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(1)

調査報告

著者

三浦 節夫

雑誌名

井上円了研究

3

ページ

35-78

発行年

1985-03-16

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006765/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

調査報告

1

三浦節夫記

長岡洋学校時代の井上円了 新潟県立長岡高等学校記念資料室の調査︵長岡市︶  井上円了が長岡洋学校に入学した明治七年の段階で は、長岡藩は周辺に一種のコンプレックスをもっていた 時代で、なんとか藩を復興しなければならないという状 況がありまして、洋学校は国漢学校とともに藩の人材育 成をするという目的がありました。学校の雰囲気は比較 的リベラルだったと思います。当時本校は慶応義塾と密 接な関係をもち、藤野、三島という慶応出身者が学校を 担っています。彼らはやはり長岡藩の出身ですが、慶応 出身者は藩士と同じという考えをもっていました。塾生 は他領もおりましたけど、主流は藩出身でした。  本校の和同会は井上円了が創設したのですが、そのと きに円了がどのような活動をしたのかという点は、経過 と円了の回想録に書かれたもの以外に資料はありませ ん。円了の時代の和同会は現在のような生徒会ではな く、寄宿舎の演説会で、当時の政治を論じるというよう な会であったのではないかと思います。彼と同調して和 同会をつくった人たちは長岡藩出身です。  和同会の名称をつけたのは円了ですが、この﹁和同﹂ については二つの見解があります。歴史的に考えると ﹁和して同ずる﹂ということに落付きますけれども、明 治三〇年代の和同会の精神は、本校出身で藩士の漢学の 先生が﹁和して同ぜず﹂ということでやっていた時期も あります。明治三五年頃に和同会が生徒会となってくる のですが、その頃は﹁和して同ぜず﹂の精神で、これは 社会思想史的な流れと共通していて、自我意識の興起と 同じではないかと考えられます。しかし、資料によれば 35

(3)

円了は論語から﹁和して同ずる﹂ということで命名して います.。  円了が洋学佼になじめなかったという話については二 つのことが考えられると思います..慈光寺のある﹁浦 村﹂というところは藩領がずいぶん変っていて、幕末は 桑名藩だったと思います。ですから、井上円了は塾生の ほとんどが長岡藩である中に、藩外から来たのです。寄 宿舎に入ることを﹁入塾﹂と∋.口うんですが、長岡藩出身 者は父親が付添ってくるというのはないんです。しか し、円了の場合は父親が一緒に来てますし、また円了は 頻繁に自宅へ帰っています..他の塾生はそんなに帰って はいないんです..こういうところに彼が一種の疎外感を もっていたのではないかと思われる点があるのです。  円了の入学の経過は、石黒さんや塾などの期待があ り、また豪農のバックアップがあったからだと思います。 後に東大総長をした小野塚さんも本校に入学してるんで す。彼は農民の出身で、円了と同じく塾で学んで周囲の 期待を集めて入ってきたんですが、結局学校を辞めてい かざるを得なかったと思います。やはり、疎外感をもっ ていたのではないでしょうか。それは﹁反骨精神﹂では ないかと思います。藩士とか町方でかたまるということ ではなく、長岡復興で一致し進取的になっていましたの が当時の状況ですが、しかし、旧城下町出身者をバック アップする傾向が強かったので、円了らの中に疎外感が 生まれたのではないでしょうか。  塾生の数は、卒業については分りませんが現在ある入 学者名簿では、円了の時代は一二、三人で、明工16↓○年 代は二〇名ぐらいになります.、円了が本校に﹁なじめな かった﹂という問題は先程の条件の他にもうひとつある と思うんです。当時は英学教育を主にし、イギリス流の 教育がなされていました。円了の場合は漢学の素養があ り、漢学について軽んじるという体制、つまり英語教育 になじめなかったので、そういう点が彼の遺言などにも 出てくるのではないかと思います。  洋学校を出てから、円了と同窓生とのつながりはほと んどなかったと思います。他の人の回想録にも円了に関 36

(4)

するものが出てこないのです。和同会五〇周年の特集号 にもそういうものは出ていません。  ︵調査期日は昭和五三年七11一二一日から八月二日、調 査員は田中菊次郎、高木宏夫、三浦節夫である。この報 告は長岡高等学校記念資料室による円了に関する調査結 果について数人の方の談話を整理したものである。な お、この55査や後述の柏崎および竜野調査をまとめるに あたり、故田中菊次郎先生の夫人より寄贈された先生の メモや聞書きノートも参考にしました.、︶ 2 哲学館の書記長をしていた祖父 藤井信栄氏談︵新潟県柏崎市 真宗大谷派光賢寺住職︶  この光賢寺の住職は、一二世が円順、二二世が信之、 私か一四世となりますが、=二世の円順、つまり私のお じいさんは円了さんの弟です..円了さんの兄弟は、円了 さんが長男で、長岡の慈光寺の住職となった円成さんは 次男です、、円成さんは東洋大学へよく行ったらしいで す。その下がこの寺へお婿さんに来た三男の円順で、姓       は井上から藤井にかわ 藤井信之氏 りました。四男は良慶 といい、東京の美術学 校で絵の勉強をしてい ました。そして、この 他に女の姉妹が三人い るということでした。 37

(5)

 おじいさんは哲学館の事務長をしていたのですが、そ の時期がいつ頃なのかわかりません。この村から何人か の人が東洋大学の小使さんに行っていました。その人た ちのうち、二人が最近まで生きていたんですがね。円順 は明治四〇年八月二五日に亡くなっています。手先が器 用で、この竹細工などはみなおじいさんが作ったもので す。円了さんの家族の写真があります。﹁明治三二年三 月二二日 円順に送る﹂と裏書きしてありますが、その 他に、福沢諭吉や新島嚢から円了さんに来た手紙があり ます。おそらく、哲学館にいた時分に円了さんからもら ったものだと思います。  父からはおじいさんが哲学館に行っていたことは聞い ていますが、詳しいことはわかりません。 ﹁さう﹂とい うおばあさんが生きていたならばわかったのですけど、 昭和三四年に満九◎歳で亡くなりました。  私の父と母はいとこ同士なんです。母は円成の子で、 父は円順の息子ですから、今の慈光寺の住職の親と私の 母が兄妹になるのです。  ︵第一回調査は昭和五五年三月二九日で、調査員は田 中菊次郎、高木宏夫、三浦節夫、第二回調査は昭和五七 年三月二七日、高木宏夫、三浦節夫である。  前記の藤井氏の談話に関して資料があったのでつぎに 掲載しておく。︶ 一、明治二二年の﹃講義録第二年級第一期三十三号外 哲学館移転式始末﹄に    本    籠 舎巴舘職    ;,1 監氾三L左    ノ    如 大漸91シ 哨田上 成倹皿 艮浪了 ’m包廿 は己郡 本メし大 ・多山野 弦后戊 九冗瓦 同 「i・ F  T.[三  長 H1 巾 確 藤 匝 加  という記録があった。 二、光賢寺の過去帳にはつぎの三つの記録があった。 累徳院釈円順 八月廿五日 当山拾弐世住職 右ハ嗣子信之ノ父ニシテ郷里ハ三島郡来迎寺村大字浦 慈光寺ノ三男ニシテ慶応元年六月二九日二生ル幼ニシ テ頴悟郷校二在リ既二薪然頭角顕シ長シテ一二条真宗中 38

(6)

学二学ビ又県立農学校二入リ宗学及農学ヲ修メ造詣頗 深シ常二級中ノ首位ヲ占メ成績優等ヲ以テ業ヲ卒リ後 長兄井上文学博士ノ経営ニナル哲学館大学二学ヒ傍ラ 庶務会計ノ繁務ヲ掌理セラル︵中略︶明治四拾年八月 廿五日前途多望ノ身ヲ以テ空シク不帰ノ客トナル鳴呼 悲哉長兄井上文学博士学者トシテ知プレ次兄慈光寺住 職弟美術家トシテ中等学校教師タリ共二英名噴々タリ 姉妹三人又良妻賢母トシテ共二円満ナル家庭ノ主婦タ リ氏二男二女アリ猶幼ナリ氏ノ天折セラレシバ惟当山 ノ不幸ナルノミナランヤ 井上円了永代経金十円上納 ノ為メ上京ス形見金トシテ五拾円旅費トシテ金参拾円 与金アリ尚遺物トシテ絹袴一、夏インバネス一送プル 生前二於テ自ラ院号法名ヲツケ甫水院釈円了ト号ス此 法名本山へ⊥申シ法主光演台下ノ御染筆ヲ下附セラル 釈法縁 一月十七日 当村 松谷又市事作治父 井上文学博士円了氏創立ノ東洋大学︵哲学館︶二小使 ヲナス 大正八年 十二世ノ実兄井上円了支那漫遊中突然脳溢血ニテ大連 ノ東本願寺別院二於テ六月六日長逝セラル十三世会葬 39

(7)

40 3 光賢寺所蔵井上円了宛書簡  前記の藤井信栄氏の談話によれば、光賢寺所蔵の井上円 了宛書簡は、祖父の円順氏が大学の﹁書記長﹂の時に円了 より手渡されたものと言われている。その数は宛名書き二 枚を含む二五枚で、現在は写真のような屏風に表装して保 存されている。  ここでは、屏風の最上段の右側から左側へ、つぎは二段 目の右側からという順番で紹介し、一頁の上段に写真、下 段に解読文を配置したが、印刷の都合⊥、福沢諭吉の封筒 のみ文と一緒に取扱った。また、実際の寸法を写真の下の カッコ内にタテ×ヨコで記した。単位はミリである。  書簡の解読については﹁井上円了先生の書﹂研究グルー プの神作光一氏、本田春玲氏、中山尚夫氏、史学科の田中 健夫氏、大野瑞男氏にご協力を戴いた。記して謝意を表し ます。 ︵判読不能の文字は口で表わした。調査期日等は、 前記の報告と同様である。︶ 芯 灘 (1847×1780)

(8)

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(180×430) 拝啓秋冷之候益 御清適奉賀候 陳ハ昨年来荊妻 病気二付而ハ間屡 御尋被下御懇誼奉多謝候御庇ヲ以テ 近来大分快方二 赴キ候間㎜噺祝立思ヲ 表スル為 メ餅士官重一 呈上仕候二付御叱留 被下候得者本懐之 至リニ奉存候此段 得貴意度草ミ敬具 十一月十五日 井上様 荘一郎拝

(9)

(160×242) 貴著欧米政教日記 御恵投被下御厚志奉謝候 定而好候益之書二可有之存候 其内拝読可仕候先老御 礼迄如此に奉候  勿草       頓首 九月四日 井上円了学士 西村茂樹 坐下 42

(10)

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(177×366) 過日は御高講拝聴 感侃不斜候陳者其折 鳥渡申上置候通来ル五日 於星岡茶寮 大内、辰巳 佐治等諸氏小集之上晩 餐差上度奉存候間同 日青松寺御散会より大内 同道二而御柱駕被下候へぽ 幸甚之至奉存候 右御 案内芳  草ミ頓首 九月二日 礼之 甫水学士 机下 43

(11)

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(180×300) さくばんはいろ∼、 こちさうありがたう。 また おミやげぱな         し おもしろくうか⊆ひ ました。りやくぎ       ながら てがミをもっておれい をもうしあげます。 一ぐわつ十四日か つぼゐしやうこらう ゐのうへえんりやう         くん 44

(12)

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       グ右 (170×274) 拝展過日御音臨之節御嘱 御坐候臨時講義日取之事 被伝越了承仕候二十八日は 差支御坐候間廿九日午後 二時より参館仕度此旨 御答申上候 敬具 十月十四日       小中村清矩 井上円了様      坐下 45

(13)

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(188×394) 粛啓過日差出候碑 文拙稿少﹀捌正致し 別冊相副進閲候間前 憤申述候通可相改 箇所候間無御隔意 御指摘相成度此段 更二得御意候也

罐冊霞重野安繹

井上円了 賢契      尊梧下 46

(14)

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(195×248) 愈御清適桂賀之至存候先達者 松魚節御開館之御祝御贈 恵被下辱存候折節旅行中 謝答延引萬御諒察可被下候 然而轡甘テ御約申候金一二円呈上 仕候間御受収可被下候右御礼 労早々如此候也 八月二十一日   西周 井上円了様 47

(15)

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(177×444) ・ 拝啓 御投了ノ芳翰敬涌御申 聞之趣委細領承仕候 陳ハ今般御館内二於テ新二 仏教修専科ヲ置キ増斯道 ブ  ヲ発揮被相成候段真二随 喜之至二奉存申候就テ右講 義録発刊之祝詞仕候二参・上 一首ノ村詩別楽之め候と相綴 申上候素ヨリ不調法ノ野 僧千字二慣ハス漸塊之至二 御坐候唯取捨倒高意之儘 二御坐候先ハ不取敢卑答 草略如是御座候        敬具 三月十八日      釈宗演 井上円了博士 48

(16)

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蓼緬き婆墓譲、

桂酸功裟曇鷺樽

費遁表蓬㌻瑛

鞭孝性ρ藪篠笈纏

接透露ψK覧露㌃轡

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饗、奪ザ﹄7巧辛山

、ず盛垂

(165×347) 炎暑之時下愈御壮栄 奉欣賀候陳者兼而御 依頼頼に相成候通今後も参 館講義可仕筈之処今 般学習院より教授嘱托 被致候間 以後虫貝館へは出 頭無覚束事と奉存候 故一寸御通知申上置候        草ミ 九月一日    井上哲次郎        頓百 井上円了様    玉案下 49

(17)

璽移短惚

咋、争覆翻ノ脅ノか才

 霧理・萎ぞ賓

塚望黛・謎熔奪

・耀・繋竃豪蔵

灘譲講泌

  

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鞭慮驚礁

(168×317) 芳墨拝見状ニハ 十三日例年ノ如ク 新年宴A云御︷關四候ハ 御招ヲ蒙り難有奉 存候必参上可致候 条此段御答上候        拝復 一月十一日      加藤 弘之 井上館主殿 50

(18)

・聾雛 鞭、

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多撮霧真認

  ・毒管灘.

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、鴫・蒙灘、

彗,黍灘、

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… 

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(188×526) 拝啓来ル十一二日哲学館⋮ 移転式二口口郁文館開校 式御執行二付参館御招 御懇書得候虞同日者同枚 中委員会相開キ度儀有之 遅口思間様﹀可得も参被 難致候間不悪御承知被 下度先々御懇請之厚意ヲ 謝シ併セテ不参之御断リ如 斯二候勿ξ頓首 十一月十三月  千家尊福 井上圓了殿 棚橋一郎殿 51

(19)

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鞍診急

(193×127) 井上円了様

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   岡倉覚三 52

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(176×183) 拝請無着葬の 儀差支無之候御 即答候也

十月三日覚三

井上老台

(20)

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(175×318) ﹁何卒く 先生     む 御説教の せつ此 む    む 保会法の事を    つ  ゴ  ニ ひろく御被露を

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   奉願上申候 舟二年 一月二日  宝田宮㊥ 井上円了先生 机下 53

(21)

(163×190) 咋日ハ御来訪被下候処折節 出勤前失敬御海酒可 被ス候筆記大延引候御使より 御渡中上候塗抹甚シク候間 可然御推読可申下候        草e  五月廿六日        重礼  井上様 54

(22)

髪懇藤

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釜聾隷轟

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’〉  、\難  ・蕊途澄 雛,。ぶ  、1 (176×456) (178×139) 東京本郷区 駒込蓬+來町哲学館 井上円了様    親展   芝区三田九丁目     福沢諭吉 拝啓愈御清福 奉賀上候陳ハ今日ハ 御近著之二書態々 御恵披被下奉 万謝候寛々拝読 可仕候と相楽ミ居候 右不取敢御礼迄 略筆申上候      勿ξ    福沢諭吉 三月二日 井上円了様 55

(23)

(180×322) 秋罧欝こ敷候処 道御多祥奉賀候然者 先比尊嘱之運動場 一条二付御同巳望候即日 松井影長へ頼遣候処 近日別紙被申越下候也其 儘かき上候にてはあまり催 促二不及方よろしきゃ と被推察候也 九月二十四日  上里 井上様 56

(24)

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弁劣面零騒

(187×327) 拝啓貴著之政敦日記 御送与被下鳴謝罷在候 右者便利之品こて珍蔵 いたし然儀二有之居候 右御挨拶まで如斯 御坐候拝具 十二月廿三日      辻新次 井上円了殿 [)〆

(25)

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(175×513) 前略御免口候陳は小袖実 際繁務根械候蓋キ候間 貴館出席御断申度 右直接に申上くへき之間両日は 境野君に托し事情開陳 方依頼致し置候処貴豪 には申上呉れさる由先日 授与式之時承り候次第に御座候 今又夫断申候も如何と 存候へとも余り繁多にして 脇力も口方候間何卒 暫時にても貴館之方 御免蒙り度此事情 突然之様に有之候へとも 安藤君には数ξ申入 置候次第に御座候間 不悪御許容願上候也       村上専精  井上博士座下 58

(26)

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講簿斯頃ぎ虎  バ重耀叢緊⊇、

(233×116) 過日御来訪被成下久ξにて拝賠大慶 奉存候其節御命示之元祖像口 甚蕪文に候へ共別番之如きものにて御用 に相立可申候哉とにかく奉入貴覧候尚ヲ考も 被為在候ハ・開示被下度旦像上に浄写にても 致候儀に候ババ其料昏寸法御示候被口上候 也不徐 八月尽 青応相推 59

(27)

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(177×296)   曹[洞宗高僧          ︵懐︶     へ恰︶ {示 c 道元 二代孤雲彗心弊 三代徹通士我介 大本山総持寺開山 坐山超堕 峨山紹碩 明峯素哲 寒巌義 ア 通幻寂霊 太源宗真 無端祖環 大徹宗令 実峰良彦 梅山聞本 了篭慧明 石屋真梁  右ハ寛元以来応永年間迄ノ人 鉄心道印 独庵玄光 月舟宗胡  卍山道白 天桂伝尊 面山瑞方   右ハ徳川治世元禄ヨリ延宝返ノ人 拙柄義五月廿七日ヨリ他行今日帰宅然ルニ 去月廿八日附ノ御書面二接シ早速右之姓名 申上候爾余之儀者追テ為調可置候       早ξ  二月三日       滝谷壕然   井上円了様 60

(28)

欝鰭慧

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ソ遠る+驚上・翼

    解舜・舷脅κ

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(170×360) 東洋哲学会ト御改称相成 雑誌も右同様御改号二付 云ミ拝承仕儀二候我 国体御研究ハ日本人にとりてハ 尤必要之儀与相考.既二 円了先生忠孝活論二 於て其端ヲ御開申候上ハ 御参考こも可被成儀二  国体発揮一部 拝呈仕候願クハ右二付御研 究之為其雑誌上二掲載 毎条二付 一ξ御批評ヲ願度候此段 奉願候也 二月二日       内藤阯聖 井上円了様 61

(29)

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舞麟魏

  

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一鷹遭呈

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(158×712) 過般御懇書を賜ハり 哲学館将来之目的を 御示し被下候間早ξ御回答 可仕筈之処小生事旅行中二 有之不本意遅延二 及候条御海酒可被賜候 陳者御来示之御意見 拝読仕如斯も鋭意 大学二御企あるは大二 感服仕且当時 其必要を感し居際 なれば殊更其挙二 御賛成奉申上候     ぜ モ 小生ハ常々民間二義 気を抱き候様之挙に 着手せし者無きを 62

(30)

ー曙、捲灘瓢

望認戴

遺憾と存し居候 乍去絃二一応之御注意を 仰度事ハ折角 御創立二可相成大学ト ァレハ成丈ケコスモポリタン ユニヴァルシティーと相成候様 切望スる所二御座候 右為貴答     勿ぐ拝具 八月廿九日 新島嚢 井上円了様 侍史 63

(31)

4 哲学館第一期生 金森従憲氏 金森法蔵氏談︵兵庫県竜野市 真宗大谷派善竜寺住職︶  父︵従憲氏︶はこの寺の次男として、明治元年七月に 生まれています。門徒︵檀家︶は七∩.ぐらいで、士族と 屋号のついた商家しかいませんでした。父は一六歳のと き母親から五円もらって東京に行ったと聞いています。 そして、明治一九年に、三重県に行って、母方の血縁に あたる村上了本という人から説教を習っています。落語 でいうと一前座一にあたる﹁一席一の説教ができるよう に、練習したということです,、  哲学館に入学したのが明治二●年九月です。ですか ら、哲学館第一期生となりますか。そうですね。その当 時のことについては父からあまり聞いていません。た だ、父の兄妹は男三人、女六人と九人です。おじいさん が明治一八年に死んでいますから、学費は皆無だったと 思います。どこかで働きながら哲学館にお世話になって いたんではないでしょうか。明治二二年二月に病気にか かり一旦退学し、六月には東京重二社に入社して﹃学 校﹄という本、案内書のようなものと思うですが、それ をつくっています。そして、この年一〇月に哲学館第三 学年に入り、二三年七月に修業となっています。在学中 の講義を筆記したものに大審院の原稿用紙を使ってます けど、なんか関係があったんだろうと思います。  在学中の出席状況を知るものがあるんです。これはな にか雑誌をむしったようになっていますが、そこに二 月中館内員勤惰表﹂がありまして、○印は皆勤、●印は 欠席で数学は時間の数と書いてあります。父は第三年級 で﹁●二﹂とありますから、二時間欠席したんですね。  その後の哲学館との関係では、明治二六年九月から二 七年九月まで、 一哲学館ニテ妖怪二関スル学術ヲ研究 ス﹂と履歴書にあります。これは通信教育だと思いま す。二八年から三〇年まで、どこかで法律の勉強もして いますが、明治三六年九月に哲学館大学得業という証書 64

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をもらっています。  竜野へ帰ってきたのは明治二五年から明治の末かはっ きりしませんか、大正七年ぐらいに住職の辞令をもらい ました。おじいさんが死んだあと、男兄弟一二人のうち、 長男は次男が継いでくれると思って赤穂の寺へ行き、次 男も三男が継いでくれるものと思って東京へ行ったんで しょう。長男は二二年に身体をこわして死んでから、次 男の父が寺を継いだんですね.、東京から帰ってきてくれ と言われて、こちらに戻って、ここでは漢学を教えてい たようで、ちょくちょく教え子が訪ねてきていました。  僧侶としての得度は明治二二年にしているのですが、 明治二六年七月に、本山︵東本願寺︶から、堂班停止で 僧籍除名の処分を受けています、.哲学館のときと思いま すけど、明治二⊃年一一月六口に﹁他見禁一と記して ﹁宗教改良論﹂を書いています.、その中には住職の月給 制、管長公選制などのことを三pっています,本山の処分 をうけたのは、二六年六月にここら一円の末寺五九ケ 寺、檀家四三一=戸を組織した播磨同盟を組織して、本 山寺務改正を目的とした運動をしたからです。上願委員 として京都へ行ってます。宿賃は二円で、﹁金森が来た﹂ といって、本山の人が動向を伺いに宿へ来たと語ってい ました。このときは法律の勉強をしてましたので、竜野 の裁判所へ法主を告訴しています。よその寺の門徒が ﹁若いもんが管長さんを告訴して﹂と怒ってました。そ して、本山から﹁告訴をとり下げたら処分しないから﹂ と言うので、とり下げたところ、処分をされたというこ とがありました。竜野の人もいっしょに処分され、翌二 七年に処分解除になっています。  また、清沢満之さんらの﹁白川党宗門改革運動﹂ ︵明 治二九年一〇月にはじまった教団改革運動︶のときも参 加していたようで、播磨の国では村八分みたいになった 人の中︵﹃教界時三口﹄第五号四二頁︶に父の名前が出て います、こちらには井上円成、安藤正純という人が活動 に来ていますね..明治四三年十月には﹁衣体着用及自坊 外二於テ僧侶一として活動をするなという処分を受けて ます..このときは水害問題から本山上納金の問題に発展 65

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したもので、そういう書類があったのを記憶していま す。  その他に、明治三二年一二月にこの辺の寺の門徒総代 の署名を集めて、 ﹁宗教制度ヲ立ラレタキ請願書﹂を衆 議院議長に提出したり、昭和四年には東洋大学講師をし ていた富山県の藤岡恵隆さんと連絡をとりあって宗教団 体法案撤回運動をしています、.こういう運動をしていま した。  哲学館を出てからも井上先生との関係は続いていて、 竜野へ相当来てもろうとるようです。明治の頃とか、大 正二年の井上先生の書があります。甫水の号の書がこの 周りの寺にもあります。うちの寺のは量が多いので表装 できないままになっているのが多いんです。仏教連合会 や求道のグループがあって、それに参加していたので、 大きな講演会を開いていたのでしょうね、そこへ井上先 生に来てもらったようです。また、おばあさんの里の女 の人ですが、井上先生の本を読んで、先生をしたって東 京へ行ったんです。それは父が紹介したんですけど、帰 ってきたら﹁自分は円了さんのところで⋮⋮﹂と言って 威張ってました。  父は寺に帰ってきて後に、仏教青年会というものをつ くり、浩々洞の近藤純悟氏や大正時代に入ってから斉藤 唯信氏をよんで、例会をやっていますし、地域で聞法会 ﹁同信会﹂をつくり、川崎顕了さんを呼び、各寺の総代 をスポンサーにしていたようです。父は毎月のお逮夜に 門徒の家で法話をしていたようで、今でもその習慣が残 っていまして、お茶を出したりして皆さんが待っておら れるんです。お経は一〇分か一五分ぐらいで済みます が、三〇分から一時間以上語るというときもあります。 父が亡くなった後で、門徒の人から﹁御院さん︵住職︶の 後に座ったらかなわんのや、一杯飲んだら頭がさえて、 哲学の話が出てきて、それを分ったように聞くのがつら かった﹂と言われました。宗教活動は﹁仏教復興会﹂な ど宗派をこえてしていましたので、法事には他宗派のと ころからも来てくれというて呼ばれてました。  門徒との間では、前に言いましたように法律を知って 66

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いた関係で、門徒の人が相談にみえとったようです。私 が幼い時分に﹁そんなこと言ったら不利になる﹂とか言 ってまして、地域の法律相談の相手になっていたようで す。私は若くして住職になったんですが、周囲からの父 の信望がありましたので、地域に個人的な相談者がいま した。父は困った人への施しは催促もせず黙ってしてま した。本山への毎年の上納金も門徒から金を集めており ません。  一徹な人で、頑固で言い出したら聞かず、筋を通す方 で、社会的地位の上か下かに全く関係なく、曲ったこと は嫌いで、道理を通し、下に対しても平等に扱うように していました。 ﹁七条﹂という法衣を葬式のときに着る のですが、これは金糸が入ったりしたキラキラしたもの です。うちでは七条の上等なのをもってたんですが、父 は﹁五条﹂で通してました。七条に比べると清楚なもの ですが、父は一、七条は誰でも着れるが、五条は資格がな いと着れないんだLといって、それを正装にしてまし た。華美なところを嫌ったんでしょう。門徒の人は七条 の方をと思っても、あきらめていました。神戸の方で従 兄弟の葬式があって、父と一緒にいったんですが、あそ こは七条を着るのが習慣なのに、やはり父は五条を着て 行ったんです。そこへ葬式の案内をうけた大谷派の別院 の輪番が七条を着てきたんです。﹁金森さんが五条なら﹂ と彼はあわてて五条を取りに行かせて着替えたというこ とを、私は覚えております。  父が結婚しましたのは五四歳でしたから、私は五七歳 のときの子どもなんです。ですから母と父の年齢差が一 九ありました。父が裁判所へ行くのに、母が着替えさせ ようとしたところ、 ﹁おまえも金森従憲の妻なら、目覚 めてくれ。衣装で外側を飾って出ていくことはまかりな らん﹂と怒られたと言ってました。偉い人に会うでもな んでも同じだということでした。そうした姿勢もあって か、武内了温さん︵真宗大谷派僧侶で部落解放運動に尽 力した人︶とも知りあいでした。  昭和二四年に八二歳で亡くなりましたが、死の間際に 見舞いに来た人に説教をしていました。気丈な人で、家 67

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の中ではこわいと母が三口ってましたけど、晩酌のときに いろんなことを江戸弁で話してました、. ︵第一回調査は 昭和五.五年八刀八日、調査員は田中菊 次郎、高木宏夫、三浦節夫、第二同調査は 昭和五九年 三月]ご口、高木宏夫、三浦節夫である..︶  井上円了と金森従憲氏との関係を、円了の﹃南船北馬 集﹄で調べてみた、、同書第一一.一編の一明治三十八年前開会 地一覧L 二二三∼一三四頁︶よれば、 [明治二.五年一 月二一日か・ら一二月六日﹂、 ﹁明▽治一二五年二月一一八日から一二 月二七日﹂と、この二つの期間に円了は竜野市を訪れて いる。さらに、同書第八編︵二九∼=、一.万゜頁︶をみると、 円了は大正二年の広島県巡講の帰途に、竜野市で金森氏 につぎのようにして迎えられている.。  十六日晴、午前郡立賀科女卑梗にて講話をなす、稜長は近務安太郎氏なう、婚路よう 除軍歩兵中佐下江孝氏來訪あり、是ようm餓にて綱干肝に至ら川㍑線に韓染して祠戸に 向,’、龍野の方言に就、二﹂聴下に鯨♪ハる所を川くに、﹁龍野ナ↑リハ猫ナヘナ︹ル、ニヤ ヲくくニヤヲ<<﹂といふば而白し、又龍野近在の守院の姑に㌍渠とかきてハ ナ・とよ⇒あ.せ、尺一し﹂かきてナカ〃二とよませるは奇なう、而秦は秤の字を分刑せるは 言,声を待力ず、尺一は川りの字が十一寸とかくよう起れる由、斯くして午後四肝牛、諦戸 三之宮騨に汁し、岡川湖川雨氏の案19にて、高等商業學生集合所に至り、此に宿泊す、 灘内の風光望中に入る、nらず゜も西斑尼語姫修の學生の援待を受く、 1’1]・沖川播共    州他 数詔汁  勅一 育修市 .身一 離祓mr   四   ケ ー三所   六 席席席 戸  揖蹄   保行 市 郡恐    上

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善竜寺所蔵哲学館関係文献一覧

ω﹁講義ノート﹂︵和綴ー講師名順︶

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題 領  大  華       易教全療     実理 序  乗  厳         講体法      際学 論  起  部         義 ノ 説      論妖 信       総明       怪 _       論        部 名 明   明        明明    明 二   二      二 二      二 日 三   三        三二     三 .       ●      ■     ・       ■ 一 一 一 一 一 一   ニ ー   一 二 二 ニ ー 一 一 ■     ・     ●     ・     ■     ●       ■     ●       ●     .     ■     ■     ●     ●     .

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付 写

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加藤弘之 国府寺新作 清野  勉 坪井正五郎 長沢市蔵 徳永満之 松本愛重 松本講師 松本源太郎 三宅雄二郎 社会学一班 教育学 論理学講義 倫理学 純正哲学 国学 日本学 心理学 哲学史 実際的宗教学講義 二・ 五 一・二一 ②﹁講義録﹂︵哲学館、明二三・一一発行ー著者名順︶

著者名

沢柳政太郎 三宅雄二郎 村上専精   〃 書 名 心理学 希臓哲学史 印度哲学大乗起信論講義 仏教論 学 年 第四期第一年 第三期第二年 第三期第二年 第四期第一年 ③﹁通俗講義本﹂︵著者名順︶ 井上円了 〃

著者名

仏哲

ウ学

N通

w俗

ハ講

ュ義

u義

書名

井上円了講述 境野哲筆記 阪倉銀之助 加藤玄智 紀平正美 高瀬武次郎 塚原政次 中島徳蔵 新村  出 春山作樹 妖怪学講義 純正哲学︵哲学論講義︶ 宗教学通俗講義 心理学通俗講義 支那哲学史通俗講義 論理学通俗講義 倫理学通俗講義 言語学通俗講義 教育学通俗講義 巻一ノ上、巻四 ノ上∼巻六ノ上 ④ 井上円了著書︵発行年月順︶

著者名

井上円了他 稲葉昌丸抄訳 井上円了   〃 〃 〃 〃 〃   〃 井上円了編 非僧非俗道人 書 名 発行所 未来世界論 宗教新論 日本政教論 哲学飛将碁 真宗哲学序論 教育宗教関係論 日本倫理学案 外道哲学 妖怪百談 破唯物論 哲学書院 哲学書院 哲学書院  〃

哲学館

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三コ円了

〃 宗教改革案 勅語玄義 迷信と宗教 哲学書院

哲学館

明三五・五 明三五・三 大五・三 ㈲ 井上円了雑誌論文︵年月順︶ 論 文 名 新仏教に望む 将来の宗教 仏教の真髄

嚢籠落︶

雑誌名 新仏教  〃 活仏教 求道 美 〕 号 第三巻第一号 第三巻第一二号 第三巻第二号 第一三巻第一号 年  月 明三五・ 明三五・ 大 四・ 大 五・  一 一二 二  一  ﹁今後の仏教﹂を鴻盟社編集局言取新仏教演説一軌範﹄ ︵明  四二・八︶に所収 ㈲ 井上円了関係文献  東洋大学校友会﹃井上円了先生﹄︵大八・九︶  ﹁井上円了博士を語る﹂︵﹃思想と文学﹄第二巻第三号、昭  =・一一︶  財団法人哲学堂再務所﹃哲学堂﹄︵昭 六・一〇︶  ﹃東洋哲学﹄︵第一編第三号∼第一二号、第二編第四号∼  第六号、牛弟二編第↓ 一ロラ、第三編⋮第一口●∼]弟一二口写、第八宿鯛  第二号、第八編第八号、第一〇編第三号、第 ○編第五号  ∼第九号、第一〇編第一一号、第一二編第一号、第二一編  第七号∼第一一号、第二二編第一号、第=二編第四号、第  一三編第一二号、第一五編第一号、第一八編第四号、第一  九編第一一号、第二〇編第一号、第二二編第八号、第二四  編第一〇号、第二六編第九号︶ ω その他単行本︵年月順︶ 発行所一発行年月 72

著者名

三宅雄二郎 清野 勉 村上専精 徳永満之 千頭清臣 加藤弘之 稲垣仙次郎 児玉石二 石川舜台 藤岡了空 国府寺新作 書 名 日本仏教史. 帰納論理経世危言 仏教因果理法論 宗教哲学骸骨 墳克拉的 小学教育改良諭 登録税法通解 管視私録 養病対話 教育学講義 集成社 哲学書院  〃 法蔵館 博文館 哲学書院 明輝社 法蔵館

明明明明明明明明明

五一九七六五三三九

九〇四四七八六一六

別 その他ー雑誌  教界時言社﹃教界時言﹄︵第二号∼第五号、明二九・二  ∼三〇・一︶  浩々洞﹃精神界﹄︵第一巻第一号∼第一二号、第二巻第一  号∼第↓二号、第三巻第一号∼第一二号、第四巻第五号︶

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5父井上円了

井上信子氏談︵東京都中野区 井上玄一氏夫人︶  私は明治三二年四月生まれで、井上家へ嫁に来たのが 大正六年です.、私は主人と結婚することも知らなかった んです..すっかり決まってから言われました。私が卒業 前の試験を終えて帰ってきましたら﹁支度しろ﹂と言う んですー、﹁.どこへ行くの﹂と聞いたら、 [ちょっと行く んだよ﹂と車に乗っていきました。それが見合いなんで すよ..形式的なお見合いなんかしなくてもお互いに知っ てるんです.、それで結婚の日が決まり、卒業して七日目        に結婚式です.親の言うこ ぷ 井上 信子氏 とは一ご無理ごもっとも﹂ と従っていた時代ですから ね、  井上は哲⋮[.丁で、私の父は 軍人でしたが、家のちがい がちっともないということは結婚前から知っていまし た。私の里が富士前町で曙町のすぐ側です。里で買った 地所が元は井上家でもっていたもので、私は一二、三歳 の頃にそのことを知りました、私の家と近くて、妹とは お琴の友達で、しょっちゅう遊びに往来していました。 妹は﹁うちには飯事遊びの道具などなんにもない一と言 ってましたが、井⊥の家は貧之でおもちゃを買えないと いうのではありません、かえって、妹はお茶の水の小学.ナ 校まで、毎日人力車で通っていましたんですよ..  また私の里は軍人の家で躾が厳しくて、私はそういう もんだと思ってました。井上の家へ行ってもきちんと座 って挨拶をしていたんです、そうすると窮屈だと.言うん です。妹なんか寝そべっていました。井⊥家の躾はちっ とも厳しくなく、父も母もそういうことには関心があり ませんでした.、  ﹃婦女95﹄にのった私達の結婚式、結婚披露の費用を すべて寄付す.ることについては、小さいと也、・から井上の 家を知っており、ちょっと普通と変っていると思ってま 73

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したので、あまり驚きませんでした。そのとき各界の人 から頂いた色紙は、とても貴重なので今も大切にしてい ます。色紙も眺え手紙も父が書き、色紙を頂いた順にこ こに張るんだという指示まで、忙しいのに父が準備から 整理まですべてしてくれました。大変几帳面な人でし た。  父はまた決して怒らないんです。どんなことがあって もニヤリとしてるんで、それが私は不思議だと思いまし た。私が結婚早々に、父から紅葉と五葉松をもらい、﹁こ れは生き物だから、水を断やさないように、大事にして くれ﹂と言われたんです。私も気をつけていたんですけ ど、急に海の方に行くことになり、女・中の人に頼んで出 かけたんです。水を忘れたんでしょうね、帰ってまいり ましたら、干からびているんです。私はなんとお詑びし たらいいか、どんなにお目玉もらうかと思いながら、こ ういう訳でと言いましたら、ニヤリと笑いまして、 ﹁植 物だからやはり水がね・⋮−﹂と言うだけなんです。ちょ っと薄笑いをするんです。それが特徴でした。  それから頑固な面もありました。住いが割と広く、三 〇〇坪ほどの庭があり、草花が好きで植えていました。 昔の回り廊下の家で、雨戸と障子でガラス戸が入ってな いんですよ。寒いときはビュービューと風が入ってきま す。母は金沢、父は越後で、母なんか寒がらず、雪が降 ると障子を開けさせるんですよ。私が﹁寒いでしょう﹂ と言っても﹁景色がみられるから開けといて下さい﹂と 言うんです。里の母が﹁,ここにガラス戸が入るとどんな にいいでしょう﹂と言っても、ガラスを入れないんで す。冬はストーブなしで、コタツと火針でした。寒くっ ても吹きさらしの縁側で、水でもって顔を洗っていまし た。  そういうように見たところは質素で、母も見栄を張 ることがありませんでした。父が講演先で薩摩焼とかい いものを頂き、それを小包で送ってくるんですが、それ をすべて倉に入れてしまうんです。母は﹁出しておく と、女中さんが良し悪しをわからずに壊してしまうか ら、勿体ない﹂と言うんです。ですから、普段は壊して 74

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も惜しくない物ばかり使ってました。石黒さんなんかが いらっしゃるときは、さすがに倉から出してきてました けども、そういうことはかまわないんです。  日常生活は質素なんですが、必要なときには思いきっ て使うんですよ。父の還歴のときには、哲学堂の世話を していた人、越後の兄弟や姉妹などにお金をあ・げてまし た。私たちには品物などで、長岡の小学校にも寄付した り、その他に何かの祝い事のときに、大正七年で、一人 に五〇円ずつくれたんです。  旅行から帰ったときは、必ず私たちにご馳走してくれ ました。一年のうちで父の在宅日数はほんの僅かで、ほ とんど表の方が多いらしいんです。子供の頃、妹が﹁う ちは変なのよ、お父様が家にいらっしゃると変な気がす るの﹂とよく言ってました。私の結婚後もそうでした。 一週間家にいましたらいい方でしょう。二、三日です ね。他の巡講が待っているんですね。よく電話がかかっ てきました。帰ったときは、歌舞伎や奇術など、知らな いうちに切符を買ってきて連れていってくれました。家 族全員で花見に行ったり、帝国ホテルや九段の富士見軒 などの洋食の有名な店でご馳走をしてくれたり、そうい うことは大変気のつく人でした。  父は旅行に出るときはデパートに行き、インバネスを 新調したり、そういうことは自分でいたしました。普段 はどんなものを着ていたか覚えておりませんが、表へ行 くときはそうしていました。  私は嫁に来る前から長唄をやっておりました。こちら へ来て一時止めておりましたけど、生涯続けたいから と、 ﹁できるだけ上等の三味線で、糸巻きは象牙ので す﹂と言って買ってもらったんです。でも、私はそんな に言う必要がなかったんです。父が残しました記録がご ざいますが、お金はみんな株の配当や積立などの主人の 財産から出ていたんです。私は知らなかったんですけ ど、私達の生活費はすべてそこから出ていたんです。お 金などのけじめはきちっとしていました。それは母がや っていました。  里の母は﹁円了さんというと宗教を研究している人 75

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井上家所蔵の仏像 で、家の中はさぞ や抹香臭いだろ う﹂と思ったら、 全然そんなことで ないんで驚いたと 言つてました。父 が書見や執務をした室には仏壇がありましたが、お線香 ぐらいあげたんじ±,ないでしょうか。お経を聞いたこと はありません.、.旅行のときは小さいインドの仏像を持っ ていきました.、大事にしてまして、大連のときにも持っ ていき、亡くなったときに出てきました。  この仏像︵写真︶は当時、博物館の館長をしていた男 ヒ爵の方が、 ﹃仏教活論序論﹄を読んで感心して、父が若 いときに頂いたものです。父も母も﹁仏教活論序論の方 がよくできたんだ﹂と言ってました。そして、私が﹁お 母様、あの仏像は勿体ないですよ﹂と言って、倉の階段 の下にあったのをもらいました。鑑定では鎌倉時代の作 なんだそうです。母も本ばかり読んでいて、物欲はあり ませんでしたし、上流階級のつきあいが嫌いで、人にへ つらうことが嫌いでしたね。父はつきあいなど世問並で した、  父が東洋大学の学長を辞めたのは、神経衰弱のためだ と聞いてました.あ.んまりμ.ナ校や事業のことなどを考え すぎて、そうなったらしいんです。それで思い切って辞 めて、哲学堂に専心しようと思ったんでしょう。修身教 会などの活動をするようになって、すっかり変ったんじ ♪、ないでし・︿うか。父は医者にかかったことがないん で、神経衰弱なんか、もう自分でそう思っていたんでし ょう.、母も医者が嫌いでした.  父が大連に行く前はいつも通りで、白木屋でインバネ スを買って、ちっとも疲れた様子はありませんでした。 父が亡くなり、いろいろと整理しておりましたら、哲学 堂のことが書いてありました。そこには、哲学堂の土地 の内側は別として、外側つまり今のグランドなどは、全 部玄一︵長男︶の名儀にしろと書いてありました。それ が亡くなる二、三年前の遺言にはそうは書いてないん 76

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で、おかしいなと思い、主人に申しました。主人は﹁そ うだ。元は自分のものにしてもいいということだったけ ど﹂と言ってました。  それは、主人がちょうど大学を卒業して、熱帯農業に 大変興味をもち、仏印とかへ行ったりして大騒ぎをした 時期があったんです.それで、父は﹁玄一があんなこと をしたら生涯食べるのに困るだろう﹂ということで、哲 学堂の地所を残そうと思い、遺三.]に書いておいたんです よ。ところが主人がマニラに行ってる問に、父は人に頼 んで、三井銀行に就職することを勝手に決めちゃったん ですよ.。主人は銀行みたいなところは嫌いなんですよ。 父は主人の就職が決まったから、哲学堂を残さなくても いいと安心して、それで土地を自分のものにしてはいけ ないと遺 .己を変えたんです。  主人はやはり台湾のよう﹂、怯所へ行きたいと思い続け て、勝手に人に頼んでいました 長男︵民惟氏︶が生ま れてまもなく、来てもいいとなって、父に話しました。 父は自分の子どもに対して、後を継いで欲しいなどと言 わず、なんでもしたいことをやれという人でした。です けど、この台湾行きについては、時候が悪いと反対しま した。なんにでも﹁いけない﹂とおっしゃらないお父様 が、やっぱり孫のことを考えてくれていたんだなと思い ました。  境野黄洋さんが﹁哲学堂の土地を大学へ寄付して欲し い﹂と語ったということは聞いておりません。また、学 校からも寄付してくれという話はございませんでした。 うちでは、境野さんをあまり信用していませんでした し、とかく評判もございました。岡田良平さんが一時学 長になったとき、﹁境野君には弱ります。学校のお金を 使いこんで騒動になった﹂とか言ってました。あの方は 父が亡くなる前は、境野さんと誰かと、三羽烏といって しょっちゅう三人で歩いてました。私もよく子供を連れ て散歩していて見かけました。あんなにワァワァ言って ましたのに、父が亡くなったときには来ましたが、その 後はちっともいらっしゃいません。哲学堂をめぐって大 学とは問題はございませんでした。 77

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 父は旅行から帰ってくると、哲学堂に行って書物を書 いたりしていました。哲学堂には父の世話をしてくれた 婆やがいまして、その人の子どもが三人いて、学校に行 っていないことを知り、父が男の子は高等学校、女の子 は小学校へ行かせたんです.、婆やは父のことを﹁人間じ ゃない、神様みたいな人だ﹂と言ってました。この人は 本当に誠実な人でした。  父は哲学堂では霊明閣に泊まりました。その当時は、 この哲学堂は東京からの遠足にちょうどいいところでし たから、小学生がやって来て、父がいることが判かりま すと、 ﹁先生に是非お話を伺いたい﹂と言いまして、そ のときは嫌な顔をしないで話をしていました。ずいぶん 来ました。  私も目白から馬車で来ましたが、豊島園へ行く方と分 かれ道のところから歩くしかないんです。父が私達と一 緒のときには、分れ道のところで、哲学堂で食事するも のを買ってくるんです。そのとき、父は﹁みんな先に行 きなさい﹂と言って、自分で豆腐や魚などを買い、持っ てくるんです。有名な方だと聞いてましたけど、よくな さると思いました。父は﹁いつものことだから﹂と笑っ てました。 ︵調査期日は昭和六〇年一月二五日で、調査員は高木宏 夫、水沢清之、三浦節夫である。︶ 78

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