その他のタイトル An Essay on the Currency Reform of China in 1935 from the Perspective of International Economic Relations
著者 奥 和義
雑誌名 關西大學商學論集
巻 60
号 4
ページ 37‑55
発行年 2016‑03‑10
URL http://hdl.handle.net/10112/10329
1935年の中国の貨幣制度改革前後の国際経済関係
奥 和 義
はじめに
1930年代の東アジア,とくに中国をめぐる日英米関係は,現代の国際政治経済の諸問題を考 える上で示唆に富む多様な内容を含んでいる。本稿では,1935年の中国の貨幣制度改革前後に おける中国を中心にした国際経済関係を考察する1)。
1932年3月1日の「満州国」建国,そして1933年3月の国際連盟脱退という一連の国際社会 からの離脱行動,斉藤実,岡田啓介両内閣の時代を通じて,日本は国際的孤立をひたすらたど っていったわけではない。日本の中国への軍事的進出は,1933年5月31日に中国との間で塘沽 協定が締結され,中国側に非武装地帯(冀東地区)を設定することで,いちおうの終結をみて いた。その結果,日本は満州国の経済発展に政策的な力点をおく状況になっていた。また外務 大臣も,1932年8月25日に衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁する などして物議を醸すことが多かった内田康哉から,国際協調路線を推進する広田弘毅に交代し ていた。広田弘毅は自分が在任している間に日本は戦争に巻き込まれることはないと言明して,
はじめに
1.1930年代の中国の貿易・国際収支 2.貨幣制度改革の状況
3.イギリスからの経済顧問サー・フレデリック・リース=ロス むすびにかえて
1)本稿は,奥和義[2016]『両大戦間期の日英経済関係の諸側面』関西大学出版部(近刊)の第5章を基礎 に,それに一次資料を加え,改稿したものである。
1935年の中国の貨幣制度改革をとりあつかった論文は数多いが,その中でも,国際政治経済関係の視点 からなされた総合的研究は,野沢豊編[1981],であり,1930年代の国際関係,アメリカの経済政策,イギ リスの対外政策へのリファーもあり,この問題の日本における基本書であろう。伊豫谷登士翁[1977]も 興味深く,久保亨[1999]が,第8章で,中国の貿易政策の変化,その後の中国経済の発展などと関連づ けて詳細に分析している。最近のものとして,城山智子[2011]がある。欧米では,Rothwell, V. H., [1975], Endicott, S. L., [1975], Trotter, A., [1975]が国際関係論的視点からする基本文献であろう。最近のものと しては,Best, A., [2013]がある。1970年代から1980年代にかけて,一次資料を使用した両大戦間期のイギ リスの研究が進んだのは,1968年1月から公文書の30年公開がルール化されたからである。これについては,
小原由美子[2011],56〜57ページを参照。
悪化した外国との関係改善に努めていた。このように国際連盟から脱退したと言っても,国際 協調の道もまだ模索されていた。
しかしながら,そのような国際協調路線にも限界が存在していた。基本的に,日本は満州国 を手放すことはなかったし,諸外国もまた満州国を承認する意志をもっていなかったからであ る。1933年に広田弘毅外務大臣は,アメリカが日本のアジアにおける既成事実を認めた上で,「太 平洋における新たな均衡状態」を受け入れるような共同宣言を行う可能性について模索をした が,アメリカに拒否された。ただし,アメリカも,日本に対して何らかの動きに出ようとする ことはなかった。対立関係が固定化しても,やがて風化して,「角がだんだんとれていくかも しれなかった」のである2)。
本稿では,このような「微妙な」緊張関係にあった1935年の中国の貨幣制度改革前後におけ る中国の対外経済状態,貨幣制度改革をめぐる日英米の関与について考察する3)。まず最初に 中国の当時の対外経済の状態を確認し,ついで1935年の貨幣制度改革の主要な問題点を考察し,
最後にそれにもっとも深く関わったとされるサー・フレデリック・リース=ロスに言及する。
1.1930年代の中国の貿易・国際収支
図表1-A, B,図表2-A, Bによって,1930年代の中国の貿易を概観すると,アメリカ,イギリ ス,日本などが貿易相手国として重要であり,輸出ではアメリカか日本が貿易相手国として第 1位であり,輸入でも同様の傾向が見られる。イギリスは輸出入ともに10%前後のシェアを占 めている。それぞれの相手国との貿易収支は,中国側の入超であることがわかる。
中国側の貿易赤字は,この時期にアメリカへの輸出拡大がみられた東南アジアを中心とした 華僑送金によって補われていた。このことは,少し前の時期になるが,レーマーの有名な推計
(図表3)や,中国の国際収支の変化(図表4)によっても確認することができる。すなわち,
国際収支上の大きな赤字部分を海外からの送金受取(華僑送金受取)によって減少させること ができていた。
図表1-A, Bと図表2-A, Bは,統計データの出所,通貨単位などが異なっているが,地域別シ ェアとしては大きな差はないことがわかる。当時は通貨の大きな変動があったので,それを考 慮に入れても市場シェアでは変化がなかったことを示すために,両者を掲載している。
2)中村隆英[1993],164〜165ページ,による。
3)1930年代の日英関係については,近年の研究として,石田憲編著[2007]や佐々木雄太編著[2006]な どがある。そこでは「帝国」に焦点があてられているために,かっての代表的業績である細谷千博編著[1982],
にみられたような,中国をめぐる日英米の角逐や協調の視点は後景に退いている。
中国は貿易収支赤字を放置していたわけでなく,その対応策の1つとして,関税引き上げ政 策を実施しようとしていた。1930年5月に日本が中国の関税自主権を認める日中関税協定に調 印したことによって,中国の関税自主権は完全に回復され,中国国民党政府は関税引き上げを 実行する。1930年代の中央財政収入にしめる関税収入の割合は30〜40%超であったから,関税 は財政関税としての役割も強くあったけれども,嗜好品類のみならず,国産化の進行していた 図表1-A 中国の輸出の地域別構成
(単位:海関両,国幣元,%)
年次 イギリス アメリカ 日本 輸出総額 1928年
(構成比)
61,064
(6.0)
127,205
(13.0)
228,602
(23.0) 991,355
(100.0) 1935年
(構成比)
49,463
(9.0)
136,410
(24.0) 82,059
(14.0) 576,298
(100.0) 1938年
(構成比) 56,769
(7.0) 86,853
(11.0) 116,547
(15.0) 1,030,359
(100.0)
(原資料)
China Maritime Customs,
, および .
単位は,1928年は海関両。あとは国幣元。
1932年以降は,「満州国」に入った中国海関の貿易額 を含まなくなる。
(出所)杉原薫[2001],64ページ,より作成。
図表1-B 中国の輸入の地域別構成
(単位:海関両,国幣元,%)
年次 イギリス アメリカ 日本 輸入総額 1928年
(構成比)
113,757 (9.0)
205,541
(17.0)
319,293
(26.0)
1,210,002
(100.0) 1935年
(構成比) 98,232
(11.0)
174,930
(19.0)
139,593
(15.0) 924,695
(100.0) 1938年
(構成比) 70,606
(8.0) 151,254
(17.0) 209,864
(23.0) 893,500
(100.0)
(原資料)
China Maritime Customs, , および
単位は,1928年は海関両。あとは国幣元。
1932年以降は,「満州国」に入った中国海関の貿易額 を含まなくなる。
(出所)杉原薫[2001],65ページ,より作成。
図表2-A 中国の輸出の地域別構成
(単位:100万新米金ドル,%)
年次 イギリス アメリカ 日本 輸出総額 1928年
(構成比)
75
(6.1) 155
(12.7) 343
(28.1) 1,221
(100.0) 1935年
(構成比) 18
(8.8) 49
(23.9) 35
(17.1) 205
(100.0) 1938年
(構成比) 12
(8.2) 18
(12.3) 25
(17.1) 146
(100.0) (出所) League of Nations (Hilgert, F.), [1942],
Annex Ⅲ,より作成。
図表2-B 中国の輸入の地域別構成
(単位:100万新米金ドル,%)
年次 イギリス アメリカ 日本 輸出総額 1928年
(構成比)
138
(9.4) 249
(17.0) 408
(27.8) 1,469
(100.0) 1935年
(構成比) 36
(10.7) 65
(19.2) 54
(16.0) 338
(100.0) 1938年
(構成比) 21
(8.3) 45
(17.9) 64
(25.4) 252
(100.0) (出所) League of Nations (Hilgert, F.), [1942],
Annex Ⅲ,より作成。
図表3 中国の国際収支推計(主要項目)
(単位:100万中国ドル)
受取 支払
海外からの送金 資本輸入 合計 貿易・正貨 負債・投資 合計 差額
1902〜1913年 150.0 113.8 263.8 148.6 158.5 307.1 -43.3 1914〜1930年 200.0 97.4 297.4 280.3 209.7 490.0 -192.6
(出所)Remer,, C. F., [1933], p.206.
軽工業品にも高関税が付加されることによって,中国政府の関税引き上げは保護関税としての 性格を強めたことも確認できる4)。
さらに,1930年代の国際収支を示した図表4をみれば,中国は,商品貿易において巨額の入 超であるにもかかわらず,国内金銀比価と海外金銀比価の乖離にもとづく投機的取引(たとえ ば,国際的な銀下落期には中国への銀流入)により,金貨・銀貨を大量に輸入していた。そし て,この商品・貨幣貿易の入超分をほとんど華僑送金分でまかなっており,負債などを諸外国 からの資本輸入その他で埋め合わせている。
図表4 中国の国際収支
(単位:百万香港両)
1913 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936
経常取引 -137.0 -129.2 -148.8 -238.6 -20.4 -70.9 -136.4 79.6 158.6 234.6
(受取) 585.0 1,357.8 1,425.0 1,372.3 1,688.5 1,122.2 896.5 928.7 991.5 1,101.9 商品輸出(記録上) 403.3 991.3 1,015.7 894.9 909.5 492.9 392.7 343.5 369.6 453.0 外国人の中国での支出分 76.5 149.8 144.0 145.4 174.2 179.1 138.0 116.5 96.3 102.7
華僑送金 77.0 167.1 187.1 210.9 232.2 209.9 192.6 160.5 166.9 205.4
その他 37.0 3.2 3.2 6.4 73.8 57.7
金輸出 4.5 2.0 31.6 136.7 131.6 121.6 71.6 43.6 29.2
銀輸出 19.7 6.7 9.1 179.7 185.8 185.9
(支払) 722.0 1,487.0 1,573.8 1,610.9 1,708.9 1,193.1 1,032.9 849.1 832.9 867.3 商品輸入(記録上) 570.2 1,196.0 1,265.8 1,309.7 1,433.5 1,049.4 863.7 660.9 590.0 604.3 対外債務支払 58.0 42.0 52.7 74.3 88.3 57.8 59.7 72.3 68.9 82.0 利子・配当・運賃・保険・
外国人送金 30.0 129.6 142.6 151.3 71.2 53.2 19.2 12.8 35.3 44.9 その他 5.0 6.9 6.9 8.6 39.9 11.6 3.9 3.9 3.9 7.7
金輸入 3.1 6.1
銀輸入 55.7 106.4 105.8 67.0 45.9
資本取引 100.0 66.7 113.3 134.7 28.5 38.5 19.3 -83.5 -160.5 -234.6
政府借款 2.7 19.3 44.9
新規企業投資 100.0 64.0 113.3 134.7 28.5 38.5 38.5
資本流出 128.4 160.5 273.1
(出所)Yu-kwei Cheng, [1956], Appendix Ⅱ, p.260,より作成。
1932年以降,商品輸出額が急減していることが,図表4から容易にみてとれるが,それは言 うまでもなく,日本の満州侵略と満州国建国によって,有力な輸出地域が失われたことによる。
さらに,アメリカの銀買い上げ政策によって,銀価格が上昇し,中国の為替レートが事実上切 り上げられたことも大きな要素であった。
この時期の中国経済は成長と構造変革を同時に経験したが,このような展開は中国の対外貿
4)小野一一郎・吉信粛編[1979],49〜50ページ。中国の関税自主権の回復,対外経済政策と経済発展につ いては,久保亨[1999],および,秋田茂・籠谷直人編[2001],所収の久保亨「戦間期中国の対外経済政 策と経済発展」も参照。
易には完全には反映されなかった。これは貿易が中国経済にしめる位置が微々たるものであっ たからではなく,国内経済が対外経済よりも早く成長したからである5)。
中国の貿易は低調で,その重要な輸出品である茶と絹の輸出は低迷し,他の農産物輸出にと ってかわられた。その結果,モノカルチャー型輸出にこそならなかったが,それらの輸出が中 国経済の牽引力になったわけでもなかった。
第1次大戦以降は,政治的な不安定性によって,中国は海外投資のための国としてはあまり 魅力のない国になっていた。ただし,中国は1933年にイギリスの海外投資の約6%を受け入れ る一方,中国に対する全外国投資に占めるイギリスのシェアはあまり変わらず,1914年に38%,
1931年に37%,1936年になっても35%であった。この投資の中身は,政府借款から民間直接投 資へ比重が移動しており,1913年に総額の66%であったが,1930年には81%になり,1930年代 半ば以降,中国での投資環境が好転し始めた頃にはさらに上昇した6)。これは後述する貨幣制 度改革の影響である。
1930年代の初頭,イギリス系の銀行,とくに香港上海銀行の率いる外国銀行は,中国最大の 貿易港上海の海外貿易の90%以上を取り扱い,また1936年にイギリスの現地製造業に対する投 資は,日本を含む外国の競争相手の総額よりも大きなものであった7)。イギリス船籍の貨物船 も中国市場に食い込んでおり,中国の港に出入りする船の約半分を占めていた8)。
このような中国に対して,日本は,貿易構造面では,中国より経済発展が進んだ構造になっ ていたが,アメリカへの生糸輸出依存に象徴的に示されるように,重化学工業については相対 的に発展が低いままであった9)。そのために貿易収支全体は赤字を抱え,海運収入,長期資本 の輸入によって補填されている反面,中国への直接投資や借款を与えている資本輸出国でもあ った。しかし,最終的に公債,社債をニューヨーク市場などで大量に起債せざるをえない資本 輸入国でもあった10)。
その結果として,「円圏への輸出は外国為替を生じなかった。むしろ円圏外の国から得た原 材料の一部から輸出品が生産されたから,この輸出はそれだけ外国為替の喪失を招いた。…(中 略:引用者による)…日本の侵略と征服は,それゆえ,日本が貿易問題を解決できず解決をも っと難しくしてしまった。」のである11)。
5)Cain, P. J. and A. G. Hopkins [1993b], 邦訳[1997b],163ページ。
6)Cain, P. J. and A. G. Hopkins [1993b], 邦訳[1997b],164ページ。
7)Hou Chi-ming, [1965], p.54, pp.80-81, p.226. 8)Hou Chi-ming, [1965], pp.60-61.
9)日本のこの時期の貿易発展と構造の特徴の詳細は,奥和義[2012],第2章を参照。
10)小野一一郎・吉信粛編[1979],50−51ページ。
11)League of Nations (Hilgert, F.) [1942], p.63,同ページのデータによると,円圏(満州,関東州,中国,
その他地域)の貿易収支は1937年3億5,300万円の黒字,1938年6億200万円の黒字,円圏以外の地域の貿 易収支赤字は1937年9億6,100万円の赤字,1938年5億7,500万円の赤字であった
このように中国は貨幣制度改革前に,工業化が一定進みつつあったとはいえ,日本に対して は総体としてみれば工業化水準は遅れていた。他方,1935年の日本は,中国に比べて相対的に工 業化が進んでいたとはいえ,なお外貨不足問題を抱えており,不安定さは否めなかったのである。
2.貨幣制度改革の状況
・貨幣制度改革にいたる経緯
1930年代初めは銀貨の下落が継続し,銀本位制国であった中国は輸出を拡大させることがで きていた。このようなプラスの反面,1930年代初頭は世界大恐慌の影響に加えて,日本の満州 侵略が中国経済にとっては大きなダメージを与えた。満州は中国の主要な輸出農作物である大 豆の産地であったばかりでなく,中国の工業にとって重要な市場であったからである12)。 1930年代初頭の銀価格の低下は,アメリカにおいては,産銀業者に大きな不利益を与えた。
彼らはロビー活動をさかんに行い,最終的に,アメリカの大統領はニューディール政策を実行 する政策的妥協として銀買い上げ政策を実行することになった。銀価格が上昇し。結果的に,
銀貨国であった中国の輸出は急減し,国際収支赤字の決済が困難になった。(図表4を参照)
アメリカの銀買い上げ政策による銀価格の高騰は,最終的に,中国からの大量の銀貨流出に まで行きつき,中国内の貨幣制度が統一されていなかったことが,その問題への対応をさらに 難しくしていた。国内金融制度の改革と対外的な銀流出への対応という国内と国外の二方向の 政策を同時に追求する貨幣制度改革が要求されたのである。1933年3月に行われた「廃両改元」
はその貨幣制度改革の第1段階であった13)。
中国はアメリカの銀政策への抗議を行ったが,アメリカから「棉麦借款」として5,000万ド ルを受け取り,その資金によって全国経済委員会の活動が軌道にのってきており,その抗議は 迫力を欠かざるをえなかった14)。
銀価格の上昇は止まらず,中国元の対外相場は銀輸出の現送点を下回ることになり,銀の流 出が中国経済に決定的な悪影響を及ぼすようになった。為替レートの引き上げはデフレーショ ンを強めるし,また中国は銀本位を離れることもできなかったから,為替管理を行うことによ って銀流出を食い止めようとした。治外法権にある外国銀行から強く反対され,実効性が生ま れなかった。中国はアメリカに銀と金の交換を求めたがアメリカに拒否され,最終的に,「銀 輸出税」の徴収と「平衡税」の創設を行い,銀の二重価格制(銀の国内価格と対外価格を区別
12)「満州」は中国の全輸入額の10分の1,全輸出額の3分の1をしめていた。なお,大豆および豆餅の全輸 出額に占める割合は,1930年では19%,1931年で22.5%に達している。伊豫谷登士翁[1977],68ページ。
13)「廃両改元」については,宮下忠雄[1938]『支那貨幣制度論』宝文館,第2篇を参照。
14)Young, A. N., [1971], p.221. また,棉麦借款については,伊豫谷登士翁[1979],細谷千博[2006],が詳 細な分析を行っている。
すること)を実施した。これは実質的な銀本位制度の放棄である。しかし密輸出などによって,
銀は流出し続けた15)。
1934年12月,中国国民党政府の財政部長・孔祥煕は,アメリカに対して,銀買い上げ政策を 変更するか,あるいは中国の貨幣制度改革のための借款供与をもとめた。この提案に対しては,
アメリカでは国務省と財務省との間で対中国政策をめぐって意見が分かれる。国務省は,日本 を刺激して日米摩擦を激しくするような対中政策には消極的であり,銀買い上げ政策を変更す ることがよいと考えたが,他方,財務省は銀政策を変更せず,対中援助を進めるべきであると 考えたのである16)。
1935年2月5日,孔祥煕は再度,ドル・リンクを条件として,銀を提供する見返りに借款を 供与することを希望した。国務省は現実的でないと拒否の態度をとり,共同援助という線を強 調した。中国がつぎの策を模索していたときに,イギリスは,中国の貨幣制度改革問題に関与 し始める。ただし,積極的というよりは既得権益の確保に主眼がおかれた。というのも,イギ リスはヨーロッパ(対ドイツ)が何よりも緊張した状態であったから,十分な余力がなかった からである。イギリスは,アメリカ,日本,フランスにも声をかけ,金融の専門家派遣と共同 借款の道を探った17)。アメリカはこの提案に慎重であり,というのも,貨幣制度改革に必要な 資金を提供することは,イギリスが中国へ介入することを助けることになるからである。
イギリスの対中政策をこれまで主導してきたのは外務省であったが,イギリスの在中国権益 団体(いわゆるチャイナロビー)に後押しされた大蔵省が次第に政策決定権を握り,リース=
ロスの派遣を決定した18)。アメリカの銀買い上げ政策が続いている限り,中国への借款供与は ほぼ無意味であることが予想されたが,他方で,イギリスは中国に商業上の権益,経済的な利 益を有していたので,中国が経済的苦境を打開しようとすることに協力する必要があった。
「1935年の初め,中国は,アメリカの銀政策に根底から揺るがされていた財政経済的状態を 支えるために,2,000万ポンドの借款をえようとしてイギリス政府と折衝していた。」19)
15)伊豫谷登士翁[1977],72〜73ページ。
16)伊豫谷登士翁[1977],74〜75ページ。原資料は,Everest, A. S. [1950], Blum, J. M., [1959], chap.5, Borg, D., [1964], chap.4,そして,Young, A. N., [1971], chap.9.
17)イギリスの貨幣制度改革へのコミットメントについては,Rothwell, V. H., [1975], Endicott, S. L., [1975], Trotter, A., [1975],を参照。これらが代表的文献である。
18)伊豫谷登士翁[1977],78ページ。
19)Sir Frederick Leith-Ross, [1968], p.195. 藤村欣一朗[1983](43),47ページ,の翻訳を参照して,一部 改訳している。当該時期の中国の貨幣制度改革の経過は,リース=ロスの自伝,Sir Frederick Leith-Ross,
[1968],「第15章 中国」で詳しく説明されている。
中国の貨幣制度改革については,イギリスの対外政策,それと日本との関わりがしばしば問題にされるが,
アメリカの金融資本の意図も関係していることを忘れてはならない。これについては,三谷太一郎[2009],
第7章,が分析しており,大変興味深い。モルガン商会のラモントは,日本に対して,満州事変ではま↗
しかし,イギリスが中国に積極的に関与しようとすることは,財政経済的なことだけにとど まらず,政治的な問題も提起することになる。イギリス,アメリカ,フランス,日本の間には,
コンソーシアム協定が存在していたから,四つの国は中国におけるどのような財政金融活動も お互いに相談しなければならなかったし,また日本は中国における優先的な権益を要求し,欧 米諸国の干渉を目の敵にしていたからである20)。
イギリス政府は,状況を調査し,適切な措置を講じうる専門家を中国に派遣することを他の 国々に提案したが,他の国はいろいろな理由をつけて専門家の派遣を断った。しかし,各国と も中国の開発には関与したいという意思を表明していた。リース=ロスは,1935年8月にカナ ダ経由で派遣されることが決定され,シャムの財政顧問であったエドモンド・ホール・パッチ が同行した。彼は,リース=ロスの離中後も中国に大使の財政顧問としてとどまり,外務省に おける経歴をスタートさせた。イングランド銀行からシリル・ロジャースが同行し,あとは大 蔵省での秘書であったクラックネル女史であった21)。
前出の孔祥煕は,フランス租界にあった広大な自宅に国内外の外交官,金融家たちを招いて,
「中国の通貨,金融は,瀕死の重症に悩んでいる。英国のみならず,米仏日にも協力を得て,
早く健康体に戻りたい」と発言したとされる22)。
中国では,外国人の財政金融顧問であるロックハート,リンチ,ヤングらとともに,孔祥煕 や前財政部長であり全国経済委員会委員であった宋子文が,緊密な協力関係のもとで貨幣制度 改革の基本計画を策定していた。この基本計画は,1935年9月21日に訪中したリース=ロスに も示され,その同意も得ることができ,それがさらに具体化されていった23)。
技術的な問題以上に決定的に重要であったことは,新たな貨幣制度を維持するために,外国 為替準備をどれだけ安定して確保するかであった。この点こそ,中国がアメリカに借款を求め,
リース=ロスもまた,日本,アメリカに借款供与の働きかけをした理由であった。
もう一つ重要な課題は,新通貨をどの国の通貨とリンクするかであったが,孔祥煕は,この 問題を未解決のまま残しておくべきと,リース=ロスに伝え,リース=ロスもまたポンドへの
↘だ好意的であったが,上海事変(1932年1月28日)以降,批判的になり,1936年の2・26事件によってそれ が批判は決定的になる。国際金融資本家の論理と日本の軍事の論理がかみあわず,日米の対立が予示され ている。
20)Sir Frederick Leith-Ross, [1968], p.195 21)Sir Frederick Leith-Ross, [1968], p.196
22)藤村欣市朗[1983],「貨幣は語る(49)」,26ページ。藤村欣市朗[1983],は,Sir Frederick Leith-Ross,
[1968]の翻訳とともに,当時の証言,資料類を利用して国際金融の状況を解説しており,貴重な内容にな っている。ただし,資料提供者への謝辞が文末にあるだけで,資料の詳細がわかるものとそうでないもの があり,翻訳と研究論文の中間的な体裁になっている。
23)Young, A. N., [1971], pp.229-230。ヤングは,1920年代にパリでドイツの賠償問題処理をリース=ロスと ともに行い,英米間の金融交渉ではお互いが交渉相手であったために,親しい間柄で,敬意をもっていた。
Young, A. N., [1971], p.230。
リンクを押しつけなかった。アメリカのモーゲンソウは,10月から11月にかけ,アメリカの銀 買い上げの条件として新通貨のドルへのリンクを強く求めた24)。
最終的に,外国為替準備資金は,アメリカへの銀の売却(1億オンス)によって実現するの であるが,アメリカは簡単に了解したわけではなかった。アメリカから派遣された中国の財政 金融顧問であったヤングは,つぎのように書き記している。
「モーゲンソウは受け入れるつもりであったが,「新しい財政通貨計画と資金の使い途」を まず知りたがっていた。彼は,リース=ロス使節団にも疑いの目をむけていた。孔祥煕は,11 月1日(金)に計画の概要と,可能なら週末に行動が必要であると電信で伝えた。計画が,「1 年間の熟考の末の最終仕上げであること」,そして「中英日ブロック協議の基礎でないこと」
を明らかに示すことこそ,孔祥煕の役割であった。」25)
アメリカの財務長官であったモーゲンソウは,慎重な態度をとり続けたが,最終的には中国 からの銀の買い上げを受け入れる。ヤングはつぎのように記している。
「モーゲンソウがアジアにおける日本の攻撃的な行動をきわめて強く嫌ったことが,彼がイ ギリスに抱いていた猜疑心を最終的には打ち負かした」26)。
だからといって,アメリカは,中国に深く関わって日本と対立関係に入ることを積極的に望 んでいたわけでもなかった。
「モーゲンソウは,この時期と1937年に戦争が始まってからも,役職についている期間はず っと,中国の指導者とその助言者たちに疑いの目を向け,中国の財政金融上の諸問題に関する 本当の性質を理解することができないという態度をとっていた。戦時中にモーゲンソウと連絡 をとった後でさえも,モーゲンソウの日記(Diaries)や他のアメリカの公文書類に残された 記録を読んだ後でさえも,私は彼の姿勢をほとんど理解できない。」27)
このようにヤングは,貨幣制度改革の現場責任者の一人として,アメリカ本国の政策決定権 に強い影響力をもっていたモーゲンソウに強い不満を持ち続けていた。
24)Young, A. N., [1971], pp.231-232. 25)Young, A. N., [1971], pp.234-235。 26)Young, A. N., [1971], p.236 27)Young, A. N., [1971], pp.236-237
最終的に,アメリカが中国に要求した新通貨をドルにリンクするという点を放置して,貨幣 制度改革は実行された。中国は,日本およびイギリスとの深い政治的経済的関係を考慮して,
通貨をドルにリンクすることはしなかったのである。アメリカは,中国の貨幣制度改革の主導 権をにぎろうと考えていたが,それを必ずしも果たすことはできなかった。しかし,中国がア メリカへ政治的経済的に深く関わる方向性が決定的になったのである。
1935年11月4日に実行された貨幣制度改革は,つぎの3点を基本としていた。紙券発行の集 中,銀の国有化,外国為替本位の採用である。孔祥煕財政部長はつぎのような声明を発表し た28)。
「1.銀の保有者は,保有銀一切を法定通貨紙幣と引き換えることを要求されるものとす。
2.銀貨による債務の支払いは,すべて同額(ノミナル・アマウント)の法廷紙幣によって なさるべきものとす。
3.中国ドルの為替価値は,現在の水準において安定されるものとす。そのために政府諸銀 行は,無制限に外国為替の売買に当たる。
4.中央銀行は,今後,中国中央準備銀行に改組さるべく,それは独立の金融機関となり国 家の通貨安定を主たる目的となす。
5.中国中央準備銀行は,一般商業上の業務を行わざるべく,2カ年の後,兌換券の発行を 確立独占するものとす。
6.中国,中央,交通三銀行発行の紙幣を法定通貨とす,しかして三銀行の準備金は一定の 統一的支配下に置く。」
この改革は大方の予想ではうまくいかないのではないかとみなされたが,逆にかなりの成功 を収めた。銀の国有化について,もっとも対立した態度をとったのは日本である。1936年1月 までに日本をのぞく外国銀行が保有している銀を中国に渡したにもかかわらず,日本だけはそ れを1937年春まで引き延ばしたのである。また,アメリカは,11月13日に銀購入を減額したと ころから元に戻し,追加購入した。貨幣制度改革の成功の原因は,中国内部の自立的動向とと もにアメリカの対中国政策の変化が底流にあったといえる29)。
次節では,イギリスの経済顧問リース=ロスの活動について,もう少し詳しくふれよう。と いうのも,彼の言動をフォローすることが,当時の日本,イギリス,中国の経済関係をうかび あがらせる上で,興味深いからである。
28)孔財政部長の声明全文(大蔵省外国為替管理部,昭和10年12月),ただし,藤村欣一朗[1983]「貨幣は 語る」(48)『国際金融』第709号,1983年8月号,94ページ,による。
29)伊豫谷登士翁[1977],80〜85ページ
3
.イギリスからの経済顧問サー・フレデリック・リース=ロスロンドン大学政治経済学院の名誉教授で日英関係史の泰斗,イアン・ニッシュは,つぎのよ うに書いている。
「サー・フレデリック・リース・ロスの使節団について言及すべきであろう。日本へ使節団 を送るという提案は,英国は中国に実質的な借款を与えるべきだという中国の提案があったの に対し,英国側がその件は米国と日本と相談しなければ決められないと返答したことから始ま った。英国政府の首席財政顧問リース・ロスはワシントンに立ち寄らずに,1935年9月に日本 に到着した。彼は1933年にロンドンで開かれた世界経済会議に出席したので,多くの日本人と 知り合いであった。中でもいま東京に戻っている松平(恒雄)とは特に親しい間柄であった。
松平の従兄弟松平慶民子爵は彼のオックスフォード時代の知己であった。」30)
松平恒雄は,1929年2月から1935年5月末まで6年半にわたり,日本の英国大使を勤めてい る。彼は1930年のロンドン海軍軍縮会議をはじめとし,国際連盟臨時総会,ロンドン世界経済 会議に日本代表として参加している。満州事変を契機として日本が国際連盟を脱退して以降,
イギリスの対日感情は悪化していったが,彼は大使として日英友好関係の維持に努め,日本側 のみならずイギリス側の評判も良かったという31)。
これは,イギリスがヨーロッパにおいて再軍備を開始したナチス・ドイツとの軍事的対立の 危険性に直面していたから,アジアにおいては日本との関係改善を望んでいたからでもある。
イギリスが日英関係改善を望んでいた徴候は,リース=ロスが中国の貨幣制度改革を援助する ために1935年に中国を訪れた際にも示されていた。リース=ロスは,イギリス大蔵省の高官で,
1932年のローザンヌ会議,1933年のロンドン世界経済会議の中心メンバーであり,国際経済・
金融問題の専門家であった。1935年9月に横浜を経由して中国を訪問していた。このときの大 蔵大臣ネヴィル・チェンバレンは,リース=ロス使節団を通じて,日本との宥和を図ろうとし た32)。
「イギリス帝国の内部に存在した政治的・経済的秩序を保護するために,脅威となり得る直 接の当事者との対立は回避し,帝国の外部や周辺部に存在する第三者に対しては協力者とすべ く働きかけるのではなく,妥協のための犠牲に供することによって対立者との合意を確保する
30)イアン・ニッシュ編(日英文化交流研究会訳)[2002],315ページ。
31)イアン・ニッシュ編(日英文化交流研究会訳)[2002],311ページ。
32)中村隆英[1993],165ページ。
というのが「宥和」という政策の根本にある発想であった。それは1930年代になっての帝国の 枠組みへの経済的依存の強化の中で生まれた,帝国を単位とした孤立主義であったといえるか もしれない。」33)
前節で述べたように,中国はアメリカの銀買い上げ政策によって銀価格が急上昇したために,
正貨である銀貨の流出がいちじるしく,不況におちいっていた。銀貨は,公的な輸出以外にも,
内外価格差による売却差益を求めて密輸出も多く行われていた。経済的な意味としては価格差 を利用した経済主体による裁定取引ということになるが,中国の当時の貨幣制度の根幹にあっ た銀貨を裁定取引することは,一般的な商品のそれとは経済全体に与える影響が根本的に異な っており,中国は早期に貨幣制度の混乱を調整する必要に迫られていた。
南京の中国国民党政権は,中国の貨幣制度を全面的に改革しようと企て,リース=ロス使節 団を招請したのである。リース=ロスは1935年9月に日本を訪れた際に,中国の貨幣制度改革 のためにイギリスと日本が共同して当たることを提案している。わざわざ日本に立ち寄ったの は,前述したイギリスと日本との融和策を探る意図もあった。満州国の成立を既成事実として 認めたうえ,中国の古くからの外債を処理するに当たり,満州国もその一部を公然と引き継い だらどうかとまで提案していたのである34)。
日本側は,高橋是清蔵相を中心とする国際金融の現実を理解しているグループはこの案に乗 り気であったとされるが,陸軍の強い要求もあって,外務省は中国と直接交渉する方針をかえ ず,リース=ロスの提案を最終的に拒否する。リース=ロス使節団は単独で中国の貨幣制度改 革を援助し,1935年11月に中国は銀本位制度を放棄して,管理通貨制度に移行した。新通貨を 維持するための信用はイギリスから与えられ,イギリスを後楯とする新しい貨幣制度が成立し た。結果的に,日本との交渉は不調に終ったが,イギリスが,この時期にはまだドイツとの軍 事的緊張関係を前提として,アジアにおける日本との関係修復を探っていたこともまた間違い ないであろう。
イギリスがこのような認識を示していたのは,駐英大使であった松平恒雄が,ロンドンから 日本に帰国する直前には日本の政治情勢についてきわめて楽観的な見通しをもって,軍部は影
33)益田実[2006]「第2次世界大戦とイギリス帝国」,69ページ。
34)中村隆英[1993],166ページ。木畑洋一,イアン・ニッシュ,細谷千博,田中孝彦編[2000],38ページ。
この評価をめぐって,日本政府がこのチャンスを利用しなかったことを批判する学者に対して,イギリス 側では,その可能性はほとんどなかったと明言している。木畑洋一,イアン・ニッシュ,細谷千博,田中 孝彦編[2000],39ページ,および,細谷千博編[1982]『日英関係史 1917-1949』東京大学出版会,69ペ ージ。また,Best A., [2001],は,イギリスの宥和政策があったにしても,アジア間貿易論者のように,
それを第2次世界大戦回避にまでつなげて理解するには難しいと厳しく批判している。イギリスの対日宥 和政策は,イギリスが対ドイツ政策で手一杯であり,それが中国において共同の利益をさぐろうとするイ ギリス金融資本の利害と一致したとみるべきであろう。
響力を失い,彼らは民間人の政府の統制に服しているとまで,リース=ロスに述べていたこと からでもある。リース=ロスは,松平恒雄が日本に帰国してからは,完全に意見を変え,使節 団に対する陸軍の態度について非常に神経質になっていことを明らかに感じとっていた35)。 6ヶ月におよぶ中国での調査を終えて,リース=ロスは再度,東京へ戻ろうとした。彼が,
粘り強く日英経済関係の協調を模索しようとしたからでもある。イギリスでは,彼の日本再訪 について,意見が対立する。リース=ロスの出身母体であった大蔵省は非常に好意的であった が,外務省は中国への借款供与の提案は中止すべきであり,リース=ロスは東京を再訪すべき でないという意見を繰り返し述べた36)。最終的に意見の相違が調整され,リース=ロスは6月 に東京への短期の訪問を承認され,「(例えば松平のように)英国との親交回復を真剣に望んで いる人たちによって,どの程度まで日本の政治が動かされているのか」を,まず第1に見極め ることになった」のである37)。この見極めのために,後述する覚書が日本の磯谷廉介少将に手 渡される。
リース=ロスは,松平恒雄と日本の外務省は英米との友好関係を維持することを強く望んで おり,中国との問題の解決を見出すべく努力しているが,彼が会った外務省の若手は軍部の計 画に強く共鳴しているように感じていた38)。
さて,リース=ロスは,1936年6月8日に,磯谷廉介陸軍少将につぎのような覚書を手渡し ている。そこでは日本の軍事行動を厳しく批判しているが,他方で,リース=ロスが英国と日 本が共通して認識でき,協調できると考えた,「日英両国の経済的権益の確保」と「共産主義 への対抗」という二つの課題を提示して説得を試みようとしていることが見てとれる。以下は,
その一部である39)。
「1936年6月8日にF.リース=ロス卿から磯谷陸軍少将へ手渡された覚書─中国における 日本の政策」
「極東における「安定要因」であるという日本の主張から考えて,私は,日本人が,中国の 財政経済状況を改善する建設的な提案に協力する用意があるだろうと期待していた。そのよう
35)Sir Frederick Leith-Ross, [1968], p.201,イアン・ニッシュ編(日英文化交流研究会訳)[2002],315〜 316ページ。
36)イアン・ニッシュ編(日英文化交流研究会訳)[2002],316ページ。
37) 2nd Series vol.10 no.506,イアン・ニッシュ編(日英文化交流研究 会訳)[2002]316ページ。
38)Sir Frederick Leith-Ross, [1968], p.221,イアン・ニッシュ編(日英文化交流研究会訳)[2002],316ペ ージ。
39)T188/122, - 8 1936.
な改善がなされた場合,たとえそれがどのようなものであったにせよ,日本の貿易上の利益に 確実に役立つだろう。その貿易上の利益とは,中国市場における拡大の中でも主要シェア割合 をかなり期待できるということである。不幸なことに,今日にいたるまで,日中間の政治的緊 張が,経済問題の考慮に暗い影を落とし,私が望んできた友好関係の構築を阻害してきた。
実際,中国が自国の財政経済状況を改善しようとして行ってきたさまざまな努力は,不幸に して,日本の軍部から露骨な反対を受けてきた。たとえば,昨年11月の通貨制度改革は,アメ リカの銀買い上げ政策が作りだした通貨危機に対処する当然で不可避の解決策であったが,さ まざまな批判によって公然と攻撃された。その批判のうち正当なものもあったが,多くはまっ たくの無知と偏見にもとづく告発であり,改革計画に対する信用を失墜させることに全力を注 いでいた。そのために,改革の成功は危機に瀕し,改革から期待されていた利益は,大部分が 無に帰した。
もしも日本政府がこの計画を支持してよいと感じ,それによって国際的な信用を喚起するこ とに関わっていてくれていたなら,中国の経済情勢はすべて急速に改善されて,日本の貿易に 大きな優位性を与えていただろう。もし日本が,通貨の完全なコントロールを保証するために 考案された理にかなった,諸条件の履行にもとづく支持を与えてくれていたら,われわれは問 題なく協力し合えたはずである。われわれの唯一の望みは,健全で効果的な政策を一般的な利 益に即して採用し遂行するのを保証することなのだから。日本政府が,考え直して,南京政府 のとった措置の有効性を認めてもいいと感じ,措置の完全な実施をわれわれと協力して援助す るようになることに,私はいまでも望みをつないでいる。
しかしながら,その一方で,北支においては日本陸軍当局の追求している政策は,大きな懸 念を引きおこしている。北支と平和で友好的な経済関係の確立を確かなものにしたいという日 本側の希望はまったくもってよく理解できるし,その目的に誰も反対しないだろう。しかし,
遂行されている実際の政策によって,それが達成されるかどうかは,私は疑わしいと思う。」
この後,リース=ロスは,冀察委員会の行政官たちがいかに無能で腐敗しているかを指摘し,
密輸を日本陸軍が黙認していること,場合によっては奨励しているかのようになっていること によって,中国に多大な悪影響をもたらし,日本の貿易にとっても少ししか利益につながって いないことを指摘している。これは,中国国民党政府(南京政府)の財政収入の基礎が関税収 入(海関収入)であり,それが円滑に徴収されないことは中国財政の行き詰まりをもたらす可 能性とともに,イギリスの投資の担保が不安定になることを意味していたから,とくに,リー ス=ロスが強調したと考えられる。
「中国の信用は,対外的なものも対内的なものも両方とも,海関収入の持続に依存しており,
この収入の基礎を掘り崩す行動はどんなものでも中国の安定性を掘り崩す危険性がある。もし
沿海諸省の地方政府が関税収入(完全な税率によるか自分で決めた特別税率によるかを問わず)
を横領することが奨励されることにでもなれば,南京政府は,借入金の担保として提供しなけ ればならない主要財源を奪われ,ついには中国のすべての政治システムを解体させるにいたる ことが明確な財政破綻につながるだろう。政治的な観点から,日本が,中国の分裂およびこの 広大な国に組織された政府の破壊から利益を得ることができるかどうかは,私には何とも言え ないけれども,それがあった場合は,ただちに共産主義が広範に拡大すると私には思えるし,
それが日本の利益になるとは私にはとうてい考えられない。私にわかっていることは,経済的 観点から見て,このような政策は,中国におけるあらゆる貿易活動に障害をもたらすだけであ るということである。もしも日本が,政治的理由から,このような方法で自らの貿易を犠牲に することを望んでいるのならば,外国の諸列強もまた,その重要な商業上金融上の利益が失わ れることになるから,そうした状況の前途に無関心でいるとは予想することはできないであろう。
日本の政策の方向性を修正するか,明確にすることは,いまでもまだ可能ではないのだろう か。昨年の9月に私が東京にいたとき,私は日本が中国と友好的に和解するかわりに政治的財 政的な補償を提供する用意があるとの保証を得た。日本政府としては,そのような和解の一歩 として,中国政府にこれらの可能性について何らかの意思表示をすることはできないのだろう か。」
日本の陸軍当局が密輸を黙認していることは,結局のところ,南京政府(中国国民党政府)
を弱体化させ,それは中国において共産党の活動を助長することになることを指摘している。
共産党の拡大を危惧しているのは,イデオロギー的な反対だけでなく,それによって経済的利 益が失われることが何より恐れられていると見るべきであろう。それゆえ,リース=ロスは,
最後に,つぎのような5つの問いを日本陸軍の幹部に発する。
「①日本政府は,中国の通貨の安定化が,中国との貿易利益にとって望ましいということに 同意するのか。もし同意するなら,なぜ日本政府は,貨幣制度改革の成功を確実にするために,
われわれと協力しないのか。もし同意しないのなら,日本政府は,貨幣制度が崩壊した場合に,
何の優位性を見ているのか。
②日本も知っているように,中国は鉄道網を発展させ,農業人口の状態を改善する目的で資 本を必要としている。それなのになぜ,日本は,提供される担保さえ充分であれば投資に利用 できる資本をもっている英国の援助を歓迎しようとしないのか。
③もし日本政府が,中国における共産主義を壊滅させたいと望んでいるならば,なぜ日本政 府は,南京政府を妨害するのではなく支持しないのか。南京政府はそれ自体が,中国の共産主 義者に対する主要な防波堤たることを示してきた。
④「中国の統一,領土の保全と秩序の回復」を促進することが,今なお日本の政策ではない