• 検索結果がありません。

雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji"

Copied!
57
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

丸山眞男とマックス・ヴェーバー ─大塚久雄との 比較からみえてくるものとは

著者 遠藤 興一

雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji

Gakuin sociology and social welfare review 

巻 150

ページ 99‑153

発行年 2018‑02‑28

その他のタイトル Masao Maruyama and Max Weber

URL http://hdl.handle.net/10723/00003325

(2)

丸山眞男とマックス・ヴェーバー

──大塚久雄との比較からみえてくるものとは

遠   藤   興   一

現代流行のウェーベリアンの盲点は、認識者と予言者──あるいは「専門」の微細な 000実証や発見へのよろこびを知らぬディレッタントへの軽蔑と、「魂なき専門人」化への警告といったような両極性 000にひきさかれたウェーバーを、もっぱら後者へのアクセントにおいて描き出そうとすることにある。それはちょうど、一昔も二昔も前のウェーベリアン、とくにアカデミーの研究者が、ヴェルトフライハイトという一方向性において科学的認識を強調した行き方を、ただ顚倒させただけのことである。

──丸山眞男「自己内対話」より

はじめに

  一九三四年から法政大学で西洋経済史を講じていた大塚久雄は、いわゆる「平賀粛学」の後をうけて、一九三

九年母校の東京帝大経済学部に助教授として就任した。それと相い前後して、法学部は新たに政治学史第三講座

を設け、津田左右吉を初代担当者とし、講師に招いた。ところが、津田の古代史観を良しとしない蓑田胸喜をは

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(3)

じめとする右翼団体の圧力、妨害により、事実上講座を担当することができなくなり、あわせて本務校の早稲田

大学でもその思想が厳しい批判の対象となり、 丸丸 コミの激しい糾弾にさらされ、 遂に辞職せざるを得なかった。

そこで当時、助手であった丸山眞男が津田の後をうけて第三講座を担当する助教授として就任することに決まっ

た。一九四〇年六月のことである(津田の後は村岡典嗣が継ぎ、丸山による講義のはじまりは四二年一〇月のこ

と )。 一 九 〇 七 年 生 ま れ の 大 塚 と、 一 九 一 四 年 生 ま れ の 丸 山 の 間 に は 七 歳 の 年 齢 差 が あ っ た が、 以 降 二 人 は 学 部

こ そ 異 な れ、 同 じ 社 会 科 学 を 専 攻 す る 研 究 者、 教 育 者 と し て、 生 涯 に わ た る 交 流 が は じ ま り、 「 大 塚 と は 山 上 御

殿の食堂で戦時中から顔を合わせてい た

((

」という。 戦争が終わると、 社会科学研究は戦前の思想統制から解放され、

研究の民主化、学際化は一挙に活発となり、両者は近代化について主義、主張をほぼ同じくし、彼等の対社会的

な発言も一挙に活発となった。総じて思想的に共通性の多い両者であったといってよい。やがて、彼らは「市民

社会派」と呼ばれるようになり、時に共同歩調をとり、それが 丸丸 コミを通じて世間に広く知られるようになっ

た。 丸 山 の 場 合 で い う と、 「 近 代 的 思 惟

」(一九四六年一月)

の な か で、 「 我 が 国 に 於 て 近 代 的 思 惟 は『 超 克 』 ど こ

ろか、真に獲得されたことすらないという事実は、漸く何人の眼にも明らかになった」と明言、続く「超国家主

義 の 論 理 と 心 理 」

(一九四六年五月)

で は「 日 本 軍 国 主 義 に 終 止 符 を 打 た れ た る 八 丸 一 五 の 日 は ま た 同 時 に、 超 国

家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し、今や始めて自由なる主体となった日本国民に、その運命

を 委 ね た 日 で も あ っ た 」 と い う、 一 種 宣 言 的 な 発 語 を 残 し た。 そ れ ら の 言 葉 は、 「 第 二 次 大 戦 直 後 の 日 本 に お い

て、社会科学のもっとも魅力的な所産として、当時の若者たちの心をつよく捉え た

((

(

」といわれる。一方、大塚も

「近代的人間類型の創出」

(一九四六年一一月)

で 「西ヨーロッパにおける近代社会の 『自主的』 な成長のばあいは、

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(00

(4)

封建社会の順調な崩壊過程のうちに民衆がまず広く、近代的 丸 民主的な人間類型に打ち出され─かの禁欲的プロ

テ 丸 タンティズムの蔓延を思え─その結果として、彼らのうちから民主的な政治的主体が『自主的』に生み出さ

れつつ近代的 丸 民主的経済機構が順調に創出されていっ た

((

」西欧の歴史的事実のなかに、今後のわが国が取り組

むべき予型、 モデルがある。このことを広く呼びかけつつ、 続く「魔術からの解放」

(一九四七年九月)

では、 「内

面的にも 丸 ーギッシュな『力』に対する血みどろな抵抗と戦闘と勝利 を

((

」必要とすると説いた。ところが、この

よ う に「 市 民 社 会 派 」 と 呼 ば れ た 彼 ら が 活 躍 し、 「 戦 後 民 主 主 義 の 時 代 に 社 会 科 学 を リ ー ド し た と い う ふ う に 自

分 が 思 っ て き た の は、 ど う も あ る 面 で と て も 一 面 的 だ っ た

((

」 の で は な い か と い う 批 判 が、 後 に な っ て 生 ま れ た。

このような評価の修正を迫る動きがやがて抬頭していく。理由として、彼らのこうした主張は既に戦時期に出来

上がって、それらはいわば問題性をはらむ 戦前

00

思想の延長上において主張されたものにすぎない。確かに二人の

戦前における思想動向を細かく振り返ってみれば、 一面では時代的制約を受けている。しかし、 それが「一面的」

であったというのはどういう意味か。その点、異なる視点から佐藤瑠威は、戦時中の意識的な反時代的抵抗の姿

勢が彼らの精神のうちに成立しており、それが戦後になって たまたま

0000

花開いたにすぎないとい う

。丸山には戦前

の 思 想 を 踏 ま え た う え で、 「 戦 争 直 後 は、 特 に 僕 は …『 近 代 的 な 市 民 』 の 養 成 と い う も の を、 非 常 に 前 面 に 押 し

出し た

((

」だけだという説明もあり、この発言と符号が重なり合う。彼らの主張する近代化、ないし近代主義は一

九七〇年代以降になると、社会科学や思想史研究の分野において、広く批判の対象になっていく。なぜか。この

ことを考えるためにも以下において大塚と丸山の言説を、改めて整理し直してみたいと思う。彼らは様ざまな形

で共通するところ、相い反するところを持ちながら、しかし、ともかく同じ戦後状況のなかを歩んできたという

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(5)

事実は、大枠として、また考察の与件として認めなければならず、ここでひとこと注釈を加えるなら、晩年の丸

山が大塚宛書簡のなかで、次の様に語りかけたもうひとつの事実も、戦後一貫して彼らは概ね共同歩調をとって

きたことを明示しており、広い意味での同志的連帯感を抱いていたことを窺わせる。

  「近代合理主義批判」なる魔術的言葉の流行とともに、大塚史学に対しても、

時に

00

まったく滑稽な「批判」

を見受けることがありますが、申すまでもないことながら、どうかそうした雑音には顧慮せずに大塚さんの

歩んで来られた道を真すぐにお進み下さい。戦争直後に先生がお書きになったものは、そのまま今日でも通

用し、いささかも、それを「現代化」する顧慮も、必要も無用と存じま す

((

  マックス・ヴェーバー研究の動向から   意外に思われるが、実はヴェーバーの使ったエート 丸 概念について、数ある丸山自身の著述、文章で正面から

それらを 定義化

000

したうえで使用した例は極めて少ない。この点、 大塚に比べるとエート 丸 の 概念化

000

そのものには、

意外と思えるほどに興味を示さなかった。あたかも、それが血肉化してしまっているかのように。ところが、世

間では丸山がエート 丸 を用いて自説を展開し、論旨を明確化していると見ることについて、この点では誤解があ

るように思う。川崎修は 「『政治学の一九六〇』 において、 エート 丸 の問題は大きな比重を占めてい る

(9

」 というが、

『 丸 山 眞 男 講 義 録 』( 第 三 冊 ) を 開 け ば 分 か る よ う に、 エ ー ト 丸 は あ く ま で も「 リ ア ル な 状 況 認 識 を 可 能 に す る 」

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(0(

(6)

ための表現的援用であり、たいていは「政治的ディレッタントから区別する指 標

((1

」になっている、あるいは「専

門化と分業化の進展は、それ自体まさにアパシーの絶好の発酵源であ る

(((

」ことを示唆するためにエート 丸 を使用

し て い る。 丸 山 が 抱 い た「 エ ー ト 丸 」 観 に 触 れ る な ら ば、 「 ぼ く の い う 価 値 は、 何 も 新 カ ン ト 派 の 説 い た よ う な

超越的な、人間を離れてある、要するに、われわれが実践するときに必然的に予想せざるを得な い

((1

」精神的態度

のことである。その他では、政治学におけるリーダーシップ論でヴェーバーを引用する際にこだわっている例が

あ る。 確 か に、 「 個 々 人 に よ る 私 益 の 追 求 が、 自 動 的 に 生 み 出 す 均 衡 へ の オ プ テ ィ ミ ズ ム よ り、 い か に し て 自 発

的 な 秩 序 を 自 覚 的 に 担 い 得 る 主 体 を 形 成 す る か

((1

」 と い う 課 題 な ど は、 「 丸 山 政 治 学 」 の 主 要 な テ ー 丸 の ひ と つ で

あるが、 それらは必ずしもエート 丸 概念と直接結びつけて論じているわけではない。こういう、 一種の 「思い込み」

が研究史上横行している事実は、はじめに覚えておきたい学的傾向のひとつである。政治主体におけるパーソナ

リティの在り方を論じた文章は「超国家主義の論理と心理」 、「日本ファシズムの思想と運動」 、「軍国主義者の精

神形態」等、戦後初期における代表的な論文のなかにしばしば登場はするものの、それがエート 丸 論として展開

されることは稀であ る

((1

。わずかに軍国主義指導者がただよわせた精神的気分を突き詰めていくと、ヴェーバーの

いうエート 丸 に相当するものが認められる。しかし、それ以上は厳密な概念規定をしたうえで使用を試みたわけ

でなく、禁欲的プロテ 丸 タンティズムのエート 丸 が資本主義の近代化論に深く関わってくる大塚の考えを横目に

見るようにして参照しているにすぎない。それが大塚には日頃不満だったようで、後に武田清子に語った次の言

葉が、ようやく解消したことを暗示している。

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(7)

  『近代日本思想史講座』

(丸山が中心になって企画された、引用者)

が話題になり、 「精神構造」は英語でどう

表 現 で き る か、 直 訳 の

spiritualstructure

意 味 を な さ な い。 あ れ こ れ 言 葉 さ が し の は て に「 エ ー ト 丸 」 か

なということになった。ヴェーバーの「エート 丸 」を唱えておられた大塚久雄先生に後日お逢いした時、そ

の話をすると、 「ようやくそこに来ましたか」と快心のえみを浮かばれたのだっ た

((1

  さ て、 話 題 を 戦 前 に 遡 ら せ て み た い。 一 九 四 二 年 一 二 月、 安 井 郁 は「 求 道 者 と し て の 丸 ッ ク 丸丸 ウ ェ ー バ ー」

と 題 し て、 K 丸 ヤ 丸 パ ー 丸 著、 森 昭 訳 の『 独 逸 的 精 神 』 の 書 評 を 書 い た

((1

。 安 井 は こ こ に、 「 実 存 哲 学 の 真 理 を …

身 を 以 て 生 き 抜 い た ウ ェ ー バ ー の 人 間 性 」 が は っ き り と 示 さ れ、 「 お よ そ 求 道 を 志 す 者 に と っ て 貴 重 な 参 考 資 料

に な る

((1

」 文 献 で あ る こ と を 読 者 に 示 唆 し、 「 求 道 者 」 概 念 を ヴ ェ ー バ ー そ の 人 に あ て は め て い る。 訳 者 の 森 も、

ヤ 丸 パー 丸 の主唱する実存哲学は、ヴェーバーもそれを共有し、実存的「心理を明快に表現したヤ 丸 パル 丸 の思

((1

」 を 高 く 評 価 し て い る と い う。 つ ま り、 「 身 を 以 て 実 現 し た 一 つ の 哲 学 的 人 間 存 在 の 解 明 で あ る と 共 に、 ヤ 丸

パル 丸 的実存哲学が一人の人間存在の 理

会 を通じて具体的に思索展開され た

((1

」ことは注目に値するという。ヤ 丸

パー 丸 に従えば、ヴェーバーという人物は一般に考えられる以上に「楽天主義者」であり、かつ信仰的肯定をう

ちに秘めた、およそ「真実なるものが真理であ る

(11

」(

DasWahleistdieWahlheit

)という信念を把持していたこ

とになる。

  ウェーバーの研究の背後には真理への情熱があって、最早研究を通じては認識されず、唯、世界に於ける

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(0(

(8)

行為と生産とを通じてのみ認識し得るかの一点に、知識のあらゆる方法の明晰さを以て到達せんとする真理

への情熱がひそむのであ る

(1(

  こうしたヴェーバー理解は一九五〇年に 『 丸 ック 丸 丸 ウェーバーの社会理論』 を、 翌五一年に 『 丸 ック 丸 丸 ウェー

バー』 を著した青山秀夫の場合にもみられる。青山のヴェーバー研究におけるライト 丸 モチーフも安井と同じ 「キ

リ 丸 ト教的ヒュー 丸 ニズム」であった。そのモチーフ=思想を支えているのが求道者=ヴェーバー像であり、青

山 に よ れ ば、 彼 は 内 面 的 に は げ し さ を 求 め た 基 督 者 で あ り、 「 わ れ わ れ が 基 督 教 的 ヒ ュ ー 丸 ニ ズ ム と 呼 ん だ 山 上

の垂訓をたえず背負って生きた求道 者

(11

」 であるとみなしている。従って、 ヴェーバーはしばし 「神の前に直接立っ

て」おり、その「生活信条は清教徒のそれに近 い

(11

」人物として描かれる。青山はこの視点をベー 丸 に、同書八〇

頁以下において良心の自由、 原罪の観念、 倫理的合理化をテー 丸 にして議論を進めるが、 こうした視点について、

後に大塚はヴェーバーという人物はそれほど単純なヒュー 丸 ニ 丸 トではない、つまり内面において様ざまな緊張

や葛藤を抱えていた、よほど複雑な人物であると指摘し、ヴェーバーの「非合理的動機にもとずく合理主義」を

思想表現の前面に出すよう求めていくが、この指摘はやがて青山の受容するところとなり、結果、大塚のヴェー

バー像が世間に波及していく一例になっている。

  宗 教 倫 理 に 根 底 を お い た「 此 世 の 内 部 に お い て、 し か も 来 世 を め ざ し て お こ な わ れ る 生 活 態 度 の 合 理 化 」

で あ り、 「 禁 欲 的 合 理 主 義 」 で な け れ ば な ら ぬ。 そ れ は、 此 世 に 対 す る 世 俗 主 義 的 な 適 応 で は な く、 非 合 理

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(9)

的宗教的動機から出発しつつ、しかも此世の内部に生きる変革でなければならぬ。…清教主義は、あたかも

かような非合理的動機から出発する合理主義であっ た

(11

  このようなヴェーバーの宗教倫理理解は戦前から戦後へ受け継がれ、やがて一九六四年のヴェーバーシンポジ

ウ ム

(後述)

に お い て、 丸 山 か ら 批 判 さ れ る ま で 続 く こ と に な る。 す な わ ち、 こ の 時 丸 山 は「 ウ ェ ー バ ー の 生 き

方やエート 丸 論から『求道者精神』をつかみ取るというたぐいのウェーバー研究は、ロ 丸 ン主義的ないし感傷主

義的な『道徳主義』に陥る危険があ る

(11

」と指摘したのである。丸山によればこの求道的な論理の道筋を突き詰め

ると、やがて道徳的な説教、ないし純粋な宗教論議の対象になってしまい、これでは議論そのものが社会科学の

枠外にはみ出してしまう。そこに彼は激しく反発した。つまり、 学問的ザッハリッヒカイトが脱落し、 価値のヴェ

ルト 丸 フライトハイトが担保できなくなる、そういう状況が招来することを危惧したのである。あれほど価値自

由にこだわり、それを受容し続けた筈の大塚にしてなお、このような緊張や葛藤を伴う求道者 丸 預言者=ヴェー

バー像を保持し続けたことに、丸山はこの時、大塚の膨大な学問的業績の評価にも匹敵する基本的な問題性とし

て、疑義を申し立てた。しかし、こうした疑義に対して大塚が 正面から

0000

応えることはその後遂になく、むしろ晩

年の『意味喪失の文化と現代』 、『生活の貧しさと心の貧しさ』といった一連の社会評論的著作をみれば分かるよ

うに、こうした姿勢は益ます研究のうえにも色濃く反映していく。そして、こうした態度の根底にあるものにつ

いて、大塚は次の様に説明、かつ主張する。

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(06

(10)

  キ リ 丸 ト 者 で な い 研 究 者 の 方 々

(例えば丸山のような、引用者)

に は 見 え に く い も の が 私 に は 見 え て く る、

ということがある。…ヴェーバーを読む時…私の中にある大切なもの、人間を超えた冒しがたい存在への畏

敬の念、と言ったらよいでしょうかね、それと共鳴しあう。…ヴェーバーの場合には、それ(超越的なもの

への感覚)が明らかに行論の背後にあ る

(11

  同時代人として大塚とは比較的近い研究的位置にいた経済学者、大河内一男の場合は、このようなヴェーバー

へ の 関 心 と 異 な る も の を 戦 前 か ら 育 て て お り、 か つ 研 究 上 に も そ れ と 分 か る よ う 反 映 さ せ て い る。 戦 後、 大 塚、

丸山と並んで大河内も〝市民社会派〟の一人とみられたことは周知のとおり。一九七〇年、大河内は『社会政策

四 十 年   追 憶 と 意 見 』

(東京大学出版会)

の な か で、 一 九 三 〇 年 頃 の こ と と し て、 時 代 の 趨 勢 は 立 憲 自 由 主 義 か ら

軍国的専制主義へと移っていく。すると、それまでの資本主義体制は改変を余儀なくされ、時代は大きく経済的

再編期に突入していった。その過程で、社会科学を学ぶ者の一部は 丸 ルク 丸 主義の「洗礼」を受けるようになっ

た。大河内も当然こうした雰囲気のなかで研究を続けるうちに、自分は様ざまな契機を経て講座派 丸 ルク 丸 主義

の影響を強く受けたという。そして、この地点からヴェーバーの政治論集を読んでいくと、どうも 丸 ルク 丸 のほ

うがヴェーバーよりも一足の長があるように思えた。

  型=理念型の崩壊が「日本資本主義」体制の崩壊だということですよ、 「講座派」は。ところがウェーバー

にはそういう型の崩壊論はありません。ウェーバーの場合には、 ただ固定した理念型の「理解」論しかない。

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(11)

そ こ が 彼 に と っ て の「 経 験 科 学 」 の 限 界 だ っ た の で す。 し か し、 「 講 座 派 」 の ほ う は 型 の 崩 壊 論 を 政 策 論 と

して背後にもっ た

(11

  この後、大河内は講座派の影響を受けつつ、そこから本格的な政策研究に向かった。そこでは問題意識として

資本主義の崩壊過程を政策論のなかにどうしたら組み込めるか、そういった意図を持った。これはどちらかとい

えば、大塚より丸山の 丸 タン 丸 に近い。だが、それはあくまでも研究過程に反映されるべきことがらであり、い

わゆる実践活動と直接結びつくものではない。 「抵抗」 のための理論を考えていくと、 時代の制約 (研究、 思想統制)

が迫ってくる。こうした時、彼らの前に立ちはだかったのがヴェーバーその人であった。

  「 抵 抗 」 の 一 つ の 形 は、 丸 ッ ク 丸丸 ウ ェ ー バ ー の 中 に 逃 げ 込 む こ と で あ っ た。 満 州 事 変 の 頃 か ら 太 平 洋 戦

争にかけての十ヶ年

(昭和六年~一六年)

、 丸 ック 丸 丸 ウェーバーくらゐ、日本で読まれ、尊重され、直接大き

な影響を与へた学者はゐなかったのではあるまいか。ウェーバーは日本の若い層や学生にとって、 丸 ルク 丸

主 義 の 著 作 が 焚 書 同 然 に な っ て 後 は、 社 会 科 学 を 標 榜 す る も の の た だ ひ と つ の、 そ し て 特 に 大 切 な こ と は、

安全な拠り所であっ た

(11

  ヴェーバーの没価値説は体制批判を含まない理論とみなされ、 彼らは自らの社会科学研究に応用したのである。

つまり、 「資本主義的生産のアナーキー」に対応する価値のアナーキーがここにはあった。 丸 ック 丸 丸 ヴェーバー

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(0(

(12)

の「没価値」性に対する研究上の要請の一半は、 「実にこのような事態の上に現はれ た

(11

」。しかしここには、後述

するように丸山が追求した 丸 ンハイム的な視点や、 「神による被縛感」 (ジョン 丸 ロック)という視点からヴェー

バーを見ようとする視点は登場しなかった。

  私にとっての神は、他人にとっては悪魔であるかも知れず、これらの対立を調停すべき客観的な第三者は

存在しない、と言ふことであり、また預言者を喪った諸々の価値の世俗化の時代に於ては、神々の争ひが日

常的なものとなってゐることを深く思はねばならな い

(11

  さ ら に 別 の 同 時 代 人、 日 高 六 郎 の 場 合 は ど う か。 社 会 学 を 専 門 と す る 彼 は、 戦 前 か ら 宗 教 社 会 学 者 と し て の

ヴェーバーに関心を寄せ続けた。日高にとっては「人間の行為こそが、社会学の対象であった」から、その行為

に 関 す る 理 解 方 法 は 重 要 な 研 究 テ ー 丸 で あ り、 ヴ ェ ー バ ー に 対 す る 関 心 も こ こ か ら 深 め て い く。 そ し て、 「 徹 底

的に合理的な経験主義、すなわち我々が了解することのできる人間の行為だけが、社会科学の対象であ る

(1(

」とい

うフレームワークをヴェーバーのなかに見い出し、かつここに同調した。しかし同時に、様ざまな非合理的行動

については、一定の合理的視点から、どの様に解決すべきかという問題も避けては通れず、登場する。このこと

も ま た、 ヴ ェ ー バ ー に 関 心 を 寄 せ る 理 由 に な っ て い る。 結 局、 人 間 を ト ー タ ル に 把 握 で き る 方 法 は な い も の か、

これが日高の求める主要な研究課題となった。

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(13)

  ウェーバーが人間を、そして人間的行為をどのようにとらえたかは、ウェーバーを理解するための、最も

重 要 な 道 し る べ で あ る。 私 は ウ ェ ー バ ー が「 人 間 的 本 質 」( ヤ 丸 パ ル 丸 ) を 直 接 の 関 心 の 対 象 と し て い た と

は考えない。しかし、 方法として

00000

は実体化された社会でもなく、経済でもなく、政治でもなく、まさしく現

にわれわれがその意味を了解することのできる「人間的行為」こそが、その出発点であっ た

(11

  次に話題を一転、以上の諸説を踏まえたうえで大塚と丸山の間にはどこに思想的共通点、一致点があり、また

どこが逆に不一致であったかということを考えてみたい。近代主義を標榜する(これは自称ではなく、他称だと

いう見解もある)市民社会派としてのヴェーバー解釈に、その例を求めてみよう。まず、ヴェーバーのいう心情

倫理と責任倫理の違いについて。大塚は晩年、すなわち一九六〇年代末の学生運動の過激ぶりを見て、一面にお

いては青年らしい心情倫理の芽ばえを認めつつも、それが往々にして結果に対する責任を持たない実践であるこ

とに批判的であり、結果として、彼ら学生達は取り返しのつかない過誤を生むと警告している。つまり、結果責

任を伴わない心情倫理の強調は認め難いとした。それはまた、形式的合理性と実質的合理性の決定的な乖離をこ

こに見たということでもある。次に、 「もうひとつの貧しさ」 (精神的貧困)について。大塚はヴェーバーから受

けた示唆のひとつとして、近代の資本主義文化は、その行き着いたところでは巨大な社会的経営化、管理化が徹

底して進行すると捉えた。そして、それは日常生活を営む人びとの内面世界にどの様な影響をもたらしただろう

か。つまり、 「精神のない専門人、 心情のない享楽人」という人類類型が多数化した場合の現代社会の病理を指し、

彼らを「心の貧しい」人びとと呼び、そこに出現する様ざまな集団的、個人的問題について、社会評論、宗教評

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

((0

(14)

論の健筆を振るい、キリ 丸 ト教集会その他で、しばしば講演しては聴衆に向かって問題の所在を縷々説いた。さ

らに、ヴェーバーの主張に沿いながら、異常な資質、魅力を持つとみなされた人物が、周囲をして自ずから「何

者 が お は し ま す か は 知 ら ね ど も 式 に、 お の ず か ら 頭 を 下 げ ざ る を え な い

(11

」、 つ ま り 非 合 理 的 合 理 性 を 体 現 す る 現

代のカリ 丸丸 達の存在について、その規範的影響力の拡大に 注意

00

を促した。その一方で疑似カリ 丸丸 が社会のあ

らゆるところに拡散している社会現象を指し、文明批評を展開することも忘れなかった。加えて、社会科学者と

してのヴェーバーが科学と信仰を分かつ「間一髪の上に成り立つ境 界

(11

」線上を、我われの「生はその非合理な現

実性において、また可能的な諸意識の豊かさにおいて」内面的に汲みつくすことができずにいる、従って「価値

関係の具体的な形成はつねに流動的であり、人間文化の幽遠な未来にまで変動してゆ く

(11

」世界像を提示している

ことに注目して、 こうも言う。 「私はただ、 もっぱらヴェーバー的な生き方をなんとかして生きたい…これはまぁ、

ロ 丸 ン チ ッ ク な 憧 れ を も っ て 努 力 し て お り ま す

(11

」 と。 一 九 八 八 年 五 月、 丸 山 は 自 身 と こ う し た 大 塚 と 比 較 し て、

次の様な興味ある発言を残している。

  結論的には僕は非常に大塚さんに近いのです。近いのだけれどアプローチの仕方が全然違うのですね。 丸

ルク 丸 をやって、いわばその補助と言っては悪いけれど、ちょっと 丸 ルク 丸 に欠けているというのかな、 丸

ルク 丸 の射程の及ばないところとか、そういう意味でヴェーバーが登場してきているという感じを持つわけ

です。…その出発点とかが違うということは、戦争中からそうですけれど、まぁ違うなぁ…という感じを持

ちました。ただ、実践的結論は似ているのです。だから…戦争直後は、特に僕はそういう意味で「近代的な

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(15)

市民」の養成というものを、非常に前面に押し出したという点では結論は同じで す

(11

  両者にとって、 丸 ルク 丸 主義との関係や距離のとり方は大きく異なっていることが分かる。大塚はあくまでも

丸 ルク 丸 の理論を利用しながら、そこにヴェーバーの類型論やエート 丸 論を組み入れることにより、 丸 ルク 丸 と

ヴェーバーを複眼的、立体的に見ようとした。その結果、一元的な価値体系によって成り立つ教条的 丸 ルク 丸 主

義に陥ることを避けるが、 丸山の場合はこうした方法的態度と若干異なる点がある。ヘーゲルはもとより、 ルカー

チやボルケナウといった 丸 ルク 丸 主義思想家から、その構造的な把握方法を学び、その前に 丸 ンハイムを通して

そ の「 範 型 」 化 を 取 得 し た 結 果、 一 元 的 な 価 値 決 定 論 に 陥 る 危 険 を 避 け る こ と が で き た と い う こ と。 結 果 的 に、

両者は 丸 ルク 丸 主義における下部構造の決定的規定性(基底還元論)を避け、人びとの生活を成り立たせている

背後のエート 丸 、ならびに存在拘束性を媒介としつつ、思想それ自身の自主決定的な性格を確保、そのための方

法論を設定することができた。換言すれば、普遍的な価値の存在と、そこにコミットする方法を見つけることが

でき、また理論と現実との距離感を常時保つことによって、 特

パティキュラリズム

殊主義 、素朴実証主義に陥る危険も避けることが

できたということである。かくして 丸 ルク 丸 とヴェーバーを相互媒介的に組み込み、科学的探究を担保するため

の仮説設定に根拠を与えることを可能とした、このことを藤田省三は次の様に説明する。

  経済学における大塚久雄と政治学の丸山眞男は、科学を支えている理論以前の観念的エネルギーを大変重

視することが、一つの思想的な特徴になっている。 丸 ルク 丸 主義が理論を発展させる要素を大体実践という

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(((

(16)

概念で要約してしまうのに対して、この人たちは外部的な経験そのものよりも、むしろ経験を新しく照らし

出して行く、新しいジェネラティヴ 丸 アイデア(起動観念)が、より科学を進める力として重要だというふ

うに考えてい る

(11

 

  丸 ルク 丸 主義が人びとをして、 その社会科学における理論的な解決をもたらし、 実践世界へ導くこと、 そして、

それを方向づけるジェネラティブ 丸 アイデアの持つ力に信頼を置いた。これは二人に共通する思考的特徴である。

それに加えて二人には次の様な特徴もみられる。

  一切の安易な道をふりきって、それにとび込むような精神というものは、決して単なる科学精神や歴史的

必然性の意識ではなく、 もはや「絶対」に直面した精神であり、 その意味で当人が意識すると否とを問わず、

それ自体レリジャ 丸 (宗教的)な精神だと思いま す

(11

  で は、 両 者 は こ の 結 論 に 至 る そ の 手 続 き に、 ど の よ う な 特 徴 を 見 せ た か、 あ る い は、 そ れ は み せ な か っ た か。

結論を先に言ってしまえば、そこには 様ざまな

0000

形で「あった」としなければならない。大塚にとって近代精神の

内実は宗教改革によって発掘された精神のことであり、とりわけカルヴィニズムによって育てられた市民精神に

由 来 す る も の。 ヴ ェ ー バ ー の 言 葉 を 借 り れ ば、 淵 源 は プ ロ テ 丸 タ ン テ ィ ズ ム の 倫 理 に よ っ て 体 現 さ れ た も の で

ある。一方、丸山が「近代的思惟」を強調する場合、 「思想」の内実は、当然ながら著しく政治的なものであり、

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(17)

そこから導き出された精神構造がベー 丸 になっている。つまり、ヘーゲルやロックにみられる近代的なもの、そ

してそこから導き出された普遍的規範の存在であった。大塚が直接、キリ 丸 ト教の教義(神学)をベー 丸 に置い

たのに対し、丸山はあくまでもそれは間接的な理由付与にすぎないとみなし、むしろ人間精神(心理)の発達過

程のなかから内発的に生まれたと理解する。その意味で、両者は異なる外在的な神(絶対者)の方向から出発し

ておりながら、結果的にそれらは接近することになった。つまり藤田によれば、両者はともに「神の仮定を要求

するのが、近代精神のはじま り

(11

」だということになる。ただし、大塚は絶対的存在を実体化して受け入れている

が、丸山はあくまでも当為として、そうであらねばならない仮定として、どちらかといえば函数関係に近いもの

にしているという違いはある。これも藤田の丸山論から該当箇所を引用してみよう。

  絶対者が実体となって現実に存在している ドグ 丸

000

に対して、絶対者は存在 すべき

000

だ。そうでないと世界の

偶然的な事象の中に法則性がなくても良いことになるから、執念深い法則追求のエネルギーは生まれなくな

(1(

(傍点、引用者)

  丸山は自身と大塚の違いに触れた際、 丸 ルク 丸 主義の影響は「大塚さんのような、 丸 ルク 丸 主義 そのもの

0000

じゃ

な い

(11

(傍点、引用者)

と い う。 大 塚 が 講 座 派 に 近 づ き、 そ こ か ら キ リ 丸 ト 教 と の 結 び つ き を 模 索 し た の に 対 し、

自 分 に は そ う し た 経 験 は な い。 一 方、 「 僕 の ヴ ェ ー バ ー に 対 す る ア プ ロ ー チ と ク リ 丸 ト 教 と の 関 係 は、 必 ず し も

そんなに大きくな い

(11

」とことわっていることからすれば、 大塚のように、 キリ 丸 ト教との関係を前提にしてヴェー

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(((

(18)

バーから科学方法論を摂取したとは考えにくい。従って、 丸 ルク 丸 主義とヴェーバーが彼らに与えた影響の違い

は歴然として存在している。話題を歴史研究の全体に拡げてみよう。両者の研究方法をたどっていくと、そこに

共通性がみられると指摘したのは丸山自身である。だから「意味の型についてのなんらかの信念の光に照して歴

史的事実を選択し、配列すること自体がすでに単なる事実による実証の範囲を超えた操作であり、その意味です

べ て の 書 か れ た 歴 史 は 必 然 的 に『 信 仰 告 白 』( ビ ア ー ド ) を 包 含 す る。 こ の よ う な 学 問 に は 必 ず そ こ で

postulate

さ れ た 価 値 が あ る。 こ う し た

postulate

は 選 択 の 結 果 で あ っ て、 選 択 そ の も の は 超

0

論 理 的 な の で あ る

(11

」。 彼 ら が 相

手としたのは主として実証主義史学であった。思想や観念を対象とする場合、研究主体の主観をどのように見た

ら良いのか。ひとつには、 それを極力排除する方法があ る

(11

。次に、 観念を客観的な状況のなかにおいて、 主観を 「間

主観」化する方法がある。しかし大塚のように「エート 丸 」化するなら「信仰」との関係はどのようにとらえた

らよいのか。大塚ははっきり「研究対象に宿る精霊」の問題であるというから、 「呪術からの解放」 、「魔術の園」

Zaubergarten

) へ の と ら わ れ

0000

を 解 き ほ ぐ す 別 の 方 途、 そ れ が 即 ち 歴 史 的 事 実 を し て 研 究 対 象 と す る こ と か ら 解

放 す る 途 だ と 解 釈 し た。 こ れ が

Ent-Zauberung

( 脱 呪 術 化 ) を 必 要 と す る 所 以 で あ る。 こ う 大 塚 が 考 え る 背 景 に

は、大塚が内村鑑三から教示された「事実の信仰」という理解方法が存在した。

  確かに内村先生は、宗教的真理と科学的真理をともに事実にもとづいて確かめられることがらとして同列 におかれた。が、しかし、決して両者を単純に同一視されたわけではない。先生のいわれる 事実

00

は、科学の 対象たる限りでの事実よりは、明らかに広くまた深かったからである。先生のばあい、言うところの 事実

00

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(19)

うちには、何よりも、最奥の内的経験、すなわちキリ 丸 トが含まれてい る

(11

  ここで想定されたのが非合理的合理性という、社会科学ではそれまであまり使われたことのない概念の導入で

ある。大塚はヴェーバーに内在しつつ、その理論的受容を図ろうとしたが、丸山はそれとは反対に、ヴェーバー

をあくまでも外在において理解し、その理論をプラグ 丸 ティックな方法に結びつけようとした。

  すなわちヴェーバーに内在しつつ、それを越えようとする大塚久雄と、ヴェーバーの外にあってプラグ 丸

ティックに彼の理論から学ぼうとする丸山眞男の対照は、ヴェーバーの理解の仕方の二つの姿勢を示 す

(11

  内 田 芳 明 に よ れ ば、 ヴ ェ ー バ ー の 所 説 に 内 在 す る と は、 す な わ ち 信 仰 を 研 究 の な か に 内 在 化 す る こ と で あ り、

その研究の「背後には『ギリシャ人には愚かなるもの』たるキリ 丸 トの『福音』の原理が横たわってい る

(11

」とい

う。しかし、大塚の影響下にあるシューレの研究者が皆等しくこれを受け容れたのかといえば、必ずしもそうで

はなく、むしろ各人各様見解の分かれたところである。例えば大塚史学を支持する経済学史家内田義彦の場合で

いえば、この点、別の視点も可能であるとしたうえで、次の様に指摘する。

  同じ試みが、ウェーバー 批判

00

というかたちでなく、ウェーバーを高く 評価

00

するという、まったく正反対の

かたちでも行われるわけで す

(11

(傍点、引用者) 丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

((6

(20)

  大塚にとって 「ウェーバー批判」 は、 言葉の厳密な意味で 「批判」 になっていない。ということは、 果してヴェー

バ ー が「 そ こ ま で 意 識 し て 明 確 に 言 っ て い る の か ど う か わ か ら ん

(11

」、 つ ま り「 ウ ェ ー バ ー の い う こ と は、 お し つ

000

め て み る

0000

と こ う だ、 と い っ た か た ち 」

(傍点、引用者)

で 本 人 が 推 測 し て い る に す ぎ な い の だ。 に も か か わ ら ず、

結果としては「たいへん積極的な評価」がここに下されることになり、 「批判」が「評価」にすり替わっていく。

つまり、内田義彦の言葉を借りるなら、ヴェーバーの「いいとこだけ取っちゃうというかたちで…(他面からみ

ると)ウェーバーはすてさられてい る

(1(

」事態が暗黙のうちに起っているではないか。この問題には丸山も早くか

ら気づいており、或る時大塚に直接、ヴェーバー=大塚論という言い方(大塚がしばしば使う)は正しい表現で

なく、 他

を惑わすもとになっている。むしろ、 ヴェーバーと大塚はきちんと切り離して使うべきではないか、 と。

つまり、大塚は求道者=ヴェーバーという関係図式を、大塚自身の思想(信仰)的立場性に引き寄せすぎている

のではないか、というわけである。内田、丸山とは若干違って折原浩も「これはどこまでもウェーバーに内在し

ながら、しかもウェーバーを 越えんとする

000000

大塚氏の志向を示すもの」

(傍点、引用者)

であると迫った

(『東京大学 新聞』、一九六四年一二月一四日)

。 こ の 問 題 を よ り

00

明 示 し た 丸 ッ ク 丸丸 ヴ ェ ー バ ー シ ン ポ ジ ウ ム に お け る 丸 山 発 言

を次に紹介しておこう。

  大塚教授の言われた学問的研究方向にあらわれている病理ですね。もしそういう病理があるなら、それに

ついての価値判断はまったく大塚教授と一致します。ただ、それが果してヴェーバーの悪しき影響とさえ言

えるかどうかという点になると、私には疑問がある。むしろ方向としては正反対じゃないかと思う。いわゆ

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(21)

る 史 学 の 素 朴 実 証 主 義 は ヴ ェ ー バ ー の 言 葉 で 言 え ば、 方 法 論 的 に は、 呪 術 の 園(

Zaubergarten

) に あ た る

ものです。魔術からの解放というものは、ふつうはわれわれの生活態度における実践的な生き方の問題に関

連して言われるけれども、ヴェーバーの仕事の一つは、少なくとも私の理解では、他方ではこれを学問的認

識の問題として、 つまり科学的な方法論におけるエントツァウベルンクを遂行したことにあるのではないか。

そういう視点から見たときに、われわれはなおいろいろなかたちで魔術にとらわれているのじゃないかとい

う気がしま す

(11

  大塚と丸山の間にある了解と乖離   大 塚 に む か っ て「 丸 山 が 断 固 と し て 異 を 唱 え た 」 こ と が、 当 時、 朝 日 新 聞 の コ ラ ム 欄 で と り あ げ ら れ、 こ れ

は「両氏の思想的対決である」と報じられた。 丸 ック 丸丸 ヴェーバーシンポジウムで丸山は「戦前における日本

のヴェーバー研究」の系譜をたどって分かったこと、そのなかに、 「ヴェーバー研究とヴェーバー的問題のズレ、

あ る い は 丸 レ 違 い

(11

」 の あ っ た こ と に 触 れ る。 し か し、 発 表 時 間 の 制 約 を 理 由 に、 「 こ こ で や め た い 」 と、 突 如 語

ることを終了してしまった。この時「やめたい」といった理由が、時間的制約だけだったのか、疑問なしとしな

い。果して丸山は大塚を意識しつつ二日目の討論では「非常に暴言を吐いて恐縮です」とあやまったうえで、な

お も こ の ズ レ と す れ 違 い に つ い て 発 言 を 続 行 し て い る。 発 言 の 文 脈 を 追 っ て 分 か る こ と だ が、 ザ ッ ヘ に 仕 え る

000

あるいはザッヘに つく

00

研究態度を基本としながら、同時に研究上も求道者で あり

00

つづけることは、その間には別

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(((

(22)

に架橋的論理の介入が必要ではないか。むしろ、そこには両立を不可能とする隘路 丸 矛盾が深く横たわっている

のではないか、という問いかけが生まれた。ここにヒントとなる丸山発言がある。それは「ヴェーバーが求道者

であったことは、 だれも疑わないでしょう。ただ、 いかなるタイプ

0000000

の求道者かが問題でありま す

(11

(傍点、引用者)

と。そして、 「このヴェーバー像が主体化の極点において、 ただ『求道者』というイメージに収斂したということ、

そこに大きな問題がある」 と言う。この点は、 「『体をはった』 ロ 丸 ン的な歴史的体験主義にたいして、 およそヴェー

バーくらい嫌悪感をもった人はいな い

(11

」筈である。ならば「そうした傾向への反動として、いわゆる実践的もし

くは直観的主体性が、対象の厳密な概念的構成への反省ぬきに高唱されるとき、それは政治的現実に押し流され

るか、あるいは感傷的道徳主義に蒸発してしまうことを避けられませ ん

(11

」。ロ 丸 ン的歴史主義に反発することが、

その反動として客観的であり、厳密であるべき概念構成の軽視、ないし無視をもたらすとしても、この点におい

て、 「 す さ ま じ い パ ト 丸 を 除 外 し て 」 求 道 者 た ら ん と す る ヴ ェ ー バ ー 像 は、 大 塚 に と っ て 了 解 可 能 な 姿 で あ る の

かも知れない。だがしかし、少なくとも丸山にとってこれは「感傷的道徳主義に蒸発してしまう」と思わされる

ほうが、はるかに可能性が高い。ここから、一般に 客観主義的

00000

にヴェーバーをみることに「ある種の盲点」があ

るように、同じく「主体的理解」に近づこうとすればするほど、それは大塚の主張する方向のことだが、こちら

にも「大きな問題を残しておりま す

(11

」と述べ、 客観主義、 主観主義の双方に対して、 その問題性を指摘している。

こうした問題認識は折原浩にも認められるところであるが、このような問題性を感じたこと自体が、すなわちそ

こには批判すべき余地が残されていることを既に示唆している。

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(23)

  戦 前 の ヴ ェ ー バ ー 研 究 が 戦 時 中 に お い て

Ethos

論 を 媒 介 と し、 昭 和 初 年 の 丸 ル ク 丸 主 義 と は い わ ば 逆 の ベ

ク ト ル の 学 問 の 現 実 化 論 へ の 抵 抗 意 識 に 支 え ら れ て、 従 来 の 対 照 的 理 解 か ら 主 体 的 理 解 へ と 移 行 し つ つ も、

その主体化の極限として「求道者ウェーバー」というイメージを生むに至ったという丸山氏の指摘は、その

背 後 に い わ ば、 〝 ウ ェ ー バ ー と い う プ リ ズ ム 〟 を 通 し て 見 た 近 代 日 本 思 想 へ の 展 望 を 暗 示 し て お り、 き わ め

て興味深 い

(11

  次に、シンポジウムにおける討論で、両者の見解が大きく食い違った論点に触れてみよう。きっかけとなった

のは、大塚が発表の途中で聴衆に向かって投げかけた、次の様な問いかけである。

  ヴ ェ ーバ ー のよ う な 、す でに 自 分 のダ イ モ ー ン … を 熟 知 して い る ヴィ ル ト ゥ オ ー ゾ ( 達 人 ) な ら 、 こ うい

う 状 態にそ う し た 仕 方 が 十 分 に 堪 え られ る だ ろ う と 思 う の で す が 、 わ れ わ れは 、 学 問 の な か で い っ た い ど う

や っ て 、 そ のダ イ モ ー ン な る も の を 見 つ け るこ と がで き る で し ょ う か 。 現 代 に 関 して は カ リ 丸 丸 的 予 言 の 意

義 を 否 定 す る か れ が 、 そ れ に か え て も ち だ し て く る ダ イ モ ー ン と は 、 い っ た い 学 問 的 に な に な の で し ょ う か

(11

  既 に 繰 り 返 し 説 明 し た よ う に、 方 法 論 と し て「 呪 術 の 園 」(

Zaubergarten

) か ら の 解 放 を 強 調 し た ヴ ェ ー バ ー

のなかに、非合理的合理性の問題が含まれていることを知っている我われとしては、大塚が返す刀で切り込むよ

うに「ダイモーンなるものを見つける」ことを強調したということ、それは大塚独自の解釈が加わっていること

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

((0

(24)

が意味される。そして、大塚はヴェーバーから学んだ呪術の園から人々を解放すべき近代社会の到来を、戦後わ

が国の当為として思い描いたこと、そして、大塚の診断が呪術の園からの解放に関していえば、概して悲観的で

あり、丸山もその点ではたしかにそうも思った。しかし、大塚がここに「新しい神義論が必 要

(11

」なことを付加し

たとたんに丸山は反発する。その時の大塚発言は次の様なもの。

  現在の困窮状態がなにによってもたらされ、われわれはどうすればその状態から救われうるか、そういっ

たいわば広義での宗教意識や苦難の神義論( 丸 ルク 丸 主義のそれも含めて)の可能性をまったく否定しさっ

てしまうとき、しかもそのうえで、研究者たちに、自分でダイモーンを見つけてひたすらザッヘにつけ、と

いうとき、それは現代にたいしてとくに研究者ならぬ 丸 ッセ(大衆)にとって、いったいなにを意味するこ

とになるでしょう か

(1(

  ヴェーバーが懐疑的な悲観論で閉じた診断結果を受けて、我われは今日、現代資本主義社会をどう解釈し、将

来をどう見通したらよいのか。それは果して、 宗教的な神義論によって解答を与えてくれるものなのか、 どうか。

どうしたらそのダイモーンに出会えるのかといった問題は、もはや実存哲学的なテー 丸 に移行してこそ問われる

ものである。だから丸山はここで「断固として異を唱えた」のである。大塚の求道者=ヴェーバー像は、その根

底に信仰者=ヴェーバー像を置いており、丸山にすれば、大塚さんその判断自体が違うだろう、ヴェーバーはど

こまでも価値のニヒリズムと対峙し続ける哲学的科学者であって、ここに宗教的実存をあてはめるなら、私はあ

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(25)

えてここに「病理」の存在をはさむことにいたしたい。そして、 大塚と異なり、 我われのような凡人であっても、

ヴェーバー研究その他から価値の由来を探し求めることは様ざまにできる筈だと応酬した。これに対して大塚は

再度、それでは「われわれ研究者は、鶏が地上に餌をあさるような実証主義に陥るばかりで、鷲のように大空を

飛ぶことはできな い

(11

」と反論する。大塚はここで旧約聖書

(イザヤ書第四〇章三一節)

を引用、あくまでも神義論

的アプローチに固執する。丸山にとって 「呪術の園」 からの解放はあくまでも経験科学の対照でなければならず、

「 方 法 論 上 の ノ ミ ナ リ ズ ム が 歴 史 過 程 の 分 析 に た い し て も つ 意 味 は、 概 念 実 在 論 か ら 生 ま れ る 」 も の で あ る。 つ

ま り、 「 ド グ 丸 か ら 距 離 を 保 つ と い う か、 む し ろ ネ ガ テ ィ ヴ な も の

(11

」 で な け れ ば な ら な い。 こ う し た 批 判 の や り

とりを近くで見ていた石田雄は根底に歴史観、歴史解釈の違いがあること、また 丸 ルク 丸 主義との距離のとり方

に違いがあることをその理由に挙げた。そこで我われもいったん時期を遡って、両者が共通基盤に立っていたと

ころに戻り、 再度

00

問題の検証を行ってみたいと思う。出発点は「二人が 丸 ルク 丸 主義者と異なる点は、下部構造

の『反映』として意識をみるのではなく、歴史の主体としての人間のエト 丸 や意識の意味に注目し た

(11

」ところで

あ る。 具 体 的 に 言 え ば、 両 者 は「 普 遍 的 な 価 値 へ の 強 烈 な コ ミ ッ ト メ ン ト が あ る だ け に、 『 禁 欲 』 の 意 味 は 大 き

く、これによってこそ現実からの距離を保ち、社会科学の客観性を維持す る

(11

」ことが可能になる。ここで彼らの

主張は期せずして「西洋の範例に従うべきであり、同じように市民的、民主的社会への道を進むべきだと主張し

た。それゆえに、彼らは 丸 ルク 丸 主義者たちから侮蔑的な意味で『近代主義者』というレッテルをはられ た

(11

」の

であり、戦前、講座派の影響を深く受けたことが逆に作用して、 丸 ルク 丸 主義の理論的理解をめぐって更なる批

判を招くことになった。丸山にしてみれば「日本資本主義発達史講座」を読んで、それを彼なりの解釈から「正

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(((

(26)

し い と 僕 は 思 っ ち ゃ っ た

(11

」 し、 大 塚 も「 丸 ル ク 丸 か

0

ヴ ェ ー バ ー か 」 で は な く、 「 丸 ル ク 丸 と

0

ヴ ェ ー バ ー」 と い う

理 論 的 相 互 移 入 を 試 み た。 こ れ に 対 す る 正 統 丸 ル ク 丸 主 義 か ら の 批 判 に 対 し て、 「 思 想 が 思 想 以 外 の も の の 力 の

弁護として使われた場合を思想の機能と言っていた。実際は思想の機能じゃないん だ

(11

」と、丸山は批判し、大塚

は大塚で、キリ 丸 ト教に引き寄せて再度解釈をし直す。

  丸 ル ク 丸 主 義 は 唯 物 論 を 標 榜 し て い ま す が … 手 で じ か に 触 り う る も の、 目 に じ か に 見 う る も の の 背 後 に、

何か大切なものがあるということ、そういう目に見えない、直接には触りえないものに対する信仰を多くの

人々に教えたということは、非常に大きいんじゃないです か

(11

  大 塚 は 普 遍 的 な 価 値 の 持 つ 歴 史 的 意 義 を 通 じ て 、 丸 山 は 理 念 と し て の 「 近 代 的 思 惟 」 へ の コ ミ ッ ト を 通 じ て 、

そ れ ぞ れ が 自 身 へ の 批 判 に 対 す る 応 答 を 試 み て い る 。 こ う し た ア プ ロ ー チ そ れ 自 身 が 、 実 は ヴ ェ ー バ ー そ の 人 の な

か に 、 可 能 性 と し て は 始 め か ら あ っ た と 見 る 笹 倉 秀 夫 に と っ て 、「両 者 は と も に 、 ヴ ェ ー バ ー の 『 エ ー ト 丸 』 の 問

題 を 提 起 、 す な わ ち 新 し い 社 会 原 理 を 、 日 々 の 生 活 を つ う じ た 訓 練 に よ っ て 身 に つ け て い く こ と が 、 新 し い 社 会 全

体 の 形 成 に 不 可 欠 だ と い う こ と を 受 け 止 め た

(11

」。 そ し て 、 こ こ か ら 次 の 様 な 、 彼 ら に 対 す る 注 釈 的 解 答 が 生 ま れ る 。

  丸山が予言を語らないだけでなく、 丸 ルク 丸 主義者の内田(義彦)も、クリ 丸 チャンの大塚も予言を語り

ません。この三人を結びつけているのは、 そのような意味での思想、 世界観ではなく、 ヴェーバーの名によっ

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(27)

て示される思想的態度なのでありま す

(1(

  その一方、こうした共通点を強調し過ぎることは、彼らの個別思想的態度を厳密に見ていくうえで公平さを欠

く と 主 張 す る 見 解 が あ る。 し か し そ の 場 合 で も、 彼 ら の 持 つ 既 述 し た 共 通 性 を 否 定 す る ま で に は 至 ら な か っ た。

つ ま り「 内 面 の 中 心 か ら 生 活 と 行 動 と を 意 識 的 明 晰 に 導 い て ゆ き、 そ し て 現 世 の 職 業 に 献 身 す る こ と に よ っ て、

社会的生産の合理的主体となる精神の中にみることにおいては『近代主義』の中心的存在であった大塚と丸山の

間には本質的相違はな い

(11

」ものの、丸山にとって、思惟の成熟にかけた想いや願いは誰よりも強かったし、大塚

は『 宗 教 改 革 と 近 代 社 会 』

(一九四八年)

の な か で、 「 徹 底 的 に 客 観 的 」 で あ れ と 主 張 し な が ら、 同 時 に 客 観 主 義

( = 経 済 主 義 ) そ れ 自 体 は 拒 否、 歴 史 形 成 に お け る 主 体 論 を 展 開 し て エ ー ト 丸 の 意 義 に 触 れ た。 結 局、 大 塚 は 丸

ルク 丸 を内在化しつつ、ヴェーバーを自身の理論の中心に持ってきたことになる。次に、彼らの間で生じた思想

的な差異と対立点に話を移そう。樋口辰雄によれば「丸山と無教会クリ 丸 チャン大塚の間には、 連帯だけでなく、

ある種の鋭い『緊張関係』が隠されてい る

(11

」という。その緊張が生みだしたものこそ、再三述べてきた両者の間

に 横 た わ る ズ レ と 丸 レ 違 い を 生 む も の で あ り、 「 イ デ オ ロ ギ ー 論 に 関 す る 限 り、 丸 ル ク 丸 経 済 学 か ら 精 神 史 的 問

題 に 入 っ て 行 っ た 経 済 学 者

(大塚のこと、引用者)

と、 私 の 場 合 と は、 ウ ェ ー バ ー と の 対 応 の 仕 方 に お い て 若 干

のズレがあ る

(11

」。そのズレは年とともに大きな開きを見せるようになり、遂には通史的解釈の在り様に波及した。

大塚は晩年になると 『歴史と現代』

(一九七九年)

にみられるような歴史的社会評論活動に力を入れるようになり、

一方丸山は「歴史意識の古層」

(一九七二年)

に代表されるような歴史の元型志向をはっきりと見せるようになっ

丸山眞男と丸ック丸丸ヴェーバー

(((

参照

関連したドキュメント

 当教室では,これまでに, RAGE (Receptor for Advanced Glycation End-products) という分子を中心に,特に, RAGE 過剰発現トランスジェニック (RAGE-Tg)

現実感のもてる問題場面からスタートし,問題 場面を自らの考えや表現を用いて表し,教師の

[r]

青年団は,日露戦後国家経営の一環として国家指導を受け始め,大正期にかけて国家を支える社会

<第2次> 2022年 2月 8 日(火)~ 2月 15日(火)

を体現する世界市民の育成」の下、国連・国際機関職員、外交官、国際 NGO 職員等、

社会学文献講読・文献研究(英) A・B 社会心理学文献講義/研究(英) A・B 文化人類学・民俗学文献講義/研究(英)

社会学研究科は、社会学および社会心理学の先端的研究を推進するとともに、博士課