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あの時 まちを輝かせたのはあなた 町田 JC と市民だった 藤倉忠夫 ( 日曜の会 ) JCI2015 年度関東地区フォーラムの主題名は いま まちを輝かすのはあなたしかいない であった その講演 対談を聞いて この主題は昔も今も変わらないなと思った しかし あの時 まちを輝かせるのはそう簡単ではな

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市議会一般質問にて市民会議の問題提起を取り上げていただきました

『まちづくりの環』第 138 号の湯浅起夫会員の寄稿「歴史に学ぼう!直下型の大地震と町田市」のなかで、 その重要性が問題提起されました感震ブレーカーについて、6 月 9 日(火曜日)の町田市議会一般質問にて質問 に立った、いわせ和子議員が、「首都直下型地震に備えて」という表題の質問になかで触れました。市側との 質問のやりとりをここにご紹介申し上げます。(下記のやりとりはネット中継の録画をもとに書き起こしをし たものであり、市の正式な議事録とは発言の文言が一致していない場合があります。)

町田市議会 平成 27 年 6 月定例会(第 2 回) 一般質問

感震ブレーカーの設置について(いわせ和子議員)

いわせ議員: 感震ブレーカーについてお伺いを致します。 購入設置費用の一部助成など、他市や東京消防庁の動向を参考に検討を強く要望致しますけれども、 この感震ブレーカーの必要性を、市民の方たちに認識してもらうために、広報まちだやホームページを 使って、設置の重要性を、PRしていただきたいと考えますけれども、いかがでしょうか。 防災安全担当部長: 国では、感震ブレーカーは、首都直下地震緊急対策推進基本計画におきまして、木造住宅密集地域へ の普及率の目標を定めております。 町田市では、都内区部のような木造住宅の密集地域はありませんが、感震ブレーカーは、地震のとき の電気を原因とする火災を抑えるには、有効であると言われておりますので、地域での防災広報のとき に説明をおこなったり、広報まちだやホームページで周知することを検討して参りたいと考えています。 いわせ議員: 感震ブレーカーの重要性の周知の徹底よろしくお願い致します。 今回、感震ブレーカーについて、「町田まちづくり市民会議」会報の138号に詳しく掲載されており まして、感震ブレーカーの重要性について、私、勉強させていただきました。 あまり知られていないという、関東大震災における町田地域の被害状況も紹介されており、今回、私 の一般質問のきっかけともなりました。一言お礼を申し上げまして、今回私の一般質問を終わります。 ありがとうございました。 140 号 目 次 市議会一般質問にて市民会議の問題提起を取り上げていただきました ··· 1 あの時、まちを輝かせたのはあなた・町田JCと市民だった。 ··· 藤倉 忠夫 2 太平洋戦争終戦の詔勅《玉音放送》とポツダム宣言 ··· 岩上 誠次 4 リニア実験線工事による被害状況の見学 ··· 佐藤 勲 7 事務局だより・編集後記 ··· 8

2015 年 7 月・8 月合併号(通巻第 140 号)

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あの時、まちを輝かせたのはあなた・町田JCと市民だった。

藤倉 忠夫(日曜の会) JCI2015 年度関東地区フォーラムの主題名は「いま、まちを輝かすのはあなたしかいない」 であった。その講演、対談を聞いて、この主題は昔も今も変わらないなと思った。しかし、あの時、 まちを輝かせるのはそう簡単ではなかった。以下は、今の「町田まちづくり市民会議」の源流の在 りかと、その源流の時を見ていた者の昔話である。 45 年前の昔、1970 年に大下革新市政がスタートした。当時、高度成長の錦の御旗のもとでの団 地開発の大波に対して、自然乱開発、公共施設の市財政負担増に対抗する画期的な「団地白書」を 市職員が専門家と協同で作成し「町田市団地再生基本方針」を世に示した。そのプロジェクトチー ムは、当時有名な湯布院の町おこしの中心人物、中谷健太郎氏を呼び講演会を催した。その終了後、 小学校の校庭に大鍋を持ち込み炊き込み、聴衆の市民の輪の中で湯布院鍋を堪能させて下さった。 私はその時、プロジェクトの市職リーダーであった渋谷謙三さんや森口さんの姿を初めて目にした。 その専門家のお一人であった向坂正男氏は、玉川学園の路 上ですれ違った時、湯布院のような市民同士の人脈の輪が 出来ないだろうかと口にされていた。 時は過ぎ‘87 年 4 月頃、私が日曜の会を仲間と共に立ち 上げ、会誌『まちだ風景』を発行しているのを知っていた 渋谷謙三さんから、ある日突然電話があり、美味しいもの を食べながら町田のことを語る昼食会があるから出席して ほしいとのこと。町田駅前で会い、車で図師町の鰻や「す ずか」に連れて行かれた。そこで待っていた方は思いのほ かお三人だけで、日曜の会にヒヤリングに来られた薬師寺 光明さんや三ノ輪さん、もうお一人のお名前は思い出せな い。会談の内容はその後まもなく始められた薬師寺さん主 宰の「町田フォーラム 21 研究会」のスタートに至る前の 意見交換会で、まち問題の各専門家や、まちづくりに関心 のある人達の人脈をどのようにつくるかを主に討議したと メモ記録にある。 その後柿島屋で5 名の会合があり、正式な第1回研究会 は町田「銀座アスター」で横山隆治氏を講師に呼んでスタートした。参加者は6 名で以後、第 3 回 の研究会開催までがメモ書きに記されている。 すでに鬼籍に居られる三ノ輪さんと薬師寺さん、それに渋谷謙三さん。このようにして始まった お三人の共通の思い、市民同士の人脈ネットワークをつくるという志が、この時期、まだ小さいけ れど熱い核をつくり、今日の町田まちづくり市民会議に至るまでになった。宇宙に例えれば、新星 が生まれ周囲の星やガスを引きつけて渦巻き状に発展し、銀河を作るように、第1 回・第 2 回市民 ネットワーク会議、まちづくりワイワイ祭、まちづくり市民討論会、町田市都市計画マスタープラ ン策定市民運動まで、銀河の大きな星々の周りに集まる満点の星のように、ここに集った数えきれ ない人々がネットワークされ参加してきたと云える。1987 年に他界された向坂正男さんには、残

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3 念ながらこの姿をお見せすることができなかった。 しかし、事の起こりにはこのような背景もあった。1996 年 9 月号の「市民の風」に三ノ輪さん から薬師寺さんへの追悼文があり、次のように語っている。「フォーラム21」の例会はその後数回 出席したが、内容が素晴らしいけれど参加者がいつも小人数で会の発信機能や求心力の弱さに事務 局を一人でやっておられることの限界を感じておられたのではないか。 その後、薬師寺さんは町田JCのさまざまな事業に積極的に参加されるようになった。その一方、 当時の町田JCは社会法人格の取得を目指して100 名以上の会員拡大の真最中であった。社会開発 運動の継続的な活動を始めようとしていた初年度で町田の現状を客観的に知るための「まちづくり カルテ」を作成していたところで、町田らしい素敵な市民会議ができないかと模索していたところ に「フォーラム 21」に出会えたと書いてある。方や研究会を主宰したと云っても力の限界がある 一市民、方や組織力十分な青年会議所。その 動きに対等にわたりあって、同じ思いを市民 のネットワーク運動へと協同していけたのは 薬師寺さんの独特のパーソナリティであり、 それを受けてJCの社会開発運動をリードし ていったのは三ノ輪さん。何か新しいことの 始まりには必ずこのような人物が存在する。 薬師寺さんは周りの市民達を協同に引き込み、 三ノ輪さんは町田JCをその流れの中に引き 込んでいった。 初動は町田JCが持っていた「まちづくり 三カ年計画」の3 年目「まちづくりの提言書 発表」の市民集会。これをいきなり第1回市 民ネットワーク会議と称した。普通、町田J Cの都合による発表会だけであれば、これほ どの市民達は集まってこない。前記のような 市民交流がすでにあったからだ。集まった市 民から提言に対する意見だけではなく、市民 会議を開くことが強く提唱された。 翌年、第2 回市民ネットワーク会議が、夜 まで 12 時間討論会として行われ、それらは「まちづくり・市民の風」に収録されている。この紙 面こそ市民協同の証である。ここに記される参加者の名前、参加団体の名の数々は名実ともに、市 民ネットワーク会議であることを物語っている。この流れの中に「まち・ネット」があり、最も輝 いた「まちづくりワイワイ祭」がある。‘91 年から十数回開催されたこの「ワイワイ祭」は各回と も祭準備会、実行委員会が数多く開かれ、最初は町田JCの事業と協同して、後半はJCのOB と 市民だけの協同作業により、祭り設営や協賛企業、協賛金獲得などのJCの担当者達、市民側の実 行委員長はじめ祭り参加市民団体などが体験する大変な苦労とエネルギーが費やされた。しかしそ れは、この祭りのすばらしい輝きによって労われ、報われた。・・「いま、まちを輝かすのはあなた しかいない」・・正にこの人達しか、いなかったことになる。

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太平洋戦争終戦の詔勅《玉音放送》とポツダム宣言

岩上 誠次 宮内庁は、この7 月 9 日、戦後 70 年を迎えるにあたり、終戦の日の昭和天皇による「玉音放送」を 録音したレコードの原盤(玉音盤)を、音声とともに 8 月 1 日に初めて公開するという。これまで知 られている玉音放送は、戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の複製がもとになっているとみられ、原盤 そのものは同庁が保管していたという。 この玉音放送は、ご存じのとおり、昭和20 (1945) 年 8 月 15 日正午に全国にラジオ放送され、太平 洋戦争の敗戦(終戦)が、日本国民に知らさました。その後、日本は、憲法を改正し、民主国家に生 まれ変わりました。あれから70 年。今、国会では、憲法第 9 条を巡って議論がなされていますが、あ のとき、日本の針路を、大きく変えた玉音放送とポツダム宣言を、紙上再現してみました。 * * * * * *

≪玉音放送全文≫

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ

忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々

措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾ス

ルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス 然ルニ交戰已ニ

四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セ

ルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ殘虐ナル

爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚交戰

ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政

府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス

帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲

ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所

ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ

知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ

開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若

シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義

ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信

シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體

ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セ

* * * * * * ≪ポツダム宣言(外務省訳)≫ 一 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及グレート、ブリテン國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代

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5 表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ 二 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増 強ヲ受ケ日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ 右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ 至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ 三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スルドイツ國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民 ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ 現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スルナチスニ 對シ適用セラレタル場合ニ於テ全ドイツ國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル 力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ 吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ 使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ 意味スベシ 四 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ 引續キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ 五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ 吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ 右ニ代ル條件存在セズ 吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ 六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ 得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯 サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ 七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄 ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占 領セラルベシ 八 カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定 スル諸小島ニ局限セラルベシ 九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ 機會ヲ得シメラルベシ 十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモ ノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベ シ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ 言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ 十一 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スル コトヲ許サルベシ 但シ日本國ヲシテ戰爭ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在 ラズ 右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ 日本國ハ將來世界貿易関 係ヘノ參加ヲ許サルベシ 十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任ア ル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ 十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ 付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス 右以外ノ日本國ノ選択ハ迅速且完全ナ ル壊滅アルノミトス * * * * * * (参考)玉音放送現代語訳 私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを考え合わせ、緊急の措置をもって時局を収拾しようと思

(6)

6 い、ここに忠実かつ善良な君たち国民に申し伝える。 私は、アメリカ、イギリス、中華民国、ソビエトの4か国に対して、日本国政府からそれらの共同 宣言(ポツダム宣言)を受け入れることを伝えるよう指示した。 そもそも、日本国民の平穏無事を図って、全世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇が 言い伝えてきた教えであり、私が、常に大切にしてきたことである。先にアメリカとイギリスの2か 国に対して宣戦した理由も、本来、日本の自立と東アジア諸国の安定とを願う思いから出たものであ り、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。 ところが、戦争はもう4年も続き、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、 我が一億国民の奉公も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、 世界の大勢もまた我が国に有利をもたらしていない。その上、敵は、新たに残虐な爆弾(原爆)を使 用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測でき ないまでに至った。 このまま戦争を続ければ、日本民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明も破壊してしまうだろう。 そのようなことになれば、どうやって私は多くの国民を守り、歴代天皇の霊に謝罪すればよいのか。 これが、私が、政府に共同宣言に応じるように命じた理由である。 私は、日本と共に、終始、東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表 せざるを得ない。 日本国民であって、前線で戦死した者、職務で殉職した者、思いがけず命を落とした者、さらには、 その遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また、戦傷したり、災禍を 被って家業を失った人々の再起に至っては、私が深く心を痛めているところである。 考えれば、今後、日本国が受けるだろう苦難は、きっと並大抵のことではなかろう。君たち国民の 気持ちも私はよくわかっている。しかしながら、私は、時の運におもむくまま、耐えられないことに も耐え、我慢できないことにも我慢し、今後の未来のために平和への道を開いていきたい。 私は、ここに国体を守ることができ、忠実な君たち国民の真心を信じ、常に君たちとともにある。 感情の高ぶりのままに問題を起こしたり、仲間同士で排斥したり、時局を混乱させたりして、道を外 し、世界からの信用を失うことは、私が最も戒めたいことだ。 ぜひとも、国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき日本の不滅を確信し、責任は重くかつ 道は遠いことを心に留め、総力を将来の建設に傾け、道義を常に忘れず、その心を堅持し、誓って国 のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。 君たち国民は、これら私の意をよく理解して行動されたい。 * * * * * * 僕が、この玉音放送を聞いたのは、疎開先の片田舎で、国民学校(小学校)2年生のときでした。 一家が、ラジオの前に正座して集合。放送内容は、子供には難解でチンプンカンプン。耳に残ってい るのは、「ワガコーソ・コーソ」と「タエガタキヲシノビ・シノビガタイヲシノビ」ぐらい。 誰かが「日本は負けた」とポツリ。「えっ、負けたの?どうして?」。常勝国大日本帝国は絶対負け ない!と教えられていた僕は複雑な気持に…。しかし、皆は沈着冷静。悔しがる様子もなく、それぞ れが、何事もなかったかのように日常の仕事に散っていきました。

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リニア実験線工事による被害状況の見学

佐藤

7 月 7 日、リニア中央新幹線を考える町田の会主催のリニア実験線(山梨県)にまつわる問

題を実地検分するバスツアーに参加した。

8 時に町田を出発、10 時頃、都留市小形山 2381

にある山梨県立リニア見学センターに到着。

3 階建ての建物で、そこで 40 分ばかり自由見

学することになった。

1 階にリニア試験車両(片側 2 座席の模擬車)とリニア開発の歴史、2

階に超電導リニアの仕組み、超電導コースターの浮上実験、ミニリニアの試乗体験、

3 階

にリニアジオラマ、リニアシアター、見学ラウンジがあり、このラウンジですぐ間近に走

行するリニアを体感できる。トンネルから出てきたと思ったら一瞬轟音

(衝撃波によるも

)を放ったうえ次のトンネルに消えるさまが体感できる。

次いで、当日案内役を勤めていただいた都留市議会議員板倉さんの案内で、見学センタ

ー周辺の、歩いて

5 分ばかりのところに移動し、トンネル工事による川の水枯れが起きて

いる場所を見学した。その近接した山側に池ができており、その奥には倉庫が残っており、

池になっている場所は一軒家が移転した跡だという。つまり、地下水の流れが変わってそ

うなったのだという。

次いで、バスで近くの沿線住民の方

2 人が待ってくれている場所に移動して話しを聞い

た。やはり、ここでも騒音と日照問題が出ていた。ここではリニアは高架でフードがつい

ていないので、リニアが走るときには会話やテレビは聞き取れず、画面も乱れたままにな

るという。農作業の合間の昼寝も騒音で妨げられる。音の強さを測ったことはないが、相

当の騒音であることは間違いない。工事前の説明会では心配するほどではないとJRは言

っていたが、本格運行までにはフードで覆うといっているというが、さてどうなるものや

ら疑わしい。日照は作物の実りに影響を与えるとして、日陰になる北側の農家は交渉して

何ほどかの補償金を得たようだが、個別交渉でやったようでそれぞれどのようだったかは

話したがらないのでわからないという。

次いで、都留市古川渡の実験線の真下の市営アパート団地や一軒家のところに移動した。

ここでも日照問題が起きている。補償の有無は不明。また、冬にはリニア高架からの落雪

で軽ワゴンがつぶれてしまったことも。

次いで、都留市井倉の朝日川岸近くの残土運搬場所に移動。ここが選ばれたのは、前都

留市長の地元で何らかの地売り交渉があった模様であるとのこと。

3 メートルぐらいの高

さで

150×100 メートルくらいの残土置き場で、これで実験線のトンネル区間 35.1 キロ(先

行区間

16 キロ)での残土量がわかる。ここはカインズが建てられる予定であるそうだが予

定は未定であるという。

次いで、約

5 キロ離れた大月市の西端、笹子町黒野田の追分に移動。この手前 500 メー

トル付近でトンネルに入るのであるが、そのトンネル工事により、山間部の川が水枯れに

なって、下流の生活用水および農業用水が止まってしまったという。それであわててJR

は、別の川から取水してポンプアップで人工的に川を作っていた。そのポンプアップの建

物は優に一軒家ぐらいの大きさである。

(最終ページに続きます。)

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8 (7 頁より続く) 地元のかたの案内でその両方の場所を見学さ せてもらった。 町田に帰着したのは夕方6 時半頃だった。以 上、議論している、つまり想像しているよりは るかに現場の実態をリアルに知ることで、町田 や他地域でおきうる問題が身近なものとなっ たことは事実である。 <資料>市民ネットワーク会議を改称した

町田市民まちづくりネットワークの系譜

今号 2~3 頁にて掲載しました藤倉会員の寄稿と 関連して、藤倉会員から表題の資料をいただきまし た。寄稿文中に図版として掲載をしますと、判読が 難しくなるため、以下、資料に記載されています年 表をこの場を借りてご紹介いたします(編集部)。 1973 年 23 万人の個展 1974 年 24 万人の個展 1975 年 25 万人の個展 1976 年 26 万人の個展 1977 年 27 万人の個展 1980 年 町田青年会議所「市民アンケート」…市民 祭を再びという意見多し。 1981 年 30 万人の個展 1989 年 市民フォーラム、懇談会で討論…町田の市 民参加の伝統はいまいづこ。あの個展はどこへいっ た。 1989 年 11 月 第 1 回市民ネットワーク会議…町田 青年会議所「まちづくりへの提言」発表。個展はな ぜ27 万人の個展で終わったのか。34 万人の個展は あるのか。 1990 年 4 月 第 2 回市民ネットワーク会議…まち づくり夜まで 12 時間討論会 まちづくり大好き市 民大集合 再び取り戻そう町田の祭りを。それは、 まちづくりを集まって考える討論の場と、個展のよ うな新しいコミュニケーションの場をペアで実現し ようというもの。 1990 年 10 月 まちづくりワイワイ祭’91「知ろうヨ 考えようヨ みんなのまちだ」この祭りの名前をな んとつけようかとカンカンガクガクの討論。この「ワ イワイとした熱気」をそのままの名前に。 1991 年 7 月 第 3 回市民ネットワーク会議…町田 の宝探し討論会 1991 年 10 月 まちづくりワイワイ祭’91「35 万人 のときめき」…雨でやむなく中止。 1992 年 10 月 まちづくりワイワイ祭’92「35 万人 のときめき」…来場者数10 万人の交流。 1992 年 11 月 第 4 回市民ネットワーク会議…まち づくり教育討論会 1992 年 12 月 市民祭反省会・まちづくりワイワイ 祭’93 にむけて…「ワイワイ祭」のルーツ、町田市 民ネットワーク会議の主旨はどこへ行った。まちづ くりワイワイ祭’93 実行委員会始動

編 集 後 記

先月の定例会での検討の結果、今号第140 号 は7 月と 8 月の合併号とすることにさせていただき ました。発行日時の変更と併せて、何卒お許しく ださい。次号では、タウンニュースや広報まちだで もすでに報道がなされています相模女子大学と 町田市とのごみ減量にかんする新しい協働研究 について特集記事をお届けする予定です(H.I.)。

事務局だより

9 月の定例会(会報発行日を兼ねる)は 9 月 16 日(水曜日)13:00~より中央公民館(生涯学習セ ンター)ロビーでおこないます。

まちづくりの環

町田まちづくり市民会議会報 2015 年 7 月 28 日第 140 号発行 発行者 三谷高康 編集責任者 井上弘貴 事務局 桜美林大学 渉外事業部 地域・社会連携室内

事務局 E-mail hiro_inouye @yahoo.co.jp 町田まちづくり市民会議ウェブサイト http://www.machida-machizukuri.com/ 町田まちづくり市民会議ツイッター

参照

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