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スペイン内戦とモロッコ (上)

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スペイン内戦とモロッコ

(上)

深澤 安博

はじめに  本稿の射程

1.モロッコでの反乱派支配の確立 Ll.内戦前までのスペイン保護領モロッコ L2.反乱の開始

1.3.タンジャの「中立」と海峡を渡るモロッコ軍 1.4.モロッコ民族主義者への誘い

L5.フランス領モロッコ

Il.反乱派・フランコ政権のモロッコ統治 2.Lスペインで闘うモロッコ人

2.2.新ハリーファ国家?あるいはモロッコ人のための国家

(以上本号)

(以下次号および次々号)

23.監視と抵抗

2.4.フランス植民地主義「批判」

2.5.「モロッコのローレンス」とイスラームの友フランコ 2.6.タンジャでの対決

2.7.モロッコをめぐる仏・独・伊・英の牽制 llLモロッコ民族主義者の対応と論理

3.1.反乱派支持の論理

3.2.民族改革党(PRN)とモロッコ統一党(PUM)

3.3.利用と警戒

3,4.フランス領民族主義者との連帯と分裂 35.汎アラブ主義

lV.植民地体制の呪縛と共和国の「巻き返し」

4.1.共和国によるモロッコ人への訴え 4.2.植民地体制の呪縛

4.3.モロッコでの反撃の企図と共和国派の活動 4.4.アブド・アルカリームの威信と脅怖 内戦の終了  結語と展望

はじめに  本稿の射程

20世紀初頭からスペイン国家は,「帝国復活」を目指して,ジブラルタル海峡の向こう側に 植民地を確保・拡大してモロッコ人を支配しようとするモロッコ戦争を始めた。1912年のフ

ランスとの条約で,モロッコ北部がスペインの保護領とされた。この前後から,スペインの

『人文学科論集』33,pp.43−66.      ⑥2000茨城大学人文学部(人文学部紀要)

(2)

政治・社会は,モロッコ戦争にほぼ継続的に翻弄され左右され続けることになる。「アブド・

アルカリームの反乱」とリブ共和国が壊滅させられ,モロッコの「平定」が成った1927年の 後でも,モロッコ支配は軍の存在意義でもあった。「平定」行動によって軍部は,モロッコで 外人部隊の他に「原住民正規軍部隊」(Fuerzas Regulares Indfnas.あえてこのように訳す。通 称レグラーレス)を与えられた。モロッコ戦争・モロッコ統治に関わった軍人一アフリカ派 軍人が軍内で有力となり,軍の政治的機能・役割を増大させた。1936年7月の反乱の首謀者 たちの多くはアフリカ派である。1)

軍人たちの反乱→スペイン内戦の発生は,モロッコ統治の問題を直接の契機としていたの ではない。しかし,スペイン内戦の軍事的・政治的・国際的・精神的内容は,モロッコ植民 地の存在をやはり浮かび上がらせることになった。それは次の諸点である。

まず,反乱の拠点として,また兵力動員の拠点として,内戦初期にモロッコ植民地がもっ た軍事面での決定的重要性。次に,モロッコ植民地が内戦中の両派にいかに利用されたのか,

あるいは,両派ないし一方の側をいかに呪縛していたのか。さらに,メトロポリの内戦の際 のモロッコ民族主義者の対応とその論理。最後に,スペイン内戦に関わったヨーロッパ諸国,

とくにモロッコ植民地を分有するフランスの対応は,メトロポリから見るのでなくモロッコ 植民地から見るとどのように理解されるのか。

以上の点が本稿で明らかにしたいこと=本稿の射程である。この射程から,本稿は,スペ イン内戦が「ファシズムの時代」の内戦だっただけでなく,植民地体制の時代のメトロポリ の内戦だったことを明らかにするはずである。

統治行政の地域別では,モロッコは,スペイン保護領,フランス保護領,「国際管理地区」

タンジャ,「スペインの主権地域」セウタとメリーリャにほぼ分かれる。上掲の諸点の解明を 目的とする本稿は,スペイン保護領を中心的対象としている。イフニ,サハラ(リオ・デ・

オロ),赤道ギニアとその周辺のスペイン領アフリカ植民地については若干の言及にとどめ

る。

「スペイン内戦と植民地モロッコ」をテーマとする総合的研究・著作はまだない。それで も,大量のモロッコ人が兵士としてイベリア半島に動員されたことが関心と衝撃を呼び,こ の点や反乱派・フランコ政権のモロッコ統治政策についていくつかの個別研究がかなり前か

ら存在する。2)

1.モロッコでの反乱派支配の確立

Ll.内戦前までのスペイン保護領モロッコ

スペインの公的統計によると,1930年代後半のスペイン領モロッコの全人口は99万2千人 である。このうち,ムスリム91万4千人,スペイン人6万2千人,ユダヤ人1万4千人と

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「スペイン内戦とモロッコ(上)」      45

なっている。ムスリムとされた人のうち,ベルベル系人とアラブ系人の区分は難しいが,べ ルベル系が約80%という数字がある。都市部と農村部は行政上でも区分されている(後述)

が,それは人口構成にも明確に表れている。ムスリムの88%は農村部居住だが,スペイン人 の90%,ユダヤ人の99%は都市部居住である。たとえば,高等弁務官庁がある中心都市テ

トゥワンでは,ムスリム3万人,スペイン人1万3千人,ユダヤ人6千人だが(以上,実際 より少ない数字),中東部のリブの農村地域では,ムスリム14万3千人,スペイン人6,800 人,ユダヤ人400人である。セウタの人口は4万5千人,メリーリャの人口は6万人(両地域 合わせて13万人という数字もある)で,両者の90%はスペイン人である。以上には,後述の スペイン人軍人・兵員は含まれない。タンジャの人口統計はないようで,しかも諸文献に現 れる人口概数には大きな差異がある(市内区の他に周辺区を入れた場合の差か)。っまり,人 口総数  最大18万/最小6万6千(以下同),このうち,ムスリム  10万/3万8千,ヨー ロッパ人  6万5千(うちスペイン人3万)/1万4千,ユダヤ人  1万5千/1万4千で ある。以上から,本稿が主に検討するモロッコの人口対象は120万〜130万人と見てよい。3)

1912年の仏西条約で,フランス領ラバトに居住する「モロッコ帝国の主権者」アラウイ王 朝のスルタン(内戦時はムハッマド・ユーセブ)の委任を受け,テトゥワンに居住するハリー ファ(=カリフ。内戦時はムーレイ・ハッサン)がスペイン領を統治するものとされた。スペ イン領の行政は,ハリーファ行政組織とスペイン当局行政組織の二重の体系の下にあった。

ハリーファの下の中央行政組織には,首相(Gran Visir)のほか,司法・関税・国有財産管理 の各担当官がいた。各地域では,都市部ではパシャ,農村部では各部族(部族連合の場合も あった)のカイードが行政権のみならず司法・警察権をも有していた。しかし,スルタン(ス ペイン領では被委任者ハリーファ)の支配の及ばない地域(Balad al−Siba.スルタン非支配地 域)も多かった。スペイン行政当局のトップはスペイン政府任命の高等弁務官である。上掲 の1912年の条約で,「スペインの勢力範囲[スペイン領モロッコ]におけるモロッコ当局の諸 行為は,高等弁務官とその官吏によって管理される」とされたから,実際には高等弁務官が スペイン領モロッコの「主権者」,最高権力者だった。高等弁務官庁のなかでもっとも重要な 部局は原住民部である。原住民部の下に,5地域(西部,イエバラ,ゴマラ,リブ,東部)の 各監督官から,各部族対象の地方監督官までの行政・治安管理組織があった。これらの監督 官が,中央行政組織からパシャ,カイードまでのハリーファ行政組織をまさに監督・管理し ていた。スペイン政府のなかで植民地行政を担当していたのは,総理府のモロッコ・植民地 総局である。「原住民」一モロッコ人統治の点で指摘されるべきことは,「アブド・アルカ リームの反乱」鎮圧以降,カイードとパシャの大多数は,この「平定」期間中にスペイン軍 側についたモロッコ人=「友好モーロ人」moros amigosから成ったことである。さらにスペ

イン軍人たちは,農村部を中心に広く友好モーロ人の形成に努めた。友好モーロ人は,部族 住民の動向をスペイン行政当局に知らせたり,スペイン支配を受容する状況を住民の間につ くったり,レグラーレスやカイードの私兵(harkas)の徴募をして,スペイン当局から報酬を

(4)

得た。4)

31年4月の第2共和政の成立は,セウタとメリーリャのスペイン人の多くによって祝われ た(同年6月の憲法制定議会選挙では,それぞれ急進社会党,スペイン社会主義労働者党

(PSOE)の議員が当選)。共和政のもとでは軍隊改革によって駐屯スペイン人兵力は漸減した が,モロッコ統治のあり方はそれ以前とあまり変わらなかった。むしろ,モロッコ人統治を 強化する動きが見られた(部族間での移動の規制など)。いわんや諸改革がモロッコに適用さ れることはなかった。首相アサーニャは,モロッコに関する国際的取り決めを遵守し,スペ インがモロッコを放棄することはないと内外に言明した。5)36年2月選挙では,セウタでもメ

リーリャでも人民戦線派が勝利した(それぞれPSOE,共和主義同盟の議員が当選)。人民戦 線政府のもとでもモロッコ統治に大きな変化はない。モロッコ人に関しては,同年4月14日 の共和政記念日に,「政治・社会犯」への恩赦が出されたことくらいである。それでも,後出 のアブド・アルハリク・トレスらのモロッコ民族主義者たちが新政府に若干の期待をかけ,

要求運動を強めた。6月末に,スペイン政府と,同月に成立したフランス人民戦線政府との タンジャおよび北アフリカ・西アフリカに関する会談がおこなわれたが,両国植民地間の境 界や両国の利害調整が主要課題で,モロッコなど植民地統治の改変は全く問題とならなかっ た。他方,イベリア半島での人民戦線政府成立がセウタ,メリーリャ,タンジャのスペイン 人労働者にも解放感を与え,これらの地域で労働者総同盟(UGT)・全国労働連合(CNT)も絡 んだストライキや示威行動が頻発した。高等弁務官に近い立場のテトゥワンのスペイン語日 刊紙『アフリカ新報』Gαc磁464加cαは,モロッコではとくに「原住民」がたやすく影響さ れるので,政府は労使紛争を早急に解決すべきだと主張していた。6)

内戦直前の在モロッコ兵力については,スペイン兵1万6千〜2万5千人,レグラーレス 9千〜1万2千人,外人部隊(といってもほとんどスペイン兵)5〜9千人の諸数字がある。

これは全スペイン陸軍兵力の20〜27%にあたる。さらに以上の他に,ハリーファ軍(Mehallas)

とハリーファ武装警察隊(Mejasnfas)計7〜8千人が存在していた。7)

L2.反乱の開始

1936年7月17日,メリーリャ,セウタが,ついでテトゥワンが反乱軍人たちによって占拠 された。翌18日,スペイン領の主要地は反乱者たちの支配するところとなった。彼らは,高 等弁務官(暫定)や政府(以下,共和国と呼ぶ)支持の軍人たちを逮捕し,後に銃殺した。軍 人以外の共和国支持者たちの抵抗もあったが,簡単に打破された。19日にテトゥワンにやっ て来たフランコは,自ら高等弁務官を名乗った。8)

反乱軍人たちがモロッコでほぼ即時・全面的に成功したのは何故だろうか。まず,既述の ように高比重の在モロッコ兵力のほとんどを確保し,使用できたことがある。各地の制圧に はすでにレグラーレス,外人部隊が動員されている。次に,ハリーファ当局を巻き込んだこ とである。テトゥワンに着いたフランコは,まずハリーファを訪問した。この時ハリーファ

(5)

「スペイン内戦とモロッコ(上)」       47

は,「あなた方の大義への我々の支持」を語ったという(侍従によれば,反乱派のモロッコ制 圧の前に,このように言うしかなかった)。しかし,スルタンの被委任者たるハリーファは,

反乱派の要請・誘い・へつらいにもかかわらず,36年末まで公的には「義務的な中立」の立 場を変えなかった。業を煮やした反乱派当局は,7月下旬,ハリーファが反乱派を支持して

いるように宣伝するよう各監督官に命じた。また,9月中旬には西部地方,10月下旬〜ll月 上旬には中部・東部地方にハリーファを高等弁務官と並んで巡幸させ,ハリーファと反乱派 の友好関係をモロッコ人に見せっけようとした(また,反乱派がハリーファを監禁し支持を 強要しているというタンジャなどでの宣伝に対抗しようとした)。反乱派が当初から引き入れ たのは,ハリーファ当局首相のガンミアである。7月18日,テトゥワンのレグラーレス駐屯 所が共和国軍機によって爆撃され,スペイン人の他にll人のモロッコ人の死者が出た。これ は,兵士以外のモロッコ人がスペイン人たちの戦争を目のあたりにし,それに巻き込まれた ほぼ初のことだった。テトゥワンのモロッコ人たちの動揺を抑え,反乱軍人たちに従うよう 示唆したのはガンミアだった。翌19日,フランコとガンミアは並び立って演説し,フランコ は後者にスペインの最高軍事勲章を授けた。その後もガンミアは,ラジオ・セビーリャ(北 アフリカ地域向けの反乱派放送の拠点)でモロッコ人だけでなくアルジェリア人,チュニジ ア人にも反乱派支持を呼びかけたり(9月10日。もちろんアラビア語で),コルドバでの「民 族の日」の祝典でも,モロッコ人が反乱派スペインを支持していることを世界に訴えると演 説した(10月12日)。さらに反乱派は,煮え切らないハリーファの代わりとして,ハリーファ の弟のアラウイ王朝王子の支持も誇示した。9)

さらに反乱軍人たちは,都市部以外ではカイードの協力をとりつけようとした。このため に友好モーロ人網が活用された。早くも7月19日(あるいは20日),リブの有力友好モーロ人 のカイード,スリマン・バッタービーが周辺カイードやモロッコ人たちを集め,反乱への支 持と参加を訴えた。バッタービーの呼びかけは言う  「神の栄光のために!神におわしま す権能と権力のために!手腕にも魂にも心にも恵まれた栄光ある英雄フランコ将軍のため に!_あなた[フランコ]とともに行かんとする我々は,あなたたちの抑圧者が逃れるために

曾      ●      o      ●      o

はスペインの土地を一片たりとも与えないだろう。我々の側には神の支配があり,我々は圧 制の悪をとり除かんとするのだ♂_」([]内と傍点は引用者。以下同)。この呼びかけがカ イード自身の作成になるものかどうかは疑われてよい。また,闘うべき相手が「我々」モ ロッコ人の抑圧者とはなっていないことも注意されるべきである。7月20〜21日には,ハッ タービーらを含め49人の各地のカイードと5人のパシャが反乱支持表明のためにテトゥワン に集まり,フランコと会見した。1°)

以上の反乱派の成果は,テトゥワンで原住民部を占拠し,自らその部長となった博識のア フリカ派軍人ベイグベデールの活動によるところが大きい。7月18日,ガンミアが前述の行 動をとったのもベイグベデールの要請によるものである。同様の反乱派支持の要請は,ハ

リーファにも,民族運動指導者にも(本章第4節),イスラーム教徒信徒会指導者にもベイグ

(6)

ベデールによってなされた。アラビア語の他にリブ地方のベルベル語を解するベイグベデー ルは,全カイードに電話で「コーランの言葉で」支持を要請または強制(不支持の場合は,

原住民部がカイードを解任できたから),すべてあるいはほとんどのカイードの支持を得るこ

とになった。11)

反乱首謀者モラの反乱開始前の6指令のうちモロッコのみに関するものは2つある(6月 26日と同30日)。注目すべき内容は以下である。①スペイン人であれモロッコ人であれ反乱に 抵抗ないし抵抗するかも知れぬ者を射殺してよい,②レグラーレス,ハリーファ軍,ハリー ファ武装警察隊,カイード私兵を動員する,③ハリーファおよびハリーファ当局と連絡をと り,彼らを引き寄せる政策を採る,④民族運動指導者の逮捕・自宅監禁,⑤「平定」中にス ペイン軍と闘ったモロッコ人指導者の逮捕,⑥イスラーム教徒各信徒会の指導者を引き寄せ

る,⑦監督官全員の経歴調査,⑧フランス領およびタンジャとの境界閉鎖,⑨治安の管轄は,

都市部ではファランへ党が,農村部ではハリーファ武装警察隊の援助を得て各監督官がおこ なう。以上の指令はすべて成功裏に実行されたと言ってよい。②の一一部と,③,⑥について は既述した。①に関しベイグベデールが残した資料に,7月17日に,セウタ,メリーリャで 25人の処刑,スペイン領で209人の処刑という記録がある(モロッコ人が含まれるかどうか不 詳)。⑦にっいては,7月21日に官吏粛清委員会が設立され,早くも翌22日,監督官18人の 他に209人のスペイン人官吏が逮捕・解任された。36年12月中旬までにさらに246人のスペイ

ン人官吏とモロッコ人官吏(数は不祥)が解任された。さらに,22日のベイグベデールの命令 で,④にあたる44人と,⑤にあたる20人が逮捕・監禁された(②の一部と,⑧,⑨について は後出)。セウタ,メリーリャでは36年2月選挙の結果からしてかなりの数の共和国支持のス ペイン人がいたはずだが,上の形式上の数字とメリーリャの行政官らがフランス領に逃亡し たこと以外よくわからない。37年にメリーリャを訪れたイギリス軍人は,「かなりの数の人が 処刑された」と証言している。モロッコ人については,反乱開始直後から反乱派の御用新聞

となった前出『アフリカ新報』は,「熱狂的支持」とか「モーロ人はこの偉大な軍の運動にお いてスペインと固く結びついている」とか言っている(9月30日)。他方,フランス領の新聞 は,都市部のモロッコ人は反乱の結果よりも事態が落ち着くのを待っている,テトゥワンの 民族主義者たちは「独裁政権となれば自分たちがもっているいくばくかの権利さえ奪い取ら れることになる」ので反乱反対のようだ,農村部ではこれと反対に,以前からのスペインの

「原住民」政策が奏功して「原住民」は反乱の成功を望んでいる,ただ,「全般的に原住民は あまり動いていない」と報じている(7月24日)。いずれにせよ,モロッコ人のあいだでも反 乱反対の意見はすぐに潰されてしまったことは確実である。共和国支持の6人のリブのモ ロッコ人有力者の銃殺,ベニハメッド(ゴマラ)の均イードの処刑,兵員提供を拒否した西部 地域アルカサルキビールのパシャの収監(後に拒否を撤回して解放)が知られている。12)

(7)

「スペイン内戦とモロッコ(上)」      49

1.3.タンジャの「中立」と海峡を渡るモロッコ軍

「恒久的中立」の「国際管理地区」タンジャも一挙に騒然となった。スペイン公使一スペイ ン政府代表プリエート・デル・リオは,共和国政府に忠実で反乱派に寝返ることはなかった。

プリエート・デル・リオはテトゥワン(今やフランコが高等弁務官を自称)との関係を直ちに 切った。この後タンジャは,スペイン保護領を制圧した反乱派軍に囲まれ,管理委員会には 共和国政府が代表され,居住地ではスペインの共和国支持派と反乱派支持派が対立しながら 存在してモロッコ人にも影響力を広めようとする地域となる。13)

7月下旬,テトゥワンのフランコは,共和国政府のみが代表されているのはタンジャの

「中立」が侵されていることだと強弁し,スペイン領モロッコとの境界を閉鎖し,レグラーレ ス1大隊を境界地帯に集結させてタンジャに圧力をかけた。フランコの圧力の最大の目的は,

タンジャ港・水域に集結していた共和国に忠実な艦隊の排除だった。この艦隊は,スペイン

領モロッコの完全制圧や,とくに,窮地にあるイベリア半島にモロッコの兵力を輸送する(モ       ノ

ラの反乱計画に当初からあった)のに障害となっていたからである。スペイン領モロッコの 反乱軍の飛行機がこの艦隊を追ってタンジャ水域を爆撃したり,逆にこの艦隊がセウタ,テ トゥワンを砲撃した(7月20〜23日)。20日のフランコのマンドゥーブ(MandUb.タンジャで のスルタンの被委任者)宛手紙に言う  「何の罪もない無防備のムスリムのこの町[テトゥ ワン]」に爆弾を投下したり,「反乱を起こした軍艦が多くの将校を逮捕した」(水兵が,反乱 側にっこうとした将校たちから戦艦の指揮権を奪ったこと)のは,タンジャ当局の寛容の故 である,「共産主義運動の中心としてタンジャの町を乗っ取った連中[共和国支持派]による 法へのこの侵害」と,「公けの平穏」と「健全な意見」を損なってスペイン領モロッコの利益に 損害を与える連中がタンジャにいるのを許しているタンジャ当局に抗議する。14)

フランコはこの後8月上旬まで,タンジャのイタリアおよびポルトガル総領事の支援をも 受けて(ポルトガル総領事は,これはフランコが「残念な」手段を採る(=タンジャ侵入)

のを避けるためであると言った),何回もタンジャ当局に「抗議」の手紙を送った。当然なが ら,プリエート・デル・リオも共和国政府も,フランコに資格はない,共和国艦隊がタン ジャ港・水域にいるのは正当な権利で何ら中立を侵すものではない,反乱将軍を合法的政府 と同等に扱うな,と要求した。しかし7月28日,管理委員会は多数決(賛成  イギリス,

イタリア,ポルトガル,反対  スペイン,フランス)で,タンジャの共和国艦隊の行動は

「新たな戦闘行為」を引きおこして「恒久的中立」と「良好な国際関係」を侵すことになる,

との声明を出した。さらに,8月7日のフランコの「最後通牒」を受けて,同日の管理委員 会はやはり多数決で,共和国艦隊はタンジャ水域外に出ること(以後入域不可),スペイン領 モロッコ当局が発行するパスポートの承認を決定した。翌8日,共和国艦隊はタンジャ港を 去らざるをえなかった。アルヘシーラス会議議定書や1923年と1928年のタンジャに関する憲 章などからしても,共和国艦隊の存在がタンジャの「中立」を侵すものでないことは明らか だった。ヨーロッパ諸国とくにイギリスによる反乱派に有利な「不干渉」体制の設立と独・

(8)

伊の反乱派政権承認のかなり以前に,フランコはモロッコで「国際的」認知を受けたのであ

る。15)

このようなタンジャの「中立」化による航路(民間船を徴発)確保と,フランコの要請に直 ちに応えた独・伊の飛行機による「空の橋」によって,7月下旬から大量の在モロッコ兵力 がイベリア半島に渡った。その数は8月上旬には1万4千人,同月末までに2万人以上(う ちモロッコ人兵士は1万3千人)である。これらの在モロッコ兵力が,内戦初期のイベリア 半島での反乱派不利の兵員数と軍事情勢を決定的に変えたことはほぼ間違いない。16)

イベリア半島で闘うためのモロッコ人の徴募も早くも7月下旬に始まった。徴募はレグ ラーレスだけでなくハリーファ軍のためにもなされた。このために反乱派当局は,退役した ハリーファ軍の元幹部を8月から現役復帰させる措置も採った(約200人)。前出の各地のカ

イードやパシャが徴募に協力した。内戦後の1940年4月の原住民部の資料によると,新規モ ロッコ人入隊者は,7月末までに1,700人,8月中にさらに8千人,と増加していった(以上 のモロッコ人兵士数については,第II章第1節の表参照)。17)

L4.モロッコ民族主義者への誘い

反乱準備の過程でモロッコの民族主義者たちに反乱支持の工作がどこまであるいは若干で もなされていたかどうかは明らかではない。34年にフランス領を中心に結成された民族運動 組織である民族行動委員会(CAN)の指導者たちは,スペイン領での「陰謀」に気づき,これ

を警告していた。18)

反乱開始直後,スペイン領のCANの指導者トレスらは自宅監禁された。トレスの監禁中の 7月22〜23日にトレスらCAN指導部は,スペイン人の内戦に「厳正中立」の対応を採るこ とで一致した。しかし,民族主義者たちを引き込もうとする反乱派の方策は反乱開始後早く も1週間で実施に移される。「高等弁務官」フランコの意を受けてその工作の中心的役割を果 たしたのはやはりベイグベデールである。ベイグベデールは,7月24日,CANの有力指導者 に,アラビア語新聞創刊のために協力するともちかけ,後者にこれを受諾させた(8月下旬 の『エル・リブ』ErRゲの発刊)。翌25日,ベイグベデールは,トレスらの自宅監禁を解いた 後,トレスに協力を呼びかける。同日のベイグベデールのトレス宛手紙は,トレスを自宅監 禁したのは「何らかの不穏分子がテトゥワンの状況を利用して...貴下の生命を危うくするこ

とを恐れた」からで,「人身保護措置」である,「私が抱いている計画」について早急に話し 合いたいがどうか,と言っている。翌26日の手紙ではさらに突っ込んで,その計画とはトレ

スが数年前から望んでいた「改革党」設立のことだ,以前はその実現の状況はなかったが,

今は「スペインの救国運動がなそうとしている新しいモロッコ政策のおかげで」それが実現 できる,と誘い込みをかけている。上述の「人身保護措置」が全くの口実つまり虚偽だった ことは明白で,実際には,民族主義者たちが反乱不支持あるいは抵抗に回るかも知れぬこと への「措置」だった。27日に,ベイグベデールはトレスと会見し,上掲の便宜の他にさらに

(9)

「スペイン内戦とモロッコ(上)」      51

様々な自由を与えるから,共和国と関係をもつなと迫った。19)

トレスは,「長年抑圧されて来たこの[モロッコ]民衆に手を差し伸べる」(すぐ後出の8 月1日のトレスの手紙)というベイグベデールの誘いに乗った。このような対応がありうる

ことは,すでに上掲7月22〜23日のCAN指導部の会合で考慮されていた。8月1日,トレ スは,反乱派への協力と新党設立の趣旨を提出せよというベイグベデールの要請に応え,ス ペイン領のCANを代表して「覚書」を提出する。その主旨は以下である  我々は,共和 国や「左翼」と友好関係を持っていないし,共和国と協力する意思はない。今,共和国は,

我々が協力したとしても何の「見返り」も提供できないし,5年3か月の共和政のもとでの 我々に対するやり方を見ても,「我々の声に耳を傾けようという人はいず」何の得もなかった から[共和国と今後関係を持つなという条件を飯む]。スペインの政権が何であろうとそれは スペイン人にのみ関係することだ。我々モロッコ人が要求しているのは,何であれスペイン の政権が我々の本来の統治権や法・伝統を認め,我々が独立できるように我々に自由を与え ることである。我々は,[スペインの]王政時代にこれらの権利を暴力的手段で要求したが

[「アブド・アルカリームの反乱」など],ほとんど何も得られなかったので,今は暴力的手段 は採らない[実力でスペイン当局に反対することはしない]。「スペインの国民運動[反乱派]

は,この地域とその住民に恩義がある。なぜなら,この地こそその揺藍の地だったし,その

●      o      g      o      ●

勝利はこの地域と住民に負っているからである」。それ故,反乱派当局が我々に協力せよとい うのなら,そのモロッコ政策の「基本原則」は,民族運動を合法的存在とすること,つまり モロッコ人の政党設立を認め,それを「モロッコ人の唯一の正当な代表」として認めること

である。

8月5日,ベイグベデールは,「将軍[フランコ]」はトレスの「改革党」構想に原則的に 同意していると通知してきた。改革党の実際の設立は,ベイグベデールらの意図もあり,36 年末となる(第II章第2節)。しかし反乱派は,モロッコ民族主義者の取り込みにまずは成功

した。取り込み策を指示したフランコがモロッコを離れてイベリア半島の戦闘に専心し始め るのはこの直後である(暫定高等弁務官にはオルガス将軍。ベイグベデールは原住民部長の

他に高等弁務官庁事務局長も兼務)。2°)

他方,ほぼ同時に,反乱派当局は民族運動指導部にモロッコ人の内戦への参加を要請した。

トレスらもこれを予期していたようである。CAN指導部は,レグラーレスはスペイン軍の一 部だから,そのイベリア半島の戦闘への参加を自分たちとしては拒否できないが,ハリー ファ軍の戦闘参加には反対だし,CANとしてもスペイン人の戦闘のための兵員徴募には協力 できないとの対応を明らかにした。8月8日,トレスは動揺するハリーファにもこのような 姿勢を伝えた。8月10日の新高等弁務官オルガス宛の手紙で,トレスは,イベリア半島の2 陣営の問の戦争はスペイン人のみに関わる問題だから,我々は「もっとも厳正な中立」の立 場であって,内戦への参加はできない,我々の立場を反乱派への敵対とか共和国支持だとみ なさないでほしい,と答えた。この後,反乱派当局の中でオルガスが「反抗」するトレスの

(10)

逮捕(さらに死刑も)を主張し,これをハリーファにも伝えたが,ハリーファもトレス逮捕に は抵抗し,また,今やイベリア半島にいるフランコがベイグベデールの「取り込み策」を支 持してオルガスを抑えるという経過があった。つまり反乱派は,民族運動組織をイベリァ半 島で闘う兵士のための動員組織とすることまではできなかった。トレスは,この点でモロッ コ人民族主義者であることを譲らなかった。上掲のように,自分たちに有利になるために反

・      o      ■      ■      ●

乱派の協力申し入れを受けたのだった。21)

それでも,トレスらの協力は反乱派にとっても大いに自分たちを有利にするものだった。

既述(本章第2節)の9月10日のラジオ・セビーリャでは,ガンミアのあとにトレスも次のよ うに呼びかけた  モロッコはスペインなしでは生きられない,スペインは「モロッコ人が 願っていたあらゆる自由」をもたらしてくれた,スペインは「北アフリカの抑圧者たち[フ

ランス人]」がいっも拒んで来たことをモロッコ人にしてくれたのである,とくにモロッコ 人,北アフリカの人々,すべてのムスリムは,スペインの解放のためにスペインを援助すべ きである。22)ただ以上の内容は,後述のCANの動きとの関連や,ベイグベデールの意図にあ まりに添いすぎていること(第II章第2節)にも注意すべきである。

ところで,ちょうどこの頃の9月初旬,モロッコの民族主義者の間で別の動きがあった。

フランス領CANの代表がジュネーブ経由でバルセローナとパリに飛んだ。この動きには,

ジュネーブ在のアラブ民族主義の指導者シャキブ・アルスランの,スペインの内戦からモ ロッコ民族主義者は有利な状況を引き出せるとの示唆があった。23)CANが共和国政府と協定 すべく提示した草案の内容は以下である。①共和国政府はスペイン領モロッコのスペインお

よびフランスからの独立を宣言する,②西・仏両政府はこの独立を保障し,モロッコの国際 連盟加盟を擁護する,③スペインはハリーファと独立確認の協定を締結し,両者の友好関係

を取り決める,④共和国はCANに必要な武器・装備を供与する,以上の目的を達成するた め,⑤フランスは,フランス領モロッコでのCANの軍事行動準備を黙認する,⑥フランス は,フランス領モロッコでの公的自由などの緊急の改革をする。バルセローナに行った2人 の代表は,共和国政府との仲介者を期待されたカタルーニャの諸政党・労働組織(反ファシ ズム民兵中央委員会参加の諸勢力)と協議のうえ,9月7日付の協定草案をマドリードの共 和国政府,つまり成立したぼかりのラルゴ・カバリェーロ政府に提出した。9月7日の協定 草案では,共和国政府とCANの友好同盟条約によってスペイン領の独立を承認すること,独 立後も(旧)スペイン領はモロッコ帝国の一部を成しスルタンの主権のもとにあることが定め られており,他に以上に伴う詳細項目がある。12日には,スペイン政府はスペイン領に関し て「当事者」であるからフランス政府の意向如何にかかわらずスペイン領に関することを決 定できるとのCAN側の付属文書も作成された。マドリードからの回答が遅延している間の9 月19日には,CAN代表と上掲のカタルーニャ諸勢力との問で,後者がスペイン領モロッコの 独立を承認するとの協定がなされ,またこの協定の中で,後者は「スペイン政府がこの協定 に同意するよう働きかけ,また協定実現のために助力する」とされた。この協定には,CAN

(11)

「スペイン内戦とモロッコ(上)」       53

がスペイン領で武装蜂起を起こすことも含まれていた。CANはマドリードでの承認を促すた めに,共和国政府がこれに同意すればムスリム世界にとって「公けの保証」となるし,また フランス政府への働きかけも可能となる,さらにソ連の支援も可能である,と迫った。24)

CANへの対応に消極的だった共和国政府は,この間とにかくこの件をフランス政府に照会 した。フランス政府は,9月17日に任命されたばかりのフランス領モロッコ統監ノゲスの全 面拒否の見解をも踏まえ,スペイン共和国のCANとの協定を許容しないと回答した。かくし て共和国政府はCAN代表に,独立の承認はできないと告げ,逆に,4千万ペセータを提供す

るから共和国のための宣伝をしてほしいとの要請や,内戦に勝利したらモロッコのために尽 くすとの「約束」をした。アルファッシによれば,「我が代表は,このけちな申し出に抗議 し,怒って会談から引き揚げた」。以上の顛末からして,パリに行ったCAN代表も全面拒否 にあったことをここで詳述する必要はないだろう。25)

他方,西・仏両政府へのCANの行動は「公然の秘密」(アルファッシ)だったから,反乱 派はこれを察知して牽制・対抗の動きに出るとともに,さらに民族主義者の取り込み・懐柔 策を強めた。前述のラジオ・セビーリャでの放送もこの一環だった(少なくともその役割を 果たした)と推測する。高等弁務官オルガスとベイグベデールは,9〜10月にかけてトレス

らに,共和国がモロッコ人に働きかける可能性にも言及しながら,以前よりもっと進めた

「約束」を提示した。この約束ないし協定の内容はいまだ正確には知られていない。当時語ら れたのは,スペイン領モロッコの「自治」あるいは「独立」,リフの「完全独立」,「リブ王 国」,「リブ新国家」の承認などである。他方で,トレスらが主張して来たモロッコ人の出版

・結社・集会などの諸権利承認も約されたらしい。さらにベイグベデールらは,民族運動の 若き指導者マッキ・ナシーリとも接触を始めた(この意図については第II章で後述)。26)

トレスらがバルセローナとパリに行ったフランス領CAN代表のことを知っていたかどうか はわからない。少なくともその結果は知っていたと思われる。この後CANは,スペイン領

とフランス領の共同の運動が困難であることを確認(後述のように,相互の行き来も難しく なっていた),以下の「基本原則」でそれぞれが行動することで合意した。①モロッコの自由 と独立,②アラウイ王朝のもとでのモロッコの統一,③イスラーム主義とアラビア主義,④

スルタンへの忠誠。27)

反乱派は,共和国の対応への民族主義者の失望と,彼らへの譲歩・懐柔策により,スペイ ン領モロッコの民族主義者の支持をほぼ確保したのである。

1.5.フランス領モロツコ

「非常に注意しなければならぬことは,他ならぬモロッコへの,とくに原住民への影響がと りわけて生ずるだろうということである。ここに,...我々にとって肝心で本当に心配な点が ある」。『フランス領アフリカ』の内戦第1報(36年7月号)の一部である。これは,フランス 植民地主義者の関心の所在をよく示している。モロッコ,それにアルジェリアのオランやコ

(12)

ンスタンティーヌ地域のコロンや軍人のなかには,本国人民戦線政府への反発もあり,反乱 派と連携する動きが見られた。内戦開始時のモロッコ統監ペイルートン自身が反乱派に好意 的と見られていた。ラバトのスペイン領事も反乱派支持であり,共和国によって解任された 後もフランス領で活動した。スペイン領の反乱軍人たちは,反乱当初からこれらの人々の提 携・支持を受け,フランス領モロッコでもモロッコ人の募兵(第II章で後述)や軍需物資の補 給・購入をした。28)

36年9月になってフランス政府はスペインの内戦に関するモロッコ政策の確立に動き始め た,と見てよい。まず9月6日,次のような主旨のスルタン声明(フランス政府が承認)が公 表された  スペインの内戦の影響が「_我が帝国の一一部[スペイン領モロッコ]に及んで いる」,「我が臣民のあいだで,我々が関係を維持している政府を外国の攻撃から守るためで はなく,全く反対に,その政府を転覆させようという張本人たちの仕業を助けるために悲惨 な戦争の遂行に応じている者がいる[モロッコ人がスペイン反乱派軍に加わっていること]

らしいことは非常に嘆かわしいことである」。次にメトロポリでは,11日に地中海地域高等委 員会が緊急に開催された。課題は,シリア問題と「スペイン内戦の北アフリカへの影響」の

2っだった。首相ブルムの主宰のもと各関係閣僚ほかモロッコ,アルジェリア,チュニジア の各フランス統治代表らも出席した。公式コミュニケでは,様々な意見交換のあと,「政府閣 僚は,原住民に対するフランスの政策を明確化した」とされているだけである。新聞情報に

よると,北アフリカ地域の各代表は,それぞれの地域の「原住民」がスペイン内戦の進展に 大きな関心を示していると報告したという。ペイルートンは,政府の政策に従って「中立の 原理」を採りつづけている,スペイン領に対して軍用品の禁輸をしているが,これが両領域 問の関係を面倒なものにして一連の問題を生じさせている,と発言した。これに対して,陸 相,海相,空相は,国際関係が緊張したとき,「北アフリカとくにモロッコと我々との関係」

が心配だと述べ,本国への軍の移送をどうするかという問題を提起した。6日後の17日にぺ イルートンが更迭され,既述のようにノゲス将軍が統監になった。『アフリカ新報』はこれ を,ペイルートンが「スペインの国民運動支持」のフランス領モロッコの「ムスリム住民」

(これは,ムスリム住民が反乱派を支持しているという作為的表現。本来は「人々」程度)に

「あまりに迎合的だったから」と正鵠にも評した。22日には,8月に1フランス人がスペイン 領内で逮捕・処刑されたことを理由として,仏・西領間の境界が閉鎖されたので,両領域

(セウタ,メリーリャとも)問の交易・通行が切断された(「部族間の通常の境界での通商」

には適用されない)。29)

以上の一連の政策・措置の性格は,『フランス領アフリカ』10月号が,「我々はフランスの モロッコでの事業を直接に脅かしたり,ハリーファの権威を覆すものでない限り」,スペイン の内戦のどちらの側にもっかない,と述べたことによく表れている。あるいは,在モロッコ のフランス植民地主義者一「祖国から出た我が同胞」代表の,新統監ノゲスへの次の発言にも 表れている  スペインの内戦によって我々に「新たな危険」が生じている,それは反乱派

(13)

「スペイン内戦とモロッコ(上)」      55

当局がスペイン領モロッコに与えようとしている「新しい形態」である,「一つの原則ははっ きりしている。つまり,スルタンの主権の統治は,モロッコの南から北まで,地中海から大 西洋にまで及ぶことだ」,フランスはモロッコを保護国としているのであり,これには「スペ インの勢力範囲」一スペイン領も含まれる,以上に反する意図に対しては,「少なくとも我々

は自らを守る」。3°)

lI.反乱派・フランコ政権のモロッコ統治

2.1.スペインで闘うモロッコ人

反乱派のマドリードー挙攻撃・占領作戦と,共和国派の抵抗によるその失敗でスペイン内 戦が長期戦・組織戦に移行したことにより,スペインで闘うためのモロッコでの兵員徴募も さらに強められた。募兵の中心は農村部だった。募兵マシンの中心は,原住民部(あるいは その管理下の各監督官。これは反乱派支配の下ですべて軍人となった)の指示・強制の下で 動く各カイードたちだった(先述のように,民族主義者は募兵にまで関わることは拒否し,

また農村部では民族主義者の影響力はほとんどなかった)。カイードたちは,各部族の戦闘可 能な男性住民(16〜50才が対象)のリストを作成し,彼らにスペイン軍当局に出向くよう要請 して回った。何人かのカイードが,その部族の戦闘可能な男性全員を引き連れてやってきた こともあった。まさに,「アブド・アルカリームの反乱」鎮圧以降に築かれたスペインの植民 地住民管理機構が,モロッコ人募兵機構として機能したのである。入隊した兵士たちはテ

トゥワンでスペイン軍人から簡単な訓練を受けた後,ジブラルタル海峡を渡った。31)

募兵に応じ(させられ)スペインの戦場で闘ったモロッコ人(「フランコのアスカリ」と呼 ばれた)の数については,5万〜10万人の諸説があった。今までは,以上の中間の6〜7万 人とするのが有力だった。近年の専門的な検討と新資料によって,現在では,7万8千〜8 万1千人とみなされうる。本稿では,1940年に原住民部自身が作成し,最近明らかにされた 資料を掲げておく(表)。これは今までの有力説より15〜34%多い。考慮されるべきことは,

反乱派当局は,スペイン領,タンジャ,セウタ,メリーリャだけでなく,フランス領(5千

〜9千人,あるいはそれ以上の諸説あり),イフニ,サハラそれにモーリタニアからも徴募し たことである(すべて「原住民」infgenaとなっている)。本稿では,表の資料を基礎にして,

スペイン領からの徴募者を約7万人と推測する。これはムスリム男性住民の15%以上で,戦 闘可能男性比ではもっと高い数字になる。地域的には,リブ(全体の約35%)と東部地域が多 い。フランスの親反乱派新聞の特派員が(37年春におそらくリブ地域を見て),多くの男性が スペインに行ってしまって,「少しずつこの地域[スペイン領]は人影が薄くなり,[スペイ ン領]モロッコでは女性,子ども,老人以外は見かけられない」と書いたのは,多少の誇張 はあれ率直な印象だったかも知れない。1960年代の東部地域でのフィールドワークでも,内

(14)

表 モロッコ人兵士の内戦への参加 A.左記の日付時の戦闘兵員数

レグラーレス ハリーファ軍部隊 小計  前の時期からこの時期の間に 入隊した兵員

1936年

7月31日    5,000     3,000   8,000       1,712

(内戦発生時から)

8月31日   8,000    5,000  13,000     8,000 12月31日    19,000     10,500   29,500      18,988 1937年

12月31日    28,000     14,500   42,500      21,500 1938年

12月31日    32,000    19,000   51,000      17,500 1939年

3月31日    33,000     19,500   52,500(a)     4,500

計72,200(b)

B.内戦への「原住民」兵士の参加総数  80,500(c)

C.死傷者など

a.戦闘での死者 16,500 b.行方不明    1,700 c,負傷後の死者  5,300 d.不具者     4,500

小計 28,000(d)

出典:1940年4月28日付の原住民部の資料から。Azzuz Hakim,190−191.

注:(c)=(a)+(d)となるが,(a)〜(d)のそれぞれの関係には不祥のところがある(本文 も参照)。

また,以上からすると,動員された兵士で戦闘可能な兵士のモロッコへの帰還は内戦 終了までなかったことになる。

戦中のこのような状況が検証されている。なお,モロッコ人は少数(500人)ではあるがファ ランへ党義勇軍部隊(36年9月結成)にも加わっていた。32)

多くのモロッコ人が徴募に応じ(させられ)た理由は何だったのだろうか。まず,その前提 として,先述のように,①カイードたちによるほとんど半強制的な募兵のための活動があっ た。しかし,モロッコ人たちがそれに応じた主要な動機とそれ故に反乱派が誘いをかけたの は,②経済・生活上の性格のものだった。反乱派軍当局は,固定日給(3〜5ペセータ)のほ か,給与の2か月分前払い,生活必需品供与(砂糖,油,茶,子ども数に応じたパンなど),

戦利品の持ち帰り,兵士が出発する前にその兵士の給与の半額をその妻に支払うこと,など 大変な優遇をした.33)さらに,③以前からのスペイン支配と,共和政の統治でも状況に大きな 変化はなかったことへの不満があった。

(15)

「スペイン内戦とモロッコ(上)」      57

①については,募兵が植民地住民統治と深く関わっていたことをあらためて指摘できる。

植民地統治との深い関連では②も同様である。②の背景に慢性的な経済と生活の不安・困難 があったことは自明である。34〜36年,とくに37年は凶作だったので,飢餓状態が蔓延して いた。上記の年だけでなくすでに以前から,凶作の年にはレグラーレスへの入隊者の増加が 明確に認められることが指摘されている(この動機の故に,また脱走兵も多かったことも)。

高等弁務官はじめ反乱派当局は以上の相関関係を知悉していたとともに,徴兵が農業生産に 与える影響も考慮していた。つまり,多量の男性労働力の流出による農業生産減→生活不 安→反乱派支配への不信が生ずることを避けようとした。2万5千人以上の流出(36年末ま でにこれを超えてしまっていた  表)はこの「危険」を生じさせうると考えられていたか

ら,女性・子どもの労働力動員,反乱派当局による種子や小麦の配布がなされた。フランス 領でのモロッコ人徴募はこのためにも意図的になされたのである(既述のように,イフニ(人 口2万2千人),サハラ,さらにモーリタニアでも徴募されたが,とても「不足分」を埋めら れなかった)。それでも,イベリア半島での兵力需要(とモロッコ人兵士の死傷率の高さ 後述)によるさらなるモロッコ人兵士の要請は,早くから上記のような考慮や危険をも超え

るペースのものだった。すでに36年10月初旬に,高等弁務官オルガスはフランコ宛手紙で,

       」

u原住民」の軍への編入は「もう融通のきかない限界に来ていると思う」と言わざるをえな かった(同趣旨の手紙は翌11月にもある)。全般的な経済・生活状況については,既述のよう な37年までの凶作と,戦争による生産減と共和国地域からの輸入ストップでイベリア半島か らの食料品・軽工業品(とくに繊維製品)の供給が少なくなったことにより,36年8月からの 物価監視措置にもかかわらず,生活必需品不足の状態だった(38年2月から,イベリア半島 にある砂糖のスペイン領への移出を促進するための税制措置が採られた)。反乱派当局は上記 諸要素と後述の諸誘導措置の組み合わせに努めたが,37年後半から38年初頭にも必要兵力が 得られぬ状況が生じた。経済面での対症方策は,やはり直接に金銭を使うことだった。38年 2月,ニコラス・フランコ(フランコの実兄で在ポルトガル大使に任命されたばかり)がモ ロッコ各地を訪問したとき,「はしゃぐ部族住民に金銭の雨が天国からのお恵みのようにばら まかれた」。既述の文脈からして,フランス領と近接するアルカサルキビールをニコラスが訪 れたとき,フランス領からも数百名の入隊者があったことも付加しておくべきことである。34)

③についてはさらに意図的な誘導がなされた。内戦は抑圧者の共和国に対する解放者フラ ンコの聖なる戦いである,「神を知らぬ者たち」の輌からスペインとモロッコを救うための戦 いではキリスト教徒もムスリムも共同するのだ,という宣伝・呼びかけが反乱派当局,ハ

リーファ当局首相,カイードたち,さらにイスラーム教団の一部指導者からもなされた。「ア ブド・アルカリームの反乱」の時期も含めたモロッコ戦争の「復讐」としてスペイン人を

(また「白人」を)殺せるというルサンチマンも利用された。実際に,アブド・アルカリーム がカイードだったリフのべニウリアゲールでは,元アブド・アルカリーム支持者から成る500 人の戦闘集団(harka)が形成され,スペインに渡っている。35)

(16)

・イベリア半島で闘うモロッコ人兵士の恒常数は,37年には3〜4万人,38年から内戦終結 時には4万人から5万人以上だった(表)。彼らはスペイン人兵士や外人部隊とは別に行動し 生活した。一般的に言って,同じ部族の者は同じ部隊に属した。ウラマーもついて行き,兵 士死亡の際の宗教儀式などをおこなった。ハラマやマドリード戦線での「英雄的」な戦闘の 様子,ラマダンやアイド・アルケビールの祝祭の様子などはときどきモロッコの新聞でも紹 介された。37年9月からは,レグラーレスの各大隊に1名の「モーロ人司令官」を置くこと

とされた。ここで注目すべきことは,(とくに初期に)突撃隊として用いられたことによるモ ロッコ人兵士の戦闘による死者の多さ・死亡率の高さである(負傷率も合わせればさらに高 いだろう)。表の原住民部の資料では,2万1,800人(Cのa+c)ないし2万3,500人(Cのa+

b+c)で27.1〜29.2%である。両陣営のスペイン人の戦闘による死亡率を求めるのは難しい が,上記数字よりかなり低いことは確実である。反乱派は,この多死亡者と死亡率のことが モロッコでは知られないようにした。兵士の帰還を認めようとせず,負傷者・不具者の帰国 も内戦終了までなかなか許可しなかった。戦闘の実情を知ってモロッコ人の間に不安が広が ること,とくに入隊者が減るのを恐れたためである。それ故に,モロッコでの死傷者報道は きわめて少なく,『アフリカ新報』には36年ll月の死者追悼記事1件,後出『モロッコの統 一』には38年6月に,戦闘で不具になったビリャナドールの1名の兵士のためのメリーリャ での醸金記事があるだけである。しかし,すでに36年8月には多数のモロッコ人の戦死が知

られ始めていた。兵士は戻らず知らせもないことで,36年末〜37年初頭には,兵士の家族を はじめとして隠然とした不安状態があることが報告されている(反乱派スペイン人は,3〜

4か月で戦争に勝利すると言っていた)。36年10月にオルガスは,フランコ宛に,戦死した分 のモロッコ人兵士を早く補充する必要性はわかるが,戦闘の激しさが知れ渡って「これらの 人々[モロッコ人]の士気に少なからず影響する」ので,スペイン人で補充できないかと訴 えている。実際に37年に入ると,半分は「ヨーロッパ人」(モロッコ人=アフリカ人と対置さ れた場合のスペイン人の呼称法。この用語意識には注目できる)で補充する措置が採られた。

徴募の困難はこの点でも早くから認識されていたのである。36)

スペインでモロッコ人兵士(また外人部隊)は,略奪や残虐行為(相手兵士の腸抜き,首・

目・鼻・睾丸切断など)をおこない,制圧した地域の女性を凌辱した。これは,モロッコ人 兵士の欲求を満たし,共和国派の士気を落とすために効果のあることだった。ここで強調し たいことは,このような「野蛮な」行動はスペイン人の許容・誘導によって可能となったこ とであり(反乱派軍人はすでにモロッコで,先述のような戦利品だけでなく,「スペイン人女 性」をも約束していた),反乱派軍人の目的に適っていたことである。さらに,過去のモロッ

コ戦争中にスペイン軍とくに外人部隊が(それにまたレグラーレスも)同種の「野蛮な」行動 を「反乱」モロッコ人に対しておこなっていたことである。植民地戦争(スペインに限らな い),より具体的にはアフリカ派軍人による戦闘の性格を以上に見い出せるのである。37)

本節の検討を終えた後では,カトリックを公認の宗教とした反乱派のモロッコ人動員のイ

(17)

「スペイン内戦とモロッコ(上)」      5g

デオロギー的粗雑1生についてあまり立ち入る必要はないだろう。彼らは,内戦の当初から

(36年7月23日),この現代の「レコンキスタ」においてモロッコは「南の新しいコバドン ガ」だと言い放った。だから,内戦末期に(39年1月),次のように「成果」を説明したの だった  彼らと我々は8世紀間も闘い合って来たことから,「多くの人々とくに外国人に とって,ムスリムの人達が自発的にまた決然として我々を助けに来てくれているということ

は大きな驚きだった」。38)

2.2.新ハリーファ国家?あるいはモロッコ人のための国家

(1)36年12月19日,ハリーファ臨席のラマダン終了の祝宴で,いまや暫定高等弁務官と なったベイグペデールは,オルガスが「モロッコ人もまた望んでいる理想のために闘ってい る原住民軍」を指揮するためイベリア半島に行った,と発言して,ハリーファにやんわりと 圧力をかけた。ハリーファはこれに対し,フランコとオルガスに「我々の親愛なあいさつ」

を伝えてほしい,彼らの「成功と勝利」を望む,と応えた。これは,それまで態度があいま いだったハリーファがはっきりと反乱派支持を表明したものとみなされた。それ故,反乱派 当局は喜んだ。『アフリカ新報』は,これを報道した日に,「モロッコ万歳。立てスペイン。

ムーレイ・ハッサン万歳」と書いた。39)

他方でこのことは,スペイン領がラバトのスルタン(第1章第5節にあるように反乱派を 承認しなかった)の主権から離れて「自立」しょうとすることをも意味した。つまり新「ハ

リーファ国家」への動きである。実際に,民族主義者に「自治」の約束をした後の36年ll月 頃から,反乱派の方策にはこの方向性が認められる。ラジオ・セビーリャのアラビア語放送 や『アフリカ新報』で,スルタンへの讃辞が消え,逆にハリーファへの讃辞が現れそれが強 められたこと(11〜12月),民族主義者たち自身が「[反乱派の]勝利の直後にリブ王国がつ

くられる。この王国はラバトのスルタンにもういかようにも従属しない」と語ったこと(11 月),スペイン領の船舶を独自の「国籍」をもつものとしてその旗を決めたこと(37年1月),

スペイン反乱派国家へのスペイン領「特別代表」の任命(38年2月)などである。『フランス 領アフリカ』は,フランス政府とその植民地当局の意向を受けて,これらの動きを承認でき

ないことを繰り返し表明した。4°)

ただ以上のことは,結局はフランス,スルタン,またハリーファ自身に対する牽制と誘導 であって,反乱派はスペイン領「自立」化政策を強行できなかった。先述のように,民族主 義者はモロッコの統一一とスルタンの主権を擁護しており,ハリーファ自身もスルタンから

「自立」する意向をもたなかったからである。ハリーファは38年に,シリアとレバノンの新聞 記者の質問に次のように答えた  我々は,保護国家[スペイン]の政体に関心がない,

我々の利益とより調和する政体を優先したいと思うだけである。我々は,新国家[反乱派政 権]に我々の行動にとって最大限の便宜を見い出している。スルタンとの関係は良好である,

スルタンはモロッコの「第1のムスリム」である。41)

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