仮定法に関わる形式の
Free Thought Space Builderとしての
意味機能
樋 口 万里子
(英語学)
Preliminary
英語の仮定法表現には,ifやwish等と過去形の節が結び付いた形式や過去 形の助動詞等が関わってくる。
(1) If men had wings, they would fly.
(2) Iwish they were here now.
とはいえ,それらは必ずしも仮定法的な内容ばかりを表すのに使われるとは限 らず,次のように,直説法の部類に入る,過去の推定を表す場合にも用いられる。
(3) If it was rainy in Osaka yesterday, he would not gα1)
(4) If they were here yesterday, they would see the accident.
(探偵が被疑者の行動を推理している場合など)
また,仮定法といっても,明らかに事実に反している場合から,反事実的色彩 1)この例文(3)については,伊藤和夫著『英文法教室』「研究社」において『「昨日の大
阪の天候」についてはっきり知りえぬ状況で「もし昨日の大阪が雨だったら」と仮定 したもので,wasは直説法,主節のwouldは過去の推量である。(p.106)』と解説さ
れている。
これに関して『英語教育』(1989.12.月号pp 67−68)で,村田勇三郎氏の批判的言及 と共に例文[A]について,①仮定法過去の読みと②過去の出来事の推量の読みとの二 つの解釈の可能性についての質問と同氏の②の可能性はないという解答があった。
[A] If he took the exam, he would/could pass it.
村田氏は,wouldが推量を表す用法は現代英語では頻度が低いとして,例文(3)の様 な文を容認しない立場を取っているが,例文(3)は自然な文であり,伊藤氏の記述には 何ら問題はない。ただし,wouldは過去推量を表しているというよりは,単にtenta−
tive possibilityを表しており, yesterdayなどの過去を表す副詞がある為に,それが 過去についての言及であることが解るということであろう。
又,②の解釈の可能性は,全くないのではなく,例文(3)にはあるyesterdayの様な 過去時の言及であることを規定する要素がないのでdefault読みが優先し,それなり のコンテクストがなければ②の解釈がやりにくいだけであろう。例えば,「昨日の試 験の合格者名簿の中に彼がいないが,彼は受けなかったのかもしれないとか,名簿作 成上のミスがあったのかもしれない」等と推論を展開している場合を考えてみると,
推理の一段階として,②の解釈ができる[A]が存在できるのではないだろうか。
この様な議論が起きるのは,wouldの意味に捉え難い所があるせいでもあろう。本 稿の目的は,ある意味では,このwouldの意味を捉える為の枠組を構築することに
もある。(註9参照)
の濃いもの,更には直説法の叙述と意味的に峻別するのが難しい程連続的な,
いわゆるtentativeな表現まで,幅広い概念に関わっている。
(5) There could be something wrong with the light switch.
(6)That would be true.(真実だと思える場合にも使う)
本稿は,この様な形式と意味との関係について,最も自然な説明を見出すこ とを目的とし,この様な形式,すなわち,if, with, modal auxiliary等の表す 意味的性質(ここではその特性をnon descriptiveなものと捉える)と過去形 の形態素の本質的な意味であるremotenessが結び付いたものに対し, presellt realityに束縛されない世界を表す意味機能を持つ形式という意味でfree thought space builderという一つのカテゴリーを与えようという試みである。
また本稿は,上記のように考えてみることによって,相互に少しずつ重なる 部分を持ちながら輪郭も不明確なままに混在している,反事実,接続法,直説 法,仮定法,reality/unreality 2), realis/irrealis等の用語を整理し,その上で
2) unreality という語は, modal , irrealis 等と同様, realityの補集合(reality以外 のものの意)全体を指したり,事実に反していることや仮定法的なことを指したりす るが,それら2つの意味の区別が意識されることなく,曖昧に用いられることが多い。
そこで本稿では,混乱を避けるために,前者に対しnon desc⑪tive,後者に反事実 的という語を使っている。
言語事実をより素直に捉えようとするものである。たとえば,ここには,過去 形の助動詞の用法の問題等も関係してくるが,本稿はそこに新たな視点をもた
らし,解決の糸口を示していく。
まず,第一章では,ここで問題にしている形式のFauconnier(1985)の取 り扱い方への批判を出発点として,free thought spaceの特性や位置付けを論 じ,第二章では主に,その裏付けとして重要な役割を持つ,過去形の形態素に ついて分析し,Joos(1964), Steele(1975)Langacker(1978), James
(1982),Palmer(1986)を検討する。第三章では, Palmer(1978)等にみら れる過去形の助動詞の分析の在り方を批判し,free thought spaceという概念 の導入により問題点を解決しながら,この概念の存在意義を示していく。
1.0.Fauconnier(1985)の問題点
さて,本稿では問題としている,if, with, modal aux等と過去形が何等か の形で結び付いた表現形式は,Fauconnier(1985)では,反事実的スペース3)
を形式的に作り出し得る表現として捉えられている。それは,テーマが反事実 性ということであったためでもあるが,形式が文法的に強制的に反事実的解釈
を生み出し得るという考え方が背後にあるためでもあろう。
だが,反事実的スペースを作り出せるかどうかという観点からこれらの形式 を見てしまうと,これらの形式は,反事実的解釈の可能な文を作り出すことも 確かにあるけれども,そうではない単に仮定的状況を表す文として解釈できる 文に含まれることもあるという,掴み所のないものとなる。((3〜6)参照。)
3)Faucolmier(1985)の功績は,それまで言語理論に導入し難かった前提や文脈,意 識の中の世界を捉え易く記述可能なものにしたということであろう。この理論自体は,
言語の意味機能と形式の関係や,そこに介在する様々な要素を説き明かしていくにあ たって有望なものとして,その発展が大いに期待される。ところが,こと反事実性に 関しては,その本質的な在り方を正しく見極めないままに,反事実的スペースをまず 中心に据えてしまい,あくまで反事実的スペースを形式的に作り出しうる表現形式の 一つとして捉えてしまったために,非常に解りにくい議論となっている。
138 樋口万里子
それはまるで,たとえば,外国人のことを,アメリカ人である可能性のある 人として規定してみるのと同じことである。外国人といえば,勿論アメリカ 人であることもあるので決して間違っているわけではないが,むしろそうでな いことの方が多いのであるから,余り適切な規定の仕方とは言えないであろう。
尤もFauconnierではこれらの形式は,反事実的解釈を生み出す機能の弱い ものとして取り上げられているわけだが,樋口(1989)において指摘したよう に,その機能が最も強いとされる形式についてもコンテクストによっては,反 事実性とは無関係であるうる。また,形式が,文法的に反事実性を強制的に作 り出している例とされている文についても,実際に反事実的解釈を生み出して いる要因は,形式のみには求められない3)反事実的解釈の可能性の有無,また は強弱を生み出しているのは,本質的に,前提として,ある事実が存在してい るかどうか,又はその事実認識の確からしさの度合いといった,多分に文の意 味と絡むcontextualな要素だからである。
とはいえ,反事実を表現するためには,これらの形式がどうしても関わって くるわけであるから,Fauconnier(1985)の取扱も誤りというわけではない。
ただ取り立ててそうしなければならない理由でもない限り,あまり適切な言い 4)例えばFauconnierは次の様な例を挙げ, notやprevent等を,反事実スペースを
強力に作り出す語彙として挙げている。
(a)Fortunately, the fire did not cross the highway. My house would have been destroyed.
ところが,(b)のように後続する文を変えれば,反事実ということは無関係であり,
Faucolmierの記述には疑問が残る。(a)の文の反事実性はむしろ後文のwouldがひき 金となっているのではないだろうか。
(b)Fortunately, the fire did not cross the highway. My house was safe.
又Fauconnierは,(c)を,文法的に反事実的解釈が強制される例,つまり,コンテク ストに拠らずとも反事実的読みしかない例だとしている。だが,この例を,樋口(1989)
でも述べた通り,非文だとする本国人(米人英国人カナダ人を含む)は多い。
(c)If Boris had come tomorrow, Olga would have been happy.
この文がいいとすれば,例えば「Borisが昨日来てOlgaにとって都合が悪かった」
等という過去の事実が,前提として頭にある時等であろう。つまり,そのようなコン テクストを考える事によって理解できる文だからこそ,反事実文としか読めないので あって,必ずしも文法的に反事実でしかないというわけではない。
方とも言えないだけである。ここで問題にしている表現形式自体は,反事実性 に関わっているというだけでなく,もっと広い概念に対応していると思われる。
そこで,本稿では,まず,その概念をより適切に捉えてみたいと思う。
1.1. Free Thought Space
たとえば,(7)は,「Maxがたとえば東京に居る」という場合には反事実文 として理解されるであろうし,「はっきりはしていないが恐らくNew Yorkに はいないだろう」と思われる場合には,やや反事実的なニュアンスを持った文 として,また,「彼がどこにいるのか見当もつかない」という場合には,単に 直接法の可能性を表す文として受け止められるであろう。(8)も同様である。
(7) Max could be in New York
(8) If the Redfords were home, the lights would be on.
ここで使われている形式は,一般に仮定法 図1
(HYPOTHETICAL)に関わるものとして
FREE THOUGHTS 扱われることが多く,また,接続法
(SUBJUNCTIVE)表現の一部 1として捉 緊{鍋蹄欝
えることがある。だが,単なる推論や過去 COUNTER−
FACTUALS の事実に関する推測を表現するという意味
では,直説法の世界にも股がって関わって いるわけである。そのおかげで,一般的な 文法書では,助動詞や条件文,時制といっ た,個別の項目によって様々に取り扱われ ている。そこで本稿では,一つの言語現象
5)この様に表現したのは,英語における接続法と呼ばれているものにも,現在形と過 去形があるからだが,本稿の守備範囲は,接続法現在にまでは及んでいない。ただ,
接続法現在というのは,話者の思考のなかの原形的命題であり,(現在というよりは,
原形といった方が適切であろう)少なくとも事実の記述ではないので,今のところ non descriptiveの中には入るものと考えているが,これについては又,稿を改めたい。
と見なして,その形式を中心に据え,それに対応する概念を素直に捉えてみよ うというわけである。この概念は一見とりとめがなくて輪郭が掴みにくいので あるが,本稿ではこの概念をfree thought spaceと名付けた世界を形成するも のとして捉えてみる。
このfree thoughtというのはpresent realityに縛られない,自由な思考や発 想のことである。そして,free thought spaceとは,「発想としてはこういう
こともあり得る」といったような考え方や出来事の想定や,希望的状況として の命題の世界として特色付けられる。その世界は,命題の真偽性や実現性など という,現実世界では問題となり得るような概念とは本質的に無関係である。
勿論,コンテクストによっては,結果的に実現したことや実現していないこと,
実現しそうにないことや,実現可能性の高いことにも使われることもある。又,
自分としては事実だ(真だ)と思っていること(9)を述べる場合も,事実に反 するという場合もある。
(9) It would be perfectly possible to say this sentense on certain occasion.
だがコンテクストが不明であれば表されていることは,真偽性,実現性につい ては曖昧な発想なのである。従ってfree thought space builderは,その性質 上,解釈されるときに,かなりコンテクストに依存する度合いが大きくなる。
ここで問題にしている形式をそのように捉え直してみると,基本的に同じよ うな形式を含む文が,コンテクストによって様々な名前で呼ばれている現象を 説明できるように思われる。つまり,このfree thoughtが,その命題と相容れ ない事実の存在するコンテクストでは反事実と呼ばれ,事実が既知でない場合 は推定であり,yesterdayなどといった語句や使われている状況によって過去 に関する言及であることが読み取れれば,過去推量ということになるわけであ る。そしてこの事は,第三章で述べる助動詞の用法に関しても大きな意味を持 つように思われる。
このように,free thought space builderを,事実がどうであるかということ に囚われず,自由な発想や思考の世界を作り出す表現形式であるとしてみると,
少なくとも,形式と意味機能との関係がすっきりしてくるように思われる。
1.2. Free Thought Space Building
さて,その関係をもう少し解り易くするために,さらに詳しくこの表現形式 の幾つかを掘り下げてみたい。
たとえば,if節は,条件文そのものの性質として, present realityを表現す ることはない。一般に,if節は,命題の真偽値が未確定のものと見なされてい る:)ただし,それは「if節は,事実と認められていることを命題にできない」
こととは異なる。樋口(1987)でも言及したように,if節は,はっきりと事実 として認識されている内容も,命題とすることができる。ただ,一旦if節の 命題となってしまうと,その命題自体は,事実の記述ではなく,あくまで,推 論の基盤となる仮定的な思考を呈示することになるだけである。
(10) A:How old are you?
B:1 mthirteen.
A:Isee. If you are thirteen, you must be a junior high student,
1・UPP・・e.7)
現実や事実の記述のことをSperber&Wilsonを参考に, descriptive 8)とここ では呼ぶことにする。Sperber&Wilson(1986)においては,この概念自体,
曖昧なものであるが;本稿では,if節やwithの補部, modal auxiliaryの表す 概念を,non descriptiveとして特徴付けるために導入してみた。只,(10)の ような場合は,Akatsuka(1985)で述べられているように,現実と非現実
6)坂原茂『日常言語の推論』(1985)東京大学出版会参照。
7)この例文⑩のif節は現在形であるが,それが過去形である次の様な例は,過去の 現実とfree thought spaceの境界線上に存在するものと思われる。(図皿p.参照)
8)Sperber&Wilsonにおいては,ここで使っているnon descriptiveに似た概念が,
interpre6veと呼ばれ,それぞれ次の様に示されているが,実際の文や表現をどちら かに区別できる程この定義は明瞭なものではない。
When it is used descriptively, it can be a description of a state of affairs in the actual world, or it can be a description of a desirable state of affairs. When it is
used interpretively, it can be an interpretation of some attributed thought or utter.
ance, or it can be an interpretation of some thought which it is or would be desirable to entertain in a certain way:as knowledge, for instance.
(Sperber and Wilson:1985.231.)
というのは,desirable stateというのは頭の中で考えた(thought)ことであり,
我々の言葉は所詮,意識の上にのぼったものであるので,厳密には全てそのdescrip−
tionだからである。
そこで本稿では,形を拠り所として,その意味機能を分類する方法を取った。例え ば次の下線以外の所はdescripdveと考えるのである。
1)a. Ithink it s all right.
bI也㎞k
2)a I msurprized−.
b.1 msurprized that he feels lonely.
2)の例は,いわゆるputative shouldの例であるが, b.では命題が事実と受けとめら れていることの記述である(descriptive)のに対し, a.では命題の事実性は定まって いない(という意味でnon descriptiveである)。
ただし,認識の上では,descripdveとnon descriptiveの間は連続的であるので,
曖昧なものも存在するはずであり,形としてはどちらかの形をとらざるを得ないが,
それでも両方の要素を少しずつ持つものもあるだろう。それが,例文⑩(本文中)や 註7の例,又,次(本文中)に示す Icanseeit の場合であろう。
例えば,世の中には,実際にはどちらかとしてふるまってはいても,男性と女性の両 方の特徴を兼ね備えているような中間的な人も存在するが,それと同じことがいえる 様に思う。
(realisとirrealis)との境界線上に位置するものであるとも考えられるので,
descriptiveとnon descriptiveとは連続的であると思われる。
さてこのnon descriptiveにも, descriptiveの場合と同じく,形の上での現 在形と過去形がある。ここではそれを,present realityに束縛されることがな いのが,過去形であり,それ故,つまり自由だから反事実的な言及が可能にな ると考えるのである。それは,同時に,過去形の機能を,「思考を現実の呪縛 から解き放つもの」として捉えてみるということである。
またwishの補部も,既に実現していたり,事実となっていることはwish する対象とはならないという意味で,non descriptiveであるということがで きる。ここでも,反事実的な内容の言及の可能性があるのは,(仮定法の構文 の一つとして扱われるときというのは厳密には, Iwish you would help me
tomorrow. のように実現の可能性がある場合も含まれるが,)過去時制が関わ るときである。
法助動詞を含む表現に関しても,また同じようなことが言えると思う。法助 動詞は,基本的に可能性や必然性,推定などを表し,既に実現していることや 実際の行動や状態といった,いわゆる現実の記述ではない。ただし,たとえば 手術を受けて今目が見えるようになった人が, Icanseeit. 等と発言したとす れば,その場合は「能力が存在している」という意味でdescriptiveともいえる かもしれない。しかし,このcanも,本来的には可能性でしかなく,「可能性 の存在」ということがたまたまその使用の場において,「ある状態」であり,能 力をいっているのと同じ様に受け止められる場合に過ぎないと思われる。換言
すれば,ここでの Ican seeit は, l see it. や I have anability to see it. 等
と極めて近い意味で用いられているのである。可能性というのが,実際上は広 い概念を含む為に,そのような用い方もできるけれども,( Iseeit 等と比較 してみると判ることではあるが,) Icanseeit の意味はやはり,基本的に可 能性であり,non descriptiveであると考えて良いであろう。これもまた, non descriptiveとdescriptiveとの境がはっきりとしたものではない(fuzzyな)も のの例であろう。事実と事実でないものとの間は連続的であると考えられるの で,これは,必然的に生じる現象であると思われる。
そして法助動詞でも現在形の場合は,やはり先程のcan等のように現実に 存在する可能性や,現実を分析した結果の推定であるという意味,つまり,話 者が把握している現実に基づくものであるという意味で等,何らかの形で,現 実に関わっている。従って現在形の場合は,non descriptiveではあっても,
現実に何等かの拘束を受け,過去形の場合は,そこから自由であるといえよう。
そこのところが,過去形の法助動詞のみが仮定法表現に関わる所以であるとい
えよう。
さて,本稿では,多少乱暴なやり方かもしれないが,if, wish, modal aux
(無論仮定法に関わる他の様々な構文をも含む)等をnon descriptive spaceを 作り出すという特性において一つのグループと見なす。そして,結び付き方は
様々であるが,それらが過去時制と結合することによっで,仮定法等に関わっ てくる形式,すなわち,free thought space builderとなるのだと見ている。
non descriptiveは過去時制と融合しない限り,反事実を表す可能性がないか らである。この点に関して,少し視点を変えてみると,通常は時間的過去を表 すと思われている過去時制は,この場合,時間的な過去を積極的には意味しな いことになる。となるとそれがなにを表すかが問題となるが,本稿では,これ までも述べてきたようにそれを remoteness としている。詳述は,次の章に回 すとして,ここでは大まかに,present realityの束縛を受けず自由であること,
present realityを一応切り離して考えることができるなどの意味で,認識的及 び心理的に remoteであることを過去時制の本質的特徴と捉えたい。
1.3. Free Thought Space Configuration
さて様々な概念を導入したために話がずいぶん込み入ってきたので,ここで,
本稿の基調となる提案を,図示しておきたい。
図皿
Non descriptive%
/
㎞m剛 @ぶ 臨t剛
図で示しているように,今,世界を二つの次元から2種類に分けてみた。そ れぞれにおいてよりmarkedな集合の交わった部分が,本稿で述べているfree
thought spaceである。
既に一般的に理解されているように,英語における時制は,基本的に,現在 と過去の二つである。(ここでは完了形や進行形を捨象して論を進める。)図で は,外側の円の内部全体を一応英語表現形式の全集合と見て,左側半分が現在,
右半分が,過去に対応しているものとする。現在か過去かでいえば,現在のほ うが輌より,基本的でunmarkedなものであるので,過去のほうに,斜線を配 した。それは,言語習得の段階を与えても,まず,具体的な廻りの世界の表現 から始まるといったことからも,過去形は現在形の語尾に接辞が加えられて出 来るという形態の面からもいえることであろう。捉え方の問題でもあるが,現 在というのは,基本的に,発話時の直接外界知覚であり,過去に比べて,相対 的により身近で直接的で具体的なものである。一方,過去は,記憶の中の映像 の記述である分だけ,より抽象的で間接的である。その様な認識上の相対的な 遠隔性を一言でまとめてここでは remoteness と呼んでいる。
次に,内側の円についてであるが,その外側を,[現実として把握されてい るものごとの記述]が対応する,reality descriptiveの世界とし,その内側を,
それ以外の記述,つまり,基本的に,思考上の命題を仮定的に呈示する,non descriptiveの世界とする。我々の認識の上では,この二つの世界は連続的な のであるが,少なくとも形式上は,二つの世界に対応する形式のどちらかの形 を取らざるを得ない。本稿では,一応,形式を拠り所としてそれぞれの世界を 捉えた。それゆえに,その境界線上に位置していても,どちらかの形になって いて,両方の性質を持っていることもあると考えられる。それが,(10)の例や
Icanseeit. 等にみられる曖昧性となって現れるものと思われる。
この内側の世界は,結局外側の世界の形式に,プラス・アルファーの要素で あるif節やwish, modal等が加わって出来たものである。それは,より抽象的 でmarkedだからだといえるだろう。図では,点斜線の部分である。
さて,このように二つの側面から世界を二分してできた,四つの世界の一つ づつをみて見よう。そのうち最も基本的なのは,図でいえば,白い部分,pre−
sent realityの世界である。それは,発話時に直接的かつ具体的に把握されて
いる,話者の現実世界である。その叙述に関しては,現在形が用いられるわけ である。それは,捉え方の問題でもあるが,現在の状況,習慣的・継続的行為,
現在の世界に関する真理や仕組み,ルール等が,問題となる世界である。
点斜線で表されているnon descriptiveな世界にも,当然,現在形と過去形 がある。本稿では,この左半分の,現在形の法助動詞やif節などが作る世界 は,realityにある程度拘束された思考の世界に対応するものと捉えている。
つまり,(現実をそのまま叙述するのではなく,)把握されている現実を基に,
それに沿った可能性や推定,仮定などを表すと考えるのである。可能性自体は,
現実に存在しているものと見なしえるからである。
Langacker(1978)も,現在形も含めた法助動詞の意味機能をunrealityと しているのは,同じような趣旨によるものと思われる。ただ,unrealityとい う言葉は,Langacker(1978)でのように, realityの補集合,すなわち, real−
ity以外のものという意味で使われることもあるが, Declerck(1979)の様にい わゆるcounterfactual(反事実)の意味で用いられることもあり,曖昧な場合 もある。modalという言葉と同じく,これらの二つの意味は,実際上は,通常 区別されること無く,極めて曖昧に扱われているようである。そこで本稿では,
混乱を避けるために,あえて,non descriptiveとfree thoughtという呼称を 採用して区別し,counterfactualはfree thoughtの部分集合としている。
現在形の法助動詞が,反事実を表せないのは,英語ではunmarkedである現 在形では,基本であるrealityの世界を完全に離脱することができないからで あろうと思われる。法助動詞の現在形と過去形には意味的にほとんど相違がみ られない程連続的な場合もあるが,形式の違いは,ここで述べていることの現 れであろうと思われる。
次に,同じ内側の円の右半分の領域についてであるが,これが,再三述べて きた,free thought spaceの部分である。 non descriptiveであるということと
remoteness という,二つのmarkednessを合成した特色を持つ世界である。
non descriptiveが過去時制の remoteness によってpresent realityの世界の束 縛から解放された,自由な思考を表すのである。過去時制がの意味をremote一
nessと捉えるべき必然性については,次章で詳しく述べることになるので,
ここでは,このfree thought spaceの特色を改めて明らかにしておきたい。
free thought space builderで表される事象は,言わば天衣無縫な,思考上の ものであるので,事実性,実現性等,様々な点で現実世界とは次元を異にする。
現実に限り無く近いこともあるし,一項目を除いては,全て現実そのものであ ることもある。また,事実に反することもありうる。事実や現実に対して無頓 着なのである。また,命題内容の実現性という点でも,neutralであり,実現 そのものを表す事はないが,コンテクストによっては,結果的には実現してい ることも,実現可能なことも,実現する余地のまったく無いことを表すことも ある。この点は,また第三章で,過去形の法助動詞の用法について論じる際に
も重要となる。
また,樋口(1989)でも論じたように,free thought spaceの命題は,真偽 性が問題にされることもない。(反事実文が真偽表に当てはまらないのはこの 故である。)命題を,現実から切り離して,「こういう発想だってあり得るので はないか」というように命題を呈示する形式だからである。free thoughtの命 題に対する話者の態度は,真実だと信じている場合もあれば,そうでないこと もある。tentativeな主張として受けとられることもあれば, counterfactualに 理解されることもある。換言すれば,その様な性質のゆえに,言質を取られな いためや丁寧さを増すためにfree thought space builderが利用されていると いうわけである。
ところで,would 9)やcould, shouldの用法は,文法書で説明されている以 上に,多岐にわたっているよう思われる。たとえば,次のようにwouldと willや本動詞のままの形を比較してみると, wouldのtentativeな意味が顕在 9)wouldは,論文等でも日常会話でもかなり頻繁に使われているが,とかく,「仮定
法」という言葉に帰されて済まされたり,一面的に捉えられることが多いのは,その 意味がコンテクストに多分に依存していて,今迄の文法書の例文としては取り挙げに くいからであろう。今のところ,wouldそのものについて正面から包括的かつ明確に
論じたものは見あたらない。文法から入る英語学習者の英語が,wouldなどがうまく 使えないためにぎくしゃくしているのはそのせいもあるように思う。
するのが判っても,通常使用されているときには,印象が変わる程度で,正し いと信じていることをほんのちょっと控え目に呈示する為のvarlationとして wouldが使われていることがよくある。
(11) That would be true.
That will be true.
That is true.
would等の全貌が捉え難iいのは,このfree thought spaceの様々な点で自由で あるという意味での,定まらぬ性質によるものであり,従って,解釈にあたっ てコンテクストに依存する度合いが大きいことにも因るのではないかと思う。
最後に,残りのスペースについてであるが,これは勿論,Past realityを表 している。過去形の remoteness は,より基本的であるrealityの記述にとど まっている間は,目の前の現在に対して,相対的に遠い時間的な過去として具 現されるのである。この様な考え方に対して,Palmer(1982)は,なぜこの
remoteness が未来と関わらないかといったことを問題としているが,(Palmer の言葉をより忠実に引用すれば,何故,未来時制が,unrealityを表わさない かといっているのだが,それは幾重にもmisleadingな考えを含んでおり,内 容としては同じことをいっているように思われる。)本稿では,一般に,未来 時制と呼ばれているものは,現在の推定であり,現在時制の範疇に含まれると いう立場をとるので問題とはならない。
しかも,現在と過去は,並列的なものではなく,人間の知覚の在り方に沿っ て,あくまで,現在が中心で身近で直接的であり,過去は相対的に遠いのであ る。また,これまで過去と便宜的に呼んできたものについては,(一般的に,
形態素の文法的項目として馴れ親しんできた呼び名をそのまま使ってきたが,)
その実態は remoteness であることもつけ加えておきたい。
Palmer(1986)は, modalityなるものの意味機能については,曖昧にした まま,時制は何等かの意味で法的(modal)であり, modalityと関係が深いと 述べている。modalityなる概念は,時として, unrealityやcounterfactualの
意味で使われたり,法助動詞の意味機能を包括的に指したり,話者の命題に対 する態度という漠とした定義(Lyons:1977)で理解されたりなど捉え所のない ところがある。本稿の立場としては,先ほどの図の中のnon descriptiveに深く 関係する中心概念であると述べるにとどめ,詳しい議論は別の機会に譲りたい。
2. Past Tense as Romoteness
仮定法表現に,過去時制が関わることについては,これまでにも,様々な形 で論議されてきた。仮定法の場合には,過去時制が,通常示すと思われている,
過去の現実という時間的な意味を持たないからであろう。
Jespersen(MEG IV,112f.)では,それを,想像時制と呼んでいる。本稿も,
ある意味では,この考え方を出発点としている。
また,Joos(1964,120−1)は,過去時制を remote tense と呼び,「命題 が,話者の把握する発話時点での現実世界についてのことではないこと」を表 すと説明する:°)彼の指摘のこの部分は,過去時制の本質を捉えてはいるが,残 念なことに,説明の裏付けに乏しく,またその肉付けの仕方にも問題がある。
Joosはこの remoteness には,二種類あって,一方は, past time,他方を unrealityとする。この見解は少なからず後のSteele(1975)11), Langacker 10)Palmer(1986:211)はこのJoosの考え方を,「異なる二つの概念に一つの名前を 与えたにすぎないもの」として批判しているが,これは,肉付け方の方に問題がある ために生じたものと思われる。というのも,Palmerは,このように批判しながらも,
現象として存在する過去形とunrealityとの関係について,より建設的な説明をする には至っていないからである。
11)「過去の形態素が irrealis を表すという現象」は,他の多くの言語学者の様々な言 語に関する観察にもみられ,Steele(1975)はそれに自らのUto Americanに関する 考察を加え,過去の形態素は,pastとirrealisの概念を包摂するsemantic primitive に対応するものという仮説を述べ,本稿でのremotenessをDISSOCIATIVEと呼ん でいる。
12)Langacker(1978)は,助動詞の用法を包括的に捉える為に,本稿でr6moteness と呼んでいるものを DISTAL と呼ぶ。だがunrealityの概念がLangackerでは多少 曖昧であるために,助動詞の現在形と過去形の,又それらのif節との関係における 質的相違があまり明確でないように思われる。
(1978);2)James(1982)らの議論にも影響を及ぼしているようであるが,過去 形そのものが,そのまま直接,past time or unreality(おそらくこのunreality はここでは『反事実的な』(=counterfactual)の意味で使われている)を表し ているという見方には,様々な点で不都合が生じる。
たとえば,まず単純に考えれば,単に過去形だけではunrealityは表し得な い。unrealityを意味する可能性が出てくるのは, ifやwish, modal(勿論他に
もsuppose, as if, it s time〜.などといった様々な仮定法の構文といわれるも のを含む。)等という,本稿で,non descriptiveと呼ぶ要素と結合するときだ けである。過去時制がそのものが,unrealityを表すことがあるというならば,
例えば, He did it. 等という文が,それ自体でもunrealityを意味することが あってもいいはずなのだがその様なことはない。ただし,小説(fiction)も実話 やドキュメンタリー(non fiction)も,通常過去形で書かれることを考えると,
unrea1なことも過去形で書かれることはあるわけだが,あくまで,それは past reality(語られているもの)として理解する虚構であって,そうなると,
この問題は本稿の守備範囲を越えているのでここでは立ち入らない。
これに関してJamesは,過去形のremotenessがpast timeとなるかunreal−
ityとして理解されるかは,そのコンテクストに因るのだというようにJoos
(1964)を補ってはいるが,それがどの様なコンテクストであるかを示すには 至っていない。それがもし,文脈的なコンテクストであるとすると,wouldや couldとほぼ同じ意味で使われることのある, was going toやwas able toも,
仮定法に関わり得ると考えても良さそうだが,それらは,どんなコンテクスト を想定したにせよ,それ自体でunrealityを意味することはない。やはり,過 去形とunrealityを直接単純に結び付けることには問題がある。
更に核心的な問題点は,過去時の意味以外で過去形が使われるのは,必ずし もunrealityを意味するときばかりではないということである。単に現在形に 比べて仮定性の度合いが低いものを含むというようにunrealityの意味を広く 捉えたにしても,そうなると今度は現在形の法助動詞の意味との区別がつかな
くなる。
また,Steele, Jamesらに拠れば,通常過去時を示す形態素がいわゆる仮定 法的な意味合いで用いられることは,世界中の他の多くの言語で見られる現象 であるらしい。Steeleはその見地に立ってunreality or past timeを表すre−
motenessはuniversal semantic primitiveであるという仮説を立てているが,
Jamesに拠れば,世界各地に散在する20ヵ国以上の言語を考察した結果,過去 時を示す用法は,規則的で自然なカテゴリーを構成しているのに対し,それ以 外の用法は,(反事実を示す用法は調べた全ての言語で見られるという以外
は,)言語によってまちまちで,意味的には,大体において仮定法的な意味の 範疇に入りそうだが,構文は不規則である。
たとえば, It s time〜. のような構文の後で過去形が用いられるということ は,英語とCree(アメリカインディアン語)では見られるが,仏語や露語に はない。また,露語やOld Irishでは,結果を表す構文に使われることもある が,英語を含む他の数種の言語では,その様なことはない。wish構文,
obligationの構文,疑いを表す構文,丁寧さを表す構文,等英語の仮定法の 様々な構文に対応する構文に過去形が使われるかどうかは,言語によって,実
に様々であるらしい。もし,仮に,Joosの言う通り, remotenessが,すなわ ち,past time or realityであれば,この様なassymetryは生じないはずである。
しかし,本稿では,過去形のremotenessは,他の個々の語彙構文が作り出 す,non descriptive spaceとの合成によって, unrealityを含むfree thoughtを 表し得ると考えるので,上記のような不都合も生じないし,assymetryも問題
にならない。言語によって,non descriptive spaceを作り出す語彙構文は当然 言語によって異なることが,予想されるからである。
一方,Jamesの議論は, Joosの説を基本的には認めながら,上記のような assymetryを問題にして,別の方向に流れてしまっている。すなわち,「過去 形は,remotenessを表すのではなく,やはり,基本的に時間的な意味での過 去を示し,その意味の一部として, remoteness from present reality というこ
とが含まれるので,その意味での,拡張された用法が,仮定法に関する表現と なるのではないか」と結論付けているのである。
けれども,時間的な意味が,過去形の中心的な意味にみえるのは,現実とい うものが,身近すぎてunmarkedだからであり,従って, Jamesの修正案はあ まり実質的なものとは言えない。remotenessの意味が中心的かそうでないか ということは,それほど重要なことではない。大切なことは,過去形の形態素 の本質的な意味にremotenessがあるということである。
この点についての積極的な論拠としては,Joos, Steele, Langacker,
Jamesらが,挙げていることを含め,次のように幾つかの点に,纏めることが 出来ると思う。
①法助動詞やif節の過去時制のものは,それに対応する現在形のもの に比較して,より希薄な可能性(tenuous possibility)を述べているという こと。(勿論,同じような文脈での話である)
(12) He璽塾improve.
He may improve.
(13) If John comes tomorrow, I shall be pleased.
If John come, tomorrow, I should be pleased.
(14) That can be true.
That could be true.
②reported speechにおいても,過去形が表していることは,本質的に,
話者の命題に対する認識的遠さであること。たとえば,主語が話者以外の 人であれば,発言の命題内容に関する責任は,普通主語のほうにあるわけ で,その分話者の認識からは遠いことになる。
(15) Mary said;If John can come, the party will be a success.
Mary said if John could come the party would be a success.
これは,通常は時制の一致として文法の規則のように扱われているが,実 際はremotenessによる一現象として捉える事ができる。何故ならば,次
の(a−d.)はどれも可能だからである。
(16) a.Marvin says he is sad.
b.Marvin says he was sad.
c.Marvin said he is sad.
d.Marvin said he was sad.
報告文であれば,発言自体は,論理的には必ず過去のものであるはずだが,
実際の使用においては,必ずしもそうではなく,命題に対する臨在性やそ れに伴う経験の直接性が,現在形で表され,それが薄れて,間接的になっ たことを,過去形が表していると思われるのである。その目で確認した発 話や,その場に居合わせた雰囲気などを伝える場合,また時間的にいえば 過去の出来事を伝えるのに現在形を用いると生き生きした感じがするのも そのような,時制の機能の現れのように思われる。
③ いわゆる仮定法の様々な構文において,反事実性を表し得るのは,過 去形の時だけであるということ。
④先ほどの繰返しになるが,過去を意味する形態素が,仮定法的な意味 にも使われるという現象がcross−linguisticに存在するということは,過 去形が表しているのはremotenessであるということの傍証にはなると思
われるど)
13)Jamesらの挙げるcross linguisticないくつかの例を引用しておきたい。
(a) Tonga:
K磁旭αZゴーゐμツαη4α克ωゼ砂α,η汲ω1i一ゐμ1i if he−want−past to−learn, he−be−not−with−past Bαηy仇α虎μ1μゴηZo
his−grandmother now
lf he wanted to learn, he wouldn t be with his grandmother now (b)Cree:
K磁ご5ρ 磁5WθこωゼちKαZα物zOηαごKo5 ψαη if he−be−a−woman, he−will−be−good.looking.past If he were a woman, he would be good−looking (c) Garo:49α痂odετθ勿9εηci〃2
Iknpw−if come−future−past If I had known, I would have come
(d) Chipewyan:5θzθ妬虎4元姥 ε3ηα江α乃淀ηi my−gransson without−him−if I−live−future−not−past lf without my gransson, I would not have lived
(e) Nitinaht:イ2の「りんαb㌦ゆiτ9ωiy 5,力吻4αyα (if)know past specifier I, come
2ゴご虎碗∫翫bの2qyi
future past I yesterday time.marker
lf I had known(it), then I would have come yesterday
(f) French:5i j冶αゴ∫ρ1μsτノiεi〃ε,元εsεπzτ5クZz65 coηεεηzθ
if I be−past more old, I will−be.past more happy If I were older, I would be happieゴ
(9) Latin:5iα漉∬ετ, bεηεε55εz
if he−be−here−subjunctive−past, well it−be−subjunctive−past lf he were here, it would be well(but he is not here)
(h) Classical Greek:
α鋤μ虎αηε4yηαη oクoゴθ η
this not contrary−to−fact they−be−able−past to−do
ε 〃2ε:61iαゴZε:〃2ε τZ αε工γ「0,ηZO
if not lifestyle abstemious they−lead−past
They would not be able(as they are)to do this, if they did not lead an abstemious life
(i) Russian:
ツε∫μ伽ゐzρψ吻ωツ碗θち
if hypothetical blow−past favourable wind,
吻ωρ1ω1ほηα仇ε1 ηow∫咋yε we sail−past much faster
If a favourable wind were blowing, we would be sailing along much faster
⑤また,日本語ではどうかということだが,日本語における過去形は完了形 でもあるので過去の形態素を抽出するのは難しいものの,傾向としては過去形 の意味は,日本語にも当て嵌まりそうであること;4)
14)次の下線部,ittaraの「行った」の部分は少なくとも「過去」を表すこともあるが,
この反事実的コンテクストにおいても使われている。重要なのは,(東京方言である 可能性もあるが)ikunaraという現在形では,このコンテクストでは多少おかしいと いうことである。
1) If I would go now, I would be in time.(But I cannot go as I have a guest.)
a.Mosi ima批硫z ma ni au n desu ga.(Hito ga kite ite ikemasen.)
b.?iku nara (Masamune:1978)
又,反事実性の強いコンテクストでは,次の例でもa.の過去形「…タ」の形の方 がbの現在形より自然であろうと思われる。
2)a.月が鏡であったなら,恋しいあなたの面影をきっと写してみせるのに。
b.月が鏡であるなら,恋してあなたの面影をきっと写してみせるのに。
3)a.あの人がもう少し若かったなら応募資格があったんですが。
b.あの人がもう少し若いなら応募資格があるのですが。
4)a.今日はいい天気だね。
E雨が降って堕なら,ここの眺めもこれ{まどでは{鷲た}だろ輪 雨が降っているなら
これらの例では,過去形がremotenessを表し,一種のfree thoughtが表現されて いるように思う。他にも,例えば,「どいたどいた」,「買った,買った!」等と繰り 返し表現で用いられる場合も,過去時を示すのではなくdesirable stateの想定を表現 するものとして,free thought spaceに属するものの様に思われる。
3. Past Modal Auxiliary
さて,本章では,過去形の助動詞をfree space builderの一つとして捉える 事によって,助動詞の用法に関する新たな側面が浮かび上がることを示してい
く。
Palmerはその一連のModal Auxiliaryに関する研究において,過去形の助 動詞を,出来事の実現性が含意15)されている場合には使えないものとして特徴 付けている。たとえば,couldの場合,(17)のa.がおかしいのも,実現性が含 意されているからであると述べ,couldの用法に関する文法的・意味的制約で あるかのように説明している。
(17) a. *Iran fast, and I could catch the bus.
b.Iran fast, and I was able to catch the bus.
c. Iran fast, but I couldn t catch the bus.
ところが,そうすると,過去の習慣的行為を表す場合や, nothing but の意
15)この実現性の含意(the implication of actuality)とはPalmer(1978)においては,
the implication that the event did, does or will take place. の様に説明されている。
味で使われる場合,private verb, almost, only, just, all等と共起する場合 は実現の意味があっても良い等,様々な多くの例外が存在する事になる;6)
(18) Icould get up and to the kitchen whenever I wanted to.
(19) One moment I seem to be everything to him, and then all he could think of was th輌s child.
(20) Icould hear her voice clearly.
(21) He could only stand there and gape.
(22) Icould(almost/just)reach the branch.
(23) Icould reとch the branch because it was loaded down.
(24) Give me one then, it has a screw top, and with one hand on her and one on the wheel he tiptoed his head, so that she could pour a lit.
tle whisky into a mouth out of the quarter bottle.17)(G. Greene, A Drive in the Country)
これらの例外に対するPalmerの説明には首を傾げるようなものが多い。たと えば,(22)のjustの場合や(23)が容認可能である理由として関してPalmerは 次のように説明しており,随分と無理が感じられる。
16)Palmer自身が,苦しい説明を展開しながら挙げている例外例文(18−20,22−23,
etc)以外にもcouldが実現した場合に使われうる場合は可能性の限度などやはっき りした結果を示す場合など適正なコンテクストであればいくらでも自由に考えられる し,むしろ,(17a)のような文を考え出す方が難しいと思われる。
1)With her great help, he finally could find the answer to the question.
2) They could easily find her body. But her belongings are still missing.
3) 1 mglad that I could help you in this way.
4) Since he offered me a lift, I could come in time for the class.
5) After several trials, he finally could jump 7 feet.
6) This is the first time he could complete the painting.
17)これは川瀬(1985)からの引用例文であるが,このthat節が結果を表すことも,
従ってcouldが出現している際にも使われているということもコンテクストから明ら かであろうと思、う。
…ωμωalso occurs with jμ∫ where the implication is that I succeeded in reaching the branch;but like乃ατゴLy,フ1μ5z suggests that the event did not take place. With the last example(=24),
there is again a clear implication of actuality, but with the re.
servation that the event took place only because of unusual cir−
cumstances.
この説明がad hocであるというばかりでなく,(24)や次の(25)が(andの代わ りにsoが使われているというだけで)十分容認可能であることについては,理 由付け不可能と思われる。
(25) Iran fast, so I could catch the bus.
(17)は,「couldは, a single successful achievement を表す場合には,使えな い。」等という,couldに関する文法書の説明と共に必ずといっていい程見ら れる例文である。Palmerはその様なad hocな説明に,実現性という概念を用 いてより包括的な説明を施そうとしたのであろうが,川瀬(1985)が指摘するよ うに,couldの用法は,本質的に実現性とは無関係で,(17 a.)がおかしい理由 は,全く別のところにあるようである。
一般に,couldが用いられていると,その出来事が実現していないような印 象を伴う理由は,canが可能性を表しているということにある。つまり,川瀬 の説明にあるある通り,「通常,出来事に対する我々の関心は,実現したかど うかに在るので,その為であれば単純に本動詞だけで Icaught the bus. とか すれば済むものを,本来可能性を表すcanをわざわざ付け加えて『〜が可能 だった。』のようにすると,実現してはいないような含意を生ずる。」からであ る。そう考えると,様々な例外とされた例も,例外ではなく,ad hocな説明 も不必要になる。canが本来,可能性を表すものであることから,可能性がな ければ,出来事は実現の仕様がないので,couldn tとdidn tは結果的に同じこ とを表すし,justやonly finally等と共起することによって表される可能性の
158 樋口万里子
最大値やある極限値は,基本的に実現したことによって成立するので,自然に 実現している含意が解釈できるのである。
canは内在的な意味としては本質的に可能性を表し,実現性は,回りの語彙 や文脈をコンテクストとした解釈の問題である。free thought builderである couldは用法としては実現性無関係であるが結果的にはコンテクストによって 実現していることにも使われているというわけである。
ただし,川瀬(1985)では(17a)について次のように言及しているが,それで は,なぜ,(17b.)や(25)がよいのかについては説明できない。 was able toは 少なくとも能力は問題にしているからである。
(17a) I ran fast and could catch the bus.
(17a)は前半で早く走るという動作についてのべており,その後に来る ものは動作の結果何がおこったかであることが予期される。しかる に(17)ではcouldを用いて何がおこったのではなく何が可能であっ たかをのべている。このように(17)がおかしいのはcouldとでき事 の実現とが共起しないためではなく,文脈的に能力・可能性を問題 にすべきでないところでcouldを用いたことによるおかしさである。
また早く走るということは自分でコントロール可能なものであり,
能力・可能性が問題になるような新たな状況とはみなし難い。
また,andがsoになると文脈がどう変わるかということも,容認可能性に 大きく作用しているようである。
そこで本稿では,couldとwas able toの違いや, andとsoの相違に着目し,
couldがfree thought space builderの一つであることから生じる現象として,
この問題を捉えてみる。
すなわち,be able toは基本的に能力を意味し, canは可能性という広い意 味を表すnon descriptiveである。それのみならず,そこに過去形という要素 が加味されると,free thoughtを表す事になるので,実現性に関しては何も はっきりしたことを示さず,コンテクスト完全に依存するということではない かと考えてみる。従って,その様なぼんやりした意味でしかなく,コンテクス トもないという理由で,(17a.)はおかしいのである。その後に, But, I did not