書が包摂する豊富な内容を、こう表現した。   今、諸子の書を観るに、恢弘辯博にして、彌綸する所 多く、 仁義を組織し、 道徳を経緯し、 礼楽の本に原づき、 名実の詳しきを 厲 ぎ、三才を叙述して天人を究達し、古 今に変通して以て治乱を推明せざることなし。人情を曲 暢し、物理に旁通するが 若 きに至りては、往往、之を奇 言奥旨の中に 見 せば、 固より得て棄つべからざる者あり。 諸子書には、倫理道徳をはじめ、天地人を貫く原理や治 乱興亡の歴史から人情物理に至るまで、あらゆる知識が独 特 の 表 現 の も と に 記 さ れ て い る と 言 う。 ﹁ 五 子 ﹂ の 内 容 を はるかに超える総括にも見えるが、ここでは、諸子書に対 するこの手放しの称讃を、上記楊一清による抑制的な認可 と対比させる。弘治から正徳、嘉靖に至る時期、諸子に対 する明人の評価はたしかに上昇していた。さればその背後 には、かかる変化を促した何らかの理由が存するはずであ る。井上氏の所説のとおり、王守仁に首唱された心学の運 動が諸子評価の向上と関係することは間違いないが、ひと まず王学誕生以前の状況から検討を始めるとしたい。 ︵二︶   漢代儒家文献刊行の諸子学史的意義 ﹃ 新 刊 五 子 書 ﹄ を 刊 行 し た 山 西 沁 水 県 出 身 の 李 瀚 は、 成 化十七年 ︵ 1481 ︶ の進士登第。在職中の報酬はすべて ﹁海

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24 内図籍﹂の購入に注ぎ込んだとの逸話が伝わ る ︶7 ︵ 。同書刊行 時かれは巡按陝西監察御史の任に在り、提学官楊一清とは 同僚で、両者は、弘治八年郷試の受験者選抜に際し協力関 係を結ん だ ︶8 ︵ 。この書物の由来について傅増湘が﹁道蔵﹂に 依拠すると述べるとお り ︶9 ︵ 、 正統九年︵ 1444 ︶に刊行が開始 され翌年に竣工した ﹃正統道蔵﹄ の千字文函目である ﹁顚﹂ 号 の 全 体、 第 一 か ら 第 十 二 ま で に は、 鬻 子 以 下 の﹁ 五 子 ﹂ が収録される。元末明初における諸子学の伝統は﹃正統道 蔵﹄に引き継がれてい た ︶10 ︵ 。そして李瀚は、ごく一部ではあ るがその秘蔵に光をあてた。 楊一清は、上記﹁新刊五子書序﹂において自身の学習履 歴 を 振 り 返 り、 ﹁ 予、 学 を 始 め て よ り、 即 ただ ち に 諸 子 百 家 言 を慕うを知るも、挙業に 局 かぎ られて未だ暇あらざるなり。長 じて仕籍に 歯 なら び、 稍 いさ さか群書を蒐渉するも、 顧 た だ学に本な く、途轍に眩まさるるを恐る﹂と述べる。かれの進士登第 は 成 化 八 年︵ 1472 ︶、 当 時 に お け る 科 挙 の 受 験 勉 強 に 諸 子 書の読書が入り込む余地はなかった。しかし楊一清が、少 年期以来の諸子書への関心を継続させ、その読み方につい て煩悶すらしたその裏面には、明朝科挙を支える理念とし ての程朱学に対する不満が存していたと推察する。 詳細は割愛するが、この時期、受験の現場には制度疲労 が進行しており、地方における日常的な督学活動にしても 或いは郷試の業務にしても、 変革の動きが顕在化していた。 前掲の序文に﹁権度在我﹂と記したその﹁我﹂には、督学 の現場においてかれが志向した自己抑制的な﹁我﹂が重な る。 ﹁ 徳 行 ﹂ と﹁ 刑 罰 ﹂ と の 寛 猛 の バ ラ ン ス を は か る の が そ の﹁ 我 ﹂ で あ り、 ﹁ 徳 行 ﹂ 一 尊 の 理 念 が 風 化 し た 状 況 へ の対応策として、かれはそのような主体的提学官像を構想 してい た ︶11 ︵ 。 弘治に先立つ成化年間、宋代の道学者たちが残した語録 や文集が盛んに重刊された。 この風潮に対しては陳献章 ︵号 白 沙、 1428 -1500 ︶ お よ び そ の 門 下 の 人 士 が 異 を 唱 え も し たが、それでも出版に従事した知識人は、当時の科挙試験 にみられる硬直化傾向を、試験の理念に即した原典の解明 をとおして打開しようとし た ︶12 ︵ 。楊一清における諸子書とは、 そうした道学書の次の段階に位置し、道学の範囲を超えた 幅広い知識を受験生に提供しうるものであった。呉県出身 の 都 穆︵ 字 玄 敬、 1459 -1525 ︶ に よ る 出 版 活 動 か ら、 そ の 蓋然性を推測したい。 都穆は弘治十二年︵ 1495 ︶の進士登第、 同十五年には浙 江桐郷県の知県李廷梧が官刻した前漢の儒者陸賈の新語二 巻に序文を寄せた。李廷梧はかれと同年の進士合格者であ り、 都 穆 は そ う し た 友 人 と も 協 力 し あ い、 盬 鉄 論・ 中 論・ 申 鍳 ・潜夫論といった漢代の儒書を含めて多くの書物を出

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25 明代諸子学史略(三浦) 版し、序跋を残し た ︶13 ︵ 。たとえば﹁古本国語跋﹂には以下の ように言う。   古書は、五経の外、左氏伝・戦国策等の若きより以て 是の書に及ぶまで、 皆な学者の当に究心すべき所なるも、 往往、挙子の業に奪わる。好古の士いまだ嘗て無からず と 雖 も、 坊 肆 の 市 る 所 は、 率 ね 皆 な 時 文・ 小 説 に し て、 此くの如き本を求むるも、豈に得べけんや。 営利のみを追求する民間の書肆への憤懣は﹁中論跋﹂に も見える。さらに、同年の涂禎が江陰知県として官刻した 盬 鉄 論 の 跋 文 に は、 ﹁ 其 の 治 乱 を 究 め、 貨 利 を 抑 え、 以 て 国家の政に裨する者、蓋し但だに之を当時に行うのみなら ず、しかも又た之を後世に施すべし﹂とも述べる。都穆お よびその周辺の新進の人士は、秦漢期の書物についてその 政治的有用性に着目するとともに、民間の書肆を介しての 知識の普及をも、その学術活動の視野に収めていた。 弘治後半における秦漢の論著の出版には、政治や学問の 分野での現状改革に、それを活用しようとする意図が含ま れていた。先秦諸子に対する李瀚や楊一清の認識も、それ と軌を同じくするものであったと推察する。そして続く正 徳 年 間、 ﹁ 文 は 必 ず 先 秦 両 漢 と 曰 い い、 詩 は 必 ず 漢 魏 盛 唐 と 曰 う ︶14 ︵ ﹂と謳う復古主義的文学潮流のなかで、漢魏諸家の書 物が陸続と再刊された。 正 徳 八 年︵ 1513 ︶、 李 夢 陽 が 校 刻 し た 賈 子 十 巻 は、 弘 治 年間、都穆が喬宇︵字希大︶から入手し﹁京師﹂で刊行し た賈誼新書の誤脱をただした書物であ る ︶15 ︵ 。李夢陽にとって 都穆や喬宇とは、 かれが復古の旗印を掲げた弘治末年以来、 その運動に共鳴する仲間であっ た ︶16 ︵ 。若き日の王守仁もまた その同志であり、復古運動をその推進力として展開された 出版活動が、たんに文学的要求からのみ遂行されていたわ けではないことが推察される。 正 徳 十 三 年︵ 1518 ︶、 顔 如 瓌 が 家 蔵 の 顔 氏 家 訓 に 都 穆 所 有の宋本などを合わせた校訂本を重 刻 ︶17 ︵ 、翌十四年には何孟 春が、自身の訂注本賈誼新書十巻を黄省曾の序文を得て出 版し た ︶18 ︵ 。一方黄省曾は、同年、自注の荀悦申 鍳 を王鏊の序 文を得て刊 行 ︶19 ︵ 、同十六年には、何孟春が自身の校訂注釈に かかる孔子家語を福建建寧の張瑞に送り書坊での刊刻を要 請し た ︶20 ︵ 。改元後の嘉靖二年には、李夢陽が河南で上梓され た戦国策に序文を寄せてい る ︶21 ︵ 。 嘉靖六年 ︵ 1527 ︶、 湖広提学官であった許宗魯が ﹃六子書﹄ 六十二巻を官刻し た ︶22 ︵ 。同十二年、呉郡の顧春がやはり﹃六 子 書 ﹄ 六 十 巻 を 刊 行 し た。 ﹁ 六 子 ﹂ と は 老 荘 列 の 道 家 三 子 と荀子・楊子法言・文中子中説の儒家三子をあわせた諸子 書を指す。二種類の﹃六子書﹄は、ともに南宋以来の纂図 互註系﹁六子﹂を底本としつつも異なる方針のもとで編纂

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26 され、両者とも、版を重ねるほど好評を博し た ︶23 ︵ 。 儒道両家の基本文献を合併した﹁六子﹂が、何故この時 期に新たな読者を広く獲得することになったのか。道家系 の書物とりわけ老子への着目は、正徳期における一部思潮 への批判を含意す る ︶24 ︵ 。たとえば嘉靖九年撰述の薛蕙﹃老子 集 解 ﹄ は、 ﹁ 静 ﹂ 的 境 地 を 偏 愛 す る 思 想 傾 向 の 克 服 を 企 図 した先駆的成果である。一方、 儒家三子を尊重する空気は、 如上、科挙批判を含む政治批判および復古を唱える文学活 動の後押しを受けて膨張したものであろう。ただしこの批 判活動には江門や王門の人士もまた参画していた。 つまり、 儒家三子の尊重へと繋がる思潮はそれ自体の独自性を有し つつも、道家三子に着目する思潮とその基盤を共通させて もいた。そしてこの時期、かかる根源的共通性が人びとに 感 知 さ れ る よ う に も な っ て い た。 ﹁ 六 子 書 ﹂ と は、 そ う し た時代感覚の具体的象徴でもあった。引き続き嘉靖人士の 子書認識に立ち入り、時代思潮との関連性を分析する。 ︵三︶   心学運動における博学の位置 正徳末葉、 漢代子書の刊行に従事した黄省曾 ︵ 1490 -1540 、 字勉之︶は、その同じ時期、王守仁のもとで真摯に学んで もい た ︶25 ︵ 。ちなみに﹃伝習録﹄下巻第四十八条以下の問答十 二条は、かれの記録にかかるものである。 嘉 靖 四 年、 黄 省 曾 は 陽 明 に﹁ 王 信 伯 遺 言 ﹂、 す な わ ち 北 宋の程頤および楊時の門人である王蘋︵字信伯︶の文集の 刊行を打診し た ︶26 ︵ 。陽明は王蘋の造詣を﹁高明特達﹂と評価 したが、文集の省略すべき箇所は﹁刪去﹂し、 ﹁簡明切実﹂ を 旨 と し た 編 纂 を お こ な う よ う 勧 告 し た。 ﹁ 此 学 ﹂ の 闡 明 に直結しない作業は、陽明にとって疣贅以外のなにもので もなかった。前年すでに陽明は、黄省曾に対し﹁経史を誦 習するは、本より亦た学問の事にして廃すべからざるもの なるも、本を忘れて末を逐うは、明道に尚お玩物喪志の戒 めあり﹂と同様の訓戒を示してい た ︶27 ︵ 。また黄省曾がその居 室に﹁自得﹂と命名したことを祝う一文のなかですらも苦 言 を 連 ね、 ﹁ 世 の 学 者、 辞 章 を 業 と し、 訓 詁 に 習 い、 技 藝 に工みにして、 賾を探りて隠を索む。精を 弊 つ くし力を極め、 勤苦して身を終うるは、所謂る深く之に 造 いた る者なきにあら ざるも、然れども亦た辞章なるのみ、訓詁なるのみ、技藝 なるのみ。深く道に造る所以にあらざれば、即ち亦た外物 なるのみ。 ﹂と述べてい た ︶28 ︵ 。 陽 明 は、 ﹁ 辞 章 ﹂ 世 界 の 住 民 で も あ る 黄 省 曾 の 学 問 傾 向 を知ったうえで、その活動が﹁自得﹂の障礙にならぬよう 釘を刺した。黄省曾も師の訓戒を受け入れたはずだが、し かしその実践態度は必ずしも陽明に首肯されるものではな かった。

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27 明代諸子学史略(三浦) ﹁玩物喪志﹂に言及した右の書簡において陽明は、 ﹁君子 の学は以て己の為めにす。己を成すと物を成すとは、本よ り一事たりと雖も、而も先後の序は、紊すべからざるもの あ り ﹂ と も 言 う。 ﹁ 心 外 無 事、 心 外 無 理 ﹂ と い う か れ の 基 本 的 立 場 を、 ﹁ 成 己 ﹂ と﹁ 成 物 ﹂ が﹁ 一 事 ﹂ だ と 表 現 し た のである。この﹁一事﹂の境涯に在る限り、 ﹁辞章﹂も﹁訓 詁 ﹂ も 自 己 を 疎 外 さ せ る 原 因 と は な る ま い。 ﹁ 物 ﹂ の 世 界 に隷属せず個別の﹁物﹂と自在に関わる﹁己﹂は、すでに 内外一如の境涯を実現しているはずだからである。諸子書 との接触も同様であろう。それでも陽明は、この門弟に対 しては ﹁先後の序﹂ を乱すなとして自己の確立を優先させ、 ﹁ 辞 章 ﹂ や﹁ 訓 詁 ﹂ か ら は 遠 ざ か ら せ た。 か れ ら は 膨 張 し つつあった書物の世界と対峙していた。陽明自身は、右の 如き自己の理念を、かかる世界すらをも包摂するものとし て鍛える必要性を痛感していたと思われる。 だが、 陽明が如何に配慮を重ねようとも、 かれの言説は、 その学派にくみしない者の目に﹁物﹂の価値を一概に否定 する主張としか映らなかった。後世、明朝随一の博識を絶 讃 さ れ る 楊 慎︵ 1488 -1559 ︶ は、 ﹁ 博 文 ﹂ の 意 義 を 肯 定 す る 立場から、当時の学者をこう批判す る ︶29 ︵ 。   今の学を語る者、吾、焉に惑えり。博を厭いて約に 径 り、 文を屏けて礼に径りて、 曰く、 六経は吾が注脚なり、 諸子は皆な糟粕なりと。是れ猶お、天に問いて何ぞ 径 ち に雨を為さず、奚ぞ雲の擾擾たるを為すやと 曰 い、地に 問いて何ぞ径ちに実を為さず、奚ぞ花の紛紛たるを為す やと曰うがごときなり。是れ天地に在りても博を捨てて 約に径るあたわず。况や人においてをや。雲は天の文な り、花は地の文なり、六経諸子は人の文なり。 ﹁ 六 経 吾 注 脚 也、 諸 子 皆 糟 粕 也 ﹂ と の 言 葉 を 書 物 否 定 の 主張と見る楊慎には心学運動への偏見が存する。しかしか れにとっては諸子書もまた六経の精神を受け継ぐ人間社会 の﹁文﹂であり、それはこの天地に雲や花が存在するのと 同様、学問の世界を彩る不可欠の要素であった。 秦漢期の書物をも含めて諸子書に対する読書環境は当時 確実に向上していた。ただし、博識を﹁玩物喪志﹂と難じ る議論もまた熱く支持されていた。それを楊慎は白眼視す るのだが、しかしこの課題をみずから引き受け諸子書の存 在意義について思索をめぐらす人士も存在した。明代諸子 学の特徴のひとつが、かくしてかたちを持つことになる。 隆 慶 元 年︵ 1567 ︶、 安 含 山 県 儒 学 教 諭 で あ っ た 沈 津 の 主導により﹃百家類纂﹄四十巻が編纂、刊行された。この 書物は﹁百家﹂との書名に相応しく、時代では先秦から明 代まで、内容的には儒学から雑家、兵家までの﹁諸子﹂を 対象とした大型のアンソロジーである。浙江慈谿出身の沈

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28 津は、その修学時代、受験勉強の合間に﹁百家書﹂を愛読 してい た ︶30 ︵ 。この読書ノートが ﹃百家類纂﹄ の粉本となった。 同書の﹁凡例﹂には、荘子郭注などは原典の理解を妨げ る 注 釈 だ と す る 文 脈 に お い て、 ﹁ 陸 象 山 に 言 う あ り、 学 は 苟し本を知らば、六経は皆な我が註脚と。六経すら尚お爾 り、矧んや諸子をや。 否 しからざ れば則ち玩物喪志にして、外を逐 いて内を遺る。尽く天下の書を読み、尽く天下の理を窮む と雖も、固より身心に補うことなきのみ。 ︵かくの如きは︶ 鄙人纂輯の意にあらざるなり﹂との一段が載る。六経です ら﹁我が註脚﹂であるのだから諸子書は尚更だ、として原 典の意義を高唱しつつその主体的な読書が肝要だと主張す るのである。それを沈津が﹁身心﹂の陶冶に裨益すると表 現する点に、王学隆盛の時代思潮がうかがえる。 ﹃ 百 家 類 纂 ﹄ の 巻 首 に は 張 時 徹 の 書 い た 序 文 が 載 る。 そ のなかでかれは、表現の多様な諸子書でも根源的道理を考 察 す る 点 で は 同 一 で あ り、 し か も そ こ に は﹁ 陰 陽 の 玄 秘 ﹂ から﹁極天蟠地﹂この世界中の諸現象までもが具備される と説いたうえで、そうした諸子書との関わり方を﹁古今に 博綜して万有を寸赤に 羅 つら ぬるにあらざるよりは、其れ何を 以て天地に参両し、神化の用を尽くさんや﹂と述べる。森 羅万象に関する知識はまずその﹁寸赤﹂において自家薬籠 中のものとされなければならない。それを成し遂げた人物 によってこそ、世界の真理を網羅する諸子書ははじめて現 実に生かされるというわけである。 浙江 鄞 県出身で嘉靖二年進士登第の張時徹 ︵ 1500 -77 ︶は、 幼年期、父の膝下において六経の学問を修め、次いで﹁子 史百家言﹂の学習を命じられ た ︶31 ︵ 。そして仕官後、修学時代 の記録を﹃説林﹄十六巻に整理した。かつて漢儒の書物を 刊行した李濂は、 この編纂物を﹁蓋し子書の粋なる者なり﹂ と評し た ︶32 ︵ 。同書はまた﹃百家類纂﹄儒家類の収録対象とも なった。右の序文には、諸子書閲読の過程において体得し たかれ自身の方法論が記されていた。 ま た 張 時 徹 は、 江 門 湛 若 水 の 編 著 で あ る﹁ 二 業 合 一 論 ﹂ が王門の聶豹によって重刊されたおり、 かれに序文を贈り、 そ こ に わ が﹁ 固 有 ﹂ の も の を﹁ 存 ﹂ す る の が﹁ 徳 行 ﹂、 そ れを﹁述﹂べるのが﹁文詞﹂ 、﹁措﹂くのが﹁事業﹂であり、 それらの行為は実際には﹁一而已﹂だと記してもい る ︶33 ︵ 。張 時 徹 の 学 問 に 関 し て は、 沈 明 臣 が﹁ 公 は 六 経 に 根 柢 し て、 下は稗官爾雅、子史百家の言に至るまで、其の閫奥を 鏡 てら さ ざるなし。宋人性命の旨を融化して、発して先秦両漢古雅 の 辞 と 為 す ﹂ と ま と め て い る ︶34 ︵ 。 当 人 の 主 観 に 沿 う な ら ば、 自身の執筆活動はまさしく ﹁徳業﹂ と同根の行為であった。 沈明臣による右の概括は、当時の学者が帯びる偏向への 批判を含むものである。同様の批判を、浙江華亭の何良俊

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29 明代諸子学史略(三浦) は、 隆慶三年 ︵ 1569 ︶ の自序を持つ ﹃四友斎叢説﹄ ︵巻四 ﹁経 四﹂ ︶に﹁今の世の理性を談ずる者は文辞を言うを恥とし、 文辞に工みなる者は理性を談ずるを厭う。斯の二者は皆な 非なり﹂と記した。万暦七年︵ 1579 ︶重刻の同著は、 経史 以下、十七類に分かれる構成であり、その巻第十九・二十 には﹁諸子﹂関連の見解が掲載される。儒家を除く先秦諸 子から漢儒および王通に至るまでを対象とした多様な議論 が列挙されるのである。かれ自身は諸子の﹁最著﹂なるも のを取り上げて論じたと言うが、 それでも考察の幅は広い。 一方、かれはまた、講学の風潮には批判的ではあったが陽 明良知説に共感を抱いてもいた︵同巻四︶ 。 何良俊は﹁理性﹂と﹁文辞﹂の両者を如何なる関係にお いて把握していたのか。 ﹃中庸﹄ ﹁尊徳性道問学章﹂を分析 す る 以 下 の 一 文 か ら︵ 同 前 ︶、 そ の 構 造 を う か が い た い。 か れ は こ の 章 を、 聖 人 に よ る﹁ 全 体 工 夫 ﹂、 す な わ ち 天 与 の徳性をみずからが円満に開示する実践を説く一段として 解釈する。そしてこの円満さは﹁問学﹂の充実によって得 られると述べ、その具体的内容を同章の言葉によって説明 する。たとえば﹁致広大而尽精微﹂句を用いては、 ﹁広大﹂ さの獲得は自己の﹁規模﹂を拡げるが﹁闊略﹂に走りやす い の で﹁ 精 微 ﹂ を も 追 究 す る と 説 き、 ﹁ 極 高 明 而 道 中 庸 ﹂ 句 を 用 い て は、 ﹁ 高 明 ﹂ さ の 徹 底 は そ の﹁ 志 意 ﹂ を 昂 揚 さ せるが﹁亢厲﹂に陥りやすいので﹁中庸﹂に依拠すると説 く。続く﹁温故而知新、敦厚以崇礼﹂も同様、前者は既成 の知識にもとづきつつもそれを﹁引伸触類﹂することで新 たな成長が得られることを明らかにし、後者は渾然たる気 質のなかにも﹁節目﹂を細かく見出せばこそ﹁文理﹂は懇 切 に 察 知 で き る こ と を 言 う、 と 捉 え る の で あ る。 ﹁ 問 学 ﹂ の内容を多面的に捉え、しかも個々の実践に功罪の両義性 を見出しそれを補完する方法までをも想定する点に、かれ の理解の特徴がある。現実観察の綿密さがこうした周到な 実践理解を生み出したと推察する。 かく自説を開陳したうえで、何良俊はその多面的な実践 につき、 ﹁ 初 もと より差別なく、 亦た漸次もなし﹂と捉える。 ﹁問 学﹂を構成する個々の要素間に漸進的な段階性は存在しな い。つまりそれぞれの要素は、その欠陥を補完する実践と 相俟って独自の存在意義を有するのである。 綿密な現実観察に加えて、かれは刻々と移り変わる現実 に対し、その存在の掛け替えのなさをも看取しようとする か の 如 く で あ る。 そ の 場 合、 ﹁ 問 学 ﹂ の 諸 要 素 が 遂 行 さ れ る個別的局面に当人の﹁徳性﹂は開示され、 ﹁理性﹂と﹁文 辞﹂ との相即的関係が成立することになる。ただしかれは、 それに続けて﹁必ず其の全功を会せんと欲すれば、又た須 く打ちて一片と做りて、 方 はじ めて是れ聖人の学なり﹂とも説

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30 いた。 ﹁問学﹂ 諸要素の統合融和を最終的に求めるのであり、 個別具体的な﹁問学﹂に﹁徳性﹂の発現を見出すかれの立 場はいわば重層的な構造を有し、その間には一種の飛躍も 想定されていたとみなせよう。 江 西 泰 和 出 身 の 胡 直︵ 1517 -78 ︶ は、 欧 陽 徳 な ど 王 門 の 高弟に学んだのち儒学の教官を経て嘉靖三十五年に進士登 第、 万 暦 元 年︵ 1573 ︶、 広 東 按 察 使 の 任 に 在 っ て そ の 秋 の 郷試を監督し、あわせて問題の作成にも携わった。その策 問第二問と程策に注目した い ︶35 ︵ 。策問は、宋濂﹃諸子辨﹄を 前 提 に 諸 家﹁ 数 十 子 ﹂ を 列 挙 し、 ﹁ 博 而 寡 要 ﹂ と の 問 題 点 を は ら む 儒 家 で は、 ﹁ 数 十 子 ﹂ が そ の﹁ 轅 ﹂ を 向 か わ せ る 先とはならないと断じる。そして受験生に対し、 諸子に ﹁帰 依﹂先を理解させるには根本を﹁反観﹂させるべきかどう か を 質 問 し た。 そ も そ も﹃ 諸 子 辨 ﹄ は﹁ 読 者 ﹂ の﹁ 帰 宿 ﹂ 先として北宋の周程二子を挙げており、策問はその二子を ﹁ 所 謂 る 本 よ り 末 に 達 す る 者 ﹂ と 認 定 し た う え で、 受 験 生 の本末理解をたずねたのである。かくして程策は、その冒 頭に以下の如き本末相即論を展開した。   夫 れ 道 の 天 下 に 在 る や、 有 本 有 末、 本 な る 者 は、 人、 其の内に蔵さるるを見るも内にはあらざることを知らざ るなり。末なる者は、人、其の外に散ずるを見るも外に はあらざることを知らざるなり。強いて之を一にするに はあらざるなり。頃暫と雖も得て二たらざればなり。 以 下 程 策 は、 ﹃ 諸 子 辨 ﹄ の 論 評 を 丁 寧 に 再 述 し つ つ も、 その不足を示唆して﹁然れども未だ本末の実を究めず、未 だ幾微の辨を致さざれば、則ち趨く者も終に已むところな きなり﹂と述べ、上記の本末相即論へと繋がる考察を始め る。その一段の骨子は、末葉を尊重する儒家と根本を知る 釈道二氏との歴史的対立の原因を本末の区別に固執する思 考に求め、それを批判するものであり、末尾では明儒陳白 沙 に も 言 及 す る。 ﹁ 我 は 大 に し て 物 は 小、 物 に 尽 く る こ と あるも我に尽くることなし﹂という白沙の発言を批判して ﹁自己と他物とがまだ二つだ︵我物猶二也︶ ﹂と言い、程子 所説の﹁性無内外の旨﹂に関しては理解が不十分だと捉え るのである。 胡直は根本に依拠することの重要性を説きつつも、その 行 為 が 末 葉 の 価 値 を 認 め る 姿 勢 と 表 裏 す べ き こ と を 強 調 し、そしてその主張を﹁諸子策﹂として表現した。受験生 の世界に諸子書の学習が浸透していることを踏まえ、ただ しその意義を、博識の探究に限定されるものでも、また心 性の涵養を導く一箇の手段でもないと断じたうえで、その 個 別 的 行 為 の 一 齣 一 齣 に 本 性 の 開 示 を 看 取 す る の で あ り、 しかもそうした場面以外に本性の開示はあり得ない、と説 明を加えたのである。

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31 明代諸子学史略(三浦) 欧 陽 清 に よ る 上 記﹁ 刻 五 子 書 序 ﹂ が 示 す 諸 子 書 理 解 は、 読者の ﹁决択﹂ を要請する点で張時徹による ﹁百家類纂序﹂ の主張、すなわち﹁寸赤﹂における﹁万有﹂掌握の要請に も 通 じ る だ ろ う。 ﹃ 新 刊 五 子 書 ﹄ か ら 新 た に 始 ま っ た 明 代 諸子学が変化し始めるその兆候を、 嘉靖二十三年重刊の ﹃五 子書﹄は体現していたとも言える。諸子書の閲読を含む博 学についての認識が構造的に変わろうとしていた。そして その契機はたしかに心学の流行に存していた。 ﹁ 心 外 無 事 ﹂ と い う 陽 明 の 理 念 に 従 え ば、 自 己 の 良 知 が 発 現 す る 場 に お い て 博 学 は 決 し て 排 除 さ れ る も の で は な い。またそれ自体が良知の発現にほかならない以上、博学 が手段の位置に限定されるわけでもない。ただし、こうし た認識は博学を無条件に肯定する態度とは似て非なるもの である。 何良俊や胡直においても、 これらの点は自明であっ ただろう。加えてかれらは、陽明没後、良知の完全性に固 執するばかりの一部同門人士と、それを博識否定として非 難する門外の教養人とのあいだに在ることを自覚する者で もあった。そしてこの両者間の軋轢を乗り越えるべく、如 上の見解を提示した。 その見解の特徴は、自己の本性が開示されるその個別具 体的な現場として、博識を肯定する点に存する。つまり個 別の場を超えて恒久的に肯定される博識は存在せず、それ と同時に、その場を離れて開示される自己の本性もないと いうのである。無論、 こうした主客の相対する場において、 本 性 が 常 に た だ し く 開 示 さ れ る と は 限 ら な い。 そ の 場 合、 博識を肯定するその仕方にも歪みが生じることになる。た だしその歪みをなおす根拠にしても、或いはその方向性に しても、自己の良知が示す以外にはなく、自己の良知を離 れて何らかの絶対的基準が想定されるわけではない。 要するに、諸子書の読書を含む博識は、行為の当事者に おける自己実現との相関関係のなかでのみ、その意義がそ の都度確定される。陽明没後の思想世界において、諸子書 を肯定する論理は、その論理を行使する者に対し、判断の 正当性をめぐる自己省察をも常に要請していたのである。 二、明代諸子学における地平の拡張 ︵一︶   諸子書を肯定する論理の展開 万暦・天啓期の諸子学に関しては、諸子と認定される対 象の拡張といった現象をその特徴として挙げることができ る。本節ではそうした傾向が醸成されるに至る背景の一斑 を探るとともに、上述した諸子書肯定の論理が、その後ど の よ う に 展 開 し た の か と い う 点 に つ い て も 推 察 を 加 え た い。まず﹃子彙﹄ 、﹃先秦諸子合編﹄ 、﹃諸子玄言評苑﹄三点

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32 の諸子系叢書を用い展開の方向を見定める。 ﹃ 子 彙 ﹄ 二 十 四 種︵ 景 印 元 明 善 本 叢 書 所 収 ︶ は、 万 暦 四 年︵ 1576 ︶からその翌年にかけて編纂、 刊行された官刻の 叢 書 で あ る。 撰 者 は 余 有 丁︵ 鄞 州 人、 嘉 靖 四 十 一 年 探 花 ︶ と周子義︵無錫人、 嘉靖四十四年進士︶であり、 万暦四年、 南京国子監祭酒の任に在った余有丁が編纂に着手し、翌年 その職に就いた周子義が、前任者の事業をも引き継い だ ︶36 ︵ 。 二 十 四 種 の 内 訳 は、 目 録 順 に、 儒 家 と し て 鬻 子・ 晏 子・ 孔 叢 子・ 陸 子・ 賈 子・ 小 荀 子・ 鹿 門 子、 道 家 と し て 文 子・ 関 尹 子・ 亢 倉 子・ 鶡 冠 子・ 黄 石 公 素 書・ 天 隠 子・ 玄 真 子・ 無 能 子・ 斉 丘 子、 名 家 と し て 鄧 析 子・ 尹 文 子・ 公 孫 龍 子、 法 家 と し て 慎 子、 縦 横 家 と し て 鬼 谷 子、 墨 家 と し て 墨 子、 雑家として子華子・劉子である。先秦諸子に加えて漢儒や 唐代人士による子書もまたその収録対象であり、そのなか の 十 一 点 の 諸 子 書 に は 周 子 義 の 序 文 ま た は 跋 文 が 附 さ れ る。 周子義は、晏子について、その内篇を採用し外篇の﹁経 術﹂に合致しないものは篇末に列記したと述べ、子華子に つ い て は、 後 人 に よ る 仮 託 で あ る こ と は 明 白 だ が、 ﹁ 其 の 文辞論議、時に観るべきものあり。固より詞林の必ず録す る 所 な り ﹂ と 捉 え る。 同 様 に﹁ 墨 子 序 ﹂ に お い て も、 ﹁ 余 わ れ諸子を輯むるに、其の言詞の近似せると文采の観るべき 者にして、以て一家を備うるものを裁択す。諸もろの非聖 払経、複重して猥雑なる者は、悉く置きて録せず﹂との見 解 を 示 す。 ﹃ 子 彙 ﹄ 所 収 の 墨 子 が 非 命 下 第 三 十 七 の あ と に 耕柱第四十六を続けるのは、非儒篇︵第三十八︶および名 家言に属する経篇を意図的に除外した、内容に関わる節録 であ る ︶37 ︵ 。かれが、経術を中心に据えた節録主義をその基本 的立場として、 ﹃子彙﹄ の編纂に携わっていたことがわかる。 ﹃先秦諸子合編﹄ ︵筆者未見︶は、 万暦三十年︵ 1602 ︶に そ の 編 者 で あ る 馮 夢 禎︵ 1546 -1605 ︶ が 緜 眇 閣 に お い て 刊 行した叢書であり、そこには儒家・道家・法家・名家・墨 家の子書全十六種が収録される。傅増湘がその﹃蔵園羣書 経眼録﹄に採録した無記名の序文は、同書誕生の理由につ いて、 官刻の ﹃子彙﹄ は ﹁文に節略多し﹂ 、そこで呉中に ﹁合 編﹂ が登場したと記す。 ﹃子彙﹄ の編纂方針を客観的に述べ、 そ の 補 充 宣 言 を お こ な っ た だ け の 文 章 で あ る か に 見 え る が、以下に示す諸子認識と合わせるならば、序文の執筆者 における右の方針への批判意識が浮かびあがる。   之 を 要 す る に 尽 く は 大 道 に 詭 ら ず。 孔 氏 の 堂 に 遊 び、 取材の訓を 聆 き、 明主を得て之が輔と為るを得しむれば、 則ち諸子なる者も皆な卿の材なり。百世の後、夫れ誰か 異端を以て之を斥け、大道の蠧と謂わんや。 文中の﹁取材﹂とは論語公冶長篇の一節を典拠とし、朱

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33 明代諸子学史略(三浦) 注に拠れば道理を﹁裁度﹂する能力のこと。ここで孔子を 尊重する立場は﹃子彙﹄のそれと変わらない。だが節録主 義を採る﹃子彙﹄に較べた場合、 ﹃合編﹄は、 ﹁百世﹂後の 将 来、 ﹁ 異 端 ﹂ と し て 排 斥 さ れ る 諸 子 は な く な る か も 知 れ ないと説く点において、その可能性に期待を寄せるもので ある。 さればその可能性を閉ざしかねない節録に対しては、 当然、反対であっただろう。要はその使い方次第だという のである。 諸子書がはらむとされた欠点は、未来永劫、欠点のまま とされ続けるわけではない。ここには、是非善悪の価値判 断を相対的なものと捉える思考がうかがえる。かかる思考 は、個別的存在をその個別の場において是認する傾向を持 つ。 そ う し た 立 場 に 拠 っ て 編 纂 さ れ た の が、 ﹃ 合 編 ﹄ に や や先立つ時期の﹃新 鎸 諸子玄言評苑﹄二十一巻︵国立公文 書館所蔵︶である。 同書は、各巻の巻頭題に続く双行をまたいで﹁太史﹂の 二文字を掲げ、その下に各行に分けて葵日陸可教選および 九我李廷機訂との文字を並べる。浙江蘭谿出身の陸可教は 万暦十九年には翰林侍講に就いており、一方の李廷機は二 十二年には翰林侍講であったが二十四年、国子監祭酒に転 じていた。両者ともに ﹁太史﹂ である時期の下限が知られ、 あわせて同書の刊行時期も推察可能である。 同 書 の 陸 可 教 序 は、 ﹁ 六 経 以 後、 諸 子 の 文 出 ず。 晩 周 よ り南宋迄、上下数千年間、百家、説を異にするも、覃思藻 発、抑揚変化、横縦に肆溢す﹂と記して南宋の書物までを 諸子書の範囲に含め、その思索や表現の変幻自在な多様性 に驚嘆する。ただし実際に収録するのは先秦から後漢まで の諸子であり、末尾の﹁適一子﹂だけが例外であ る ︶38 ︵ 。その 総数は三十六を数える。陸序はその後、 現実問題として ﹁虚 無寂滅の流﹂の排斥は必要だが、しかしその対象や方法は 考慮すべきだとして、以下のように言う。   然 る に 今、 碩 儒 も 緩 頬 し、 譬 引 連 類、 古 今 を 揚 確 し、 疵を去り醇を摘みて、以て大対に奉じ、時策に資し、往 往にして藉りて以て知遇を售る。蓋し諸子の書、倶に各 おの其の是を是とす。若し粗を舎て精を掇り、本を求め 末 を 棄 て、 精 騎 を 什 伍 よ り 抽 き、 玄 珠 を 罔 象 に 探 さ ば、 鍾離の丹熟して銅鉄も皆な金たるが如し。 ﹁碩儒﹂ ですらも ﹁緩頬﹂ つまり諸子書には寛容だと述べ、 さ ら に 科 挙 の 現 場 に お け る そ の 有 効 性 に も 言 及 し た う え で、諸子書はそれぞれに独自の価値観を有し、そのなかの 粗雑な箇所を除き精微なものを探り出すならば、いずれも その貴重さを発揮すると説くのである。諸子の有用性をか く述べたのち、序文は、子書編纂に関する本書独自の認識 を提示する。諸子が包蔵する﹁玄機﹂を見出すうえで役立

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34 つのが﹁評釈﹂だとしてその方法を明示するのだが、ここ ではその多様さに注目したい。   故に之が註釈評品を為すに、或いは其の実を紀し、或 いは其の文を節し、或いは其の事の真似を訂し、或いは 其の詞の是非を断じ、或いは章を断ち義を会わせ、或い は字を解し言を詮す。 ﹃ 玄 言 評 苑 ﹄ に は 実 際 に こ れ ら の 方 法 が 駆 使 さ れ る。 さ らに同書の凡例は、多様な評釈方法の提示に対応させ、以 下の如く、諸子書が具備する内容や表現上の多様性を拾い あげる。   一、 評品凡例。按ずるに諸子百家、 各おの一指を持す。 精者、奥者、微者、妙者、流 湸 者、軽快者、殫述すべか らざれば、 評品すること、 或いは其の文字の工妙を絵き、 或いは其の意旨の異同を証し、或いは其の秘奥の深遠を 闡らめ、或いは其の刊刻の謬訛を訂し、或いは其の行事 の 媺 美を取り、或いは其の垂世の謨訓を探る。 評釈方法とその対象との双方の多様性に対する同書の認 識は明確である。そしてその意識は読者の多様性にも及ん だ。 ﹁ 録 文 凡 例 ﹂ に﹁ 諸 子 百 家、 旨 意 は 各 お の 異 ら ば、 読 者 も 亦 た 好 尚 は 見 を 殊 に す。 奇 幻 を 尚 ぶ 者 は 老 荘 を 慕 い、 平 易 を 喜 ぶ 者 は 淮 南 諸 家 を 宗 と す ﹂ と 説 く と お り で あ る。 さらに、下記﹁次序凡例﹂に見える如く、諸子を列挙する 伝統的方法にまでも変更を加える。これもまた如上の個別 主義に見合う編輯方針であろう。読者はその時どきの関心 に応じて諸子を選択的に閲読すればよく、形式的でしかな い分類は無用だというわけである。本書は諸子書を配列す るうえで、儒家を先頭に据える漢志的伝統に依拠しないば かりか、諸子同士の関連づけにも拘泥しない。   一、次序凡例。按ずるに老荘は文章の鼻祖、故に首列 に居く。其の余の諸子は、聯次甚しくは相拘せず。年次 の相近き者あり、文類の相似る者あり、或いは世道に関 係する者あり。読む時に 止 だ意を以て之を求め、篇に就 きて賾を探り、融会貫通すれば、筆を下すこと軽車を駕 するが如し。 これらの凡例は、 万暦四十四年︵ 1616 ︶序刊﹃新鍥翰林 三 状 元 会 選 二 十 九 子 品 彙 釈 評 ﹄ に も そ の ま ま 転 載 さ れ る。 李廷機と焦竑を共編者とする﹃品彙釈評﹄は、その封面に も﹁按諸子百家、各持一指、精者、奥者﹂云々との文章を 掲げ る ︶39 ︵ 。同書を販売した鄭雲斎宝善堂がその宣伝文句とし ても流用したわけである。そして当該の凡例はさらに転じ て、 天啓五年 ︵ 1625 ︶ 序刊の ﹃刻鍾伯敬先生評選諸子 嫏嬛 ﹄ ︵ 国 立 公 文 書 館 蔵 ︶ の 凡 例 に も 一 部 使 用 さ れ る。 書 名 に 見 える鍾惺をその撰者に擬する書物である。 さて﹃先秦諸子合編﹄の相対主義的価値観にしても、ま

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35 明代諸子学史略(三浦) た﹃玄言評苑﹄の徹底した個別主義にしても、構造的に見 るならば、胡直が構想した諸子書肯定の論理をその理論的 前提とする。胡直にとって博識の探究は、その都度に開示 され刻々と変化する本性の個別的具体表現だったからであ る。 一 方、 ﹃ 子 彙 ﹄ に こ う し た 思 考 の 影 響 を う か が う こ と は 難 し い。 無 論 そ の 内 容 か ら 了 解 さ れ る と お り、 ﹃ 子 彙 ﹄ は﹃ 子 彙 ﹄ な り に 嘉 靖 期 以 前 の 諸 子 学 を 受 け 継 い で い た。 万暦期の諸子学には従前の多様な成果が重層的に流れ込ん でいる。しかしその趨勢は、王学的思考を受け継ぎ、諸子 書の個別性や多様性に着目する方向へと進んでいた。 問題は、何良俊や胡直が苦心して説いた内外相即の論理 が、万暦人士にどう受けとめられたかである。 ﹃玄言評苑﹄ の主客双方にわたる個別主義は、無原則な実用本位の立場 とも隣り合う。その利用目的を読者に委ねる以上、そこに は 科 挙 受 験 の 参 考 書 と し て 使 用 さ れ る 可 能 性 も 含 ま れ る。 同書の編集方針に対する歓迎の空気には、こうした功利的 な 期 待 も 混 在 し て い た。 か か る 問 題 も 視 野 に 入 れ な が ら、 諸子書の﹁地平﹂の拡張について考察を続ける。 ︵二︶   漢魏六朝文献の﹁子書﹂編入 ﹃ 子 彙 ﹄ は 孔 叢 子 か ら 小 荀 子︵ 荀 悦 ︶ ま で の 五 点 を 漢 代 の諸子と認定する。漢儒の文献に対する注目それ自体、前 代の諸子学を受け継ぐ態度であり、 この視点は、 ﹃玄言評苑﹄ に お い て よ り 強 調 さ れ る。 同 書 は 子 華 子 の 次 に 孔 叢 子 を、 尉繚子の次に陸賈新語を置いたのち、同書の後半に、淮南 子 以 下、 賈 誼・ 司 馬 相 如・ 楊 子・ 劉 向・ 王 潜 夫・ 仲 長 統・ 王充・徐幹・桓譚・崔寔・班彪・竇融を、一連の漢代﹁諸 子﹂として並べるのである。ちなみに﹃百家類纂﹄が漢人 と み な し て 選 ん だ 諸 家 は 二 十 名、 そ の 多 く を﹃ 玄 言 評 苑 ﹄ は重複させ、さらに班彪と竇融は﹃評苑﹄独自の収録であ る。漢魏人士の著作を出版する動きは弘治年間に始まり嘉 靖 後 半 に い っ た ん 収 束 し、 万 暦 中 期 に 改 め て 活 性 化 す る。 以 下、 こ う し た 動 向 の 一 斑 を 出 版 史 的 に 概 観 し た う え で、 それを﹁地平﹂拡張問題の考察へと繋げる。 嘉 靖 十 一 年︵ 1528 ︶、 弘 治 十 八 年 進 士 登 第 の 劉 節 が、 二 十年来の群書博捜の成果を ﹃広文選﹄ 八十二巻にまとめた。 蕭統﹃文選﹄の分類に依拠しつつ﹃文選﹄が採り残した詩 文を増広した編纂物であり、同十六年、福建晋江県の陳蕙 が原著の八十二巻を六十巻にまで削って刊刻し、淮揚書院 に置い た ︶40 ︵ 。﹃広文選﹄ は、 ﹃四庫総目提要﹄ 総集類存目二 ︵巻 一九二︶ が ﹁顛舛百出﹂ と酷評するとおりその校正は粗雑、 詩 文 類 別 の 仕 方 も 元 来 の 分 類 と の 齟 齬 を 含 む 書 物 で あ り、 す で に 楊 慎 が 同 書 を 閲 覧 し、 具 体 例 を 挙 げ て そ の﹁ 疎 謬 ﹂ を断罪してい た ︶41 ︵ 。ただしこの書物もまた漢魏人士の著作に

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36 対する関心の昂揚を示すものであり、そうした嘉靖後半の 空気が﹃漢魏叢書﹄の構想を導き出してもいる︵後述︶ 。 万 暦 十 年︵ 1582 ︶、 胡 維 新 は 河 北 大 名 道 兵 備 副 使 に 就 く と、陸賈新語から文心雕龍まで﹁漢人﹂の著作十二点を収 め る﹃ 両 京 遺 編 ﹄︵ 景 印 元 明 善 本 叢 書 所 収 ︶ を 編 纂 し、 洹 水県において官刻した。そしてその自序に、嘉靖三十八年 に進士登第を果たして仕官したのち偏愛する漢人の著作を 購入してきたが、どれも校勘が杜撰であり読了可能な書物 は得られなかった、との歎きを記した。 ﹃ 両 京 遺 編 ﹄ の 登 場 か ら や や 遅 れ る 時 期、 安 新 安 の 汪 士 賢 が 漢 魏 六 朝 期 の 個 人 文 集 に 校 訂 を 施 し て い た。 正 徳・ 嘉靖期に出版された書物を対象とする作業であり、かれは 呂兆僖・焦竑・程栄の助力を得て、それらを﹃漢魏六朝二 十一名家集﹄として出版し た ︶42 ︵ 。この叢書には董仲舒から庾 信に至る人士二十一名の文集が、刊行時の序文や諸氏の略 伝を附したうえで節録される。 程栄はその後、単独で或る事業に着手した。 ﹃漢魏叢書﹄ の編纂である。かれは何 鏜 という人物が描いた構想にもと づき、その具体化を推進した。浙江處州衛軍籍を有した何 鏜 は、嘉靖二十六年の進士登第、その編纂にかかる﹃古今 游名山記﹄十七巻には、嘉靖四十二年執筆の黄佐による序 文が載り、そこにはかれの博学を称えて﹁凡そ史志文集の 載する所の者、輯萃して遺すことなく、書を 為 つく ること二十 巻に幾し。而して都氏︵穆︶平生の見聞の未だ及ばざる所 の者も、 畢 み な在り﹂とも記され る ︶43 ︵ 。何 鏜 もまた嘉靖後半に 登場した博識家のひとりである。 万 暦 二 十 年︵ 1592 ︶、 程 栄 は 三 十 八 種 本 の﹃ 漢 魏 叢 書 ﹄ を出版した。この叢書は、明代末葉、武林の何允中により 七十八種にまで増広される。何允中執筆の﹁総目序﹂に拠 れ ば、 ﹁ 何 氏 の 旧 目 は 百 種、 程 氏 は 僅 か に 三 十 七 を 梓 す ﹂ と の こ と ︶44 ︵ 。 序 文 に は、 ﹁ 往 さき に 緯 真 氏 の 別 本 を 見 る。 典 雅・ 奇古・ 閎 肆・藻豔四家に分けて以て類従す。殊に鉅観たる も、恐らくは作者の意を失す。玆に何氏の経史子籍旧目に 仍ると云う﹂との記事もある。緯真氏屠隆が編んだ同名の 叢書は内容を基準として分類された書物であり、黄虞稷撰 ﹃千頃堂書目﹄巻十五﹁類書類﹂に、 ﹁屠隆漢魏叢書六十巻﹂ との項目が載る。ただし程栄が編纂した叢書もまた、万暦 二十年執筆の屠隆による序文がその冒頭を飾る。 程栄は何 鏜 所撰の目録に従い、四部分類に拠って編纂を お こ な っ た。 程 栄 の﹁ 漢 魏 叢 書 総 目 録 ﹂ に は、 ﹁ 経 籍 ﹂ と して十一種、 ﹁史籍﹂として四種、 ﹁子籍﹂として二十三種 の書名が記される。ただし﹁集籍﹂に限りその書目は空欄 である。 ﹃二十一名家集﹄ との重複を回避した可能性もある。 しかしその二十一を加えたとしても、程栄の書物は何目総

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37 明代諸子学史略(三浦) 数の半分を満たすだけである。何 鏜 の壮大な構想と程栄に よる地道なその現実化という対称性は、そのまま嘉靖と万 暦という時代の相違を象徴するように思うが、ここではそ れを示唆するに止める。 ﹃ 二 十 一 名 家 集 ﹄ の 共 同 編 集 と い う 作 業 形 態 は、 精 善 な るテキストを作成するために費やされる労力の厖大さを伝 える。そうした現実に苦労したであろう程栄が、ほかでも なく﹁子籍﹂の蒐集に勉めたことは興味深い。三十八種本 ﹃ 漢 魏 叢 書 ﹄ の 点 数 で 六 割 を 占 め る﹁ 子 籍 ﹂ は、 黄 石 公 素 書に始まり梁代の陶弘景による古今刀剣録および王充の論 衡に終わる。何 鏜 の構想は知る由もないが、この二十三種 のなかで十点の子書が﹃百家類纂﹄未収録の諸子である点 からでも、程栄における子書開拓の精神と、その精神を支 えたであろう読者の嗜好とがうかがえる。なお ﹃百家類纂﹄ は、 万暦四十年︵ 1612 ︶﹃百子類函﹄ ︵国立公文書館蔵︶と 改題し、湯祖顕の序文を得て葉向高により翻刻される。 万暦二十四年︵ 1596 ︶、 浙江 鄞 県の周応治が﹃広広文選﹄ 二十四巻を編纂し た ︶45 ︵ 。その書名のとおり、 劉節の﹃広文選﹄ に対する増広を意図した書物である。周応治はその自序の な か で、 ﹁ 広︵ 文 選 ︶ は 漢 に 於 い て 頗 いささ か 詳 し。 然 れ ど も 遺 す者は十に二、晋魏而下は遺す者は第だに十に八のみなら ず。予、是の書を読むごとに、竊かに為に之を惜しむ﹂と 述べる。あり得べき漢魏六朝文献の全体像を念頭に置く点 で、かれの認識は何 鏜 の構想にも似るが、その実現に関す る具体的認識おいてかれは確実に何 鏜 をしのいでいた。 周応治はその﹁議例﹂において、諸子書の文章も採取の 対象としたことを以下のように記す。たしかに同書は、そ の巻十六および十七に、荘周・荀卿以下の先秦諸子、賈誼 か ら 劉 向 に 至 る 漢 儒、 魏 収 や 劉 晝 と い っ た 人 士 の 文 章 を、 まとめて掲載するのである。   昭明は荘荀諸子を選ばず。繁博にして事、篇章に異な る を 以 て す れ ば、 誠 に 然 る な り。 梅 園 は 一 二 を 略 摭 す。 則 るに諸子は亦た 絀 くるを容れず。管子の問篇、劉子の 知人篇の如きは、亦た文の最も奇詭なる者なり。 文中の﹁梅園﹂が﹃広文選﹄の編者劉節である。周応治 は、劉節の態度を微温的と捉え、より積極的に諸子書の蒐 集に挑んだ。ここでは諸子書が、漢魏六朝文献の全体を構 成する不可欠の要素として扱われている。こうした姿勢と 連続し、そのうえで独自の突出性をも有したのが、如上程 栄の子書認識であった。 ﹃ 玄 言 評 苑 ﹄ が 掲 げ た 個 別 主 義 は、 対 象 と す る 諸 子 書 の 撰述時期をとくに限定する理念ではない。だが同書は比較 的多数の漢代﹁諸子﹂を採録し、それ以降の﹁諸子﹂を選 ばなかった。 撰者陸可教を囲繞する書物環境が想像される。

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38 かれの主観に従えば、 直面する現実との緊張関係のなかで、 自身の理念を真摯に具体化しただけであろう。その成果が ﹃玄言評苑﹄であり、王学的思考の実践例にもみなしうる。 だが書物群が作り出すその即物的環境に対し、かれがどの よ う な 関 係 を 取 り 結 ん で い た の か、 そ の 見 極 め は 難 し い。 万暦人士の精神活動に及ぼした﹁物﹂の影響力は、嘉靖期 の そ れ に も 増 し て 甚 大 で あ っ た だ ろ う。 ﹁ 物 ﹂ の 世 界 が か れの主観を包摂し、かつ規定するほどに肥大化していた可 能性は否定できない。 結語に代えて 明末の人士は何故大型の諸子系叢書を出版したのか。 ﹃玄 言評苑﹄の凡例が語る子書理解は、諸子書の大型化傾向に 対する肯定的な自己分析にも相当する。諸子書および諸子 書をひもとく読者、その双方が必然的に帯びる多様性への 配慮を深めれば深めるほど、書物の収録範囲は拡張せざる を得ない。こうした理念の存在とその具体化を支える子書 テキストの整備、両者の相乗作用が如上の現象を生み出し たと捉えたい。そして叢書の大型化は、万暦天啓の際にそ のピークを迎える。 竟陵派の領袖として信奉者を集めた鍾惺 ︵ 1574 -1624 ︶に、 ﹃諸子文帰﹄ ︵国立公文書館蔵︶と題する叢書がある。万暦 最末から天啓初年の完成である。巻首の ﹁諸子提綱﹂ には、 同書収録の諸子を八門に分類する編集方針が示され、そこ に は 儒 隠 門 や 仙 隠 門 と い っ た か れ 独 自 の 範 疇 も 創 設 さ れ る。その儒林門における六十四子の採録に始まり、同書は すべて百家を超える子書を収めた。 天啓五年 ︵ 1625 ︶ に文震孟が参訂して刊行した ﹃諸子彙 函 ﹄ 二 十 六 巻︵ 存 目 子 部 126 所 収 ︶、 お よ び 同 六 年 出 版 の 陳仁錫による﹃諸子奇賞﹄前集五十一巻後集六十巻︵国立 公 文 書 館 蔵 ︶ も、 ﹃ 文 帰 ﹄ 同 様 の 大 型 に し て そ れ ぞ れ に 特 色を有する叢書である。一方、汪士賢らの﹃漢魏六朝二十 一 名 家 集 ﹄ に 対 し て も、 ﹃ 総 目 提 要 ﹄ 総 集 類 存 目 三︵ 巻 一 九二︶ ﹁漢魏名家﹂項が、 ﹁張溥百三家集の前に在りて、張 燮 の 七 十 二 家 と、 互 相 に 出 入 す ﹂ と 具 体 的 に 示 す と お り、 大型の後継本が編纂され た ︶46 ︵ 。 だが﹃諸子奇賞﹄以後、それを規模的に超える叢書は登 場しない。また同様に張溥の﹃漢魏六朝百名家全集﹄をし のぐ書物もあらわれていない。復社の活動を批判した艾南 英 が、 ﹁ 三 家 の 村 の 稍 や 文 字 を 識 る も の も、 輙 みだ り に 子 書 の 僻詭なる者を用いて、以て其の浅学を 文 かざ り、然して曰く吾 が繁露なり、吾が太玄なり と ︶47 ︵ ﹂との証言を残していること は興味深い。この証言は諸子書ブームの過熱状態を示すと

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39 明代諸子学史略(三浦) と も に、 そ の ブ ー ム の 空 洞 化 を も 語 る も の で あ る。 天 啓・ 崇禎における諸子学の趨勢に関しては、本稿において紹介 し残した万暦諸子学の他の側面ともあわせて検討を加える 必要がある。   注 ︵ 1︶   王 重 民﹃ 中 国 善 本 書 提 要 ﹄︵ 上 海 古 籍 出 版 社、 1983 、 218 頁︶ ﹁黄刻二十子一百四十三巻﹂項。 ︵ 2︶   井 上 進﹃ 中 国 出 版 文 化 史 │ 書 物 世 界 と 知 の 風 景 │ ﹄︵ 名 古屋大学出版会、 2002 ︶第十七章﹁異端、異論と出版﹂ 。 ︵ 3︶   諸 子 辨 ﹄ の 同 時 代 史 的 意 義 に 関 し て は、 三 浦﹃ 中 国 心 学の稜線﹄ ︵研文出版、 2003 ︶下篇第一章、参照。 ︵ 4︶   楊 一 清﹃ 石 淙 文 稿 ﹄︵ 国 立 公 文 書 館 蔵 ︶ 巻 一﹁ 新 刊 五 子 書序﹂ 。 ︵ 5︶   欧 陽 清﹁ 刻 五 子 書 序 ﹂。 ﹃ 五 子 書 ﹄ 重 刻 本 八 巻 は﹃ 原 国 立 北 平 図 書 館 甲 庫 善 本 叢 書 ﹄︵ 国 家 図 書 館 出 版 社、 2013 ︶ に 影印のうえ収録される。 ︵ 6︶   呉震編校整理 ﹃王畿集﹄ 巻十五 ﹁自訟問答﹂ ︵鳳凰出版社、 2007 、 433 頁︶ 。 ︵ 7︶   焦 竑﹃ 国 朝 献 徴 録 ﹄ 巻 三 十 一﹁ 南 京 戸 部 尚 書 李 公 瀚 墓 表 ︵張璧撰︶ ﹂。 ︵ 8︶   天 一 閣 蔵 明 代 科 挙 録 選 刊・ 郷 試 録 ﹄︵ 寧 波 出 版 社、 2010 ︶所収﹃弘治八年陝西郷試録﹄参照。 ︵ 9︶   傅増湘 ﹃蔵園羣書経眼録﹄ 巻八 ︵中華書局、 1983 、651 頁︶ 。 ︵ 10︶   ﹁ 道 蔵 ﹂ 編 纂 の 命 令 は、 永 楽 四 年、 第 四 十 三 代 嗣 天 師 で あ る 張 宇 初 に 下 さ れ た。 前 掲 三 浦﹃ 中 国 心 学 の 稜 線 ﹄ 序 章 ︵ 30 頁 ︶ は、 張 宇 初 が 晩 年 の 宋 濂 と 交 流 を 持 ち、 ま た 心 学 の 信 奉 者 で あ っ た こ と を 述 べ る。 ﹃ 正 統 道 蔵 ﹄ の 編 纂 過 程 に 関 し て は、 陳 国 府﹃ 道 蔵 源 流 攷︵ 増 訂 版 ︶﹄ ︵ 中 華 書 局、 1963 ︶﹁歴代道書目及道蔵之纂修与鏤板﹂参照。 ︵ 11︶   三 浦﹃ 科 挙 と 性 理 学 ﹄ 第 四 章︵ 研 文 出 版、 2016 、 200 -201 頁︶参照。 ︵ 12︶   同前第二章︵ 90 -92 頁︶参照。 ︵ 13︶   都 穆﹃ 南 濠 居 士 集 文 跋 ﹄︵ 続 修 四 庫 全 書 第 922 冊 ︶ 巻 一、 所収。 ︵ 14︶   王 九 思﹃ 渼 陂 続 集 ﹄︵ 四 庫 全 書 存 目 叢 書 集 部 第 48 冊 ︶ 巻 下﹁刻太微後集序﹂ 。 ︵ 15︶   李 夢 陽﹃ 空 同 集 ﹄︵ 四 庫 全 書 第 1262 冊 ︶ 巻 四 十 九﹁ 刻 賈 子序﹂ 。 ︵ 16︶ 同前巻五十九﹁朝正倡和詩跋﹂ 。 ︵ 17︶   程 栄 輯 三 十 八 種 本﹃ 漢 魏 叢 書 ﹄ 所 収﹃ 顔 氏 家 訓 ﹄ 所 掲 顔 広烈﹁顔氏家訓序﹂ ・顔如 瓌 ﹁顔氏家訓序﹂ 。 ︵ 18︶   黄 省 曾﹃ 五 嶽 山 人 集 ﹄︵ 存 目 集 部 94 ︶ 巻 二 十 五﹁ 重 校 漢 梁 王 大 傅 賈 誼 新 書 序 一 首 ﹂。 ﹃ 献 徴 録 ﹄ 巻 五 十 三﹁ 贈 礼 部 尚 書燕泉何公孟春墓志銘︵羅欽順撰︶ ﹂。 ︵ 19︶   ﹃漢魏叢書﹄所収﹃申 鍳 ﹄所掲王鏊序。 ︵ 20︶ 何 孟 春 註﹃ 孔 子 家 語 ﹄ 八 巻︵ 存 目 子 部 1 ︶ 所 掲 黄 鞏﹁ 新 刊孔子家語跋﹂ 。 ︵ 21︶   李夢陽 ﹃空同集﹄ 巻五十 ﹁刻戦国策序﹂ 。同巻六十一 ﹁答

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40 周子書﹂参照。 ︵ 22︶   許宗魯﹃六子書﹄ ︵国立公文書館蔵︶ ﹁刻六子序﹂ 。 ︵ 23︶   三 浦﹁ 明 代 荘 学 史 研 究 の た め に ﹂︵ ﹃ 集 刊 東 洋 学 ﹄ 90 、 2003 ︶参照。 ︵ 24︶   三浦 ﹁王門朱得之の師説理解とその荘子注﹂ ︵佐藤錬太郎 ・ 鄭 吉 雄 編﹃ 中 国 古 典 の 解 釈 と 分 析 ﹄ 北 海 道 大 学 出 版 会、 2012 ︶参照。 ︵ 25︶   黄省曾﹃五嶽山人集﹄巻三十八﹁臨終自伝一首﹂ 。 ︵ 26︶   王 守 仁﹃ 王 陽 明 全 集 ﹄ 巻 二 十 一﹁ 与 黄 勉 之   乙 酉 ﹂︵ 上 海古籍出版社、 1992 、 825 頁︶ 。 ︵ 27︶   同巻五﹁与黄勉之   甲申﹂一︵同前 192 頁︶ 。 ︵ 28︶   同巻七﹁自得斎説   甲申﹂ ︵同前 265 頁︶ 。 ︵ 29︶   楊慎﹃太史升菴全集﹄巻四﹁雲局記﹂ 。 ︵ 30︶   沈津﹃百家類纂﹄ ︵存目子部 127/128 ︶﹁凡例総叙﹂ 。 ︵ 31︶   張時徹 ﹃芝園定集﹄ ︵存目集部 81/82 ︶ 巻二十六 ﹁説林序﹂ 。 ︵ 32︶ 同巻首﹁芝園定集・諸家評﹂ 。 ︵ 33︶   同巻二十七﹁重刻二業合一論叙﹂ 。 ︵ 34︶   同巻首﹁芝園定集・諸家評﹂ 。 ︵ 35︶   張 昭 煒 編 校﹃ 胡 直 集 ﹄ 巻 十 七﹁ 策 問 ﹂︵ 上 海 古 籍 出 版 社、 2015 、 322 -327 頁 ︶。 ﹃ 万 暦 元 年 広 東 郷 試 録 ﹄︵ 前 掲 選 刊・ 郷試録、所収︶参照。 ︵ 36︶   前 掲﹃ 中 国 善 本 書 提 要 ﹄﹁ 子 彙 二 十 四 種 三 十 四 巻 ﹂ 217 -218 頁。周子義 ﹃交翠軒佚稿﹄ ︵国立公文書館蔵︶ 巻二 ﹁刻 子彙小序﹂参照。 ︵ 37︶   この点はすでに井上氏前掲著 306 頁に言及がある。 ︵ 38︶   ﹁ 適 一 子 ﹂ と は 湖 広 黄 岡 出 身 で 正 徳 十 年 進 士 の 王 廷 陳 ︵ 1493 -1550 ︶ で あ り、 ﹃ 玄 言 評 苑 ﹄ は、 か れ の 詩 文 集﹃ 夢 沢集﹄に﹁子書﹂的要素を看守した。 ︵ 39︶   こ の 書 物 は 存 目 子 部 133/134 所 収 だ が、 封 面 を 有 す る テ キストは京大人文研に収蔵される。 ︵ 40︶ 陳 蕙﹁ 重 刻 広 文 選 後 序 ﹂︵ 劉 節﹃ 広 文 選 ﹄ 存 目 集 部 297/298 所収︶ 。 ︵ 41︶   楊慎﹃太史升菴全集﹄巻四十六﹁広文選﹂ 。 ︵ 42︶   汪士賢﹃漢魏六朝二十一名家集﹄ ︵存目補編 27/28 ︶。 ︵ 43︶   黄 佐﹁ 古 今 游 名 山 記 序 ﹂︵ 何 鏜 ﹃ 古 今 游 名 山 記 ﹄ 続 修 四 庫 736 、所収︶ 。 ︵ 44︶   何允中は何故 ﹁三十七﹂ と記したのか。三十八種本の ﹁子 籍﹂ の末尾に載る論衡がこの問題を解く鍵となるであろう。 同叢書が収める沈雲楫と虞淳煕両氏の﹁論衡序﹂参照。 ︵ 45︶   周応治﹃広広文選﹄ ︵存目補編 19/20 ︶﹁自序﹂ 。 ︵ 46︶   張 燮 著・ 王 京 州 箋 注﹃ 七 十 二 家 集 題 辞 箋 注 ﹄︵ 上 海 古 籍 出版社、 2016 ︶参照。 ︵ 47︶   艾 南 英﹃ 天 傭 子 集 ﹄︵ 四 庫 禁 燬 書 叢 刊 補 編 第 72 冊 ︶ 巻 七 ﹁諸子玉粒序﹂ 。

参照

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