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(1)

茨城大学教育学部紀要(教育科学)38号(1989)229−248 229

学習理論の論理構造について (1)

佐 藤 晋 一*

(1988年9月12日受理)

    On the Theory of Learning:

It Must be Composed of the Logical Conditions.(1)

   Shinichi SATo*

(Received September 12,1988)

〈はじめに〉

 学習に関する理論は学習者の学習行為にかかわる事柄についての理論であると同時に,以下の事

柄についても論じなければならないはずである。

○○○○ いかなる事柄を学ぶのか,何を学ぶのかが,いかにして決まるのか。

いかなる範囲において学ぶのか,学習の量的拡がりの範囲は,いかにして決まるのか。

いかなる時間幅において学ぶのか,学習と時間の関係をどうとらえたらよいのか。

それらの学習が妥当であるかどうかの判断,学習が質的に〈うまく〉なされたかどうかの判 定をいかに行ったらよいのか(ここには,学習億つねにうまくなされるとは言えないにも拘

らず,学習は一般にある意味での妥当性をもつのは何故かという問題も含まれる。即ち,学 習にく失敗・まちがい〉が本質的に内在するのであるが,同じまちがいをくりかえさないの

は何故かという問題でもある)。

 これらの諸問題は,そのおのおのについて論究されることが,まず必要であるが,その上更にこ れらの諸問題を統一的な観点から論ずることも必要である。そうしてはじめて,学習理論の論理構

造が明らかになるのではあるまいか。

 学習は無条件に成立するものではない。従って,学習理論も無条件に成立するはずはない。では,

学習理論が成立するための条件が何であるかを,改めて問うてみるとそれが必ずしも明確になって いるとは言い切れないのである。研究動向の点から言っても,例えば,〈認知科学〉的アプローチ という新しい試みの一つが,ようやく緒についた段階であり,幼児の言語習得に関する研究もやっ と本格化しようとしているところであり,まだまだ学習に関して問われるべき点が何であるか明確 にされているとは言えないであろう。D

 本稿では,上にあげた四点のそれぞれについて若干の考察をすることによって,学習理論の論理

*茨城大学教育学研究室.

(2)

230 茨城大学教育学部紀要(教育科学)38号(1989)

構造へのアプローチを試みてみたい。

(1)いかなる事柄を学ぶか,何を学ぶかの判断はrどのようになされるのか。

 何故学ばなければならないのかについては,〈生命とは学習なり〉という定式(事実を定式化し たものと解しておきたい)で,とりあえずは満足しておきたい。学ばなければならないのは何故か という問いは,問いとして成立しうると思われるが,〈学ばなくてよいか〉という問いは,問いと して意味をもつのであろうか,問いとして成立するのか。この問いに関しては,肯定的な答だけが ないのかもしれない。学ばなくてよいということを肯定しうるのかどうか,を明確にすることはど うにもできそうにないのである。つまりく学ばなくてよい〉と肯定的に答えることだけができそう にないのである。問いとしての意味があるのかどうかも明確にできないということでもある。

 とは言え,学ばなくてよいということはないのだから,当然学ばねばならないのであるという言

      

明が,直ちに,疑問の余地なく成立するということはない。しかし,ここではこれ以上この点に立 ち入るのはやめて,学ぶことが不要であると明言することも,必要であると明確に肯定することも 極めて困難なことであること,しかしながら学習をしなければ生きることにとっては困ることにな るという経験則上の真理として扱いたい。そしてその上で,それならば何を学ぶかという判断がい

かに構成されるべきかを考えることにしよう。

 何を学んだらよいのか,の判断は通常はいかになされているのか。学習者の側から言えば,自ら の趣味や関心(生理的条件)に基づいて判断していると言えるであろう。興味・関心・個性・能力 に〈応じて〉えらびとると言えるであろう。しかし,何を学ぶかを判断するための必要条件の一つ に個体の生理的条件があることは否定しえないとしても,それだけで十分であろうか。個体の生理 的条件に,判断のすべてが還元されうるのであろうか。ちがうであろう。何をえらびとるかは,個 体レヴェルの判断でよいとしても,えらびとられた事柄は個体の任意の判断で学びとられてゆくだ けでよいのか。そうではない。学ばれる対象にはそれ自体の論理性,体系性,組織性,順序性があ

り,それらを無視することはできない。

 学びたいから学ぶのだという表現の中には,学びたい事柄を任意に選んで学ぶという意味が含ま

れるが,選んだ事柄を学ぶことまでもが個体の側の条件に還元されてしまうことはないはずである。

学ぶということは本来,何かを学ぶことであって,瞬間的に理解できてしまうことを学ぶとは言わ ない。何が学ばれるべき事柄であるかは,即自的には決められないのであり,むしろ学んでみては じあて学ぶべき事柄であるか否かが判断できるのではないか。つまり,個体にとってあらかじめ自 明なのではなくして,とりあえず自己の生理的条件に応じて選択して学んでみて,判断できるので はないか。すべての事象が学ばれる事象であるかどうかは,即自的には明確なのではない。だから

       の      

こそ興味や関心という内発的概念を以って,第一次的な選択がなされるのだとせざるをえないので

あろう。第一次的に選択は,第三者が強制することのできない選択であると考えざるをえない。個

の独自性,独立変数としての個の存在の側面を否定できないからである。「人間の智力は,個人的

傾向や情操に触れない抽象的な事柄以外には,公平たりえない。智力は何よりもまず〈偏頗〉の器

官である。智力は人間とその環境との長い対応の間に発達した器官である。人間の受ける無数の刺

(3)

佐藤:学習理論の論理構造について(1) 231

激の中から,自分の福利に関係あるものを選んで,これに働きかけ,その福利に全く関係のないも の,若しくはそれほどはっきりとさし迫った関係のないものは,これを排除し無視する事を可能な

らしめん為の緊切な目的から発達した器官である。」2)とは言え,その選択された,当の事柄は客観

的な論理構造をもつ。この客観性そのものが,学ぶべき事柄が何であるかという判断に介在してく

るはずである。      ,

 この点は学ぶ側にとっては,必ずしもあらかじめ明確に自覚されていなくてもよいとしても,教 える側から考えてみれば,ハッキリするであろう。教えるというのは,個体が学びたいように学ぶ という事態に対応する概念であろうか。ちがうであろう。何を教えるかについて無自覚であること は論理的にはありえない。教えられている事柄は学ばれている事柄であるが,教える側は教える事 柄を恣意的に選択し,恣意的にそれらの事柄に含まれている論理性を解釈し,認めるということは ありうるのだろうか。勿論,学ぶ一教える関係が極めて限定された,ある特定の個と個の間に成立 するような場合には,互いの間に了解があれば,恣意的なあり方も考えられようが,学習というの はそのようなレアー・ケースのみを指して言うのではない。一般的に言って何かを教える・伝える ということは,教える側の主観的な判断のみによってなしうることではない。教えるべき事柄その

ものが主観によってのみ決定されることはありえない。

 これらのことを,発問と答との関係におきかえて考えてみてもよかろう。疑問をもち,問う。そ れに対して〈教える〉,つまり答えるという関係において問いはan sichなものでありうるとして も,答えはちがう。答は問う側が主観的に,恣意的に納得すればよいだけのものではない。答には 客観性が要求されるのである。答は,究極的には実践そのものでもあるからである。答える側が恣

意的に答であるとしたものが,答ではないのである。

 そもそも,学習は純粋に個体レヴェルでのみの現象なのかどうか。個体から発して個体に還るだ けのサイクルとしてのみ学習を論じてよいのか。だとするならば,学習はある個体に即自的な事態 なのであって,いわば生理的現象のようなものにすぎないのだから,そういうものとして扱えばい いのである。だが,人間が存在すること自体を即自的現象であると言い切ることはできないのであ り,何を学ぶかを個体のレヴェルでのみ判断すればよいのではない。N.ウィーナーの指摘する如 く,学習には個体発生的学習と系統発生的学習があると考えられるが,系統発生的学習がなされる ところの〈場〉は個が学ぶ〈場〉の中に重層的に構造化されている,両者はクロスしているとみな ければならない。つまり,系統発生的学習即ち人類レヴェルでの学習は,形式的には歴史の展開と して,その結果が文化として対象化されるメカニズムと見てもよいのであろうが,〈人類〉そのも のが存在して学習しているのではないのだから,個の学習から媒介されてくるものととらえねばな

らない。個が個として学ぶことの中に,個別的な,個体発生的学習のく場〉の中に構造的にくみ込 まれているとしなければならない。〈場〉はどこにあるのか。個体の意識や素質やの中にではなく て,学びとろうとしている事柄そのものの中に,〈場〉があるはずである。ただ,学習者には,は じめからこの二重性が常にハッキリと意識されている必要がないというだけではないか。それが

「混沌」と意識されるのは,それ故ではないか。学習において答を求めることは,言わば自己の誤りを

修正することである。この修正は純粋に個的な,閉じた作用としては,なされえない。ミスがある

ことの確認とその修正はftir sichになされねばならない。誤りの修正は,誤りでない事を規準に

して行う以外にない。が,誤りでないことの証明は個のレヴェルでのみなしうることではない。

(4)

232 茨城大学教育学部紀要(教育科学)38号(1989)

 故に,教える側は,この誤りの修正が学習者においてなされるということと,しかもそれが効率 的にできるということを前提とせずに,教えたり,問うたりすることは論理的にはありえないので

ある。教育が無意図的・無意識的でありうるとしても,それは主観的にはそういう現象としてとらえ

うるというだけのことであり,教育そのものがそうであると言えるのか。学ぶ側と教える側を媒介

      ■   

するものは,決して無意図的に,無意識的に,結局偶然に出現したものではないからである。それ は系統発生的学習のスケールの中で,即ち時間的・空間的に非常に大きなスケールの中で生み出さ

れて,有効性が確定されているものだと言えるのである。

 以上の2つの条件の他に,第三に歴史的・社会的条件の介在を無視することはできない。この条 件が,いつ・どのように教育的営みに介入してくるのか,予め予想がつく場合とそうでない場合と がある。この条件は,教育に対する〈外的強制〉として現象するのである。前の二つの条件が,教

育の論理に内在的な固有の条件とすれば,これは教育の論理にとって固有のものであるのではなく,

教育が営まれる時間・空間は無条件の時間・空間ではありえないのであるから,その時・空的な

く場〉を構成する根本条件とでも言えようか。この歴史的・社会的条件は,教育の営みのどこ1と作用

を及ぼすのであろうか。学ぶ個体や教える側にストレートに影響することがないのではないが,そ れよりも学ばれる事柄・教えられる事柄そのものに対してではないか。このことは教育の歴史をみ

れば,つまり時間幅を長くとって観ればハッキリする。

 その中で教育が営まれる〈場〉のダイナミズム・強制力・ヴェクトルが,個体に作用しないこと

      

はないが,直接的にであるよりは間接的にく何を学び・教えるか〉に関する判断を通して作用する と言える。このことは,典型的にはく教育と社会体制〉・〈教育と政治〉の問題として論じられる が,両者の関係は決して気紛れで恣意的なものではなくして,一定の有意の関連性があるはずであ

      コ         

る。この関連性をこそ論理的に検討してみる必要がある。教科書(教育課程)が,必ずしも発達段 階論や学問的真理にのみ基づいて定まらないのは,論理的理由があるからだと考えるべきである。

政治的く外圧〉の介入によって教育が ほんろう されるとするのではなく,教育が歴史的・社会 的条件を考慮せずに,無条件の,任意の状況の中でなしうるのか,教育が行われる条件を任意に選

びうるのか,という問題であるととらえるべきである。

 本来,歴史的・社会的条件は個の側が選びとるものとしてあるのではない。人間は自己の生理的 条件を選べないのであるが,それと同じく歴史や社会を選びとって生まれてくることはできない。

即ち,歴史や社会は所与としてそこに在るのである。初期条件としての歴史・社会は,人間にとっ て与えられたものとして,まずは在る。だからこのような歴史・社会が教育の前提条件として在る

ことは根本的な問題である。しかし,この条件を常に肯定的なものとしてとらえることができるか。

また,このく在る条件〉はそのままあるべき,未来の条件として妥当かどうか。〈存在〉は,時間

(未来)に対して対称的ではなく,非対称的である。開かれているのである。〈現在〉がそのまま 延長されて未来になるのではない。即ち,歴史・社会というく存在〉は時間に関して不可逆的関係

にある。否定を媒介としながらある方向(未来)を選びとりつづけなければならない。歴史の中に

在って,歴史をのりこえ・創り出す契機を常に求めつづけなければならない。この結節にあたるも

のがく人類の学習〉なのであろう。従って,それは個のレヴェルの学習に当然反映されることにな

る。個の側から考えるならば,各々が〈人類の学習〉との本質的な関連性を明瞭に意識できるかど

うかという問題はあるが,このようなく引力圏〉からの脱却や無視は不可能である。個には,通常

(5)

佐藤:学習理論の論理構造について{1) 233

は一定の範囲での自由度が許容されているので,その範囲内では全く個的なふるまいが可能である が,その自由度が常にあるのだろうか。それは,歴史・社会という存在が安定である場合には許さ

      の

れる自由度であろうが,不安定であり,ゆらぎがあるレヴェルを超えるような場合にはどうであろ うか。歴史・社会が全体として向かうべき方向を決めることに,個が無関心ではいられないはずで ある。勿論すべての個が一様な関心をもつことはあるまい。統計力学的バラツキはあるだろう。

 歴史的・社会的条件が,何を学ぶかの判断に対する拘束力を,何らかの形で発揮することを,偶 然の事象ととらえてはいけないのである。現象的には偶然事象のように見えることはあるが,それ は現象それ自体が有する偶然性ということ,更には歴史・社会と学習の関連の仕方そのものが常に 必然的であるとは限らないということからくる問題ではないか。いずれにせよ,歴史・社会と学習 の関係が偶然の関係ではないということである。〈今・ここで〉何を学ぶかは,〈今・ここ〉に在 る条件,そして過去に関する条件からのみ決定されるのではない。未来のある時点を予測すること と不可分の関係にある。むしろ,未来のある時点こそが,〈今・ここで〉何を学ぶかを制約するの ではないか。過去はく今・ここで〉何を学ぶかの判断に関していかなる制約となるのか。少なくと も未来がその判断に関してもつ拘束性と同じウエイトをもつとは言えないだろう。過去は,学ぶこ とにとっていかなる意味をもつのだろうか。過去に関して何をいかに学ぶか,その意味と,今及び 未来に関して何をいかに学ぶかということのもつ意味は同じではない。前者については必ずしも判 断を下さず,いわば判断中止とすることがありうるが,今・未来については,本来的には判断中止 はありえない。たとえいかなる未来であっても,時に迫られて選びとらねばならない。あれかこれ か迷ってはいられない。いかなる未来であっても,そのどれかをたぐり寄せ,それを《今につなが

る未来だ》としなければならない。個にとっても歴史・社会にとっても,そうである。両者それぞ れになさねばならないが,それぞれの選択が常に一致し,相補的であり,調和的であるということ はない。常に相互に還元しうる関係にあるとはいえない。この両者の間には,だから矛盾がありう る。そしてこの矛盾がある場合にこそ,何を学ぶか,何を教えるかをめぐって対立が激しくなる。

この矛盾の存在こそが学習の根本的要因であろう。両者が平行関係にあり,無矛盾的に進行するこ とは経験則上ありえないし,それでは未来に対していかにも不安ではないか。未来が過去・今の単

なる延長であったことはないのである。過去及び今までの誤りを未来に持ち越さないということは,

学ぶということの本質的役割である。学ぶというのは,現在までのことに関するプラス面のみを学 ぶことではない。現在までのマイナス面を正確に学んでおくことが,未来における誤り,少くとも 同じ誤りを防ぐことにつながる。またそれ以外の方法によって誤りを未来において防ぐことはでき ないと言える。未来において誤りを犯さないためには,まずは過去の誤りを先送りしないことが必 要なのである。何故なら,未来のいつの時点で,いかなる問題が生じるかを常に,予めすべて予測

し尽すことは不可能であるから,未来における困難のいくつかはそれが生じた時に対応する以外に 方法はない。だが,誤りが,いついかなる形で生ずるかを予測しなくていいことはない。むしろ,

いかなる予測をするかということが,学習の最大のポイントかもしれないのである。3)・

 歴史的・社会的条件を所与としてのみうけとめ,それに従うことのみが学習ではない。この条件

は個にとっては,まず与えられたものとして在る。が,an sichに肯定しうるものではない。人間

は,この所与の条件を修正・改変することによってのみ未来を創出しうる。与件としての歴史・社

会に含まれる矛盾は,常に未来の時・空において解かれる。過去に立ち戻って解決することはでき

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234 茨城大学教育学部紀要(教育科学)38号(1989)

ない。学び直すとするなら,未来において同じ誤りを犯さないという形での学び直ししかない。個 のレヴェルでは,このことが成長という形をとり,人類のレヴェルでは,少なくとも同じ誤りをく りかえさないという歴史的歯止め,即ち不可逆性となるのである。歴史,即ち未来に対してのみ人 間はく投企〉しうるのであり,過去へのそれは不可能である。このく投企〉は,自己修正としての 投企であり,過去と今を切断することによって未来をたぐり寄せることである。未来は単なる延長 としてく在る〉のではないという意味で,〈開放系〉であり,だからこそその開放系を過去と今と につなげなくてはならないのである。いかなるヴェクトルとしてつなげるか。それは学習によって

のみなしうることである。

 ところで,歴史的・社会的な条件に関しては,そのレヴェルを維持しつづけることにかかわる問

題のみならず,歴史・社会の連続性をゆるがす予測しがたい問題がたえず現象しうるとい、う事態が

ある。この問題と学習とはどういう関係にあるのだろうか。歴史・社会の連続性,恒常性をおびや かすような事柄は突然に生ずるという印象を与えることが多いが,その理由は,歴史的・社会的な 予測に有効範囲があることにある。個人レヴェルにおける未来の予測に限度がある如く,とは言え その質的な高さにおいては決定的に相違すると言えようが,人類全体のシステムにおいても予測の 制約性は,時間的・空間的に存在する。予め予測しきれない問題がある。しかもそれらの問題が,

いつ,どこに,どのような形で,いかなる困難さを伴って出現するのか前以って知ることはできな いのであるから,事前からの対応が不可能であり,問題が発生した瞬間から対応が要求される。そ の上,この種の問題は未来に無限に先送りしうる事柄でなく,解決に要する時間と空間に制限がつ く。歴史・社会の存続のための定常的努力に関する困難さは,今までの歴史においては解かれずに 残されている,故に解くべき課題とし七措定されてはいるが,いつまでに解くべきかという時間に

ついては,可及的速やかにという条件があるだけで,たとえ未来へ相当にズレ込んでもやむをえない

とされる。〈先送り〉することが,論理的に不可避であるとされている。

 これを,学習の〈継承と伝達〉と関わらせて言えば,継承,つまり過去への方向に関しては最少 限のエネルギーを費すことによって,未来の予測・対応への最大の効率・有効性を得ようとするこ

と,即ち,伝達の有効性を最大とすることであると言える。過去への学習の時間は無限に許される のではなく,最小限の時間をふりむけることを前提としている。フィード・バックというメカニズ ムは,フィード・バックをいつ,いかなる場合でも必要に応じて行いうるという可能性に関する形 式的論理として成立しているのであるが,時間的には最少限の時間ということを前提としているは ずである。むしろ時間の最も効率的な使用ということを保障するメカニズムがフィード・バックで あろう。学習にとって,過去と未来に関する時間は対称的ではない。非対称的である。時間はいず

れの方向にも等しく,一様にゆるされているのではない。

 困難の解決のための時間,従って創造のための時間こそが十分に確保されねばならない。敢えて 言い切ってしまえば,〈開かれている未来〉というのは,人間が未来に対してふりむける時間ζそ が〈未来に開かれている〉ということであろう。その,ふりむける時間を制約するということは,

生きる時間を制約することになるのであるから,未来に対しては無限の時間が措定されていなけれ

ばならない。少なくとも非限定的時間が措定されていなければならない。その開かれた〈時間・空

間〉の中に,今までの成果を手がかりにして何を実現するか,そのためには,絶えざる努力として

の定常的実践(学習)が必要である。歴史的・社会的に必要な実践(学習)がある。それなしには

(7)

佐藤:学習理論の論理構造にっいて(1) 235

類的存在である人間そのものの存在が不可能なのである。このレヴェルでは,人類全体の努力と個 の努力とは排他・対立的ではなく,平行的に相補的であると言えよう。

 しかし,このような定常的努力を越えて,定常的伝達では解決しえない困難が出来する。この場 合でも,問題そのものが一般性・普遍性をよりは,局在性・局所性を強くもつ時には解かれるべき 時間・空間が限定される。特に解決のための時間が,例えば,ある個体の生命あるいはある特定の く場〉の持続時間にかかわるというような制約を根底においてもつようなことがある。あるいは定 常的な人類の努力と個及び特定の〈場〉との矛盾が,より個や特定の〈場〉に即する形で現象する 場合と言ってよいと思われる。又は,問題自体が本質的属性として有限の時間幅をもっていて,有 限の時間の中で解決されなければならないケースとでも言えようか。このような問題が生じた場合 は,一時的にそこへ努力を集中せねばならない。すべての事柄を同時に行うことはできないのであ り,時間的にどれを優先させるのかの先後関係を判別して対応しなければならない。今までに判明

していること・判明していないことのすべてを使って全力で対応しなければならない。学ぶ側にとっ

て・この種の問題は,選択の余地のあるものではない。すべてに優先させて,あらゆる知識を集中

させて解決に当るべきものである。それが解決されないことには,如何ともしようがない。否応な しに,意識的に立ち向かわなければならない。これは,他からみてその問題がどう見えるかという 評価に基づく介入を許さない事柄である。故に,その解決も必ずしも一般性をもたなくてもよいの である。解決が妥当であったか否かは,それが一般性をもつようになることがあるとしても,基本 的には個乃至特定の〈場〉に即して検討されればよいのである。そして,それらに即した形におい

て時間的・空間的に解決していればよいのである。

 それに対して,人類レヴェルの学習(広義には進化)の過程に直結する形で,予想しがたい困難 な問題が出現することがある。そのような事態にいかに対処すべきか。この場合は,局所的で,限 定的解決では不十分なのである。時間・空間的に統一的な解決が必要となる。だが,空間的な限定 が存在してはならないことは当然のこととして理解されたとしても,時間的には問題の解決のため

の緊急性という制約性があるので,その制約条件のもとでどの範囲まで解決しうるか,逆に言えば,

その制約のもとにあっていかなる範囲までを共時的かつ通時的に統一された時間のうちにおいて扱 えるか,むずかしいのである。だから時間的には,共時的扱いと通時的扱いとに,一応区別して扱 うことになるのであるが,そこで停滞してしまうことが多い。つまり,時間的にも〈限定的〉解決 にとどまることが多い。ただし,実際的に同時に時間的解決と空間的解決とを図らねばならない人 類レヴェルでの問題が発生したのは,核戦争出現以降のことであると言えるので,それまで,この ような問題について深く考えられて来なかったと言える。つまりく逃げる場所〉があるという感覚 があって,そしてそのことが〈やりすごす時間〉があるという感覚につながっていたわけである。

まさしく空間的問題と時間的問題とが相互変換的に扱われていたのである。直接に問題が生じてい

るところにおける,すみやかな解決がなされるまで,直接の問題がない場所で,解決がなされるま

で待てばよかったのである。全体的な問題であるかもしれないことは,その問題を深く考えれば理

解できるとしても,その解決となると,まずは時間・空間的に限定されたところからはじめられね

ばならないということもあり(すべてを一度に解決するというやり方は,革命という解決方法であ

ろうが,空間的には限定されたものとして生じたのである),どうしても時間的・空間的に同時に解

決をするという課題は,狙上にめぼりえなかった。系統発生的学習にかかわる問題の解決は,時間

(8)

236 茨城大学教育学部紀要(教育科学)38号(1989)

的と空間的とに区別して扱われているといえる。しかし,今後は人類レヴェルの学習における時間・

空間の統一の論理が追求されねばならないであろう。

      

 系統発生的学習におけるく解答〉は,たとえそれが時間的・空間的な分裂を条件としていたとし ても,人類全体にとっての解答ではある。いかなる座標軸の変換にとっても不変量として現われる のである。つまり,この解答は各々の時間・空間に固有の条件によって媒介されるのであるから,

一様なものととらえる必要はないし,一様ではありえない。時間・空間は各々の場における流れと 拡がりとを有しているのであり,いつ・いかなる場においても一様ではない。時間と空間が抽象的 に存在しているのではなく,両者の交わるところに生ずるダイナミズムとしての〈場〉がなければ 存在しないのである。人間にとっての生きるく場〉は,事実においても一様なのではない。すべて の人間にとって一様な時間・空間はありえない。時間・空間は,ある固有の流れと拡がりを媒介と

してのみ具象的なのである。その拡がりは,その中で人間がいかなる活動を,何を解決するために すべきかによって定まる。一般的な,任意の時間・空間が与えられていて,そのいずれかの流れと 拡がりを人間が選び出し,その中で活動するのではない。いずれにせよ,人類全体にとっての解答

であるということは,各々の人間の活動によって媒介される時間・空間を変換しても不変量として あらわれるということである。平和の概念や人権の概念は,その典型的なものである。

 ある固有の場によって媒介される時間・空間の中でいかなる解答を出すべきか,それは他の場か らは出て来ないのであり,その場に固有の判断をのみ条件として決まることである。しかし,その ような解答は,座標軸変換に対して不変量を含んでいる。むしろ,そのような不変量の存在を想定 してはじめて固有の解答が出てくるのかもしれない。この意味で解答は,構造的なものである。即 自的なものではない。つまり,ある固有の時間・空間に媒介されるのではあるが,だからといって 直ちにそこに還元することが,常に可能ではないのである。固有の時間・空間とそれから媒介され てくる解答をつなぐものが,歴史的条件であり,社会的条件なのである。

 何を学ぶか,何を学ぶ事柄と判断するかは本質的に,個体の有する偶然的条件としての生理的・

生得的条件によって決められるのではない。学問の論理性・体系性・組織性,それから歴史的・社

会的条件(実践の定常的側面),さらには実践的課題の非定常的な出現(緊急性を有する出現)に

よって定まるといえよう。何を学ぶかの決まり方には,論理性があるはずである。決してアト・ラ

ンダムに,恣意的に,あるいは学習者に与えられている生得的条件(偶然条件)によってのみ定ま

るものではない。学校教育においてく教材〉の選択・決定は,現実的には〈教科書〉の編集・採択

という形をとっている。しかしながら,その教科書の編集・作成の論理は明瞭ではない。教育的配

慮の必要性と必然性という定性的な表現はあるのであるが。何を学ぶかの決定は,子供自身によっ

てはなされていない。それは困難であるとされて,子供に代って,あるいは子供のための教育配慮

に基づいて,子供以外のものが行うのである。けれども,その仕方自体が依然として主観性を免れ

ていない。つまり,子供が学ぶことにとっての核心的テーマであるところの〈何を〉,〈何故〉学

ぶかという問題は,論理的に扱わねばならないが,教科書の編集・作成,さらには採択という行為

そのものに即して,編集者や教える側の判断が妥当性を有するか否かを判別する論理(恣意性の排

除の論理)を有していないのである。教育的配慮に基づいて編集・採択したということ自体は,そ

れを行った側の主観的レヴェルでの判断であるが,果たしてそれが妥当であるか否かは,いかにし

て判断しうるのであろう。子供自身は妥当性の問題について無関係なのだろうか。

(9)

佐藤:学習理論の論理構造について{1) 237

 何を学ぶかについての判断自体の恣意性にまさる恣意性はないはずである。学ばないことは知ら ないし,知らないことは為しえないのである。その恣意性が蓄積されて固定されることは,成長・

発達には重大な問題であり,避けられねばならない。このことに比べれば教師や親の〈教え方〉の 恣意性やマイナスはネグリジブルではないか。少くとも両者を同列に扱うことはできない。後者の 方のマイナスは子供自身が学ぶこと,修正しつつ学ぶことによってカヴァーされるし,この関係は

      

相補的であると考えられる。そもそも,わかり方はすべての子供にとって一様ではないのであるか ら,教え方が一様である必然性はない。この意味で,恣意性がく教える〉ことに介在してくるのは 避けられない。むしろ,それは恣意性というよりは,固有性であると言えよう。

         

 しかし,何を学ぶかの判断が恣意的になされてはならない。この判断のミスが個にとっては致命 的なものになるかどうか,容易に判断しえないとしても,人類にとっては(スケール・アップした 場合は)致命的となりうるので,避けられねばならない。学習の蓄積はやがて個の判断と実践とを コントロールする基礎条件となる。この蓄積(習い性)を無視しては,個は何事もなしえない。し かもこの過程は不可逆過程である。従って,この過程に混入する恣意性は可能な限り排除しなけれ ばならない。この過程そのものを意識的に制御する必要がある。言うまでもなく,教育の論理とし ての制御である。この制御にとって第一の問題は,何を学ぶかの決定である。従来の学習理論にお

いて,この制御のメカニズムがいかなるメカニズムであったかは必ずしも明確ではない。とは言え,

何らかの形で制御はなされて来ているはずである。この問題に敏感であり,迅速に対応して来たの はむしろ権力者である。明治以来の教育勅語体制は,論理的に考えるならばその典型的なあらわれ である。教科書検定問題もそうである。敗戦の際教科書の件について,というよりも文部省存続 の理由として,教科書用の用紙問題及び教科書配布問題があげられたが,実質的には教科書の編成 権を守ろうとしたことがある。また,教科書の編集・採択の問題は,なるほど教師の力量不足や自 覚不足,あるいは自主性の欠如などの点が指摘され,さらにはくよくない教科書〉は学力低下につ ながるというような主張,そして転校の場合の経済的負担があるなどという,一見教育的問題が内 在するような形でとりあげられたのであるが(rうれうべき教科書3の一件はその象徴的できごと であった),しかし本質においては〈何を教えるべきか〉をめぐる論争であり,そこでは教えては いけないこと,避けるべきことが何であるかが政治的に強力に主張されたのである。残念ながら教 育学は,教育学の論理を以ってそれに十分に対応しえなかった。教育的配慮を必要とするか否か一

この問いに対して不要という答はありえまい。子供にとって,すべては,まず所与として在るので,

       の      

その与件を自由意志で選択するのではないからである。与件としての教材の学習には,その学習を 済ませた者によるく配慮〉が不可欠である。とは言え,教育的配慮を〈国民の教育に責任を有する 国・文部省〉が十分に行うためには,いかなる条件が必要であるか,またいかなる問題があるか,

についての検討は不十分であった。権力の〈濫用〉を戒めるとい論理による抵抗では,〈濫用はし

ない〉という言明さえにすら形式的にも対抗できなかった。

 何を学ぶ事柄とするかが,いかなる論理によって決められるのか,そしてそこにはいかなる理論

的なむずかしさがあるのかがさらに十分に検討されるべきである。学習者の生得的条件(興味・関

心等)に即する,応ずるにはいかにすべきかということは,当然その論理構造の追求の過程でとり

あげられるべきである。即自的レヴェルの諸条件に即しつつ対自的レヴェルへの方向づけをするに

はどうしたらよいのか,も検討されねばならない。前者から後者への展開は,ひとりでに,おのず

(10)

238 茨城大学教育学部紀要(教育科学)38号、(1989)

から定まるのではなく,〈方向づけ〉られねばならないのである。未来へのく投企〉がなされねば ならない。つまり,切断が必要である。しかし,それをいかに行うか。いかになしうるのか。この く方向づけ〉がなされなければ,〈今・ここ〉からの進展がない。しかも,それがアト・ランダム に,恣意的に,その場その場における思いつきでなされてはならない。未来についての予測性,現 在に至るまでの過程の十分な分析,そして〈判断〉自体の合理性に支えられてく方向づけ〉がなさ

れねばならないであろう。そのようにして定められたく方向〉であっても,それが妥当な方向であっ たかどうかは,更に検討されつづけなければならないのであるが……。

 心身ともにく未成熟〉で,判断力が十分であるとは考えられない〈学習者〉であるが故に,保護や

配慮を必要とするが故に,学ぶべき事柄をその学習者に代って定める必要があるという考え方は論 理として十分ではない。成程,学習者の心理面に注目すれば事実において,保護・配慮が必然的で あるとしても,そのことがく学習〉のすべてではない。〈発達段階に応じて学ぶ・教える〉という 定式は正しいだろうが,では,何を・いかに学ぶことがく応じている〉ことになるのかについては 十分に論究されていない。〈応じている〉かどうかの判断の論理は明瞭になってはいない。「子ど

もを育てるうえでの困難は,子どもが本来持つ特性に由来するのではない。」4)自らを成長・発達させ

るためにこそ,本来的特性を前提とするのであり,たとえその特性がいかなるものであってもそれ 故に成長・発達が困難に陥るというのは論理矛盾である。その特性は未来においてこそ変化させら れるものでなければならない。未来において自己修正されるのであり,その時に,即自的な特性が 対自的な,質的に発展した特性へと変化するべきものである。常にく根〉として残っていて,すべ てのことがらがそこに還元されるところではない。特性は所与性としての出発点にすぎない。生得 性は,単なる偶然としての前提条件にすぎない。個体の,更には人類全体の発展・展開のすべてを

支配する不変の因子ではない。従って,常にそこに立ち戻ってすべてのことがらを説明するく根拠〉

ではないのである。

 何を学ぶかの判断は,直ちに,それをいかなる範囲・拡がりにおいて学ぶかという問題につなが る。学ぶべき対象は,構造を有しているからである。何を・いかに学ぶか,教えるかはつまり,ど のような範囲において学ぶか・教えるかということでもある。この範囲の設定はいかなる論理に支 えられてなされるのか。発達段階に応じて教育課程が定められるという言明には,いかなる論理が 含まれているべきなのであろうか。次にこの点について論じてみよう。

② いかなる範囲において学ぶのか,学習の量的拡がりの範囲はfいかにして決まるのか。

 いかなる範囲において学ぶべきか,学ぶべき事柄の量的な拡がりは,いかにして定められている

のか。このことについての十分な理論的検討はないのではないか。

 〈発達段階に応じてカリキュラムは定められている〉という言明は,一体いかなる言明なのか。

いかなる論理が含まれているのか。発達段階が一義的にカリキュラムの構成を定めることができる

ということなのであろうか。学ぶ事柄の範囲は発達段階によって定まるのか。両者の間に何らかの

相関性があるということは経験的に,古くから知られていたといえる。それは直接経験に即して考

察することが可能な事柄であったからであろう。プラトンの言う〈随年教法>5)は,そのことの定

(11)

佐藤:学習理論の論理構造について(1) 239

式化であったと言える。ただ,随年教法が何故成立しうるのかについては,それがそうなるという

《結果的な事実》を示すことによって説明をすませてしまっているのであり,いわゆる発達段階論 に拠ってはいない。つまり,そのような事実が在るというのは,それが可能だからであるという対 応論的説明ですませてしまっているのである。しかしながら,子供はプラトンにとっては〈無知な るもの〉であったが,その子供が,生まれてから成人に達するまでの時間的経過のうちに学びとれ る事柄が増大するという事実があること,次に大人の知っている事柄(つまり子供が知らなかった

こと)にまで到達することには気づいていたのである。そして,その進み具合がおおよその〈時間〉

単位,つまり年令段階によって区切ることができるものであることを見出したのである。その区切

られた年令段階にあっては,学習の進み方に均等性・共通性がみられることにも気づいたのである。

特に身体的発達については,その〈均等性〉〈等時性〉が早くから気づかれていたようである。ギ リシャの教育は,その点に着目して《体育》に重点を置いていたとも言える。ギリシャ時代に何故

《体育》が重視されたかというと,それは,一般にはスパルタに代表されるといわれる体育の軍事 的目的のためではない。フィジカルな面での発達に関してではあるが,その発達の経過を経験則的

なものとしてとらえることができつつあったからなのである。

 身体的な拡大が,時間の経過と何らかの関連を有すること,そして訓練をすることによってく強 健〉になることが,経験則としてではあるが自覚されはじめたのである。だからギリシャでは,体 育は医学的な意義を有し,養生法・健康法でもあった。根本的には,体育はフィジカル・ケアなの であった。そして,身体はある種のリズムをもつこと,このリズムを維持することが重要であるこ とに気づいたのである。リズムがくずれた場合と対比して観察すれば,リズムがくずれない状態の 方が,好ましい状態であることはわかるのである。このフィジカルなリズムを介して体育が《音 楽》と結びついたのであり,かくして身体的リズムは音とはなし言葉をも統一していることにも気 づいてく悲劇〉が重視されるのである。音楽は言葉を媒介としたく心のリズム〉であった6)。ギリ

シャ教育が,体育と音楽を重視し,あたかもこの二つの要素から成っているように述べられるのは,

このような根拠があるからである。プラトンも身体の訓練について詳細な言及をしているが,それ は身体的発展がアト・ランダムではないことの認識に基づいてのことである。この認識は,当時は

非常に重要な意味を有していた。身体的活動が年令(生活歴)と内的な関連を有することの認識は,

やがて,精神的活動・展開が身体的活動・展開と関係することにまで及ぶからである。それ故に,

プラトンにおいても音楽教育は年令的に長じてから与えられるものになっているのである。何故な ら,ギリシャにおける音楽というのは声(言葉)を中心とするものであり,言葉による表現は,身 体の機能,とりわけリズム的機能と深く関連し,それを条件として行われるからである。単なる身 体的訓練,また軍事的目的のための訓練が重要だったのではない。ギリシャでは音楽は,声とリズ ムと舞踊との総合体と考えられていたのであり7),この意味でく表現としての音楽〉は身体の技術 的訓練を必然的に伴うのであり,それが欠如していては音楽を学ぶことは不可能だったのである。

身体の調和的発展というのは,単なるフィジカルな身体のバランスをのみ意味しているのではなく,

音楽的表現の基本であったし,従ってあらゆるハーモニーの基礎にあるものであった。にも拘らず,

プラトンやアリストテレスにあっては,近代的意味における〈精神的力能の発展〉に関する認識は 欠如しているのである。子供は〈無知なるもの〉〈不完全なもの〉,言葉の直接的意味でのく未熟

       なるもの〉であった(念のために言えば,現代的には,未熟なるものというのは,未だ定まらざる

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240 茨城大学教育学部紀要(教育科学)38号(1989)

       

ものの意味であると言えよう。成熟の反対概念は不定なるものであろう。)。結果として,あるレ ヴェルに到達するという事実があること,それが年令と何らかの相関性をもつことの認識はあった のだが,それが何故そうなるのか,〈子供から大人へ〉の発達に関する論究はないのである。ソク ラテスのく問答法〉も,論理的には,子供の発達についての認識を前提としてはいないのである。

 随年教法の論理は,中世のカテキズムを中心とした教育,暗言雨を中心としたカリキュラムにも踏

襲されていると言える。そこにも,まだ子供の発達についての認識がない。ほとんどが,大人の学 ぶ事柄がそのまま子供のテキストの内容である。子供の精神発達にあわせたカリキュラム編成では なく,学問そのものに内在する順序性は精神の順序性を体現しているという考え方が中心である。

それは〈自然の順序〉,〈神の秩序〉という観念と深くかかわる。自然は飛躍せず。この観念は,

1900年のM・プランクの作用量子の仮説の導入まで自然科学の研究によって補強されるかにみえ,

事実,生命発生のメカニズムは順序性を有することが明らかになると,その観念は〈自然の階層性〉

としても受け入れられ,輩固なものとされるのである。この観念は教育理論にも大きく影響を及 ぼした。例えば,1818年に書かれたr教育論』において,J・ミルは,ホッブス,ロック,ヒュー

ムの論を籍りながら,人間精神の〈継起・連鎖〉,〈観念が相次いで生じてくる順序〉を教育理論の 根底にすえている。「精神の連鎖は観念の連鎖にある,従って教育の目的は一他の連鎖よりも一ある

一定の連鎖を持続的につくりあげることであって,連鎖そのものについて最大の知識をもつのでな

.ノれば,その目的に対する手段を確保することができない。」8)

 19世紀に至っても,順序性に合わせること(合自然性の観念)が教育理論の中心的テーマであった。

自然の順序性が,人間精神の順序性を支配していると考えられた。生命発展の階層性・系統性,歴 史の継起性・連続性の観念が受け入れられ,人間精神の順序性という観念は一般化したと言える。

(勿論この観念が,静的な,一元的・機械的連続性に根拠をおいた形でとらえられる時期は長く 続かず,そのような順序性や連続性がいかにして生み出されるものであるか,が問題とされ,現在 では単なる継起性として順序性・連続性をとらえることはありえない。)自然の秩序性は人間精神 をも支配するという観念から,人間精神の開発は自然の秩序を追う・従うことによってなされると

いう観念が,直ちにひき出された。このこと自体は非常に重要であった。

 J・ミルは,「自然の連鎖(sequence)が観念の連鎖(sequence)に対応するとき」に観念の

「つながり(train)」としての知性が生ずると考える。「たとえば,でき事それ自体が起るのと同 じ順序で,あるものの観念が次のものの観念に続いて起るとき,その人はあることばの順序を知る」

のである。つまり,「観念の対象が自然において相次いで起こる順序と同じ順序に従って,観念も 相次いで起らねばならない。」9)「自然の順序,あるいはでき事のなかの重要な連鎖によって自然

に印象がつくられる順序」1°)があるのだ。それが知性の基礎・根拠となる。ここにも,未だ子供の 自発性に関する考え方はない。そのことを端的に示すのは,J・ミルのルソーに関する指摘である。

 ミルによれば,ルソーは教育の開始期が,それまで「教育が普通始まると考えられてきたよりも ずっと早く,幼児をとりまく人々が幼児の心にいかに深く善き悪しき性質を刻み込むか,これに着

目した」11)のであり,これが重要なことだったとする。自然の順序に従えば善き性質を刻み込める

のであるが,そうでない場合は悪しき性質を刻み込むことになること,そしてその刻み込みは早い

時期から可能であることにルソーは着目したというのである。 ルソーまでは,教育が始まるのはある

時期以降からだと考えられていた。教育の開始期は,幼児期以降とされていた。学校教育は「六,

(13)

佐藤:学習理論の論理構造について(1} 241

七才頃からはじまり,たかだか成年に達する頃には終ってしまう」12)とされていた(念のために言っ

ておけば,教育の始まりの時期が,六,七才時点であるという観察は,まちがってはいなが,何故

六,七才時点であるのか,その根拠については言語学的に,大人とのコミユニケーシヨンの成立が,

どうやらその時期だという指摘以外には見当らないのである。しかし,今後,教育の成立の時期が,

何故ある一定の年令以降であるのか,解明する必要があろう。)。ルソーは,自然の順序を追うこ とができるのはかなり早い時期からであることに,つまり「ルソー以前,ほとんど完全に無視され

てきた幼児の心の中の様々の重要な事実」13)に着目した。だが,ルソーにあっては〈幼児の心の中

の事実〉そのものの検討までには至らず,教育開始期が幼児期にまでさかのぼりうること,教育の 及びうる範囲が拡大しうること,いわば教育開始期の量的・時間的な拡張が可能であることの指摘

にとどまる。ただし,この指摘はこれ以降の方向を切り拓いたという意味で,また幼児期のとらえ 方の質的転換をもたらしたという意味で極めて重大であることは,言うまでもない。また,ルソー

は何故この点に気がついたのか,これは重要なポイントであろうが,おそらくルソーが音楽の研究,

ことにギリシャ音楽の研究,ことばの研究をしていたことに起因すると思われる。

 ルソーの扱った問題を,エルヴェシウス(Claude Adrien Helv6tius,1715〜1771)は「はる かに深く,かつ体系的に扱った。(中略)まさに出生の瞬間までさかのぼったのである。彼は,い かに早期のうちに消し難い性格が刻み込まれるか」について考察したばかりでなく,「人間にコン

トロールでき,最も重要な結果を生ぜしめる環境が,いかに出生以前にさかのぼりうるかを示した。」14)

エルヴェシウスにとってく環境〉は「燗が生まれて数カ月の間に,あるいは生まれる最初の瞬 間においてさえ力を及ぼす」のであり,「精神に対し永久の資質を刻み込む」15)のである。かくて,

エルヴェシウスによると「教育は万能ではないとしても,教育によってなしえないことはほとんど ない」とされる。だから「教育を怠る人のあやまりほど致命的なあやまりはない。」「ある《種》

の人びとと他の《種》の人びととの間に存在したり,存在するようにせしめられうる相違が,すべ

て教育のためであることは,確かめられている。」「教育によって大きな相違がでてくる」のであっ て,「教育以外のものから生じてくる差異は,証明されたものではなく仮定のものである」16)とい

うのである。現代的に,このエルヴェシウスの主張を解釈すれば,発達の不可逆性(量的形成の不 可逆性),それから教育作用以外のものから生ずる諸々の現象は偶然性であることの指摘であると

言える。

 」・ミルによればエルヴェシウスの主張は,次のように要約できる。「教育の力は,道徳的・知

的に粗野な低い段階とただに現在の完成度ばかりか今後とも可能となる高度の完成の段階との間の,

非常に幅広い領域にわたることになる。教育の力がこのように限りないものであるとすれば,完成

に近づけるべしとの誘因はことばに表わしえないほど大きい。」・17)ミルは,教育が質的展開をもたら

すものであること明瞭にみてとっている。ルソーやエルヴェシウスにおいては,〈受動的な展開〉

の主張であり,基本的には量的拡充の可能性の確認であった教育論が,ミルの段階において,やっ と能動的な質的展開をも見通すものとしての教育論へと転換しつつあると言えよう。つまり,被教 育者(子供)の成長・発展に関する理論的な検討が,本質的に,教育論を支える中心的テーマであ

ることが明確になったのだと言えよう。

 Ph.アリエスは「十七世紀には無視され,十八世紀に発見された子供は,十九世紀には専制君主

となる」18)と見ている。だから,教育理論なるものは,どんなにさかのぼっても十七世紀までしか

(14)

242 茨城大学教育学部紀要(教育科学)38号(1989)

さかのぼらないとしている。19)アリエスの指摘は,〈少なくともフランスにおいては〉というただ

し書きを伴うものであるが,例えば,Johann Amos Comenius(1592−1670)をとってみてもわ かるように,必ずしもフランスにのみあてはまるのではない。コメニウスがことば,母国語の研究 を公けにするのが1630年代以降であり,ことばの研究一聞く・話す・読む・書くという展開は規則 的な事柄であり,人間に共通すること,にも拘らず当時,書き言葉と話し言葉が分裂しており,両 者の習得の間に矛盾があること,母国語にもとつく教育が最も自然であることなどの指摘を含む一 に基づいてr大教授学』が1632年に公刊され,r世界図絵』が1658年に刊行されていることは,偶然 ではあるまい。この二著が教育史的に重要であるのは,知識体系の階層性が年令段階との対応関係 をもつという近代的把握が含まれているからであろう。コメニウスにとって,知識体系が形成され る順序性は人類史全体にも,個の誕生から成人に至るまでの展開にも等しく妥当する時間秩序なの である。知識の体系性は時間秩序に支えられるのである。コメニウスにおいては,その時間秩序を 追うことが人間のく発達〉なのである。この意味では,プラトンには欠如していた〈子供の発達〉

への視点がとり入れられていると言えよう。とは言え,コメニウスにおいても依然として平面的な,

静止的な観方にとどまっていると言わざるをえない。コメニウスの死後約100年後の1762年ルソー がrエミール』を公けにし,コメニウスよりややダイナミックな,立体的なとらえ方に近いとらえ

方をしようとしたのである。かくして,やっと本格的なく子供の発見〉の時代をむかえるのである。

被教育者としての子供の存在は人類の出現と共にふるいのであるが,その子供を論理的にとらえる ことができるようになったのは,十八世紀後半からであると言ってよいのであろう(因みに,エル

ヴェシウスの「人間,その知的能力とその教育について」 (De I homme, de ses facult6s intellectulles, et de son education)は1772年に刊行された。)。

 子供の発見が十八世紀であるというアリスエの指摘は,教育史一般に妥当するものである。近代 教育学の成立・教授学の成立が1830年〜40年代以降であること,初等教育(即ち,すべての子供の 教育)のための学校の確立も十九世紀後半であること,従って本格的な初等教育用のくカリキュラ ム〉の出現も十九世紀後半であることは,逆に子供の発見がそれほど遠くは遡らないことを示して

いる。子供の心理学的研究は,1870年代になって,Ch.ダーウィンによって始められる。1872年刊行

のr表情論』(Expression of Emotions in Man and Animals)は「動物から人間に至る表 情の研究であり,情緒の心理学的研究のはじめといわれる」のであり,1877年刊行のr嬰児の発達 記録』(A Biographical Sketch an lnfant, Mind ll)は「児童心理学の先駆である」とい う(この二つの書の刊行の他にも,ダーウィンはその子供たちの言葉の習得に関する観察を記録し ているともいわれている。)。ダーウィンが「動物心理学と児童心理学という二つの発達心理学へ

の途を拓いた」20)のである。このことは極めて意味深長である。尚,最初の児童心理学書は,プラ イエル(William Preyer 1842−1897)の『児童の精神』 (Die Seele des Kindes)とされ,

1882年刊行である。児童心理学の研究はく精神の医学〉としての生理学の研究・発展に支えられて いるのであるが,〈野性児〉に関する生理学的・精神医学的研究がく子供の発見〉に対して大きい

インパクトを与えているのである。

 精神医学の研究に関しては,Philippe Pinel(1745〜1826)の「医学や精神医学の教育に関す

る思想への貢献」をあげねばならない。ピネルは子供を含む「精神病者は罪に値する罪人であるど

ころか病人なのであって,彼らの理性を回復させるために最も簡単な方法を試みるべきである」21)

(15)

佐藤:学習理論の論理構造について(1) 243

と主張し・実践的な試みを開始した。その過程で精神障害が病気であり,治療可能であることを明 らかにした。こうして,精神にかかわる諸問題が,学問一般のテーマとして扱われることが可能と なったのである。ピネルが1801年に公刊したrマニーに関する医学哲学的論稿』(Trait6 M6dico−

philosophique sur la Manie)序文は〈十八世紀への後記ポスト・スクリプト〉であり〈十九

世紀への序文でもあった〉といわれている。

 野生児に関する生理学的・精神医学的研究において,とりわけ重要なのはくアヴェロンの野生児〉

のケースである。1799年に発見さ.aた野生児についての研究報告書は,1801年に,イタール(Jean Marc Gaspard ltard 1774−1838)等によって公けにされた。この報告書が,本格的なく子供の精 神構造〉の研究の先駆となったことは,教育理論の発展の歴史からみて非常に重要なことであった。

とりわけ精神発達の不可逆性への言及,つまり精神の発展は,素質や生得的諸条件によって一義的 に定められているのではなく,環境とのダイナミックな相互作用を基礎とするのであり,その相互 関係それ自体が時間的秩序・順序を有することの指摘は,それまでの子供観,子供から成人への発 達についての考え方を根底からゆさぶるものであったし,それ以後の研究に対するクリテリウムと

なったと言える。22)イタール等の研究ののちも,野生児の発見があり(1800年代にはその発見が増

加したかの観があるぐらいである),同様に生理学的・精神医学的研究がなされただけではなく,

心理学的,教育学的研究がなされる。23)この結果,身体障害者一般に関する研究も本格化し,精神

と身体との障害についての学問的研究が深まってゆく。それらの研究は現象的には障害現象を扱う

のであるが,根本的には発達の研究であるといえる。

 子供についての研究は,やっと十九世紀になってから始められたと言ってよい。とりわけ子供の 発達の量的研究,質的研究,身体的発達と精神発達との関連についての研究は最近のものである。

とするなら,〈発達段階に応じたカリキュラム編成論〉も,きわめて近代的なものであると言わね ばならない。しかしながら,教育が営まれる場合,たとえそれが古代社会における教育であったと しても,そこには必ず何らかの形において構成されたカリキュラムがあったはずである。では,そ のカリキュラム構成の論理はいかなるものであったのか。学ぶ事柄・教える事柄とその範囲は,い

かにして定められていたのであろうか。このことを改めて検討する必要がある。それをしないと〈発

達段階に応じたカリキュラム編成論〉そのものの論理が明らかにならないのではないか。そもそ

も,この考え方が理論として十分な内実をそなえているのかどうかという問題すらあるのではない のか。つまり,発達段階論がカリキュラム編成を根拠ずけるというのは,いかなる意味においてで あるのか,カリキュラム編成を条件づけるというのは〈発達〉がいかなる論理構造を含んでいるか らなのか,とりわけ発達段階にく応ずる〉場合というのは,いかなるカリキュラム編成がなされた 場合を指して言うのか,明瞭にされているのかどうか。単なる定式としての言明にとどまっていて は,現実の学習・教育に対して,いかにも無力ではあるまいか。歴史的にも,何故,〈発達段階に 応じた〉カリキュラム編成がなされねばならないというところにまで至ったのか,至らねばならな かったのかが明らかにされねば,この理論は有効性をもつとは言えまい。教育がなされて来ていな

がら,何を,いかなる範囲において学び・教えたらよいのかという判断の根拠が,不明のままであっ

たのだろうか。非常に長い間,学習者の側に立ってではなくて,それ以外の観点から,学ぶべき・

教えるべき事柄とその範囲が定められて来ていた事実を,いかに把握し直すべきであろうか。

 何を学ぶ対象とするかの判断は,必然的にそれがどのような順序で,どの範囲まで学ばれるのか

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