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亜細亜学園 五十年史 資料編

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(35)

^^'iff-亜細亜学園五十年史に寄せて

理 事 長   瀬   島   龍   三 本学の前身、興亜専門学校が開設されたのは昭和十六年の四月である。当時の日本は、内外ともに亜大な局面 にあり、同年十二月八日にはついに宣戦の御詔勅が下った。開戦後時を経るとともに戦況は日に日に困難を極め、 やがて昭和十八年十月には学徒応召の命が下り、本学の学生も勇躍、祖国の急に赴いたのである。出征する者は 一五〇名、それは在学生数の四分の一以上に及ぶ数であった。 戦局が苛烈の度を加えるに従い、戦線にあるものも銃後にあるものも、共に死を党悟しなければならない時代 であった。戦死して屍は山野にさらしても魂晩は興亜神社に帰り再会を期そう、というのが当時の学生の合言葉 であったと開いている。現在、学内の興亜神社には、この大戦で祖国に尊い命を捧げられた九七柱の同窓生の御 霊 が 祭 ら れ て い る 。 その後、関係者の血の棲むような苦労を経て、日本経済専門学校、日本経済短期大学となり、昭和三十年に日 本経済短期大学と並んで亜細亜大学が創設された。 .亜細亜大学設立後も大学経営は困難を極め、太田耕造先生をはじめ学園関係者の方々は大変なご苦労をなされ た。F太田耕造日記﹄ の昭和三十年十二月三十一日﹁九時、藤原君来訪。残り百万、三井不動産ヨリ借入ノ事こ シテ漸ク、アジア大学越年叶7。大業難渋ヲ極メ、感無療也﹂ の一節に太田先生のご苦労と当時の学閲の状況の (33)

(36)

一 端 が 窺 わ れ る 。 昭和三十一年には五島育英会との提携なり、五島慶大翁を理事長に迎え、漸く経営の安定を図るに至った。こ の間、今日に至るまで、さらにさまざまな困難があったが、先人はよくこの道を来り準えて、ついにこのたび、 創立五十周年の大きな節目を迎えるに至ったのである。 今日の内外情勢は、大きく変貌しっつあるが、その変化を適確に予想することはまことに困難な時代にある。 このようななかで、本学園が共に国家社会に貢献し得るよう、今後とも着実な歩みを進めてゆくためには、先人 の辿ってきた跡を顧みることが、いかに大切なことであるかは多言を要しないものと思う。 そうした意味でここに亜細亜学園五十年史を刊行し、先人の足跡を辿ることは、まことに意義深いものがある。 本書の刊行にあたられた編纂委員各位に対し、心から敬意を表する次第である。

(37)

亜細亜学園五十年史刊行に寄せて

学   長   街   藤   清   吉 幾山河よくも釆つるものかな。亜細亜学園五十年の歴史を顧みて、一入その感を深くする。 この文集を読むと、文字の上では、何げない名前の変化lつにも、劇的な葛藤がその背景にあったことを知る のである。例えば、戦後、興亜専門学校から日本経済専門学校に校名が変わった。それは、敗戦、占領軍の駐留 という未曾有の歴史的経験に、日本中が揺れ動いたことと、決して無関係ではなかった。﹁亜細亜学園四十年史﹄ は、当時の理事会の模様について、﹁興亜専門学校は、既にその時代的使命を終えた﹂とする解散意見と、﹁教育 とは永久に続けられるべきものであり、日本復興の鍵もまた教育にある﹂とする存続意見とがあり、それが激し く衝突したことを記録している。 結果は、存続論の大義名分が通ったが、藤原繁先生は、この間の事情について、解散論が大勢を占めた時期、 それを覆したのは、時子山先生等の﹁学校を解散すれば、卒業生の母校がなくなる。母校は、卒業生の故郷であ る﹂との主張であったことを、﹁本学園生い立ちの記﹂ の中で書き残しておられる。﹁母校は、卒業生の故郷であ る﹂との発言が、危うく解散になりかけた本学の、命運を決めた二言であったことをわれわれは、ゆめ忘れるべ き で は な い だ ろ う 。 日本の大学は、今、新制大学発足以来の大きな転換期にある。一つは、大学設置基準の大綱化による四年一貫 (35)

(38)

有効なカリキュラムへの改革であり、一般教育と専門教育の別は廃止されてしまった。もう一つは大学、ことに 教員自体の自己点検・評価制度の確立が義務づけられたことである。設置規準の大綱化は、それぞれの大学が、 自助努力によって独自性を主張できる時代になった、ということをも意味する。しかし、自己点検、評価の義務 づけは、切磋琢磨して大学の質を高めよとの警鐘でもある。さらに、大学をめぐる社会的な環境としては、一八 歳人口の激減という問題もある。平成四年の二〇五万人をピークに、紀元二千年には、四分の一以上受験人口が 減ることになる。学園挙げて協力、もって改革に努めれば発展し、夜郎自大、独善、もって改革を怠れば倒産す ることになる。企業の競争原則から見れば当たり前ではあるが、大学にもいよいよ淘汰の時代がきた。 学校は何よりも学生のためにある。この自明の、それでいて忘れられがちな学校の原点を、どのように活かし ていくか。それがわれわれの大きな課題である。われわれは、本学の長い歴史の一部分を担うものとして、学園 の将来に対する貢務を、今、それぞれの分野で果たさなければならないのである。 創立五十周年は、先人の労苦に感謝し、当面する大学改革の決意を新たにする意義深い節目でもある。 最後に、本書の刊行に際してご尽力された、編集委員および五十周年事業事務室の皆様のご労苦に対して深甚 なる敬意と感謝を致すものであります。

(39)

亜細亜学園は、平成三年十一月四日、創立五十周年を迎えた。これを記念していろいろな事業が計画された。 その中の一つに﹃亜細亜学園五十年史﹄ の刊行および五十年の歴史と現況を盛り込んだビデオとアルバムを制作 するという仕事があった。これを担当するため﹁年史福慕・ビデオ制作小委員会﹂が発足した。委員会は事の性 格上、下名のとおり各学部・部・事務局の古参の人々によって構成され、平成元年十二月十一日、第一回会合が もたれた。この会合において基本方針が確認され、それに基づき、まず五十周年創立記念日までに、ビデオとア ルバムを制作することとなり、会議を重ね予定どおり完成をみた。 ¶五十年史Lに関しては次のとおり基本方針が決められた。 1、﹃五十年史﹄には五十周年記念式典の模様なども記録する。 2、そのために刊行は一年後の平成四年十一月四日とする。 3、¶五十年史Lは﹁資料編﹂と﹁通史編﹂とに分けて刊行する。 4、﹁資料編﹂はすでに刊行されている﹃亜細亜学園四十年史Lに十年分を追加するのではなく新しく編纂す る。 5、﹁通史編﹂は読み物的要素をもったものとする。 6、担当の事務局は五十周年記念事業事務室とする。 しかし基本方針は決まったものの、﹁資料編﹂は千数百ページ、﹁通史福﹂は五〇〇ページを超すと予想される (37)

(40)

大部なものを制作するのに、独立した﹁年史編幕室﹂も専従者もなく、全員が本務の傍らにしなければならない ことなので先行きの危惧を感ぜざるを得なかった。 そこで年史編纂を手掛けている印刷会社に全面的に協力をしてもらうことを期待し、数社による相見頼りの結 果、凸版印刷㈱に担当していただくこととなった。こうして態勢は整ったものの、最大のポイントは原稿の作成 である。原稿は誰かが許いてくれるというものではなく、どうしても大学側が作成しなければならないものであ っ た 。 委員会は合宿の会議を開き、﹁資料編﹂﹁通史編﹂ともに、あらましの目次を定め、それに伴う諸項目を選定し、 それぞれの担当を決めた。ここまでが両編に共通することがらであった。 ﹁資料編﹂については、率いにして﹃亜細亜学園四十年史﹄に基本となる資料が網羅されていたので、それを 踏まえての作業であったが、今回はそれを含めて見直しをするという基本方針のため、改めて五十年を振り返る 作業となり、加えて以後十年分の資料を整理しなければならなかった。事務局史をはじめ各福の原稿執筆は事務 各部の部長を通じて依頼し、附属機関については各研究所の所長に依頼した。また各学部・部史については、本 委員会の委員のもとにそれぞれ各学部・部ごとに編纂委員を選任願い、原稿の執筆に当たっていただいた。各学 部・部史編窮委員は次のとおりである。 経 営 学 部 − 杉本常、笠井賢治、大島正克 経 済 学 部 − 川畑詩、植村利男、宇佐見義尚 法  学  部 − 清瀬信次郎、鈴木煎、酉俣昭雄 国際関係学部 − 飯島正、栗原孝、江川美紀夫

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教  養  部 − 菊地庄吉、江口支、王子愉、張祥義、塘添敏文、深山祐、室伏武 日本経済短期大学 − 長島俊男、荒井紀子、小林京子 各編纂委員や事務各部の担当者は、残業や自宅に持ち帰ってまでの作業となり、大変なご苦労がおありだった と思う。本委員会として深く感謝申し上げる次第である。 こうして徐々に原稿が本委員会の手元に集まってきたが、なかには非常に詳細に記された記録もあり、また、 まことに簡潔にまとめられたものもあるといった具合で、必ずしも統一されたものではなかった。当初、本委員 会が項目と範囲とを明示しておくべきであったかも知れないが、それも多岐にわたるため実際には不可能に近い ことであった。そこでこれを統一すべきか否かが討議されたが、苦労してまとめられたものを削除するには忍び ないし、もし削除することになると、この記録が永久に失われてしまう憤れもあるし、また一方すでに失われて しまった記録を探すよう依頼してもできない相談であるし、それに、こうした相違がそれぞれのセクションの特 徴を示すものとも考えられるので全体としては不統一であっても、提出記録はそのまま掲載しょうということに な っ た 。 今後六十年、七十年⋮、百年の年史を作る際に完璧を期されたいと願う次第である。そのためにも学園内に専 従者のいる﹁年史編纂室﹂を置き、長期にわたって貴重な記録類を保存・整理されることが望まれる。 なお、刊行に当たっては次の原則によることとした。 1、本文は現代仮名遣いによって記す。漢字は原則として常用漢字を使用し、常用漢字にない字については正 茨 字 を 用 い る 。 2、引用資料は原文の茨字・仮名遣いを尊重することとし、興亜専門学校当時の資料については正漢字・歴史 (39)

(42)

的仮名遣いとする。ただし日本経済専門学校以後のものについては現代仮名遣いとする。 3、正茨字の使用については、現代常用漢字でさほど画数の変わらない字は許容してあり、その扱いは必ずし も厳格ではない。 委員のうち事務局代表の鯵坂芳文事務局長が平成三年十月九日逝去された。学園の生き字引的存在であっただ けに本委員会にとっても痛恨事であった。後任に佐脇考二常務理事が就任された。また、法学部委員の清瀬信次 郎教授は平成四年度サバティカル・イヤーをとられたため佐藤司教按に替わられた。 本書が成るについては、現存の方々はいうまでもなく、 った。一々お名前を挙げて感謝の意を表すべきであるが、 礼を申し上げる次第である。 平成四年六月六日 すでに故人になられた方々にも一方ならぬお世話にな 紙幅の関係もあり失礼をさせていただき、裏心よりお

亜細亜学園 年史編纂・ビデオ制作小委員会

委     員 委     員 委     員 委     員 委     員 梶村  昇︵理事・国際関係学部教授︶ 山 口   年 一 ︵ 理 事 ・ 経 営 学 部 教 授 ︶ 関 口 甲 子 男   ︵ 経 済 学 部 教 授 ︶ 清 瀬 信 次 郎 ︵ 法 学 部 教 授 ︶ 佐 藤     司 ︵ 法 学 部 教 授 ︶ 神 澤   有 三   ︵ 教 養 部 教 授 ︶

(43)

委  員故鯵坂 芳文︵理事・事務局長︶ 委     員     佐 脇   孝 二   ︵ 常 務 理 事 ︶ 編 集 顧 問     夜 久   正 雄 ︵ 理 事 ・ 名 誉 教 授 ︶ (41)

(44)

グラビア (1) 日H 亜細亜学園五十年史に寄せて 亜細亜学園五十年史刊行に寄せて 理事長 瀬 島 龍 三⋮⋮幽 学 長 街 藤 洛 吉⋮⋮帥

序 説 亜細亜学園五十年史

夜 久 正 雄⋮⋮1

第一編 亜細亜大学前身校史

はじめに

第〓早 興亜専門学校

第二章 日本経済専門学校 第三章 日本経済短期大学

第二編 亜細亜大学史

第〓早 亜細亜大学の創立

85

(45)

第二章 商学部

一、商学部の開設と十五年の歩み 二、商学部長並びに教務主任 三、商学部のカリキュラムと担当教員の変遷 四 、 研 究 誌 − ﹃ 諸 学 紀 要 ﹄ 五 、 海 外 研 究 出 張 六、商学部史略年表

第三章 経営学部

一、経営学部開設と二十一年の歩み 二、大学院経営学研究科の開設と歩み 三、歴代経営学部長並びに教務主任 四、歴代大学院経営学研究科委員長並びに執行部 五、経営学部のカリキュラムと担当教員の変遷 六、大学院経営学研究科のカリキュラムと担当教員の変遷 七、付置研究所−経営研究所 八 、 研 究 誌 − ﹃ 経 営 論 集 ﹄ 九、講座−ホテル観光学講座 会計教育センター講座 178174153143137121120119117114114113113106103102 96 96 (43)

(46)

十、海外研究出張、国内研究出張

第四章 経済学部 一、経済学部開設と二十八年の歩み 二、大学院経済学研究科の開設と歩み 三、歴代経済学部長並びに執行部 四、歴代大学院経済学研究科委員長並びに執行部 五、経済学部のカリキュラムと担当教員の変遷 六、大学院経済学研究科のカリキュラムと担当教員の変遷 七、付置研究所−経済社会研究所 八 、 研 究 誌 − ﹃ 経 済 学 紀 要 ﹄ 九、海外研究出張、国内研究出張 十、経済学部史略年表

第五章 法学部

一、法学部開設と二十五年の歩み 二、大学院法学研究科の開設と歩み 三、歴代法学部長および教務主任 352 342 321321319 313 296 280 255 201200199196192192189185

(47)

四、歴代大学院法学研究科委員長および学務委員 五、法学部各科目担当教員の変遷 六、大学院法学研究科の各科目担当教員の変遷 七 、 付 置 研 究 所   −   法 学 研 究 所 八 、 研 究 誌   −   ¶ 亜 細 亜 法 学 ﹄ 九 、 講 座   −   司 法 試 験 研 修 講 座 ・ 法 職 講 座 十、現代市民法公開講座 十一、海外出張者一覧 十二、法学部史略年表 第六章 国際関係学部 一 、 国 際 関 係 学 部 前 史

三、国際関係学部の歩み

第七章 教養部

一、教養部の設置と二十八年の歩み 二、歴代教養部長並びに執行部 三、教養部のカリキュラムと担当教員の変遷 472 470 446 446 428 424 423 423 411410 407 407 388 386 371353 353 (45)

(48)

五、研究誌一覧

七、教養部史略年表

第八章 教職・図書館学・社会教育主事課程史

一 、 各 課 程 史

三、社会教育主事課程

第九章 留学生別科

一、日本経済短期大学附属中国留学生部 二、亜細亜大学留学生別科 597 567 567 563 555 550 550 548 541 514 505

第三編 日本経済短期大学史

一、日本経済短期大学の設立と四十一年の歩み 二、歴代短大部長および役職 三、日本経済短期大学のカリキュラムと担当教員の変遷 四、教員一覧 641 634 618 617

(49)

五、付置研究所−日本経済短期大学学術研究所 六、研究誌−﹃日本経済短期大学紀要﹄ 七 、 海 外 研 究 出 張 八、広報アジア﹁灯台﹂掲載 九、日本経済短期大学史略年表 673 673 670 656 650

第四編 法 人 史

第〓早 法人の変遷

第二章 理事会・評議員会および法人役員

一 、 理 事 会 ・ 評 議 員 会

712 698 698 677

第五編 大学行事および広報

第〓早 恒例行事 一 、 入 学 試 験 制 度 二、FOC・出会いの広場、別れの広場

730 727 717 717 (47)

(50)

第二章 特別行事

一 、 戦 役 同 窓 生 慰 霊 祭 二、明治百年記念特別連続講座 三、太田耕造先生生誕百年記念行事

第三章 広  報

一 、 広 報 活 動 の 変 遷 二、多彩化する広告媒体 764 758 758 752 750 747 734 734 731

第六編 国際交流並びに国際教育

第〓早 交換教授および交換・派遣留学生制度

A

U

A

P

第七編 附属機関

811 773

第〓早 図書館

第二章 アジア研究所

877 841

(51)

第三章 情報科学研究所

第四章 英語教育研究所

1011999

第〓早 財務の推移

第二章 施設の変遷

10391031

第九編 事務局史

第〓早 事務組織の変遷

第二章 事務局各部史

一 、 学 長 事 務 室

六、日の出校地管理部

109510941092108010681067106510651053 (49)

(52)

十一、入試部

十三、図書館事務部 十四、アジア研究所事務課 十五、情報科学研究所耶務課 11731172116111491146113911041097

第十編 学生の組織と活動

第〓早 学友会史総説

一 、 学 友 会 の 歴 史

第二章 学友会各機関

一 、 中 央 執 行 委 員 会

1213120811931193119111771177

(53)

学術文化連合会 体育会 新聞会 留学生会 学   寮 第八章 届出団体 第九章 アジア禦 1388138313481346134413031216

一、青々会の由来 二、青々会会則の改正 三 、 青 々 会 役 員 四、支部結成の歩み 五、青々会名簿の刊行 六、青々会賞 七 、 青 々 会 奨 学 金 八、青々会会費の推移 14311423142114181415140714031395 (51)

(54)

第十二編 創立五十周年記念事業

一、創立五十周年記念事業の概要 二、創立五十周年記念式典・祝賀会について 三、創立五十周年記念事業資金募金 四、年史編纂・ビデオ制作小委員会事業報告 五、五十周年記念学術論文集編纂小委員会 六、国際シンポジウム等、講演会小委員会事業報告 七、シンボルマーク、懸賞論文、ホームカミング・デイ小委員会事業報告

第十三編 永年勤続教職員

1489 1482147514641461145714411435

第十四編 年   表

1501

第十五編 教 職 員

一 、 旧 教 職 員 二 、 現 教 職 員 15361519

(55)

序 説 亜細亜学園五十年史

名誉教授 理  事

夜久 正雄

O ﹁ 五 十 年 ﹂ と は ○興亜専門学校︵昭和十六年∼二十年V O日本経済専門学校︵昭和二十年∼二十五年﹀ ○日本経済短期大学︵昭和二十五年∼現在︶ ○学校法人・亜細亜学園︵昭和二十九年∼現在︶ ○亜細亜大学設立︵昭和三十年︶ ○亜細亜学園の発展︵昭和三十一年∼五十六年︶ ︵ 川 教 学 関 係 、 脚 施 設 の 拡 大 、 ㈱ 創 立 四 十 周 年 並 び に 大 田 学 長 逝 去 ︶ ○躍進の十年︵昭和五十七年∼平成三年︶ ○創立五十周年記念行事︵平成三年︶

(56)
(57)

亜細亜学園は、亜細亜大学と日本経済短期大学︵平成五年四月から亜細亜大学短期大学部に名称変更の予定︶とを 併設する学校法人の名称であるが、その前身である興亜専門学校の設立、昭和十六年二九四こから数えると 平成三年二九九こ で五十年になる。 ﹁五十年﹂は、大学の歴史として長い歴史ではない。しかしこの間、大東亜戦争の勃発︵昭和十六年︶、敗戦︵昭 和二十年=一九四五年︶、連合国占領軍の支配︵昭和二十年上一十七年︶、新憲法︵日本国悪法︶ の制定︵昭和二十二 年︶、学制の変革︵昭和二十二年︶、敗戦後の荒廃、その後の独立回役︵昭和二十七年=一九五二年︶、復興、最近の 国際化というような国家社会の未曾有の出来事に遭遇した。 大学教育事態としても、学制の変革、教育思想の変化から左翼運動の激化、戦後の混乱、大学紛争︵六〇年安 保反対闘争、七〇年安保反対闘争︶、学園の荒廃を経験する等、明治・大正・昭和戦前の時代の大学の思い及ばな かった異常の事態を経験することになったのである。 そして経済的復興のようやく成った今日、大学は改めて教育思想の確立・充実が求められ、二十一世紀を前に 技術改新ならびに国際化の要望に迫られている。 こうした国家社会の期待に応えて大学教育を実践するのは決して容易な遺ではなかった。 この五十年を顧みれば幾多不満な点もあるが、すべて関係者の精一杯の努力であったと思うのは、理事者なら びに教職員一同の誇りであろう。

(58)

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本学園の前身は興亜専門学校と称し、昭和十六年一月三十一日付で設立認可を申請した。申請者は岩田愛之助 氏、松尾忠二郎氏、太田耕造氏の三名で、岩田氏は愛国運動の第一人者であり、松尾氏は播磨造船所社長であり、 大田氏は元内閣書記官長・貴族院議員であった。そして設立認可となったのは昭和十六年四月八日であり、発足 当時、藤原繁氏は学監に就任した。 これより先二年、すなわち昭和十四年九月、二〇名ほどの学生諸君が転々と居所を変え、ついに、現在われわ れのいる武蔵野多摩の一角で山林を切り開いて教育の場をもった。これは今も寮歌に残っている﹁朝に霜をふみ、 夕に星をいただく﹂という文字どおりの﹁自助協力﹂の生活であった。塾生活による苦学力行の自炊生活を送り ながら、一心不乱に勉学に努めたことは、まさに後世に残すに足る特筆事に価すべきものがあった。そして、こ の開拓精神は、まさに亜細亜学園の建学精神に通ずること明らかであった。 興亜専門学校は、満蒙支科、南洋科、内地科の三科に分かれ、全寮制度による総合教育を行った。ここで育っ た学生の毘しい友情と強い精神力とたくましい健康力とは独自の校風を作った。今、ここに興亜専門学校の設立 趣意の〓即を紹介する。すなわちこう記している。 ﹁従未の学生生活の弊風を一掃し、日本精神を根幹とし、あくまで厳格なる規律統制下に﹃塊﹄の鍛錬生 活をなさしめ、更に勤労敢行の美風を洒養し、あらゆる槻苦に遭遇するも平然克服し得る確固たる信念を体 得せしめ、且徹底的に勉学せしめたる学識により東亜経論の共髄を把捉確認し、しこうして公私の諸事業に 粉骨砕身すべき人材即ち共に興亜聖業の礎石たる国士的人物を輩出せしめんとするものなり﹂。

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そして訓育の来点を数項目に亘り記述しているが、その中の一つに次のことが記されている。 ﹁本校生徒は母校を中心として強固なる家族制度の美風に則り生涯深交をなし相互扶助の醇風を実現せんと す。更に権威ある指導研究補助機関を設け、卒業後各自の職場において研究を要する不解の問題あらは、母 校研究室において質疑応答し職分の完遂を期せしむ。なお卒業後物故せる校友の遺族にして生活に困窮せる 者あらば、学校に特別補助機関を設置し相互扶助の実を挙げ、校友をして後顧の憂いなからしめ、以て各自 の全能力を傾倒せしむ。﹂ とあり、全生徒は塾生活をして、身を以て設立精神の実現を期した。 ここに、本学の意図する日本精神による教育の本旨である人物育成の実現を期せんとする遠大なる志望を想う べきである。その一例であるが、南方語学は多彩で馬米語、インドネシア語、タイ語、ビルマ語、支那語︵北京 お よ び 福 建 ︶ 、 安 南 語 な ど 多 く あ っ た 。 当時の初代校長は陸軍中将男爵菊池武夫氏であるが、氏は頼山陽作﹁筑後河を下る﹂でも有名な南朝の忠臣武 光公の後裔である。入学式は五月五日、端午節句を選んで開校式を挙げたが、入学生は二〇七名であった。 菊池校長の訓示に次いで米案として出席された陸軍大将荒木貞夫氏︵犬養、斎藤内閣陸軍大臣、近衛、平沼内閣 文部大臣︶ が祝辞を述べられたが、その一節にこういう語があった。 ﹁日本の学校はその堂々たる校舎に比較して内容は案外貧弱である。本校は門もない桑畑の中に校舎らしい ものが二つ建っているのみである。併しその精神的内容は充実していて他校とは反対である。この学校は必 ず大いに発展する﹂と。 この激励の辞に応えるため本学関係者の払った有形、無形の努力は特筆事であったと思う。しかも当時わが内

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外情勢は極めて重大化し、ついに十二月八日の大東亜戦争の開始となったので、本学よりも総勢一五五名が出陣 したが、いずれも武蔵野に帰って母校の興亜神社で会おうと出陣したの.である。 本学においてはこの時局を前にして十二月二十七日第一回卒業式を挙げ、本学学生および卒業生は勇躍して第 一線に出陣したが、あるいは特別攻撃隊として、あるいは各地の戦場において壮烈の戦死を遂げ、あるいは南方 航路の途中敵水雷艇の出撃の犠牲となって海底に消え去った同志は多数で、その壮心を偲び感慨に堪えぬものが ある。かくてわれらの母校は多大の犠牲を払い、もって全学を挙げて善戦敢闘したが、時利あらず、ついに二十 年八月十五日の終戦の詔勅を拝するに至った。 当時を回顧すれば、感無量で涙なくして語り得ない。かくて学生諸君は先生を中心に勉学鍛錬巳むことなくそ の貴重な体験をもって戦陣に出たもので、その功績は実に偉大であった。この一騎当千の戦役卒業生の総数は九 十有余であった。今日、学内の興亜神社にまつられている。 当時、本学がいかに邦家のため献身的努力を払ったかは知る人ぞ知るである。すなわち戦時中の日本、インド ネシア合同大学建設の構想、本学のセレペス校地一万町歩取得交渉、二三万部を売り尽くしたインドネシア日本 語辞典発刊の件など思い出は尽きない。かくてまた当時の雑誌﹃蛍雪時代﹄ に ﹁日本における特異な校風をもつ 二つの学校﹂と題し、一つは羽仁もと子女史設立の自由学園、他の一つは興亜専門学校が取りあげられたこと周 知 の と お り で あ っ た   ︵ 以 上 、 本 章 は 亜 細 亜 大 学 初 代 学 長 太 田 耕 造 先 生 の 文 輩 に よ る ︶ 。

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敗戦によって興亜専門学校はその存続が認められなくなった。そこで、第一部︵大陸科︶、第二部︵南洋科︶を 廃止し、第三部︵経済部・商科︶を拡充して、経済専門の軍門学校として新しく発足することとなった。昭和二 十年十一月、日本経済専門学校と校名を変更したのである。 日本経済専門学校は、当初、興亜専門学校設立申請者の一人であった太田耕造先生︵終戦内閣の文部大臣・貴族 院議員︶を新校長に予定したが、A級戦犯容疑者に指定されたため実現せず、須藤斉治教授︵元三菱商事シンガポ ール支店長︶ が、昭和二十一年一月校長事務取扱となり、二十二年二月校長となった。 当時、連合国占領軍司令部GHQは、日本の教育制度と教育思想に大変革を加えた。その結果、いわゆる六・ 三・三・四制︵小学校六年・中学三年・高校三年・大学四年︶ の新制度が強行された。さらに、公職追放令、教職 追放令を施行して、国家主義的教育者を教育界から追放した。そのため日本の教育界は左翼思想の横行する世界 となってしまったのである。加えて前述の学制改革が行われたため教育界は大混乱になって、多くの人材が失わ れ た 。 日本経済専門学校でも、藤原学監が追放令に該当したため、須藤校長が陣頭に立って戦後処理ならびに再建の 基礎づくりに努力したのである。二十三年一月には経済科・商科にそれぞれ第二部︵夜間部︶を設置した。しか し、学制改革は専門学校としての存続を許さなかったので、昭和二十三年日本経済大学の設置を計画し、申請し た。教職員学生の必死の努力に拘らずこの申訳は不認可に終わって学閲は一層の困難に陥ったのである。 昭和二十四年二月、須藤校長は退任され、相馬堅次教授が校長代理となった。後年、太田先生は次のように語

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っ て い る 。 ﹁ここで本学の学んで釆た苦雉の道、終戦後における日本経済専門学校時代の一端を語ってみよう。前述の事 情によって推察いただけると思うが、本学の経営は終戦時よりさらに深刻化し、先生の給料遅配、減俸が続出 し、ついに学校解散論も続出したほどであった。しかも各先生方はじめ内外同志諸氏の協力の下で、徐々に学 校内外を整備したのである。﹂

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昭和二十五年五月、日本経済短期大学が、笹森順造学長︵元国務大臣︶と鍬塚巌理事長との就任を得て発足し た。経営科、貿易科・第一部・第二部である。 昭和二十七年二九五二︶五月、太田耕造、松尾忠二郎の二理事と藤原繁常務理事が帰任した。公職追放解除 によるもので、独立回復とともに占領軍政下の苦難の道の行方にようやく曙光が見えはじめてきたのである︵岩 田 愛 之 助 理 事 は 昭 和 二 十 五 年 三 月 逝 去 し て こ の 日 を 迎 え る こ と が で き な か っ た ︶ 。 国際柔道学校︵昭和二十七年創立︶ 昭和二十七年二九五二︶藤原繁理事の力により国際柔道学校が創立されて学園に活気を与えた。 附属中国留学生部︵昭和二十九年二九五四︶∼現在︶ 同年九月、中国留学生問題が起こってきた。これは香捲地区の華僑の子弟九ユハ名を私乎留学生として来日させ、 本学因に入学させたいという話であった。この間題は幾多の論議を尽くしたうえ、受け入れが決定され、昭和二

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十八年十二月附属中国留学生部の設置が認可され、昭和二十九年一月二十五日、留学生第一陣が到着した。これ は戦後留学生の最初の来日で各紙とも大々的に報道した。留学生部主任であった柳内滋氏は歓迎の歌をつくった がその内にこういう一節がある。﹁やがて亮々と鳴る、勇壮な進軍のラッパにがっしり手を握り、肩をならべて 祖国の再建、アジアの大同、世界一邦の理想のために、ここ武蔵野の学舎から高らかに進軍の歌を歌いつつ共に 行こう、共に進もう。一九五四年八月七日、於武蔵野学舎﹂。 こうして中国留学生教育は、戦後はじめて本学因によって開始されたのである。これが現在の亜細亜大学留学 生別科の始まりである。

昭和二十九年五月、笹森学長ならびに鍬壕理事長が退任し、太田耕造理事が学長兼理事長となり、学校法人猶 興学園は亜細亜学園と改称された。そして亜細亜大学設置の決議が行われたのである。

昭和三十年四月一日、亜細亜大学商学部が開設された。 太田耕造学長兼亜細亜学園理事長は、亜細亜大学建学の精神を﹁自助・協力﹂と明示し、学則第一条に、大学 設立の目的ならびに使命を明示した。

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亜細亜大学学則第一条 本学は、学校教育法の定めるところにより、広く一般教育に関する知識を授けるとともに、深く専門の学術 を研究教授するをもって目的とし、特に、日本および亜細亜の文化社会の研究と建設的実践に重点を置き、 もって亜細亜融合に新機軸を打ち出す人材を育成するを、その使命とする。 右大学学則の前半は、大学設置基準の法文に拠るものであり、後半は特記して亜細亜大学教育の重点ならびに 使命を述べたものである。 五 島 慶 大 東 急 会 長 の 理 事 長 就 任 ︵ 昭 和 三 十 一 年 ︵ 一 九 五 六 ︶ 八 月 ︶ かくして亜細亜大学商学部は遠大な理想を掲げ、当代一流の学者教授を擁する教授陣をもって発足したのであ るが、日本経済の復興もようやく緒についたばかりで、経済界の支援を得られないまま、たちまち経営面に行き 詰まりをきたした。これに支援の手をのべたのが五島慶大東京急行電鉄株式会社会長であった。 昭和三十一年八月十一日、五島会長が亜細亜学園理事長に就任、経営面の不安が一掃されることとなった。 以後、五島理事長・太田学長のもとに亜細亜学園は堅実な歩みをすすめることになった。 昭和三十二年日本経済短期大学第一部を再開。 五島慶大理事長は昭和三十四年八月長逝され、五島昇理事長が後を継がれたので、五島理事長・太田学長の体 制は昭和五十六年太田学長の逝去まで不動のものであった。この間二十五年になるので、亜細亜学園の経営・教 学の基礎はほぼこの間に確立したのである。

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亜細亜学園の発展11五島理事長、太田学長体制の二十五年︵昭和三十一年二九五六︶∼五十六

年 ︵ 一 九 七 一 ︶ ︶ Ⅲ   教 学 関 係 ︵ 昭 和 三 十 年 二 九 五 五 ︶ か ら ︶ 昭和三十年四月開設の亜細亜大学商学部商学科は、昭和三十七年四月、商学科・経済学科の二学科別となり、 日本経済短期大学の二部経営科の学生募集を停止した。したがって日本経済短期大学は以後昼間部のみとなって、 今 日 に 至 っ て い る 。 昭和三十九年一月経済学部経済学科が新設され、亜細亜大学は二学部別となった。九月、一、二年生を対象と する教養部が新設された。初代商学部長は粟屋義純教授、初代経済学部長は半澤耕貰教授、初代教養部長は夜久 正雄教授、日本経済短期大学部長は伊部政一教授が就任した。つづいて昭和四十一年四月法学部法律学科が設置 され、初代学部長に中根不観雄教授が就任した。 これで本学園は亜細亜大学三学部三学科、教養部、日本経済短期大学を擁するまでになった。 学園全体の教学事項については、学長の主催する学部長会議 ︵三学部長、教養部長、短大部長、総務部長、経 理部長、教務部長、学生部長︶ の合議によって行われた。 この間、太田学長の台湾ならびにアジア各国の歴訪︵昭和三十三年、三十五年︶ の際、香港新亜書院の銭穆院長 との提携によって、新亜書院との間に交換留学生制度を発足せしめられた。これが後に各国大学との間に交わさ れることになる交換留学制度の始まりである。 11

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アジア祭、アジア文化研究会、アジア・ハイウエー学術調査隊、硬式野球部等 昭和三十四年には学友会主催の学園祭を﹁アジア察﹂と命名することになった。三十六年秋、教養部教員有志 の﹁アジア文化研究会﹂が発足した。学生のアジア研究に対する熱意も高まって昭和三十七年南西アジア学術調 査隊の派遣となった。四十三年、四十五年には第一次、第二次アジア・ハイウエー学術調査隊の派遣となり、三 十九年にはボルネオ学術調査隊が出発した。これらは亜大学生のアジア各地現地調査隊派遣の始まりであった。 昭和四十年秋には硬式野球部︵矢野祐弘監督︶が待望の一部優勝をかちとり、亜大の名声を大いに高めた。 戦 妓 同 窓 生 慰 霊 祭 ︵ 昭 和 四 十 年 ︶ ・ 興 亜 神 社 同年十一月、大学と青々会︵同窓会︶との共催によって本学開戦投同窓生九六名︵のち一名追加︶ の慰霊祭が遺 族・教職員・卒業生および在学生出席のもと厳粛に挙行され、新装成った興亜神社に御霊をお祀りした。今日ま で毎年例祭が行われている。 明治百年記念特別連続講座︵昭和四十二年二九六七︶∼四十三年二九六八︶︶ 昭和四十二年、五島昇理事長の提案にもとづき、明治百年記念特別連続講座が二年間にわたって行われた。一 五名の講師は、林房雄氏にはじまり、海曹寺潮五郎、福田恒存、高坂正夷、今村均、山岡荘八、小林秀雄、永野 重雄、江藤浮、林健太郎、竹山道雄、衛藤藩吉、出光佐三、岡潔の諸氏、最後に太田学長という当代第一流の講 師陣であった。本学の学生はじめ学内外に多大の影響を与えた。 大 学 紛 争 ︵ 昭 和 四 十 年 代 ︶ 一方、この頃、亜細亜学園の自助・協力の学風とは全く異質の過激な学生運動が全国に起こり、大学紛争の嵐 が日本中の大学を席捲し、遂には過激な学生の大学占拠、例えば東京大学の安田講堂占拠事件までとなった。こ

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れは、覆面した学生が階級闘争の先兵となって、労働者、市民を扇動した体制変革の政治活動であった。彼らは、 話し合いによる解決を否定し、バリケード封鎖・大学占拠・ストライキ・大衆団交と称する教員つきあげ等、暴 力的な学生運動を日本革命の引き金にしようとしたものであった。 本学閲においても一部学生がその影響を受けて不法行為を計画し、一般学生を扇動しょうとするに至った。太 田学長は、この狂乱無道の学生運動を憂慮され、四十四年五月、﹁大学間題に関する基本方針﹂と題する所信を 明示され、全学教職員ならびに学友会一体となって過激学生の無法行為と対決したのである。学生全体の常識的 対応とも相まって、紛争のために授業を取りやめることが一日もなく、教育の本旨を貫いたのである。 大学学友会連絡協議会︵昭和三十七、三十八年上 大学はまた、学生の要求に対しては、学友会役員と学長以下大学執行部の全員との合同会議を連絡協議会とし て恒例化し、教員と学生との信頼関係の維持には全力を尽くしたのである。 THE AS−A︵昭和四十四年二九六九︶∼、昭和六十二年﹁アジア﹂に改称︶ また新たに学内に広報室を設け広報紙¶THE ASIALを創刊して、教育方針ならびに学内事情の周知徹 底を図った。学友会の亜細亜大学新開と相まって学園内の交流が図られたことは、過激派学生から学園の教育環 境を守るうえに大きな力があったのである。 FOC ︵フレッシュマン・オリエンテーション・キャンプ︶ ︵昭和四十四年⊥ 学友会の要望にもとづき四十四年五月第一回FOC︵フレッシュマン・オリエンテーション・キャンプ︶ が、 千葉県岩井海岸ならびに多摩御岳山で行われ、以後、毎年の行事として多くは山中湖畔の民宿で行われた。これ は新入生にとって大学に親しみを持たせるうえに非常に大きなはたらきをすることが評価され、他大学でも同様 13

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な行事が行われるきっかけを作ったのである。今日﹁出会いの広場﹂として行われている行事の始まりである。 洋上大学︵昭和四十四年⊥ また四十四年八月、学友会の企画として洋上大学が行われ、タイ、マレーシア、シンガポール、インド、中国、 台湾などアジア各地への海外調査旅行が毎年つづけられることになった。 経 営 学 部 ︿ 昭 和 四 十 五 年 二 九 七 〇 ︶ ∼ ︶ 昭和四十五年四月、商学部は経営学部に改組された。 野球部全国初優勝︿昭和四十六年︵一九七こ︶ 四十六年六月、亜細亜大学野球部が遂に日本一の栄冠をかちとった。 ア ジ ア 研 究 所 ︿ 昭 和 四 十 八 年 二 九 七 三 ︶ ∼ ︶ 四十八年六月、亜細亜大学附属アジア研究所創設、初代所長筑紫平蔵教養部教授。 留 学 生 セ ン タ ー ︿ 昭 和 四 十 九 年 二 九 七 四 ︶ ∼ ︶ 四十九年十一月、留学生センターが設けられ、飯島正教授が初代委員長となった。︵今日の国際交流部につづく︶ 交換あるいは派遣留学生制度は、昭和三十三年の新亜書院との提携を皮切りに、韓国の延性大学、シンガポー ルの南洋大学、シンガポール大学、マレーシアのマラヤ大学、台湾の淡江文理学院、米国のワシントン州立西ワ シントン大学と昭和五十四年までに七校に拡大された。 大 学 院 三 研 究 科 ︿ 昭 和 四 十 九 年 二 九 七 四 ︶ ∼ ︶ 昭和四十九年四月、経営学、経済学、法学の三研究科の大学院︵修士課程︶が同時に開設された。三研究科初 代委員長は、経営学研究科古川栄一教授、経済学研究科板垣輿一教授、法学研究科田中誠二教授である。そして

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五十一年には三研究科の博士課程が開設された。 経済学部国際関係学科人昭和五十一年二九七六︶︶ さらに、亜細亜大学建学の使命を具体化するため国際関係学部の設置が議せられ、その第一歩として、経済学 部の中に新たに国際関係学科が、昭和五十一年四月、設置された。 昭和五十五年六月五日、ノーベル経済学質を受質されたカール・グンナー・ミュルダール博士が釆学され、﹁ア ジアにおける発展とは何か﹂と題して講演された。ついで十一月十三日、チベットの元首十四世ダライ・ラマ祝 下が来学され、﹁未米の世界市民に対する私の期待﹂と題して講演された。いずれも聴衆に深い感銘を与えた。 ∽   施 設 の 拡 大 ︵ 昭 和 三 十 一 年 ︵ 一 九 五 六 ︶ か ら ︶ 昭和三十一年五島慶大理事長就任によって経営上の支援を得た学園は、建ちかけだった本館鉄筋コンクリート 三階建て︵旧四号館︶が、昭和三十二年二九五七︶二月竣工した。正門も五島理事長愛蔵の一本造りの御影石 の門柱︵現南門門柱︶となった。待望の竣工で教職員の愁眉を開いたのである。 昭和三十三年から三十五年にかけて、近隣の土地、約一万三、〇〇〇平方メートルを買収して、校地の拡張を 図 っ た 。 昭和三十五年︵一九六〇︶、前記本館の増築が行われ、校地内本館北側に、野球場が開設された。 さらに、三十七年二九﹂ハ二︶十一月旧四号館東側教室、三十八年二九六三︶十月アジア会館︵アジア寮前身﹁ 三十九年二九六四︶十一月日の出校地買収、四十年二九六五︶五日目の出校地の野球場開設、同月二号館、 四十一年二九六六二二月旧三号館︵現講堂︶、日の出学生寮、四月二号館、四十三年二九六八︶三月体育館、 15

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四十四年二九一ハ九︶四月図書館、四十五年︵一九七〇︶五月日の出セミナーハウス、四十八年︵一九七三︶一月 五号館、二月学友会館、五十一年二九七⊥ハ︶九月総合体育館、五十三年︵一九七八二二月図書館別館が竣工し た。亜細亜大学創立当時からすると、無から有を生じたように全く面目を一新してしまったのである。 なお、本学図書館は岡本文庫︵岡本良知教授蔵誓、大田熊蔵︵大田学長実兄︶文庫、植田捷雄文庫、葛生能久 文庫、篠原雄文庫、別所千賀照文庫、中山優文庫、古川栄一文庫等、稀親書を含む貴重な文庫を擁している。五 十周年現在蔵書四十万冊である。五十周年記念事業の一環として建てられる大田耕造記念館は、現図書館を包合 して情報科学センターの機能を併せもつ予定である。 五十一年二九七六︶九月竣工の総合研究館は地上一〇階自重の研究館で、武蔵野市としては最初の一〇階の 建 物 と な っ た 。 五十五年︵一九八〇二ハ月、第二アジア会館、十二月、長野頂栂池アジア山荘竣工。 畑 創立四十周年並びに太田学長逝去︿昭和五十六年︵一九八一︶︶ 昭和五十﹂ハ年、本学は創立四十周年を迎えた。 これを寿ぐかのように、硬式野球部が東都大学一部リーグ戦で五十五年秋、五±ハ年春の連続優勝を成し遂げ た。 秋には四十周年記念行事が相次いだ。十月二十一日、田中ユハ助通産大臣︵本学昭和十八年度卒︶が﹁アジアに おける日本の役割﹂と題し、十l月十九日には、駐日オーストラリア大便ジェームス・プリムソル卿が環太平洋 という立場から、それぞれ熱弁をふるわれた。ついで、本学卒業生で海外で活躍している採草基弘三十九年度

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商 学 部 卒 ・ 在 バ ン コ ク ︶   君 ら 五 氏 を 招 き 、 ﹁ ア ジ ア に 生 き る ﹂   の テ ー マ で シ ン ポ ジ ウ ム が 行 わ れ た 。 こうしたなかにも悲しい出来事が相次いで起こった。これよりさき昭和五十三年十一月二日、本学園創立者の 一人である藤原繁理事が逝去され、十一月十九日、青山葬儀所において大学葬が行われた︵のち昭和五十八年顕 彰碑が興亜神社境内に建立されr藤原繁先生追悼集Lが刊行された︶。五十五年十一月十日には、薬屋義純理事が亡 くなられた。共に太田学長を助けて、学園の中心的推進力であった。 昭和五十六年十一月二十六日、亜細亜大学の創設者太田耕造学長が逝去された。享年九一歳十一カ月。太田学 長は﹁自助・協力﹂を建学の精神とされ、﹁日本およびアジア興隆のために挺身する人材を育成することしを建 学の使命とされ、本学の揺るぎない基礎を築かれたのであった。十二月二十一日、青山葬儀所において多数の会 葬者を得て学園葬が執り行われた。 先生がお亡くなりになられたあと、ご過言が披露された。それには、先生が長年お住まいになっておられた四 谷左門町のお宅・宅地・図書のすべてを本学園と同窓会青々会に寄贈するとしたためられていた。 大田先生が亡くなられてのち、全学的組織により太田耕造先生顕彰事業実行委員会が組織され、年を追って、 ﹁胸像﹂の建立、﹁太田耕造全集し︵四巷︶ の刊行、太田奨学基金の設定、追贈のお宅・土地・図書の利用が行わ れた。図書は太田耕造文庫、太田熊蔵文庫として図書館に入り、お宅・土地はのちに数十億円で売却され、五十 周年事業の資金として利用されることになった。 17

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昭和五十六年十一月二十六日太田学長が逝去されると、それより前、昭和五十五年十一月学長事務取扱に就任 していた式部啓教授が学長を代行した。 早川崇学長 翌、昭和五十七年四月一日、新学長に早川崇先生が就任された。 早川学長は、五島昇理事長と生年月日を同じくするというような奇しき因縁もあってのことであったが、年来 の同志で、自治、厚生、労働大臣を経験され、また、日本バングラデシュ協会会長としてアジアへの深い関心を お 持 ち で あ っ た 。 本学の発展と太田精神の継承を誓って力強い就任の挨拶をされた。そして積極的に教職員との会合を重ね、農 林水産学部の設立をはじめ、姉妹大学を韓国に創設する等壮大な計画を立てられたが、八月頃病に躍られ、十二 月 七 日 急 逝 さ れ た 。 事 年 上 ハ 六 歳 で あ っ た 。 十二月二十一日青山葬儀所において、自由民主党・亜細亜学園の合同葬が執り行われた。葬儀委員長、総理大 臣中曽根康弘総裁は、年来の友を喪い、﹁今、私は、君の霊前に立って済柁たる涙を禁じ得ません﹂と異例の弔 辞を述べ、葬儀副委員長五島昇理事長は、﹁自分の分身を失ったような強烈な心の病みを覚えます﹂とその悲し みを表白した。会葬した二千に及ぶ学生の﹁仰げば尊し﹂ の歌は、ご遺族はじめ全会葬者の胸を打った。 武郎啓学長・五島昇会長・瀬島龍三理事長︵昭和五十八年︶ 昭和五十八年二月一日、理事会が開かれ、後任学長として式部啓学長代行が全会一致で学長に推薦され同日付

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で 就 任 さ れ た 。 そして五月三十日、昭和三十四年以来、理事長の重貢を担われてきた五島昇先生が、新たに設けられた会長の 職 に 就 か れ た 。 新理事長には瀬島龍三氏が就任された。就任に際して瀬島新理事長は学園経営の根本方針として建学精神の堅 持、時代の変化への対応、経︵経営︶教︵教学〓体の努力の三点を標梯され、学園の前途を明示された。 時あたかも﹃亜細亜学園四十年史﹄ が刊行され、四十年の時の流れというものを感じさせられた。 こうした変化の間にも、教育活動は一瞬の遅滞もなく活発に動いていった。特に学生のクラブ活動の大型企画 は注目すべきものであった。ワンダーフォーゲル部は、創部二十周年を記念して、二月十三日から四四日間、ネ パールでトレッキングを行い、また、吹奏楽団は総勢六五名、八月十五日から一週間、インドネシアへ親善演奏 会に出かけ、インドネシア独立記念視判パレード、大統領夫人主催のチャリティー演奏会に参加し、日イ親善の 大 役 を 果 た し た 。 十一月二日目には、第一回から数えて四半世紀を迎えたアジア祭の幕が開かれ、延べ三万三、〇〇〇名の人出で キャンパスは大いに賑わった。 十一月三日、青々会員が中心となって建立した﹁藤原繁先生顕彰碑﹂ の除幕式が、興亜神社で行われた。 そして、十一月二十六日、太田耕造先生のご命日に、﹃太田耕造全集﹄第一巻が刊行された。 昭和五十九年度を迎えて、四月五日、学内広報紙﹃THE ASIA﹄ が、創刊三〇〇号を刊行した。教職員、 学生共通の広場として十五年の歳月を経ての三〇〇号は、日本の大学広報紙中の特異な存在といえよう。 五月十四日、チベットの第十四世ダライ・ラマ現下が再度米学され、﹁二十一世紀と宗教の使命﹂と越し講演 19

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され、二、五〇〇名の聴衆が三一二番教室を埋めつくした。 五月二十四日、野球部が東都大学春季リーグ戦で六皮目の優勝を遂げた。 五月二十九日の理事会で、スタディ・グループから答申があり、昭和五十九年度を初年度とする﹁亜細亜学園 五力年計画﹂が報告された。それは、教育、研究環境の竪備拡充、質的充実、国際化の促進等を柱として二三項 目にわたるものであった。 その一環として、十月二十二日、三号館の竣工をみた。これは旧三号館を壊して新築されたもので、地下一階、 地上四階、延べ両横六、五〇〇平方メートル 二、九六六坪︶ の堂々たるもので、特に講堂は、世界地図をあし らった豪華な鍛帳に飾られた約一、ユハ○○名収容のすばらしけものである。 そしてまた、﹁国際化の促進﹂ の面では、従来の留学生センターが発展的解消を遂げ、十月一日から国際交流 部が発足し、新たにインドネシアのナショナル大学、北京師範大学、新怒財経学院の三大学と提携を結ぶことに な っ た 。 十二月十七日、かねて届出中であった日本経済短期大学の経営科に経営管理専攻、経営情報処理専攻の二専攻 を設置する件が受理され、同じく二十五日には、亜細亜大学各学部および短大の定員が次のように認可された。 亜細亜大学各学部︵恒常定員二二〇〇名、︵臨時定員二五〇名、日本経済短期大学︵恒常定員二三五名、︵臨 時 定 員 ︶   七 五 名 。 六十一年四月、コンピュータ教室が完成した。瀬島理事長が就任の際に述べられた時代の変化に対応する教育 事業の実行であった。以後、情報教育は飛躍的に推進された。 ユハ十一年十一月三日、興亜神社の十年に一皮の例大祭が行われた。ご遺族、卒業生など約三〇〇名が参列し、

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九七柱の戦役校友の霊を祀った。校友銘稗の除華 r戦役校友の面影L の新訂再版、学園の歴史を示す展示室の 開設等の事業が行われ、伝統精神の継承を替った。 衛藤清吉学長 明けて六十二年二月、任期満了により武部啓学長が退任され、新たに街藤洛吉理事が学長に就任された。就任 に当たって出師表を引用されてのご挨拶は教職員に深い感銘を与えた。 学長は就任以来、〝走れメロス″︵太宰治の短篇・昭和十五年作︶ の掛声のもと、懸案事項の解決に大車輪の努力 を傾注された。学園花いっぱい運動、聴講生制度の制定、広報紙rTHE ASIA﹄ ︵七月に﹁アジア﹂と改称︶ の全父兄への配布、亜細亜学園中・長期計画検討委員会の設置、日常業務の最高意思決定機関としての部長会の 発足、二セメスター制の導入等々、学園は一気に走り始めた。 特に、昭和六十三年からの酉ワシントン大学への派遣留学、国際関係学科の留学必修︵昭和六十三年入学生よ り︶、日本経済短大のパシフィック・ルセラン大学への派遣留学は、マスコミに話題を提供し、大きな反響を起 こ し た 。 六十三年三月、これまた留学生教育としては画期的なチューター制による国際女子寮・萌和寮が竣工、同時に 男子寮清風寮が新築竣工した。 また、六十三年は、学外へ向けてテレビCMを利用しての本学の知名度、イメージアップの広報活動の展開を はじめ、学内事務機構の一部改変、事務局長制の導入、教員の事務部長兼務の廃止と委員長制の導入などが行わ れ た 。 また、平成三年十一月には、本学閲も創立五十周年を迎えるため創立五十周年記念事業委員会が設けられ、各 21

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種記念事業の具体的検討がなされることになった。そして現代社会にマッチした特色ある教育を行うための ﹁新 学部設立準備委員会﹂が三月に発足し、情報化社会の要請にこたえる情報教育の充実と事務処理の電算化を図る ため﹁情報科学研究所﹂が四月に開設された。 国際化の一環としては、﹂ハ月にアメリカの州立東ワシントン大学、州立中央ワシントン大学、オレゴン州立大 学と交流協定を締結し、本学から留学生を派遣することになった。また、昭和三十二年二九五七︶ に本学が初 めて外国の大学と交流協定を結んだ香港中文大学新亜書院との交流三十周年記念式典・記念講演会が双方の大学 ︵ 七 月 、 十 二 月 ︶   で 盛 大 に 挙 行 さ れ た 。 昭和六十四年一月七日昭和天皇が崩御された。教職員一同黙商をもって哀悼の意を表した。 平成元年三月二十日、五島昇会長が逝去された。享年七二歳であった。昭和三十四年九月に本学園理事長に就 任、そして昭和五十八年には新たに設けられた会長職に就任。故五島慶大理事長の後、三〇年にわたって本学の 経営に当たってこられた。四月七日旭日大綬章の授与が閣議で決定された ︵昭和六十一年十一月勲一等瑞宝章︶。 三月下旬には、第一回亜細亜大学アメリカプログラム=AUAPで五五九名の学生がアメリカの四つの大学に 留学し、現地で本学の卒業単位になる七科目一七単位を履修してきた。 四月からは、この年度から始まった ﹁フレッシュマン・イングリッシュ﹂担当のネイティブ・インストラクタ ー二三名を客員教員として採用。過五回のこの授業は、会話中心の英語授業で、これまでの人文・社会科学系の 大学における英語教育のあり方を一新したものとして、注目されている。また、外国人教員を一皮に二三名も採 用したのは、英語を専門としない大学では本学が初めてといえる。AUAPの事前研修と合わせ、学生たちの英 会話力の向上に大変プラスとなっている。

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平 成十年 度(第二 十一回 ) ・剣舞の部幼年の部 深谷俊文(愛知)少年の部 天野由希子(愛知)青年の部 林 季永子(茨城) ○

□公害防止管理者(都):都民の健康と安全を確保する環境に関する条例第105条に基づき、規則で定める工場の区分に従い規則で定め

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