O論説
中 国 農 村 復 興 連 合 委 員 会 の 成 立 と
そ の 大 陸 で の 活 動
(一九四八‑一九四九)山本真・・⁝
はじめに
中国農村復興連合委員会(以下︑農復会と記す)は戦後
台湾において土地改革︑農業技術改良︑農会の改組等を実
施し︑台湾農業経済の発展に大きな貢献を果たした機関で
ある︒同会はアメリカの対中国援助により一九四八年十月
に南京で成立して以来︑多くのテクノクラートを擁し︑事
実上の台湾中華民国政府(本稿では中華民国政府を総統制
度開始以降も便宜的に国民政府と呼ぶ)の農林行政の最高
指導機関の役割を果たしてきた︒その後︑一九七九年に行
政院農業発展委員会に改組︑一九八四年には経済部農業局
ハユ と合併し︑行政院農業委員会となり︑今日に至っている︒ また農復会に参加した人員も各専門の方面で著名な人物で
あった︒設立当初の農復会を指導した中国側委員には︑教
育家の蒋夢麟︑郷村建設運動の指導者曇陽初︑農業技術官
ム 僚の沈宗潮が名を連ねた︒更に︑その他の高級職員には土
地行政官僚や農業技術官僚が多く採用された︒このことか
ら農復会の台湾での事業の基礎となる人材・技術・経験は
国民政府の大陸統治時期に既に準備されており︑農復会が
これら専門人員を再編成し︑その技術と経験を台湾に移植
したと言えよう︒
このように重要な農復会であるが︑日本においては先駆
ヨ 的な研究があるものの︑その存在自体いまだ十分には知ら
れていないようである︒他方︑国外においては既に黄俊傑
氏やジョセブ・イェーガー氏を中心とする詳細な研究が行
中国農村復興 連合委員会の成立 とその大陸での活動 135
われており︑本稿でも大いに参考とするものである︒しか
し︑その実証は農復会の台湾での活動を中心にしたもので
あり︑その日中戦争期・内戦期の国民政府の政策との連続
性及び農復会の成立過程・大陸での活動に対する検討は十
る 分であるとは言えない︒このような研究状況に基づき︑筆
者は以前農復会による台湾の土地改革の政策的起源を国民
政府により大陸で実施された土地改革に求めた論文を書い
ムら たことがある︒これに引き続き本稿では︑諸先行研究の成
果を再整理し︑これに付け加える形で︑農復会の成立過程︑
初期の組織・人員を検討するとともに︑テクノクラートが
いかに農復会の政策立案に参加していったのか︑また日中
戦争期・国共内戦期から大陸で実施されていた政策がいか
に農復会に継承されていったのかに対しても検討を加えた
い︒
1曇陽初とアメリカの対中国農村援助
農復会は一九四八年に成立したアメリカの中国援助法の
農村復興条項により設立された︒この規定が中国援助法に
盛り込まれるに際しては中華平民教育促進会(以下平教会
と記す)の指導者で長年郷村建設運動に携わってきた曇陽
初の貢献が大きかった︒以下その経過を見ることとする︒ 日中戦争前は河北省定県を︑日中戦争中は重慶の付近四
川省巴県歌馬場を根拠地として郷村建設運動を続けて
ム きた︑平教会の指導者曇陽初は日中戦争の終了後︑郷村建
設運動の規模の拡大を図り︑その援助を蒋介石に求めた︒
しかし蒋は国共内戦の軍事的勝利の後に援助を与えると
ムア し︑積極的な援助を拒否した︒このような蒋の態度に失望
した曇はアメリカからの援助を獲得すべく渡米を図り︑そ
の計画を古くからの友人でもあるスチュアート駐中米国大
使に相談し︑支持をとりつけた︒このようにして援助を求
めるロビー活動に入った曇は︑スチュアート以外にもアメ
リカに多くの支持者を擁していた︒曇はイェ:ル大学の卒
業生であり︑一九二五年にハワイで開催された太平洋問題
調査会の国際会議に参加し︑中国における平民教育の重要
性を訴え︑会議参加者の注目を集めた︒これにより︑曇は
同会議に参加していたスタンフォード大学校長レイ・ライ
マン・ウィルバーの知遇を受け︑アメリカの有力者への紹
介など多大な援助を受けることとなった︒その後一九四二
ー四六年に募金獲得等のために渡米した際には最高裁判事
ウィリアム・ダグラスや作家のパール・バックと知り合
り い︑両人は曇の強力な支持者となった︒更にバックは﹃テ
ル・ザ・ピープル﹄という書物の中で︑曇の活動を広く全
ムけ 米に紹介した︒また︑ジョン・デイ・ブック社の出版人で
あったリチャード・ウオルシュの支援で一九四四年には平
i36
教会のアメリカでの支援組織として平教会米中委員会が発
ぬ 足された︒同委員会には上記の人々の他に一九四五年以降
にはジェラルド・スオープ(ジェネラルエレクトリック会
長)︑ゴードン・レンシュラi(ニューヨーク・シティー
バンク理事長)︑ヘレン・ゴーガン・ダグラス(下院議員)︑
ヘンリー・ルース(タイム編集長)︑エリノア・ルーズベ
ルト(前大統領夫人)︑デービッド・ウオレンス(リーダー
ムお ズ・ダイジェスト編集)︑が参加していた︒このように曇
はアメリカにおける支持を強固なものにしていったのであ
る︒
以上の支持基盤を背景に一九四七年四月渡米した曼は︑
スチュアートによる紹介で七月にマーシャル国務長官と会
バけ 見し︑援助を要請した︒要請内容を詳細に記した備忘録の
中で曼は︑①全国的な識字運動︑②(建設のための)中心
区の設立︑③教育を受けた農民による合作社の設立と農業
の機械化及び土地改革の促進︑④十八ヵ月以内の農民の生
活・衛生の改良及び地方自治教育等を訴えた︒またこれら
の計画の実現のためには全国平民教育及び郷村建設委員会
め を設立すべきであるとの考えを述べた︒一九四八年に入り︑
アメリカの対中援助の動きが具体化する中で︑曼は国務省
関係者や顧維鉤中国駐米大使と会見︑下院外交委員会委員
長のチャールズ・イートンともジェラルド・スオープの紹
へ 介で会見した︒また︑この時期スチュアート大使も中国へ の援助が自由主義者に希望を与えるのなら︑国民政府の改
組にも繋がり︑アメリカの援助により華中︑華南で非共産
主義政府が安定することも十分可能であるとして︑間接的
ムレ に曇の建議を支持する報告を行っていた︒
曇陽初のアメリカでのロビー活動の特徴はマスメディア
を利用した宣伝であった︒彼は支持者のマスコミ人の筆を
利用して自らの事績と援助の必要性を広くアメリカ社会に
宣伝した︒(なお︑曇陽初及び対中援助法の議会での審議
に関するアメリヵのマスコミの報道は注︿4>で挙げた呉相
湘﹃曇陽初伝﹄で大変詳しく紹介されている︒そこで︑本
稿でこれら﹃ニューヨーク・ヘラルド・トリビユーン﹄︑
﹃ニューヨーク・タイムズ﹄︑﹃ユナイテッド・ネイション
ズ・ワールド﹄等の記事史料を使用するに際しては同書の
注を参照した後︑原典に当たった上で筆者の問題関心に則
して利用したことをお断わりしておく︒)
雑誌﹃ユナイテッド・ネイションズ・ワールド﹄の一九
四八年二月号でパール・バックは前年曇が国務省に提出し
た備忘録の要旨を紹介した︒バックはここでこの計画への
援助の重要性を語り︑﹁これはアメリカ政府に中国の自由
主義者に同盟する機会を与えるものであり︑⁝⁝共産党に
ゆ 打ち勝つ唯一の計画だ﹂と訴えた︒これに加え︑曇は﹃ニ
ユーヨーク・ヘラルド・トリビユーン﹄紙の社主や主筆と
ムゆ も会談し︑自らの計画に対する理解を求めた︒その結果同
中国農村 復興連合委員 会の成 立 とその大陸での活動 137
紙は﹁中国に対する計画﹂という記事を掲載し曇の計画を
支持した︒その要旨は﹁現在の中国に対する巨額の援助の
要求はもしもそれが政府の支配地域において中国の民衆が
利益を勝ち取ることを助けるための適当な部分を含んでい
るのならばより一層魅力的なものになるだろう︒その
計画は中国における平民教育と郷村建設の実験区でこの二
十五年間曇陽初とその仲間たちによって発展されてきたも
のである︒⁝⁝もし︑平民教育運動と郷村建設運動が中国
において大規模に再開されるならば現在政府に対して極度
に批判的である中国の知識人たちもそのために働く大きな
原因が与えられるだろう︒⁝⁝中国の共産主義に反対して
いるアメリカの政治指導者は議会において平民教育運動や
経済的社会的復興に対する予算を提案するかもしれない︒
その法案は三人の中国人と二人のアメリカ人から成る委員
ムね 会に計画の采配を任せるというものである﹂であった︒
これらの宣伝の成果もあり︑このころ曇の活動はアメリ
カで相当な注意と称賛を受けていたと顧維鉤大使はその回
ぬ 顧録に記述している︒また最高裁判事ダグラスと親中国派
のジャッド下院議員は下院外交委員会の議員を招き曇の講
演会を催し︑その活動を助けた︒ジャッド以外にもヴォリ
ス等の親中国派の有力議員が所属していた下院外交委員会
お は曇のロビー活動の重点対象であったと言えよう︒
対中援助法案の審議過程に目を向けると︑アメリカ政府 は二月十八日に議会に対中援助法案を提出したが︑政府の
対中援助の基本方針は限定援助という消極的なものであ
お った︒これにも拘らず議会における中国援助法に関する審
議では︑下院外交委員会が対中経済援助のうち五〜十%を
農村の復興に使用できるとの計画を盛り込んだ法案を三月
ムム 十九日に採択した︒他方︑上院外交委員会では軍事援助を
より削減した法案が作成されたが︑﹃ニューヨーク・ヘラ
ルド・トリビユーン﹄紙は三月二十四日付の社説で﹁上院
の法案は軍事援助を削減した点で下院のものよりもすぐれ
ているものの︑下院の案にはなお維持され︑できれば強化
されるべきものがある︒それは嬰博士と中国の自由主義者
により提案された農村復興計画である﹂との見解を発表し︑バぢ下院の法案に盛り込まれた曇の計画を支持した︒この法案
は最終的に両院協議会で協議された結果︑下院の案に含ま
れていた農村復興計画(曇陽初条項と呼ばれていた)が保
持され対中援助法案第四〇七項に盛り込まれて︑一九四八
ムめ 年四月三日に成立した︒同法の四〇七項㈲は農村援助は中
国人三人︑アメリカ人二人の委員会により運営されると規
定し︑㈲ではその予算は対中経済援助総額三億三八〇〇万
ドルの十%(すなわち三三八〇万ドル)を超えないものと
されたが︑五〜六月間に行われた議会での支出法案の審議
り で二七五〇万ドルに減額された︒そして一九四八年八月五
日に駐中アメリカ大使と中国外交部長の問で農復会設立に
c38