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〈翻訳〉訳注 マルクス・アウレリウス(第二巻)

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穿

訳注マルクス

アウレリウス︵第二巻︶

      ︵1︶     第二巻    ︵2︶       ︵3︶      ︵4︶ グラン河流域、クゥアディ族の中で︵書かれた︶もの、第一巻。    ︵怒らず憎まず、すべての人と協働すべきである。︶         ヨ       ピ     1 早朝に自分自身に︵次のように︶言い聞かせよ。    私は︵今日も︶おせっかいな、 ︵あるいは︶恩知らずの、 ︵あるいは︶傲慢な、 ︵あるいは︶陰険な、 ︵あるいは︶妬み        ︵7︶       2      ︵8>   深い、 ︵あるいは︶非社会的︵利己的︶な人間に出会うことだろう。これらすべて︵の性質︶は、善と悪についての無知   から彼らに生じたのである。    ,3      ︵9︶   ﹂他方私は、善の本性が︵精神の︶美しさであり、悪のそれは︵精神の︶醜さであることを、さらにまた、︵私に対し        い 

  て︶過ちを犯す人自身の本性も私と同族のものである一ただし彼が︵私と︶同じ血と子種から生まれたということ

        ヌじス      ロ 

  ではなくて、英知と一かけらの神性を︵私と︶共有しているという意味においてである一というごとを認識して

       .訳注−マルクズ・アウレリウス︵第二巻︶       一

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137      彦根論叢 第二四八号       二  ︵12︶      ︵13︶

いるので、私は彼らのうちのだれかから害を受けるζともできないレーなぜなら、何びとも私︵の精神︶に醜さを

    ︵14︶      ︵15︶ まとわせる︵つまり私を醜くする︶ことはないのだから一また同族者に対しては怒ることも、彼を憎むこともできな いわけである。  4      ︹16︶  というのも、われわれはみんな、両足や両手や︵上下の︶目ぶたや上下に並ぶ歯の列のように、協働のために生ま れてきたのだからである。  5       ︵17︶  それゆえ︵人聞が︶互いに対立行動することは自然︵本性︶ ることは、対立行動的なことなのである。 に反している。そして憤ることや、︵人を︶嫌って避け ︵1︶ この個所から第二巻を始めたのは、G版が最初である。最初の印刷本では︵したがって、その典拠となったT写本において  も多分︶現行第二巻第4章から第二巻が始まっていたのである。なおA写本には﹁第二巻﹂の語はないが、その代わりにこの   個所に二∼三行分の空白が、つまり区切りがある。門またD写本でも、﹁同じくマルクスの︵書いたもの︶﹂ということばによ   って、この個所が区切られている。内容的にみて、この個所で第一巻と第二巻を区切るのが妥当であろう。 ︵2︶ グラン河︵フロン川︶はドナウの一支流で、ブダペストの北西でドナウに合流する。その流域は、ほぼ現在のチェコスロバ   キア国内にある。 ︵3︶ つまり﹁クゥアディ族が住む土地で﹂という意味である。クゥアディ族はゲルマン民族の一部族で、マはこれと戦うために  数次出陣した。本巻が執筆された年代は不確実だが、あの有名な奇蹟的雷雨のあった戦いのときだとすると、一七三年頃と推   定される。マはおよそ五二歳。 ︵4︶ 現行第二巻は本来第一巻であったのかも知れない。あるいはこの﹁第一巻﹂を誤りとして﹁第二巻﹂に改めるべきか︵F︶。   この詞書億最初の印刷本κめみあり、AやD写本にはないゆ従来これを現行第一巻に付記されたものと解した校訂者が多いが、   Fや鮪は、これを第二巻の頭書と解する。Gは第一巻末に印刷しているが、注釈において、表現形式の点からみて第二巻に属  する可能性が大きいという意味のことを述べ、しかし断定を控えている。

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136 ︵5︶ 早暁の瞑想や思索については、内容・性質は異なるが、五1と十一27を参照。 ︵6︶ セネカ﹃怒りについて﹄︵b。矯μρ刈︶に﹁賢者の心に毎日思い浮かぶこと﹂が述べられており、文章形式が本章のマの表現と   似ている。 ︵7︶ 原語は﹁アコイノーネートス﹂で、本書で7回くらい用いられている。エピクテトスでは2回くらい。Fの意見では、この   語は先行する五つの語の意味をも包含し、それらの類概念を表わす。この語の反意語である形容詞﹁コイノーニコス﹂につい   ては三4・3を、また名詞﹁コイノーニア﹂については三11・5﹁社会的連帯﹂とその個所への注︵28︶を参照。 ︵8︶ 悪徳と過ちが無知に基因することについては、ニー3・3、三11・4、七22・2、七26・1、十一18・4を見よ。なおエピク   テトス︵PHc。℃ωPN9①︶、セネカ﹃怒りについて﹄︵どH幽・悼︶をも参照。これはむろん﹁徳は知である﹂というソクラテ   スに由来する思想である。 ︵9︶ ﹁魂の美しさ﹂とは徳であり、 ﹁醜さ﹂とは悪徳である。徳のみが真の善であるということは、ストア哲学の基本的思想の   一つである。ニー1・6を参照。 ︵10︶ ﹁血︵経血︶﹂は母から、﹁子種﹂は父から出る。両者が合して子が生まれる。すべての人間は、父と母とは異なっていても、   同一の神から来た英知︵知性︶をもっかぎりにおいて親族である。﹁親族﹂あるいは﹁同族﹂という語についてはニー・3、   三4・7、三11・4、七22・2、九9・4、九22・2、十一9・2、十二26・1を見よ。 ︵11︶ ﹁英知すなわち一かけらの神性﹂という意味である。 後半の直訳は﹁神的な一かけら︵アポモイラ︶﹂である。 原語には   ﹁神から各人に割りあてられ、.配分されたもの﹂というくらいの意味がある。五27・1には﹁ゼウスの一片︵アポスパスマ︶﹂   という表現がある。また二4・2には﹁宇宙の管理者の一滴﹂ということばがある。十二26・2﹁各人のヌースは神であり、   神から流れて来た。﹂このヌース︵英知︶は基本的真理を認識しており、単なる認識能力ではない。 ︵12︶ 三11・5にも﹁しかし私は無知ではない﹂とある。 ︵13︶自己の悪徳のみが自己にとってめ悪であるので、他人から害をうけるということはありえない。他人から受けるように見え   る害については、四7、四8、.十一18。9を見よ。 ︵14︶ 衣類を着せかけ、まとわせるようなふうに。 ︵15︶決して怒るべきでないことについては、五22・2、五28・1∼3、七26・1∼3などを参照。      訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶      三

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135      彦根論叢 第二四八号       四 ︵16︶むろん共通の目的の実現のために力を合わせることである。その目的の内容については、ニー6・6を参照。﹁協働﹂という   語は名詞︵シュネ・ルギア︶としては七13・1で、動詞︵シュネルゲイン︶としては六14・2、六42・1と2で用いられている   ︵人間相互聞について用いられる場合のみをあげた︶。 また共働者︵シュネルゴス︶という語もある︵六42・1と3、六43、   七19・1︶。そのほか神が人間に助力する場合や浮々の相互の協働などについてもこの語が用いられることがある。 ︵17︶ ﹁対立行動する﹂︵アンティプラッセイン︶という語は、本書ではこの個所でのみ用いられている。  ︵君の魂の最良部分を社会的で運命に満足したものたらしめよ︶       ︵1︶   ︵2︶     ︵3︶  ︵4︶

 2 いったい私を成しているものは、少肉と少生気と司令部分である。

 2       ︵5︶       ︵6>

 肉はこれを軽蔑せよ。それは血糊と小骨と織り物−神経と静脈と動脈との編細工1である。

 3      ︵7︶

 また生気がどんな︵つまらぬ︶ものであるかをも観よ。風だ。それも常に同じものではなくて、四六時中吐き出

       へ8︶ されては吸い込まれているものだ。  4       ︵9∀  そして第三のものとして司令部分がある︵これこそ真に君自身である︶。  2      ︵10︶       ︵11︶  ︵さてそこで︶書物を捨てよ。もはや︵あれこれと︶気を散らすな。︵そのようなことは君に︶与えられて︵許されて︶い    ︵12︶       4       へ13︶ ないのだ。否、君はすでに死につつある者として、次のように考えよ。 ﹁君は老人だ。もはやこれ︵君の司令部分︶     ︵41︶      ︵岬胆︶         ホルメー      ︵輔脚︶ が隷従するのを、もはやこれが非社会的︵利己的︶な衝動︵欲求︶の糸によって操られるのを、もはや運命によって       ︵17︶ 定められた現在︵の事態︶に不満をもち、あるいは︵同じく運命によって定められた︶未来を恐れ疑うのを、許すべきで ない﹂と。 ︵1︶ ﹁肉﹂︵サルクス︶は肉体︵ソーマ︶の意味である。マは多くの場合︵多分軽蔑の意を込めて︶縮小形﹁サルキオン﹂また   は﹁サルキディオン﹂、時に﹁クレアディオン﹂を用いているので、ここではそれを﹁営門﹂と訳したが、以下では区別せず、

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134   縮小形も単に﹁肉﹂と訳すことにする。エピクテトスも時折﹁肉体﹂を﹁肉﹂あるいは﹁少肉﹂と呼ぶ。 ︵2︶生気︵プネウマ︶は人体全身に行き渡っていて、感覚・運動・情念の座もしくは媒体となる。生具のものだが、呼吸によっ   ても出入するらしい。︵狭義での︶魂と呼ばれることもある︵三16・1、七16・3その他︶。ここでは縮小形﹁プネウマティオ   ン﹂が用いられているので﹁少生気﹂と訳したが、以下では区別せず単に﹁生気﹂と訳す。 ︵3︶ 魂の司令部分もしくは司令器官︵ト・へーゲモニコン︶はストア哲学の用語で、以下頻出する。これは表象や意欲を司る部   分で、英知あるいは理性の宿る部分でもあり、しばしば﹁英知﹂あるいは﹁理性﹂と同義に用いられる。ストア派︵クリュシ   ッポスなど︶および医学者の﹂派﹁生気派﹂は、司令部分は心臓にあるとみなしたが、マの侍医ガレノスは脳にあると考えた。   マ自身の意見は不明。 ︵4︶ マは人間を二部分あるいは三部分から成り立つとみなす。ここでは三部分的見解を述べているわけである。他には、三16・   1、五33・6、七16・1∼3、八56・1、十二3・1、肩明ー4・5などに三部分説が、また二部分厘は三3・6、六32・1、   九18、九24、九27・1、十36・6、十二30・3∼4などに見られる。パウロ﹃テサロニケ前書﹄︵㎝﹄ω︶でも入間がプネウマ   と魂と肉体とに三分されているが、そこでの﹁プネウマ﹂︵霊︶はマの言う﹁英知﹂に近い。プラトン﹃ティマイオス﹄︵ωO   げ︶﹁ヘルメス文書中の﹃アスクレピオス﹄︵18︶、プルタルコス﹃月面に映る顔について﹄︵汗血︶などにもミ分説があると皿   は指摘している。 ︵5︶ Gの引くエウスタティオス﹃イリアス注解﹄によると、原意は血に土、ほこりなどが混つたものであるが、とにかくここで   は血のことを﹁血糊﹂と汚ならしく表現したわけである。三3末でも身体を﹁土と血糊﹂と呼んでいる。なお八37末と十8・   4でも、この語が用いられている。初期ストア断片やエピクテトスには現われない語である。 ︵6︶以上の三語は古くからある語だが、その意企内容は時代によって必ずしも同じでない。しかしガレノスはこの三つのものの   近代的な区別をすでにある程度知っていたので、マもガレノスから教わっていたであろう、とFは推定する。 ︵7︶ Fによれば、﹁風﹂︵アネモス︶という語はここでは﹁束の間のもの、一時的なもの﹂という含みをもつ。なおもともと﹁生   気﹂︵プネウマ︶という語には、気息、風などの意味がある。﹁魂﹂︵プシューケー︶という語もそうである。 ︵8︶ 五33・4、六15・3によれば、生気は体内の血液からの蒸発と、呼吸による体外の空気の流入により補給される。 ︵9︶十二3・2を参照。 訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶ 五

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133 彦根論叢 第二四八号 ⊥ハ ︵10︶ 次章に﹁書物への書の渇望﹂とあるように、マは読書の好きな人であったが、政務や軍務のために妨げられることも多かっ   たことであろう。彼はしかしここでは﹁読書をしぶしぶあきらめよ﹂と言っているのではなくて、むしろ積極的にそれを捨て   ようとしているように見える。読書は目的へ到達するためには回り道もしくは道草なのである。三14と十ニー・1を参照。エ   ピクテトズ︵軽讐心︶でも、書物に執着すべきでないことが語られている。なお節番号で示したように、本訳書では底本に従っ   て第2節の前半部分が第4節の中に移されている。これによって前後のつながりがかなりすっきりするわけである。 ︵11︶ 四3・9に同様な表現がある。なお三14初めの﹁もはやさまような﹂ということばを参照。 ︵12︶ ﹁すでに老年で余生も短かく、読書その他の道草は運命あるいは神によって許されていない﹂の意であろう。Gは反語的疑   問文ととり、 ﹁気を散らさずにいることが可能でないだろうか。否、君の自由意志によって可能なのだ﹂という意味にも解し   うると言っている。 ︵13︶ 本巻を書いたときのマの年令は推定で五二歳くらい。ニーへの注︵3︶を参照。西洋古代においても、何歳以上が老人か必   ずしも一定していたわけではなく、四十台以上、四十五歳以上、あるいは五十歳以上の人が老人と呼ばれる場合があった。 ︵14︶ 肉体や欲望あるいは情念などへの隷属である。 ︵15︶ ﹁非社会的﹂という形容詞については、ニー・1とその注︵7︶を参照。この語は三5・1、八34・1、十6・4、十一18   ・20、十二23・5でも用いられている。 ︵16︶ 原語では﹁糸によって操られる﹂が一語︵ネウロスパステイン︶である。欲望その他の諸情念と衝動を、操り人形の糸にた   とえた表現。三16・2、⊥バー6・1、六28、七3・1、七29・2、十38・1、十ニー9・1でもこの動詞あるいは対応する名詞が   用いられている。なおこの比喩は他の文献にも見られるが、プラトン﹃法律﹄︵H﹄農①︶が古い例である。 ︵17︶ ﹁恐れ疑う﹂︵英8ω器℃①9あるいは単純に8冷鍵︶はヴィラモヴィッツの修正によるもので、賢、F、箕などが採用し   ている。一15・6、ニー7・5その他でも、この動詞﹁ヒュフォラースタイ﹂が用いられている。A、D写本によると﹁を脱   ぐ﹂、﹁から逃れる﹂となり、T写本によると﹁を履く﹂、﹁を担う﹂で、いずれも意味不通。C写本によると﹁を避ける﹂とな   り、ダルフェンはこれを採用している。レンドールの修正案では﹁を嘆き悲しむ﹂で、シェンクルはこれを採用したが、この   表現は未来については少し不適当であろう、とFは言う。運命の定め︵つまり神のはからい︶を歓迎すべきことは、マの基本   的主張の一つである。例えば三4・4、三16・3などを参照。

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 ︵すべての出来事が、そして君の死も、神によって起き、全宇宙の維持に役立つ︶        ︵1︶  3 神々の仕事は摂理に満ちている。 ︵いわゆる︶偶然のしわざも︵実は︶自然なしには、 つまり摂理によって管       ︵2︶       ︹3︶ 理されるもの︵出来事︶の織り合わせ、編み合わせなしには、生じない。︵かくて︶すべてのことがかの所から流れて  ︵4︶ 来るのである。  2      ︵5︶       ︵6︶       ︵7︶  加えて、︵すべての出来事には︶必然性と、君がそれの一部分である宇宙全体にとっての利益が伴なっている。そし       ︵呂︶

て、全体︵つまり宇宙︶の自然がもたらすもの、それ︵自然︶の維持に役立つものは、自然のどの部分にとっても

       ︵9︶       ︵10︶       ︵11︶ ︵したがって君にとっても︶善なのである。そして諸元早め変化と、同様にまた︵諸元素から成る︶合成物の変化も︵した       ︵12︶ がって君の死もまた︶、宇宙を維持する︵のに役立つ︶。  3       ドゲマ︵13︶ ︵14︶      ︵15︶  以上のこと︵知見︶だけで君に十分であるとせよ。これらが常に︵君の︶原理であれ。そして書物への渇望を断て。        ︵16︶      ︵17︶

それは、君がぶつぶつ言わないで、本当に心和らいで、胸の底から神々に感謝の念をいだいて死んで行けるためで

ある。    ︵1︶ この世界のありさまが、神の摂理の豊富であることを示している、という意味であろう。﹁神々﹂は天体を含む。﹁摂理﹂は     むろん﹁神のこの世界への配慮﹂である。具体的には、例えば天体の規則正しい運行とか四季のめぐりなど、自然界のありか     たであろう。なお﹁摂理﹂︵プロノイア︶という語は本書では九回ほど用いられている。ニー1・2、四3・5、六10・1、九     1・10、十ニー・2、十ニー4・1と3、十二24・1を参照。    ︵2︶ 西洋古代においては、﹁偶然﹂あるいは﹁運﹂はしばしば擬人化︵神格化︶された。人間生活は一見偶然の連続だが、スト      ア哲学によれば、実際には神の世界管理の帰結である。﹁織り合わせ﹂︵シュンクローシス︶については三4・5、三11・4、     三16・3などを、﹁編み合わせ﹂︵エピプロケi︶については六38・2、七9・1、十5を参照。いずれも因果の連関を意味す     る。 32 1       訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶        .      七

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131 彦根論叢 第二四八号 八 ︵3︶ ﹁最高の神から﹂あるいは﹁神々から﹂という意味。原語はエケイテン︵①屏Φ騨げΦ口︶で、本書では七回ほど用いられてい   る。︸17・11、ニー7・4、四4・2、⊥ハ36・2、十﹁20・3、十二26・2を参照。なおこの語は用いられていないが八27も参   照。 ︵4︶ Fによれば、ここの﹁すべてはかの所から流れて来る﹂︵パンタ・エケイテン・レイ︶という表現はヘラクレイトスとスト   ア派の万物流転の思想を含んでいるというが、どうであろうか。なお十1・3に同じ意味の異なる表現がある。 ︵5︶それぞれの出来事は、人間にも神々にもいかんともなしがたい必然性、不可避性を伴なっている。この必然性は因果的、自   然法則的必然性、素材の存在からの必然的帰結などをも含むのであろうか。さらに全体の利益のために必要、必然だという意   味も含むのであろうか。四9、七18・3、十28末を参照。 ︵6︶ 自己を宇宙の一部分として認識すべきことについては、二4・2、二9、十6・1などを参照。七13・2∼3では、部分   ︵日Φ随。ω︶というよりもむしろ肢体︵日Φδω︶、手足だと言われている。 ︵7︶ 一部分に破滅をもたらす出来事も宇宙全体には利益をもたらす。五8・9∼11、十二23・4などを参照。 ︵8︶ 自然は個体の自然︵本性︶と宇宙全体の自然とに区別される。二9、十二23・3などを参照。 ︵9︶ 宇宙全体の利益は私の利益でもあることについては、六44・5∼6、十20、十二23・4∼5を参照。 ︵10︶ストア哲学でも、火・空気・水・土の四つが元素と呼ばれた。しかしこの四元素は不変のものではなく、相互へ変化する。   ニー7・5、六46を参照。 ︵11︶ 死は合成物である個体が諸元素へ分解することである。ニー7・4末を見よ。 ︵12︶古いものが滅びて、その代わりに新しいものが生じることにより、宇宙が保たれるという思想である。七25末、七18・1∼   3などを参照。 ︵13︶ ﹁ドグマ﹂の本来の語義は﹁意見﹂﹁信条﹂といったところだが、ストア哲学者はしばしばこの語を﹁指導原理﹂﹁指針﹂と   いう意味で用いる。むろん正しい原理もまちがった原理もありうるが、キケロによれば、智者のもつ原理は真であるばかりか、   確固として安定しており、くつがえされえないものである。キケロ﹃アカデーミカ﹄︵卜。b圃︶、セネカ﹃手紙﹄ ︵㊤9HO︶など   を見よ。キケロやセネカは﹁ドグマ﹂をαΦ08窪目と訳している。なお三13・1注︵4︶を参照。 ︵14︶ 底本はT、C写本の読みかたに従っているのだが、A、D写本によると次のようになる。﹁もしこれらが︵君の︶原理であ

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  るならば、これらのみで君にとって十分なものであるとせよ︵それ以外の原理を求めるな︶﹂ ︵15︶ ﹁書物﹂︵ビブリオン、複数形ビブリア︶という語は本書では三回出てくる。二2・2、四30を参照。なお﹁書物﹂という   語はないが、三14を参照。 ︵16︶ ﹁心和らいで﹂の原語は形容詞﹁ヒーレオース﹂で、本巻ではニー7・4でも用いられている。本書全体では十一回ほど使わ   れており、本書の最後の単語でもある。十二36・5への注を参照。八五歳くらいで亡くなったテオフラストスは死ぬ直前に、   学術研究のためには人間の一生が余りにも短いと自然に対して不平を言ったと伝えられる︵キケロ﹃トゥスクルム論議﹄ω、8︶   が、若死にするとしてもすっかり満足して死ぬことがマの理想であった。四48・4、五33・5などでも、この語が死に関して   用いられている。なおソクラテスが︿死刑執行人﹀の手から聖主を受けとるときの態度の描写にも、この語が用いられている。   プラトン﹃パイドン﹄︵目刈げ︶を参照。 ︵17︶ 四48・4の熟したオリーブの実が樹に感謝して落ちて行く比喩を参照。  ︵君は自己完成をもはや延期してはならない︶       ︵←       ︵2︶      ︵3︶       ︵4︶

 4 銘記せよ、すでにどれだけ長く君はこれらのことを延期しているかを。そしてもう何度神々から猶予期間を

いただいたかを、しかも︵いまだに︶それを利用していないということを。  2       ︵5︶   ︵6︶      ︵7︶

 だが君は今こそついに悟らねばならぬのだ、君がどのような宇宙の一部分であるかを。そして君がその一滴とし

       ︵8︶      ︵9︶ て存在しているところのこの宇宙の管理者が何者であるかを。また君の︵生存の︶時間には限界が定められており、       

これ︵その時間︶を君が心の雲を晴らすために用いないならば、時は去り行き、君も去り行き、もはや間に合わな

      ロ  くなるだろうということを。 130 ︵1︶ 以下本書中でしばしば﹁記憶せよ﹂︵メムネーソ︶、あるいは﹁記憶すべきである﹂という表現が用いられる。﹁銘記せよ﹂、 ﹁思え﹂、﹁忘れるな﹂というくらいの意味である。本巻では二9、白雲4・1、ニー4・5で用いられている。エピクテトスにも    訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶       九

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129 彦根論叢 第二四八号 一〇   この表現が見られる。 ︵2︶ ﹁これらのこと﹂とは完成の域に達することであろう。その具体的内容については、特に十ニー全章とエピクテトス︵ω℃b。軽”   ㊤㎝占O卜。︶を参照。本章後半に述べられていることは、それの前提条件であろう。 ︵3︶ 自己完成あるいは自己矯正の﹁延期﹂については、三4・4、八22・2、十ニー・1などを参照。なおエピクテトス﹃エン   ケイリディオン﹄︵ユ5︶も参照。 ︵4︶ すでに死んでいるはずの自分がまだ生きていることを言っているのであろうか︵ 17・20を参照︶。それとも、四十歳くら   いで達成すべきことを、五十歳を過ぎてまだ達成していないという意味であろうか。﹁四十歳﹂に関しては七49・2を参照。   あるいは、いつでも直ちに達成できることを、いまだに行なっていないというだけの意味か︵十哲ー・1を参照︶。 ︵5︶ すなわち英知によって管理されている宇宙、広大な全体が完全に﹁体をなしているような宇宙、部分が常に全体に寄与する   ような宇宙、外部に何ものも存在せず、したがって妨害者をもたないような宇宙である。十6・1∼4などを参照。 ︵6︶ ﹁部分﹂は全体の部分であり、他の諸部分と一体化し、親近的であるべきものである。 ︵7︶ コ滴﹂の原語﹁アポルロイア﹂は本書ではこの個所のみに見られる。書手・3のコかけら﹂ということばと、その個所   への注︵11︶を参照。 ︵8︶ 宇宙の管理者は理性︵ロゴス︶である︵四46・3、六1・1、六1・5︶。英知︵ヌース︶である︵黒潮・3、五27・1︶。   自然である︵四23・2、十6・1、七25、十一18・2︶。摂理である︵二3・1︶。法︵則︶である︵十25・2︶。ゼウスであ   る︵四23・3、五8・10、五27、十﹁8・4︶。 ︵9︶ 各個体の生存の限界︵期限︶は、当の個体の自然︵本性︶によって、もしくは宇宙全体の自然によって定められる。十二23   ・3を参照。 ︵10︶ 情念を捨て去り、安らかな境地に達することであろう。﹁心の雲を晴らす﹂と訳した原語︵アパイトリアゼイン、巷9律訂7   9NΦぽ︶は、本来は﹁︵神などが︶空から雲を追払う﹂とか、﹁空が晴れる﹂という意味で、哲学文献ではあまり用いられない   語である。八28・1では巴9H冨︵晴れた空︶という語が用いられている。 ︵11︶直訳は﹁できなくなるだろう﹂。﹁できる﹂︵エクセイナイ︶という動詞は、三14・2でも用いられている。その註︵8︶を   参照。なお、急がねばならぬことは、三14のほか、三1・3その他でも言われている。

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   ︵幸福に生きるために必要で十分な事項︶         ︵1︶       ︵2︶     ︵3︶     ︵4︶        ︵5︶      ︵6︶

   5 毎時間心掛けるのだ、ローマ入として、男子として、断固︵君の︶手元の仕事を精確な︵知識︶と気取らない

   ︵7︶         ︵8︶      おもい

  威厳と自然な愛情と自由さと公正さをもって行なうことを、そしてその他の一切の表象からの閑暇︵解放︶を自分

  のために調達することを。    2       ︵9︶

   そして君はそれを調達できるだろう、もし君が一つひとつの行為を生涯の最後の行為とみなして1一切の無方

      ︵10︶      ︵U︶         ︵12︶       ︵13︶   針、命令する理性への情念的反乱、偽善︵演技︶、自己愛、自分に割り当てられたもの︵運命︶への不満から脱却して

  1行なうならば、である。

   3     ︵艮︶       ︵15︶   ︵16︶    みたまえ、人が滞りなく︵安定して︶流れる、神を恐れる生を生きることができるために征服︵熟達︶しなければ        ︵7i︶       ︵18︶

  ならない事柄が、いかに僅少であることか。というのは、神々もまた、これらのことを守っている者からは、それ

  以上のことを何も要求なさらないのであるから。    ︵1︶ 常にその一時間を自分の最後の時間として、といラ含みがあるのであろう。なお﹁一時間﹂は昼の十二分の一、夜の十二分     の一であったが、﹁昼﹂と﹁夜﹂の長さが季節によって違うので、﹁一時間﹂の長さも固定的でない。    ︵2︶ 誇りあるいは自重の気持ちを含む﹁ローマ人﹂という語が三5・2でも用いられている。    ︵3︶ ﹁男子﹂︵アルレーン︶という語は三4・4、三5・2に、また同義語﹁アネール﹂が四3・9にある。 なお﹁男らしい﹂     という語が一2、十一18・21にある。ニー0・2の﹁より女性的﹂という語を参照。男性の柔弱さを嫌っているのである。Fに     よると、﹁ハドリアヌス帝、ピウス帝およびマが︵口、ほほ、あごに︶ 一面にひげを生やしていたのは、哲学者としてではな     く、男としてであった。﹂    ︵4︶ ﹁断固﹂︵スティバロース︶は﹁行なう﹂にかかる。しかしこの副詞を﹁しっかりと﹂、﹁注意深く﹂という意味に解して﹁心     掛けるのだ﹂にかける入も多い。    ︵5︶ ﹁手元の仕事﹂をマはしばしば﹁現在のこと︵仕事︶﹂とも言う。五12・1、⊥ハ2・2などを見よ。なお九29・3で﹁今自 28 1      訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶      ︸一

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1・・27 彦根論叢 第二四八号 一二   然が要求することをなせ﹂と言われ.ている。       ’ ︵6︶ 写本のとおりだと﹁精確な﹂は﹁威厳﹂にかかるが、少しおかしいので、Fは﹁知識﹂あるいは﹁調査︵検討︶﹂ という語   を補なっている。 ︵7︶ 一9・4でセクストスについて相似た表現が用いられている。﹁威厳﹂︵セムノテース、ラテン語だと四壁鉱δω︶ について   は、五5・2、六30・2、十9・3、十一3・2を参照。 ︵8︶ コ自然な愛情﹂︵フィロストルギア︶は威厳を補なう優しさである。とれについては一11とその個所への注︵2︶を参照。   一9・9、一17・18、六30・2、十一18・18でもこの語が︵品詞はいろいろだが︶用いられている。 ︵9︶ これが最後と思えば、正しい完全な行為をしたくなるわけであろう。ムソニオスやセネカなどにも見られる思想であるが、   本書ではニー1・1、三12・1、七29ゼ6などに述べちれている。なお二2・4も参照。二七世紀の立法家ザレウコスの法律の   前文と伝えちれる文章︵但し偽作︶の中にも、相似た思想が見られる︵ストバイオス、<o=<︾や這α缶Φロω①︶。 ︵10︶ ﹁命令する理性﹂とか﹁理性︵ロゴス︶が命令する︵ハイレ、イ、要求する︶﹂という表現は、その意味内容はともかくとし   て、ヘロドトスやプラトンなどの古い文献にも出て来るが、特にストア的なものであり、初期ストアやエピクテトスなどが用   いている。本書では四・24・1、十32・2で用いられている。      、 ︵11︶ 例えば、ある人を忌み嫌ヶことなど。あるいは、非理性的にすべての.快楽を追求し、苦痛を避けることなどであろうか。 ︵12︶ 原語は名詞﹁フィラウティア﹂で、利己心の意味である。形容詞はすでにアリストテレスが用いている。その意味に関して   は、七13・3末を参照。 ︵13︶以上五つの欠点は、表現は必ずしも同じでないが、右図6でやや詳しく述べられているようである。 ︵14︶ 原文は命令文ではなく、﹁君は見る﹂、﹁ほら分かっただろう﹂︵英語だと図oqω8げ。≦h①≦9ぎ閃ω⋮⋮︶。 ︵15︶ ﹁滞りなく流れる﹂の原語﹁エウルース﹂は形容詞で、元来川の水などが﹁良く流れる﹂という意味である。ストア派の創   設連碁ノンは幸福を﹁良く流れる生﹂と定義した。自己の意志が神の意志と﹂致するとき、生は良く流れる。本書では、五9   ・5、五34・1、七67、十6・6でこの表現︵形容詞あるいは動詞︶が用いられている。 ︵16︶ 原語︵テウーデ!ス、騨①o自烏。。︶の原義は﹁神を恐れる﹂だが、後には﹁神の姿をした﹂、﹁神に似た﹂という意味に解され   るようになった。ここでもG、H、皿らは後の意味に解しているが、Fや賢などは前の意味にとっている。元来叙事詩のこと

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  ばで、本書でもこの個所で用いられているだけである。 ︵17︶ ﹁事柄﹂は二3・3の﹁原理﹂と解してもよい。 ︵18︶ ﹁僅少であるべきこと﹂については、四3・3、七67・2、十8・5を参照。  ︵魂よ、自分を侮辱することをもう止めなさい︶       ︵1︶

 6 君は自分を辱しめているのだ、辱しめているのだ、おお︵わが︶魂よ。自分を尊敬する時機を、君はもはや

      ︵2︶      ︵3︶       2 ︵今後二度と︶もっことはないだろう。各人の一生は束の間のものであろう。しかもそれが君にはほとんど終着に達    ︵4︶      ︵5︶       ︵6︶ しているのだが、君はいまだに自分を畏敬しないで、他人の魂の内に君のしあわせを置いているのだ。 ︵1︶ ﹁辱しめる﹂︵ヒュブリゼイン︶は﹁軽視し粗略に扱う﹂というくらいの意味。自分の力だけで正しく幸福に生きることが   できるのに、そうしないで、他人の思わくを気にすることを言うのであろうか。十二4を参照。あるいは、魂は神性をもつ    ︵ニー・3︶のだが、その神性を汚すような生き方をしているということか。なお魂の自己侮辱の具体的内容については、ニ   一6を参照。    この個所の原文は、写本どおりだと命令文であって、﹁自分を辱しめよ、辱しめよ、おお魂よ﹂となる。しかしωこれを文   字どおりに受けとると、マが書くはずのないことばである。また②皮肉めいた表現とみて、﹁そうやって、せいぜい自分を侮   辱するがいいさ﹂という意味に解する人が多いが、一つの意見では、この個所にアイロニーは似つかわしくない。それゆえh ’ やFなどはGに従って、命令文﹁ヒュブリゼ、ヒュブリゼ﹂を直説法の文﹁ヒュブリゼイス、ヒュブリゼイス﹂に改めている。   この翻訳でも一応Fに従ったが、いずれとも決しがたいような気がする。なおレンドールの提案では、﹁君は︵他人から︶侮   ・辱ざれたのか。だが君自身が君自身を侮辱してはならぬ﹂となる。意味はよいけれども、写本の文字を改変しすぎるうらみが   ・ある。 ︵2︶ 二4b2末の﹁間に合わなくなるだろう﹂ということばを参照。 ︵3︶ ﹁束の間のもめトの原語は形容詞﹁アカリアイオス﹂で、写本にはなく、、Fの修正による.ものである。この個所はA、.T写 126 訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶ 一三

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125 彦根論叢 第二四八号 一四  本の文字に誤りがあり、いろいろな修正案がある。例えばGによると﹁各人の﹁生は逃げ去っている﹂、ブートによると﹁各   人の生はただ一つ﹂、ロフトによると﹁各人の一生は流れ去っている﹂など。D写本によると﹁各人の一生は短い﹂。 ︵4︶ 余生が少ないという自覚については、二2・2、五31・2、十15・1を参照。 ︵5︶ ﹁自分を尊敬する﹂、﹁自分を畏敬する﹂という二つのことばは、もちろん、﹁自分を辱しめる﹂ということばに対置されて   いる。自己尊敬については、十ニー・5を参照。 ︵6︶ こ8注︵1︶を参照。なお本章の﹁魂﹂は、二2・1の﹁司令部分﹂と同じである。  ︵彷径を止めよ。別の意味での彷径にも用心せよ︶        ︵lV      ︹2︶  7 外から不意に降りかかって来るものが、何ほどか君の気を散らすのであるか。では︵それを利用して︶何かよ         ︵3︶       ︵4︶ いことを新たに学ぶという閑暇︵心のゆとり︶を君自身に提供せよ。そして︵この方法によってもはや︶彷復することを 止めよ。  2       ︵5︶  しかしその後で今度は、別種のさまよいに︵おちいることのないように︶用心しなければならぬ。というのは、 ︵自        ホルメー       ︵6︶      ︵7︶ 己の︶すべての意欲を、また一般に︵すべての︶表象を向けるべき目標をもたないで、︵いろんなことをして︶人生に倦 み疲れている人間は、︵ことばによってではないとしても︶まさに行為によって、むだ話をしているのであるから。 ︵1︶ 他入のことば、態度、行為など、あるいは感覚的刺戟など、であろう。 ︵2︶ ﹁気を散らす﹂︵ペリスパーン︶という動詞については、四3・7﹁心をそらす﹂とその注︵32︶を参照。 ︵3︶ 妨害的な出来事を自己の正しい目的のために利用すべきことが、四1・2、五20・3、六50・2で述べられている。ただし   本章の﹁何かよいこと﹂は、少し軽い意味で用いられているのかも知れない。この二つめの文は原文の意味が少しあいまいで   ある。﹁応Fに従って訳した。 ︵4︶ この第一の種類の彷径は、外からの刺戟によるものである。﹁彷径する﹂︵レムベスタイ、︸ΦBびΦω9曽一︶という動詞は本書

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  中ではこの個所のみで用いられているが、類義語﹁アポレムベスタイ﹂が三4・1、四羽にあり、同じく類義語﹁プラナース   タイ﹂が三14、六22、八1・4、九42・6に見られる。 ︵5︶ 第二の種類の彷裡︵さまよい︶は、いわば自己の内部に基因するものである。﹁さまよい﹂という名詞の原語﹁ペリフ津ラ﹂   は本書中ではこの個所のみで用いられているが、対応する形容詞﹁ペリフよロス﹂は115・1に見られる。 ︵6︶ 欲求︵意欲︶は表象︵ファンタシア︶に基づいており、表象から発するので、﹁一般に﹂と言ったのであろう。 ︵7︶ ﹁目標﹂︵スコポス︶についてはニー6注︵10︶を参照。  ︵他人の心事を気にかけず、自己の心事.に注意せよ︶        ︵1︶

 8 一方において、他人の魂の内で何が起きているかということに注意しないことから、人が不幸であることは、

容易に見られない︵めったにない、あるいは決してない︶ものである。他方において、自分の魂の諸々の動きを見守ら  ︵2︶      ︵3︶ ない人.は、不幸であることが必然であ.る。 ︵1︶ 他人の心中を気にすることについては、三4・1とその註︵2︶を参照。 ︵2︶ ﹁見守る﹂︵パラコルーテイン︶は、ここでは﹁注意深く観察し、理解し、必要に応じて適当な処置をとる、手当てをする﹂   というほどの意味であろう。なおオリゲネス﹃祈りについて﹄︵9H︶に次のことばがあり、初期あるいは中期のストア哲学   の影響によるものと見られている︵oりく笥り HH讐 唱.b二cQ㊤’刈一㊤︶。﹁もし詣るものが自己の動きを見守る︵意識する、パラコルーテ   イン︶ならば⋮⋮このものは理性的であることが必然である。﹂ ︵3︶ 初版本によると﹁不幸である﹂︵カコダイモネイン︶だが、AおよびD写本によると﹁悪い霊にとりつかれている﹂︵カコダ   イモナーン︶である。クセノフォン﹃ソクラテスの思い出﹄︵b。噂H.㎝︶で、処罰されるなどの危険を犯してでも姦通を企てる   者が﹁悪霊にとりつかれている者﹂と呼ばれている。しかしマが悪霊について語っている個所は他にないし︵F︶、意味上から   もここは﹁不幸である﹂と読む方が、より適当であるように思われる。なお前文における﹁不幸である﹂の原語もこの個所と   同一の語であるはずだが、そこでの語形﹁カコダイモノーン﹂は両日に共通のもので、文法上はどちらにでも解することがで   きる。 124 訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶ 一五

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123       彦根論叢第二四八号 −      一六  ︵宇宙の・自然と私の自然︶        ︵1︶       ︵2︶  9 これらのことを︵忘れないで︶常に記憶せよ。 ︵すなわち︶全宇宙の自然︵本性︶は何であ﹂るか、また私の自然      ︵3︶       ︵4︶      ︵5︶ は何であるか、そして後者は前者とどう関係するか、そして︵後者は︶どのような全体のどのような部分であるかを。       ︵6︶ そしてまた、なにびとも、君がそれの一部分であるかの︵全宇宙の︶自然に合致する事柄を︵君が︶常に行ないもし        ︵7︶ 言いもすることの、妨害者たりえないということを。 ︵1︶写本どおりだと﹁記憶せねばならぬ﹂であるが、原文では﹁常に﹂︵アエイ︶と﹁ねばならぬ﹂︵デイ︶とが続いているので、    ﹁デイ﹂は﹁アエイ﹂を書き誤ったものとも考えられ、Fは﹁ねばならぬ﹂を削除している。この場合、﹁記憶する﹂という   不定詞を命令の不定詞と解するわけである。ニー4・5、四46・1を参照。 ︵2︶ ﹁全体の自然﹂という表現が、すでに二3・2に見られる。全宇宙を管理する自然︵七25︶は最高の神であり︵九1・1︶   英知︵知性︶であり︵五30・1︶、全体の利益のために宇宙を支配している︵四9、五30、十二26・1その他︶。 ︵3︶私の自然︵本性︶は理性あるいは知性である。 ︵4︶ 両者は合致すべきである。二3・2、五3・2、五10・6、五21・2∼3、五25・2、七55・1、十二26・2、十二32・3   などを参照。 ︵5︶ 三11・2を参照。各入は宇宙市民のひとりである。 ︵6︶ すぐ前では﹁私の﹂と言ったが、、ここでは﹁君﹂と言っている。六50・3では二人称単数が一人称複数に移行している。 ︵7︶ 三12・2、五34・2などを参照。エピクテトスによって繰返し強調された真理である。例えば﹃語録﹄︵討卜。μωム︶を参照。  ︵怒りによる過ちと欲望による過ちとの対比︶  10 まことに哲学者らしくテオフラスト灯︶は㍉ ﹃過ちの比纐﹄において﹁一ただし︵比較といっても︶これは・人        ︵3︶

が多少通俗的な仕方でこの類いのものを比較するばあいのことであるが一こう述べている。すなわち、欲望ゆえ

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       ︵4︶ にはめを外した行為は、怒りゆえのそれよりも︵罪過が︶重いと。  2      ︵5︶

 というのも、怒っている人は、一種の苦痛と意識されない収載におそわれて理性からそむいているのであるよう

に見えるが、他方欲望ゆえに過つ人は、快楽によって打ち負かされるのであるから、ある意味でいっそうだらしが

       ︵6︶ なく、過ちにおいていっそう女性的であるように見えるわけである。  ヨ  だから彼︵テオフラストス︶は正当にも、そして哲学にふさわしいふうに、快楽による過ちが苦痛によるそれより もいっそう大きい非難に値すると言ったのである。  総じてまた、 一方の人は先に︵無想から︶不正を受けて、苦痛のために怒ることを止むなくされた者のごとくで

あるのに対して、他方の人は欲望のゆえに何ごとかを行なうように動かされるのであるから、自分自身から︵主体

的に︶不正行為へ突っ走ったわけである。    ︵1︶ アリストテレ.スの後継者。前三七一年頃生まれ、前二八七年頃死去しているので、マの生年より約五百年前に生まれたこと     になる。本書中ではこの個所のみに名前が出てくる。セネカは何度もテオフラストスの名前をもち出しているが、エピクテト     スはアリストテレスと一7オフラストスには一度も言及していない。二3注︵16︶を参照。    ︵2︶ テオフラストスのこの著書あるいは論文は、現在は残っていない。本章にテオフラストスからの直接引用文が含まれている     のか、それともマによる要約あるいはパラフレーズのみであるのか、断定できないが、多分後者であろう。    ︵3︶ ストア派によれば、すべての過ちは等しく過ちであり、軽重の程度の差はないので、厳密な意味では比較できないのである      ︵G︶。﹁多少通俗的﹂という表現については、四20・2、六45・3を参照。四10・2と対比されたい。    ︵4︶ テオフラストスのこの議論に関しては、プラトン﹃法律﹄︵ピ①。。ω①︶.アリストテレス﹃ニコマコス倫理学﹄︵メ㊦︶が参考に     なる。    ︵5︶肉体の収縮とも考えられるが︵快楽には肉体の弛緩が、苦痛には収縮が伴なうという考え方である︶、ストア派は苦痛を魂     の唄種の収敏︵シュストレー︶と考えたと伝えられている。・ストバイオス︵b。﹁9㊤ρ置yω<句︵ω噛唱。リト践︶などを参照。 22

1     訳注・マルクス・アウレリウス︵第二巻︶      一七

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121 ︵6︶   彦根論叢 第二四八号 しかし怒ることも本当は男らしくないのである。十一18・21を参照。 一八  ︵死を意識して生きよ。神と摂理の存否、死後の運命について︶  11 自分が今直ちに人生から去ることもありうると考えて、その心構えを.もって、一つ一つのことを行ない、言     ︵1︶ い、考えよ。  2      ︵2︶  ところで人間の間︵つまりこの世︶から立ち去ることは、一方もし神々がいますのであれば、少しも恐ろしいこと     ヨ  ではない。なぜなら神々は君を決して悪いめに会わせばなさらないであろうから、他方もし神々は存在しないか、        る  ︵存在しても︶人間のことには無関心であるのならば、神々を欠く、あるいは摂理︵つまり神々の人間に対するはからい︶        ヨロ を欠く世界の内で生きることが、私にとって何であるか。  3       ︵6︶       ︵7︶      ︵8︶

 だが︵実際には︶神々は存在したまうし、人間のことに関心をもたれてもおり、そして人間が真実の悪に出会う

ことのないようにと、︵そのために必要な︶すべてのものを彼︵人間︶の手中に置かれたのである。もしそのほかにも、

まだ何か悪があったならば、それに関してもまた神々は、それに出会わないようにすることが万人の力にかなう

︵意のままである︶ようにと、配慮されたことであろう。  ま        いやしかし、人間をより悪くしないものが、どうして人間の生活をより.悪く︵より不幸に︶なしうるであろうか。  5      ︵10︶       ︵11︶  それにまた、全体︵つまり宇宙︶の自然が無知のために、あるいは知っていながら予防あるいは修正する力を欠く ために、これら︵の悪︶.を見過ごしたわけでもないであろうし、さらにまた、︵真実の︶善と悪が等しく善入と悪人と        ぬ  の上に無差別に生じるほどに、それほどにひどい過ちを、無力か無技能かのゆえに、 ︵全体の自然が︶犯したはずも ないであろう。

(19)

   6       ︵13︶

   ところで、少なくとも死と生、名声と悪評、苦痛と快楽、富と貧困、これらすべては、人間のうちの善い者にも

       ︵14︶   悪い者にも等しく生じており、 ︵道徳的に︶美しくも醜くもない。してみると、これらは︵真実には︶善でも悪でも   ないのである。    ︵1︶ 二5・2を見よ。なお三8・2も参照。三つの動詞は原文では命令を表わす不定詞で、直訳すると﹁行なえ、そして言え、     そして考えよ﹂。    ︵2︶ ﹁別の世界へ旅立つ﹂というのに近い表現だから、マはここでは死後における生命の継続を信じているようにも見える。た     だし他の多くの個所では、彼はこの間題に対して態度を決めかねているようである。三3・6、五33・5、七32、十一3・1     を参照。    ︵3︶あの世にも神々がおられるからという理由で︵三3・6を見よ︶。あるいは、自己の消滅すらもその場合には善であるから     か︵十二23・5を参照︶。    ︵4︶ エピクロスの思想でもあるが、すでにプラトン﹃法律﹄︵Hρ。。㊤浅︶でもこのような説に言及されている。    ︵5︶ むろん反語的表現で、﹁生は無価値となり、死ぬ方がよい﹂という意味である。六10・2を参照。    ︵6︶ 神の存在の証明に類するものとしては、本書中では十二28に述べられた議論がほとんど唯﹁のものである。なお一17、特に     その20節をも参照。    ︵7︶すでにクセノフォン﹃ソクラテスの思い出﹄︵餅ω℃旨︶、プラトン﹃ソクラテスの弁明﹄︵自。︶などに見られる思想である。      ストア派の思想でもある。    ︵8︶ われわれの意志に依存する悪、つまり悪い品性とそれに基づく言動など。    ︵9︶ 例えば苦痛や貧乏や病気など。    ︵10︶ 最高の神を指す。二9注︵2︶を見よ。    ︵11︶ ﹁素材の抵抗を排除し、思いのままに世界を形成する技術﹂を欠く、という意味であろうか。なお六1を参照。    ︵12︶ ﹁何らの合理的な理由も見いだせないほどに、無秩序に﹂という意味であろうか︵F︶。すぐ前の﹁等しく﹂は﹁善と悪が﹂     ということばの方に係る。 20 1       訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶      ﹁九

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        彦根論叢 第二四八号       二〇 19 1    ︵13︶ ストア派の用語でいうと﹁アディアフォラ﹂もしくは﹁メサ﹂、つまり善でも悪でもなく、どうでもよいものである。      ・5とその注︵29︶を参照。    ︵14︶ 九1・9、四39・4などを参照。すでにホメロス﹃オデュッセイア﹄︵ρH。。。。︶などでも述べられている事実である。 三11  ︵英知的能力が考察すべき事柄︶       ︵1︶      ︵2︶  12 いかにすべてのものが速やかに消え去ることか、 ︵つまり︶一方、身体︵物体︶そのものは宇宙の内へ、他方       お        それら︵身体と物体︶の思い出は永遠︵の時聞︶の内へ︵消え去るわけだが︶。すべて感覚の対象はどのようなものであ        ら  るか。とりわけ快楽で釣るものや、苦痛で脅かすものや、妄想︵虚栄心︶に基づいて喧伝されるもの︵世評︶は、い       ︵6︶ かに安っぽい、軽蔑に値する、汚ならしい、滅びやすい、しかばね同然のものであるか。︵以上のこと︶を考察する        ア  のは英知的能力の仕事である。        き   ︵また次のことを考察するのも英知の仕事である。︶その人たちの判断と発言が︵われわれに︶名声あるいは悪評を付与す ることとなる、この入びとが何者︵どの程度の人間︶であるかを。  3      ︵9︶  また﹁死ぬ﹂とは何であるかを。そしてもしだれかがただそれ︵死︶のみを観て、その概念を分析し、このように       わざ︵10︶ して、それに付着する雑念︵連想︶を取り除くならば、彼はもはやそれ︵死︶を自然の業以外の何かであるとは思わ       け  ないであろう。ところで自然の業をだれかがこわがるならば、彼は小児である。しかもまたこれ︵死︶は単に自然の        ︵12︶ 業であるだけでなく、それ︵自然︶を益するものなのである。  る       お 

 いかにして人間が神に触れるか、そしてそれは、彼自身のどの部分でか、また人間のこの部分がどのような状態

       ︵14︶ にある場合に︵神に触れる︶かを。

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︵1︶ 万物の速やかな変転については七10を見よ。万物流転説はヘラクレイトスからストア派に受け継がれた。二3注︵4︶を見   よ・。なお四36・1を参照。 ︵2︶ 死後の身体については四21を参照。 ︵3︶ 死者を記憶する人たちも間もなく死ぬ。四19・1を参照。 ︵4︶ 伺愚な表現が七10末、十二32・1などに見られる。未来永金に忘却され、かき消されてしまうということであろう。 ︵5︶ ﹁快楽は悪への最大の餌﹂ということばがプラトン﹃ティマイオス﹄︵$eにある。 ︵6︶ ﹁しかばね同然のもの﹂の直訳は﹁死体﹂。十こ33・2でも﹁死体﹂︵ネクロス︶という語が比喩的に用いられている。. ︵7︶ 原語は﹁ノエラ・デュナミス﹂である。﹁英知﹂︵ヌース︶と同義であろう。八54でもこの表現が用いられている。 ︵8︶ 後世の人びとの発言︵声価や悪評︶と判断︵意見︶については八44・3でも触れられている。本章では同時代の人びとの判   断と発言が主として考えられているのであろう。 ︵9︶事象の分析と正確な記述については、三11・1や六13・1∼3などを見よ。 ︵10︶ 死が自然のはたらきであることは、九3・1∼2でも言われている。 ︵11︶ ﹁われわれの内部に、このようなものを恐れる子供がいる﹂とプラトン﹃パイドン﹄︵ミΦ︶で言われている。 ︵12︶ 七18や十二23・5などを参照。 ︵13︶ 十二2・1によれば、神はその英知によって人間の英知的部分に触れる。したがって人間も同様な仕方で神に触れうるので   あろう。 ︵14︶ 自己の内のダイモーンを清浄に保つとき︵ニー3・2、ニー7・4︶、肉体的なものを捨てるとき︵十二2・2︶であろうか。  ︵ひたすら君の内なる神霊に仕えよ︶        ︵互︶  13 あらゆる事象をぐるりと︵くまなく︶行き巡り、人の言うように﹁大地の奥深く潜むものまでも探り究め﹂、       ︵2︶       ダイモーン︵3︶

そのうえ隣人たちの心中までも兆候によって詮索しながら、他方しかし、ただ自己の内なる神霊のもとにのみ留ま

っていること、そしてこれに正しい仕方でかしずくことだけで十分なのである、と悟らない人間以上に悲惨なもの

118 訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶ 二一

(22)

117 彦根論叢 第二四八号 二二 は何もない。     ところで彼︵神霊︶へのかしずきとは、彼を清浄に保ち続けて、 ︵君の︶情念や気まぐれや、神々あるいは人間か ら起きる出来事に対する不満の念やで汚さないようにすることである。  ヨ  というのは、神々から起きることは︵神々の︶卓越性のゆえに畏敬されるべきものであり、また人間から起きるこ        ︵4︶ とは︵人びとの君との︶同族性のゆえに親愛なものである。ただし後者は、時折はまた、善と悪についての︵人びと       ︵5︶      ︵6︶ の︶無知ゆえに︵起きるので︶罵る意味で憐まれるべきものである。 ︵善悪についての無知という︶この種の欠陥は、白       ︵7︶ と黒とを見分ける力を失わせる欠陥にも劣らないものである。 ︵1︶ 詩人ピンダロスのことば︵断片。。O卜。℃しdo≦邑。このことばはプラトン﹃テアイテトス﹄︵くωΦ︶において、真正の愛知者の   研究活動を表わすのにふさわしいことばとして引用されており、後の時代の文献にも、そのような意味で何度か引用されてい   る。しかしマはこのことばを逆の意味で用いているわけである。ただし十一1・3の彼のことばを参照されたい。 ︵2︶ GやFの解釈によると、観想術あるいは占星術などの技術によって、徴候から他人の心中を探ること。 ︵3︶本章が﹁内なる神霊﹂ということばの本書における初出個所である。ただしニー・3ですでに、人間の内のコ片の神性﹂   について語られてはいる。以下ニー7・4、三3・6末、三4・4、三6・2、三7・2、三12・1、三16・3、八45・1、十   二3・4末で﹁内なる神霊﹂が出てくる。なお前章と本章とのつながりという点から、前章注︵14︶を参照されたい。     ﹁ダイモーン﹂というギリシア語は﹁神﹂と同義に用いられることもあったが、プラトン以降、神と入間との中間的存在を   表わすことが多く、その場合には﹁神と人間との媒介者﹂、﹁神の力﹂、﹁各個人の守護霊﹂などの意味をもつことができる。な   おギリシア語では﹁幸福﹂を﹁よきダイモーンをもつこと﹂︵エウダイモニア︶というので、ダイモーンとわれわれの幸福と   は密接に関連すると考えることができる。マは内なるダイモーンを﹁神﹂と呼ぶこともある。三5・2、五10・6末などを参   照。また﹁英知﹂と呼ぶこともあるし、﹁魂の司令部分﹂と同一視することもある。    内なるダイモーンの思想は後期ストアのセネカやエピクテトスに見られるばかりか、すでに中期ストアのポセイドニオス    ︵断片障刈↓ず亀興︶にも現われている。この思想が初期ストアにあったか、それともプラトン﹃ティマイオス﹄︵㊤〇四︶やク

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φ   セノクラテス︵断片81以下、鵠①ぢN①︶から直接ポセイドニオスに継承されて後期ストアに伝えられたものか明らかでなく、   学者の意見は対立している。    なお参考のために、以下に若干の引用文を付記する。﹁各入の品性がその人のダイモーンである﹂︵ヘラクレイトス断片目り︶。   ﹁魂がダイモーンの住みかである﹂︵デモクリトス断片H謡︶。﹁われわれの魂の最上の部分︵知性あるい.は理性︶を神は各人   のダイモーンとして各人に与えた。それはわれわれの身体の頂︵つまり頭︶に住む。⋮ 自己の内部に同居しているダイモー   ンにかしずき、これを清浄に保持する人は、格別に良いダイモーンをもつ人︵つまり幸福な人︶である﹂︵プラトン﹃ティマ   イオス﹄8斜。の大意︶。﹁諸情念の一つまり︵自然との︶不一致と不幸な生活の一原因は、自己の内のダイモーンにあ   らゆる点では服従しないことである。このダイモーンは全宇宙の管理者と同族であり、類似した本性を有する﹂︵ポセイドニ   ニオス断片甘気目げ亀。がかレノス﹃ヒッポクラテスとプラトンの思想について﹄まP囚昌戸当。。と竃巳Φ同︶。﹁神はあなた   のそばに、あなたと共に、あなたの内にいらっしゃる。⋮⋮われわれの内に聖なる霊︵ω嘗玉器︶が宿っているのです。彼は   われわれの︵内心で起きる︶善悪の観察者であり、われわれの保護者です。われわれが彼をどう扱うかに応じて、彼自身もわ   れわれをそのように扱うのです﹂︵セネカ﹃手紙﹄自噛H−卜。︶。 ︵4︶すべての人間は知性あるいは理性をもつという点で親族である。二三・3、三4・7を参照。

︵5︶ニー・2、十一18・4。     ﹁

︵6︶ ストア哲学からすれば、.憐れみの感情も愚者のもつ情念の一つにすぎないので、﹁留る意味で﹂と限定を付したのであろう。   エピクテトス︵どHG。噂⑩︶を参照。なお﹁同情﹂という表現も用いられる。七26・1、エピクテトス︵ド目G。b︶を参照。 ︵7︶ エピクテトス︵μ、H。。、①︶に同趣旨の主張がある。  ︵長い一生と短い一生とに差異はない。︶        ︵ユ︶  14 たとえ君が千年の三倍、あるいは万年差それだけ倍︵つまり三万年︶生きるはずだとしても、それでも銘記せ よ、何人も︵死ぬときに︶彼が今生きているこの︵[瞬の︶生以外の生を失うわけではなく、また彼が失う生以外の       ︵2︶ 生を今生きているのでもないということを。 11’6, 訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶ 二三

(24)

115      彦根論叢 第二四八号       二四  2      ︵3︶  3  したがって最長の︵一生︶も最短の二生︶と同じものになるわけだ。なぜなら、現在︵という瞬間︶は万人に対し        アカリアイオン て等しい長さであり、それゆえに滅び去るもの︵時間︶も等しく、かくして失われるもの︵時間︶も束の間であるこ       ユ  る

とが判明する。なぜなら、過去をも未来をも人は失うことはできないであろうから。彼がもっていないものを、ど

うして何者かが彼から奪い取ることができようか。  5       ホモエイデー       ︵5︶

 かくして、君は次の二つのことを常に銘記せよ。一つは、あらゆる事物は永遠の昔から同じ姿をしており、ぐる

       ︵6︶ ぐる巡って︵繰り返されて︶いるのであって、人が同じ光景を眺め続けるのが百年間であろうと二百年間であろうと、 あるいは無限の時間であろうと、何の違いもないのだということである。  そしてもう一つは、最長寿老といえども,︵生まれてから︶たちまち死なねばならぬ者と同じだけのものを失うの         だということである。なぜなら、彼が奪われようとしているのは、ただ現在のみである、もし︵上述のように︶彼が もっているのもこれ︵現在︶のみであり、そして人は、もっていないものを失うことはないのだとするならば。 ︵1︶ 三千、三万は慣用的表現でもあるが、輪回転生説において、魂がもろもろの肉体を一巡する期間が三千年あるいは三万年と   されることがある︵エンペドクレス断片置㎝悔① ヘロドトス﹃歴史﹄b。冒H卜⊃ω︶ので、マはこの説を念頭においてこの表現を用   いたのであろうと、Fは注記している。むろんマが魂の輪回転生を信じていたわけではない。 ︵2︶ 十二26・2末を参照。 ︵3︶ 九33末でも同様のことが言われている。なお三10・1をも参照。 ︵4︶ 予想外のこと、常識に反するようなことが明らかとなったという感じを含む。 ︵5︶ 六37、六46、七1・2、九35・1、十27でも同様のことが言われている。すでにルクレティウス﹃自然について﹄︵ω矯㊤ミ︶    にも類似の思想が述べられており、Fによればマはルクレティウスからこの思想を得たのだという。 ︵6︶ よく知られているように、一部のピタゴラス派や一部のストア派は、宇宙に周期があり、各周期の内容︵歴史︶は完全に同   じであると考えた。またこれとは別に、人間に関する事柄は繰返すという考え方があった。 ヘロドトス﹃歴史﹄︵ど鱒O﹃︶を

(25)

参照。  ︵すべてのことはわれわれの思いなしである。︶          ヒユボレープシス  ︵1︶       ︵2︶     ︵3︶  15 ﹁すべては思い込みである﹂。というのも、なるほど一方で犬派のモニモスに対する反論︵の意味や妥当性︶は 明瞭であるが、他方しかし︵モニモスの︶このことばの有用さもまた明瞭であるから。人がもしその趣旨を真実であ        ︵4︶ るかぎりで受け入れるならばだが。 ︵1︶ モニモスのことば。ただし正確な引用であるか否かは不明。 ︵2︶ モニモスは犬派︵犬儒派︶の始祖ディオゲネスの弟子で、前四世紀後半頃の哲学者、つまりマより約五百年ほど以前の人で   ある。ディオゲネス・ラエルティオス﹃哲学者伝﹄︵◎。。ω︶には喜劇作家メナンドロスの﹃馬丁﹄から次のことばが引用され   ている。﹁モニモスという人がいてね、おおピロンよ、賢者であった。さほど有名ではなかったがね。一ずだ袋を首に吊っ   ていた︵つまり犬派の︶男かね一ずだ袋はたしかに三つも持っていた。しかしあの男は、︿汝自身を知れ﹀とか、その他の   喧伝されている文旬に匹敵するほどのことばは吐かなかうた。しかしこれらの文句よりも激しいことを要求したのだ。という   のも、あの男は至ったのだ。︿思い込まれた︵信じられた︶ことはすべて妄想である﹀とね。﹂またセクストス・エムペイリ   コス﹃学者に対して﹄︵。。”㎝︶によると、﹁すべては妄想であるとモニモスは言った。妄想とは、あらぬものをあるとする思い   込みである。﹂ ︵3> この反論の内容は不明であるが、﹁すべてが妄想だと言うのなら、モ一一モスのこの主張そのものも妄想である﹂という趣旨   の、だれかある人による反論だと推測されている。 ︵4︶すべては思い込みであるという思想は、マによって本書でしばしば主張されている。四3・11、四7、十二8、十二22、十   二25、十二26・2などを参照。しかしマが客観的真理の存在を否定したわけではない。価値判断の領域においてすらも。 114 訳注 マルクス・アウレリウス︵第二巻︶ 二五

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113      彦根論叢 第二四八号       二⊥ハ  ︵自己を侮辱する五つのばあい︶       ユ      

 16 人間の魂が自己を侮辱するのは、とりわけ次のばあい、すなわち、魂が自分の力にかなうかぎりで宇宙の離

  ヨ       反物︵はれもの︶、つまりいわば腫瘍となるばあいである。というのは、生起するもの︵出来事︶のどれかに対して不        気嫌になることが、自然からの離反であ.る。この︵全宇宙の︶自然によって、他のすべてのものの個別的自然はそ        .︹5︶ れそれが包まれているのである。  ヨ      さ   第二に、 ︵彼の魂が︶ある人間を嫌って避けるとか、あるいはさらに︵その入を︶害しようとして敵対的にぶつか って行くばあいである。例えば怒り狂っている入たちの魂が、そういうふうである。  る       フ   第三に、快楽あるいは苦痛に打ち負かされるなあいに、 ︵魂は︶自己を侮辱する。  う       き         第四に、それが演技し、うわべだけで、不真実に何かをしたり、言ったりするばあいに。  6       ホルメー      ︵m︶       ︵n︶  第五に、 ︵彼の魂が︶自己の何らかの行為と意欲をいかなる目標にも向けないで、でたらめに、首尾一貫しない  ほ       ほ  で、何ごとかをなすばあいに。というのは、たとえ最小のこと︵些事︶といえども、目的へ.関連させることなしに       ︵製V       ロゴス︵玲︶ 行なわれてはならぬからである。そして理性的な生きものの目的とは、最長老の︵最も尊貴な︶国家と国訴の理性と 掟に従うことである。 ︵1︶ ﹁魂が自己を侮辱する︵辱しめる︶﹂という表現は、二6の初めで用いられている。 ︵2︶ 個人が完全に宇宙から離反することはできないので、﹁力にかなうかぎりで﹂といわれているのである。 ︵3︶ 原語︵アポステーマ︶の本来の語義は﹁離反したもの﹂であるが、﹁はれもの﹂の意味で用いられることもあった。またこ   の語と﹁腫瘍﹂︵フユーマ、bξBp︶は医学者によってほぼ同義に用いられることがあった。エピクテトス︵ド目﹁G。㎝︶も両   語を同義に用いている。なお﹁アポステーマ﹂については四29・3を参照。 ︵4︶ 一部分の全体からの離反については、四29のほか、五8・13、八34・1、十一20・5∼6などを参照。 ∼

参照

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