瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一八三 一 は じ め に 小稿は ︑前稿
︵1
で取り上げた ︿浣溪沙﹀に続き ︑瞿秋白の獄中詩詞のうち ︿卜算子﹀を対象とし ︑その内容の確
︶認とこの詞から窺うことのできる瞿の意識と心情について考察するものである︒
︿卜算子﹀は︑ ︿浣溪沙﹀と同じく国民政府陸軍第三十六師所属の医師陳炎冰に贈られた詩詞三首の一つである︒当
該三首の中ではこの︿卜算子﹀だけが︑一九三五年七月︽国聞週報︾に掲載された李克長の訪問記には付されておら
ず︑一九三五年段階の︽中央日報︾をはじめとする各種報道でも︑また一九三七年の︽逸経︾における一連の瞿秋白
関係記事でも︑この詞そのものは取り上げられていない︒陳が受け取った︿卜算子﹀を含む三首の転送公表の経緯は
前稿の第二節で述べた通りであり︑一九三九年︑上海の︽文献︾誌上での直筆影印の掲載が︑初出である
︵2
︒
︶陳炎冰に与えられたもの以外の手稿が残されていたかどうかは︑詳らかでない︒ただ︑三十六師師長として瞿秋白
拘留の総責任者であった宋希濂は︑当時︿卜算子﹀を目にしたことがあったと︑回想している︒彼は︑瞿秋白の身分 陳 正 醍 ││ ︵その二︶ ︿卜算子﹀ ││ 瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について
一八四
確認後︑三十六師としての最初の取り調べは自分自身が行うと決め︑瞿秋白の様子について部下に状況を報告させて
その機会を窺っていたところ︑半月ほどたったある日︑部下から受け取った瞿の作品の中に︿卜算子﹀があり︑その
一節を見て瞿秋白の心境を感じ取り︑ 早速翌日︑ 三時間ほどにわたって面談した︑ と言う
︵3
︒ 宋が言及している ︿卜
︶算子﹀が︑陳炎冰に贈られたものを指しているのか︑それとも別人に与えられたものであったのかはわからない︒だ
が︑いずれにしても︑宋の回想が正しければ︑この詞が上述の︽文献︾誌での公表以外のルートで知られていた可能
性は皆無ではなかったことになる︒
その可能性を示唆しているのが︑一九三五年七月の︽申報︾および︽大公報︾の瞿秋白処刑の詳報の中で伝えられ
た ︑瞿の絶筆詩 ︿偶成﹀の ﹁跋﹂とされる部分の記述である ︒文中に秋白の以前の詞句の一部が引用され ︑それは
﹁予言﹂ではなく﹁思いを述べたもの﹂に過ぎないと評されている
︵4
︒ここに引かれた﹁秋白の句﹂こそ︑ ︿卜算子﹀
︶の第三句 ・第四句に他ならない ︒︿偶成﹀本体に続くこのくだりは ︑瞿本人の手になる跋文と見なされることも少な
くないが ︑既に別稿で論じたように ︑︿偶成﹀が掲載された ︽申報︾ならびに ︽大公報︾の記事等を比較検討してみ
れば︑絶筆詩の後に続く部分が瞿秋白自身の文章である確度は必ずしも高くないことがわかる
︵5
︒﹁跋﹂とされる記
︶述は別人の文章であるという推測が正しければ︑少なくともその人物は既に瞿の︿卜算子﹀もしくはその類作を目に
していたことになる︒
︿卜算子﹀は詞牌の名称である︒上記報道記事中の﹁予言﹂という言葉は︑ ﹁運勢占い﹂を意味するこの詞牌名に絡
んだ表現と見られるが ︑むろんこれは ︑詞の内容とは無関係である ︒瞿秋白のこの詞が ︑陸游の ︿卜算子︱ ︱詠梅﹀
への和詞であることは明白である︒やはり陸游のこの詞を踏まえた作品としては︑一九六一年末の毛沢東の手になる
もの
︵6
が人口に膾炙しているが ︑瞿の ︿卜算子﹀は ︑毛の作品と違って陸游の原韻に従っており ︑語彙上も原詞に
︶より緊密に結びついている︒
︿浣溪沙﹀の場合と同様 ︑ 瞿秋白の ︿ 卜算子﹀の基本的な意味を理解する上で不可欠なのは ︑典拠の確認である ︒
むろん ︑典拠を把握することが ︑そのまま ︑瞿自身も同等の心情を抱いているという判断に直結するとは限らない ︒
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一八五 深く共感しているからこそ利用する場合もあれば︑用語のみを借用して原意とは独立の境地を描き出している場合も あるかも知れない︒典拠の指摘は︑当然のこととして︑瞿秋白の思想と心情の全体的理解との関係を念頭に︑対象と する詩詞の分析と解釈を進めるためである ︒一方 ︑ この作業に当たっては ︑︽ 多余的話︾を含めた瞿の著述との照合
が欠かせず︑それらからも多くの論拠や示唆を見出し得ることは言うまでもないが︑それによって︑典拠を踏まえた
作品そのものの分析の省略を正当化できるものでもない︒
︿卜算子﹀の場合 ︑その解釈の分岐点の一つとなるのは ︑上述した陸游の詠梅詞への和詞という意味合いをどの程
度重視するかである︒本稿においても前稿同様︑周紅興の解釈とワン・シアオリンの訳解等を参照しつつ考察を進め
るが︑周は︑瞿秋白の︿卜算子﹀が陸游の詞を踏まえていることに言及しているものの︑両者の相違を強調するだけ
で︑細かい表現の次元で瞿の詞を原詞と比較して論じることはなく︑ワンに至ってはそもそも陸游との関連に全く触
れていない
︵7
︒ 彼らと対照的なものとしては︑ 王保林の論がある︒ 王は︑ 二つの詞の共通性に着目して瞿秋白の ︿卜
︶算子﹀をも ﹁詠梅詞﹂と見なし ︑ 陸游からの影響も肯定的に捉えている
︵8
︒陸游との異同をどのように評価するに
︶しても︑瞿秋白が陸游の詠梅詞を意識していることは一目瞭然であるゆえ︑瞿の︿卜算子﹀に関して陸游詞との関連
を全く吟味せずに理解することは︑困難であるように思われる︒
他方で︑この詞の上片第四句に﹁逍遙﹂の語が使われていることから︑荘子思想の影響如何という問題も見逃すこ
とができない︒周紅興︑ワン・シアオリン︑王保林の三者はいずれも明示的にはこの問題に言及していないが︑丁守
和が指摘するように荘子との関連もまた明白である
︵9
︒丁の論に代表されるように ︑荘子思想は ﹁消極的﹂人生観
︶に他ならないと捉えられ ︑瞿秋白の共産主義の ﹁闘士﹂らしさの擁護にとっては妨げとなる要素と見なされてきた ︒
一方 ︑総じて ﹁悲観的﹂色彩が強いものと捉えられてきた瞿秋白の獄中詩詞の中で ︑︿卜算子﹀は一般に ︑最も ﹁積
極的﹂ ︑﹁楽観的﹂な作品と評価される傾向にある︒そして︑この詞がこのように﹁好意的﹂に受け入れられる基盤と
なっているのは︑主として︑しばしば革命の前途に対する明るい展望を詠じているものと論じられる下片の境地であ
る︒その結果︑この型の解釈の下では︑上片に見える荘子思想の影を直視すれば︑上片と下片の間には大きな溝が生
一八六
じることになる ︒その隔たりを埋めようとすれば ︑﹁逍遙﹂を含む上片についても可能な限り ﹁革命精神﹂に適合し
たものとする解釈を構成しなければならなくなる︒周紅興や王保林の論には︑こうした意識が見受けられるかも知れ
ない︒ いずれにしても︑瞿秋白の︿卜算子﹀の解釈にあたっては︑陸游詞および荘子思想との関係を考慮しないわけには
行かない︒そこで︑本稿では︑第二節で陸游︿卜算子︱︱詠梅﹀との関連を取り上げ︑陸游詞の原意を踏まえて瞿秋
白が自己のどのような思いを伝えようとした可能性があるかを検討する︒次に第三節では︑上片第三句・第四句の解
釈を手がかりに︑荘子思想の世界との関わりの問題について考察し︑その角度から捉えた場合の︿卜算子﹀理解を試
みる︒
二 陸游︿卜算子│詠梅﹀との関わり
寂寞此人間 寂しいものだ この人の世は
且喜身無主 ともあれ喜ぼう 主なきことを
眼底雲烟過尽時 雲や霞が 目の前から消え失せる時
正我逍遥処 私は本当に 自由の身となる
花落知春残 花が散り 春の終わりを知る
一任風和雨 ただ風と雨に打たれるに任せても
信是明年春再来 明くる年 再び春がめぐり来れば きっと
応有香如故 もとどおり 芳香が漂うに違いない
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一八七 小稿で依拠する︿卜算子﹀のテキストは︑一九三九年の︽文献︾誌および翌四〇年の香港︽大風︾誌所載の︑陳炎 冰に贈呈された直筆墨蹟の影印である
︵10
︒ なお︑ 瞿秋白の ﹁絶筆詩﹂ とされる ︿偶成﹀ を紹介する報道文中には ︿卜
︶算子﹀の第三句 ・第四句が引用されているが ︑そこには ﹁眼底烟 ︵煙︶雲過尽時正我逍遙処﹂とあり ︑﹁ 雲烟﹂を
﹁烟雲﹂または﹁煙雲﹂に作る
︵11
︒
︶瞿秋白の︿卜算子﹀は︑陸游の︿卜算子︱︱詠梅﹀
︵12
を踏まえている︒
︶駅外断橋辺 駅のはずれ 崩れた橋のたもと 寂寞開無主 寂しく咲いて 見る人もいない 已是黄昏独自愁 すでに黄昏 ひとり悲しみに愁える 更著風和雨 さらに風と雨にも 打たれている 無意苦争春 無理をして 春を争う気持ちは無く 一任群芳妬 ただ他の花々の妬むがままに任せれば 零落成泥碾作塵 花は散り 泥にまみれ粉々になっても 只有香如故 芳香だけは もとどおり漂うに違いない 陸游の原詞の押韻字は ︑ 主 ︑ 雨 ︑ 妬 ︑ 故 ︒ 瞿の詞は ︑ 主 ︑ 処 ︑ 雨 ︑故であり ︑原韻を用いている ︒語句の面では ︑
﹁寂寞﹂ ﹁無主﹂ ﹁風和雨﹂ ﹁春﹂ ﹁一任﹂ ﹁香如故﹂などの語がそのまま用いられている︒ただし︑瞿秋白の作品では末
尾に﹁卜算子﹂と記されているだけで﹁詠梅﹂という詞題はなく︑題意は表示されていない︒
ワン・シアオリンは︑ ︿卜算子﹀は︿浣溪沙﹀に比して一般に﹁楽観的﹂に理解されていると評する
︵13
︒ワン自身
︶の捉え方はどちらかと言えば︑死を目前にしながらも個人的な感慨として﹁悲観﹂していないというほどの意味合い
一八八
であるように思われるが︑確かに︑この詞はしばしば﹁革命の前途﹂に対する希望を示していると見なされてきた︒
周紅興は︑瞿秋白の︿卜算子﹀と陸游詞との相違点を指摘する︒周の見解では︑陸游の︿卜算子﹀が梅の不幸な境
遇によって︑政敵の排斥・攻撃を受ける自身の悲惨な状況に喩えていて︑過度な哀愁と孤高の自任の情緒を流露して
いるのに対して︑瞿の詞は︑プロレタリア革命家が試練を前にして保っていた崇高な心境と忠誠の姿勢を表現してい
る ︑とされる
︵14
︒瞿の ︿卜算子﹀が陸游を踏まえていながらも ︑はるかに積極的な革命精神に貫かれていると見な
︶す以上︑細部の対比は意味を持たないと判断されるのであろうか︑陸游から流用されている語句の解釈に際して︑陸
游詞との比較はいっさい行われていない︒
王保林は ︑陸游の詠梅詞を ﹁消極的﹂ ﹁ 悲観的﹂と見なす見解に対して異を唱え ︑ 高貴な品格と反骨精神を示して
いる︑という立場を取る︒そして︑瞿秋白の詞も陸游と同様に梅に託して自らの人生を描いているものと捉え︑陸游
詞の特徴は瞿の作品にも見られると指摘する︒要するに︑この作品は﹁梅の花に対する賛美を通して一人の共産主義
戦士としての感情と抱負を詠いあげている﹂とされるのである
︵15
︒興味深いことに ︑周と王は ︑ 陸游との比較にお
︶いては対照的な見解を打ち出しているが︑瞿秋白の︿卜算子﹀自体の理解としてはともに﹁革命的楽観主義﹂の立場
にある︒ さて︑王保林は瞿秋白の︿卜算子﹀も陸游と同じく﹁詠梅詞﹂であると見る︒だが︑和詞であることに留意するか
らといって︑瞿の︿卜算子﹀も梅を詠んでいるものと考えなければならないわけではない︒確かに︑瞿の詞の下片で
は ﹁花﹂ ﹁香﹂などの言葉が用いられているので ︑これを根拠に梅を題材にしていると主張することは一応可能かも
知れない ︒しかし ︑上片を梅の描写であると断ずるのは相当無理がある ︒上片では第一句に ﹁寂寞此人間﹂とあり ︑
さらに第三句︑第四句では﹁眼底﹂ ︑﹁正我逍遥処﹂という表現が見える以上︑梅を客観的に描写したものと受け取る
ことは困難であろう︒どうしても梅を介在させようとするならば︑擬人化された梅の心情を詠んでいると見なすしか
ないが︑それならばいっそのこと︑作者本人の思いを直接詠じていると理解する方が︑素直である︒上片は瞿秋白本
人の心情の直接的述懐︑下片は周囲の自然環境の描写を通して作者の思いを述べているもの︑と捉える方が︑すっき
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一八九 りしているように思われる︒ さらに︑ ﹁花﹂ ﹁香﹂が織り込まれている下片についても︑これを梅の描写と捉えるかどうかという問題がある︒
王保林は ︑︿卜算子﹀全体を梅に仮託していると見るので ︑下片も当然梅の花に関する表現だと捉える ︒梅がしぼ
み落ちる情景︑梅の風雨に対する態度を示した上で︑春は必ず新たに到来し︑梅の花も再び芳香を放つであろう︑こ
うした梅の本性は変わることがないという趣旨だ ︑と受け取るのである
︵16
︒一方 ︑ 周紅興は下片の花の描写につい
︶て︑第五句︑第六句の﹁花﹂がしぼみ枯れ落ちるというのは作者自身の生命の終息の比喩︑そして第七句︑第八句で
大地に春が戻って花々が満開になり元通り芳香を放つであろうというのは︑革命の前途の比喩であるという点は強調
するものの︑ ﹁花﹂が梅なのかどうかについては言及していない
︵17
︒
︶第五句の﹁花﹂は﹁花落知春残﹂とあることから︑晩春に花が散る光景と捉えなければならない︒一方︑梅の開花
時期は品種によって様々であるが︑一般に︑詩詞において他の花と比較した梅の特徴とされるのは︑その早咲きとい
う点である
︵18
︒百花に先駆け ︑厳寒に耐えて咲くところに ︑苦境にあっても節を曲げない志の象徴たる位置づけが
︶与えられる︒鄭孟彤は︑陸游が﹁無意苦争春︑一任群芳妬﹂と詠うのも︑その季節的特徴を摑まえて︑周囲の排斥に
遭っている自らの境遇と︑他の花々が満開になる頃には梅は散ってしまう状況とを重ね合わせているのだと指摘して
いる
︵19
︒遅咲きの梅と考えれば瞿の ︿卜算子﹀の ﹁花﹂を梅花と見ることは可能であろうが ︑ その場合 ︑陸游詞で
︶描かれるような厳寒に立ち向かい春の到来を告げる梅の印象は自ずと薄まる︒
しかしながら ︑﹁花﹂が梅とは限らないという点 ︑また ︑仮に梅だとしてもその特徴を最もよく代表する要素が表
現されていないという点を割り引いても︑瞿秋白の︿卜算子﹀の中に︑陸游の詠梅詞の主旨と関わりを有している側
面を認めるのは︑不当ではあるまい︒
まず指摘できる両詞の重なりは ︑逆境に置かれている意識の表明である ︒陸游は ﹁已是黄昏独自愁/更著風和雨﹂
と詠じ︑ひっそりと咲く梅が︑まもなく闇に包まれようとする夕暮れに︑独り悲しみ愁えているさま︑それに加えて
風や雨に打たれている苦難を表している︒瞿秋白は陸游から﹁風和雨﹂を借り︑春の終わりに風雨にさらされるまま
一九〇
花が散ってゆく情景を詠っている︒ここからは︑瞿もやはり︑花に託して自らの苦境を吐露していると捉える見方が
導かれ得る︒同様に︑ ﹁花落﹂ ﹁春残﹂も︑陸游の﹁零落成泥碾作塵﹂ほどではないが︑逆境あるいは苦難に関連した
語句と見ることができる︒さらに︑孤独感ないし孤立感を表現している﹁寂寞﹂も︑やはり瞿の詞の中で使われてい
る︒ 次に︑瞿の詞でも下片最終句に見える﹁香如故﹂は︑陸游の場合と同じく︑優れた精神性や気高さが保ち続けられ
る意味を示している︒陸游において﹁香﹂は言うまでもなく梅の芳香であり︑その品位の気高さを象徴する︒瞿秋白
の ︿卜算子﹀においても ︑たとえ陸游詞における ﹁梅﹂特有の性質までは伝えていないにしても ︑﹁香﹂には同等の
意義が込められていると見て差し支えない︒仮に梅を離れても︑花の芳香はやはり︑すぐれた徳行や名声の比喩であ
ると受け取ることができる︒その点では︑ ︿浣溪沙﹀における﹁芳草﹂に通ずるものがあると言えよう︒
これらを併せると︑瞿秋白の︿卜算子﹀でも︑孤立し辛酸をなめる逆境に置かれながらも決して消し去られない精
神もしくは理想の象徴として﹁香如故﹂が用いられていることが確認でき︑挫折にも拘わらず気高い精神性は変わる
ことがない
︵20
という︑陸游詞の伝える﹁思い﹂を踏まえている意識を窺うことができるであろう︒
︶もっとも︑孤独で不遇な状況下にあって︑陸游詞ではその境遇に対して﹁愁い﹂を覚える︵ ﹁已是黄昏独自愁﹂ ︶の
であるが︑瞿秋白の︿卜算子﹀に表明される心境にはその要素は認められない︒特徴的なことは︑瞿が上片第二句で
﹁喜﹂という語を用いている点である ︒後で見るように ︑この対比に着目して瞿秋白の詞と陸游の詞との境界の相違
を論じるのは︑むろん重要な意義を持っている︒しかし︑その前段階において︑瞿が陸游詞の﹁愁﹂を踏まえ︑それ
に対して自らの心境として﹁喜﹂を打ち出したのだとした場合︑陸游の﹁愁﹂の生ずる所以となっている﹁寂寞﹂や
﹁無主﹂等については ︑原詞通りの趣旨で用いているのか ︑それとも異なる意味に置き換えているのか ︑という問題
も検討しないわけには行かない︒論理的にはそのどちらの可能性も考えられるのであろうが︑ここではまず︑陸游詞
に沿った意味で用いられていると想定した考察を試みる︒
ここで 伴 となるのは ﹁無主﹂の解釈である ︒周もワンも ︑﹁主﹂を ﹁支配する者﹂あるいは ﹁主人﹂ ︑﹁ 所有者﹂と
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一九一 把握し ︑﹁身無主﹂は ﹁他人の支配を受けていない﹂ ︑あるいは ﹁主人のいない体﹂ ﹁所有者のいない身柄﹂を意味し ているものと捉え ︑ 陸游詞との関連には全く言及していない
︵21
︒王保林は上述したように瞿秋白の ︿卜算子﹀と陸
︶游詞との親近性を主張する立場にある上︑瞿の詞においても﹁梅﹂が基軸になっていると判断しているのだが︑意外
なことに彼の場合も﹁主﹂の解釈に関しては︑周紅興らと変わるところがない
︵22
︒
︶だが︑陸游詞における﹁主﹂は通常︑ ﹁梅を愛でる者﹂の意とされ︑ ﹁無主﹂は単に﹁所有者﹂の不存在にとどまら
ず︑一歩踏み込んで︑主人に﹁遺棄された﹂状態︑鑑賞・評価する者すなわち﹁理解者﹂を得ていない状態を示して
いるものと解釈される︒ 例えば︑ 鄭孟彤は ﹁無主﹂ を ﹁誰も関心を寄せる人がいない﹂ ことと説明し
︵23
︑ 武田泰淳 ・
︶竹内実も﹁主︵みるひと︶なし﹂と読み下している
︵24
︒向彤・秦似の︽陸游詩詞賞析︾では︑ ﹁無主﹂の語釈を﹁主
︶人がいない﹂とした上で︑梅の花の状況を﹁遺棄された主人のいない無用の花﹂ ︑﹁良さを認める人もいなければ︑世
話を焼いてくれる人もいない﹂と解説する
︵25
︒いずれも ︑ ひっそりと寂しく咲く梅の花が ︑周囲から評価を受けず
︶打ち捨てられている情景を描いているものという把握である︒このような意味で﹁無主﹂は︑孤独の色彩を加えると
同時に ︑理解者がおらず正当な評価を得られていない ︑逆境に置かれている状況を一層強調する役割をも担ってい
る︒ 言うまでもなく︑陸游の︿卜算子﹀は我が身を梅に仮託しており︑もともとは梅だからこそ﹁主﹂が所有者=鑑賞
者という解釈が成り立つのだとも言える︒となれば︑梅についての描写ではないと考えられる瞿秋白の︿卜算子﹀の
上片にみえる語句に関して ︑そのまま同じ意味を適用するのは無理があり ︑既述の通り ︑瞿秋白が陸游の ︿卜算子﹀
における﹁正当な評価を受けない﹂ ﹁逆境﹂にある存在という趣旨を意識しているものと考えたとしても︑ ﹁無主﹂に
関して︑陸游詞で用いられている意味への連想を含みとしていると受け取るのがせいぜいかも知れない︒しかしなが
ら ︑︽多余的話︾から読み取れる瞿の訴えの中には ︑理解者を得られない不遇の状況と不可分の側面がある ︒ 少々長
くなるが ︑︿ 卜算子﹀で語られる心情の背景を把握する上で見逃すことができない点を ︽多余的話︾の叙述に即して
確認しておきたい︒
一九二 周紅興は︑第一句﹁寂寞此人間﹂について︑自分が戦友・同志と別れ︑革命の隊列を離れたことに︑苦悩と孤独・
寂しさを感じている︑と言う
︵26
︒ワン・シアオリンは︑自由を奪われ死を目前にした孤独な状態の述懐と捉え︑ ︽ 多
︶余的話︾で示される ︑﹁完全に武装を解除され ︑革命の隊列から引き離されている﹂ ︑﹁ 私は永遠に休もうと思う﹂と
いった記述に着目する
︵27
︒国民党側に捕らえられて革命の戦線を離脱し ︑ 同志たちと離ればなれとなったことが ︑
︶瞿の﹁寂しさ﹂ ﹁孤独感﹂の源泉であるという説明は︑もっともらしく聞こえる︒
このような把握からは︑国民党側の手中に落ちて自由を失ったことが︑とりもなおさず瞿にとっての﹁逆境﹂であ
ったことになる︒周紅興は︑陸游との対比を重視することから︑瞿秋白の︿卜算子﹀に含まれている陸游に由来する
表現を﹁逆境﹂という観点からは取り上げていない︒とは言え︑周は国民党勢力に捕らえられ投獄された状況を︑試
練ないし苦難だとは見なしている︒この点では︑王保林も同様である︒王は︑硬骨︑堅忍不抜という陸游との共通点
を認めていながら ︑瞿秋白にとっての ﹁逆境﹂をやはり国民党に捕らえられたことと見るに過ぎない ︒だがその場
合 ︑﹁無主﹂の意味を陸游詞で使われているままに理解しようとすれば ︑瞿秋白は彼を捕虜としている当局者から
﹁正当な評価﹂を得られず ︑世話もされずに打ち捨てられていると位置づけるしかなくなる ︒周紅興らが ﹁無主﹂を
陸游から離れて ︑﹁ 外界 ︑すなわち敵から支配を受けていないこと﹂という理解にとどめざるを得ないのは ︑瞿秋白
にとっての﹁逆境﹂もしくは﹁苦難﹂の意味合いの把握と連動しているものと言えよう︒
さて︑周らの論に従えば︑上述のような孤立感に襲われた中で瞿は同志たちに最後の別れを告げる︒周紅興は︑下
片の後半二句を解説して革命の勝利に対する瞿秋白の強い信念に言及した際︑瞿が獄中で同志・戦友たちの﹁勇猛精
進﹂を祈り ︑ 自分が彼らに ﹁ついて行けない﹂ことを残念に思っているのだと論じる
︵28
︒だが ︑ 実際には ︽ 多余的
︶話︾の中で ︑﹁勇猛に進んで行く﹂仲間たちを ﹁羨ましく思い﹂彼らを ﹁祝福﹂しはするけれども自分は彼らについ
て行くことはできない︑と述べるのに続いて瞿秋白が表明している所感は︑そのことを﹁惜しいと思わない﹂し︑同
様に︑一生の心力を無駄に政治に費やしたにもかかわらず﹁後悔も感じない﹂ ︑というものなのである
︵29
︒それどこ
︶ろか︑周紅興が引用している文章を含む段落の冒頭において︑瞿秋白は︑同志たちに﹁勇猛に進んで行く﹂よう励ま
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一九三 す前に︑彼らに﹁清算をする﹂ように語りかけており︑段落の末尾では︑隊列から粛清されるべき者は結局は粛清さ れるのが当然であり︑それも早ければ早いほど良いのだから︑なおさら残念がるには及ばないのだ︑と述べてすらい る
︵30
︒
︶脱落者であることの強調の裏には︑もちろん︑自己の政治的価値が高くないことを示唆し︑事実上共産党中枢から
﹁排斥﹂された存在であることを印象づけることによって ︑転向の意思を一切表明せずしてその生命を長らえること
を目論んだ ︑瞿秋白の計算があった面も無くはない ︒︽ 多余的話︾は ﹁自供書﹂の補足という一面も持っていた可能
性があり︑その中での瞿の﹁告白﹂には何らかの意味での韜晦が潜み粉飾が施されていたと想像するのはそれほど不
当ではない︒だが︑そうした面を割り引いたとしても︑瞿秋白がこの﹁遺稿﹂で描いている彼自身の姿は︑決して戦
友・同志たちと離別し﹁革命戦線﹂を離脱したことによって苦悩や寂しさを覚え︑また同時に︑彼らを励まして今後
の革命の進展を期待しているもののようには見えない︒そこで表明されているのは︑一つには﹁休息﹂を求める気持
ちであり ︑いま一つは仲間との距離感 ︑党活動における疎外感の確認であると言える ︒実際に ︑瞿秋白は ︽多余的
話︾の中で他にも︑政治活動への従事はまるで﹁他人のためにやっている﹂ように感じており︑会議に参加したり文
書を執筆したりしている時にはわずらわしく思い︑早く終わらせて﹁自分のところへ戻って﹂休みたかったのだ︑と
も回想している
︵31
︒
︶さて ︑﹁ 仲間について行けない﹂ことを告白し ︑ 彼らに対して ﹁ 清算﹂を促した上述の段落に続けて瞿秋白が投げ
かけているのは︑自分はすでに﹁裏切り者﹂と判断されて当然であり︑なぜ早く﹁除名﹂しないのか︑という言であ
る︒彼は︑自分は実質的に共産党の隊列を離れて久しいと述懐し︑それは単に持病や衰弱によるのではなく︑紳士意
識を克服できずプロレタリア階級の戦士とはなれなかったからだ︑と指摘する
︵32
︒︽ 多余的話︾の中で繰り返し語ら
︶れる ﹁二元的人物﹂ ﹁文人﹂という自己分析は ︑つまるところ階級的出自が根本的な問題であるかのような装いを見
せている ︒だが ︑最後まで紳士意識を克服できなかったこと ︑ すなわち内面の闘争を維持し続けられなくなり ﹁ 二
元﹂のうち結局は﹁一元﹂すなわち﹁非プロレタリア的要素﹂が勝利したことの要因を︑瞿は全く別の角度から説明
一九四
している ︒政治上の疲労と倦怠も挙げられるが ︑大きな分水嶺として再三にわたり ︑具体的に言及されているのは ︑
中国共産党六期四中全会である
︵33
︒
︶一九三一年一月の四中全会において︑瞿秋白は前年の三中全会での李立三路線への批判が不十分であったなどと断
罪され ︑自己批判を迫られた上政治局員を解任される ︒︽多余的話︾で瞿は ︑この四中全会以後 ︑彼は政治問題に対
して意見を述べるのを極力避け︑中央が言うとおりに語り︑誤っていると見なされれば直ちに誤りを認めるようにな
った ︑すなわち ﹁掛け値なしの俗物﹂となったと語っており ︑こうした ﹁中央の思想を自分の思想﹂とすることは
﹁最も悪い党員﹂の態度であるゆえ﹁除名に値する﹂ ︑といったことを語っているが︑これについては前稿でも﹁芳草
の夢﹂の破綻との関係で取り上げた
︵34
︒
︶この振り捨てられなかった紳士意識は ︑︽多余的話︾において一面 ︑﹁文人﹂的性格としても描かれる ︒﹁文人﹂は
役立たずであると言う時に瞿秋白がまず比較の対象とするのは︑作家や文芸評論家︑学者︑医者︑エンジニアといっ
た専門家である ︒文人が具体的な知識に疎いのに対して ︑彼らは生活の価値を実感できるとされる ︒﹁ 生活の味の乏
しさ﹂という文人の欠陥については︑後文でまた触れたい︒ここで注目すべきなのは︑こうした専門家たちの挙例に
続いて ︑瞿秋白が ﹁政治家﹂について語っているくだりである ︒﹁本当の政治家の場合でも﹂ ︑と彼は言う ︒﹁誤りを
犯すこともあるだろうが︑誤りを直せもする︒ ﹂そしてまた︑ ﹁自分の誤りを堅持することもあるだろうが︑真剣に自
分の見解のために闘争し実行することもできる
︵35
︒﹂それに引き替え︑文人はそのような勇気を持たないのである︒
︶この ﹁本当の政治家﹂の在り方への言及は ︑﹁ 本当の臆病﹂とも ﹁弱者の道徳﹂とも表現される ﹁非ボリシェヴィ
キ﹂気質を﹁否定的﹂形象として綴る︽多余的話︾の﹁表﹂のテーマの陰に巧みに隠されているように見える︒この
一文は ︑﹁ 〝文人〟 ﹂の節の第二段落中で述べられているが ︑前節にあたる ﹁盲動主義和立三路線﹂の最終三段落で瞿
秋白は︑四中全会以後の四年間で︑自分がまた政治問題上の﹁誤り﹂を犯した﹁らしい﹂ことに触れる︒彼は︑中央
と異なる政見などを持とうと思わなかったので ︑直ちにそうした誤った見解を ﹁放棄﹂したと述べ ︑﹁私の政治生命
は実のところとうに終わっていたのだ﹂と語り︑それ故︑この四年間に自分がマルクス主義のため︑ソビエト革命の
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一九五 ため︑党の正確な路線のために奮闘を続けたなどとは到底言えず︑むしろ共産党の観点から見れば︑盲動主義と立三 路線に関する責任が軽減されるどころか一層重くなっているのだと ︑自己評価を下す ︒その上で ︑瞿は ︑﹁歴史の事 実は抹殺することができない︑私は歴史の最も開かれた裁判を受けたい﹂と述べてこの節を締めくくるのである
︵36
︒
︶極めて興味深いことに﹁盲動主義和立三路線﹂の中で瞿秋白は︑自分が三中全会で立三路線の誤りを的確に処理で
きなかったのは ︑実のところ自分には確かに ︑﹁立三路線とコミンテルン路線の根本的な違いを判別できなかった﹂
からだ ︑と述べている
︵37
︒一見すると自己の能力不足の告白に見えるこの記述は ︑ 裏返せば ︑コミンテルン全体が
︶責任を負うべき政策の誤りが︑李立三個人あるいは瞿秋白個人の誤りに帰せられていることの不当性を示唆している
ものと言える︒もしも︑四中全会で自己批判を強いられた自らの﹁誤り﹂を全て自分一人が引き受けるべきものだと
考えていたとするならば ︑どうして改めて ﹁歴史の最も開かれた裁判﹂を求める必要があるだろうか ︒また ︑ もし
も︑四中全会以後も自分の﹁誤り﹂を簡単に認めた際にいささかの不満も抱いていなかったとすれば︑どうして︑マ
ルクス主義のために奮闘を続けなかった︑責任は一層重くなっている︑といった判断をわざわざ表明しなければなら
ないのだろうか ︒これらの疑問は ︑上述した ﹁本当の政治家﹂の態度への言及で解答を得られる ︒﹁文人﹂的性格に
帰されている ﹁戦線離脱﹂の核心は ︑﹁誤り﹂とされた場合でも ﹁真剣に自分の見解のために闘争し実行する﹂こと
ができなかった点にあったのである ︒同時に ︑ここには ︑自分自身の弱さを承認しつつも ︑﹁誤り﹂とされた事柄自
体に関しては必ずしも瞿一人が責任を負わされるべきものではなく︑四中全会の決定に対して不服であるという内心
の叫びが前提となっていることが見て取れよう︒
︽多余的話︾における四中全会に関わる記述を重視し ︑この著作の目的と主旨が ﹁王明路線に対する警告﹂にある とする見解については ︑以前拙稿でも紹介した
︵38
︒もっとも ︑瞿秋白の批判の射程は ︑単に王明ら自分を引きずり
︶下ろした政敵の告発にとどまらず︑より一般的に中国共産党やコミンテルンの体質にも及んでいたのであろうし︑他
方で ︑自らの側の ﹁脆弱さ﹂をも問題にしていたには違いない ︒さらに ︑︽多余的話︾には ︑自らの人生を振り返り
ながら胸中に去来した︑多様な心理が交錯しているだけでなく︑受け取りようによっては死刑を免れる判断材料とで
一九六
きそうな表現も盛り込まれている︒四中全会での政治局員解任の決定は瞿秋白に対する不当な判断であり︑より開か
れた公正な評価を受けるに値するという思いが ︑︽ 多余的話︾執筆の動機の全てである ︑と言っては語弊があるのは
確かである︒だが︑この問題の示唆がこの﹁遺稿﹂の重要なねらいの一つであったと主張するのは不適切ではなかろ
う︒ 以上のように ︑︽ 多余的話︾にほのめかされている心情の中には ︑ 遺棄された立場を肯んぜず ﹁正当な評価﹂を期
待する心理も垣間見える ︒このことを踏まえれば ︑︽多余的話︾と同時期に獄中で作られた詩詞の一つである ︿ 卜算
子﹀にもこれに関わる心情が投影されていたとしても︑何ら不思議ではない︒単に実際の匂いとしての﹁香﹂と捉え
その精神的意義には触れていないワン ・シアオリンの場合は別として ︑周紅興も王保林も ︑︿卜算子﹀最終句の ﹁香
如故﹂を ︑革命精神の維持ないし革命成功への信念の保持という方向で解釈する ︒だが ︑︽多余的話︾の中で ﹁歴史
の最も開かれた裁判を受けたい﹂と希望した瞿秋白にとって ︑﹁ 正当な評価﹂は自らの生命と同等に ︑場合によって
はそれ以上に重要なものであったに相違ない ︒このような観点に立って ︑﹁ 無主﹂に周囲からの理解を得られないと
いう意味を適用した場合︑下片の﹁信是明年春再来︑応有香如故﹂は︑将来必ず自分が正当に評価される日が来るは
ずだという信念を伝えるものと解釈することができる
︵39
︒
︶さて︑ ﹁無主﹂を理解者を得ていないことと解釈した場合︑ ﹁身無主﹂を﹁喜ぶ﹂と述べていることは︑どのように
説明すれば良いのであろうか︒もしも︑自己を理解せず正当に評価しない人々を見下しているのだとすれば︑この態
度は納得しやすい︒もともと自分の価値を理解できない者は相手にするに及ばないわけである︒その場合︑孤高︑自
尊の傾向が色濃く滲み出ていることになる︒だが︑他方で︑瞿秋白の︿卜算子﹀で示されている心境には︑陸游より
も穏やかな側面を見出すことができる︒陸游の詠梅詞の境界は︑毛沢東の﹁笑﹂と対比されて﹁愁﹂と捉えられるこ
ともある
︵40
が ︑実際には ︑その下片の趣旨は不屈の闘志とも言える ︒無理をしてまで ﹁群芳﹂と春を争う気持ちは
︶さらさらなく ︑それらには好きなように ﹁妬﹂ませておけばよい ︵﹁無意苦争春 ︑一任群芳妬﹂ ︶という陸游の表現
は︑競争相手を無視している表向きとは裏腹に︑その存在に対する意識が抜けきらない心理が覗いている︒逆境の中
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一九七 で身が滅んでも芳香だけは元通りに残るという趣旨の背後に︑自らを排斥する者どもに対する強烈な対抗心・反骨精 神が潜んでいると見ることができよう︒ところが︑瞿の詞の中には︑ ﹁群芳﹂の存在はない︒ ﹁一任﹂は瞿においては
﹁風和雨﹂に結びつけられており ︑陸游詞における ﹁周囲の嫉妬﹂を意識する姿とは一線を画すものとなっている ︒
したがって ︑瞿秋白の場合 ︑﹁喜﹂に込められた自負心の表現は ︑陸游の詞に見える競争相手を問題にするような性
質のものではない︒逆境に対する反発心ではなく︑どのような苦難に直面しようとも自分の精神の自由は保ちうるの
だという自己肯定感が︑ 淡々とした筆致の中に滲み出ているものと言える︒ 王保林は︑ 瞿秋白の ﹁喜﹂ と陸游の ﹁愁﹂
とを積極性と消極性の対比として捉えるが ︑そう見るよりはむしろ ︑王の論文に引く銭 嗱 之の評語 ﹁坦蕩﹂ ︵こだわ
りなく清らか︶が比較的妥当なものと思われる
︵41
︒
︶ここまで︑瞿秋白の︿卜算子﹀を︑できるだけ陸游原詞の意図を踏まえ︑その共通性に着目した場合の解釈を検討
してきた︒瞿の︿卜算子﹀が陸游詞を踏まえていることの最大の眼目は︑理解者を得られず挫折を経験したにも拘わ
らず不屈の精神や品格の崇高さを保ち続け︑その気高い精神性が正当に評価される将来に期待する︑という点での共
感と考えることができる︒しかしながら︑自らの高潔を自負する﹁孤高﹂さは多かれ少なかれ共有されているとして
も︑評価されていないことを﹁喜ぶ﹂態度は︑一面︑外部からの価値評価に対してこだわりを持たないかのような境
地をも示唆している︒だとすれば︑周紅興らとは別の角度からではあるが︑陸游とは異なる境界を表していることに
見合って︑瞿秋白の︿卜算子﹀を陸游詞によって限定される意味から離れて理解する必要性と可能性が出てくること
になろう︒次節では︑陸游︿卜算子﹀の換骨奪胎としての側面を考察したい︒
三 荘子思想との関わり
瞿秋白の︿卜算子﹀の中で陸游の詠梅詞と無縁の要素が使われているのは︑上片の第三句・第四句である︒この二
句は︑第二句にある﹁喜﹂という表現と相俟って︑瞿の詞に陸游とは異なる趣をもたらしている︒
一九八 第四句に見られる﹁逍遙﹂は︑言うまでもなく︽荘子︾を想起させる︒それ故︑旧来の中国共産党の革命運動に関
する思想的基準からは ︑﹁ 消極的﹂な人生観の表れとして否定的に扱われてきた ︒例えば丁守和は ︑瞿秋白の獄中詩
の中で︿夢回﹀ ︑︿無題﹀には仏学の暗影が見られ︑ ︿卜算子﹀における﹁寂寞﹂ ﹁逍遙﹂等の句には荘子の影響がある
と述べているが ︑仏学の瞿に対する ﹁消極的な影響﹂は明白と捉える丁は ︑ 瞿秋白が老荘を好んだことに関しても ︑
老子の弁証法的思索や荘子の豪放な文風 ・精緻な事物解析の影響を好ましいものと見なしながらも ︑瞿は ﹁虚無思
想﹂の影響も受け ︑ 時に空虚や寂寞を感じ ︑ 実社会から超然として孤高を保とうとすることがあった ︑と評してい る
︵42
︒丁守和の瞿秋白思想評価の枠組みは ︑主流と本質は積極的 ・ 前進的であるが ︑一面 ︑ 中国知識人特有の弱点
︶を抱えていた
︵43
というものであって ︑仏学や老荘に由来する ﹁消極性﹂はそうした ﹁弱点﹂の側面として位置づけ
︶られている︒
丁守和も下片の ﹁応有香如故﹂等は ﹁崇高な革命的情操﹂を示すものと論じるが ︑この場合 ︑瞿秋白の ︿卜算子﹀
は上片と下片とで境地が全く分裂してしまうことになる︒難点を克服する一つの道は︑上片第三句・第四句の解釈を
工夫して﹁逍遙﹂の持つ﹁消極的﹂印象を払拭し︑崇高な革命的気概を維持した闘士としての像を見出そうとする試
みである︒
周紅興は ︑第三句の ﹁眼底雲煙過尽時﹂について ︑国民党があらゆる手段を使い終わった時には ︑と解釈する ︒
﹁眼底雲煙﹂は ﹁高いところに登って目に入るところ﹂の意味と捉え ︑具体的には牢獄において国民党が弄した様々
な手段と位置づけられる︒瞿は︑それらの策を高みにあって見下ろすように軽蔑している︒それらの手段が使い尽く
された後︑必然的に瞿秋白は殺害されることになるが︑彼は﹁生を求めもしなければ死を恐れもしなかった﹂と言う
のである︒周は第二句に関して︑外界︑すなわち﹁敵﹂によって支配されていない状況は喜びに値するという意味だ
と理解しており ︑第三句についての説明は ︑その延長線上にある ︒彼は ︑逍遙の語義については ﹁自由自在﹂ ﹁閑暇
自如﹂という通常の解釈を示すが︑老荘思想との関連には言及せず︑どちらかと言えば第三句の解釈を強調すること
によって︑上片後半の二句を総合して瞿秋白の生死を度外視した態度が示されると主張する
︵44
︒
︶瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 一九九 この﹁生死の度外視﹂が︑荘子の超然とした思想とは異質の︑革命運動のために自らの命を犠牲にする精神である と論じるために︑周は︑ ︽多余的話︾の記述など獄中での瞿秋白の言動を引証とする︒周はまず︑ ︽多余的話︾の中か
ら︑ ﹁何必説?﹂の中で示される﹁命が尽きようとしている﹂ ﹁絶滅の前夜﹂という表現を取り出して︑瞿秋白が死期
が近いと悟っていたことを確認する
︵45
︒その上で ︑ 死を覚悟して生死を度外視する姿勢の裏付けとしては ︑処刑当
︶日の情景を報道した︽大公報︾の記事を引用し︑その中で瞿が語ったとされる﹁永遠にこの世を去るのは本当に愉快
なことだ︵辞世長逝為真快楽 ︶﹂ ︑﹁死ぬまでつつしみ深く励み献身的に仕事に尽くす︵鞠躬尽瘁︑死而後已︶ ﹂といっ
た表現が ︑﹁眼底雲煙過尽時 ︑正我逍遙処﹂の大変よい説明である ︑と論ずるのである
︵46
︒このうち ︑﹁ 辞世﹂云々
︶はどちらかと言えば淡然と死を受け入れる態度であり ︑﹁ 鞠躬尽瘁 ︑死而後已﹂の方が最後まで闘争を続けていたと
いう評価の土台となりうるものと思われる︒ところが︑後者は︑実際には︽大公報︾の原記事には見当たらない
︵47
︒
︶したがって ︑︿ 卜算子﹀の上片第三句 ・第四句を ︑ 当該の報道記事で描かれる瞿秋白の態度と結びつけて解釈しよ
うとする場合︑死を目前にした平静な心境を示そうとしていると言うことはできても︑烈士として喜んで刑場に赴か
んとする革命精神の表出と見なすことはできない︒ ﹁生死を度外視する﹂ ︵視死如帰︶と言っても︑むしろ︑死も生も
別段変わることがないという︑超然とした荘子の世界の思想の方に近いことは否めない︒そうなると︑ワン・シアオ
リンのように﹁革命精神﹂とは結びつけない解釈を示す以外になくなる︒ワンもやはり荘子との関連には言及してい
ないが ︑﹁逍遙﹂を ﹁無頓着かつ自由﹂ ︑﹁ すべての気がかりから解放されている﹂という意味で捉えている ︒第三句
については﹁雲と煙が私の目の下で一掃される︵散らされる︶時には﹂とそのまま訳出しているだけで︑特段の説明
を加えていない ︒ワン ・シアオリンも ︽ 多余的話︾を援用し ︑﹁ 隊列から引き離されて ︑自分一人となった﹂こと ︑
﹁率直な気持ち﹂を表明できるようになったこと
︑そして
︑﹁永遠に休もうと思う﹂と述べていること
︑を取り出
す
︵48
︒このうち﹁逍遙﹂に関係するのは︑ ﹁永遠に平穏に休む﹂である︒彼も上片後半二句に関して︑自己の生命に
︶執着しない心情の表出と捉える点で ︑周紅興と概ね一致している ︒だが ︑周は ﹁闘争の貫徹﹂に重きを置いており ︑
ワンは﹁達観﹂に傾いているものと思われる︒
二〇〇 ﹁逍遙﹂についての王保林の解釈は︑かなり異質である︒王は︑この言葉は︿卜算子﹀では︑一般的な﹁自由自在﹂
ではなく︑ ﹁生命の終息﹂ ﹁別の世界に行く﹂という特殊な意味で用いられているのだと論ずる︒ただし︑この語句そ
のものの語義や用例に基づいた説明はなされていない︒第三句の﹁眼底雲煙過尽時﹂については︑ここから﹁過眼煙
雲﹂という表現を取り出し ︑それと同義だと指摘した上で ︑この表現は本来 ﹁またたく間に消失する事物﹂を指す
が︑ここでは﹁時間の短いこと﹂を意味するものだと主張している
︵49
︒
︶第三句・第四句全体を﹁共産党人の死生観﹂の表明と捉える点で王保林は周紅興と一致しているが︑その裏付けと
しても ︑やはり当時の報道で伝えられた瞿秋白の言を引き合いに出し ︑ 個人の生死を度外視し ︑﹁中国革命のために
犠牲になることは人生最大の光栄である﹂と感じていたと断定する
︵50
︒しかし ︑この論拠が不確かであることは周
︶の場合と同様である ︒王にしてみれば ︑﹁逍遙﹂を ﹁自由自在﹂と捉えれば ﹁闘争﹂の継続としての ﹁死﹂という意
識が薄められると危惧し︑また下片に込められた思いと見なす﹁革命楽観主義﹂との統一感を強調したかったのかも
知れないが ︑第三句 ・第四句の全体としてただ単に ﹁まもなく死を迎える﹂という意味を述べているだけだとすれ
ば︑詞そのものの表現内容として余りにも平板に過ぎることは否めない︒
もっとも ︑最終的な解釈には難があるものの ︑第三句 ﹁眼底雲煙過尽時﹂について ︑﹁過眼煙雲﹂もしくは ﹁煙雲
︵雲煙︶過眼﹂の変形として見るという点は︑上片の後半二句の理解に重要な手がかりを与えている︒ ﹁眼底雲煙過尽
時﹂から﹁煙雲︵雲煙︶過眼﹂という四字を取り出した上で典拠である蘇軾の文章を踏まえれば︑この句は︑いかに
素晴らしい物であっても失われたならば長く心に留めはしないという態度を示唆する表現と解釈することが可能であ
る︒ 蘇軾の﹁寶繪堂記﹂に︑ ﹁譬之煙雲之過眼︑百鳥之感耳 ︑豈不欣然接之︑然去而不復念也︒ ﹂という一文がある
︵51
︒
︶若い頃蘇軾は書画を大切に思い︑自分の家の物を失ったり他人の持ち物を与えられなかったりするのを心配していた
が ︑後にそうした考えが本末転倒であることに気づき ︑好きな書画を目にした時はそれを所蔵したいとは思うもの
の︑仮に他人の手に渡った場合でも︑もはや惜しいとは思わないようになった︑という心境の比喩として述べられて
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 二〇一 いるくだりである︒つまり︑雲や霞が目の前を通り過ぎるのは︑多くの鳥の鳴き声が耳元に届くのとともに︑すばら しい書画に接するのと同様の心地よい事柄として描かれる︒無論︑それらは喜んで享受すべきものであるが︑もしも ひとたび消失してしまったならば ︑それ以上気に掛けるまでもないのだ ︑というのが真意である ︒これに続くのは ︑
﹁於是乎二物者常為吾楽而不能為吾病﹂
︵52
という評語であり︑かかる境地にあれば︑書画は常に楽しみであり決して
︶悩みの種とはならない ︑と蘇軾は主張する ︒﹁ 過眼煙雲﹂もしくは ﹁ 煙雲 ︵雲煙︶過眼﹂は ︑ 確かに ﹁ 消失しやすい
もの﹂の現象に相違ないが︑蘇軾の文を踏まえれば︑眼目はその点にあるのではなく︑いかに素晴らしい物であって
も︑失われたならば長く心に留めはしないという心構えを持つ︑そうすれば喪失の恐れや悩みに煩わされることはな
い︑というのが核心と言える︒
瞿秋白が ﹁寶繪堂記﹂を意識していたかどうかは ︑むろん ︑確実な裏付けはない ︒確かに ︑上片の第三句を単に ︑
世俗の取るに足らないものが消え去るという意味として捉えても差し支えはない︒ただし︑その場合は﹁超然﹂たる
姿勢の中で ︑﹁ 孤高﹂の色彩がより濃く感じられることになるだろう ︒それに対して蘇軾のこの文章を踏まえれば ︑
﹁眼底雲煙過尽時﹂と ﹁正我逍遙処﹂とが ︑物事への執着をすべて断ち切った中で真の ﹁自由﹂を獲得するという境
地として︑より緊密に連結し得るものと思われる︒
さて ︑蘇軾の文章では ﹁鑑賞﹂や ﹁所蔵﹂の対象たる ﹁物﹂への執着を問題にするが ︑瞿秋白の ︿卜算子﹀の場
合 ︑対象となるのはどのようなものであろうか ︒考えられるのは ︑自己の生命 ︑自分に対する他者の評価 ︑さらに
は︑自分自身がかつて保持していた価値基準ないし理想などである︒上片第二句の﹁無主﹂の意味を前節で試みたよ
うに陸游詞に即して捉えれば︑自分自身に対する他者の評価もしくは評判であるということになる︒かつては革命運
動の理論面を担っていたが ︑指導の ﹁ 誤り﹂を批判されて ︑今ではその役割はもはや自分から離れてしまった ︒だ
が ︑理解者が得られなくても気にとめはしないし ︑かつての地位を再び追い求めたりもしない ︒﹁無主﹂を ﹁喜ぶ﹂
のは︑自分が理解されなかった現実をありのままに受け止め︑自分に対する評価が﹁正当﹂か﹁不当﹂かという問題
には拘泥しないからである︒ ﹁逍遙﹂は孤高の色彩すら帯びない︑恬淡とした自適の精神状態を意味することになる︒
二〇二
だが︑この場合︑自分に対する後人の評価もまた自然の成り行きに任せるのであり︑その結果がどうなるかには関心
を寄せないはずである︒瞿秋白の︿卜算子﹀の下片の趣旨をそのように解釈することが全く不可能であるとまでは断
言できないものの︑それは︑瞿の詞が逆境にありながら高潔な精神性を保ち続けるという境界を陸游の詠梅詞から引
き継いでいるとする見立てからは︑懸け離れて行くことを意味するであろう︒となれば︑そもそも﹁無主﹂という語
句そのものについて︑陸游詞に依拠した解釈を維持する意義はないものと言える︒
﹁無主﹂は実は︑ ︽荘子︾にも見える用語である︒そこで以下︑荘子思想を軸とした把握を﹁無主﹂にも推し広げる
と︑どのような解釈が可能であるかを検討してみたい︒
︽荘子︾における﹁無主﹂は︑ ﹁主体が確立していないこと﹂あるいは﹁先入主がないこと﹂という意味合いで用い
られている︒ ﹁天運篇﹂には﹁中無主而不止﹂および﹁由外入者︑無主於中︑聖人不隠﹂とあり︑ ﹁無主﹂はまだ道を
会得した聖人には及ばない状態で︑好ましい境地とは考えられていない︒また﹁則陽篇﹂に﹁有主而不執﹂という形
の表現が見え ︑主体性の確立と己れを固執しない姿勢との両立が示される ︒一方 ︑﹁天下篇﹂には ﹁公而不当 ︵党︶ ︑
易而無私 ︑決然無主 ︑ 趣物而不両﹂とあり ︑ここではむしろ ︑虚心坦懐で先入観を持たないという意味と理解でき る
︵53
︒﹁無主﹂であることが ︑肯定的にも否定的にも語られているのであるが ︑いずれにしても ︑﹁主﹂は ︑ 外的な
︶存在である﹁支配者﹂や﹁所有者﹂を指すのではなく︑自分自身の在り方に関わる語である︒この点では︑前節で紹
介した周紅興︑ワン・シアオリン︑王保林らの解釈とは正反対と言える︒
類似の用法は ︽荘子︾以外にも見られ ︑﹁身無主﹂ ︑﹁心無主﹂といった形で用いられて ﹁自分の思い通りにならな い﹂ないし﹁自分の主張を持たない﹂といった意味を示す︒唐の聶夷中の詩には﹁上国身無主︐下第誠可悲﹂
︵54
とい
︶う句があり︑清の王士禛の︽池北偶談︾には︑ ﹁憂患恐懼︑最怕有所︑一有所則我心無主﹂という記述がある
︵55
︒後
︶者に関しては ︑すぐ後にこれと対照的な態度として ﹁只是能自作主張﹂と述べられており ︑﹁無主﹂は自己の見解を
持たない︑あるいは主体性を失うといった意味で用いられていることがわかる︒
これらの用例を踏まえて瞿秋白の︿卜算子﹀における﹁身無主﹂を捉え返してみると︑おおむね︑身体が思い通り
瞿秋白の﹁獄中詩詞﹂について︵陳︶ 二〇三 にならない︑主体性もしくは自分の主張を持たない︑先入観を持たない︑という相互に重なりを持つ三種の理解が可 能となる︒ 囚われの身の実情に即した表現であると考えれば ︑﹁ 身無主﹂は ︑物理的に自分の身体が思い通りにならないこと
の ︑ありのままの描写と受け取れ ︑解釈上最も平明である ︒ この解釈は ︑︽多余的話︾の ﹁ 告別﹂における ﹁体躯に
ついては︑私の思い通りにならないかもしれない﹂
︵56
という思いの表明によって裏付けられよう︒
︶自分の身体が思い通りにならないという事実の確認は︑むろん﹁敵﹂に﹁投降﹂したという含みを持つものとは限
らないが︑周紅興の描くように﹁外界の支配を受けない﹂といった主体を保つ強い意志を表明するものとも全く異な
る︒ある意味ではむしろ﹁主体性﹂は放棄されているとも言え︑残りの二つの解釈につながって行く︒主体性や先入
観を持たないという解釈では︑ ﹁主体性﹂はかえって精神の真の﹁自由﹂を妨げるものとして︑ ﹁先入観﹂と変わらな
い位置づけで捉えられることになるかも知れない ︒そうした ﹁無主﹂の状況を ﹁喜ぶ﹂と言うのは ︑自身の ﹁理想﹂
なり﹁思想﹂なりの固定した価値基準に固執せず︑自己の人生への執着をも振り切るという意味で︑上片の後半二句
との結びつきは自然である︒したがって︑自らを理解しない者を軽蔑するような孤高の姿勢とは異なる境地が導かれ
る︒ ︽荘子︾を参照する解釈は ︑さらに第一句にも推し広げることができる ︒﹁ 寂寞﹂は ︑ここまで ﹁孤独﹂や ﹁寂し
さ﹂を示す語句として捉えてきたが ︑この語も ︽荘子︾では異なる意味を持っている ︒﹁ 天道篇﹂では ﹁虚静恬淡寂
寞無為﹂という形で︑また﹁刻意篇﹂でも﹁恬淡寂寞︑虚無無為﹂という表現の中で用いられ︑万物の根源的な在り
方である無為自然の道 ︑ およびこの道を体得した聖人の生き方を形容している
︵57
︒これらで用いられる ﹁ひっそり
︶として静かである﹂という意味内容は超越者の心境を照らし出す表現であるが︑同時に﹁がらんとして何も無い﹂世
界の在り方を表しうる ︒︽淮南子︾ ﹁ 俶真訓﹂にも ︑宇宙の成り立ちを描く中で ﹁虚無﹂とともに用いられる例があ る
︵58
︒
︶瞿秋白の︿卜算子﹀で使われている語句には多様な語義を持つものが少なくないが︑冒頭の﹁寂寞﹂は︑意味内容
二〇四
の含みが最も際立つ語と言える︒ ﹁ひっそりとして静かである﹂という状態も︑心理の描写に関われば︑ ﹁孤独で心細
い﹂もしくは﹁孤独で心が満たされない﹂という意味での﹁寂しさ﹂を伝えることになる︒陸游の詠梅詞の﹁寂寞開
無主﹂はその例である ︒だが ︑﹁ひっそりとして静かである﹂とは ﹁何も無い﹂あるいは ﹁空虚﹂の状態にも結びつ
いている︒王士禛の七絶﹁高郵夜泊﹂ ︵または﹁高郵雨泊﹂ ︶に﹁風流不見秦淮海︑寂寞人間五百年﹂
︵59
という句があ
︶る ︒寂寞たること人間世界の五百年というのは ︑﹁寂しい﹂と感じる作者の心情の表現とも言えるが ︑同時に ︑その
前提である秦観のような優れた詩人が久しく現れない状況そのものをも示している ︒瞿の ︿卜算子﹀の場合も同様
に︑ ﹁寂寞此人間﹂は︑作者が人の世に対して﹁寂しさ﹂を抱くことを詠じているとも︑人間世界そのものが﹁空虚﹂
であることを述べているとも受け取れる ︒また ︑前述した ︽荘子︾で用いられる超越者の心境の次元では ︑﹁独りひ
っそり静かでいる﹂状態は ﹁寂しい﹂心持ちとは違って ︑ある種の ﹁無為﹂あるいは ﹁平静﹂ ﹁恬淡﹂の境地でもあ
る︒ さらに言えば ︑杜甫の ﹁ 鳳凰台﹂には ︑﹁ 西伯今寂寞 ︑鳳声亦悠悠﹂という句も見え ︑﹁寂寞﹂は ﹁世を去ること﹂
の喩えとして用いられている
︵60
︒この最後の用法に照らせば︑ ︿卜算子﹀の﹁寂寞此人間﹂には﹁この地上の人間世
︶界とはもうお別れである﹂といった含みも込められていることになる︒そして︑この﹁世を去る﹂という含意は︑既
述の第二句の﹁身無主﹂の言わば﹁身体的﹂なイメージと連動していると見ることもできる︒
さて︑ ﹁無﹂の意味合いに注目した場合︑ ︿卜算子﹀を詠じた時に瞿秋白が感じていた﹁寂寞﹂の背景はどのような
ものと考えればよいのであろうか︒ ︽多余的話︾には︑ ﹁寂寞﹂が語られているくだりがあるが︑それは︑陸游の︿卜
算子﹀を踏まえた解釈の際に切り出される瞿秋白にとっての逆境に根ざした﹁開かれた裁判﹂への訴えとは︑別種の
思いとして述べられている︒
霧の中で花を見ているような不案内の感覚は︑人に異常な苦悶︑寂寞︑孤独を覚えさせ︑実際生活の味を仔細に
かつ切実に味わってみたいと思わせる
︵61