さんぽういん本原理 三法印と呼ばれてきました あらゆる物事は変化していくのであって 変わらずあり続けるものなどありません こ しょぎょうむじょう れが諸行無常ということです 無常なのはわが身自身もまたそうであって わが意のままにはならないのです ままに お なるなら誰が 老いるでしょうか ままになる

全文

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本願他力の信心

一、仏教のテーマは生死出ずべき道

仏教の開祖釈尊 が、すべてを捨てて出家し、修行の旅に出られたのは、万人が抱えてしゃくそん いる苦悩をのりこえる道を見いだすためでした。それは、出離生死の道、生死出ずべき道しゅっり しょうじ しょうじ い と呼ばれます。 釈尊は今から二千五百年ほど前、インドとネパールの国境付近に住んでいた釈迦族の大 王の長男としてお生まれになりました。小さいけれども豊かな国のプリンスとして幸せに 満ちた暮らしの中で成長されました。しかし、どんなに幸せに暮らしていても、さまざま な悩みにつきまとわれている自分を見いだし、無常の身、意のままにはならない現実に目 を向けられたのです。 どれほど幸せであるといってみても、老いて、病んで、死んで行かなければならないこ とに変わりはありません。わが身わが命そのものが、わが思うままにはならないものであ ったのです。誰も思うままに生きられる人などいないのです。未来に対しては誰もが憂いうれ を抱いています。愛しいものと別れる悲しみをさけることはできません。肉体を持つ以上いだ いと 飢えや寒さ、暑さ、さまざまな苦痛は生きているしるしというべきものです。心がある以 う 上、どうすればよいか、どういえばよいか、どう思えばよいかと悩まないでは生きられま せん。そして結局は遅かれ早かれ死んでいかねばなりません。どうして心悶えずにいられもだ ましょうか。このことを、生死無常の理 といいます。ことわり どんなに幸せになろうと、生き物であるかぎり、人間である以上は、苦悩の衆生である ことに変わりはなかったのです。ところが、私たちは愛憎の念に縛られ、欲望にひかれ、しば 意のままにしたいというとらわれから、迷い、もがき、争ってますます苦悩を激しいもの のにしています。 これを生死の苦と呼びます。また、空しく過ぎると表現し、六道輪廻という象徴表現でりんね 表します。これをどうのりこえて、人間として生まれ、生きることの中に、安らぎと喜び を見いだすか、死をも越えた不滅の真実を見いだすかということこそ仏教のテーマです。

二、無常・苦・無我の理にそむく無明・煩悩

むみょう ぼんのう 生死の苦悩をのりこえるために必要なものは、ありのままの事実を見つめる中から自ら の生きかたを見いだすことです。釈尊が覚りを開かれたというのもそのことでした。さと 釈尊は自らの覚りに立って、ありのままの事実を見つめた中から見いだした道理を説き 示されました。「無常なるものは苦なるものなり。苦なるものは無我なるものなり」とい うことです。これは、諸行無常 ・一切皆苦・諸法無我と言い表され、仏教の仏教たる根しょぎょうむじょう い っ さ い か い く し ょ ほ う む が

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本原理、三法印と呼ばれてきました。さ んぽうい ん あらゆる物事は変化していくのであって、変わらずあり続けるものなどありません。こ れが諸 行 無常ということです。しょぎょうむじょう 無常なのはわが身自身もまたそうであって、わが意のままにはならないのです。ままに なるなら誰が、老いるでしょうか、ままになるなら誰が病むでしょうか、ままになるならお や 誰が死ぬでしょうか。人は生まれを選ぶことができません。生まれてきた姿そのものが、 ままにはならないのがこの身、この 命 であることの象 徴であるといわねばなりません。いのち しょうちょう これが一切皆苦ということです。い っ さ い か い く そうであってみれば、不滅の霊魂、あるいはたましいを論ずることは無意味です。すべふ め つ れい こん てのものごとは変化し、存在するものは崩壊し、消 滅するのです。大宇宙もまた例外でほうかい しょうめつ はありません。たましいがあろうとなかろうと人は老い、たましいがあろうとなかろうと 人は病み、たましいがあろうとなかろうと人は死ぬのです。たましいがあろうとなかろうや と人は未来を憂え、たましいがあろうとなかろうと人は愛するものとの別れを悲しみ、たうれ ましいがあろうとなかろうと人は苦しみ悩み悶えるのです。たましいの有る無しを論じてもだ 何の解決がありましょう。不滅なる霊魂など論ずる意味すらない。それが諸法無我というし ょ ほ う む が ことです。 ところが、この道理にそむいた方向へばかりはたらくのが私たちの思い計らいです。今はか の自分が何時までも続くように思い、当てにならないものを当てにしがちです。ままならい つ あ あ ないものをままにしようと事実に背を向け、心に思い描く未来を追いかけようとします。えが いわゆるわがままを通そうとします。何時までも自分が元気でいられるような気になり、 たよりにならない自分の考えにこだわって、自己中心的に生きようとします。 要するに、無常・苦・無我なる現実が見えていないのです。これが無明あるいは愚痴とむみ ょう ぐ ち いわれる状態です。それゆえにこそ、欲望と愛憎に縛られ、怒りと憎悪に振り回されて、あ いぞう しば ぞ う お 煩 い悩むのです。道理に背き、事実に背を向けて迷い苦しむのです。これを無明・煩悩 わずら そむ せ むみょう ぼん のう と呼び、生死の苦悩の本であると教えてあります。

三、難行自力の聖道門と易行他力の浄土門

な ん ぎ ょ う じ り き しょうどうもん い ぎ ょ う た り き じ ょ う ど も ん どうやって、無明・煩悩を克服して無常・苦・無我の理を体得し、世の人々と共に生死むみょう ぼんのう こく ふく の苦悩を離れるか、それが問題です。釈尊と同じく、出家し、釈尊と同じように修行し、 釈尊と同じ覚りを得ようとする道が考えられます。しかし、龍 樹菩薩はこれをあまりにりゅうじゅ 遠く困難な道であるとして、難 行 道と呼ばれました。曇鸞大師は、難行なのは煩悩にまなんぎょうどう どん らん みれた人間が、自分の方から煩悩を離れた世界へ近づこうとする無理があるからであるこ とを明らかにし、所詮は自己中心的なアプローチに過ぎないことを指摘して、これを自力しょせん と名づけられました。道綽禅師はこの難行自力の道は、凡夫が釈尊の覚りをまねようとすどうし ゃくぜ んじ る末代にふさわしくない行き方、聖 道 門であると言われました。しょうどうもん

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これに対し、万人が歩みうる道、易行・他力・浄土門として示された道があります。浄ばんにん 土三部経をより所として、龍 樹・天親・曇鸞・道 綽・善導・源信・源空・親鸞と受け継りゅうじゅ てんじん どん らん どうしゃく ぜんどう げんしん げん くう しんらん う がれてきた浄土真宗です。阿弥陀如来の本願として示された不滅の真実をわがためと信じ、 南無阿弥陀仏の名 号を、本願から届いたわれを呼ぶ声と聞き、浄土に生まれて仏となっみょうごう て苦悩の衆 生を救おうと願えよとの呼びかけを喜びとし、励ましとし、力としてともにしゅじょう 浄土からの道、浄土への道、念仏の道を歩むのが浄土真宗です。

四、久遠の願い

く お ん 釈迦如来の覚られた不滅の真実は、色なく形なく、言葉で表しようなく、心でとらえよ うのないものでした。迷いの中にいる私たちには想像してみようもないものです。私たち から求めることもありません。わたくしたちが求めるのは、自分の願望を果たす道であり 苦悩を逃れる術であって、真実を求めているわけではありません。のが すべ ところが、釈迦如来は、自らの覚りの智慧に立って、迷いの中に惑う万人のために、そまど ばんにん の真実を私たちにも受け取れるようにと、象 徴的表現をもって説き示して下さいました。しょうちょう それが、浄土三部経に示された阿弥陀如来の救いの教えです。 『仏説無量寿経』によれば、この娑婆世界のみならず、十方世界に数限りなく現れたもし ゃ ば う仏も菩薩も仏弟子たちも、全ては阿弥陀如来のはたらきによって出現するのであり、世 に仏法の存在するのは阿弥陀如来の浄土から送り届けられてのことです。釈尊が道を求め られたのも、遂に覚りを開かれたのも、生涯かけて人々に安楽の灯火を掲げたいと伝道のつい と もしび かか 旅を送られたことも、阿弥陀如来の真実に揺り動かされてのことでした。ゆ 今、釈迦如来は自分を揺り動かしてやまなかった大いなる真実を、阿弥陀如来の本願と 修行、それによって開かれた浄土、そこから届けられる南無阿弥陀仏の名 号として説きみょうごう 開かれるのです。 思いも及ばぬはるかな昔、一人の国王が世自在王仏という如来の説法を聞いて感動し、せ じ ざ い お う ぶ つ 自分もまたこの如来のごとく覚りを得て、光り輝くものとなり、世の人々の光となりたい という志を抱きました。そして王位を捨てて出家し、法蔵と名乗って再び世自在王仏のもいだ とを 訪 れました。政治でも経済でも権力でも武力でも解決しない問題を抱えているのがおとず 人間であり、心に燃える真実がないかぎり、どんな快楽も豊かさも人間を光り輝かせるこ とはできないことに気づいたからです。 世自在王仏の徳を讃えるとともに、自らもまた、いかなる苦難も踏み越えて仏となってたた 生きとし生きるものたちの苦悩の本を抜きたいという決意を述べ、導きを請う法蔵菩薩にこ 対して、世自在王仏はそれまでに世に現れたもうた二百十憶もの仏たちの足跡をお示しにそくせき なります。どのような願を立て、どのような努力によって、どのような世界を開き、どの ような人々を、どのように導き、どのような利益を与えてついに覚りを得させたもうたの かを詳しくお示しになったのです。

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法蔵菩薩はこれをことごとく学び取った上で、自らは何を願い、どう救うのかを思い定 めるために深い思惟に入られました。思惟を凝らすこと五劫という途方もない時を経て、し ゆ い こ ご こ う ついに広大無辺にして不滅の誓いが立てられました。 では、なに故にそれほどに永い思惟が必要だったのでしょうか。その理由は、思惟の結 果立てられた四十八箇条の誓願の内容を見れば、自ずから知られます。二百十憶もの仏たおの ちの智慧は底なく、慈悲もまた果てしないものでしたが、それでも救えなかった余りに多 くの者たちがいたことに目を向けられたからです。 どんな仏も救いようがなかった人々とは、一体どのような人々だったのでしょうか。ど んな名医も、どんな妙薬があっても治しようがない病人のようなものです。それはどんななお 病人か。自分が病人だと気づかない病人。医者にかかろうとしない病人。医者に診てもらみ いながらも治療を受けず、薬を飲もうとしない病人は、治しようがありません。自分が迷 いの中にいることを知らず。仏の教えを聞こうとせず。聞いても従わないものは、どんな 仏も救いようがなかったのです。如来の智慧も慈悲も及ばないもの、法に乖き真実に背をそむ 向け、仏の手から逃げる者こそ、救いようのない者であり。ほかならぬ私たちのことでし た。 そんな者をどうやって救おうというのでしょうか。どうやって、かからなくても治せる 医者になり、飲まなくても効く薬を作ろうというのでしょうか。五劫どころか、万劫考えき まんこう てみても、そんなことは所詮不可能なのではありませんか。そんな途方もないことを考えと ほ う る人などありますまい。しかし、法蔵菩薩は、その不可能を可能にする道を見いだせなけ れば、数知れぬ罪 悪 深 重の凡夫たちを救うことはできない、その道を見いだすまではこざいあくじんじゅう ぼ ん ぷ の座を立つことはないと、思惟に思惟を重ねられたのです。全てはほかならぬこの私たち のためでした。 そしてついに、五劫の思惟の末、不可能を可能にする救いの道が見いだされたのです。すえ それは、その気はなくても、また逃げても背いても否応なく、耳から流れ込む南無阿弥陀そむ いやお う 仏の名号となって、人の称える声になって、耳から心へ飛び込んで、耳の奥に、心の中にとな 住みついて、煩悩に閉ざされた心の 扉 を内側から開いて、光となって射し込んで救おうぼんの う と とびら さ というものでした。南無阿弥陀仏は、背き逃げる私を呼ぶ声であったのです。まことに思そむ いもかけぬことです。不可思議の至りです。有り難い、もったいないとはこのことです。 法蔵菩薩は、その御心のうちに定まった誓願を、世自在王仏の御前で高らかに宣言されみこころ み ま え ました。これが、本願・四十八願と呼ばれるものです。しじゅう はち がん

五、四十八願

まず第一に、わが開く世界には、地獄・餓鬼・畜 生の三悪道がないようにしようと誓じ ご く が き ちくしょう さ んまく みち われました。私たちの世界が三悪道にみちているからです。私たちが三悪道の生き方をし ていると見通されたからです。

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広島・長崎の地獄絵図も及ばぬ惨 状を生み出したのは人間です。最も優れた頭脳を集さんじょう めて作り、世界一の大国の元首が冷静な判断のもとに命じたのです。人間の心の闇に地獄やみ は黒々と広がっていることが明らかになりました。 しばしばアジア・アフリカの国々で発生する大飢饉は天災のせいというより、人間が引き き ん てんさい き起こす戦乱や紛争や圧政によるものです。骨と皮とに痩せ果て、お腹ばかりがふくらんふんそう や だ飢える少年の姿は餓鬼道のモデルです。餓鬼道は分かち合って共に生きることをさまた げる国家エゴ・集団エゴが生み出すのです。 世界は今も力による支配のもとにあり、弱肉強食のありさまはあらゆる所に蔓延していまんえん ます。これが畜生道でなくて何でありましょう。動物たちの世界のほうがずっとまともで す。 このような現実を、これが世の中というものだ、しかたがないとあきらめてよいのなら この誓願は無意味です。ならずともならずとも、願わずにはいられない。なるまではやむ まい、それが法蔵菩薩の不滅の願いでした。極楽浄土を開いて苦悩の衆生を迎え取ろうと いうこの誓願こそ、四十八の本願の出発点だったのです。 第二の願は、一度わが世界に生まれて三悪道を離れた上は、二度と再び三悪道に落ちる ことがないようにという願です。たとえ衆生救済のために三悪道の中に飛び込むことがあ っても、自らはそれに染まることがない身とならせようということです。 第三の願は、わが世界に生まれたきたものはみな、金色に輝く身とならせようという願こんじき です。金色とはこの上なくすぐれた、しかも不滅の輝きを宿すということでしょう。永遠 の時の中に置いてみれば、一瞬ともいうべき限りある命、しかもままならない一生、やり 直しのきかない日々を生きる私たちです。だからこそ、天にも地にもかけがえのない存在 としての輝きを宿すように、不滅の光を放つようにさせたいと願ってくださるのでしょう。 第四の願は、わが世界に生まれたきたものはみな、姿 形に差異なく美醜の別がないよすがたかたち さ い びしゅう うにさせようという願です。私たちの世界では、同じ人間に生まれながら、皮膚の色の違 いや、着ているものの違い、顔や体の姿形の違いゆえにわが身を恥じ、人目を避けねばなひ と め さ らないような悲しい差別があります。だからこそそんなことがないように、誰もが胸を張 って堂々と生きられるようにと願ってくださるのでしょう。 これら四つの願は、苦難を離れさせ、苦しみ悲しみ嘆きを抜き去ろうという願です。 次の第五から第十までの願は六神通の願と呼ばれます。わが国に生まれてきたものにはろ くじんずう 果てしない過去世からのことを見通す宿 命 通、あらゆる仏たちの世界を見通す天眼通、しゅくみょうつう てん げんつう あらゆる仏たちの説法を聞き取る天耳通、あらゆる生きとし生きるものたちの心を知るて ん に つ う 他心知通、一瞬の間にあらゆる世界の何処にでも到ることのできる神足通、わが身かわいた し ん ち つ う ど こ いた じ んそくつ う さを離れて他のもののために生きる漏尽通を授けようという誓いです。単に、自分一人がろ じ ん つ う さず 苦難と苦悩から救われるのみではなく、苦悩する生きとし生きる者たちを自在に救うこと のできる智慧と力を得ることができるようにさせようと願われるのです。それでこそ、本 当に救われたといえるのが私たちであると見抜いて下さっているのです。 そしてその自ら救われ、他を救うことができるということこそ、覚りを得て仏になると

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いうことなのだと、以上の十の願をまとめあげて、第十一に、わが世界に生まれ来たもの は必ず仏の覚りを得させようという、必至滅度の願が立てられています。何故仏にならなひ っ し め つ ど ければならないのか、仏になるとはどういうことかが、ここに明確に示されています。 仏は苦悩する私たちとは、別の世界にいらっしゃるのではありません。苦悩する私たち を背負って、私たちのために立ち上がり、私たちのために生きて下さるのだということが わかります。仏が親に譬えられ、医者に譬えられる意味もうなづけます。法蔵菩薩は、自たと ら仏となり、私たちをも仏にならせたいと願われたのです。第十一願は究 極の目的を表きゅうきょく した願だといえます。 このように、どのような者も浄土に迎え取って仏に生まれ変わらせるためには、なまじ な智慧や慈悲では及ばないことは、二百十億もの仏たちにも不可能であったことで知られ ます。そこで、必ずということの裏づけとして、限りない智慧と慈悲の主とならねば不可ぬし 能であるからと、第十二には光明無量の仏となって全てを見通そうと誓い、第十三には、 寿命無量の仏となって、果たし遂げるまでは働きつづけようと誓われたのでした。この光と 明無量・寿命無量ということこそ、阿弥陀という名の意味であるのです。 ですから、阿弥陀如来という名には、あなたを仏にせずにはおかない、光明無量・寿命 無量の仏がここにいるから安心しなさいという如来の叫びが込められていたのです。さけ このように広大無辺の智慧と慈悲があっても、相手である私たちの心に届かなければ、こ う だ い む へ ん 出さないままのラブレターと同じです。私にかけてくださっている真実のありったけを、 あらゆる仏たちが讃え、人々の称える南無阿弥陀仏の声に込めて、というよりは、南無阿たた とな 弥陀仏の声になって、背き逃げる私たちの心に届けよう、心に飛び込んでゆこうというの が第十七の諸 仏 称 名の願です。母の生命力の精髄であるお乳は、赤子の血となり、肉としょぶつしょうみょう せ いずい なり、力となるために流れ出るのに譬えられます。 血となり肉となるために出たお乳なのですから、飲んでもらわなくては無になります。 飲んでも胃袋にため込んだままでは、何時ゲボッと返してしまうかわかりません。ですかい つ ら、次に、わがいのちの結晶である名号よ、一切衆生の血となれ肉となれ、光となれ力と なれ、身にあふれて念仏の声となってこぼれ出よと誓われました。これが、第十八の願で す。法 然 聖 人は選択の本願・王本願・念仏往生の誓願と呼ばれました。親 鸞 聖 人はほうねんしょうにんせいじん しんらんしょうにん これを受けて、さらに至心信楽の願・本願三心の願・往相信心の願と名づけられました。ししん しんぎ ょう ほん がんさん しん おう そうし んじん 真実の心など持ってはいないゆえに、信ずることなどしたくてもできない私と見抜いた上 で、「はい、ようこそあなたなればこそこの私に」と受ける一つの信心を与えて救おうと いう誓いです。 第二十二には、浄土に生まれさせた上は阿弥陀如来と同じ徳を得させ、娑婆に残してきえ し ゃ ば た人々のためにと、浄土に安 住する 暇 もなく迷いと苦悩の世に立ち戻っていくものにも、あんじゅう いとま もど 阿弥陀如来の徳のすべてを具えさせて消え失せることのない身にして送り出そうと誓ってう あります。還相回向の願と呼ばれます。げ ん そ う え こ う 浄土に往生して仏の覚りを得、永劫の苦難を 免 れることも、迷いのこの世に帰ってきようごう まぬが て世の人々を救うことも、全ては、背く悪人・凡夫までも揺り動かす阿弥陀如来の真実をそむ ゆ

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原動力とするのであり、私たちの思いを越えた阿弥陀如来のおはたらきであることを知る ことができます。これを曇鸞大師は他力と呼ばれたのです。「私の思いも計らいも越えて、ど んらん だ い し はか 阿弥陀様からわたくしへ、阿弥陀様が私を」ということです。また、本願力回向とも呼ば れました。子を思う母の心が子供に届いて、子供の母を慕う心となってはたらくようなもした のです。如来の真心が、私たちの信心となって生きるのです。如来の広大無辺の真実が、 私たちの励ましとなり、勇気となり、智慧となるのです。はげ ところが、「阿弥陀様がこのわたくしに」と受け取ることができず、「私の方から阿弥 陀様に、私がお浄土の方へ、一歩でも覚りの方へ」という、自己中心的な思い上がりの抜 けない人々は多く、直ちに「如来様が」と受けとめる人はまれです。それゆえに、阿弥陀ただ 如来は、第十九の願に、心から往生を願って善を行うなら命終わるときには迎え取ろうと 誘 い、第二十願には、全てを投げ捨て、ただ一筋に念仏してわが世界に生まれようとす いざな ひと すじ るなら決して見捨てぬと勧めてくださっています。慕い求めながらも我を張って 抗 う私すす した あらが たちと見抜いて、背き 抗 うままを、「南無阿弥陀仏」と抱き取ってゆこうと仰るのです。そむ あらが いだ 何という理不尽なまでの深いお慈悲でしょうか。「私は、私が」の自力の疑い心を捨てて、り ふ じ ん 「ああ、ようこそこんな私を」と、直ちに仰せを喜ぶべきです。おお

六、法蔵菩薩永劫の修行と成仏、そして安楽浄土の建立

よ う ご う こんりゅう 四十八の誓願を立て終わった法蔵菩薩は、その誓いを実現するため、永劫の修行と取りようごう 組まれました。あらゆる境 涯に生まれ変わって徳を積み、何があろうと一瞬も我欲をおきょうがい こすことなく努め励まれました。ただひとえに一切衆生に救いの光をもたらすためでした。つと そして遂に今から十劫の昔、誓願は成 就して法蔵菩薩は成仏して阿弥陀如来となられまつい じっこう じょうじゅ した。阿弥陀如来の開かれた世界は安楽とも極楽とも呼ばれ、広大無辺際であって、そこあんらく ご くらく こ う だ い む へ ん ざ い に生まれた者はいかなる者も浄化されて仏の覚りを開き、十方衆生の救済者となるのです。 この安楽浄土の徳はしばしば大海に譬えられます。一切の濁 流を抱き入れて浄化し、一だくりゅう いだ 味の海水に変える、地球最大の浄化槽であるのが大海であるからです。じ ょうかそう また、阿弥陀如来の放ちたもう智慧と慈悲の光は、誓いの通り十方の世界を 遍 く照らはな あまね しその光の種類また無量であって、すべてを見通し自在に癒し導くのです。阿弥陀如来のいや 寿命は永遠にして、神々も菩薩たちも量り知ることはできません。はか

七、十劫と十万億仏土

じゅうこう じ ゅ う ま ん の く ぶ つ ど 最初にのべましたように、ここに説かれてあることは,全体が姿 形も言葉も越えた不すがたかたち 滅の真実を、あえて姿形と言葉の上に表現してくださったものであるのですから、法蔵菩 薩の願いはもとより成 就するに間違いのない真実そのものであったわけです。じょうじゅ

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その点から考えますと、十劫の昔の成仏ということや、西方十万億仏土の彼方の極楽浄 土と示されてあることの意味もおのずから受け取れるように思います。 劫とは長い時間を表す単位で、一説には、四十里立方の大岩を、三年に一度、天人の羽 衣の裾でこすって、この大岩が磨滅してなくなるのに要する時間を一劫とするといいますすそ ま め つ から、途方もない長い時間を指すわけです。一劫の間には、我々の住むこの大宇宙が出来と ほ う さ り壊れたりを浜の真砂の数ほど繰り返さねばなりますまい。その意味からすれば、私たちま さ ご にとっては、「思いも及ばぬ昔からすでに聞けよ信ぜよと呼んでいて下さったのだ。それ なのに私は、耳を塞ぎ背を向けて逃げつづけてきたのだ。何とお恥ずかしくもったいない ことであろうか」ということになります。しかし一方阿弥陀様からすれば、願いを定め るだけにすら五劫を要し、不可思議兆載永劫の修行をを重ねた上のことですから、「喜んふ か し ぎ ち ょ う さ い よ う ご う でくれよ、ついに今し方、わたしは阿弥陀仏となった、ついに汝を救う力をそなえたの だ」ということになるでしょう。 西方十万億の仏土を過ぎたところに安楽と名づける世界があるというのはどういうこと でしょうか。西方は日の沈む所、鳥たちが帰るところです。また、三千大千世界すなわち 千の三乗倍である十億の世界に一人ずつの割合で仏陀が現れたもうということで、一仏土 とは十億の世界のこと、十万億仏土とは十億の二乗倍の世界を指します。その十億×十億 の世界を過ぎたところに安楽浄土はあると説いてあるわけです。まさしく私たちからすれ ば、想像したこともなく、考えてみようもない程に遠い所であるといわねばなりません。 ところが『阿弥陀経』には、その極楽浄土の人々は、午前中の食事の前に十万億の仏たち を供養して回られるといってあります。つまりはお浄土の阿弥陀様からすれば十万億仏土 の彼方といってもすぐ近くにすぎないということです。私たちからすれば、阿弥陀様もお 浄土も「思いも及ばぬ遠い存在」でありながら、阿弥陀様からすれば、「何時もおまえの そばにいるのだ。何もかも見ている、聞いている、わかっているのだから、何があっても 嘆いてくれるなよ」ということであったわけです。これはいわば、迷いの中にいる私と大 なげ いなる真実との関係を象徴的に表したものであると思われます。元来、極楽浄土とは覚り の世界にほかならず、覚りの世界の広大さ・尊さ・安らぎ・よろこび・気高さをイメージ 表現したものであるわけです。疑うことを永く忘れて、ほれぼれとうなづかずにおられま しょうか。

八、聞くままが信、信ずるままが往生決定

法蔵菩薩の誓願が実現して阿弥陀如来の救いの力が生きてはたらくこととなったわけで すが、その何よりの要は南無阿弥陀仏の救いということです。『仏説無量寿経』下巻の始 めに、釈尊は次のように説き示されました。「十方世界のガンジスの砂の数ほど多くの仏 たちは、みなともに阿弥陀如来の不可思議な救済力をほめたたえられる。あらゆる者は、 その仏たちのほめたたえ勧めたもう南無阿弥陀仏の名号を聞いて、信心歓喜するたちどこし ん じ ん か ん き

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ろに、阿弥陀如来のまごころが届いてきたわけであるから、かの国に生まれたいと願うま まに往生は定まり、かならず仏の覚りを得る身と確定するのである。ただし、仏法に背を 向け、反逆すること未だやまぬものは除く」 今、釈迦如来がこのように阿弥陀如来の徳を讃えたもうことも十方の如来と同様であっ て、しかもそのままが阿弥陀如来の願力のしからしめるところであるから、釈迦・諸仏の ほめ勧めたもう南無阿弥陀仏の名号は、そのままが阿弥陀如来の名乗りであり、呼び声ですす あるわけです。その名号を、このわれを呼びたもう阿弥陀如来の声と聞くことが信心であ り、信心はまた自ずから歓喜であるとお示し下さっています。 信心は、阿弥陀如来の私にかけてくださるまごころが届いたすがたですから、「如来を 信ずる私の心」ではありません。「私にまで届かずにおかなかった如来様のまごころ」と いうことです。ですから信心を「まことの心」呼んで、「信ずる心」とは言わない習わし になっています。その阿弥陀如来のまごころのありったけは南無阿弥陀仏の名号となり、 釈迦如来の勧めたまい、人の称える声となって下さっているのですから、信心の中身は南 無阿弥陀仏の名号より他はなく、南無阿弥陀仏の名号の中身は阿弥陀如来の真実心である のです。 浄土真宗においていう信心とは、私の祈る心や、願う心ではありません。間違いないと 確信する私の判断でもありません。「ああ、この私に仰って下さっていたのですね。この 私を呼んで下さる声だったのですね」と受けとめることです。阿弥陀如来の真実を釈迦如 来が、教えとして説き、南無阿弥陀仏と発信してくださったところを、我がためにようこ そと受信することです。そしてそれは、取りも直さず、人間の思惑を越えた大いなる真実 に遇うこと、大いなる真実からの呼び声を聞くことでもあります。聞くままが信心なのであ す。心の持ち方の問題ではありません。心を越えたものを聞くのです。もとより往生させ ずにはおかないという大いなる真実を聞くのですから、聞くことがそのまま、往生の定ま ることでもあるのです。 天親菩薩は自ら得た信心を、「世尊我一心せ そ ん が い っ し ん 帰命尽十方き みょう じんじ っぽう 無碍光如来む げ こ う に ょ ら い 願生安楽国」がんしょうあんらくこく と述べられました。「このみ教えを説き残してくださった釈迦如来に申しあげます。あな たの仰せを今こうむりましたこのわたくしは、あなたの仰せの通り、十方世界ことごとくおお を照らしてさまたげられることのない光である阿弥陀如来の御心のままにしたがいたてま つって、阿弥陀如来の安楽浄土に生まれさせていただくのだと喜び努めさせていただきま す」という意味です。これこそが浄土真宗の信心、他力の信心のお手本とされてきました。

九、信心にそなわる利益と報恩の称名

り や く 信心を得ることは、如来の真実に遇うことですから、そこには感動と喜び、大いなる勇 気づけと励ましがそなわります。そしてそれにとどまらず、いかにお粗末とはいえ、この 私にこそ如来は願いをかけてくださっていた。「お前が仏になって、世の光となってくれ

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よ。必ず浄土に引き入れて仏にするぞ」という阿弥陀如来の仰せであると知った上は、精 一杯に如来の願いに応えたい。またこの如来の大悲を他の人にも知ってもらいたい、伝えこた たいという念も起こってきます。その人なりの行動が生まれるはずです。これが報恩、あ るいは知恩報徳と呼ばれる利益です。ありがたや尊やと念仏することは報恩であると説かり や く れてきたのもうなづけます。そしてそこに如来の大悲を凡夫である私が行ずる、如来の救 済の業に私たちが参加させていただくという意味もそなわるのです。親鸞聖人が、天親菩わざ 薩のお言葉に沿って、「本願力に遇ひぬればそ あ 空しく過ぐるひとぞなきむな 功徳の宝海みち みちて 煩悩の濁 水へだてなし」と讃えられたのもこのことであろうと思います。ぼん のう じょくすい たた 親鸞聖人は「信心の智慧」といわれました。信心の本質は如来の智慧が届いたものだか らでしょう。「自身教人信」、自ら信じ、人にも勧めて信じさせることこそ、如来の願いすす に応え、愚かな凡夫の身のままに、一切衆生のために生きる道であるとお示し下さいましこた た。そして「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしと説きたまふ」と讃えられました。たた 如来は私たちに信心の智慧を与えて、自ら道を切り拓かせ、信心の智慧の人を世の灯火とひら と もしび して送り出してひとの世を照らして下さるのであると受け取らせて頂くのです。 現代社会の矛盾や時代のさまざまな問題を生み出したのは神でも魔物でもありません。 私たち人間の愚痴が作りだしたのです。解決してゆかなければならな のは、神でも仏で もなく、私たち自身なのではありませんか。祈ったり願ったりしていては的外れではないまとはず でしょうか。 願えども願い通りにならぬ自分があり、世の中の現実があります。しかし、ならねども ならねども、願わずにいられない、いや願われていると知る中で、「どうせ」などと足を 出すことなく、力らを尽くして倦むことのない生きかたをしたいものです。う 私たち一人一人が信心の行者になって、念仏を力に、精一杯に自らと現代の課題を背負 って生きることより他に、他力もなければ救いもなかったのです。「どうか、信心の智慧 の行者になってくれよ」、それが如来が私にかけて下さった願い、南无阿弥陀佛に込めら れた願いだったのです。 以上

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