論証のはじまり―酒井健太朗氏『アリストテレスの 知識論』について―
著者 松浦 和也
雑誌名 国際哲学研究
巻 11
ページ 21‑27
発行年 2022‑02
URL http://doi.org/10.34428/00013297
論証のはじまり
―酒井健太朗氏『アリストテレスの知識論』について―
松浦 和也
0.はじめに
世の中には妥当な議論とそうでない議論がある。そして、ある議論が妥当であるか否かが問わ れるとき、その議論が持つ前提と、その議論が基づく論法にその判定基準が求められることがあ る。そのような判定基準を、歴史的に早い段階で提示したのはおそらくアリストテレスである。
アリストテレスは哲学者の中でも指折りの方法論者であろう。事実、彼のいわゆるオルガノン 的著作群、中でも『分析論後書』(以下、『後書』)は考察方法そのものを扱うものである。また、
そこで展開される方法論に加えて、『魂について』第1巻第1章をはじめとした他の著作でも、彼 は実際の考察に先立って考察方法を述べ上げることもある。とはいえ、彼の考察方法を全体的に 把握することは一筋縄ではいかない。たとえば、「通念」(エンドクサ)または「現れ」(パイノメ ナ)の方法、「論理的」(ロギコース)考察と「自然(学)的」(ピュシコース)考察の区別といっ た多様な方法を彼は提示しているからである。
このように、方法論者としてのアリストテレス像から『後書』を見ると、ひとつの問いが浮か ぶ。『後書』が論証的科学の方法に関する著作であることに異論をはさむ者はほとんどいない 1。 だが、『後書』自体はどのような方法に基づいているのだろうか。
『後書』で展開される議論が、ギリシア古典期までに知られた科学的知見に基づいていること は明らかである2。数学、算術、幾何学への参照。それらの事例3。有名な月蝕の事例をはじめと した天文学や気象学的知見。このような科学的知見への言及やこれを通じた説明が『後書』には 散見される 4。ただし、『後書』が単なる事例の寄せ集めではないこともはっきりしている。アリ ストテレスはこれらの事例から論証的科学というタイプの学の構造を普遍的な形で露にしようと しているからである。とは言え、この普遍化を通じて彼が何を成し遂げたかったかが不明瞭であ ることが、酒井健太郎氏が『アリストテレスの知識論―「分析論後書」の統一的解釈の試み―』
(以下、『知識論』と表記)の冒頭で挙げるような見解の相違を生んでいる5。
『後書』の意図を把握するためには、おそらく、『後書』自体の方法の解明が糸口のひとつであ ろう。だが、その解明には『後書』全体の検討が必須であり、この作業をここで展開することは 荷が重い。その代わりに解明に向けた一助として、そもそもアリストテレスが論証的科学と見な していた事例がある、という事実に着目し、そのような科学の始まりを扱う『知識論』第3章の 解釈を検討しよう。
この検討の中で、本論は『知識論』が提示した理解とは異なる読み筋の可能性を提示すること になるが、その検討は結果としてアリストテレス解釈の方法の差異を浮上させることになる。
1.学的探究のアルケー
便宜のために、
T13
と表記される『分析論後書』第1巻第2章72a18-24
に与えた『知識論』の 訳を引用しよう。(『知識論』訳中のギリシア語は割愛した)。T13
:措定のうちの或るものは矛盾対立のどちらか一方を容認するものであり(つまり私は「或 るものがある」とか「或るものがあらぬ」を意味している)、それは基礎措定である。他方、[措定のうちの]こうしたことのない別のものは定義である。つまり、定義は措定であるが
(というのも、数学者は「単位」を「量において分割を許さぬもの」と措定するからである)、 基礎措定ではない。というのも、「単位は何であるか」ということと「単位がある」というこ とは同じことではないからである6。
以上の
T13
では、基礎措定と定義の区分が導入される。ただし、その区分の実質は、「単位」(μονάς) という例が挙げられているにもかかわらず、明晰ではない。したがって、『後書』の解釈者には以 下の課題が与えられることになる。1)
基礎措定と定義の差異は何か。2)
基礎措定を表す「或るものがある」(τὸ εἶναί τι)は存在命題か、述定命題か。3) T13
の「定義」はいかなる身分か。4)
基礎措定と定義は論証にどのように関わるのか。これらの課題は入り混じっている。とはいえ、解釈のための手順としては、『知識論』が採用して いるように、まず
2)
と3)
を確定させ、次に1)
を確定させ、最後に4)
を確定させる、というものが 適切だと思われる。それぞれの課題に対する『知識論』の立場を確認しておこう。
1)
基礎措定は論証の対象の存在に関する措定であり 7、定義は論証の対象の意味に関する措 定である8。2)
基礎措定を表す「或るものがある」は存在命題である。3)
定義は意味了解である。4)
基礎措定は論証の対象が存在することを措定し、この措定を基に論証の対象の定義から論 証が始まる。以上の立場のそれぞれを、
4)
、3)
、2)
の順に見ていくことにしよう。2.検証
2.1
基礎措定と定義が相補的?『知識論』の強い主張のひとつは、基礎措定と定義が相補的であるということである。論証的 科学は何らかの対象を要請するが、(たとえば、幾何学は「点」や「線」を要請するが)、その対象
X
の基礎措定がX
の存在を確証し、X
の定義あるいは意味がX
の内実を与える。この両者のプロ セスは、どちらかが優先するというわけではなく、いわば一体となっている。なるほど、両者を相補的に捉えるべき理由はいくつか想定できる。第一に、この意味での
X
の 基礎措定がX
の定義よりも先んずるように思われるのは、アリストテレスが存在しないものにそ の定義はないと考えているからである。第二に、この意味、すなわち意味了解としてのX
の定義 がX
の基礎措定よりも先んずるように思われるのは、X
の指示対象が分からなければ、X
の存在 の有無を確かめようがないからである。われわれは、プラトン『メノン』の探求のパラドックス のように、「何が点か分からないのに、いったいどうやってそれが点であるか否かが分かるのか」と問うこともできる。もし、この問いに端的に肯定的に答えてしまえば、ある対象
S
(たとえば、幽霊)について何も分かっていなくても、
S
が存在すると措定することが許されることになる。だ が、この考えは奇妙であるし、そうすることによって新たな論証が生じたとしても、その営みが 生産的であることもないだろう。したがって、X
の基礎措定とX
の定義は、どちらかが先んずる ことはないのかもしれない。しかしながら、基礎措定と論証が相補的だとしたら、そもそも両者を分ける必要がアリストテ レスにあったのだろうか。仮にそうだとしたら、『後書』第1章に該当する議論があってよいはず である。しかし、そのような議論は『後書』に見当たらない。また、『知識論』は実のところ、両 者を相補的とみなす根拠を積極的に提示しているわけでもない。
おそらく『知識論』が、(存在に関わる)基礎措定と定義を分けた根拠の一つは、『後書』第2巻 で、アリストテレスが両者を分けていることにあると思われる。だが、
T13
およびT13
を含む『後 書』第1巻における定義が論証的科学における探求の対象ではなく、措定の下位分類のひとつで あり、意味了解としての定義であるならば、『後書』第2巻の区分を遡って適用させる必然性は希 薄ではないだろうか。また、『知識論』の4)
に対する応答は、基礎措定と定義は共にどちらも同一 の対象に関わり、かつ、そのような基礎措定と定義の両方が、ひとつの論証的科学(たとえば幾 何学)に必要である、という読解の暗黙の想定に支えられているように思われる。もちろん、T13
中で言及される「単位」の語はわれわれをそのような想定に導くかもしれない。しかし、この想 定は正当化されたのだろうか9。2.2
意味了解としての定義?『知識論』が認めるように、『後書』の「定義」にはおそらく2つのタイプがある。すなわち、
論証によって明らかにされる定義と、措定の下位分類としての定義であり、
T13
で表明されてい た定義である。この種の定義を『知識論』は意味了解の定義と説明する。だが、この説明には『後書』のテキストとの齟齬がある。その齟齬をはっきりさせるために、
『知識論』が
T13
における定義を「厳密な定義より弱い」と表現していることから始めよう10。 この「弱い」という表現はいささか不用心だと思われる。『知識論』は、『後書』第2巻第8章を 典拠に、論証を通じてX
の「何であるか」を示すタイプの定義を「厳密な定義」としている11。 だが、この厳密な定義は、ある意味では、意味了解の定義よりも弱い..。なぜなら、論証の帰結と してもたらされる定義(たとえば二等辺三角形)の妥当性は、論証の出発点たる措定(たとえば 点や面)の妥当性に依拠しているはずだからである。仮に、点や面の意味了解が異なっていたと したら、二等辺三角形の定義は異なる形で与えられるか、もしかすると内部矛盾が発生し 12、定 義を与えることすらできないかもしれない。それゆえ、厳密な定義は、少なくとも意味了解とし ての定義と同程度に弱い..
。
そして、このように厳密な定義の妥当性は意味了解の妥当性に依拠すると認めたならば、さら に疑問が生じる。すなわち、
T13
の定義は意味了解であり、定義対象を適切に指示できているか にあまり配慮せずともよいほど弱い..定義であるならば、同じ定義対象にその定義以外の定義を与 えられる可能性は相当開かれていることになる。しかしながら、
T13
でアリストテレスは、基礎 措定を「矛盾対立のどちらか一方を容認するもの」としている。それゆえ、意味了解の定義は矛 盾対立の一方を容認する余地を残さない、一義的な命題であるはずである。また、基礎措定との対比で
T13
との定義を捉えたとき、以下の『後書』の記述も『知識論』の 解釈とのずれを示唆する。もし、第一の事柄(τὰ πρῶτα)を知ることができないのであれば、その第一の事柄から生じた
ことの知識を得ることは、端的な意味でも、本来の意味でもできない。むしろ「もしそのこ とがあるとすれば」という基礎措定から生じた知識だけである。(An. Post. I 3. 72b13-15)
第一の事柄から生じたことの知識を得ることが可能なのは、その第一の事柄を知っている場合に 限られる。だが、その第一の事柄を知ることはできない。ただ、基礎措定から生じたことの知識 を得ることができるのみである。
アリストテレスはこの論点で、あらゆる知識は論証によって得られる、という一種の知識の基 礎づけ主義を紹介するが 13、直後にこの立場に対して、あらゆる知識が論証によってもたらされ るわけではない、と主張することになる 14。しかし、注意を喚起しておきたいことは、ここで彼 は「定義」とは言っていないことである。「もしそのことがあるとすれば」という表現は、(もち ろん、これが存在命題か、述定命題かはここからでは判明ではないが)、
X
に関する基礎措定が別 様でもありうる、ということを示唆する。しかしながら、T13
の定義が『知識論』の言うように意 味了解の定義であるなら、ここでアリストテレスは「定義」と表して良かったであろう。もちろん、基礎措定であれ、意味了解の定義であれ、措定とは、ひとりひとりの専門家が論証 的科学を始めるための根源的なコミットメントである、と答えることもできるだろう。(それが意 味了解..
という表現を『知識論』が選んでいる理由のひとつだと思われる)。だが、そもそも、厳密 ではなく、他の意味も選択しうる定義から論証を始めることは、『後書』において彼が想定してい る事例と適合するのだろうか。
2.3
基礎措定は存在命題か?以上の疑念が生じる根源は、『知識論』が支持する
T13
の基礎措定の理解にあると思われる。『知 識論』は、基礎措定を表す「或るものがある」を「X
が存在する」という形式であらわされる存在 命題と解する。だが、『知識論』がこの理解を十分に正当化できているとは言い難い。Gomez-Lobo
は「或るものがある」を述定命題と解する解釈を提示しているが15、この解釈に対する『知識論』の反論は弱い。
第一の反論は、
Gomez-Lobo
が挙げた『後書』第1巻第10章76b39-77a3
における例が16、アリ ストテレスの考える基礎措定ではない、というものである17。たしかに、「直線とはここに...描かれ た線である」ことは一種の措定ではありうるかもしれないが、論証の始まりに据えられる措定で はない。しかし、このことが示すことは、述定命題の主語(と述語)は個物ではない、ということ までが精々であって、基礎措定が述定命題の形式を採らないということまでは正当化できない18。
第二の反論は、基礎措定の表現形式としてアリストテレスが述べているτὸ εἶναί τιが、「或るも のについて他のものを肯定する」や「或るものから他のものを否定する」を示しうることが不明 瞭だというものである 19。しかし、これらのことを示しえない根拠を『知識論』は述べていない どころか、かえってこの論点は『知識論』の解釈にとっては諸刃の刃になりうる。
T13
に対する『知識論』の基本的態度のひとつは、基礎措定であれ、定義であれ、措定は論証の 始まりにおいて役割を果たす、ということである。さらに、もうひとつの態度は、『後書』第2巻 で与えられた問いの区別と順序におそらく従って、存在しないものの定義はない、というもので ある。そうだとすると、疑問が生じる。T13
の「或るものがあらぬ...」(τὸ μὴ εἶναί τι)は何のことだ ろうか。
普通に考えれば、「或るものがある..
」が存在命題であるならば、「或るものがあ. らぬ..
」は存在命 題でありかつ否定命題である。なぜなら、両命題は矛盾するはずであり、互いに排他的であるべ きだからである。しかし、このように「或るものがあらぬ...
」を「対象
X
は存在しない」という命 題と捉え、論証の始まりに据えることは、少なくとも2つの矛盾を『知識論』の解釈に生む。第一に、存在しないものの定義を認めねばならなくなる。もちろん、
T13
の定義を名目的定義 とし、その定義対象の存在非存在には関わらないと捉えるのであれば、この問題は生じない。し かしながら、『知識論』のように、意味了解としての定義と、基礎措定を相補的に捉えるのであれ ば、この種の定義も対象の存在非存在に関わることになる。さらに重要なことに、『知識論』の解 釈に即せば、基礎措定が否定命題であっても、意味了解としての定義を与えることが許されるこ とになる。だが、『知識論』は、定義があるのは存在する対象のみである、という立場を堅持して いる20。第二に、論証的推論における基礎措定の役割がほとんど無意味になる。仮に、「点は存在しない」
と基礎措定を据えたとしよう。だが、そうだとしても、意味了解としての点の定義を与えること は可能なのだから、そこから論証的推論を進め、幾何学を構築することもできるはずである。し かしながら、『後書』第2巻の論述を見る限り、アリストテレスは存在しない対象に関する論証的 知識が成立するとは考えていないと思われる。
そこで、改めて確認しなければならないのは、基礎措定と定義の差異である。
T13
に従う限り、両者の違いは、基礎措定は矛盾対立のどちらか一方を容認するが、定義はそのようなものではな い、ということにある。もし、『知識論』の理解が正しければ、定義こそが(それは意味了解であ り、別の意味である可能性もあるのだから)矛盾対立のどちらか一方を容認する措定であり、基 礎措定こそが矛盾対立がありえない措定だと、アリストテレスは述べていなければならない。
それでもなお基礎措定を存在命題と見なそうとするならば、最低限、「矛盾対立のどちらか一方 を容認する」ことがいかなることかを説明しなければならないだろう。だが、繰り返しになるが、
おそらく存在命題「対象
X
が存在する」と矛盾する存在命題は「対象X
が存在しない」である。そして、存在しないものに関する議論は、残念ながら『後書』にほとんど見られない。
別の観点から、もうひとつ疑念を提起しておこう。『知識論』は基礎措定すなわちὑπόθεσιςを存 在命題と解するが、この語が示す命題が明らかに存在命題であると認められるような用例は残さ れているのだろうか。アリストテレスも『後書』で言及するプラトン『メノン』で導入された
ὑπόθεσις は、「徳が知識とは異なった性格であるとすれば」21あるいは、「徳が一種の知識ならば」
22というものであった。これらのὑπόθεσιςは存在命題とは見なしがたい23。
3. 『後書』の方法に向けて
『後書』の基礎措定が存在命題である、という『知識論』の解釈は、まだまだ検討の余地があ りそうである。とは言え、以上の批判を躱せるような、おそらく最も強力で、ともすると劇薬か もしれない読解姿勢をわれわれは採ることもできる。すなわち、『後書』をアリストテレスは、既 存の論証的科学とは別個にこのタイプの基礎理論を作り上げ、そこに用いる用語ですら一から創 造したのだ、という姿勢である。
もちろん、この読解姿勢を全面的に採用する解釈者はいないだろう。だが、『後書』が既存の論 証的科学からどの程度の距離を採っているのかという問いは、アリストテレスの読者であるわれ われが真剣に向かっていってもよいかもしれない。『後書』は、それまでのギリシア人哲学者たち が積み上げてきた論証的科学の単なる分析に過ぎないのか。それとも、学の理想的な手続きとあ り方を広く訴えかける教育的効用を目論んだ著作あるいは講義録なのか。思うに、現代のわれわ れひとりひとりがアリストテレスに向かうときに心に秘めたὑπόθεσιςが、『後書』の異なる意義を 映し出すのであろう。
※本研究は
JSPS00118070707
、科研費JP20K12790
の助成を受けたものです。註
1 山本光雄, 井上忠, 加藤信朗(訳). (1971). 『アリストテレス全集1 カテゴリー論・命題論・分析論前書・
分析論後書』, 岩波書店. pp. 837–840
2 もっとも明示的なのは、『後書』冒頭であろう。「学のうち、数学的な学問や、他の技術のそれぞれは、このよ うな方法を通じて生まれる」(An. Post. I 1, 71a3–4)。
3 An. Post., I 1, 71a19–21. 71a33–b5. I 2, 71b26. I 4, 73a35. 73a38–40. 73b20–21. 73b29–74a3. I 5, 74a13–20. 74a25–b4. I 7, 75b3–6. 75b13–19. I 8, 75b40. I 9. 76a6. 76a23–25. I 10, 76a34–36. 76a40–41. 76b3–11. 76b39–77a3. I 12, 77b6–15.
77b27–33. I 14, 79a18–21. I 22, 84a14–25. I 23, 84b6–9. I 24, 85a27–28. 85b5–18. 85b38–86a3. 86a23–30. I 31, 87b35–
37. II 2, 90a12–23. ΙΙ 3, 90b32–33. 91a3–4. II 7, 91b15–18. II 8, 92s34–35. II 9, 92b2. II 11, 27–34. II 17, 99a19–21.
4 An. Post., I 8, 75b34–36. I 1b3, 78a31–b11. I 31, 87b38–88a6. I 34, 89b11–20. II 1, 29–31. II 2, 90a2–5. 90a12–23. II 8, 92a30–33. 92a37–b14. II 12, 95a14–16. II 16, 98a35–98b24.
5 酒井健太郎. (2020). 『アリストテレスの知識論―「分析論後書」の統一的解釈の試み』, 九州大学出版会. pp.
4–5.
6 酒井, p. 64.
7 酒井, pp. 65–67.
8 酒井, pp. 73–74.
9 少なくとも、基礎措定の主語と、定義の主語には形式上違いがある。「さらに、あらゆる要請および基礎定立 は、全体であるか、部分であるかのどちらかである。他方、定義はこれらのどちらでもない」。(An. Post. I 10.
77a3–4.)
10 酒井, p. 74.
11 酒井, p. 74.
12 このことは、二等辺三角形は存在しない、という帰結と等しいであろう。
13 An. Post. I 3, 72b11–13.
14 An. Post. I 3, 72b18–20.
15 Gomez–Lobo, A. (1997). ‘Aristotle’s Hypotheses and the Euclidean Postulate’. Review of Metaphysics 30, pp. 435–436.
16 「幾何学者は偽を措定しているわけではない。だが、そう主張する人がいる。その人が言うには、幾何学者は 偽を用いるべきではないのに、偽を語る。たとえば、1プースではないものを1プースであると語ったり、真 っすぐではない描かれた線を真っすぐだと言ったりする。だが、幾何学者は、自身が線と呼んだものが何かこ のようなものであることによって結論を導出するのではなく、これらのものを通じて明らかになったことを結 論として導出する。」
17 酒井, p. 67.
18 Gomes–Loboの基礎措定解釈に対するLandorの批判(Landor, B. (1981). ‘Definitions and Hypotheses in Posterior Analytics 72a19–25 and 76b35–77a4’, Phronesis 26, p. 318)は、基礎措定の主語(と述語)は普遍なものであるべ きだ、という理解に基づく。この批判自体は妥当であるが、それでもこの批判を典拠にして、基礎措定が述定 命題の形式を採らない、ということまでは主張できない。
19 酒井, p. 67.
20 酒井 pp. 72–73.
21 Meno, 87B.
22 Meno, 87C.
23 プラトン『パルメニデス』には存在命題として解しうるὑπόθεσιςを見つけることができる。たとえば、「多が あるならば」(Parm. 136A)、「1があるならば」(Parm. 142B)、「1があらぬならば」(Parm. 160B)などである。
ただし、これらの用例を純粋な存在命題として解しうるかは検討が必要である。また、そもそも『パルメニデ ス』で展開される議論は論証的科学の具体事例とは見なしがたい。