法華仏教比較文化試論
伊
藤
瑞 叡
緒
筆
者は︑東洋学・インド哲学仏教学・日本文化学の学的分野にお
いて︑内外相対の観点より比較文化学・比較文明論・宗教︵一文明︶
地 政学の学的領域が開拓されるべき時代が到来している︑と思う︒
すなわち思想文化の観点から仏教を比較の主軸として東西の言葉
と思想と人倫︵エトス︶を︑歴史文化の観点から仏教の東漸を視座
として東西文化交流の拠点ハートランドより終点極東アジアに及ぶ
地 理と民族と宗教と︑その歴史を︑それぞれ探究するべきであろう︒
する︒そしてそのダイナミズムを実現する︒すなわち表現こそ文化 へ る︒それはまた感性への表象として像︵二造︶形化ををもって結実 へ 人間の三口葉と思想と行為は歴史を背景としてコンセプションとな
の 精 華
でもある︒よって表現文化の観点から︑その精華を︑実習を
いとなみながら探究することも必要であろう︒
ところで文化︵パ巳↑⊆︼︶とは︑他書で論明した如く︑自然
(NatLii︶に対時され︑﹁4人間の活動の諸部門の総称である︒②人
間が価値ありと認めた目的に従って創造した所の一切である︒③す
な
わち各人間社会の各々の成員の内的かつ外的な行動様式の規則性
(生き方︶でもある︒
文化の規則性については︑フィリプ・バグビーのaSlrs ︵Cutture and History by Philip Bagby. ︶を図式化すると︑左の如vなる.︑
ヌ化の規則性を説明りる四力匡リ/﹈
文化の普遍的特徴・
特定の文化の特定の特徴→
人間本性
−自然一般
人種民族
地 域 環 境
以上を他の視点から変成すると︑他書で論明した如く︑周宗教・
法華仏教比較文化試論︵伊藤瑞︶
法華文化研究へ第三十三号︶
哲学・思想などに代表される精神生活に即する文化とその歴史︑倒
慣習・道徳・制度などに代表される社会生活に即する文化とその歴
史︑回科学・技術・芸術に代表される表現生活に即する文化とその
歴史︑それぞれの探究ということにもなろう︑
かくして︑目下︑筆者は一歩前進して︑自他の文化・文明を明確
に 識 知 するために︑田自然科学と文化科学︑②文化の本質的要素︑
③文化的規則性と解析範鴫モデル︑ω異文化の対比と比較︑⑤文化
と文明︑⑥西洋文化文明︵なお中洋文化文明もあり︶と東洋文化文
明︑m啓典文学宗教と聖伝文学宗教︑⑧西洋哲学と東洋哲学︑⑨動
的宗教と実践的宗教︑qO文化摩擦と文明衝突︑⑪西洋の悟性と東洋
の智慧︑⑫比較文化・比較文明の研究の主要諸問題︵自然観︑歴史
観︑絶対者観︑認識論︑論理学︑思惟方法︑その他︶を比較研究し
論明するべきである︑とも思う︒
これを仏教学の目的合理性の視点から要言すると︑比較文化・比
較文明の学的視点から︑大別して東西文化︵宗教・哲学・思考法な
ど︶の各特徴を追究し明証して︑仏教の︑就中︑法華経の思想・教
学の特質内容を実践哲学へと結実せしめ︑もって︑皆倶︵ 共︶成
仏 道
(日悉皆成仏・浄仏国土︶の実践的実現の可能性に資するべき
である︑と思うのである︑
以
上を日的として︑筆者は︑比較文化については︑拙著﹃仏教の
思想と現代﹂︵平成↓︑年︑隆文館︶の﹁第七章 日本文化としての 仏教史の課題 一 問題の所在︑二 文化ということ︑二 文化概
念および文化とその本質的な要素について︑四 文化史および仏教
文化史ということ︑五 口本文化の位置と特徴および日本文化の特
色︑六 比較文化ということ︑七 口本仏教文化史の基本的研究課
題について=一九三二二五頁︶において︑日本の文化と仏教文
化の特徴を推考し今後の研究課題を想定する前提条件を確認した︒
また東西文化の本質要素の比較︑すなわち文化の本質的な要素を
代表する宗教一般と仏教の︑他の本質的な要素を代表する科学・哲
学との同異と連関については︑同書の﹁第四章 科学・哲学・宗教
と仏教︑一 問題の所在︑二 科学・哲学・宗教に関するヘーゲル
の見解︑三 科学・哲学・宗教に関するベルクソンの見解︑四 科
学と哲学・宗教との連関︑五 宗教としての仏教の個性﹂ ︵1 1三
1
四八頁︶において︑科学・哲学に対比して宗教と仏教の宗教とし
て の 個
性を︑現代的な課題という観点から検考し論明した︒
また西洋の哲学と東洋の仏教との比較については︑﹁第五章 哲
学より見た仏教思想︑一 はじめに︑.一哲学とは何か︑vl仏教
とは何か︑四 おわりに﹂において︑哲学に対比して仏教とは何か
を思考して︑現代の知性に照して︑両者の本質的な特徴の同異を論
明したo また比較宗教については︑拙著﹃法華経の真実と救済﹄︵平成三
年 隆文館︶の﹁第一章 啓示の宗教と救済 仏教から見たユダヤ
教 仏教から見たキリスト教 仏教から見たイスラム教﹂︵二五ー 六
二頁︶において︑仏教と啓典宗教のユダヤ教・キリスト教.イス
ラム教とを比較して各宗教の特質を論明した︒
また比較宗教哲学については︑拙著﹃日蓮思想の現代﹂︵平成元
年︑大東出版︶の﹁第九章 日蓮聖人の宗教哲学 1 誤解の中に
ある日蓮聖人の宗教思想 2 聖人の宗教の基調 3 思想の一般
的な特性 4 その歴史的な革新性 5 如何なる観点より比較す
るべきか 6 哲学の生命は批判にあり︑日蓮思想の面目は折伏逆
化にある 7 西洋哲学の認識論・論理学とは異なる日蓮思想にお
ける真理確認の三証 8 実在と現象との関係 ◇ヘ−ゲルの絶対
精神と日蓮のマンダラ本尊◇ 9 キリスト教の神観と日蓮の仏身
観
10 ベルクソンの言う動的宗教と上行日蓮の実践宗教 ﹃立正
安国論﹂/﹃開目抄﹄/﹃観心本尊抄﹄﹂︵二一二九 二七〇頁︶にお
いて︑比較思想の観点から日蓮聖人の法華仏教に見る宗教哲学を究
明した︒ また比較哲学については︑拙著﹃仏教の思想と現代﹂の一︐第十章
曼茶羅本尊の哲学的意義︑一 問題の所在︑二 仏教におけるマ
ンダラの一般的語義および世親の理念的理解︑三 日女書における
マンダラの理念的理解︑四 へーゲル哲学との若干の比較︑五 要
約的結語﹂︵二七三 三ひ︶二頁︶において︑仏教の根本概念である 曼 茶 羅 本 尊
(ヨ餌ロハ芭円駒く巴三︹巨ぐ暮餌︶と哲学の根本概念である絶 法 華仏教比較文化試論︵伊藤瑞︶
l
i l)Iqi ︵das Absolute︶ =絶対精神とを比較して︑両者の概念の同
異を究明した︒
また比較歴史観については︑拙著﹃日蓮思想の現代﹄︵平成元年︑
大東出版︶の﹁第七章 日蓮聖人の歴史意識 はじめに 1 仏教
の
歴史観の位置 2 歴史観の諸種例 3 仏教史観としての三時
説
4 現代の歴史観の動向 5 三時説の意義 6 五紀︑すな
わち後五百歳説の意義 7 文化総合の観点より見たる三時五紀説
8 法興の理想を含む法華経の後五百歳説 9 後五百歳のリア
リティ ー0 後五百歳に対する聖人の信解 おわりに﹂︵二一七
二三
八頁︶において︑仏教の三時五紀説︵後五百歳説︶と西洋の歴
史観の諸種例とを比較して︑日蓮聖人の純化された法華思想におけ
る歴史意識の現代における意義を確認した︒
比 較自然観については︑一仏教環境倫理学序説﹂︵拙著﹃摂折論の
新研究︵上︶﹄所収︑平成十三年︑華林山文庫︶において︑東西の
自然観の同異について検考し︑仏教思想・法華教学の視点より仏教
による人間と環境の倫理の学として論明した︒
比 較 方 法 論 に つ い
ては︑拙著﹃仏教の思想と現代﹂の﹁第九章
本尊研究の現代的方法目一 はじめに︑二 間.題の所在︑三 本尊
そ
のものと学の意義︑四 学としての研究の方法︑五 哲学するこ
との意義︑六 要約的結語﹂︵一四九⁝一七二頁︶において︑仏教 へ
における絶対者︵匙ロコ・Absolute︶である本尊︵︒弓く脚﹂三︵巨く江冨︶そ
三一.
法華文化研究︵iK1−;−..:Lh︶
ヘ ヘ へ
のものを研究するために︑現代の思考法における方法の適用の可能
性を論明した︑
そして比較文明論については︑仏教の思想の結実である法華教学
立(
正
安国︶の観点と方法に依拠して宗教地政学を提唱して︑拙著
宗『
教 地 政学入門﹄︵﹄︑〜Sミ∨ミsミS§︑へ︶たミ§へ︶○§ぎミ民句︶︵平成 八年︑華林山文庫︶・﹃宗教地政学試論﹄︵﹄s団旨§§為ミへ○︒
Ooo言︑ミら︶︵平成十八年︑華林山文庫︶において︑比較文明︵宗
教・イデオロギーなども︶の視点から人類の未来を展望し危機を察
ひ シ
知し警告をもって治術の方策を提言する文明批評の学︑比較政経
政(治・経済・社会など︶の視点から国家間の自叛︵11内乱︶・他逼
(1侵略︶の可能性を分析し先見性をもって減殺の手段を提示する
叛 逼 分 析
の学︑比較地理︵民族国家・国民国家・離散民族など︶の
視点から良質の情報︵インフォメーションよりもインテリジェンス︶
を収集し分析して世界支配権力の深層の真相としての事実の動向を
捕 捉し告知する情報取要の学を模索し多少なりと試行した︒
かくして本論は︑以Lを補捉する意味で︑残れる直接的で今日的
な問題の多少︵認識の根拠︑実在と言語︑宗教と文明など︶につい
て︑法華仏教の視点から比較文化の学として多少の︑しかし根本的
な論究を試行するものである︒
四1
(1︶比較文明の学による文明批評のラディカルな事例を.小すと︑ 注 左 の如し
人聞の文化とは創造であり︑文明とは外的道具と内的意志との集積 であり︑いわば人工である..
そして人類の文明は︑その始源において︑道具と意志を自然と共生 する方向に行使して草食穀菜食を育成する万類共存型文明と︑n然を 掠奪する方向に行使して狩猟畜産肉食を欲求する人類独存型文明とに 分裂する可能性を内包する 前者は白他不二・主客合一の精神に依り︑後者はn我中心・我執我
欲に依る︑
ことに人類独存型文明は︑他者客体を征服掠奪の対象とする一自己 の独存をもって一元となし︑二者闘争をもって二元となし︑他者と対 立し抗争を遂行し効率的に勝ち抜くことを目的とする..
すなわち自我中心︵セルフ・センタードネス︶の観人︐心を原則とし二 項対立において他者を破壊しつくして自我も崩壊imt︿︶ doomsday ︵終末の日︑最後の審判の日︶を必至とする︐
すなわち人間︵テーゼ︶は自然を労働手段︵ 道具︶と労働対象︵
素材︶とに分割︵アンチテーゼ︶して支配︵ジンテーゼ︶し脅威を激 減 せしめて掠奪し︑しつくして崩壊する︑
人類独存型文明は︑西洋文明をもって代表する如くであり︑その精
神は我欲主義︵⑫珂olsln︶をもって原理とする︒
別三口すると︑﹁西洋文明は︑自然征服︵の破壊のエネルギーによる︶
イデオロギー︑自然征服文明である一と定義することができようt/
すなわち西洋の科学は真理の探究ではなく我欲実現の方法の探究で
あり︑西洋の技術は有害な他者を排除し客体を我欲に合わせて改造す
る手段である︒
また西洋の倫理道徳は︑フランスの実証主義哲学者のコントによる
と︑自己の利益を他者の利益の上に置く利己主義︵エゴイズム︶と他
者の利益を自己の利益の上に置く利他主義︵アルトル−イズム︶との
区別あり︑となる︒
アイン・ランド女史は︑﹁利他主義は野蛮人の道徳であり︑利己主義
こそ唯一の文明的道徳である﹂と言う︒すなわち西洋オリエント文明
の本質は︑自己を犠牲にしない︑我のために他者を犠牲にする︑それ
は合理的である︑とする点にある︐我欲絶対主義は︑他者犠牲の行動
へら ヘ ヒロマ リノを生み出し︑あるいは他者を犠牲にする儀式︵儀式殺人︶を秘儀とす
るにいたるのではないか.︑
かくして西洋文明では︑勝者たる我は他者を犠牲にする権利資格を
有する︑そして敗者たる他者はサレンダーして勝者の我欲を充たす素
材たる所有︵o乞コ︶物︵奴隷︶となり合法的に犠牲とされる︐
西洋文明の根本精神となろ衡欲ド断己中が主義は︑仏教で云う我執
(atm .i bhinivega︶であり︑それは無明︵①e三冨︶とシノニムであり︑
法華仏教比較文化試論︵伊藤瑞︶ 愚療︵ン・江ヨ目o言︶のことである︑.愚雇︵moha︶は莫迦と音称する︒
東洋の文明︑日本の文明は︑仏教の思想は︑自他不.一・主客△三の
精神に依る万類共存︵‖共生共成︶文明を代表するといえようt
旧西ドイツ・キリスト教民主同盟国会議員にしvs︑ l g七︵//︶年代に
西ドイツ・エコロジー運動の指導者となりしも︑マルクス主義左翼暴
力団に追放されたヘルベルト・グルールは︑その著﹃収奪された地球﹄
(東京創元社︶の一八.一頁に︑人類文明の未来を﹁人類は自然法則を打
ち破り︑自然法則はもはや人間には妥当しない︑と信じ込んだ..とこ
ろがいまや︹人類︶は悲惨な挫折に瀕している︑⁝⁝人類はこの軽卒
を厳しい自然法則に従って償わねばならない.︒だが︑この領分で通用
する唯二の正貨︑自然法則への違反事件で支払に使用し得る唯一の正 貨は︑死である.︑死は地球上にはびこりすぎたI切の生命を切りつめ
て︑地球に平衡をもたらす一︑︑三二頁に﹁人類は最大多数の人間の最
大幸福を求めて行動し︑そして今や︑最大多数のための最も速やかな
無に到達しようとしている﹂︵G・R・テイラー云く︑r現代文明は計 画された自殺行為である﹂︑B・コモナ−云く︑﹁現在の生産システム
は自己壊滅的であり︑人類文明がたとる現在のコースは自殺的である﹂︶
と展望する.︑
また英国のケンブリッジ大学教授︑英国E立天文台名誉天文台長マー
ティン・リース卿は︑そのtgU Our Fina︑ Centuty?に﹁現代の人類は︑
地球の歴史上︑第七番目の生物の大絶滅を推進中﹂︵二〇〇三年︶と総
三 五
法華文化研究︵第..卜..号︶
括し︑﹇第一から第六番日までの地球生物の絶滅は︑天然自然現象であ
る.︑しかしいま︑すでに︑かなりの程度まで進行中の第ヒ番目は︑.白
パーセント︑現生地球人類の仕業である﹇と結論する..
西洋人の世界観では︑創造と秩序は神の︑破壊は悪魔の︑それぞれ領
域 である︒十九世紀末葉︑二iチェは﹁神は死んだ一という警句を発
した︒西洋は過去数世紀︑創造神を殺害して︑破壊神の絶対的独裁体
制を構築し︑もって全地球人に押しつけた..地球生物の七度目の絶滅
は当然の結果であろう︑
またポール・ヴィリリオは︑その著﹃自殺へと向う世界﹄︵NTT出
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ版︶ Sli︵︶頁に﹁限界なき人間の科学とは神を厄介払いした人間の科
学のことだ︸と︑四六頁に﹁︑科学の教条主義は天地創造のピック・バ
ンへと盲信的に逆進してゆく﹂と述べて︑神話と科学の妄想による自
殺行為を指摘する.︑
人類の現代文明の自殺行為の要因について︑グルー/t t!111Or︶頁に 一人類は1.こ○年前にヨーロッパで︑第二の堕罪︵日十八世紀末の英国
ヘ ヘ へ産業革命と1;八九年のエドモンド・バークの云うはだかの理性によ
るフランス革命のこと︑第一のは創世記に見るアダムとイヴの堕罪の
こと︶を犯した﹂と言う︑
また・1.C二.頁にD・ランデスの﹃プロメテウス・プロジェクト﹄二
九七三年︑ケルン︶より﹁これは大昔からの異端の問題︑人間の自己
偶像化にかかわる︒これは西欧の思想界と神話に繰り返し現われるモ る. シャにおけるプロメテウスとダイダロスの伝説にまで遡る を引用す チーフをなすヒュプリス︵傲慢の罪︶であり︑失楽園の物語や︑ギリ
西洋オリエント世界はヒュプリス︹傲慢の罪︶︵それは法華経で云う︑
いわゆる増上慢︹三竺∋勾コ父である︶という︑ある種の風土病を生み出
した..それは次に全知全能の唯一絶対神︵ないし悪魔神︶という幻想
(7ベルクソンの云う仮構機能による仮想現実︶を作り出して宗教の時
代を迎え︑次に人間自身を全知全能の絶対主人公なりとヒューマニズ
ム
人間中心至上主義を宣言して科学の時代を迎えた一︑しかしこのバ
ブ ルはまもなく破壊する︑バベルの塔は崩壊するのではないか︑とい
うのである︒
シュメール神話からの盗用改作として︑創世記に記述されるノアの
大洪水の後時のバベルの塔の崩壊の話には︑西洋地中海オリエント世
界に出現した自然征服文明に対する︑人々の自己反省の思念が表現さ
れ てもいる︑
イエス・キリストでさえも︑パウロ派キリスト教会のドグマの主張︑
F全知全能の神の一rであるか否か一は別として︑1マタイ伝﹄第五・
ア し メ六・七章の山上の垂訓二栄華を極めたるソロモンだに⁝⁝この花↓つ
にも︑及かさりき一︶によるかきり︑西洋の自然征服破壊文明を悪魔の
業として否認する立場を執ったことは自明であろう︒
かくしてクルールは.二五︵︶.頁に﹁今日のバベルの塔はあまいがする
ほどの高さに達した︒⁝⁝吟味した結果︑基礎はしっかりしていない
ことが判った︒強度計算さえされていなかった⁝⁝企画し設計した建
築家は存在しなかった﹂︑二︑つの解決策しかない..:⁝・瓦解するのを
傍観するか︑⁝⁝塔の上部を一部取り除くか︑::;結論は全的瓦解を
傍観するしか︑いかなる解決策もない﹂と言う︒
しかるに西洋世界も東洋世界までもがバベルの塔の最上階を取り除
くどころか︑その上に電rコンピュータ的バベルの塔を積み上げてい
る︒しかもヨーロッパ共同体はニグロデを先祖とする力によってバベ
ル の塔をシンボル・マークとして採用してさえいる︑人類は第三の堕 罪を犯そうとしているのではないか︒
摂受︵anugraha︶・Xkー伏 ︵nigraha︶︑いずれの道を歩むべきであろ
うか︒東洋学等も︑小事にさとく大事にうとい小さな研究のゲームに
凝滞しておわるのではなくして︑大きな比較研究・批評提三口のゲーム
に参入することが要請されているのではないか︒
一、
西洋︵哲学︶ コ ニ ノニタノト ごワノユニヤ
の 知 性と東洋︵仏教︶の智慧
西洋の宗教は自然と人間に対する支配道具として作用するかに見
えるし︑西洋文明は自然と他者に犠牲を強いる我欲主義として︑自
然征服文明であり物質中心文明となる傾向にある︒すなわち﹁︵異
なる文明に対して︶文明の衝突﹂を熾烈化させるのではないか︒
法華仏教比較文化試論︵伊藤瑞︶
東洋の宗教は人間と白然との縁起︵ー中観−唯識ー無擬ー︶互具
による共成のための共生に導くものとして機能するかに見えるし︑
東洋文明は自然と他者に︵心的︶共感を求める無我主義として︑自
然
融合文明であり精神中心文明となる傾向にある︒すなわち﹁︵異
なる文明に対する︶文明の協和﹂へと導くのではないか︒
西洋文明における精神文化を代表するものは︑宗教を除外すると︑
最も真摯な思考を要する普遍科学︵能力︶としての哲学である︒
すなわち哲学することは人間生活においてありうる最も高貴なこ
ヒドゴとの一つある︒
東 洋 文 明 に
おける精神文化を代表するものは︑最も真摯な内省を
要
する実践態度としての仏教である︒
仏教を信・行・学することは道徳的本性︵ζ勺ロω合巴逸日○﹁巴す
ch
る ps Wpsen︶としての人間のなしうる最も高潔なことの一つであ
ヘ ヘ クいニヤ
哲学も仏教も︑智を求め智を基とする︒
philog. ophia g philosは愛すること︑sophiaは智を意味する︑
という︒ 西洋の哲学の智と東洋の仏教の智との同異は如何︒両者の比較を
要する︒ 智とは︑一往︑精神の様態であり認識の能力である︒
先 ずは︑大陸合理主義ドイツ観念論の代表力ント︵﹈己∋㏄己已工
三七
法華文化研究︹第︑一.卜.︑.号︶
Kant︐ 1724−1804︶哲学の概念と仏教のそれとを対比しよう︒
プ ノロ レロエヒノ しじ てドノご マ ト tiisu ︵Sinnlichkeit or Sonsibilitat︶とは︑悟性に思考の素材を
ヘ ヘ ヘ ヘ へ提供する受動的感覚である︒現象を対象として空間︵Raum︶と時
アコプリす go ︵Zeit︶を先天的な直観形式とする︒
仏教における五薙︵冨519士訂︼己9︶の中︑受︵ぐつ旨忌感受作
ロ パコ用︶に相当するか︒原始仏教では﹁世間とは五葱である﹂という︒
フニアノユタノト ヘ へ
悟 性
(Verstand︶とは︑概念・判断を可能にする自発的な思考
ヘ へ能力である︒分量︵Quantittit︶・性質︵○已口︸二置︶・関係︵︸︷巳苧
tiOll︶ .diUI ︵Modalitat︶ g四グループ各三カテゴリーを先天的
な思惟形式とする.
ドてう ヒさよう ニてヒ
五蓋の中︑想︵sa己Jna︶・行︵¢日井助呂︶・識︵く言目巴に︑
ことに識に相当するか︒あるいは法境を所縁とする意識︵日陪;−
vijfiAna︶に相当するか︒
もうふんべつ
あるいは妄くIRas ︵vikalpa︶にであろう︒それは︑我執︵巴日◎三ず
iniveSa︶による能・所を分つ︑いわゆる形像を表象する能力で感
性と悟性とを媒介する構想作用︵Einl︶二︵﹂ξσq⊃・ζ①芭である︒
ナ ド ア ヌ ノ フ ト ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ へ
理 性
(ぐ
2rnunft︶とは︑イデーにかかわる高い思考能力のこと︒
ラ ド ま ア ニ ア ァ ンのド
純 粋
(‖理論︶sw$I1 ︵reine Vernunft︶とは︑定立・反定立と いう解決不可能な誤謬におちいる推論の能力である︒
仏utの viinana ・ vikalpa g 1位相に相当するか︒
exsuevsu ︵praktische Vernunft︶とは︑最高善の実現を求めて
,
八
止まない意志の能力である︒
小乗︵=日簿文日p︶仏教でいう善悪・邪正を弁別し四誘の境を知
り衆悪・生死を除く般若︵I︶lliaJna︶に︑また大乗︵窓含︸5−笥S︶
仏教でいう空性︵⑩q5㏄巨︶を知る心的共感としての般若の一位相
に相当するか..
ヘーLlsル ︵Goorg Wilhelm Frieclrich Hogel. 1770r1°︒竺︶哲学
(loi rle
su
ngen tiber Geg. chichte der philosophie°その序論・岩波文
庫・青四一五︑11O−1八二頁︶と対比する︒
悟
性とは︑感性所与のセンス・データ︵素材︶にもとついて対象
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へを構成する概念作用の能力︑動的対象を固定化し全体的主体を分割
する思考能力︒他との内的連関︑他への転化の必然の理解へと進み
えない精神作用︒﹁Aは非Aではない﹂という矛盾律を根本原理と
ヘ ヘ ヘ ヘ へ へ
する分析的思考能力︒それによって捉えられた真理は分析的真理で
ヘ ヘ ヘ ヘ へあって相対的であり固定的であり︑科学的認識を可能にし有効では
あるが低次元である︒
eご日9・<完o言①に相当するか︒
理 性とは︑矛盾を処理し正︵テーゼ︶・反︵アンチ・テーゼ︶・合
ヘ ヘ ヘ へ
(ジン・テーゼ︶の動的にして全体的の発展を把捉しうる弁証法的
ヘ ヘ ヘ ヘ グマヒ ン バじ トな思考能力であり︑絶対者︵das﹀訂o巨9︶を普遍と特殊との総
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ合として具体的普遍として直観的に認識する能力であって︑哲学的
へ 認識の根本となる︒
般若︵prajna︶ Sva ︵buddha−jfiana︶ =1切智智︵鍵乏㏄盲T
j
fiana) =g.arvajfiataに相当するか︒
フランス精神主義︵生の哲学︶の︵ ltク︶N .X ︵Hpnri Bergson.
18 59 − 1941︶ISE ifF;︐ ︵Jn.troduction a la metaphysique 1903︐
Lintuition philosophque 1911.岩波文庫・青一五九︑二〇四︶と
対 比
する︒
分析 ︵analyse︶とは︑対象をそのまま把握することではなく︑
対象を分解して既知の要素に還元して表現する操作であり︑一種の
ヘ へ へ 翻訳である︒また科学的認識の根拠である.︑分析を可能にする事実
は 知 性
(intelligence︶11悟性︵く︒芸9コエ︶である︒
vijfiana vikalpaに相当するか︒
ymJgm ︵intution︶とは︑自らその対象となってその対象を内から
内感すること︑対象の内部へ自己を移行する共感︑事実と合一する
心的共感にして充実せる全き経験である︒哲学的ないし宗教的な認
識
の根拠となる︒
prajfiA buddha−jiAi Ana−sarvaji−i a−jfiAnaに相当するか︒
科学的認識とは︑対象を外から分析的に知るから分析的認識︑対
象そのものと一体となっての認識ではないから射影的認識である︒
哲学的認識とは︑対象を内から直観的に知るから直観的認識︑対
象そのものと一体になっての認識であるから本体的認識である︒
私 に 云う︑哲学する人は︑哲学の根拠として︑理念としては理性・
法華仏教比較文化試論︵伊藤瑞︶
直観を求めるが︑現実には知性・悟性を中心とするのが︑一般では
へ こ なしカ
かくして西洋における智とは︑知性︵intplligence︶11悟性
(Verstand ︶である︒
ベ
ルクソンによると︑それは自己本位︵egqolsm︶であるから人
間の社会性を破壊に導く︑また反省思考としてはたらくから人間に
自己の老病死を自覚させ生の不安や生活意欲の喪失へと導く︑とい
う︒いわば︑セルフ・センタードネスの観念による自我中心主義
(エ
ゴシステム︶を展開せしめる根拠ともなる..
論 理 実 証
主義の哲学の初期の代表者︑ルードヴィヒ・ヴィトゲン
シュタイン︵1にudwig WitgOnstΦin︐ 1889119. 51︶ ︵の l論理哲学綱
leMth Logig. che−philosophische Abhandlung︐ 19︐ 21︶によると︑知識
イ フ マ
の根拠となる認識手段︵これを仏教ではpramArpa量という︶は︑
直接知覚と推論とであり︑その二つは︑ 一つの悟性の行為︵つぎ
Act desぐerstandes︶ =認識機能である︑という︒すなわち悟性
をもって認知しえないものは認知しえないのだ︑ともいう.︑
私に云う︑悟性中心は自我中心︵セルフ・センタードネスの観念︶︑
そ れは我欲中心︵Φ西○ロヨ︶となり︑我欲を制御できなくなるので
はないか︒
its −R lt −L ︵Ren6 Deg.cartes宗㊤O ﹈OOO︶は﹃方法序説﹂
(Discours de ta M心thode︐ 1637︶にいう︑われ思う︑故にわれあり
三九
法華文化研究︵第一..卜三ロワ︶
(nギト・エルゴ・スム︑ Cogito. ergo g.uni L I think︐ Thorpforp
さ
Iam°︶と︒これ︑近代的な自我の端緒である︑自我の自覚より︑
セ ル
フ
・
センタードネスの観念︑そして我欲中心へと云々︒
しかし実存的哲学者にしてユダヤ教改革派のマルチン・ブーヴァー
は︑名著といわれる﹃我と汝二合§亀Oミ︶﹄にr現代世界の行き
ヘ へ こバて ヘ へ ヘ へ
づまりの根本原因は︑われに拘泥するデカルト以来の近代的自我に
ある﹂と指摘して︑左の如くいう︒
現代は﹁われとそれとの関係の仕方1となっている︒われはそれ
を手段として利用するにすぎない︒他人をそれとして自分の欲望の
手段︑それとしか見ない原理に基づいた独話しか行われない集団的
社会である..
これを﹁われとなんじとの関係の仕方﹂に転換するべきである.︑
われはなんじと全身全霊をこめて向き会う︒なんじはわれが限定し
利用できない一箇の実存者としてわれに与えられている︒われとな ヘ ヘ へ
んじの関係の仕方こそ︑出会いという真実の対話が行われる人格共
ヘ へ同体である..
私に云う︒﹁われとそれとの関係の仕方﹂の根拠は︑知性による
自我中心主義にある︒すなわち仏教でいう我執︵◎↑﹁口⑪げhiniveSa︶︑
むみチつ く ち
いわゆる無明︵avidyS︶卜愚痴︵縫召ヨo言︶にあるのではないか︒
そ れを放置すると︑分析︑分解︑主客対立︑自己が他己を支配︑
人間か自然を征服︑他者より収奪して止まず︑別してイデオロギー 四二
の
対立︑思想の抗争︑宗教の戦争︑民族の対立︑文化の摩擦︑文明
の衝突となるであろう︒
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ヘ へ
それは︑他者もまた白己であると知る仏教の戯論寂滅︵三艶﹂芭コ︹・11
6》
as
ama︶ H客合一のpmmel ︵prajfi国ーsai・vajtia−jfiAna︶によって
制御し克服することができる︑ないし文明の協和をもたらすのでは
ないか︒
かvて︑ここで︑法華経の仏智の観照作用たる仏知見︵吉合㌣
ぞり
ga ta−j rt助na−darg. ana︶を想起しよう︒
仏 知見の前段階は︑別教でいう第七遠行菩薩地 L︶ mah6paya−
pr
aj fia−baladht−ina ︵大なる方便・般若の︿智の﹀力を任持する︶
と見える.︑
方便 ︵upaya︶とは︑衆生を捨てない悲︵karun助︶と一体で︑
これは心的共感である. ヘ へ
方便として発現する悲を伴なう般若︵︼二・ど鼠︶とは︑縁起︵H≒㏄‖
ti ty. asamutpada︶を順逆に観察する︵宮己言江く鼻留ロo︶智であるt︑
prajfi鋼なる百鋤⊃oとは︑如実に知るへさこ忌シ︸旨9日三.巴習助ご︶
智である︒縁起を︑無自性︵asva︸︶︸局く㏄︶空 ︵⑩口o吉S11
no
ns
ub
st
an
ce︶を︑諸法の平等性︵samata︶を知るのである..
かくしてprajfiaは︑︵理事無擬・事事︶無磯を知り︑諸法の実相
(d
har︑日㏄﹇翻.n︹lhaima−svabh鋤vaーゴロ已︹=・簡︶h十如実相を︑︵十界︶
互 具を知る仏知見口平等大慧︵ヨ芦鋤−言閣コw戸−差∋㏄盲︶となって究
ロセ童する︒
prajfiaは︑事物・道理を識知・推理・判断する精神作用である
が︑我執︵鰍tmぽ一︶hiniぐ勺恥a︶を離れてee:rre ︵anEsrava︶であり︑心
的ti︵Kd. ︵sympathie−intuition spiiituelle︶である悲を伴なって方
便を発現する根本である点において︑ベルクソンのいう対象と一体
となっての認識である直wt ︵intuition︶に相当する︑と筆者は思
う︒
い ず れも︑知るもの︵能知︶が知られるもの︵所知︶の内部に入っ
て内から知られるもののユニークな特質を感じとるはたらき︑と知
られるからである︒
中観でいう能所寂滅11戯論寂滅︵︼≒ξ呂合毒留日聾︶であり︑法
華経でいう平等大慧︵己培冨と闘s必三山巴鋼︶に通ずる︒
総合的結語
以上に見たところをブーヴァーの云う﹁われとなんじとの関係の
仕方﹂において︑私見をもって要約的に︑かつ体系的に秩序化して
理解すると︑左の如くなる︒
ω
デカルトの近代的自我︵11我執︶の立場では︑﹁われ思う︑故
にわれあり﹂である︐
セキュラ ヒュヴマニズム アこマ ナ
② 現 代文明における世俗的人間至上主義︵11上慢︶の立場では︑
「われとそれと︵‖われはなんじをそれという手段として利用する
法華仏教比較文化試論︵伊藤瑞︶ 独話しか行われない集団的社会として︶の関係の仕方.となる︒
③
プーヴァーの実存主義の立場では︑﹁われとなんじとの︵出会
いという真実の対話が行われる人格共同体としての︶関係の仕方﹂
となる.︑
41
仏教の根本真理である縁起の立場では︑これあるが故にかれあ
り云々の共生︵目g Hl sahaja︶ Q道理︑相依性︵此縁性己①日11
praty. ayata−︶によるから︑﹁われありてなんじあり︑なんじありて わ
れありという関係の仕方﹂となる︒
⑤ 縁起を無自性空と見る中観学派の立場では︑相互依存関係︵ニー−
ar
et
ar
aS
ray. atva︶ S道理によるから︑﹁われによりてなんじあり︑
なんじによりてわれありという関係の仕方﹂となる︒
ヨロ
⑥
縁起を唯識無境・唯心縁起と見る唯識学派の立場では︑二界
fiLgeP ︵citta−mAtram idarp yad idarp traidhcitukam︶ ︵︷︸道理に
よるから︑﹁われとなんじは︑われ︹の心︶にありという関係の仕
方﹂となる︒
m
縁 起を縁mp相由 ︵=事事無擬︶・法性融通︵U理事無擬︶と見
る華厳教学の立場では︑無磯︵日六相円融︶の道理によるから︑ へ
[−われは即ちなんじなり︑なんじは即ちわれなりという関係︵11主
ヘ ヘ へ客くu1 7主伴具足11無尽義︶の仕方一となる︒
⑧ 縁
起を法華経 門の二乗作仏の教によって示される一念三千11
有 始 生 滅 の
因 果のト界互具と見る台家 門︵−天台法華宗︶の
四.
法華文化研究︵第三十..号︶
おめ
立 場
では︑依正因果互具の道理によるから︑﹁われの中になんじあ
り︑なんじの中にわれありという関係の仕方 ︵−1相義︶﹂となる︒
へ ヘ ヘ へ
ところで︑しかし︑ブー; t・︳は云う︒しかしわれ−なんじにお
ヘ ヘ ヘ ヘ へけるなんじはそれに転化する運命を担っている︒最愛の芸術にせよ︑
最愛の恋人にせよ︑直接的・相互的・現存的なわれーなんじの関係
ヘ ヘ ヘ ヘ へは︑時を経ると消滅し︑なんじはそれとなる︒
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
しかしいつもなんじであって絶対にそれとならない﹁永遠のなん
ヘ へ へじ﹂と呼ばれるものがある︒それは神である︒神に対してわれー︐な
ヘ へんじの関係を実現すればするほど︑神は自らの姿を︑この世に現わ
す︑という︒
の つ こ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
しかし何処で﹁永遠のなんじ一の永遠が明されたのであろうか︒
ユダヤ・キリスト教の神の実体とは何か.︶
これはキリスト教の神の観念とは大きく異なる︒ユダヤ教の伝統
が
生きている神の観念なのであろうか︒ブーヴァーはユダヤ人であ
ヘ ヘ ヘ へりシオニストであり︑ハシディズムと称するユダヤ教の神秘主義を
承けた実存哲学者である︒よって︑ 神は自らの姿を︑この世に現
わす﹂というのであろう︒
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
しかし法華教学では﹁なんじは即ちわれなり﹂のなんじから﹁わ
れ の中になんじあり﹂のなんじとなり︑そして永遠︵巳品ひ巨゜︒㏄唇1ー
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
bu
dd ha︶ Sわれ なんじとなる︒﹁永遠のk6んじ ︵=本果︶﹂は
ヘ へ
r
永遠のわれ ︵−本因︶﹂によってありうる︑というのである︒ 四.ヘ ヘ ヘ ヘ へ
それは日蓮教学において究童する︒すなわちそれの中にもなんじ
ヘ ヘ へ
の中にも︑﹁永遠のなんじ﹂を見る︒否︑﹁永遠のなんじ﹂の中に
ヘ へ
「永遠のわれ﹂をも見る.かくして永遠のわれ なんじの関係の仕
方が︑かぎりなく内在的に根源的な実相深理︵11常住の互具‖本有
の
妙法︶として明されるのである︒
⑨縁起を法華経本門の久遠実成の︸#5 ︵==文上随他意本門︶によっ
て示される︵ー文底随自意本門の︶真の一念三千11無始常住の本因
本果の十界互具と見る当家本門 ︵−ロ蓮法華宗︶の立場では︑本
有常住の︵本因本果の真の十界︶互具︵11.爾前迩門の十界の因果を
し ギ
打 や ぶて︑本門十界の因果をとき顕す︒此則本閃本果の法門なり︒
ドてジニリ
ヘ へ 九界も無始の仏界に具し︑仏界も無始の九界に備て︑真十界互具・
百界千如・一念三千なるべし︶の道理によるから︑﹁とわなるわれ
ヘ ヘ へ
(11本因︶の中に︑とわなるなんじ︵11本果︶あり︑とわなるなん
ヘ ヘ ィじの中に︑とわなるわれありという関係の仕 h ︵− 1相無尽義︶﹂
となる︒ ヘ へ
ともにうちにあるとわなるわれとなんじとは︑その志向するとこ
ろ︑もとのもの︑すなわち五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古
ヘ ヘ ヘ ヘ へ仏︵目永遠のなんじにしてわれー所化以て同体の︶︑常住不滅
(s
adE−i sthita aparinirvrta︶ g本地仏である︒永遠は常住となる︒
ン ヲ
よって我等与衆生皆倶成仏道11共成︵11倶成︶の理想を可能
とする︒
そして縁起の究極に継起する常住の互具は︑人と人々との︑人々
と衆生との︑衆生と国土︵11自然︶との︑単なる共生︵総言す︶
で はなく #︵ajn ︵vayam ca sarva−sattvaS ca agra目 bodhi日
ps
rSemahi = sah2bhisarpbuddha︶と共成のための共生の原理と
もなって蘇生し活性化するであろう︒
すなわち︑それぞれが本来のそれぞれ︵11本因妙︶となり︑常住
とき ところ
の 時
(11本果妙︶と所︵‖本国土妙︶を得るのである︒
別言すると︑私ども︵11本因︶は永遠︵11無始無終︶なる覚醒
(infinite Awareness︐ eternal Buddha︶ E︷︶中に永遠に生きている
(=︷zad±l sadA sthita︶ことを自覚して1切の怖畏を離れしもの ︵1
不滅︶となる︑というのである︒
(1︶・︵2︶拙著﹃仏教の思想と現代︵改訂版︶﹄︵平成十二年︑隆 注
文館︶の中︑第四章 哲学より見た仏教思想︵一二五1一四八
頁︶︑参照︒
(3︶同書の中︑第三章 科学・哲学・宗教と仏教︑参照︒
(4︶同書の中︑第三章の注︵9︶九六頁︑参照︒
(5︶同書の中︑第三章︑九六−一〇一頁に詳述せり︒
(6︶同書の中︑第三章︑101−10九頁に詳述せり︒
(7︶同書の中︑第四章︑一三二頁による︒
法華仏教比較文化試論︵伊藤瑞︶
(8︶篠田英雄編﹃哲学名著解題﹂︵一九五五年春秋社︶︑桂寿↓
教 授 の 論 述
(
一七
〇ー一七八頁︶による︒
(9︶訳書に野口啓祐訳﹁孤独と愛ー我と汝の問題1﹄︵昭33︑創
文社︶がある.︑他にブーヴァーの著書の訳書に児島洋訳﹃人間 とは何か﹄︵昭36︑理想社︶
(o1︶・︵1︶拙著﹃法華菩薩道の基礎的研究﹄︵昭和六十三年︑平
楽寺書店︶五七−九五頁︑参照︒
(1︶拙著﹃華厳菩薩道の基礎的研究﹄︵平成十六年︑平楽寺書店︶
︳−1110−四六四頁︑参照︒E
(13︶同書 七八一頁︒
(14︶同書 七二五ー八六二頁︒
(15︶同書 六三七ー六六七頁︒
(16︶︵17︶拙著﹃摂折論の新研究︵下︶﹄︵平成十四年︑華林山文 庫︶の中︑第二章 開目抄の摂折論︵五九 一七四頁︶︑九六︑
l o
九︑ 1:︵O頁に︑その要文を摘出し明証することドの如しo ω華厳乃至般若・大日経等の爾前は︵随宜所説の方便権経で
あるから︶一代の綱qm ・ 1切経の心髄である一念三千・二乗作
仏と久遠実成との11つの大法を隠すという二つの失がある︒②
法華経は︵随宜所説意趣の真実経であるから︶ 門方便品で
は︑開権顕實して一念三千︵11所詮の観︶・二乗作仏︵目能詮
の教︶を説いて爾前↓︑失の一つを脱れたのである︒③ しかし
四三
法華文化研究へ第︐.一十一..号︶
いまだ発 顕本しないから︑有始生滅なる逃因︵の九界︶ 果
(の
仏界︶の法門︵日能詮の教︶による一念二.千︵‖所詮の観︶
であって︑まことの一A︐心三千ではないから︑二乗作仏の仏も有 始 生
滅となって無始常住と定まりはしない︒④ しかるに本門
寿量品では︑発迩顕本︵日能詮の教︶して爾前 門の︵蔵通別
円の︶四教の︵有始生滅なる︶十界の因果を打やぶって︑本門
の十界の因果︑すなわち無始常住なる本因︵の九界と︶本果
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
(の
仏界︶の︵真のト界互具・.白界千如・一念三千11所詮の観
なる︶法門︵U能詮の教︶をとき顕して爾前︵ 門︶の失を
脱 れ た の である..㈲ 要するに法華経︵の釈尊︶は︑開権顕実
によって一念三千︵‖有始生滅の迩因 果の十界互具︶を説き︑
まこと
発
顕本によって真の一念三千︵‖無始常住の本因本果の十界
互具︶を説くのである︒⑥ ﹁開権顕実・発迩顕本︵11本因本
果の法門日能詮の教︶して︵本門の︶真の一念二.千︵=所詮の
観11随宜所説の意趣︶をあらわす﹂ことは︑摂折論から見ると︑
こ こ
(教主釈尊における︶折伏の根本義を示していると見ることが
できる︒m 要するに︑一法華経﹂とは︑﹁︑代の肝心たる一念
11
1
千 ︵を建立するところ︶の大綱にして骨髄たる二乗作仏︵の教によって示される一念三千11有始生滅の 因 果の十界互
具︶・久遠実成︵の教によって示される真の一念三千11無始常
住の本因本果の十界互具︶を説き明す﹂ものである︑というの n﹁n﹁
である︐この二段がまえの論理の構造は要注意である︒⑧ 此
の 法門ー深妙之上法一唯一仏乗教を諸大乗経にいまだきかずと︑
領解する順縁の者︵諸大菩薩諸天等︶に対して︑此の法門を申
すことは摂受ρ三已η臣ゴ①︶となろう︒ということは︑領解し
ダざ へない逆縁の者にとっては︑折伏︵nigi.aha︶となる
また︑拙論一無作三身説の論理的構iW.1 ︵拙著﹃宗教地政学
試論一﹃平成卜八年︑華林山文庫︑一八七 .︐○.一頁︑所収︶に
本尊抄・報恩抄∴.天秘法抄の各所説を対比して論明すること
下の如し︒⁝⁝本抄の﹁此土有縁深厚本有無作三身一は﹃開目
抄﹂の﹁九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて︑
真の十界︵11本因本果の︶互具﹂云々に照合する..要言すると︑
本尊の﹁教主釈尊﹂とは︑﹁本門の教主釈尊﹂であり︑観心門
に約すれば︑﹁我等が己心の釈尊︵ー無始の九界に備れる無始
の 仏界︶﹂でgり︑ r古 ︵=当初以来此上有縁深厚︶仏﹂として
(久修業所得の︶scetN ︵sanibhoga−kaya︶を正意とするが︑
r
無始︵ー仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず︶一としてl本有︵=常住ごであり︑三身に約すれば︑﹁無作︵一一身即.二身・
ヘ へ
三身即一as =t秘密との三身︵11本尊の法体の事相︶を︑互具
に 約 すれは︑﹁真の十界︵ー本因本果の︶圧具目一念一︑一千﹂︵‖
ヘ へ本尊の法体の理体︶﹂を︑当初証得の体とする︑と知られる..
要するに︑三抄の文面は︑しばし対比してみるだけで︑相互に