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ドイツ社会民主党の財政政策(二)

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ドイツ社会民主党の財政政策(二)

その他のタイトル Fiscal Policy of German Socialdemocratic Party (2)

著者 広田 司朗

雑誌名 關西大學商學論集

4

2

ページ 95‑116

発行年 1959‑06‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00021767

(2)

95 

保護関税政策をめぐる動向

第二帝政の第二期は︑

0月に成立した社会主義鎮圧法︑翌七九年の保護関税政策︑さらに八三年以降の社会

保険立法を三大支柱とする彼の政策体系が展開せられた時期である︒ところで社会民主党にとって直接的な意味を

もったのは︑いうまでもなく第一の例外法であった︒これによって︑社会主義的および共産主義的傾向をもつ組

合︑集会︑出版等の解散ないし禁止が強行せられた︒しかしながら︑ここで問題となるのほ︑保護関税政策を以て

はじまるビスマルクの経済政策の転回であり︑またその財政改革である︒

税的色彩は︑五0年代以降自由貿易運動の進展につれて︑しだいに後退しはじめた︒英国から伝来した自由貿易運

動は︑五七年以後全ドイツに波及し︑六0年代初頭にほ頂点に達したが︑これに︑対応して六0年代から七0年代

( I )  

ドイツ社会民主党の財政政策口

ドイツ社会民主党の財政政策

0年代にいたる関税同盟の保護関

0年代末葉から一八九0年にいたるビスマルク統治体制の確立︑支配した時期であ

(3)

96 

ドイツ社会民主党の財政政策口

② にかけて関税政策および通商政策はいちじるしく自由貿易的色彩をおびるにいたった︒しかしながら︑銑銑関税撤

廃の発効した一八七三年に到来した恐慌は︑皮肉にもふたたび保護関税運動を喚起せずにはおかなかったのである︒

ゲルロフは︑プロイセン年報の政治通信員の言葉をかりて︑次のように述べている︑すなわち﹁不良株式で自己の

財産を失った人々は︑自己の不明を嘆かずに株式法

ファラオの時代より豊かな年につゞいて貧しい年があらわれるというすべての現世的なものの転変の中にその罪を

みるのではなく︑わが国の誤まった経済政策の中にそれを見出す︒⁝⁝⁝工業家は︑自由貿易政策が彼等の損失に

責任があると信じており︑地方の地主達は︑流動資本と取引所が自由主義者によって優遇され︑租税を過重に負担③ する土地所有が損をすると説法する﹂と︒ここに述べられている言葉は︑七三年の恐慌以来の経済的不振の原因を

当時の自由貿易政策に求めようとする世論の一端を示している︒はたして当時の経済的不況が自由貿易政策に由来

iするか否かについては問題が存する坪.しかしかかる不況の事態に立ち到って︑経済政策の転回を求める声が現わ

自由貿易政策から保護政策への転換を要求する声は︑過剰生産と対イギリス競争を契機として︑鉄鋼業の主導の

下に繊維︑化学等の産業部門において︑自由貿易政策の維持存続を主張する中小資本に対抗して︑大資本の側から

起った︒ことに一八七五年に創立されたドイッ工業家中央連合

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七七年七月にドイッ産業の実態とその要求についてアンケートを企画し︑保護関税要求貫徹のための組繊的活動を

展開した︒この運動に呼応して︑

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  に不平をこぼす︒確実な証券を失った人々は

しかも就中交通網の整備発達にともなうヨーロッ︒^穀物市場の構造変化に促され

て︑大土地所有者は農業関税設定のための運動を展開するにいたった︒かかる運動ならびに自由貿易論と保護関税 れたことは︑この言葉から明らかに看取できる︒

(4)

97 

化するにしたがい︑

論の対立は︑当然各政党間の対立抗争に反映せずにはおかない︒

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自由保守党︶︑国民自由党右翼ならびに中央党の大多数が属し︑自由国民経済連合

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を形成していたのにたいして︑他方その反対派は︑リヒクー

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主導下の進歩党を中心に︑国民自由党左派および社会民主党によって構成されていた︒

財政改革への途

以上のようないわば下からの政策決定をめぐる動向にたいして︑時の支配権力はいかなる対応形態を示したであ

ろうか︒関税撤廃の過程において当初より反対の意向をもっていたドイツ皇帝は︑

0月に帝国宰相宛

の書簡において鉄関税撤廃延期の意向を表明し︑また七六年一0月三日の詔勅において国内産業保護の見解を発表

していた︒この皇帝の見解はかならずしも実現されはしなかったが︑しかし前記のような保護関税要求の声が熾烈 ( I

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﹁保護貿易の天秤皿に新たな重量﹂が加えられるにいたったのである︒

一八七四年にすでに帝国にたいして強固な財政的基盤を与える意向を表明していたが︑七一一一年の

ロシアの関税引上げ︑フランスにおける輪出奨励金制度︑ドイツ市場におけるイギリスの鉄の氾濫等々の事情⑥ は︑自由貿易政策から保護政策への彼の関心の推移を刺戟するものであった︒しかも一八七六年の鉄道国有化問題

を契機とするデルブリュック

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の辞職︑さらに一八七八年三月煙草専売問題に関連するカムプハ

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の退任は︑ビスマルクの財政改革計画およびその一環としての保護関税政策の遂

行に乎坦な道を敷設したのである︒ゲルロフによれば︑一八七七年はじめより一八七八年夏の帝国議会解散にいた

る間の国内政治状勢は︑ビスマルクの保護関税政策への転換にとって決定的であったといわれているq

ドイツ社会民主党の財政政策口

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保護関税論の陣営においては︑保守

(5)

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四名の議員から成る自由国民経済連合

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ドイツ社会民主党の財政政策口 過を辿ったとはいいえない︒ゲルロフの述べるように︑七三年の経済的停滞の時代において︑新税や連邦分担金の

⑧ 

大幅の引上げなしに財政収支の均衡がなされたにしても︑しかし帝国財政事情が安定化していたとはいえない状態

⑨ 

にあった︒以前述べたように︑帝国の経常的な財政収入は︑関税および各種消費税に主として依存していたが︑この 収入額は︑この期間における財政支出の増加の速度に追いつかなかったのみでなく︑経常収入の七割までを占めて

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いた関税および消費税収入の比重は漸減の一途を辿っていた︒このように一方に於て経費が膨脹しながら︑他方に おいて租税収入が相対的に減少している事実は︑当然その差を埋めるべき連邦分担金や公債収入への依存度を強め

" l   るにいたった︒すなわち︑前者は一八七五年を機としてふたたび増勢をつづけ︑他方フランスから穫得された戦争 賠償金によって減少していた公債残高も一八七七年公債発行を機として再び増加の傾向を示しはじめたのである︒

このような事情が帝国財政の不安定さを意味するものであることはいうまでもない︒

かくてビスマルクは︑自らの財政改革を実施すべく︑一八七八年二月に各邦大臣会議をハイデルベルクに召集し︑

その審議に際して覚書を送り︑帝国消費税収入の増徴︑各邦財政負担の減免等の財政改革とそれに関連する保護関 税承認の意向を表明し︑さらにまた同年暮に重ねて関税政策実施の見解を明らかにした︒ところでたまたま同じ頃 に起った皇帝狙撃事件は帝国議会の解散を招来したが︑この解散後に行われた選挙は︑ビスマルクの政策遂行に有 利な条件をもたらした︒すなわちベニクゼン

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との入閣交渉決裂によって︑ビスマルクほ

解散前の議会における多数派からは何ものをも期待できなかったが︑解散後の議会は︑保守党の強化によってこれ に中央党と国民自由党右翼を加えた三党政治の可能性を与え︑

ところで当時の帝国財政事情に眼を転ずれば︑帝国財政事情ほ︑

一八七八年にいたるまでかならずしも順調な経

11

0 

(6)

99 

V o l k s w i r t s c h a f t l i c h e   V e r e i n i g u n g

  によって形成される多数派は︑彼の政策遂行の強力な支柱となったのであ

かくてビスマルクは︑七八年︱一月︱二日附連邦参議会宛書簡において︑帝国の財政状態と産業保護の要求に関

連して全般的な関税定率の修正に言及し︑このための特別委員会の設置をつよく要望した︒連邦参議会の承認にも

とづいて創設された関税定率委員会

N o l l t a r i f k o m m i s s i o n

は︑七九年一月より一二月下旬にかけて関税定率に関す

る審議を行い︑ここで作成せられた関税定率は︑その後四月=︱‑日に連邦参議会の承認を得︑翌四日帝国議会に提出せられた6

改革の成立とその意義

帝国議会に提出せられた税率案の審議は五月二日から開始せられた︒その提案理由を説明するにあたって︑ビス

マルクは︑財政制度改革についての自らの見解を披需したが︑そのいうところによれば︑改革の目標は主として財

政上の問題に︑すなわち︑帝国の財政的独立ー│地方の財政負担軽減および間接税増徴の二点に求められるようで

ある︒もちろんビスマルクは︑第三の目標として﹁地方ならびに都市︑工業ならびに農業における自国の国民労働

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と生産﹂にたいする保護をあげているが︑すでに広く指摘されているように︑この場合国民労働の保護はまった<

副次的な意義をもつものでしかなかった︒それのみでなく﹁偏見に捉われない考察によれば税率案が帝国の財政的必要をより多く考慮するものであったか︑それとも一定の保護関税の利益を考慮したものかは︑明言しがたい﹂と

いわれているように︑むしろ改革による農・工業生産の保護に重点をおくものであったといえるだろう︒このよう

な意図によって提出せられた政府案は︑とくにライ麦と若干の鉄製品の税率引上げ等の修正を経て可決せられたが︑

る ︒

ドイツ社会民主党の財政政策口

(7)

標を帝国の財政基盤の強化においていたにもかかわらず︑

フランケンシュタイン提案が採択されるにいたった︒

ドイツ社会民主党の財政政策口 ここに成立した新しい関税法は︑四三種類の商品にたいして主として従量課税を行い︑これによって年間七一

00

ところで第二読会と第三読会の間に新しい問題が発生した︒それは直接的には関税収入とそれの使途に関する問 しかしまた帝国収入の増大に関連する連邦分担金制度の存廃問題︑

と諸邦の財政上の利害に関する政治的問題でもあった︒これに関する提案は二つあった︒その第一案は国民自由党

のベニクゼソによるものであり︑ ひいては帝国議会の憲法上の権限

コーヒーおよび塩の関税率と消費税率を年々の予算で確定し︑また収入と支出を 個別的に確定したのちに収入過剰が生じた場合︑これを人口数に応じて各邦国に交付することを主張した︒これに

たいして中央党のフランケンシュタイン

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の名の下に提出された第二案は︑

過去三ヵ年間の平均額を上廻る関税およびタバコ税収入はこれを各邦国にたいして︑それらが連邦分担金に参与す る場合の基準たる人口数に応じて︑交付すべきことを提案した︒前者によれば︑連邦分担金を廃止することによっ て帝国財政の自立性を強化し︑それとともに税率を年々確定することによって立憲的な協賛権を帝国議会に保証す ることが可能であった︒これにたいして後者は︑帝国収入の増加分を各邦に保証し︑他面帝国財政において人為的 に不足分を作出することによって帝国財政を各邦国に依存せしめるものであり︑前者に対比して連邦分立主義を容

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" i   認し︑帝国財政権力を制限しようとするものであった︒この二案の審議の結果︑ビスマルクがその財政改革の主目 というのは︑ベニクゼン案によれば︑税収入は年々の税率の決定によって確定せられるためにその収入が不安定で

あるのみでなく︑

議会の予算権が拡大せられしかも税率決定をめぐる政治闘争発生の可能性が大であった︒

万余マルクの収入が見稼られた︒

(8)

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0年の再度にわたる軍拡案の成立等によって︑総支出中に

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占める割合が漸次低下の傾向があったとはいえ︑依然四割を下らない巨額を示していた°さらにまた一八八五年に

ドイツ社会民主党の財政政策口

目はいうまでもなく軍事費であり︑

とりわけ税収入の一定額を議会の協賛なしに確保する必要上から︑

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スマルクは保守党とともに中央党と協調するにいたったのである︒かくてフランケンシュクイソ約款

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を附帯決議とする関税定率法は七月十二日議会で採択せられ十五日に公布されるにいたった︒

このビスマルクの関税および財政改革は︑すでにひろく指摘せられているように︑

農産物価格の下落と農業労働者の賃金騰貴の傾向になやむュンカー階級の利益を再三にわたる関税引上げによって

擁護するとともに︑他方においては︑大工業資本にたいするカルテル保護の役割を通して︑その世界市場への進出

を促した︒しかも改革の焦点が関税および消費税に向けられていたことは︑ュンカーおよび大資本の経済的負担を

労働者階級その他の国民各層に転嫁するものであったといいうるであろう︒さらにまたこの改革の一環として成立

したフランケンシュクイン約款が︑当初のビスマルクの意図と異なって︑帝国財政を連邦分担金と交付金を通じて

邦国財政と結びつけたことは︑それ自体帝国財政の不安定さを意味するものであり︑さらにまたそれによって連邦

分立主義的財政構造が確認せられたことも注意すべき点であろう︒

その後の財政改革

このドイツ帝国史上最大の内政的事件は一応ビスマルクの勝利に終ったが︑しかしその後の帝国の財政状態はか

すなわちゲルロフの述べるところによれば︑

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は︑八丸年にいたるまで八一︑八二年を除いて︑赤字の連続であったといわれている︒この間の財政支出の最大項

ならずしも好転したとはいいえなかった︒ (

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がって関税改革の成果を安定的ならしめ︑

0年代の帝国財政収支 一方においては︑八0年代の

(9)

たが︑帝国議会に提出されるや︑左派のほかにヴィントホルスト

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のひきいる中央党の反対

に遭遇し︑二七七票対四三票の大差で葬り去られ︑その後八五年に煙草納税方法の簡易化が認められるのみに終っ において︑バイエルン︑バーデン︑ヘッセンなどの反対を押し切ってプロイセンや他の小邦国によって承認せられ さらにビスマルクは︑ 年その一部改正が行われた︒ が各種の取引税

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と富鏑課税

しかしビール税と防衛税の両案ほ否決せられ︑印紙税のみ 一八八一年にはビスマルクは︑七九年以来懸案のビール税増徴案︑ ことも否定できない︒ は植民費の負担が加わった︒このような事情にたいして︑ ドイツ社会民主党の財政政策口

財政収入中その大半を占める租税収入は︑

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り︑その収入増加をはかるには税制の改革が不可避的であった︒さらにフランケンシュクイン約款によって実現さ

れた分担金と交付金の二本建の制度において︑分担金の相対的減少

11

交付金支出の相対的増加が帝国財政を圧迫したことも注目すべき点であるかくて帝国財政はいきおい公債収入への依存の傾向を強めざるをえなくなったが︑

他面において租税収入の増加をはかることが必要でもあったのである︒

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かくてビスマルクは自己の財政プログラムの一層の遂行を企てた︒以下その概略を簡単に展望すると︑すでに簡

単にふれた農業関税の引上げは︑八一年︑八五年︑八七年にわたって行われた︒これがュンカーの利益擁護という

基本線にもとづくものであったことはいうまでもないが︑同時に租税収入増徴という点で大きな意義をもっていた

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e案および防衛税案を一括議会に提出した︒

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という形で採択せられ︑

一八八二年そのお気に入りの計画であるクバコ専売案を作成した︒この案は︑連邦参議会

六九年以来懸案の帝国印紙税

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停滞的であ

(10)

103 

また当時政府は砂糖税の改革に腐心していた︒というのは︑それは︑甜菜糖税

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の形で一八六九年

の税率によって賦課されていたが︑租税収益に比して輸出奨励金の増加が大きく︑ために増収をはかるべく︑八三

年︑八六年︑八七年にそれぞれ奨励金の軽減と税率引上げが行われた︒

最後に火酒税についていえば︑これは砂糖税の場合と同じく輸出用︑工業用火酒に関して戻税制度をもち︑かく

て他国の場合に比してその収益力は低い状態にあった︒ところで政府は︑ビスマルク財政計画の一環として火酒専

売案を計画した︒計画された専売案はプロイセンによって連邦参議会に提案せられ︑その後一八八六年三月に帝国

一八一票対三票を以て完全に否決された︒しかしその翌年の帝国議会選挙によっ

て成立したカルテル議会

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は︑右派と国民自由党の提携によってビスマルク政策を支持する多数

派を生みだした︒たまたま起ったバルカン地方における国際的危機は陸軍増強の機運を促し︑これに伴う財政需要

の増加は︑火酒税法の大幅の改正の機会を提供した︒かくて八七年五月に提出された火酒税案ほニ︱︱︱︱︱一票対八〇票

をもって可決せられ︑これと同時に南独諸邦の火酒税共同体への加入が促進せられ︑七月にはバーデン︑十二月に

はヴュルテムペルクとバイニルソが加入するにいたったのである︒

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19 13 .  S. 13 6.  

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S. 12 5.  

④この点についてゲルロフは次のように述べている︑﹁一八七三年から一八七九年にいたる経済的沈滞ほ︑レキシス

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正しく述ぺているように︑保護関税や自由貿易と無関係に生じたのであり︑﹃一八七九年に認められたドイツの工業状態の改 ドイツ社会民主党の財政政策口

議会に提出されるにいたったが︑ こ ︒

(11)

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1 54 .

なお関税定率委員会の審議およびこれをめぐる諸見解の対立については︑大野英二氏の上掲書に詳しく述べられている︒

⑬ビスマルクの演説の若干の部分を引用すると次のようにいわれている︒﹁今日のドイツの全財政状態ーこれは︑単に帝国財政 をいうのでなく︑帝国と個々の地方の財政の全体を意味する︑というのはそれらが有機的に連関している場合︑それらを分離

して取扱ったり︑考察したりすることはできないからであるーは︑私見によれば︑早急な改革を切に促す体のものである︒ 02) 

ドイツ社会民主党の財政政策口 善は︑通商政策の変更によっては説明できない︑というのは自由貿易主義のイギリスにも︑保護関税主義のアメリカにも︑同

様の有利な転換が︑一八七九年七月一五日のドイツ関税定率法の発布以前にすでに現われたからである﹄﹂と︒

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S. 10 3 

稿

H﹂関西大学商学論集第一1一巻︑第五号参照︒

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この経費の膨脹は主として陸海軍のための支出によっている︒︵前掲拙稿参照︶

皿一八七二年より七八年にいたる間のドイツ帝国の財政状態をみれば︑次の通りである︒

18 12  

18 73  

18 74  

18 75  

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18 77 11 8 

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33 2, 2  1 0 

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28 9, 83 9 

27 9, 66 9 

28 5, 97 6 

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29 2, 67 4 

29 3, 37 1 

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80 ,6 16

60 ,3 89  

52 ,7 61  

52 ,6 67  

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71•156

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(12)

105 

帝国宰相としての政治的立場において改革の擁護を私に強要する第一のモティーフは︑帝国の財政的独立の必要である︒この 必要は︑帝国憲法創設の際にすでに認められていた︒帝国憲法は︑連邦分担金の地位が帝国税の採用されるまでの間存続する

暫定的なものであることを︑前提にしている﹂

﹁憲法によって帝国が手がかりをその掌中にもちながらこれまでなんら利用していない源泉を正しく利用すれば︑諸邦の寛

大な扶養者となることができるにもかかわらず︑各邦の厄介な居候︑督促する債権者であることは︑たしかに帝国にとって望 ましいことではない︒私は︑この状態に終止符をうたなければならないと考えている︒というのは連邦割当額は︑その配分に おいて不平等かつ不公正だからである︒われわれすぺてが目標としている帝国の強化は︑連邦分担金が帝国税にとって代られ

るときに︑促進せられるのである︒﹂

さらに間接税増微の要求については次のように述ぺられている︑﹁諸邦および帝国のためにかならず徴収されねばならない租

税負担は︑それがもっとも軽く負担されうるような形で賦課されているかそれともそうでないのか﹂﹁私は︑直接税について

あまりに多くのものを要求し︑問接税について要求されることのあまりに少い現状を遺憾に思うものであって︑直接税を廃止

し︑それの保証する所得を間接税によって補償するように努力するものである﹂︒

五月八日の第二回の演説では︑ビスマルクは︑さらに簡潔にこれらの点について述べているすなわち︑﹁帝国をより一層自

立せしめること︑町村の負担を軽減すること︑高率課税をうけている土地所有にたいして間接税によって負担軽減をはかるこ

と ︑

1

そしてその次に︑最後のかつけっして些小ならざる目的として︑地方ならびに都市︑農業ならびに工業における自国

の国民的な労働および生産にたいして︑われわれの提供しうる保護を︑重要な利害関係において全体を侵害することなしに保

証すること﹂と︒

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⑱フランケソシュクイン提案には︑関税率は八一年以降年々の予算で確定すべき旨の案が含まれていたが︑これは否決せられ

た︒さらに関税およびクバコ税収入の三ヶ年平均額は一・三億マルクに確定せられた︒

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23

32

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  1 8

  ドイツ社会民主党の財政政策口

(13)

(I ) 

ドイツ社会民主党の財政政策口

0年代の十年間に関税および消費税収入は︑一七八七年の二三六

0

0万マルク弱より︑一八九一年の六四二

00

万マルク

強にまで急激に増大しているが︑これは主としてこの間における関税引上げ︑火酒税改正およびクバコ税収益の増大によるも

のであるといわれている︒

( a . a .   0 . ,  

S. 23 6)

このことは逆にいえば︑税率引上げ︑税制改正がなされない場合租税収入の増加

が停滞したであろうことを示している︒とくに八0年代前半における砂糖税収入の停滞ほ赤字の原因とまでいわれている︒

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S. 52 2 

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SS.185 

19 7

野津高次郎︑独逸税制発達史一七五頁以下

以上のところまでわれわれは︑ビスマルクの保護関税政策を中心とする財政改革の概略をみてきた︒それではこ

の時期の社会民主党の財政政策的見解がいかなるものであったか︑次に考察しよう︒

保護関税問題

カルマソのいうところによれば︑社会民主党にとっては︑保護関税か自由貿易かについて党として立場を決定す

べき機縁は従来存在せず︑その態度の決定は個人の判断に委ねられていたといわれてい和︒かくてシュヴァイツァ

ーは保護関税論者であり︑リープクネヒトは自由貿易論者であったのである︒しかしながらこの問題に関して世論

が沸騰してくると会社民主党もこれにたいしてなんらかの立場の決定をなさざるをえなくなった︒かくして一八七

六年八月一九日より二三日までゴークで開催せられた社会主義者会議は︑

られた決議案を採択するにいたった︒それは次のように述べている︒

Jo ha nn o  M st

によって提出せ

﹁会議は︑有産者階級内で生起した保護関税と自由貿易との闘争にドイツ社会主義者は無関係であること︑保

二 ︑ 社会民主党の財政政策

ニ八

(14)

107 

の党内の見解の不統一あるいはまた理論的未熟さは︑

において開かれた会議にお

そしてこの会議において︑

護関税か否かの問題は個々の場合に決定されなければならない実践的問題にすぎないこと︑労働者階級の貧困は

一般経済状勢に根ざすものであること︑

ハッセルマン

しかし帝国政府の手になる現行の通商条約はドイッ産業にとって不利に 締結されており︑改正を要すること︑最後に党新聞は︑保護関税の要求の下に国家の援助を得ようとするブルジ

③ 

ョアジーのために危険を冒ることのないように労働者に警告を与えるよう︑勧告せられるべきことを︑閾明する﹂

この決議文に明瞭に示されているように︑そこには第一に保護関税問題について中立的立場を守ること︑第二に ドイッ産業に不利な自由貿易的な通商条約の改正を要求すること︑第一︱一にブルジョアジーの保護関税要求にたいし て警戒すべきであること︑という一二つの異なった見解が混在している︒このことは当然党内におけるこの問題につ いての見解の分裂を想像させる︒この点についてエンゲルスは︑会議において贅成あるいは反対の決定を行いうる

③ 

ほど問題に通暁していなかったことを指摘しているが︑この傾向ほ︑翌七七年五月二七日にほじまったゴーク社会 主義者会議の拡大討論においてより一層明瞭にうかがうことができる︒カルマンは︑

④ 

統一について︑頭数だけある意見という表現を用いているが︑そのような表現が誇張でないほどに多種多様の意見

が吐かれている︒

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案と

して︑帝国議会における諸提案について一致がみられない場合︑修正動議を通じてでも一致した投票を行うべきで あるという見解が表明せられたにもかかわらず︑ビスマルクの保護関税政策を議する議会において︑社会民主党議

一部は反対投票を行い、他は逆に賛成投票を行い、残りは棄権するという不統一さを露呈したのである

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いても見出されたが︑

ドイツ社会民主党の財政政策口

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n  この会議における見解の不

しかしまた同時にこの問題についての党議員の議会における混乱した態度にたいする批判が

(15)

殊にカイザー

今述べたところで明らかなように︑保護関税問題においても看取でき

ドイツ社会民主党の財政政策口

Ka ys er

  の鉄関税賛成投票にたいして不信任投票が提案せられる事態にまで立ちいた

われわれは︑すでに前稿において初期の党財政政策において︑他の問題に関してではあるが見解の不統一なり理

論的未熟さなりをみてきた︒

る︒しかしまた八0年の会議において党議員の混乱した態度について批判がなされたことは︑党内の見解を統一せ

んとする機運のあらわれでもあった︒そして一八八七年

St

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G a l l e n

における党大会においてはじめて党は全員一

致の統一的な決議を行うにいたったのである︒その決議は次の通りである︒

﹁党大会は︑間接税体系の基本的反対者として︑新たにドイツにおいて行われた関税立法と現実に同じ結果に

なるような経済的措置は︑すべてこれを拒否する︒また純然たる財政的目的のために志向せられる大衆の重要消

費品目の専売化を拒否し︑火酒税立法と砂糖税立法ならびに穀物関税引上げ計画に際してあらわれた無産階級の⑧ 犠牲において地主階級を富ませようとする努力にたいして︑決定的に烙印を押す:

 

ここに明らかに示されているように︑党の保護関税反対の論点は︑大衆の負担という点にあった︒かくて保護関

税体系にたいする一義的な反対の態度を確立した党は︑とくに穀物関税にたいする攻撃をはげしく展開した︒すで

に述べた如く︑慢性的農業恐慌に伴う八0年代の穀物価格の下落は保護関税引上げの要求を熾烈にしたが︑この声

にたいし党は︑この関税が大衆の消費負担を重くする逆進税的作用をもち︑同時に小農の犠牲にもとづく大土地所

有者の利益擁護を意味する点において︑はげしい攻撃を加えた︒一八八九年ペーベルは関税法の改正案を議会に提⑨ 出して︑関税による労働者生活水準の低下をはげしく論難している︒

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(16)

109 

ドイツ社会民主党の財政政策口︵広田︶ その他の改革問題

一八八七年党大会の決議は︑保議関税体系の否定とともに国家独占拒否の見解をも示している︒すでに述べたよ

うに︑ビスマルクは帝国財政改革の一環として一八八二年にクバコ専売案を議会に提出した︒﹁無産者の世襲財産﹂

Pa tr im on iu m  d er  E n t e r b t e n

とよばれるこの専売案にたいして︑社会民主党は︑その間接税的作用と予算権の

O l  

制限にたいする反対という観点からフォルマール

Ge or g vo n  V ol lm ar

を代表演説者に送って反対した︒

一八八二年カイザーは︑下層階級の租税負担の軽 クバコ産業が独占化されるだけの集中を示していないこと︑またこれによって政府権力が強化さ

れること等の点を指摘した︒また党は︑間接税否定とクバコ産業の労働者への配慮から︑

て反対した︒というのは︑党の見解によれば︑クバコ税の引上げはクバコ消費の減少を通じてクバコ産業労働者の

hu

 

飯の険いあげ

B r o t l o s w e r d e n

を意味すると考えられたからである︒

その後一八八六年提案せられた火酒専売案にたいしても︑社会民主党は︑上述のクバコ専売の場合と同様の理由

によってこれを拒否したが︑ クバコ税引上げにたいし

I g n a At z ue

r ~さらに、専売の財政上の目的と社会政策的見地との矛盾、

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生活必需品の価格騰貴︑大土地所有者の利益保護等々についてはげしい批判を加えている︒同様に党は︑翌八七年

の火酒税改正案についても拒否的態度を示した︒

最後に印紙課説に関連して取引所税

B o r s e n s t e u e r

にたいする党の見解についていえば︑この問題においては︑

関税や消費税におけるような一義的な反対の態度はみられない︒

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減に役立つ限りにおいて︑取引所税に賛成したといわれている︒この見解の根底には︑取引所が資本主義的体系の

集約的表現であり︑ ( I

I )  

したがって取引所課税はそれ自体としては労働者階級の直接的関心事ではないという考え方が

(17)

いして批判的であったとも考えられるであろう︒ しかしカルマンによれば︑

ドイツ社会民主党の財政政策口

存在する︒かくて取引所税にたいする賛否の基準は︑労働者の租税負担にたいするそれの作用とその収益の使途に^ U あった︒したがってこの租税は︑直接税や間接税と異なり︑それ自体について判断されるのでなく︑租税負担の軽

減もしくは社会改革に利用される限りにおいて賛成をうけたのである︒

以上のところでわれわれは︑ビスマルクの関税および租税改革にたいする党の立場を概略考察してきた︒しかし以

上のほかになお解明すべき問題点が残されている︒その一っは前述したフランケンシュクイン約款をめぐる党の見

解である︒すくなくともこの約款がビスマルク財政改革以後の帝国財政と邦国財政を結びつける結節点であり︑政

治体制にかかわる問題であった限りにおいて︑この問題にたいする社会民主党の見解ほ看過すべからざるものと考

えられるが︑しかし当時この約款にたいする党の積極的見解が展開されたか否かほかならずしも明らかではない︒

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党はこの約款によって連邦分立主義が強化されることを懸念したといわれている︒

ンゲルスはエルフルト綱草案の批判において政治的主票目標の欠如を指摘しているが︑その際に彼はドイツにおけ

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る小邦分立の排除をも主張している︒このことは︑先のカルマンの言葉と併せ考えてみるとき︑党が連邦分立主義

否定の立場に立っていたであろうことを推測せしめるものであり︑この点においてフランケンシュクイソ約款にた

以上のところで明らかなようにこの時代の社会民主党の財政政策的見解は︑ビスマルクの財政改革に焦点が向け

られ︑その租税政策︑専売計画にたいする拒否の立場によって貫かれたということができるだろう︒もちろんすで

に関税問題について述べたように︑その当初においては前期にひき続いて理論的欠陥︑見解の不統一が露呈せられ

(18)

111 

決議の後半には︑次のように述べられている︒ たが︑この欠陥も次第に是正せられ︑関税および消費税改革にたいする一義的反対の立場を確立するにいたった︒それではこの一義的反対の根拠は何であるか︒その一っは︑いうまでもなく︑関税その他の租税のもつ間接税的作

用にあった︒この点はすでに前稿において考察したところであり︑党の初期より一貫した見解である︒とくにこの

時代においては︑ビスマルク政策の荼調をなすュンカーの利益擁護︑大衆消費にたいする租税負担の転嫁は党のほ

げしい非難の的にならざるをえなかった︒しかもこのような間接税の拡充を内容とする税制改革は︑当時の軍備の

強化と密接な関係にあった︒すでに述べたように︑帝国財政支出の多くの部分が軍事支出であり︑陸軍強化の経済

的裏づけが財政収入増徴の重要な狙いであった以上︑間接税反対の声が︑同時にその主要な原因である軍事費の削

減の要求に向うのは自明の理である︒かくて間接税拒否の声は軍事予算ないしは軍国主義批判の見解でもあったのりnu

 

さて党の一義的反対の基調をなす第二のものは︑ビスマルク体制にたいする反対︑ビスマルク政権への不信任で

あったと考えられる︒カルマンによれば︑保護関税問題において工業関税については農業関税と異なった見解をと

りうるにもかかわらず︑党が全関税体系を拒否したのは単に理論の問題ではなく︑地主的

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i今土主義鎮圧法の時代の政治状勢によるものであった︒ビスマルクの社会主義にたい

する苛酷な弾圧政策が社会民主党の敵対心を逆に煽りたてたことはいうまでもない︒先に引用した一八八七年大会

﹁帝国政府のいわゆる社会改良と徹底的な労働者保護立法の必要性に関して︑党大会は︑以前党によって決定

せられた諸決議を固持し︑帝国議会において社会民主党議員により提出せられた労働者保護立法の拒否ないし阻

ドイツ社会民主党の財政政策口

参照

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