蓮 如 と ﹁ 嫁 お ど し ﹂ の お は な し 一 二 八
蓮如と
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は じ め に 蓮如は浄土真宗の教化をすすめるなかで、とりわけ女人信者のためにそのこころをつくした。そうした蓮如の女人 教化の内面には、幼なくして別れねばならなかった母への思慕や、 また相愛の仲ながら蓮如を遺して往生した妻たち への深いいたわりがしのばれる。社会・家庭ともに身分規制のきびしい室町時代には、 一 家 の 家 族 関 係 に お い て も そ の 制 約 が つ よ か っ た 。 妻 は 夫 に 、 子 は 親 に 、 いかなる不条理が存在しようとも、下は上に対し絶対服従することが道 理 と い わ れ 人 倫 と さ れ た 。 こ と に 、 。家。にとついだ嫁の場合、向性の姑とのあいだには、姑・嫁それぞれの女権を意識した争いがたえなか った。そうした女人たちの争いを教化の素材にしたのが﹁嫁おどし﹂のおはなしである。そのおはなしとはl
蓮 如 の 教化によって門徒となった嫁を憎む姑が、鬼面をつけて嫁の寺参りを邪魔する。ところが嫁は弥陀本願の信念をもち、 すこしも動じなかったという。そればかりか姑の方は鬼面をとろうにもとれず苦しみあがいた。その末に嫁に導かれて 蓮 如 の お は な し を 聴 く と 、 鬼 面 は お の , す か ら 落 ち た 。 以 来 姑 と 嫁 は 同 行 と し て 円 満 に く ら し た と い う 。 い さ さ か ド ラマティ γ グな筋書きである。本稿ではこの説話を、芸能史的観点から考察し、蓮如の女人教化の一面を理解しよう と し た も の で あ る 。 蓮如と教化能・狂言 蓮如の教化によって門徒の急増した北陸地域には、 いまもって能楽のさかんなところが多い。 石川県が﹁加賀宝 生﹂の無形文化を伝統しているのもその一証左である。この﹁加賀宝生﹂の源流は、前田藩の初代藩主利家の時代に さかのぼるといわれている。能楽の愛好家であった利家が、竹田権兵衛︵今春流︶という京都の能役者らを加賀に招待 し、地元の波吉大夫たちの指導に当らせたのが隆盛のきっかけともいう。その後前田藩の能楽保護がつづき、ことに ① 五代藩主網紀の時代﹁加賀宝生﹂の基礎がかためられている。 右の説のように、江戸時代﹁加賀宝生﹂が興隆したのは周知の史実である。しかし﹁加賀宝生﹂を代表とし、北陸 地域の能楽盛況の現状をみるとき、その淵源は能楽の大成された室町時代までさかのぼれるのではないかと考える。 つまりこのことは、蓮如が北国へその教化線を伸張したさい、当時都ぶりの流行芸能であった謡や能楽を布教にとり い れ て い る こ と か ら 推 察 し た も の で あ る 。 @ 蓮如は、山科本願寺時代の記録によると、法要の法楽として﹁猿楽﹂を催している。そうしたなかでも狂言の﹁鳥 さ し ﹂ は 、 蓮 如 の 法 談 に も つ か わ れ て い る 。 ﹁ 鳥 さ し ﹂ の 内 容 は 、 鳥 さ し ︵ 烏 を 長 い 針 竿 な ど で 刺 し て 獲 る ︶ が 、 獲 物 の 鳥をさすことに専心のあまり、物乞いに衣裳を乞われるままにぬぎあたえて、 つ い に 裸 に な る 、 と い う 喜 劇 で あ る 。 蓮 如 は こ の 狂 言 の 終 幕 後 に 、 ﹁ 烏 を さ ふ ん と 心 に か け て 、 何 も 不 レ 覚 不 レ 知 は 殊 勝 な り ︵ 中 略 ﹀ 加 様 に 仏 法 に 心 を 入 蓮 如 と ﹁ 嫁 お ど し ﹂ の お は な し 一 一 一 九
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てこそは、仏には成ベけれ﹂といって、狂言のなかにも念仏の教えをさとしている。 さらに蓮如は、能楽の造詣も深かった。したがって皐言願寺﹄のような念仏教化の内容をもった曲目を教化にとり 入 れ て い る 。 守 証 言 願 寺 ﹂ は 世 阿 弥 ︵ 一 三 六 三l
一 四 四 三 ︶ の 作 で あ る 。 現世においての花心ゆえに、迷いつづけた和泉 式 部 の 霊 魂 が 、 たまたま誓願寺︵京都︶に来参した一遍上人の回向によって成仏できることとなり、式部はその法悦 ③ のあまり仏徳礼讃の歌舞を演ずる、という構成である。蓮如はこの曲のさわりを教化に活用している。それは法談中、 @ 聴衆のあいだに居眠るものゃしゃべるものがいて座がしらけてくると﹁法敬坊うたへ﹂と仰せられて、かならず右の ﹃誓願寺﹄のさわりを謡わせられたという。ここで留意すべきことは、蓮如が教化の謡いを法談に活用した際、常随 の弟子法敬坊が謡い役をつとめていることである。 蓮如時代、京都や奈良では権勢家のパックア V プ の も と に 、 名 優 世 阿 弥 を は じ め 諸 座 ︵ 観 世 ・ 今 春 ・ 金 剛 ・ 宝 生 ︶ の 大 夫たちのめざましい活躍があった。そうした能楽盛況にともなって、当時は一語いも流行したが、その流行の謡いを、 蓮如はいちはやく布教の最良方法皇官巧方便︶としてとりいれたのである。しかも謡い手は四座に席をおく専職家でな く、寺内の弟子法敬坊に任せている。法敬坊が謡い手になっていたことは、当然ながら彼が美声のもちぬしであり、 また謡曲をたしなんでいたことが推測される。そしてこのことは、 のちに本願寺の寺内猿楽グループがつくられる史 実と考えあわせると、法敬坊は寺内猿楽者の初見者ということになる。 ﹁嫁おどし﹂のおはなし 蓮如が、当時流行していた能・狂言を教化に活用したことは、蓮如自身もまた能・狂言の愛好者であったといえよ ぅ。またさらに、蓮如の催す教化能・狂言を享受する地域門徒たちもまたこの芸能のよき理解者であったといえ、ここ に 中 央 芸 能 の 地 方 伝 播 の 一 径 路 が う か が え る 。 一 一 一 口 い か え れ ば 蓮 如 の 教 化 に よ っ て 真 宗 の 北 国 伸 張 が す す め ら れ る に ともない、教化芸能も京から北国へと拡げられたといえる。このように素人ながら法敬坊たちが京の芸能の伝播者を つとめることによって、京と地域のさかんな文化交流が促進されていったのである。 右に述べたような蓮如の芸能教化活動に関連して、 いまも福井県金津町吉崎に伝わる﹁嫁おどし﹂のおはなしに留 意し、おはなしのなかでも、とくに芸能の面と関係のふかい姑の使用した鬼面にスポ v トをあててみた。面は演者の こころを如実に表現してくれるからである。ただここに考察する﹁嫁おどし﹂の面は、現在当地の二寺︵木派吉崎寺・大 谷派願慶寺︶に伝えられているものを対象としないことをおことわりしておきたい。ここで対象とする﹁嫁おどし﹂の 面は、能楽の世界で鬼女に限り用いられるところの﹁般若﹂の面を想定したものである。 いっぽう能面で、女人のやさしさやおもいやりのある気高さを秘めたものは﹁小面﹂あるいは﹁若女﹂である。こ の 面 は 、 しずかに観ていると気持ちのなごみを感ずるのは不思議である。その逆に、女人の怨恨や嫉妬の妄念をあら わしている﹁般若﹂は、自己我執のこころのおぞましさをむきだしにし、いかなる角度からも観る者のこころを冷やか にする。この両極端の二つの面が、女人のシテ︵主役︶の面として、﹁小面﹂を前に﹁般若﹂を後というように、 上 演 の前場と後場に用いられる能楽には﹃道城寺﹄ ︵ 愛 の 約 束 不 履 行 の 男 を う ら み 、 般 若 と な っ て 男 を 焼 き 殺 す ︶ や ﹃ 葵 上 ﹄ ︵ 正 妻 葵 上 に 側 室 御 息 所 が 嫉 妬 し 、 般 若 と な っ て 苦 し め る ﹀ が あ る 。 こ れ ら の 曲 目 は い ず れ も 蓮 如 時 代 の 上 演 で そ の 数 量 の 多 い ものである。またこの二曲の共通するところは、 いずれも仏教信仰に深くかかわった内容をもっ点である。それはシ テ の 女 人 た ち が 、 み仏の教えにめざめることで怨霊から開放される結論となっている。このような女人教化のおはな しは、中世初頭より説教師や地方を行脚する聖たちに語りひろめられていたであろうし、 また地方の猿楽・神楽など の筋書きにもとりいれられ土着化していったものもあっただろう。そのような意味で、嫁をおどすのに鬼の面の使用 蓮 如 と ﹁ 嫁 お ど し ﹂ の お は な し
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を お も い つ い た 姑 は 、 おそらく地域の猿楽や神楽の舞台において、人間の変心に用いられる鬼面の上演効果をよく承 知していたのではないかとおもえる。 中世の﹁家﹂における家族関係は、家父長権絶対を認識した父・夫を中心に家族を構成していた。男が家長である ⑤ 場合、姑は準家長権を認められており、間男の死後その権限をふるうこともできた。後家となった姑が嫁への干渉を強 めるのもこうした環境の変化に起因している場合が多い。 ﹁ 嫁 お ど し ﹂ の 姑 に し て 然 り で あ ろ う 。 ﹁ 家 ﹂ に と つ い だ 妻たちは家事家業にいそしみ、子どもを育て、家財や家名を堅守し、それらを子どもに伝えてきた。しかし、 い っ ぽ う中世の経済社会では産業・商業面の発達にともなって、女性も男性同様職業をもっ者も増加した。女性の経済的独 立は信仰面への積極的な参加を促進し、女性が信仰にめざめ、 おのずからこころのよみがえりを求める傾向がいちじ る し く な っ た 。 しかし、男・姑と同居している嫁の場合、この義父母の合意を得ず嫁個人の判断で入信することはいささか困難な ことであった。とりわけ姑と嫁という向性のあいだでは、 お互の幸せを嫉妬するトラブルも多く、嫁が信仰の歓びを 授かって幸せでいることが、どうしても許せない姑もいた。 いわゆる﹁嫁おどし﹂の姑である。この場合の嫁は、姑 と敵対する日々、身もこころも邪悪なものとなってゆくのを自覚したであろうし、だからこそ女人同志の修羅場から の開放をねがって強固に道場参詣を続行したのである。 さて、そこでこの﹁嫁おどし﹂の場面を、能楽の舞台に仮設定してみると、 さしずめ姑の鬼面は、女人の怨念をあ らわす﹁般若﹂に該当する。そして嫁の面は﹁小面﹂か﹁若女﹂を想定する。するとここに﹁即嫁おどし﹂という曲 自の真宗教化能を構成することができるのではないだろうか。 ﹁嫁おどし﹂の舞台では、姑が嫁の真宗入信を僧悪し 嫉妬に狂う﹁般若﹂の姿で登場する。なにがなんでも自分の力で嫁の改心をなしとげてやる、という自我執心の心情である。それに対し、姑の鬼女に襲われた嫁は、阿弥陀仏の加護を信じ、 ﹁他力の信はよもや喰むまじ﹂と念仏合掌 して動揺のそぶりさえないというのだから、この嫁の面を選ぶとすれば、 やさしさを秘めた。若女。であろう。若女 の嫁は信心をつらぬくなかで困難にであったとき、真宗の女人門徒としてただひたすら念仏によってのりきってゆこ うとするのだが、ここには女人門徒の理想像が象徴されてはいないだろうか。 ノ、、 蓮如も﹁御文﹂において﹁弥陀如来ト申ハ、 @ マコトニ仏智ノ不思議ト信シテ﹂と女人門徒の心がまえを説いている。その他にも﹁カタシケナグモ阿弥陀如来 カカルワレラコトキノアサマシキ女人ノタメニオコシ給ヘル本願ナレ ヒトリ十万三世ノ諸仏ノ悲願一一モレタル女人ヲ、タスケタマフ御ウレシサアリカタサヨトフカクオモヒトリテ、阿弥 ⑦ 陀如来ヲタノミタテマツルヘキナリ﹂ともしたためている。さらに女人を含む人間の妄念妄執のこころについて﹁ワ ガ コ 、 ロ ノ ワ ロ キ ヲ モ 、 マ タ 妄 念 妄 執 ノ コ 、 ロ ノ オ コ ル ヲ モ 、 ト メ ヨ ト イ フ ニ モ ア ラ ズ ﹂ ︿ 文 明 三 年 十 二 月 十 八 日 ﹀ と 、 い っ た ん は 煩 悩 を 肯 定 す る が 、 つづいて﹁妄念妄執ノココロ﹂は﹁弥陀如来ノ他力真実ノ信心﹂をうることによって 妄念の苦界から救われるとも諭すのである。 以 上 、 ﹁嫁おどし﹂の説話を真宗の教化能として想定し考察をこころみたが、 自力我執の。般若。と他力本願の ぷ右女。というそれぞれのヒロインは、真宗における女人教化の重要な役割りを果してきたといえよう。 またこの ﹁嫁おどし﹂のおはなしはひろく門徒聞に語りつがれ、このおはなしによって暗黙のうちながら、こころのよみがえ りをえた女人家族は意外に多かったのではないだろうか。 また当時の大家族のなかで、嫁と姑の仲が円満になるとい うことは、同時に夫や男たちも親族憎悪の煩悩から救われることにもなったであろう。家族が謙虚な同行意識で睦み 合うことこそ真宗門徒の理想ではないだろうか。 いっぽう﹁嫁おどし﹂のおはなしが語りひろめられる場合、仮りに北陸の地域を限って、どのような範囲に流布し 蓮 如 と ﹁ 嫁 お ど し ﹂ の お は な し
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蓮 如 と ﹁ 嫁 お ど し ﹂ の お は な し 二 二 四 ているか、という興味があった。そこで、考察の角度をかえて﹁昔話﹂の分野に目を転じた。すると意外な結果を得 た。つまり﹁嫁おどし﹂のおはなしは、吉崎ばかりでなく、北陸一帯にひろまっていたことが推察される。 ま た そ れ ③ は﹁昔話﹂としてこんにちまで語りつがれていることも知りえた。そこで北陸における﹁嫁おどし﹂の分布を左記に あ げ る 。
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石川県小松市大島町ω
同市下粟津川 W 岡市千代町ω
岡市波佐谷町助同市若杉町帥岡県羽咋郡志賀町徳 目的富山県側福井県遠敷郡名田庄村中例岡県坂井郡金津町帥同吉崎ω
岡県武生市ω
岡 市 北 町 制 同 市断保町 現在三県を限ってみた結果であるが、このおはなしの分布は、 まさに蓮如の布教ライン上にあり、ここにあらため て蓮如の教化と真宗の土着化がうかがえる。右の十三話のなかから富山県のものを註にあげて参考としたが、この富 山県の﹁嫁おどし﹂では、嫁の信心を改心させようとした姑の方が邪心を改心し、 めでたしめでたしのム 1 ド で 結 ば れ て い る 。 家族の門徒化によって円満な家族関係を保つ道理は、時代の今昔にかかわらず活きているわけであり、信仰と信頼 で家族を構成してゆくことは大切な生活の智恵といえよう。慶聞坊二人説
坊のいたことは周知のところである。二人の芸能事績等については、 蓮如が北国布教をすすめる折、蓮如と在地門徒との聞で信交促進役をつとめた人物中に、蓮如常随の法敬坊・鹿聞 @ さきの拙稿で述べたのでここにははぶく。 ただ慶聞坊について同名異人の二人説が考えられるので、 その点についてすこし付加しておきたい。 慶 聞 坊 ︵ 一 四四 五
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一 五 二O
︶は幼名を辰寿といった。近江︵滋賀県﹀野州郡金ケ森の豪族道西の甥といわれている。幼くして蓮如に もらわれ成人して常随となった。慶聞坊と名乗り法名は龍玄である。 こ の 慶 聞 坊 に 対 し 、 吉 崎 寺 ︵ 福 井 県 坂 井 郡 金 津 町 士 口 崎 、 浄 土 真 宗 本 願 寺 派 ︶ の 開 基 も 慶 閲 坊 な の で 、 あ る い は 同 一 人 物 か 、 と 考 え た 時 期 も あ っ た 。 しかしこのたび本稿をまとめるに際し、あらためて吉崎寺の御住職大家康照民にお目もじをえた。大家民は御自坊 の 開 基 鹿 聞 坊 ︵ 俗 名 大 家 彦 左 衛 門 吉 久 、 法 名 度 開 坊 ︶ に つ い て 詳 細 な 調 査 を し て お ら れ 、 関係史料等多くの御提示をいた z−
、
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争 j v u u 中 t また吉崎寺の開基慶聞坊は、近江金ケ森出身の慶開坊と同名異人ではないか、という大切な示唆もいただい た その後早速、両慶聞坊の参考史料照合をおこなった。その結果、 やはり大家氏の示唆のように同名異人と推察した。 その理由は、①近江出身の慶聞坊というのは、彼の在世の名乗りであり、彼の法名は龍玄であること。しかし吉崎寺 の鹿間坊は法仇であり、在世では多くの場合大家彦左衛門吉久または義久の俗名で呼ばれている。したがって両者が ﹁越前国坂北郡細呂宜仇﹂の出身で﹁吉 同時に蓮如に随行しても、なんら呼称のうえの支障はない。また②吉久は、 久御﹂の所有地をもっ名主と伝えられ、近江出身の慶聞坊とは明らかに出身地の相呉がある。さらに③として、近江 ⑬ の慶開坊の没年月日は一五二O
年 ︵ 永 正 十 七 ︶ 一 一 一 月 一 三 日 と 伝 え て い る 。 ⑬ 二 ﹀ 四 月 四 日 で あ り 、 しかし吉崎の慶聞坊は一四八O
年 ︵ 文 明 十 没 年 の 相 異 か ら 別 人 と 判 断 す る 。 以上の三点を理由として、慶聞坊二人説は成立しよう。ともあれ、蓮如の北国教団の伸張と真宗復興の偉業は、法 敬坊や両慶聞坊らのように、地域門徒とかたく結ばれ、男女同行一体となっての献身的な信心にささえられていたの である。ここにそうした同行たちの偉業をわずかでも確認できたことはしあわせである。 蓮 如 と ﹁ 嫁 お ど し ﹂ の お は な し 二 二 五蓮 如 と ﹁ 嫁 お ど し ﹂ の お は な し 註 ①下出積与箸﹃石川県の歴史﹄参考。 ②④﹃実悟記﹄ ③野上豊一郎編﹁謡曲全集﹂﹃誓願寺﹄の﹁往生なれや何 事 も 、 比 白 う ち 捨 て L 南 無 阿 弥 陀 仏 と 称 ふ れ ば 、 仏 も わ れ も な か り け り 、 仏 も わ れ も な か り け り 。 南 無 阿 弥 陀 仏 の 芦 ば か り ︵ 下 略 ﹀ ﹂ の 部 分 が 引 用 さ れ て い る 。 ⑤中世法制史料集て﹃御成敗式目﹄第二四条参考。 ⑤﹃諸文集﹄日、文明三年初秋。 ⑦右同、文明五年十二月十三日。 ③﹃日本昔話﹄石川・富山・福井の三県範囲よりピックア ッ プ し た も の で あ る 。 こ の 考 察 に は 京 都 女 子 大 学 稲 田 浩 二 教 授 の 御 教 示 を い た だ い た 。 富 山 県 の 例 。 ︵ ﹁ 民 話 と 文 学 の 会 か い ほ う ﹂ 日 ︶ 嫁が姑に﹁よくかせぐからお寺参りだけはさせてく れ ﹂ と 頼 み 、 い つ も 寺 参 り す る の で 、 姑 は 嫁 が 憎 ら し く な り 、 嫁 が 石 臼 で 挽 く 粉 を 一 升 か ら 一 升 五 合 に 、 二 升に、二升五合にと増していくが、嫁は仕事をしと 一 一 ニ 六 げ 、 あ い 変 ら ず 寺 参 り す る 。 あ る 晩 、 姑 は 鬼 の 面 を か ぶ っ て 嫁 の 帰 り を 待 ち ぶ せ ﹁ 飲 も う 、 剥 ご う ﹂ と 呈 一 口 っ て 立 ち ふ さ が る 。 嫁 が ﹁ 飲 ま ば 飲 め 、 剥 が ば 剥 げ ﹂ と 言 っ て 念 仏 を 唱 え る と 、 姑 は 面 が 顔 に く っ つ い て 苦 し む 。 嫁 が 念 仏 を 唱 え て 阿 弥 陀 様 に 願 う と 面 が 取 れ 、 以 来 姑 は 改 心 し て 家 内 円 満 と な っ た 。 ⑨京都女子大学史学会編﹃史窓﹄お号﹁蓮如時代寺内手猿 楽 の 人 び と ﹂ ⑩⑬士口崎寺文書、安政三年記録、本山への報告文控 ⑬⑫真宗史料集成二、﹁諸文集﹂一