一〇五
律令期における儀礼対象の存在把握の様式
―郊祀と廟祭が定着しなかった要因の一考察―尾留川方孝
一 はじめに 律令期の基調はそのはじまりから唐の文化や制度の導入にあった︒書記言語として漢文を用い︑統治の仕組みとして律令制を採用し︑詔勅や歴史書を作成し︑漢詩を作った︒朝廷が行う儀礼は律令を補完するもので︑国家秩序を表現しこれを確認しまた再生産するとして︑天皇の喪葬儀礼や朝賀︑孔子等を祭る釈奠などが導入された︒各儀礼ははじめ個別的に行われていたが︑漸次整備が進められ神祇祭祀や仏教儀礼を含め一つの体系としてまとめられた︒
郊祀と廟祭は︑唐では最も重要な儀礼であった︒郊祀は天を祭る儀礼で︑これを行う者が天子として国土を統治する正統性の根拠とされる︒廟祭は身分にかかわらず各々の父祖の霊魂を祭る儀礼で身分や地位の継承が表現され︑皇帝の場合︑太祖以来の国の統治を継承していることの表現となる︒国家にとってもっとも重要とされるこれらの儀礼は︑律令期の日本でも導入が試みられながらも︑結局そのままの形では定着しなかった︒
本稿では︑儀礼の対象とされる者の存在を把握するときの様式に着目し︑定着して行われる儀礼と郊祀および廟祭の違い︑すなわち儀礼が結局定着しなかった理由となったと考えられる違いについて考察する︒郊祀で対象とされる天と︑しばしばこれに重ね合わされる神祇および仏︑廟祭の対象とされる死者について︑その存在をどのような様式
一〇六 で描き︑どのような形態として把握されるのかを比較することから両者の違いを明らかにする︒まず﹃日本書紀﹄により︑発生する神︑活動主体の神︑祭祀対象の神について︵
存在について︑最後に郊祀と廟祭の対象と比較し異同を考察する︵ 1︑つぎに﹃日本霊異記﹄によって仏・菩薩と︑死後の︶ 2︒︶
二 神の存在形態もしくは把握の様式 神は具体的な物体ではなく︑見たり触ったりして存在を任意に確認することはできなかったが︑存在者として把握されていた︵
内にひろく浸透していたと考えられる︒ 3︒神祇信仰の歴史は古く︑﹁日本﹂が成立し﹃日本書紀﹄などの文献が編纂されたときには︑すでに国︶
二
生成する神 - 一 と号す︒﹂とある︵ ときの様子については第一段本文では﹁時に︑天地の中に一物生れり︒状葦牙の如し︒便ち神と化為る︒国常立尊 ひとつのものかたちな ﹃日本書紀﹄の最初にある神話によれば︑神は世界のはじまりとともに生じたとされる︒天地が分かれ神が生じる
存在形態が考えられていている︒ 遍在するのでもなく︑また局在するが浮遊し位置は特定できない霊魂のようなものでもない︒素朴な物体として神の 味であろう︒最初の神は地上に発生した葦の芽のような物体が変化したものであって︑原理や法則でもなく︑空間に り︑国常立尊と称した︒﹁物﹂の漢字は複数の解釈が可能だが︑ここでは植物の芽のようだとあるのだから物体の意 4︒天と地ができ︑その中間の空間に形状が葦の芽のような一物が発生し︑これが変化して神とな︶
さらに一書でも存在形態がうかがえるものとして︑一書第一﹁一物虚中に在り︒状貌言ひ難し︒其の中に自づからに化生づる神有 います﹂︑一書第二﹁時に国の中に物生れり︒状 かたち葦牙の抽け出したる如し︒此れに因りて化生づる神有す︒可 うましあしかびひこじのみこと美葦牙彦舅尊と号す﹂︑一書第五﹁其の中に一物生れり︒葦牙の初めて埿の中に生でたるが如し︒便ち人 かみと化 な為る﹂︑
律令期における儀礼対象の存在把握の様式︵尾留川︶一〇七 一書第六﹁天地初めて判るるときに︑物有り︒葦牙の若くして︑空の中に生まれり︒此れに因りて化る神を天常立尊と号す︒︵中略︶又物有り︒浮膏の若くして︑空の中に生まれり︒此れに因りて化る神を国常立尊と号す︒﹂とある︒
神が突然生まれるのではなく︑まず物が生まれそれが変化して神となるという部分はいずれにも共通している︒一書第五では﹁人 かみと化 な為る﹂とあり︑物が変化した状態は人のようである︵
体として生じる︒ 同じである︒﹁乾道﹂﹁乾坤道﹂が生成の原理とされているが︑これは神とはされていない︒生成する神はあくまで物 の中﹂などであり︑生じた神の名前に異同があるものの︑神が﹁理﹂や﹁法﹂などではなく物体であるということは 5︒発生する場所が﹁虚中﹂﹁国の中﹂﹁空︶
二
活動する神 - 二 最初に生じた神とこれに続いて生まれた神はあわせて神世七世と総称され︑生まれたことが記されるのみでなにも行動せず︑ただ最後の伊弉諾・伊弉冉のみが主体的活動をする︒具体的には︑夫婦となり大八洲国を生み︑天照等を生み︑さらに本文にはないが黄泉国へ行った︒それぞれの活動の描写から存在形態を知ることができる︒
まず第三段本文では国生みのはじめに﹁吾が身に一の雌の元といふ処有り﹂と﹁吾が身に亦雄の元といふ処有り︒吾が身の元の処を以て︑汝が身の元の処に合せむと思欲ふ﹂とあり︑それから大八洲国を生んだのだから︑各々性差のある身体をしている︒三貴子を生むときは︑第五段一書第一に﹁左の手を以て白銅鏡を持りたまふときに︑則ち化り出づる神有す︒是を大日孁尊と謂す︒﹂﹁右の手に白銅鏡を持りたまふときに﹂などとあり︑一書第六では﹁左の目を洗ひたまふ︒因りて生める神を︑号けて天照大神と曰す︒﹂﹁復右の目を洗ひたまふ︒﹂﹁復鼻を洗ひたまふ︒﹂とあるので︑左右の手︑左右の目︑鼻があることがわかる︒人体を彷彿とさせる身体をしている︒
しそ﹂と求めるが︑伊弉諾が火をともして見ると伊弉諾は﹁膿沸き蟲流る﹂という姿とされ︑また一書第九でも﹁脹 扱っている︒伊弉冉は火の神を生んだために死ぬ︒一書第六では追ってきた伊弉諾に対して伊弉冉は﹁請ふ︑な視ま ﹃日本書紀﹄では死後の存在や死後世界についてほとんど述べないが︑第五段一書に見える黄泉国訪問譚はそれを
一〇八
満れ太高へり﹂という様子である︒死んだあとの神も生前と同じように身体で把握されるのであり︑目で見ることができる腐乱死体こそが神である︒死は存在形態の変化として理解されるのではなく︑異なる場所への移動として把握されている︒ただこれは全ての神に共通の死に方ではないことには留意したい︒
伊弉諾・伊弉冉のあとには天照と素戔嗚が主人公となり︑天上での天照と素戔嗚のウケイ︑天照の天岩戸隠り︑素戔嗚の神ヤライと進むが︑描写される限り存在形態は伊弉諾等と同様である︒そして天孫降臨となり︑ここからは天孫が主人公になり地上が舞台となる︒これは神話のクライマックスの一つであるが天降りに際して形態は変化しない︒そして海神宮訪問を経て︑神武天皇の東遷と即位へと続く︒神武天皇の即位は書紀編纂当時につながる天皇の成立でありもう一つのクライマックスだが︑やはり神の存在形態に変化はない︵
の形態が投影されているのであろう︒ しかないが︑活動主体である神は人と同様に身体により把握される存在者である︒活動主体となる神は現実の天皇等 から天皇まで継ぎ目なくつながっている︒存在形態自体は記述の中心にならないため行動や出来事の描写から考える 6︒ようするに存在形態は伊弉諾・伊弉冉︶
二
祭祀対象の神 - 三 つぎに律令期に祭祀対象とされる神の代表として天照大神と大物主神を取り上げる︒
律令期に数多くある神社の中でもっとも重視されたのは皇祖神の天照を祭る伊勢神宮である︒祭祀対象としての天照の存在形態もしくは存在把握の様式は鎮座の経緯からうかがえる︒天照は︑伊弉諾・伊弉冉が国生みののちにその国の統治者を作ろうとして生んだ神で︑あまりにも素晴らしいので天上に送られた︒伊勢神宮の成立する過程は天孫降臨の場面からはじまる︒一書第二につぎのように記されている︒
是の時に︑天照大神︑手に宝鏡を持ちたまひて︑天忍穂耳尊に授けて︑祝きて曰はく︑﹁吾が児︑此の宝鏡を視まさむこと︑当に吾を視るがごとくすべし︒与に床を同じくし殿を共にして斎鏡とすべし︒﹂とのたまふ︵
7︒︶
律令期における儀礼対象の存在把握の様式︵尾留川︶一〇九 天照は宝鏡を天孫の居所に置き天照として見て祭るよう命じた︒この宝鏡は天照が手に持ち天孫に与えるのだから天照そのものではなく︑言うなれば身代わりである︒命じられた通りこの鏡は宮中で祭られていたが崇神天皇の時代に状況は変化する︒
是より先に︑天照大神・倭大國魂︑二の神を︑天皇の大殿の内に並祭る︒然して其の神の勢を畏りて︑共に住みたまふに安からず︒故︑天照大神を以ては︑豐鍬入姫命に託けまつりて︑倭の笠縫邑に祭る︒仍りて磯堅城の神籬を立つ︵
8︒︶
天皇の居所に﹁天照大神﹂等が祭られていたとされるが︑天孫降臨の記述とあわせ考えればこれは宝鏡のことである︒すなわち身代わりと本体を区別せずに表記している︒身代わりとはいっても﹁神の勢﹂があり同居すると安心できないので︑別の場所に移して祭らせた︒この状況も垂仁天皇の時代になると変化する︒
天照大神を豐鍬入姫命より離ちまつりて︑倭姫命に託けたまふ︒爰に倭姫命︑大神を鎮め坐させむ処を求めて︵中略︶伊勢国に到る︒時に天照大神︑倭姫命に誨へて曰はく﹁︵中略︶是の国に居らむと欲ふ︒﹂故︑大神の教の隨に︑其の祠を伊勢国に立てたまふ︒因りて斎宮を五十鈴の川上に興つ︒是を磯宮と謂ふ︒則ち天照大神の始めて天より降ります処なり︵
9︒︶
天照大神を今度は倭姫命に任せ︑鎮座させる場所を求めて土地をめぐり︑天照自身の要求に従って伊勢国に神宮を建て︑天照はそこに鎮座することとなった︒最後の文によれば︑社が建てられてから天上にいた天照がはじめて天降ったとされるので︑倭姫命に託された﹁天照大神﹂とは鏡である︒身代わりと本体は表記の上で区別していない︒
天照が祭る対象として把握されるときは意識は鏡に向けられ︑これこそを天照として扱う︒これと対応するように
一一〇
天上にいる天照本体を直接捉えようとする意識や指向性は皆無で︑鏡とは別個にこれを対象化し祭ることはなかった︒また斎き祭るべき直接の対象は鏡であるが︑これは仮のものであって本質的にはあくまで天上の天照を祭るという観念も見えない︒つまり存在者として意識され対象化されるのは具体的な物体である︒把握するときは目の前の物体が一元的に神とされ︑天上の天照と地上の鏡という二元的存在とはされない︒神代に神が主体として活動するときとは具体的様相が異なるが︑神が物体性により把握されることは同じである︒たとえ現実には鏡を見ることがなかったとしても︑御神体は鏡であると観念され存在が把握される︒
崇神天皇の時代には祭祀により人々が生存可能な状態に国を確保したという律令的祭祀制度の起源説話というべき部分があるが︑そこで中心になる神は大三輪にいる大物主である︒三輪神社のはじまりは神代の第八段一書第六で大己貴の国造りの話の中で述べられている︒すなわち大己貴とともに国を造った少彦名が常世国に行くと︑ひとりになった大己貴のところへ海からやってくるものがいて︑自分は大己貴の幸魂奇魂であるといい︑三諸山に住みたいといったのでそこに宮をつくった︒これが大神神社の起源である︒
祭られた幸魂奇魂は大己貴のものではあるが大己貴と一体ではなく外部にあり︑大己貴の自己同一性を保証する者ではない︒大己貴にくみして力を加え性質を強める者である︒幸魂奇魂の形態は不明であるが表記に用いられる漢字にしたがえば霊魂のようなものであろう︒出雲の国の造の神賀詞では︑このときのことを﹁己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて︑倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて︑大御和の神なびに坐せ︵
とができるものである︒ 10﹂としているので︑鏡に託すこ︶
しかしながら︑祭られるようになったのちにあらためて把握されるときは生身の体を持つ者として描写される︒崇神紀によると︑大物主の祭祀が成功し疫病がおさまったのち倭迹迹日百襲姫は大物主神の妻となる︒大物主は夜に来て姿を見ることができずにいたので︑翌朝までとどまって姿を見せて欲しいと願う︒翌朝その姿を見ると小さな蛇であったため驚くと︑大物主は恥じてすぐに人の姿に変化した︒ちなみに﹃古事記﹄では︑意富多多泥古の父を明かす話として構成されるのだが︑活 いくたまよりびめ玉依比売のところに美しい男が夜やってきて妊娠したので一計を案じてその正体を探
律令期における儀礼対象の存在把握の様式︵尾留川︶一一一 ると大物主であったとされる︒つまり大物主は幸魂奇魂であるはずだが︑祭られる対象となったのち存在を確かめられるときには︑︑霊魂を鏡に託すように人や蛇に憑依させたのではなく︑蛇であったり人であったり目で見え手で触れられる物体として把握される︒たとえ日常では見ることがないとしても︑神社の中には物体的存在である神が鎮座すると把握されている︵
11︒︶
ようするに神話にある最初に発生する神︑伊弉諾以下の活動する神︑律令期に祭られている神は︑結局いずれも物体として捉えられている︒存在を確かめる場合意識は物体に向けられて︑遠くの本体と目の前の物体による二元的存在として把握されるのではなく︑目の前の物体により一元的に存在が把握される︒またたとえ霊魂のような存在と観念されていても︑結局見て触れる物体として把握されることになる︒神は物体性により把握される︒
三 仏菩薩の存在形態もしくは把握の様式
三
律令期の仏教の基調 - 一 仏教は︑神が天地のはじめまりとともに生じたとされるのとは異なり︑ある時期に外国から伝来したとされる︒﹃日本書紀﹄にはその起源説話というべきものが欽明天皇の時代のこととして記されている︒そこでは仏教とはいかなるものか︑聖明王からの上表文の内容という体裁で﹃金光明最勝王経﹄の一節を流用して説明される︒
是の法は諸の法の中に︑最も殊 す勝 ぐれています︒解り難く入り難し︒︵中略︶此の法は能く量も無く邊も無き福 いく
徳 ほひ果 むくい報を生し︑乃至ち無 す上 ぐれたる菩提を成 な辨す︒譬へば︑人の隨 こころのままなるたから意寶を懷きて︒用 すべき所に逐ひて︑盡に情の依 ままなるが如く︑此の妙法の寶も然なり︒祈り願ふこと情の依にして乏しき所無し︵
12︒︶
仏法は容易に内容が理解できないもので︑もっぱら限りない福や果報があり︑願うことが叶うという効用をもって
一一二
説明されている︒
これを受け仏教を日本でも尊崇するか天皇が群臣に問うと︑蘇我稻目は礼すべきとするのに対して︑物部尾輿と中臣鎌子は﹁蕃神﹂を﹁拝﹂することに反対する︒天皇は結局稲目に試しに﹁礼拝﹂させることにした︒ちなみに後年これについて﹁父の時に祭りし仏神︵
拝み祭ることであり︑仏は神の特殊な一種として把握されていた︒ 13﹂と言及される︒つまり仏教を尊崇するとは︑具体的な行為としては仏像を︶
こうした仏教観の延長線上に﹃日本霊異記﹄も位置づけられる︵
のの︑具体的実践行為としては仏像の礼拝が中心の一つであり︑その効果は願いが叶うことである︒ 意図が見えるが︑各説話を見てみると儒教的倫理に基づくものや仏教的価値観での十善などさまざまな類型があるも け正に入り︑諸悪作すこと莫く︑諸善奉行せむことを︒﹂とむすばれ人が悪行をやめ善行をするようにという倫理的 14︒上巻の序は﹁祈ハクハ奇記を覧る者︑邪を却︶ ねが
たとえば下巻第十一のあらすじは︑ある人が見えなくなった目がまた見えるようにと薬師仏の像に願い礼拝したところ両目とも見えるようになった︒至心発願すれば願ったことが叶わないことはないことがわかるというもので︵
なっている︒ ている︒信仰する理由や評判は︑尊崇すれば仏菩薩の像の威力により願いが叶うことで︑これが﹃霊異記﹄の基調と ︵中略︶諒に知る︑釈迦丈六の不思議の力﹂とあり︑願いを叶えてくれることが仏像の不思議な力によるのだと説い るが故に道俗帰敬す﹂とみえ︑中巻二十八では﹁大安寺の丈六の仏︑衆生の願ふ所を︑急に能く施し賜ふと流へ聞き ﹃日本書紀﹄にある蘇我氏の仏教尊崇の話と重なる︒中巻三十九に﹁仏像︑験ありて光を放ち願うところをよく与ふ 15︑︶
こうした仏像が願いを叶えることの根拠は感応という作用である︒上巻第十七は︑百済で唐に敗れて捕らわれの身となり唐に連行された人が︑観音像を得てこれに祈ったところ逃れて日本に帰ることができたという話で﹁蓋し是れ観音の力︑信心の至りなり︒︵中略︶何に況むや︑是れ菩薩にして応へ不らむや︒﹂と結ばれる︵
体で︑注目の仕方によってあるいは感応といい︑あるいは威力を強調する︒効果が生じる根拠となるので各説話の説 た対象の菩薩が願いを感じて反応して必ず報いを与えることで︑菩薩の持っている特別な力である︒感応と威力は一 16︒感応とは︑祈っ︶
律令期における儀礼対象の存在把握の様式︵尾留川︶一一三 示部分で繰り返し述べられる︒ たとえば中巻第十四に﹁定めて知る︑菩薩の感応して賜はることを﹂︑上巻第八に﹁是に知る︑感応の道︑諒に虚しくあら不ることを﹂︑中巻第十三に﹁諒に委 しる︑深く信くれば︑感の応ぜ不る无きことを︒﹂など感応が確かにあることを述べる︒また上巻第十八に﹁誠に知る︑法花の威神︑観音の験力なることを﹂︑上巻第三十一に﹁これすなわち修行の験力︑観音の威徳﹂︑下巻第四に﹁大乗の威験﹂など威力のみを強調することも多い︒
いようがいまいが関係なく働いている普遍法則でなく︑仏の力ないし性質として成り立つ︒ ﹃霊異記﹄では繰り返し﹁因果﹂の法則があると述べるが︑実際には仏菩薩の感応を内容としている︒これは仏が
三
物体と非物体 - 二 ところでこうした感応をして威力を発揮する主体である仏菩薩は非物体的であるとされる︒中巻第三十七では端的に﹁誠に知る︑三寶の非色非心︑目にも見え不と雖も︑威力无きに非ぬことを︒﹂と︑仏は非物体的で知覚できないが威力を確かに発生させることを述べている︒この部分は︑見て触れることができる仏像が力を発揮するという欽明朝以来の基調と一見矛盾するのだが︑各説話を総括する説示部分のいくつかがこうした事態の理解を助ける︒
誠に知る︑弥勒は高く兜率天の上に有りて︑願に応じて示す所を︑願主は下の苦縛の凡地に在りて︑深く信け祐 さいはひを招くことを︑何ぞ更に疑はむ︵
17︒︶
願があってそれに天にいる菩薩が応じて人の暮らす世界に福が生じる︒感応の主体である弥勒は物質性があるとされるも高く兜率天にいるのであって目の前にはいない︒ただ願いに応じた結果はわれわれの生きる世界で目に見える形であらわれる︒
また仏像の性質について下巻二十八では﹁夫れ聞く︑仏は肉身に非ず︒何ぞ痛み病むこと有らむや︒誠に知る︑聖
一一四
心の示現なることを︒仏の滅後なりと雖も︑法身常に存し︑常住して易ら不﹂と述べられる︒中巻二十三も﹁夫れ理の法身仏は︑血肉の身に非ず︒何ぞ痛む所有らむ︒唯常住不変を示す所以なり︒﹂と同様である︒仏像自体は単なる彫刻された木材でしかなく︑本来人の行為に対して反応などしない︒また仏は非物体的でそれを直接見たり聞いたり触れることはできず存在は確かめることができず実感されない︒このことはややもすれば仏の非存在を意味するものと考えられるので︑本当に仏は存在するということを理解させるべく︑直接知覚できる仏像によって声を生じたり威力を発現したりする︒仏像とは︑感応し威力を現実化するための拠り所もしくは効果を析出させる結節点である︒結局︑存在者を把握する基底的条件とは目で見て手で触れることのできる物体を有することなのである︒
仏菩薩の把握は二元的になされる︒仏像という目で見て触れる具体的な存在をあくまで仮の姿であって本体ではないと否定することによって不可視な法身仏を主体として了解するのではなくて︑むしろ目で見て触れる具体的な存在から威力が生じることを肯定することで存在が実感され︑そこからさかのぼって知覚不能な法身仏が背後を支え根拠となる存在者として了解される︒そして反対に知覚不能な法身仏が根拠づけることで︑仏像が単なる物体を越える威力をもっていることがあらためて担保され了解される︒仏は︑目で見て触れる物体により確かに存在するという実感がもたらされ︑非物体が単なる物体を越える特殊な威力を裏付けるという二元的構成として了解される︒ちなみに僧侶が菩薩の化現ないし垂迹とされることも同様の構造である︵
18︒︶
仏菩薩を二元的存在とするこうした把握は︑仏像は礼拝することに感応して願いを叶える存在とする理解を拡張したものであり︑これと矛盾するものではない︒仏像が威力を発揮し願いを叶えるという理解は︑単独では存在を必ずしも確信できないものへの言及を避け︑直接知覚できる事物だけで総括したものとして理解できる︒根底にあるのは欽明紀に見られる仏を神の一種とする理解であって︑神の把握の様式も踏まえられている︒
律令期における儀礼対象の存在把握の様式︵尾留川︶一一五 四 死後の存在形態もしくは把握の様式 人は日々の生活を通して自然に存在者として把握されているが︑死ぬと日常生活でのかかわりはなくなり︑それまでと同じ認識や把握は成り立たなくなる︒死によって人は存在者であることを終えたという理解も可能であり︑存在者として了解されるためには︑生前とは異なる仕方で存在者として結像させねばならない︒
人の死後の存在について神話や正史ではほとんど言及されない︒避けることなくこれを論じるのは仏教であり︑六道での輪廻転生を説く︒すなわち人は死ぬと声をかけても叩いてもなにも反応をしなくなり︑身体から霊魂が抜け出し︑中陰を経て六道のどこかに転生し︑さらにその死後も同じように六道での転生を繰り返す︒ただ﹃霊異記﹄で描かれる死後はこうした典型とは異なる形に変容している︒
四
地獄 - 一 死後の行先として多く取り上げられるのは地獄である︒たとえば中巻第七はつぎのようなあらすじである︒
知恵第一と称される智光は︑自分を差し置いて行基が大僧正に任命されたことに嫉妬し誹謗したところ病気になり︑遺体を九日間焼かずに安置するように遺言して死んだ︒すると閻羅王の使者がきて連れて行かれる︒金宮の門に到着し智光であることが確認されると︑そこから北方に連れてゆかれ︑熱い鉄柱に抱きつかされ体が焼け崩れ骨ばかりになる苦を繰り返し味わう︒そして最初の金宮の門に帰ると冥界に連れてこられた理由について︑智光が葦原国で行基を誹謗したので︑その罪を滅するために呼んだと説明される︒さらに地獄の火で調理したものを食べてはいけない︒いますぐ帰れ︒このように言われて︑帰ってくると九日間経過していた︒智光は余罪が後世に及ぶことを恐れて行基のところを訪れ懺悔し罪を許されることを願い︑また行基を信じ聖人だと理解した︒その後行基は死んで肉体を生馬山に捨て霊魂はその金宮に行った︒智光はさらに後に死んで日本の地からのがれ素晴らしい霊魂は知らないところへ
一一六 去った︵ 19︒︶
仏教説話でありながら記紀神話に特徴的な﹁葦原水穂国﹂や﹁黄 よもつへもの竈火物を莫食ひそ﹂という表現があり︑伊弉諾の黄泉国訪問譚に重ねられている︒閻魔王のいる地獄を︑神話とは無関係な独立した観念として主張するのでなく︑神話に重ね合わせて描写している︒
それを踏まえて言える特徴は︑地獄が霊魂のみでいる場所だということである︒智光は肉体を焼かずに生前の世界に残して地獄に行き︑もどるとその肉体で蘇生する︒地獄に行ったのは肉体から抜け出した霊魂である︒また行基は予定の通り地獄の金宮に転生したとされるのだが﹁法儀を生馬山に捨て︑慈神彼の金の宮に遷りき﹂とあって︑生身の肉体を捨てて﹁慈神﹂だけが金宮に生まれ変わる︒神話の黄泉国訪問譚で伊弉冉が腐乱した肉体そのものであったことと大きく相違する︒
それでもなお霊魂は空間的に限定されていて場所が特定されることは︑身体がある場合と同様で︑黄泉国訪問譚と重なる︒生前の場所から移動して地獄に至り︑場合によっては生前の場所に帰り蘇生するというように︑霊魂は居場所が特定される︒地獄にいてなおかつ生前の場所にいるということはありえない︒霊魂は肉体がないにもかかわらず肉体的な苦をもって描写される点とともに留意すべきである︒
地獄には特定の目的がある︒地獄とは滅罪のための場所であり期間である︒﹁師を召す因縁は︑葦原の國に有りて行基菩薩を誹謗る︒其の罪を滅さむが爲の故に︑請け召すのみ︒﹂の部分が端的に示している︒そして地獄に堕ちて苦しむということは︑罪を滅しているということで︑いずれ罪は全て消える︒そうなると滅罪の時空間である地獄から離れることになる︵
はほかにも﹁斯の女の受く可き苦︑六年の中︑三年を受け︑未だ受けざるは三年なり︵ 20︒実際智光は蘇生している︒一定の期間の経過で解放されるであろうと考えられていたこと︶
不や︵ き年限が具体的に示されていることや︑﹁世間の衆生︑地獄に至りて苦を受くること︑二十餘年を經て︑免されむや 21︒﹂と地獄での妻が苦しむべ︶
っている︒ただその期間がどのくらいなのか共通認識は成立していない︒このようにいずれ出られると観念されるの 22﹂という桓武天皇の僧への質問からもうかがえる︒これは一定期間苦しめば許されるという発想が前提にな︶
律令期における儀礼対象の存在把握の様式︵尾留川︶一一七 だから︑地獄は死後の安定した状態でなく︑その前段に差し込み加えられる期間にすぎない︒もし罪がないならばそもそも地獄には来ない︒ そして地獄に堕ちたことは本人以外には了解されないことが多い︒たとえば下巻三十七では︑京中のある人が病気となり死んで閻羅王のところにゆき︑苦を受けている佐伯伊太知に会い︑蘇生し事情を彼の妻子に伝えるのだが︑妻子は﹁卒りて七七日を経るまで︑彼の恩霊の為に善を修し福を贈ること既に畢はりぬ︒何にか図らむ︑悪道に堕ちて劇しき苦を受くることを﹂と言う︒中陰の仏事により追善をしたから︑地獄に堕ちて苦しんでいるとは思いもしなかったといい︑地獄に堕ちていたことはまったく知らない︒さらに地獄にいることが分かった場合には仏事をして罪を滅し苦を逃れさせるのだが︑述べられるのはここまでで︑その後はやはり述べられない︒つまり地獄に堕ちたことも︑そこから抜け出したあとも︑わからないとされるのである︒六道輪廻の観念により予想される人や天への転生もない︒これは地獄にかぎらず牛に転生した場合でも同じである︵
23︒︶
結局地獄に堕ちたことも知られず地獄を離れた後もなにも語られず安定した死後のありかたはなにも示されないことを踏まえると︑例外的な言及である智光の﹁知ら不る堺に遷りき﹂の部分は積極的に評価せねばならない︒すなわち不明であることこそが死者の把握のされ方なのである︒一度死んで蘇生するという特殊な体験をした人があってはじめて地獄の様子が明かされるが︑それは死後は分からないものとする基底的認識の裏返しとして成立しているのである︒死後は基本的には不明であり︑判明するのは特殊事例である︒死後とは把握できない状態とする認識は︑神話で死後が積極的には述べられていないこととも関連する︒
四
地獄を出た後 - 二 地獄に堕ちた死者がそこから解放されたさらに後の状態について︑言及している数少ないものの一つとして下巻三十六の説話がある︒藤原永手が死んだのち︑その子である家依が長患いとなった︒仏事をするも効果がない︒そのとき一人の禅師が命を顧みず︑手の上に香を焚いて陀羅尼を誦した︒すると病気の家依に父永手の霊魂が憑依して言