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『おくのほそ道』における土石について(中) : 土石のある空間

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『おくのほそ道』における土石について(中) :  土石のある空間

著者 濱 森太郎

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 14

ページ 65‑73

発行年 2003‑06‑22

URL http://hdl.handle.net/10076/6592

(2)

『おくのほそ道』における土石について(中)

‑土石のある空間‑

森太郎

l

乗前

テクストから数歩下がって、単純な事実から書き始めてみよ

う。回国修行を通じてアニミズム世界に親しむ『おくのほそ道』

の主人公は、「そゞろ神」(注1)や「道祖神」(注2)に心を狂わせ、

魚鳥のむせび泣きと共に江戸深川を旅立って行く。

その主人公の感受性に即してみると、「みちのく」は名所歌枕

の宝庫である以前に、鳥獣が歌い、岩石が物言う辺境の楽土と

なり、その楽土を流浪した零落貴族や仏道修行者たちは、辺境

の楽土を潰える金玉の詩歌を詠唱していたことになる。みちの

くを旅する「予」は、その「楽土の美質」、「みちのくの風流」

を尋ねて「みちのく世界」に分け入っていく。その歩みに連れ

て「予」の目前には、どこかしら牧歌的な風俗や並外れた人間

の行実が開示される。アニミズム、楽土、牧歌的な生活、並外

れた人間の行実が見落とされたところに、これまでの注釈の不

足があ・つた。

土石のある景観

『おくのほそ道』の岩石を用例別に単離すると(注3)、格別、

信仰的な色彩を持たないものに見える。宗門、寺院、教義、教

祖といった倍仰の構成要素としての岩石の役割が見過ごされる

からである。しかし、次の6の山刀切峠の用例を除けば、1・

2は日光の裏見滝(修験者の修行場)、3・4は黒羽雲岸寺の庵

室、5は安達ケ原の鬼塚の岩石である。岩石にとって重要なこ

とは、それが置かれた位置である。

●(岩)

1.岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧渾に落たり。(日光)

2.岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりミれバ盲光)

3.松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ套岸寺)

4.石上の小庵、岩窟にむすびかけたり(雲岸寺)

5.二本松より右にきれて黒塚の岩屋一見し(安横沼)

6.水をわたり岩に断て、肌につめたき汗を凍して(山刀切峠)

●(石)

(3)

1 2.

3.

4.

5.

6.

7.

1〇. 8 11●

12.

13.

14・

15.

石上の小庵、岩窟にむすびかけたり妻岸寺)

法雲法師の石室をみるがごとし童岸寺)

殺生石ハ温泉の出る山陰にあり。(殺生石)

石の毒気いまだほろびず。(殺生石)

しのぶもぢ摺の石を尋て支字滞り石)

石半土に埋てあり(文字摺り石)

此石を試(み)侍(る)をにくみて(文字摺り石)

石の面下ざまにふしたりと云(文字摺り石)

つぼの石ぶミハ高サ六尺徐壷の牽

石ハ埋て土にかくれ、木ハ老て若木にかハれば(壷の碑)

野田の玉川、沖の石を尋ぬ(未の松山)

坐禅石など有(松島)

土石老て苔滑に釜石寺)

奇石さまざまに(那谷専)

石山の石より自し秋の風(郡谷寺)〇内は筆者の補筆。

同じく石もまた、1・2は雲岸寺の庵室、3・4は殺生石、

5・6・7・8は文字摺り観音の宝石、9・10は壷の石文、11は

「沖の石」(注4)という名の不息嶺な井戸の石、ほ・13・14は、

松島、立石寺、郡谷寺という霊場を飾る岩石である。

要するに、大方の岩石は、霊石(石345678)、碑石(石9

10)、座石となり(石ほ)、隔壁となり(石1)、石室(石2)とな

って修業生活の一部を構成する。岩石が生活の一部と成り、人

間の生計に密着している様は、みちのくを探訪する者には共通 の実感である。また松島、立石寺、那谷寺では(石は1814空、土石が重層して奇観を呈し、密教的な宗教世界の雰囲気を醸成する。鉱物として登場する岩石の用例がまず目に付くために、これまで『おくのほそ道』の岩石は、等しく無機物化して読者の日を惹くことがなかった。しかし、そこに作用する読者の僅かな錯覚が『おくのほそ道』の理解を妨げる例も無しとしない。

伝説の右

前回指摘したように、岩石に着目して『おくのほそ道』を分

析すると、その叙述は福島地方と宮城地方とに二分される。そ

してその前半部、福島地方でもっとも注目されるのは「もぢ括

り石」(福島市山口)探訪の一節である。

「もぢ摺り石」訪問の前日、予は、須賀川から日和田まで五

里歩き、日和田郊外の安穏沼で「花がつみ」を探索する。しか

し目的を果たさずに日暮れを迎えて、名残惜しげに福島まで歩

き出す。お陰で福島到着は真夜中になり、翌日は昨夜の疲労を

引きずったまま、福島郊外の「もぢ摺り石」を訪問する(注5)。

ところが、昨日来の難行苦行にも関わらず、「文字摺り石」は

半ばが土に埋もれ、「石の面」が下ざまに転覆している。

しかもその荒廃の原因は「往束の人の蓼草をあらして、比石

を試侍をにく」んだ里人が「此谷につき落」した結呆だという。

ここに言う「もぢ摺り石」は、、岡山村宇山口(いま福島市に属

す)にある文字摺観音堂の霊石で、福島絹の染色作業に用いる

(4)

石と侍へられる(注6)。「みちのくのしのぶもぢずり誰故に軋 れむと息ふ我ならなくにJ(古今集、河原左大臣源融)や「陸奥の

忍ぶもぢずりしのぴつ1色にはいでじ乱れもぞする」(千載集、

寂然法師)など、恋の記念碑として名高い。

しかし、ここ福島まで足を運ぶと、宮廷由来の恋歌の文脈で

理解すべき「文字摺り石」のコンテキストが、他ならぬ当事者

連の手で破壊され、文字摺り石がただの石として露出している。

予は自然に、この霊石を突き落とした里人の生活感情に向かっ

て想像力を働かせる。

発句「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の初案は、「五月乙女にしかた望んしのぶ摺」(俳諸事留)とある。見目麗しい乙女達が

住まう恋の里という薄っぺらな幻想が剥落した後に、改めて目

の前を眺めれば、田植えにいそしむ「早乙女」たちの初々しい

手つきが見える。その手つきは、かつて「しのぶ播」の染色作

業に従事したのと同じ手つきに相違ない。ここ福島では、荒廃

し転倒した「文字摺り石」が、予が清新な「みちのくの風流」

を発見する契機として用意されている。

一方、「みちのくの風流」を探索する予が仙台領に入ると、そ

こでは「みちのく」のルーツにあたる独立自尊の精神を記念す

る遺跡が次々に出現する。仙台市街を名所歌枕のテーマパーク

と心得る画工加右衛門、仙台藩の殖産興業策で蘇った「十符の

すがごも」。盲目の竜琶法師が語る「奥浄瑠璃」、泉三郎が寄進

した塩竃明神の宝燈、一度は転倒し、ただの石に返っていた「 壷の碑」は、四方の国境からの距離を刻むことで、立国の拠点を語り継ぐ記念碑としで再生している。

つぼの石ぶミハ高サ六尺徐、横三尺斗欺、育を穿て

文字幽也。四経国界之敷里をしるす。(中略)「天平資字六

年、参議東海東山節度使同格軍書美朝臣(朝)鴻修造而、

ついたちしょ・ワむこうていおんとき

あた

ここ十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に嘗れり。(中略)愛に

至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。

(朝)

は脱字を補ったもの。以下同じ(注7)ここに育っ「苔を穿て」は、予が碑文を読むべく優って石版

の苔を剥すさま。「四経国界之敷里」は、周囲の国々の国境から

多賀城までの距離を意味する。この石碑には「去京一千五百里。

去蝦夷国界一百廿里。去常陸国界四百十二里」などと刻字され

ている。「古人の心を閲す」は、碑文を作ることで偉人の功績を

後世に残そうとした古人の情熱を目の当たりにして、深く納得

するさまを言う。

要するに、ここ仙台領では、予はこれらの霊石や碑石を通じ

て、岩石が古人の意志の半永久的な表示装置であること、その

表示装置からリジエンドを誕生させる意志が他ならぬ「みちの

くの美風」であることを検分する立場に立つのである。

記録する石ところで、元禄社会の実生活の場で奇岩怪石のリジエンドを

記録することが歓迎されるとは限らない。明暦三年二月の京都

(5)

の町触れには、門徒・山伏・行人を標的とした次のような警告

がある。

飛神、魔法、奇異、妖怪等之邪説、新義之秘事、門徒

又者山伏・行人等に不レ限V神仏に事を寄、人民を妖惑し上しサワはうなん

なる

べさもうし

ぶん

するものの類、又は諸宗共に法難二可二成申一分、与

力同心仕之族、代々御制禁之条、新義之沙汰にあら

ざる段、可レ存レ弁二共旨‑事。

とかく「飛神、魔法、奇異、妖怪等之邪説」を吹聴する「門

徒・山伏・行人」の言動を抑制しようとする町奉行の禁令であ

る。「神仏に事を寄、人民を妖惑する」言動を禁止することは、

「代々御制禁之条、新義之沙汰にあらざる段」だったことが分

かる。では『おくのほそ道』に記載された奇岩怪象の伝説は「

飛神、魔法、奇異、妖怪等之邪説」に抵触しないだろうか。

もとより多分に窓意的な元禄の司法事情を考慮すると、その

心配は無しとしないが、少なくとも文学世界に流布した著名な

伝説を掘り下げて、実際の伝承の世界に降り立たなければ、「予」

の表現は類型化し、新しい時代の感情を汲み上げる容器とはな

りがたい。ことに小鳥が歌い、.岩石が物言う「みちのく」

の美

質を費えるには、ニ常にその生活実感を据り下げ、感得した詩情

を直に言語化する感受性の開発が欠かせない。つまるところ「

詩人の使命とは日常語から、その時点の日常を超えた、生活感

情をくみ取ることのできる言葉を発見することにあるといって よい。」のである(『人間に関する断章』中村稔78頁)

同じく主人公が松島湾を旅して、その奇岩怪石に目を見張り、

「虞ルあり、抱ルあり。児孫愛すがごとし。j(松島)、「ちはや

振神のむかし大山すみのなせるわざにや。」(松皇と感嘆する言

葉の真には、次の通り、奇岩怪松の中に生きて働く自然神を感

得する牧歌的な自然感覚が窺われる。

しまじ重

か†

つく

モぱだつ

てん

ゆぴさし

なみ

嶋々の数を尽して、歓ものは天を指、ふすものは波

に葡萄。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわ

かれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すが

ちゆうりやくそのけしさようせんぴじんかんばせ上そおごとし。(中略)其景色曹然として美人の顔を粧ふ。

ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。

造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。

(『おくのほそ道』松島)

さらに松島で作られながら『おくのほそ道』からは除外され

た「島々や千々に砕きて夏の海」(蕉翁全伝付録)という芭蕉の

句には、海という自然の波動が島々を千々に砕いて奇観を生成‥

する様を直感した予の感受性が直裁に語られている(注9)。

そしてその直感力に富んだ予は、伊達額の終点「平泉」に至

って始めて、「五月雨の降のこしてや光堂」(奥の細道)と光堂

を回避して降る五月雨の自然力を力強く詠唱する。

かね

みみカどろかにどうかいち圭フさようどうさんしょう

ぞう

兼て耳賛したる二堂開帳す。経堂は三終の像を

ひかサどうさんだいひつぎ

おさ

さんぞんほとけあんちのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の彿を安置す。

(6)

しちほうちり

たま

とびらかぜこがねはしらモうせつ

くち

七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ金の柱霜雪に朽

ナでにたいはいくうきよくさむら

なる

しめんあらたかこみて、既額廃空虚の叢と成べきを、四面新に国て、

蕾を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

さみだれ

ふり

・ひかりどう五月雨の降のこしてや光堂(『おくのほそ道』平泉)あたかも光堂にさや堂を被せて金箔の剥落を予防する里人の

意を汲むように、「五月雨」が「光堂」を「降のこして」降る。

予は感嘆の声と共に、天来の自然力が支配する五月雨の空を眺

めている。

自然を自然として取り扱うことが物理的な知性なら、自然力

で形成された奇岩怪石のオーラを解き明かす力は文化的な知恵

である。奇岩怪石のオーラを借りて記念すべき事跡を永遠に記

憶する文字社会では、こうした文化的な知恵や知性が人々の記

憶の中に刷り込まれる。そしてその刷り込みを得ることで、読

者もまた『おくのほそ道』の中に新しいコンテクストを見付け

出すことが出来るよう宜なる。.

その主人公に「日月行道の雲間に入る」に似た荘厳な自然の

ダイナミズムと、積雪の下でも春を忘れぬ「遅ざくらの花の心」、

つまりは、自然の摂理が生み出す天来の「形成力」(注10)を検分する機会が与えられるには、羽夢二山巡礼を待たなければ

ならない。

立石寺の役割

さて、仙台額の岩手山から東北山脈を踏破した予が、羽黒三

山巡礼を済ませて酒田・象潟に立ち寄る行程は、羽黒三山への

「入山」「出山」の過程と理解する必要がある。みちのく巡礼を

続ける予の意図から亭えば「本願の時」、作品構成上で亭えば、

起(江戸〜芦野)・承(白河〜平泉)・転(岩出〜象潟)・結(酒

田〜大垣)の「転」に位置する。当然、ここは山峡の険阻、危

険な行絡、足取りの難渋、到着地の風光、到着後の感銘、費や

された叙述の分量を勘案しても、物語上の山場に位置する。

鳴子温泉から山刀切峠に至る山道を身も縮む患いで踏破した

予ら一行は、尾花沢で羽黒巡礼を一時中断して、山寺まで迂回

する。その迂回の距離は、「七里ばかり」と記録されている。だ

が、夕刻を迎えて只でさえ落ち着かない予には、さらに立石寺

の仏閣を巡回する行程が待ちかまえている。夕刻、急峻な立石

寺の参道を巡礼する予が項上に向かつて進に連れて、「松柏年旧

(り)土石老て育滑(か)に」広がる幽幻な光景が出現する。で

はなぜ、立石寺登山時に、土石、岩石は「土石老て苔滑(か)」

な生命体として登場するのか。

ヤまがたりょうりゆうしやくじいうや士でらじかくだいしかいさ山形額に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基に

して、殊(に)清閑の地也。一見すべきよし、人々の

上り

おばなぎわ

かえ

そのかんしちりすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間、七里

ばかり也。日いまだ暮ず。

(7)

ふもと

ぼう

やど

おさ

さんじ手フ

どう

いわ

いわお雫の坊に宿かり置て、・山上の堂にのぼる。岩に巌

を重て山とし、松柏年旧(り)土石老て苔滑に、

岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩

を這て仏閣を拝し、佳景寂実として心すみ行のみお

ぼゆ。

閑さや岩にしみ入蝉の声(『おくのほそ道』立石寺)ここに言う「立石寺といふ山寺」は、立石寺という名の山中

の寺の意で、正式には、天台宗宝珠山立石寺という。

この岩山に霊験を感得して瀾山した「慈覚大師」は釈円仁。

性は壬生氏。下野の国、都賀郡の人、延暦十三年生まれ。東大

寺にて具足戒を受け、承和.五年に藤原常嗣に従って入唐し、同

十四年に帰朝。仁寿四年四月に比叡山の座主に就任する。すな

わちここは、天台座主が巡礼して開山した寺である。

「殊(に)清閑の地也」は」殊更に清浄で閑寂な土地柄であ

ること。山中に造営した仏閣の貯まいが聖域らしい清浄な雰囲

気を備えていることを強調した口調である。

「尾花沢よりとつて返し」とある通り、立石寺行きは、尾花

沢・大石田・羽黒山・酒田・象潟という予の予定の行路からは

逆路に当たる。尾花沢での休養により、予の気力に幾分の余裕

が生じたことを示唆する。

「其間、七里ばかり也。」は、尾花沢から立石寺までの行程が

七里少々であること。曾良の『随行日記』によると、この間の 距離は、七・五里。また尾花沢・館岡間(三里)は、鈴木清風差し廻しの馬を用いた。「ばかり」は、その七里⊥二十八血)の行い程が予想外に短く感じられるさまを表す。

「日いまだ暮ず」は、日が暮れ残る意。鈴木清風さしまわし

の馬を用いた松尾芭蕉は、尾花沢を「辰の中刻」手前十時男に

出発し、「未の下刻」牢後tニ時讐に山寺に到着した。しかし、山

寺の麓まで歩行した主人公は、日没間際に山麓に到着したこと

にされている。ここでは.「いまだ」は、当日の山寺到着時刻が、

懸念される日没に近付くことを示唆している。

・耳にふれていまだめに見ぬさかひ

・黒髪山は轟か〜りて、雪いまだ自し。

・石の毒気いまだほろびず。

以上『おくのほそ道』の「いまだ」(注11)は、いずれも懸念

される事態を示唆して、その懸念が解消されない状態であるこ

とを言い表す。予は、日没を控えて、時刻の推移を気遣いつつ、

麓から頂上の奥の院まで登坂路を急ぐのである。山寺到着とと

もに宿舎を確保し、つつがなく仏閣を巡礼して投宿するために

は、山頂の本堂に急ぎ登坂する必要があった。立石寺の麓から

山頂本堂までの参拝時間は往復で、約二時間を要する。松尾芭

蕉が実際に登山した新暦七月十三日の日没は午後六時三〇分前

後になるため、「日いまだ暮ず」とは、午後五時半頃と推定され

「岩に巌を重て山とし」は、巨岩怪石が重畳して山を成すさま る。

(8)

を言う。岩石重畳する峻厳な山寺に登坂するに連れて、次第に

日没が近付き、地形の急峻さがいや増すのである。

「松柏年旧(り)、土石老て」は、参道の松、柏が年輪を重ね、

地面の土石が年老いて見えるさまを言う。参道の左右に茂る千

古の樹木、風化した磨崖仏、摩滅した参道の敷石の幽遠な停ま

いが夕闇と共に視界に迫り上がってくる。

「岩上の院々、扉を閉て物の音きこえず」は、石山の各所に

建立された仏閣が門を閉じて深閑とするさま。頂上に向かう参

道の左右に建立された堂塔の扉の前に立って、人の気配を窺う

が、いずれの堂塔も門扉を閉じて深閑としている。折から日没

を迎えて急峻な参道には、参拝客の往来が途絶えている。「岸を

めぐり岩を這て」足を運ぶと、急峻な参道に夕闇が迫り、いっ

そう足下が危うくなる。

「佳景寂実として心すみ行のみおぼゆ。」は、「法華教ノ方便

品l「寂莫トシテ無二人ノ声こ亭菰抄)とあり、墨絵のような佳景

が粛々と広がる中、山寺の佳景に包まれて心が浄化するさまを

言う。

発句「閑さや」は、山寺の深閑とした停まいに浄化された蝉

の宰が寂実の気配を運ぶさまを言・つ。初案では「山寺や」(r俳諸

事留』曾良)。後に「さびしさや」(r初蝉・泊船集h)、「閑さや」と修

正されている。

「岩にしみ入(る)」は、風化し苔むした岩肌に蝉の声が浸潤

しているさま。初案は「石にしみつく」(F俳請書留】甘良)、後に「 岩にしみ込む」(r初蝉・拍船集】)、「岩にしみ入(る)」と修正されている。「岩にしみ入(る)」は、夕闇に漂う静寂の隙間から湊出する一条の絃音のように、蝉の声が岩肌を浸すさま。日没と共に鳴きしずまる鳥虫の声声。最後に消え残る有るか無きかの蝉の声。その時、岩山の蝉の声は、付近の静寂と溶融し混合して、「音」そのものとなる。つまるところあらゆる鳴き声は音そのものに還って行く。丁度、すべての生命が土に帰るように。「ただすべてが混じり合い、入れ替わるだけのこと。人はそれを『自然』と呼ぶご二;ンペドクレス)のである。

六装置としての景観、アイテムとしての土石

主人公たちが立石寺に辿り着いた時刻は、「日いまだ暮ず」

午後五時半頃)と脚色されている。早速「雫の坊に宿かり置て、

山上の堂にのぽ」り始めると、たちまち午後六時になる。山上

に到着する頃には、参道は夕闇に包まれる。

特に「土石老て苔滑に、岩上の院々、扉を閉て物の音きこえ

ず。」からは、主人公の視線が足下の土石の表情から眼上の院々

の件まいに向かって這うように移動する様子が偲ばれる。迫り

くる夕闇に追われるように、主人公は足下を気遣いつつ急峻な

坂道を往復する。その際の危うげな千鳥足、ふらつく庇っ放り

腰の可笑しさは、「岩を這て仏閣を拝し」に現れている。

だが、その遅々たる歩みに連れて、参道の松、柏が年輪を増

し、地面の土石が年老いてゆく光景は、夕闇の到来に助けられ

(9)

て厳粛さを増す。「岩に巌を重て山と」する重厚なロケーション、

松柏年旧(り)土石老て育滑」な幽明の境から「岩上の院々」

が「扉を閉」じて深閑とするさまを見ると、神霊に加護された

密教世界ならではの荘厳さが見えてくる。参道の両側に茂る松

柏の巨木や半ば風化した仏像が彫刻された参道の巨岩もまた、

この荘厳さを生み出すためのアイテムである。そしてその

「寂

莫再生装置」が効果的に働くときが、他ならぬ黄昏時である。

予は、見事、岩山に仏閣を建立した開祖達の目論みにはまっ

て「みちのくの美質」を実感したことになる。どこかに純朴さ

を残した老人の予が、殊勝にも「心すみ行」く気分に浸るとこ

ろに、立石寺参詣の巧まざるユーモアがある。

アニミズム世界に親しむ『おくのほそ道』の主人公にとつて、

「みちのく」は鳥獣が歌い、岩石が物言う辺境の楽土である。

その辺境の楽土を煮える金玉のパストラルを追慕する予は、そ

れらゆかりの名所旧跡を尋ねることで、みちのくの自然力を充

填し、楽土の醍醐味を満喫している。

ここで肝心なことは、予の心を楽土の醍醐味に向かって方向

付ける景観の形成力である。この形成力龍従って精神が収赦す

る時に、修行者の身体には「聖.なる力」が蓄積される。無力な

放浪者や巡礼者が「聖人」として人間の運命を先導するのは、

彼らが等しく「聖なる力」に導かれるからである。そのとき私

たちは、放浪する行人や巡礼者が回国修行を通じて弱者のしが

らみを超えるさまを見ることができる。それは私たちがこの世 界を更新するための「創造的な新秩序の発生」(エリック・ホツファー自伝、作品社、67貢)に立ち会うことを意味する。注1、そぞろ神の

「そぞろ」はそわそわと落ち着かない気持ち。「そぞろ

神」は芭蕉の造語か。そわそわと落ち着かない気持ちにさせる神の意。

注2、道祖神は別名、サイの神。村里の境界を守る神の意。代表格は『古

事記』に登場するサルタヒコの尊。『古事記』のサルタヒコの道案内

の場面は「答白。僕者園神。名猿田毘古神也。所以出居者。聞天神御

子天降坐故。仕奉御前而。参向之侍。」と書かれている。猿田彦の神

は後に道祖神と呼ばれ、道路の安全を守る神、村の境界を守る神とし

て、村の辻や橋のたもとに集られる土俗的な神となった。

尾形幼者『おくのほそ道注釈』によると「その神像は多く男・女相

擁した形をとる。そうしたr下品」の神(『源平盛衰記』「笠島道祖神

事」)を持ち出したところに、俳譜の隠微な笑いがある」(26貢)と

いう。

注3、地名など、実態が土、石、岩でないものは紙幅の都合で省略した。

注4、「沖の石Jは『施行日記』によれば「未の松山」にある奇石が連な

る池で、「典井」という。

注5、曾良の『随行日記』によると、旧暦5月1日の福島到着は「日未少

し残る」とある。実際の行程では、芭蕉と曾艮とは日没前に福島に到

着している。しかし『奥の細道』では安横河探索で時を費やし、真夜

中に有島に到着する運びになっている。

注6、『奥の細道菅菰抄』に「情夫郡に大なる石二つあり。其面平にして、

(10)

挨のやうなる紋あり。それに藍にてすれる布を、むかし年貢に奉りけ

り。」とある。

注7、引用は原則として素龍本『おくのほそ道』による。(朝)は本文の

脱字を補ったもの。

注8、東山道は、近江・美濃・借濃・上野・下野・陸奥・出羽を通過する

街道。

注9、ただし作品構成上の理由から、松島で自然のダイナミズムを開示す

ることを不適当と見る芭蕉によっt、この句は削除されることになる。

この旬をr島々や千々に砕けて夏の海」(蕉翁文集)と伝えるテキスト

もあるが、編者の杜撰である。

注10、ここに言う形成力については、神話学の次の発言を踏まえている。

壷なるものは実有に充ちており.、聖なる力は実在と永遠性と形成カ

とを同時に意味している」(M.エリアーヂ『聖と俗』一九五七年、

風間敏夫訳)。

江11、『奥の細道』のrいまだJの用例は、この4例に限られる。

[はまもりたろう本学教邑

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使用済自動車に搭載されているエアコンディショナーに冷媒としてフロン類が含まれている かどうかを確認する次の体制を記入してください。 (1又は2に○印をつけてください。 )

砂質土に分類して表したものである 。粘性土、砂質土 とも両者の間にはよい相関があることが読みとれる。一 次式による回帰分析を行い,相関係数 R2

 戦後考古学は反省的に考えることがなく、ある枠組みを重視している。旧石 器・縄紋・弥生・古墳という枠組みが確立するのは

それ以外に花崗岩、これは火山系の岩石ですの で硬い石です。アラバスタは、石屋さんで通称