• 検索結果がありません。

論文の内容の要旨

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "論文の内容の要旨"

Copied!
2
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

論文の内容の要旨

氏名:舟

博士の専攻分野の名称:博士(文学)

論文題名:昭和天皇「皇室外交」の政治外交史的研究 1964—1975

敗戦後、大日本帝国憲法の下で「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」した天皇は、日本国憲法の施行により

「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」となった。戦後の天皇制は、いわゆる「象徴天皇制」として 成立したが、それが立憲君主制なのか、あるいは共和制なのか、「象徴」とは何を意味し、「元首」とは 誰であるのか、など日本国憲法第一条(天皇条項)に曖昧さを有し、国家形態に根本的な問題を抱えたま ま再出発した。

従来、象徴天皇制に関する政治史研究は、戦後の天皇制と保守政治の関係を通史的に検証し、戦後の支 配構造の中での天皇制の位置や役割を解明したが、近年は象徴天皇制という制度や概念の歴史的展開に着 目し、広くその構造を捉えようとする新たな研究が現れ、1950年代まで検証が進展している。

そのなかで1950年代の象徴天皇制の定着過程に関する政治史研究は、保守勢力と社会主義勢力の天皇観 の変遷を分析し、不完全な体制がいかに形成し定着したかを検証した。その結論は、1960年代前半、君主 制を志向する保守勢力と、共和制を志向する社会主義勢力のせめぎ合いの中で共通の見解なく、曖昧な制 度として象徴天皇制が定着したというものであった。だが、象徴天皇制容認で一致したものの、その解釈 に明確な差異を残した各勢力の天皇観が、次の展開にいかに影響したのかを検証せずにとどまった。1970 年代の政治史は、保革対立が先鋭化し、それが各勢力の天皇観や憲法解釈・運用に作用したと考えられ、

60年代前半以降の展開過程についての本格的な検証は必要といえる。

それ以降の象徴天皇制に関する政治史研究は、保守政権による天皇利用という分析視角で論じられたが、

近年の研究をふまえれば、戦後保守勢力の志向の延長として捉え直す必要がある。また保守政権に対抗し た左派勢力、すなわち象徴天皇制を容認した日本社会党、それを認めない日本共産党の天皇観の検証は欠 かせない。このほか1970年代の象徴天皇制に外交君主としての機能を捉えた研究があるが、こうした君主 化のプロセスがいかになされたのか、また70年代前半の保革対立がどう作用したのかの検証を欠くもので あった。

こうした先行研究の問題点を解決する手がかりは、昭和天皇の「皇室外交」にあると考える。先行研究 もまた「皇室外交」を象徴天皇制の展開に位置づけたが、その問題点は先述した通りであり、「皇室外交」

をめぐる各政治勢力の天皇観の分析は、1960年代前半以降の象徴天皇制展開の解明に資するものといえる。

他の研究には、「皇室外交」を天皇の対外的な「元首」化として論じるものがあるが、史料的な制約もあ り、その政策決定過程や政治過程を通して実証的に検証したものは、ほとんどない。一方、近年は日英、

日米の公文書を用い、「皇室外交」を分析する研究が多々みられ、その成果をふまえつつ、相手国の政治 的思惑が象徴天皇制の展開にどう影響したのかを検証する。また本論文は、制度としての象徴天皇制と関 連し、「日本国の象徴」である昭和天皇個人の問題、すなわち戦争責任問題にも着目する。昭和天皇の外 遊をめぐり戦争責任問題をいかに解消していくのか、同時に相手国側の認識や思惑についても考察する。

以上から、本論文では、昭和天皇の「皇室外交」の形成と展開を政治外交史的に分析し、1960年代前半 に定着の画期を迎えた象徴天皇制が、70年代前半にかけてどう展開したのか、それが国内外の天皇観にど のような意味を持ったのかを考察し、戦後日本における象徴天皇制の展開過程について解明することを課 題とする。

第一章「戦後の昭和天皇外遊構想」は、戦後保守政権の昭和天皇外遊構想を検証した。池田政権は1964 年に天皇外遊を可能とする法制化を進め、将来の天皇外遊実現の基盤を作った。続く佐藤政権は1969年の 外務省内の天皇訪米構想を経て、70年以降、天皇外遊の先例化を第一義とし、戦後初の天皇外遊として訪 欧を決断した。以上、保守政権は、天皇外遊の法制化と政策化を推進し、天皇の「元首」化を軸とする象 徴天皇制の立憲君主制化の定着に向けて着手したのであった。

1

(2)

第二章「1971年の昭和天皇訪欧の外交史」は、戦後初の昭和天皇外遊の政策決定過程を検証し、その歴 史的意義を明らかにした。佐藤政権は戦後初の天皇外遊を実施、運用面から天皇の「元首」化を押し進め、

象徴天皇制を展開させた。日本政府は答礼・交換訪問を大義名分とし、非政治的な儀礼訪問を徹底させた。

ヨーロッパ諸国は天皇を「元首」とみなし厚く待遇したが、その反面、ヨーロッパ諸国の人びとは戦前の

「国家元首」であった天皇に抗議し、戦争責任を質したのであった。このように天皇訪欧は、天皇の戦争 責任問題を顕在化させた。だが保守政権は、天皇外遊の先例化を達成すると同時に、海外における天皇の 戦争責任論を解消させる必要性を知る機会となった。まさに天皇訪欧は、佐藤栄作首相が志向した天皇外 遊の前例をつくるための政策であった。

第三章「昭和天皇訪米問題の政治力学―1971〜1974」は、1971年の天皇訪米始動から74年のフォード大 統領訪日までを分析対象とした。天皇訪米問題は、日米両国の思惑が交錯するなかで始動した。その構造 は、天皇訪米を望む日本政府に対し、アメリカ政府が応じるというものであった。佐藤首相は天皇訪米を 構想し、ニクソン政権はその期待に応えることで米日関係の急速な悪化を防ごうとした。こうした日米間 の構造は、次の政権でも変らず、田中角栄内閣は外務省主導で天皇訪米を推進し、1973年秋の訪米をアメ リカ政府と内々に合意した。だが田中内閣の姿勢は、宮内庁との閣内不一致を招き、さらに野党の社共両 党が反対を表明し、政治問題となってしまった。田中首相は天皇外遊を皇室の決定事項とする憲法解釈・

運用を表明し、野党の追及回避に徹した。これに対し社会党は内閣に天皇外遊の意思決定の明確化を迫る が、象徴天皇制を肯定し保守政権の政治利用を追及する過程で、立憲君主制的な憲法解釈・運用を是とし た。一方、共産党は天皇訪米を違憲とみなし、一貫して反対論を展開した。国論が二分するなか、1973 の天皇訪米は昭和天皇の決定により中止となるが、田中首相は日米首脳会談で早期訪米に再び合意をとり つけた。だが内閣・外務省の失策が重なり、天皇訪米は白紙に戻ってしまい、フォード大統領の訪日によ り近い時期の天皇訪米を決まったが、政治力を失った田中首相は在任中の天皇訪米を断念したのであった。

第四章「1975年の昭和天皇訪米の外交史」は、1975年秋における昭和天皇初の訪米を検証した。三木政 権は、天皇訪米の決定にあくまで慎重路線をとり、国内外の政治日程を考慮し、天皇を政治に巻き込むこ とを徹底して回避した。訪米を決定した三木武夫内閣は、天皇訪米の準備において、天皇の戦争責任をめ ぐる政策に注力した。一方、フォード政権は天皇訪米を米日関係の強化につなげるため、他国の元首にみ せない厚遇を天皇に用意する方針をとった。こうした日米双方の政治目的は、天皇訪米を概ね成功に導い た。だが日本国内は、「開かれた皇室」を期待するメディア報道が相次ぎ、天皇皇后初の共同記者会見の 場で、天皇の戦争観を質す質問がなされるなど、天皇訪米の思わぬ影響が生じることとなった。

以上、「皇室外交」、主に天皇訪米問題は、保守政権と左派勢力の対抗のなかに天皇・宮内庁を巻き込 みながら展開する各政治勢力の天皇観をめぐる相克であった。保守政権は天皇に実質的な決定権を与える 憲法運用を表明し、象徴規定を「元首」とする解釈を一層定着させた。一方、社会党は護憲の党として象 徴天皇制の肯定を鮮明化し、保守政権に憲法運用の明確化を迫り容認していった。それは、社会党が象徴 天皇制を立憲君主制的に解釈・運用することを是としたことを意味した。以上、象徴天皇制は、1970年代 前半の政治的な文脈のなかに深く浸透し、「皇室外交」の推進をめぐる保守政権と左派勢力の対立を通じ、

「国家元首」である天皇を有す立憲君主制として事実上制度的に定着したのであった。

戦後日本の象徴天皇制は、立憲君主制なのか共和制なのか、「元首」は天皇なのか首相なのか、など国 家形態に曖昧さを有す不完全な制度として出発し、1950年代に各政治勢力の共通の見解なく定着した。し かし、1960年代前半以降の象徴天皇制の展開過程では、昭和天皇の「皇室外交」をめぐって保守政権は天 皇の「元首」化を推進し、社会党も立憲君主制的な憲法解釈を是とした。各勢力は、積極的である消極的 であろうが、象徴天皇制を立憲君主制的に解釈・運用することで一致したのであった。一方、欧米諸国も また天皇外遊を重視し、自国の利益のために天皇を日本国の「元首」をみなし厚遇した。それは、海外に おける天皇の「元首」化の定着を意味するものであった。すなわち戦後日本の象徴天皇制は、曖昧な制度 としての定着に終わらず、その展開過程における昭和天皇「皇室外交」の推進により、対外的な「元首」

天皇を有す立憲君主制として制度的に定着したのであった。しかし、天皇訪米を契機とした国内における 天皇の戦争責任論の動向は、さらなる天皇外遊の継続を困難なものとした。それは、天皇訪米による「皇 室外交」の展開が、象徴天皇制展開の障害となったことを意味するものであった。すなわち象徴天皇制は、

天皇の戦争責任問題という負の面を内在したまま制度上定着したのであった。

2

参照

関連したドキュメント

医師の卒後臨床研修が努力義務に過ぎなかっ た従来の医師養成の過程では,臨床現場の医師 の大多数は,

被祝賀者エーラーはへその箸『違法行為における客観的目的要素』二九五九年)において主観的正当化要素の問題をも論じ、その内容についての有益な熟考を含んでいる。もっとも、彼の議論はシュペンデルに近

題護の象徴でありながら︑その人物に関する詳細はことごとく省か

第四。政治上の民本主義。自己が自己を統治することは、すべての人の権利である

笹川平和財団・海洋政策研究所では、持続可能な社会の実現に向けて必要な海洋政策に関する研究と して、2019 年度より

に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの

①配慮義務の内容として︑どの程度の措置をとる必要があるかについては︑粘り強い議論が行なわれた︒メンガー

法制史研究の立場から古代法と近代法とを比較する場合には,幾多の特徴