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ユア・フレンド事業に対する心理臨床学的考察

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(1)

ユア・フレンド事業に対する心理臨床学的考察

藤 中 隆 久 *

our friend project discussed from some angles of clinical psychology  Takahisa FUJINAKA 

は じ め に

【問題と目的】

熊本大学教育学部と熊本市教育委員会との連携協 力に関する協定により,熊本大学教育学部附属教育 実践総合センターが中心になって,平成

14

年度より

「ユア・フレンド事業」がスタートした.この事業 は熊本市内の不登校の児童生徒に対して,大学生の ボランティアが家庭に派遣され支援活動を行うこと をその骨子としている.学生ボランティアは,熊本 大学教育学部で募集する.平成

14

年度の記録による と,まず

4

20

日に学生に対する説明会を開いた

(128

名 参 加 入 そ の 後

5月18

日に研修会を開いた

(84

名参加).研修会に参加した学生を基本的には ユア・フレンド事業の登録者とした

(83

名登録). 

その後,派遣を希望する小,中学校より依頼を募り,

派遣を希望する家庭の子どもと登録者のボランティ ア学生の情報を照らし合わせてマッチングを行い,

6

19

日には,

3

名の学生が家庭に派遣された.そ の後も順調に派遣数は伸び1

5

2

月の時点では,

37 

名の学生が家庭に派遣された.登録者の中には小,

中学校の保健室に派遣された人や教育センターに派 遣された人などもいて,大半がボランティアに従事 することができているが,一部に今年度は派遣先が 見つからない登録者も出た.

以上の活動記録を見る限り事業の初年度としては 成功といってよいであろう.しかし,当然のことだ が課題もいろいろある.その課題をソフト部門と ハード部門に分けて考えてみると,ハード部門では,

例えば派遣先がなかった登録者もいたことである.

あるいは,この事業の広報活動が不十分だ、ったため に,現場に知れ渡っていなかったなどの不備もあげ られよう.それらの課題は,初年度の経験を糧に考 察を重ね改善してゆくべきであるが,ここで論じる べき課題とはしない.ここでは,ソフト部門の課題 を考察しておきたいのである.特に,この事業の核

*心理学科

ともいうべき学生ボランティアという存在をどう意 味づけるかを,大きな課題として論じたい.

学生ボランティアを派遣する意味を辻野

(2003)

は「子どもたちと年代の近い若い学生の力を借りて,

何とかその改善の糸口を見いだせないか,というこ とから出発しております.すなわち,音楽,スポー ツ,趣味やものの考え方など,子どもたちと共通の 価値観を見いだしゃすしまた,柔軟な発想力等を 有する学生と触れ合い,時間と空間を共有すること によって,悩みを抱えた子どもたちが一歩を踏み出 すきっかけになってくれることを期待するものでご ざいますJ と述べている.確かに,この言葉の説明 する通りである.ここに掲げたような効果は期待し てよいであろう.しかしユア・フレンド事業の持つ 問題点、もまた,この学生ボランティアに含まれてい るのではないだろうか.問題点という言葉が悪けれ ば,限界と考えてもよい.

まず大きな問題点あるいは疑問点は「それで果た して不登校児が学校復帰できるのか

J

ということだ と思われる.不登校児が大学生と話をするだけで彼 らの悩みはなくなったり,あるいは減少したりする のであろうか.そしてその結果として,不登校児 童・生徒の学校復帰へと結びつくのであろうか,と いう疑問である.

このような疑問がある限り,ユア・フレンド事業 を現場教員に広報しても,現場の教諭側のこの事業 を利用しようという動機付けがもう一つ高まらない の で は な い だ ろ う か , と の 危 倶 が あ る . 江 口

(2003)

は,この事業の市教委側の担当者として,

学校側のこの事業に対する認識の浅さを指摘してい る.この指摘には市教委の啓発活動が不十分で、あっ たことの反省も込められている.しかし,今ここで あげたような疑問に答えられなければ,啓発活動を 十分にしてこの事業の存在は全職員に周知徹底がな されたとしても,利用してみようという動機付けが もう一つ高まらないことが危倶されるのである.

また,それと関連する問題点でもあろうが子

Fh u 

A

(2)

どもと話をしなさい」と言われて送り出されたボラ ンティアの大学生たちが当惑しないだろうか,とい うことである.

r

自分のボランティア活動が,学校 復帰へ向けての準備に何か寄与できているのだろう か

j

とか「話はするもののそれだけで果たして何ら かの意義ある活動になっているのだろうか

J

とか,

あるいは「もっと積極的に登校に関することも話し 合った方がいいのではないのだろうか」等の疑問を ボランティア学生が持つかもしれない.しかも,そ の疑問に対し彼らが自分なりの納得ができていなけ れば,この事業の利用者(つまり不登校児童・生 徒)に対するサービスの質は低下するであろう.

ボランティア学生が納得のいかないままに子ども に関わるということは,関わる側の精神的な安定感 が揺らぐことを意味する.堀川

(2003)

は,ユア・

フレンドの学生が意見交換会で「自分のユア・フレ ンド事業が中途半端になっている.

J

とか「学校へ 行ったら事業の趣旨は,学校・教師聞がぱらぱらで 理解も十分でなく,

r

何しに来たの』というような 感じで辛かったJ等と発言するのを聞いたことを記 している.ボランティア志望の学生には研修を受け ることを義務づけている.しかし,多くの学生はユ ア・フレンドのコンセプトを研修では明確に理解で きなかったのかもしれない.これは研修を受ける学 生側の問題というよりも,研修を与える側が,この 事業のコンセプトを明確にして効果的に伝えるべき であるという問題であろう.

さてここまでに論じてきたようなソフト面の課題 はあるのだが,この課題を解消するためにはどうす .ればいいのだろうか.それは,この事業を心理臨床 学的に考察する事ではないだろうか.そのような考 察により,この事業の効用と限界を明らかにし,こ の事業のねらいを明確にする必要があるのではない だろうか.そこが明確になればボランティア学生た ちはこの事業の意義を明確に把握する事ができるよ うになり,精神的な安定も得ることができるであろ う.また,そこを明確にしておいた上で,現場に対 しての啓発活動を十分にすれば,教諭がこの事業を 利用しようとする動機付けが高まるであろう.ひい てはそれらのことが全て利用者の利益につながるの ではないかと思われる.

したがって本稿では,まず,この事業が心理臨床 学的にはどのような意味があるのかを論考し,この 事業のコンセプトを明確にする.その上で,今後こ の事業をよりよいものにしてゆくための提言をする ことを目的とする.

【不登校児の見立て】

心理臨床学的意義を論ずる前に,ユア・フレンド 事業の対象者理解のために不登校児童・生徒とはい かなる存在なのかを確認しておく必要がある.不登 校児童・生徒の分類の方法としては,主に現在の不 登校児童・生徒の状態像に注目してなされた分類と,

主に不登校になった原因を推定してなされた原因論 的分類が考えられよう.

状態像からの分類に関しては小泉(1

973)

の狭義 の不登校としての「優等生の息切れ型

Jr

分離不安 型J

r

自我未熟型Jがある.また,文部科学省は① 学校生活に起因する型,②遊び非行型,③無気力型,

④不安等情緒混乱型,⑤意図的な拒否型,⑥複合型 という分類をしている.木原

(2002)

は,ユア・フ レンド事業に対応できる不登校のタイプは,上記の 文部科学省の分類の③無気力型と④不安等情緒混乱 型であると述べている.しかし,これらの分類では,

不登校の子どもに対しどのような働きかけが有効な のかという点については,検討しづらい側面がある.

では,原因論的分類から,彼らに対する有効な働き かけの検討は可能であろうか.

原 因 論 の 一 つ に 母 子 分 離 不 安 説

J(Eisenberg: 

1958)

がある.この説のユニークな点は分離不安を 起こしているのが子どもだけではなく,母親側でも あることを論じた部分であろう.また,

Leventhal 

(1964)

の「過大自己像説Jがある.過大な自己像 を描き出したきた子どもが,やがて現実の自己を自 覚せざるをえない局面に接した段階で不登校になる ということなのである.我が国においては,佐藤

(1967)

の「子どもの心理的独立の挫折J説がある.

高木

(1964)

の「父親像の不在

J

説がある.また,

先述した小泉(1

973)

の分類にも原因論的側面は含 まれていると言ってもよいだろう.このような原因 論的分類は,状態像からの分類に比べると,不登校 に対する有効な働きかけを検討することが可能にな るという点では,利点がある.例えば,母子分離不 安型の不登校には,母親と子どもの分離を促すよう な対応が有効ではないかという提言がなされうるで あろう.あるいは,過大な自己像を描いている子ど もには正しい自己認知を促す働きかけが有効ではな いかということになる.しかし,これらの対応策を 実行するとしても,では,彼らに対して「母離れし なさい

Jr

子離れしなさい」とか「もっと自分のこ とを理解しなさいJ とダイレクトに述べてゆく方法 が奏効するとは考えにくい.原因論的分類により,

対応策の大きな枠組みは示すことができたとしても,

具体的にどうすればよいのかというレベルの検討は,

依然として困難といわざるを得ないであろう.

(3)

では,より具体的な対応策の示唆を内包する不登 校児理解が可能となる説はないのか, と考えるとき,

山中

(1978)

の「内閉論」が挙げられるのではない だろうか.山中は不登校の時期を

rseclusionJ 

( 内 閉)と見立てている.この時期の子どもはいわば

「サナギ

J

の状態だから,ここを焦らずに彼らに同 行しながら待ってやる必要があるというのである.

そうすれば「脱皮Jの時機も到来し「自立」してゆ くことができることを説いたのである.彼らは,学 校へ行かないで,ただ無為に家庭で過ごしているか のように見える.しかし,

seclusion

とは,徳川時代 の「鎖国Jを表す言葉でもあり,この時代の日本に おいても,外国とのチャンネルとしてわずかではあ るが長崎の「出島

J

が聞かれ外界との交流があった ように,

seclusion

の時代の子どももわずかに外界に 対して窓が聞かれている.それが一般的な価値観で はとる足りないもののように見える.例えばそれは,

ファミコンであったり,アニメであったり,釣りで あったりする.しかし,徳川時代の鎖国政策のおか げで, 日本は外国からの脅威一例えばキリスト教や 鉄砲あるいは列強の植民地政策ーからは守られ,ま たわずかではあるが,外界からの文化もとり入れる ことにより,その内部では江戸時代特有の文化が成 熟した歴史が存在するのである.その窓が,幕末か ら明治にかけての開国の際には,一定の有効な役割 を果たしたともいえよう.

このように不登校の時期をs

eclusion

と見立てれば,

より具体的対応策の提言が可能となる.具体的対応 策,それは彼らにとっては脅威と思える外界からは 守ってやることで,その聞の自我の成熟を保証して やり,また取るに足りないと思えるよ'うな窓で、あっ ても,その窓を彼らが決して閉ざすことがないよう な働きかけが有効と言うことなのである.その窓が 開いている限り,窓からの情報を取り込むことによ

り自我の成熟に対する一定の寄与は期待できるであ ろう.さらには,

seclusion

を終えたときには,その 窓が有効な役割を果たすことも可能でなのである.

山中は自らのこの説を,現在ある治療論の中では中 核というよりも近縁に属するものと捉えているよう ではある.しかし,彼らの状態像をこのように見立 てたときにこそ,先述した,過大自己像説から導き 出された「正しい自己認知

J

の促進の方針も,ある いは「母子分離不安型」から導き出された「親離れ,

子離れ」の方針も,あるいは文部省の状態像からの 分類も,具体的対応の中に組み込み捉え直すことが 可能となるのではないだろうか.

[不登校の心理療法】

一般に心理療法といっても様々な立場があり,

様々なアプローチがある.しかしここではこれらの いくつかの代表的なものの概論を紹介することは省 略し,主に対話を通して進められてゆく神田橋

(1997)

が述べるところの,学派を超えた「対話精 神療法

j

の視点から,不登校児の心理療法で何が起 こっているのかを述べてゆくことにする.なぜ「対 話精神療法」として取り上げるのか.それは,ユ ア・フレンド事業とは,そもそも不登校児童・生徒 に対しボランティア学生を派遣し,何をするかとい えば,話し相手になること,つまり「対話

J

をする ことを目的としているのである.つまり,ここで対 話精神療法を取り上げることにより,ボランティア 学生と不登校児童・生徒の問でなされる対話と,対 話精神療法においてカウンセラーとクライエントの 間でなされる対話との対比を論じたいのである.

カウンセリングにおける対話でもっとも重視され るものは,

C. R

・ロジャーズ(1

957)

の唱えた,

いわゆるセラピストの

3

条件であろう.ロジャーズ は,まずクライエントを,不一致の状態にあり,傷 つきやすく不安な状態にあると捉え,そのうえで① セラピストはその関係の中で一致しており統合して いること(いわゆる「自己一致

J)

②セラピストは クライエントに対して「無条件の肯定的配慮

J

を経 験していること(いわゆる「無条件の受容

J)

③セ ラピストはクライエントの内的照合枠を共感的に理 解しており,この経験をクライエントに伝えようと 努めていること(いわゆる「共感的理解

J)

,という

3

条件を提示した.この説は,セラピスト側に対し て必要かっ十分な条件を提示した点においてユニー クなのであるが,しかし氏原

(2000a

2000b)

によ れば,ロジャーズのこの説が,後に我が国ではカウ ンセリング・マインド論を生み,そのことでカウン セリングの専門性をかなり暖味にしたことは否めな いということなのである.その結果,カウンセラー の専門的な診断は無用であり,有害でさえあるとい うような誤解も生じた.誤解の原因は

3

条件を満 たした人間関係さえ成立すれば(言い換えれば,ク ライエントに対し「受容J

r

共感J

r

自己一致J さえ できれば)カウンセリングは成り立ち,クライエン トは回復するのであり,素人でもそのような人間関 係をクライエントとの聞に成立させることが十分に 可能である,と感じられた点にあると思われる.し かし,この「人間関係

J

にすべてを帰する考え方に 実は大きな危険性が含まれている.

例えば,この

3

条件を矛盾なく満たすような人間

‑147‑

(4)

関係を成立させることは,経験してみればわかるこ とではあるが,かなりのトレーニングが必要である.

また,そのトレーニング過程では様々な困難に出会 うものであるが,それでも困難を乗り越えて,あき らめずに続けてゆくためには,臨床心理学に関する 様々な知識(当然そこには診断論も含まれる)が必 ず必要となる.そのようなトレーニングを経て,日 常生活におけるそのような人間関係と,カウンセリ ングという特殊な局面におけるそのような人間関係 は様相が異なるものであることに気がつくのである.

この人間関係はカウンセリングという枠を設定する からこそ可能であることは間違いない.この関係を カウンセラーでなければ築くことは絶対に不可能で あるとは言えないであろう.しかし,このような関 係をカウンセリングの場以外の場で築いたとしても,

カウンセリングにはならない.またそのような人間 関係をカウンセリング以外の場で築くことができた としても,それが意図してに作られたものでなけれ ば,その場で起こるであろう効果に確実性は期待で きない.そのような事情を考慮せず

3

条件を満た す人間関係とカウンセリング・マインド論による安 易な治療論は,結局はカウンセラー以外の人が築く 良い人間関係さえも生かすことができずに終わるの ではないだろうか.

以上述べたように,ロジャーズが唱えたような人 間関係を作ることは,カウンセラーが設定するカウ ンセリングであるからこそ可能なのだとすれば,で は,そのカウンセリングの場ではどのようなことが 起こっているのであろうか.そのことについてここ では氏原(1

995

2002)

を援用し,ぷ下に簡潔にま

とめてみる.

氏原

(1995)

は,カウンセリングでカウンセラー のすることは「クライエントと意味のある共有空 間」を作ることである,と述べている.そのような 空間の中でこそ,両者の意識の様々な部位が相互に 影響を与えあい,共振し,それぞれの心に新たなプ ロセスが展開されるのである.従って,そこではカ ウンセラー自身にも何らかの心的プロセスが感じら れていて,そのわき上がってくる感覚をカウンセ ラーがしっかりと感じ取ることが非常に重要となっ てくる.これを図

1

で示す.

氏原

(2002)

はこの際のカウンセラーの関わり方 を能動性と受動性という言葉を使って説明している.

例えばクライエントの話をロジャーズが述べたよう な共感的理解の態度で熱心に傾聴したとしよう.す るとそのときにはクライエントがどう感じているの かを,カウンセラーもある程度納得ができるように

(患者) 自我

(分析家) 砂 自 我

無 意 職 惨 無 意 織

4

1

カウンセリング関係(氏原:1

995  P 13

より引用) なる.そしてカウンセラー自身がそのように感じて いることが,すなわちクライエントの感じているこ とにも近いはずなのである. (ロジャーズによる共 感的理解の定義からすればそうなる.)しかしカウ ンセラーがそう感じていたとしてもそのときのクラ イエント状態では,クライエント自身が自分の感情 をそう感じているとは限らない. (これも,ロ ジャーズによる「クライエントは不一致の状態であ る」という定義からすればそうなる.)したがって,

クライエントがどう感じているのかを,カウンセ ラーが感じ取る努力を続け,それをクライエントに 伝えてゆくことが必要となる.それを伝えてゆくこ とで,クライエントの内部には,自分自身がどう感 じているかを明確にしてゆくプロセスが生じる.こ のような両者の相互作用により,クライエントは自

らの感情を自分のものとして受け容れるようになる.

これがクライエントにとっての感情機能の回復であ り,主体性の回復なのである.ここで,大切なこと は,カウンセラーはクライエントの話を受動的に聞 く存在ではあるが,同時に自らが感じたことを能動 的に感じ取りクライエントに伝える存在でもあると いうことである、従ってクライエントの話をひたす

ら共感的に聴くためにも,ただ受動的であれば良い というわけではなく,能動性が必要なのである.そ してその両者をカウンセラーが統合して意識化でき ているからこそ,カウンセリングの空間が「意味の ある共有空間」となり,カウンセラーとクライエン トの聞に図

1

で示したような相互作用が起こるので ある.

上記のようなことが「対話精神療法」で起こって いると考えられれるのに対して,では,ユア・フレ ンドにおけるボランティア学生と不登校児の問の対 話では,いかなることが起こっていると考えられる だろうか.対話精神療法で起こったようなことが,

ボランティア学生の訪問でも起こっていて,ユア・

(5)

フレンドの学生にはカウンセラーとしての側面を期 待しても良いものであろうか.

先述したとおりロジャーズが唱えた

3

条件の延長 線上にカウンセリング・マインド論が生まれ,それ が専門的関わりの軽視につながったのではあるが,

しかしカウンセリングにおいて初めて担当したケー スがうまくいった経験をしたカウンセラーは多い.

なぜほぼ素人といってもいい段階のカウンセラーに そのようなことが起こるか.その理由として氏原 ( 2 0 0 2 ) は,能動性と受動性が帯離せず, うまく機 能しているからであると推測している.ところがそ の段階を経て専門的な勉強をある程度すると,今度 は以前ほどうまくゆかなくなる.理論を学ぶことに より受動性と能動性の両者が帯離を起こしはじめ,

受動性が優勢になるからであるからである.勉強す る前ならばこの両者の帯離が起こりにくく効果があ がることに比べ,勉強を始めると両者の事離が起こ り効果が上がりにくくなるという現象は,逆説的で はある.しかし,さらに深く勉強を続けることによ り,この両者を帯離させないことを意識してカウン セリングを実行することが可能となる.この段階は,

初心者が意図を持たないからこそ両者が事離をしな い段階に比べ,意図を持って講離をさせない段階で あるとも言えよう.演野 ( 2 0 0 2 ) は,素人と専門家 の関係を昔話の「こぶ取り Jの二人の翁に見立てて いる.素人をこぶを鬼にとってもらった一人目の翁 に見立て,専門家をこぶを鬼につけられた二人目の 翁に見立てて心理臨床の専門家は,はじめの翁 の振る舞いの重要性を十分に認識しつつ,二番目の 翁の道を自覚的に歩む者である J と述べている.こ こで大切なことは,自覚的ということである.つま り受動性と能動性を意図して帯離をさせないことな のである.カウンセリング・マインド論ではこのよ うな事情を考察していないため,より純粋な人間関 係を作ることができるものが,良き援助者というこ とになり,ひいては専門性の否定にもつながるが,

ここには「意図性」の側面で大きな誤りがある.

確かに素人でも純粋な人間関係を作ることにより,

結果的にカウンセラーとクライエントの聞に起こっ たような現象を起こすことは可能であろう.従って,

ユア・フレンドのボランティア学生も不登校児との 対話において,先述したような専門のカウンセリン グで起こるような現象を起こすことはあり得る.そ ういうことがあり得るのであれば,ボランティア学 生にもカウンセラー的側面を期待しても良いことに なる.事実期待して良いのであろう.しかし,これ は不確実な期待である.両者の帯離を意図的に起こ さないようにする技術こそがカウンセリングであり,

意図せずとも結果的にそうなった状態とは,確実性 が異なる.意図的にそのような状態を作り出すこと を,彼らには期待はできない.意図をしないからこ そ,到達できる状態なのである.したがって,ボラ ンティア学生と不登校児の対話に,専門的なカウン セリングで起こるような現象が起こる可能性はある が,これをユア・フレンドの第一の目的とは考えな い方が良い.では,ユア・フレンドの主目的をどう 考えればよいのであろうか.

ここで,前述した山中の不登校の時期を

rseclu

sion

内閉)

J

とする見立てが効果的なのである.

不登校の子どもは無為に内閉しているわけではなく,

内側では自我を成熟させている.また完全に内閉し ているわけでもなく,社会との窓は一部開かれてい て,その窓は有効に機能しているのである.彼らに は外圧の脅威から守られた成熟するための空間が内 閉することによって保証されているのである.しか しまた,開かれた窓を通して外部との交流を途絶え させないことが現在の成熟にも貢献しているのであ る.外部との交流を通して得られた情報を自我に同 化することで自我も強化されるのである.そして自 立の際にはその窓も一つの役割を果たしてくれるの である.不登校児のそのような窓は閉ざされるべき ではない.窓を閉ざさせないためには,窓を通した 交流が必要である.ボランティア学生の家庭訪問お よび対話は,この窓を通した外部との交流というこ とであり,交流することそのものに意味がある.し たがってそこでなされる対話は,上述したカウンセ リング的相互交渉のコミュニケーションである必要 はない.そのようなコミュニケーションをしようと いう意図を持ってボランティア学生が彼らに関われ ば,その窓も閉ざされ,コミュニケーションそのも のができなくなる可能性がある意図を持たない関 わりが,カウンセリング的コミュニケーションが起 こる可能性を高めるのである. (もちろんここでそ の可能性を高めようという意図を持つべきで、もない が.)ボランティア学生と不登校児童・生徒の対話 は図

2

のような様相である.

無意織 無意識

2

ボランティア学生と不登校の子どもの会話

‑149‑

(6)

1

とは,相互交流のやりとりの深さ,およびそ れぞれの内省の深さにおいて異なっているが,ユ ア・フレンド事業としてはこちらを第一の目的とす べきでなのである.そしてこの図

2

のようなやりと

りにも広義の心理臨床的意義は大いに存在する.

【ユア・フレンド事業におけるボランティア学生の 心理臨床学的意義〕

ここまで述べてきたようにボランティア学生の交 流は,基本的には図

2

の様相を呈している.このよ うな交流は神田橋(1

997)

が述べる三角形の対話で もある.

r

私J と「あなたJのあいだで

r""

につい て」語り合う対話である.このような交流こそが対 人関係を安定させる基本といえよう.

r

私Jが「あ なた

J

について語り「あなた

J

が「私」について諮 る二者の関係だけの対話は,深まってはゆくが不安 定である. 日常において我々は大半が図

2

のような レベルで,三角形の対話を交わしているはずである.

それによって他者との聞に安定した関係を築くこと ができる.この日常的安定性がベースに存在するか

らこそ,図

1

のような交流も効果を発揮するのであ る.不登校児に対して三角形で図

2

のようなレベル の基本的交流を提供できるのがボランティア学生と 考えられる.山中の内閉論において示されているよ うに,不登校児が窓口とする物は,一般的には価値 がないものと見なされていることが多い.ゲームと か,漫画とか,アニメとか.しかし,それらを通し た不登校の子どもとの交流は,その価値があまり認 められていないものだけに,一般の大人では難しい.

カウンセラーも一般的な大人であるからその事情は 同じである.その窓口での交流が比較的容易な存在 が,ボランティア学生なのである.この窓口を開い ておくことが彼らにとっては心を開いておくことで あるから,それを閉ざさないようにしなければいけ ない.

また,ボランティア学生を,山本

(1986)

が唱え たコミュニティモデ、ルの心理臨床や村山

(2002)

が 述べているケアシステムとしての援助論,あるいは 氏原

(2000a)

が述べる「カウンセラーとクライエ ントの仕事は必要条件であって,十分条件ではな いJ という視点から捉えることも可能である.

r

族,ケースワーカー,医師などの力が十分集まって 初めてカウンセラーの力が生きる.カウンセラーの 受容は, (中略)いわば最後の

1

グラムを提供し,

見たところそれだけでクライエントが良くなったよ うに思えることがある.実は

100

のうち

99

までの条 件が整っていたからこそ,しかし

100

のうち

1

が不 足していたばっかりに十分条件が満たされていな

かっただけなのである

J

と氏原は述べている.援助 には様々の種類の人が,様々な種類の人間関係を提 供する必要があるということなのである.不登校児 にとって三角形の対話により楽しい経験できる人間 関係も必要なのである.そのような条件が積み重 なった後に,はじめてカウンセリングが効果を発揮 する.したがって那須

(2003)

の「自分が楽しまな いと,周りを楽しい雰囲気にできない

J

と考え,

「ユア・フレンドの位置づけは難しいが,人と人の つきあいだから理論でなく自分の素直な気持ちでつ きあうことが大切Jとする考察は様々な側面から見 て正しいのである.

【まとめと提言】

以上,ユア・フレンド事業におけるボランティア 学生の意味づけを論考してきた.冒頭に取り上げた

「それで果たして不登校児が学校復帰できるのか

J

という疑問にも,ボランティア学生が感じるであろ う「自分のボランティア活動が,学校復帰に向けて の準備に何か寄与できているのだろうかJ とか「話 はするものそれだけで果たして何らかの意義ある活 動になっているのだろうかJ という疑問にも,ここ までに論考したことが答えとなるであろう.ここで 論考したような内容ーユア・フレンドは学校復帰を 目指す事業ではなく,学校復帰を目指さなくてもこ の事業は不登校の子どもにとって大いに意義をもつ ものであるーを啓発活動のためには現場の教員に伝 えてゆくべきである.またボランティア学生にはま ずは事前研修でそれを実感的に納得させるべきなの である.そのためにはコミュニケーションが可 能な窓口を見つけ,それを通して他者と楽しく関わ ることがいかに大切であるか

J

ということの理論的 な考察を提供し理論的に納得させることと,その理 論と共に体感的な納得をボランティア志望の学生が 得られるような事前研修を提供する必要がある.体 感的納得の面ではボランティア志望の学生自身がこ のようなコミュニケーションの楽しさを感じ,それ によって心が安定する経験をすること,さらには,

このようなコミュニケーションを不登校の子どもと できるのは,大学生という存在だからこそであると いう,自らの存在意義を意識できるようにすること,

などが考えられよう.そして彼らがそのように感じ,

とにかく不登校の子どもと楽しくお話をしようとい

う意識に徹してしまえば,自然と「学校復帰Jは意

識にも上らなくなり,自らの関わりに対して自信と

安定感が出てくるのではないだろうか.そういう感

覚を彼らが持ち得たときこそ,親でもない,担任教

師でもない,カウンセラーでもない,ユア・フレン

(7)

ドのボランティア学生という独特の関わりについて のアイデンティティを持つに至り,結果としてより よいサービスが提供できるのではないのだろうか.

文 献

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参照

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