ホV・一一スマンの第七年報について
川
崎
源
On Horace Mann’s Seventh Report
Hajime Kawasaki In May, 1843, Horace Mann went over to Europe, where he spent five months for the study of educational conditions in Great Britain, Belgium, Holland, France, Germany, and Switzeriand. His seventh report’ is the outcome of this tour. lt is Well knoWn that this report is the most valuable and substantial among his twelve reports. Though this report contains many educational problems, 1 have examined it from three poi.nts of view, that is, new method, new teacher and new organization. ln my paper 1 have emphasized that Horace Mann was an eminent educational thinker as well as a respectable educational administrator. 一・八三七年,マサチューセッツ忌数育委員会が組織 されたとき,その教育長の任務の一つは「共和国のあ らゆる場所を通じて学問研究を整備し,青少年の教育 を指導する最も有効な方法に関する情報を出来る限り 広く普及する」ということであった。第七報告はこの 任務を果ナために書かれたヨ”一 lrッバ諸国の教育事忌 についての報告である。この報告がホレースマソの署 作のうちその内容において最も価値がありその影響に おいて最も重大であることは周知のことである。 第七報告はマン自身の付したこ十九の節からなるが 各節相互の関係はヒンスデールB.A. Hinsdaleも指 摘しているように論理的に不明確であり,その中には しばしば標題と内容が」致しない部分もある。以下私 はその全体を流れる精神を汲みつつ次の三つの問題を 中心にして考察を進めたいと思うQ三つの問題とは新 しい教育の方法と,それを用いる新しい教師の資質, 旧びこの両者を包む新しい制度の理念である。(1)新しい方法
第七報告の中でマンが取扱っている教育の方法は当 時にあってはいわゆる「新しい方法」であったQ我々 は今日においてそれを陳腐な平凡なことと評してはな らない。むしろその報告が書かれた当時のこの国の教 育の状態を想起し,その現状においてそれを評価しな くてはならない。読み書きの能力と信仰のオルソドッ クシーが現実において殆んどすべての教師の資格であ った当時において,鞭と庄制が教授の唯一の手段であ った状況において,文法学校や若干の私立学校を除い て大多数の公立学校が新しい地理や音楽や図画の学習 をまだ知らなかった時代において,この第七報告は云 わぼ新教育の福音書であった。そしてこの新しい方法 の源泉が実はペスタロヅチー主義の教育にあったこと は見逃すことができない。 この報告を通じてペスタロッチーの名は二度使用せ られているだけである○マソのペスタロッチー理解が どの程度であったかは今詳らかにする材料を多くもた ないが,彼が現にその眼をもつてみたところのプロシ ャ・サクソニヤの著名な学校において当時すでにペス タロソチーの精神と方法が導入されていたことは疑う ことができない。しかしこういう考証をすること自体 ホレースマソにとっては意昧がない。なぜならば「公 平な二陣はある事が何に由来するかと問わないで,そ れが何であるかを問うものである」からである。我々 は彼の新しい方法が「何であるか」の検討に急がなく てはならないQ この報告の中でマソが坂上げている新しい方法の主 なるものは (1)読力教授に於けるワード・メソヅド (2)口述教授 (3)実物1教授ないし直観教授 (4)学 級編成 (5)愛と信頼と尊敬による新しい訓練等であ る。マンほこれらの新しい方法を読方・算術・文法・ 地理等若干の教科の.数授に関して詳述したのち「思考 の練習1という標題の下に一括してすぐれた叙述をし ている。 マンは此の報告において読方教授におけるアルファ ベント的方法がそれ自身に於て不合理であるばかりで なく,児童の心理にも適合しないことを詳細に論じた のち,これに代えるにワード・メソッドを採用すべき ことを熱心に主張している。しかしこの問題はすでに4
滋 大 紀 要 第 3 号 1 9 5 4 彼の第二年報report for 1838の主題であって,彼は この理論の正しいことをプロシャの学校の実際に於て 確証したに過ぎない。 第七報告に於ける新しい方法の中心原理はむしろ直 観教授・生活学習と呼ばれるところのものである。マ ンは子供がまだ事物の実際的な観念をもたないまえに 分類や定義や公式を記憶させることによっていきなり 自然界の学問的都門に導入する従事のやり方がいかに 非心理的であり,非能率的であり,彼等の知識欲と活 動性を澗渇せしめるものであるかを指摘し,すべての 学科が生徒の「年齢と能力と熟達」に応じたサブジェ クトについての教師と生徒との「親しい話し合い」か ら始めらるべきこと,そして幼いクラスにあっては蒋 に直接彼等の身のまわりにある事物から出発して次第 にそのスコープを拡大すべきことを説いている。「一 人のやさしい教師が」と彼は書いている。「聴しそう にしている少女に彼女の花瓶の中の或は家庭の庭にあ る花について尋ねたとしたらこれほど自然なことがあ ろうか!」「学校へ行くほどの子供でまだ魚一少く とも池の中のやなぎばえをみたことのない子供は殆ん ロ どないQこれから始めよ1」そこに彼はあらゆる自然 の知識に導くところの扉が開かれていると考えた。 彼は学校の校舎を第一課とする学習の見事な展開の 一例を示している。それは日々子供が生活する校舎か ら出発してあらゆる種類の建築物一住宅・教会・宮 殿等一あらゆる建築様式一コリント式・イオニア 式。ゴシック式等一様々の建築材料一石・木材・ ペンキ等一についての知識に導き,自然界のあらゆ る部門に属するこれらの材料の性質・用途・その製造 職人に発展し,更にそこから社会に於ける人間の権利 と義務に,また自然の美と造物主の善意というような より高次な道徳的宗教的な世界にまでつらなる一種の 綜合学習の実例である。こういう合科教授的な学習形 態がすでに当時アメリカの学校に於て奨励されたこと は今日の社会科や理科の学習の遠い淵源を示すものと して興昧あることであるQ 各々の教科の学習においても子供の生活に最も接近 したものから始めるとき,校舎をめぐる土地や道路の 叙述はすべての地理の知:識の真の出発点となり,少年 の代理石の小箱はすべての鉱物学の中核となり,彼等 の独楽や凧や風車はすべての機械工学の出発点とな り,彼等が聞いた古い王様の物語は世界史の第一璋1と なるであろう。分類や術語の知識を与える時がくるま でに事物の実際的な知識によって子供の心が発達させ られるのはこの方法においてであるQ 道徳や宗教の教育においても同様の方法がとられな くてはならない。ヨーロッパ諸国,殊にイングランド の学校においてマンは幼い子供がバイブルの知識につ いて驚くべき多くのことを記億しているが日常の社会 的な道徳的な義務と責任については何らの理解をもつ ていないことを発見した。彼等は虚偽の罪をアナニア AnaniasとサゾピラSapPhiraの場合において,盗み の罪をアカソAchanの場含において,又安息、日を守 らぬものは石をもつて打ち殺さるべきことを一人とし て知らぬものはないQしかし「正直とはどんなこと か」と問われて「貧しい入にお金を施すこと」と答え て全クラスがそれに同意するほど道徳的な観念と感覚 が育まれていない。そして教師も又バイブルの知識を 離れて虚偽の醜く有害なこと,真実の美しく有益なこ とを説明することが出来ない。 ノ マンの教育の方法の改善は要.するに有能な教師の養 成なくしては不可能であることをヨーロッパの学校に おいてみた。従って新しい教育の方法の探究とともに 新しい教師の資質を調査することが彼の第二の重要な 目的であったQ(2)新しい教師
第七報告はある意味では全篇マソの教師論であると 言ってよいQ新しい方法と同様これも今日にあっては 平凡なことであるかも知れない。しかし教職に対する 強い偏見のあった当時においては勿論のこと,教師の 教職的な教育の必要を疑うもののある今日に於て第七 報告はこの問題に対して多くの光を投1げかけるもので ある。アメリカにおける教師養成の理論が本質に於て マンの教師論と殆んど現代に於ても変化ないというこ とを我々はこの報告の中においてみることができる。 すぐれた教育行政家としてのマンの背後には勿論彼に 対して理論的根拠を与えた多くの学者例えばカーター J.G. Carter(1795−1849)やホールS. R. Hall(1795 −1877)やラッセルW.Russell(1798−1874)等が あったことは云うまでもない。しかし多くの保守的な 教師の反対と戦いながらマンが初期の諦範学校運動を 指導した功債は教師養成の歴史において最も高く評価 されなくてはならない。 マンは一方において教師たるものはすべてカレッヂ の卒業生であるべきことをスコヅトランドの教師の高 き学識において見出した○しかし他方教師たることの 資格が単なる学問の所有者のみではないということも この国の教師の教授の欠陥において発見したQそこで は褒賞と競争心に訴える不純な動機が麦配している○ 子供の身体的な発達を無視して学問的な学科の学習に おける烈しい引率噸勺な緊張と活動が要求されているQかくては彼等の賞讃すべき高度の学識も教職的な方法 の欠如に比較するとき殆んど価値をもたないG マソが教師の新しい資質について最も感銘をらけた のはプロシャにおいてであった。この国の学校におけ る多くの青年がその恩恵をうけているとこ.ろの広範な 高度の教授及び教師の側における気高き資格は彼等の 教師養成所Lehrerseminarienの自然の当然の結果で あった〇十九世紀の初めプロシャの教諦養成学校がヨ ーロッパの文明諸国の師範学校のモデルとなったこと は周知のことである。 マソはこの報告の中で教師養成所と題する一節を掲 げてかなり詳細にその組織を紹介しているQ三ケ年の 課程のニケ年は主として基礎酌な学科の復習.review・ ingと敷砂expandin9に費されると言っているのは 今Hでいえば教材研究や専門教養に相当するものであ ろう。最後の一ケ年はモデル・スクール或は実験学校 で実習をしつつ種々の教職的な学科の研究をする.こと になっていたQ実習には明らかに三つの段階があっ て,「最初は熟達した教師ボクラスを教えるのを黙っ て観察する。それから彼等自らその教師の監督の下に 授業を始める。最後に彼等は独らで責任を「 烽チてクラ スを教える○」こういうやり方が盛んど最初からマソ の指導によってアメリカの師範学校に導入されて実施 されてきたことも興味あることである。 教師たる為には教える学科についての高度の学識を 必要とすることは言5までもない。マンが「プlaシヤ の教師は何らの書物をもたない」とか「彼は全精神か ら教える」とか「彼のライブラリーは彼の頭の中にあ る」とか言っているのは.このこと.を意面する。しかし マンは初等学校における課業はすべての科学の専門性 から解放されていなくてはならないことを強調した。 単なる学問の所有者が学童の専門性から解放されて教 育をするた.あにはそこに教師としての第この資質即ち 教え.ることの方法に関する深き理解がなくてはならな い。マンが教職的な按術として要求していることはす でに述べた新しい方法を自在に駆使し得る能力であ る。それは彼がプロシャの教師養成学校においてその モデルをみたよ5に「あらゆる部門の教授法」「子供 の心に適した動機づけの力」「児童の種々.の自然的傾 向の理解」「子供に話しかける様々の方法」等につい ての研究によって保証される。 教師の第三の資質としてマンは我々が教育愛心は教 職の神聖さと呼ぶところのものを忘れなかった。・否そ れにおいて彼の教師論の重要な特色があると思5。 「愛によって指導することのできない教師は」と彼は 云っているQ「恐怖に訴えてしなくてはならない。」マ ンは学校における体罰の使用については常に大なる疑 問をもつていたっ彼は教師たるべきものは,「幼きも のの親の立場」に立たなくてはならないという観念を 強くもっていた。だからこそ彼がプロシャの学校の視 察の終りにおいて大なる感激をもつて語ったことはこ ういうことであった。「私は幾百幾千の学校をみたけ れどもt人として過失のために罰ぜられ叱責されてい る子供をみたことがなかった。処罰され或は処罰され る恐怖のために涙を流している子供をみたことがなか った。」プPシヤ・サクソニアの各地の聾唖学校にお いて或はハンブル.グにおけるヅイヅヒェルン J. H. Wichern (1808−1881)のうオエ… オス Rauhe Hausに於て,又ポツダムにおけるフォン・テユルク W.von T廿rk(1774−1816)の孤児院においてマソが 特に賞讃しているものはその教師の有能性とともに彼 等の熱烈な入道主義的児童愛であった。 彼は又人々を犯罪と邪悪から救うところのこれらの 教師の職が人々が罪を犯すまで待ち回るのち彼等を罰 するところの裁判官の職よりもはるかに真に名誉ある ものであることを強調して教職の神聖さ崇高さについ で一般の注意を喚起したQ 有能な教師の養成なくしてはいかなる教育改革も功 を奏しないことを彼ほど強く信じ,主張し,努力.した 入は少いであろう。マンはオーストリアを除くヨーP ッパの開化したすべての国が「入類の改善のための全 ての近代的な手段の最も偉大なるものの一つ」である ところの教師養成学校を好意をもつてみ,政府自体の 直接の権威と基金によって,或はその国民の汎愛的な 一部の門々によって維持ざれ奨励されていることを報 告して彼がすでに数年前に設置した三つの師範学校に 対する人々の関心を呼びさま.した。
(3)新しい制度
ヨーロッパの文明諸国におけ.る学校の新しい方針と 新しい教師について多くの学ぶべきモデルをみたマン は,しかしながら新しい教育制度の理念についてはそ こに多くの戒むべき欠陥を発見した。そしてこの点に 関する限bマサチューセッツ州の学校については何ら の実質的な改善を要求しないのみならずむし.ろヨーロ ゾパ諸国がそれを模倣すべきことを望んでいる。なぜ なればマサチューセッツ州は世界に於ける無月謝学校 の最初の組織を設立した名誉をもつからである。 .それにもかかわらず新.しい制度の理念の解明が第七 報告の究極の.目.的であるのはマサチューセッツ州の公 立学校組織が十八世紀末以来マンのみるところに.よれ ば「一t般的な不健康と衰退の状態に陥った」からであ6 滋 大 紀 要 第 3 号 1 9 5 4 つた。階級的な学校組織は階級的な社会側溝の自然の 結果であるが後者は又前者の当然の結果でもある。 マンはイングランドに於ける国民国育組織の欠如と その害悪を指摘することによって彼の国が現にそれに 向って急速に進みつつあったところの状態を戒めた。 国民に対して教育の「普遍的な組織」universal sys− temを与えることと「部分的な組織」partical system を用意することとの結果を彼はヨーPジパ諸国の実例 を示すことによって語った。ヨーロッパの各国を探し 求めて得なかったものを彼は自国の歴史の過去の遠い 時代に見出した○ 第ヒ報告の最後の最も重要な部分はヨーロッパの 「古き世界」の政治と宗教と教育の制度の概観に当て られているQそれは大要次のような叙述である。神が 叡知と仁愛の原理の上に創造した世界においてヨー一 lt ツパの人口の半数が完全に無知の状態に放置され,三 分の一が衣食の生活にこと欠き,五百人に一人しか彼 等を拘束する法律の制度と麦学者の選択に関与せず良 心の命に従って神を礼拝する自由を認められていな い。彪大な彼等の軍備は外国からの攻撃を防禦するこ とよりも国内において王座を維持し,思想と行為のす べての独立を屈服させるためのものであり,多数の国 民はそれに備える魂なき武器にさせられているQこう いう状態が世に生れ出る日から児童をめぐるところの 環境である。彼等は穀物がいわば食われるために生長 すると同じように確実な真理をもつて,いわば投獄さ れ,流刑され,断頭台に上せられるために生れてきた ようなものである。それ故に「=普く国内を通じて人間 はもはや人間ではない。」彼等は神の肖像の最後の痕 跡さえも留めていない。彼等はもはや独立と良心の息 吹を呼吸しないQ知性の神性な閃きは彼等の最内部に 於て揉み消されている一U・。 こういう二一な状態はマンをまつまでもなく国家が その国民の為の普遍的な教育組織を設けることを怠 り,政府のあらゆる機能のうちこの最も重要な機能を 無責任な人々の偶然と意見に委ねてしまったことの当 然の結果であるQしかしマンは同時にヨー㌃・ッパの若 干の政府が次第にその国民の教育組織を発展させるべ く努力しつつあることも見逃さなかった。彼はこれら の国における音なき精神の発展を観察し,その国民が 彼等の政治に参与する権利を主張ナるであろう日がさ して遠くないことを予言している。 「古き世界」の旧秩序を概観したマソは最後にひる がえって「新しい枇界」としての自国の制度の精神に 眼を転じている。彼は先ず切なる誇わと真実の愛着を もつてマサチューセヅツ州の英雄時代の歴史を想起し て次のように書いている。「我々は無知なる遊牧の民 の後引でもなく,首都の芸術と知性と優雅をあとにし て食を求めて本国からやってきた貧民植民地の子孫で もない。のみならず(我々の裡:先は)植民地。建設と 同時にカレッヂを創設し,公立学校を設置した。初め コモンコスクヘル て森林を伐り開いたときにおいて彼等は雨露を凌ぐた めに建てた最初の住居のそばに校舎を建てた。彼等の 不安な生存のために作られた最初の作物の収穫の中か ら彼等は教師や教授を傭うための分前を割当てた…。」 しかしマンがこの様に自国の社会制度の特質を大西 洋の彼方のキリスト教諸国家のそれに対比したのは何 の傲漫でも自負でもなくてこのような光栄ある伝統と 精神が当時において次第に消失しつつあったことに対 する戒めのためであった。彼は第七報告の初めの部分 において次のような二つの重要な陳述をなしているが それはヨーロッパの調度に対する彼の態度を明確にす るものである。 一 「一一:方において確かに義々自身の組織が暴露してい ると同様の,そしてそのもとに我々の制度が行き悩ん でいるところの弊害が外国にも存在し,しかも我々に おけるよりもはるかにひどい程度で存在している。そ してもし我々が我々の禍誤の結果生ずべき苦難を待つ よりもむしろ他の経験に学ぶべく充分賢明であるなら ば我々は現に他のいくつかの祉会がそのもとに悩んで いるところの聖なる恐るべき災難から逃れることがで きるであろう。」 「他方私は我々がとってもって範とすべき多くのこ とが外国にもあるということを云わなくてはならな い。それらのあるものは我国にもあるがそれは単に意 見や理論の問題としてあるに過ぎない。しかしかの国 においてはすでに長い間実施されてき,現にみのり豊 かな収穫をあげつつあるものである。」 そして彼がこの報告の終り近くにおいて掲げている 次の一句は新しい教育綱度に対する彼の思想を最も端 的に表わしている。「共和国においては無知ま一つの 罪悪であり,一個入の不道徳はその犯罪者の罪という よりは国家に対する恥辱である。」古き貴族主義的原 理を改めて新しい共和的な教育制度を確立することが 彼の究極の目的であった○ 以上私はホレース・マンの第七年報を新しい方法と 新しい教師と新しい制度の三つの問題を申心として述 べてきた。こういう彪大な,しかも一見無秩序にさえ みえる多種多様な豊蜜な内容をもつこの報告をこれら の三つの観点からのみみることの不充分であることは 云うまでもない。その中には以上の様な古くて新しい 問題のほか,今日の教育界にとって文字通り新しい多
くの問題が論じ尽されている。例えば学校図書館及び 青少年のための読物の必要,成入教育及び教師の現職 教育,道徳教育及び宗教教育,青少年犯罪者の指導, 校含教室の衛生約施設と配慮等々の問題についての価 値ある意見が述べられているQ しかしこの報告の重要性はむしろそれがこの国の教 育の進歩に及ぼした影響の重大性にあった。この報告 は他のすべての年報と同様に名目上はマサチューセッ ツ州の教育委員会に対して提出された竜のであるが実 質においては州内外のすべての教師,すべての人民に 対してなされたものであった○従ってヒンスデールの 言葉を借ればこの報告は「教育力学」pedagogical dy− namicsに対して重大なる貢献をなした。即ちこの報 告をめぐってマソとかのボストンの三十一名の学校教 師との間にひき起された長期に及ぶ烈しき論争によっ てかえって公教育に対する一般の関心を高め半世紀後 におけるアメリカ教育の偉大なる進歩をもたらしたの であるQマソが「アメリカ公立学校の父」として讃え られるのはこの.ためであるQ 丈 献 “ Mary Mann:・ Life and Works of Horace Mann IS91 Vol 1. III. B. AL HinSidale: Horace Mann and the Common School Revival in the United States 1913. サ