妖怪学講義 : 教育学部門 : 雑部門
著者名(日) 井上 円了[講述], 根本 和一郎[筆記]
雑誌名 井上円了選集
巻 18
ページ 325‑666
発行年 1999‑04‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004723/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
抵篠参義 萎 雛葦i霞
妖怪学講義 教育学部門 雑部門
円・ ●w法
妖暮一●灘嘉◎之竜 験驚拳部縄弁上■了借鐵
根本魏︑一房筆記・ 熔一暗 智倍簡
蕗ひ鏡是W唐基よ・冑■O毘力を碧oて漬鷺●冥灘客●︑6責恒●嬬魯含メ
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(巻頭)
総論」をはじめとして「理学」
医学」「純正哲学」「心理学」「宗 学」「教育学」「雑」の各部門が 数ページ分ずつ分けて掲載され
o
再版は講義録完結後,各冊の 部を合綴し,それに「緒言」(明 26年8月24日『妖怪学講義緒言』
して発行された45ページの小冊
)と「参考書目拾遺」,「正誤」
および付録あるいは付講を加え
,全8巻全6冊の合本とし,『妖 学講義』と題して哲学館より刊
されたものである。
第三版は本文に異同はなく,
再版につきて一言を題す」中に る「緒言に題す」を表題として 載したものである。
行所 学館
﹁﹁教各た②各治と子表て怪行③﹁あ掲発哲
6
1.サイズ(タテ×ヨコ)
222×148mm 2.ページ 総数:428
教育学部門目録:4 本文:251
雑部門目録:3 本文:170 3.刊行年月日
初版:明治26年11月5日 〜明治27年10月20日 再版:明治29年6月14日 底本:三版 明治30年8月5日 4.句読点
あり 5.その他
(1)初版は『哲学館講義録』の 「第7学年度妖怪学」として発 行された。その第1号・第2号 (第1冊)が明治26年11月5日 発行され,毎月2回2号ずつ2 冊発行されて,明治27年10月20 日,第47号・第48号(第24冊)を もって完結した。その各冊に
舅油甘九亭六月十さ鐸堵宿纂縦印窟賃・ ︑鯵六刃㌣遡憤靖灘再富鴛舞︑項澄霧十継λ方湿.μ獄靖槍薫恒衰行
︑版︑・繕
所 有
慧憂曇
印 居 ︑︑者 佐丸問 借L論︑iw妻砂館
葡 頗 瀞 さ捕澗蓑冶蕗=㌶むー一き鶏
景 行 屠 哲 學r館竃衷富津お︑田寿魯憤丁●ぼ糞大頂戎 督㌻離▼書︹灘
其他各培寄林
第七 教育学部門
根井
本上
和円
郎了
筆講
記述
第一講知徳編
妖怪学講義
第一節 教育論
これより︑哲学の風力をかりて︑教育の天地に浮かべる妖怪の迷雲を一掃せんとするに当たり︑まずその前駆
として︑教育の定義︑種類︑性質︑目的について一言せんとす︒そもそも教育の定義は︑諸家その説くところい
まだ一定せずといえども︑要するに教育は︑人類固有の能力を啓発︑養成するものにほかならず︒しかして︑そ
のいわゆる固有の能力とは︑人心内包の性力すなわちこれなり︒しかるに︑経験学派の論に従うときは︑人の知
識︑思想は︑生まれながらこれを天にうくるものにあらずして︑経験により外より注入するものとなす︒ゆえに︑
ロック氏は曰く︑﹁人の生まるるや︑その心なお白紙のごとし︒しかして知識︑思想の生ずるゆえんは︑みな外界
の経験によるものなり﹂と︒しかれども︑この説や︑いたずらに経験の﹈方にのみ偏するものにして︑いまだも
って確論となすべからず︒古語にも︑﹁玉磨かざれば光なし﹂といえることあり︒それ︑玉の光を発するは︑もと
より琢磨の力をからざるべからずといえども︑その光や琢磨したる後に︑外よりこれを付着するものにあらずし ほうて︑温潤含蓄あまたの光耀すでに内に棟するあるをもってなり︒人心もまたこれと同じく︑もし内にその光を発 しれいすの性なからしめば︑いかに教育経験の砥礪をもってすといえども︑瓦石となんぞ選ばん︒その淵然の光︑油然
の沢︑得てしかして望むべけんや︒たとい︑しばらく経験論者の説に従いて︑知識︑思想は経験によりて発達す 27 3るものとなすも︑ひとたび経験したるものは︑これを心内において保持する力なかるべからず︒また︑その保持
第七教育学部門
したる種々の事実を︑互いに連合︑概括する力なかるべからず︒しかして︑この連合︑概括の力︑あるいは保持 28の力は︑心性の固有するところにして︑外よりこれを得るものにあらざるなり︒しからばすなわち︑ひとり経験 3
の力によりて知識の生ずるは︑もとより得べからざるところなり︒これをたとうるに︑草木の生ずるや︑雨露の
沢︑栽培の力を要せざるべからずといえども︑実に種子をまちてはじめてその萌芽を発するを得るがごとし︒こ
れ︑その発生するゆえんの原理は︑外界に存するにあらずして︑種子中に存するをもってなり︒もし︑しからず
して︑その発生するゆえんの原理︑外界の上にありとせば︑桜の種子に施すに梅の栽培をもってせば︑変じて梅
となるべく︑栗の種子に施すに梨の栽培をもってせば︑また変じて梨となるべし︒
しかして今︑その桜なり栗なり栽培の法のいかんに関せずして︑ついにおのおの固有の性を失わざるゆえんの
ものは︑すなわち原形︑原理の種子中に存するのゆえにあらずや︒人心の生成もまた︑なおかくのごとし︒その
外界より得るところのものは︑特に雨露の沢︑栽培の力︑すなわち教育経験に過ぎざるのみ︒しかして︑この外
界の経験と内界の性力と相合し︑はじめて知識︑思想の結果を生ずるなり︒ゆえに︑事物の発育はすべて原形と
材質との二者をまたざるべからず︒すなわち︑外界より得るところのものは材質なり︑内界に存するところのも
のは原形なり︒今︑予が教育は︑人類固有の能力を啓発︑養成するにありとなすところのものは︑すなわち外界
の材質によりて内界の原形を発育するをいうなり︒かつまた教育は︑いたずらに内包の性力を︑その自然の傾向
に任じて養成するものにあらずして︑これに紀律︑秩序を与え︑一種の組織を有したる知識︑思想を構成せんこ にわしとをもって目的とするものなり︒なお︑場師の草木を養成するやひとりその自然に任せずして︑あるいはこれを
せんさい かんがいふち成長し︑あるいはこれを勇裁し︑あるいはこれを灌慨扶持し︑もってはじめて整然としてみるべきものあらしむ
るがごとし︒以上すでに︑教育上人心を発育するに︑内外両界の要素あることを略述したるをもって︑これより︑
もっぱら外界の要素につきて述べんとす︒外界の要素︑これを分かちて二種とす︒その一は自然教育といい︑そ いにようの二は人為教育という︒自然教育とは吾人を囲続せる万有の教育にして︑すなわち気候のごとき︑地形のごとき︑
山川︑草木︑鳥獣のごとき︑冥々のうち知らず識らず吾人を感化するものをいう︒人為教育とは人類相互間の教
育にして︑これを分かちて三種となす︒一を社会教育といい︑二を学校教育といい︑三を家庭教育という︒社会 いい よろん教育とは社会︑人民︑朋友︑親戚の吾人を教育するの謂にして︑輿論あるいは風俗等によりてその感化を受くる
は︑すなわち社会教育の一種なり︒社会教育はもとより人為教育に属するも︑無意無識の間に行わるるをもって︑
人為中の自然教育となすべし︒しかして︑学校教育および家庭教育は︑人為中の人為教育なるものなり︒これ︑
父母もしくは教師は︑あらかじめ目的を定めて︑その方向にしたがいて教育するものなればなり︒それ︑かくの
ごとくこの二種の教育は︑人為中の人為教育なりといえども︑その間またおのずから自然の感化を加えざるべか
らずして︑ことに家庭教育のごときは︑自然によりて得るところのもの多きにおる︒今︑そのことを明らかにせ
んと欲せば︑人心発達の理につきて三言せざるべからず︒
妖怪学講義
第二節 人心発達論
およそ人心の発育には一定の期限あり︒教育家はこれを分かちて三期となす︒第一︑幼稚期︑第二︑成童期︑
第三︑青年期これなり︒幼稚期は︑始生のときより満六歳に至るの間にして︑すなわち家庭教育に属する時期な ㎜るをもって︑これを名付けて家庭期となすも可なり︒成童期は︑満六歳より満十四歳に至る間にして︑学校教育
第七教育学部門
に属する時期なるをもって︑これを名付けて学齢期となすも可なり︒しかして︑青年期は︑十五︑六歳より二十
四︑五歳に至る間にして︑思弁力の発育する時期なるをもって︑これを名付けて思弁期となすも可なり︒今︑こ
れを知力の発達に考うるに︑知力には外覚︑内想の二種あり︒外覚は直現的にして︑直接に外物に接触して起こ
るところの作用をいう︒すなわち感覚︑知覚これなり︒内想は再現的にして︑ひとたび直現したるもの︑再びこ
れを心内に現ずる観念をいう︒内想に実想︑虚想の二種あり︒しかしてまた︑さらに実想を分かちて再想︑構想
の二種とし︑虚想を分かちて概念︑断定︑推理の三種とす︒それ外覚は︑外界の刺激を心内に感受するより起こ
るところの作用にして︑このときにありては︑外界は能作用にして︑内界は所作用たり︒実想は記憶作用にもと
づき︑記憶によりて種々の観念を再起する作用にして︑内界なおいまだ能作用の地に立つに至らずといえども︑
構想のごときは一部分やや能作用の性質を帯ぶるものなり︒虚想はすなわち推理作用の起こるところにして︑こ
こに至りて内界は全く能作用の地に立ち︑外界を命令支配するものなり︒これを発育の三時期に配すれば︑幼稚
期は外覚の力最も活動する時期にして︑その心性は所作用の地に立ちて︑外界の刺激を感受するにとどまる︒成
童期は再想︑構想の力の盛んなる時期にして︑このときにありては記憶力の最も活発なるものとす︒青年期はよ
うやく虚想の作用に進み︑心性の力によりて外界を命令支配することを得るなり︒
要するに︑人は幼時にありては︑外界は能動となり︑内界は所動となりて作用を現示するも︑成長するに従い
主客地をかえ︑内界は能動となり︑外界は所動となるに至る︒これをもって家庭教育は︑主として模倣の時期に
ありて︑そのなすところのものは外界の刺激に従いて感受するのみ︑直現の事情に応じて模倣するのみ︒かつて
その他をしらざるなり︒ゆえに家庭の教育に任ずるものは︑もっともその身の挙動に注意し︑一動静︑一語黙︑
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妖怪学講義
またみな幼児の模範となることをつとめざるべからず︒ただにこれのみならず︑この時期にありては外界の現象
状態︑一つとしてその心を薫染せざるものなきをもって︑室内の装飾をはじめとして︑いやしくも児童の見聞に へきゆう触るるものは︑教育の補助となるものを用いざるべからず︒今や文教︑日にひらけ︑山村僻邑に至るまで小学教 しようじゆ育の設けあらざるはなく︑樵竪︑牧童︑またみな冊を挟みて校に上がるを得るも︑ただその鋭意︑事に従うとこ
ろのものは学校教育にとどまり︑家庭および社会教育に至りては︑置きて顧みざるもののごとし︒しかして︑い
かなる方法により家庭教育の改善を図るべきやは︑これ教育社会の一問題たり︒余かつてこれが策を講じ︑神社 むら仏閣の必要を論じたることあり︒今︑わが国現時の状況をみるに︑百戸の邑にありて︑その九十九戸はおおむね
ぽうおくろうしつ茅屋醒室にして︑戸内︑庭前︑絶えて風致のみるべきものなく︑その教育の補助となるものを求めんと欲するも︑
ぴよう しゆうわい その醜稼の状︑かえって往々教育を害するもの瀞として得べからず︒ただにこれを得べからざるのみならず︑
あるを免れず︒かくのごとくして︑家庭の教育を施さんとするは︑そもそもまた難しというべし︒
しかるに︑百戸ないし二百戸の村落には︑必ず二︑三の神社仏閣あり︒しかして︑その神社仏閣は︑村中最も
こちフしよう静閑の地にあり︒境内広散︑堂宇清潔にして︑もとより尋常民家の比にあらず︒これをもって︑足ひとたびその
そうちようしゆくぼく地を踏めば︑荘重粛穆︑覚えず人をして道徳心を喚起せしむるものあり︒いわんや堂の内外を装飾するものに
至りては︑教育の補助となすべきもの少なからざるにおいてをや︒しからばすなわち︑神社仏閣はまた一佳場に しんしして︑父母たるもの︑その幼児を提携して︑毎日もしくは毎週これに参詣し︑優遊浸漬もってこれが知徳を養成
するは︑もっともそのよろしきを得たるものなり︒かつそれ家庭教育は︑父母中にありて︑そのもっぱら任ずる 劉ところのものは︑父にあらずして母にあり︒しかして︑婦人はその身︑容易に外に出ずるあたわざるものなりと
第七教育学部門
いえども︑神社仏閣のごときは︑児童を携えて朝夕これに参詣するも︑またなんの害あらんや︒かくのごとくな
れば︑ひとりその間において︑児童の道徳を養成するを得るのみならず︑往復の途上︑見聞するところのものは︑ ひえきみな児童の知識を開発するに足り︑また児童および母の運動を助けて︑その稗益するところ︑衛生︑体育上にも
及ぼすを得べし︒ゆえに︑余はおもえらく︑村落に神社仏閣あるは︑特に宗教としてその用あるのみならず︑教
育上また実に欠くべからざるものなり︒しかして︑その祭日あるいは教会日等のごときも︑みな教育上必要なる
ものなれば︑なるべくこれを保存して︑もって村落の教育に適用することを図らざるべからず︒しかして︑その
必要なるは︑ひとり家庭教育にとどまらずして︑社会教育においても︑また欠くべからざるものなり︒なんとな
れば︑今日社会の風たる︑決して教育の模範となるべきものにあらず︒しかして︑この社会をして教育の模範と
なさんとするものは︑宗教教会の目的とするところなればなり︒およそ教育は︑学校のみにてその目的を達すべ
からざるはもちろんにして︑加うるに家庭︑社会の両方をもってせざるべからず︒しかして︑この両方は学校の
直接に関係せざるものなれば︑いわゆる教会講社を改善︑矯正して︑従来の社寺を保存し︑これを教育上に活動
するは今日の急務なり︒
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第三節 教育の目的
古来︑人は万物の霊長と称して︑天地の間に生をうくるもの︑人類をもって最も尊しとせり︒﹃礼記﹄に﹁人者
天地之徳︑陰陽之交︑鬼神之会︑五行之秀︒﹂︵人は天地の徳︑陰陽の交︑鬼神の会︑五行の秀︶といい︑﹃︹春秋︺
左︹氏︺伝﹄に﹁人者稟二天地之中一而生﹂︵人は天地の中をうけ︑しかして生まる︶といえり︒それ︑その霊長たる
妖怪学講義
ゆえんのものはなんぞや︒知識を有し︑道徳を有するをもってなり︒しかして︑この知徳を開発するゆえんのも
のは︑一に教育の力にあり︒ゆえに︑教育の目的は︑人をしてその万物の霊長たるゆえんの特性を開発せしむる
にありというも可なり︒しかりしこうして︑今日︑進化学者の唱うるところによれば︑動物もまた知徳の一部分
を有するものとなせり︒しからばすなわち︑知徳は人類のひとり有するところにあらずして︑これをもって人獣
の別となすに足らざるか︒曰く︑いな︒今︑進化学者の説に従い︑人獣ともに知徳を有すとなすも︑その知徳の
性質大いに異なるところのものあるなり︒なんとなれば︑獣類のごときは︑たとい知徳の一部分を有すと称する
も︑その一挙一動は︑自然の活動力によりて反射無意的に起こるものにして︑意識的作用にあらず︒たとい意識
の原形︑種子を含蓄するとなすも︑これを人間の意識の明確なるに比すれば︑大いに径庭あり︒今︑意識を解し
て︑心性内包の光となすときは︑動物は精神の一部分を有するも︑いまだ内包の光を外発するに至らず︒人間に うんい至り︑はじめてその光を開き︑動静云為︑ことごとく意識の光明中にありて現ずるを得るなり︒しかれども︑人
類といえどもまた︑生まれながらにして︑しかるものにあらず︒幼稚のときにありては︑多く無意識に属し︑動 へいぜん物と異なるもの︑ほとんどまれなり︒その進んで意識の光柄然としていよいよ明らかに至るものは︑教育経験の
力によるなり︒ゆえにまた︑教育の目的は︑心性内包の光明を開発するにありというも可なり︒かつ︑これを歴
史の上に徴して︑社会の変遷を考うるに︑その発達進化の序︑大いにこれと相類するものあり︒原始にありては︑
人みな無我無欲にして︑法律なく政府なく︑飢えて食らい︑渇して飲み︑これを自然の性情に任じて︑おのおの ち とくその所を得ざるはなし︒すでにして︑しかして知賓ようやく開け︑利己の心︑・王我の念ますます長じ︑競争した 33 ふんぷんうんうん ヨがって起こり︑紛々転々その底止するところを知らず︒しかれども︑今日よりさらにますます進化し︑ますます
第七教育学部門
発達し︑心性内包の光ますます明らかなるを得ば︑全世界ことごとくその光明の中に沐浴し︑闘争その跡を絶ち︑
き き かつてんし むかいし政府なく法律なく︑煕々として天下治まるの日あるを見るべし︒これを葛天氏の民といわんか︑はた無懐氏の民
といわんか︒すなわち︑これを黄金世界と称すべく︑寂光浄土と称すべし︒しかして︑将来吾人の達すべきいわ
ゆる黄金世界と︑太古の葛天氏︑無懐氏の世界とは︑またおのずから異なるところあり︒すなわち︑太古は無意
識の黄金世界にして︑将来は有意識の黄金世界なり︒太古はいまだ意識の日光を仰がざる暗黒の黄金世界にして︑
かくかく ひつきよう将来は赫々たる意識の日輪の下にある光明の黄金世界なり︒しかして︑この想像は︑今日にありては畢寛︑空想
に属するもののごとしといえども︑これを既往に徴して︑その次第に開顕しきたるを見る︒あにこれを将来に期
すべからずといわんや︒ただその光明の分量無限にして︑もとより意料の及ぶところにあらざるをもって︑これ
を開顕するもまた︑無限の時間を要せざるべからず︒果たしてしからば︑教育の目的は︑無限の時間において︑
内包無限の光明をこの世界に開発するにありというべし︒これ︑宗教と教育とその目的を異にするゆえんにして︑
宗教はこの世界にありて︑到底︑無限の光明を見ることあたわざるものとし︑顧みて心性の本源にさかのぼり︑
その内部において無限の光明を見んことを求む︒しかして︑教育は将来この世界において︑無限の光明を開くこ
とを得べしとするものなり︒その﹈世一代における教育の目的のごときは︑もとよりこの大目的に達する一階梯
に過ぎざるのみ︒
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以上︑ 第四節 教育上の迷誤
すでに教育一般に関する解釈を述べたれば︑これより教育上の妖怪すなわち迷誤を掲げて︑その妄を弁
妖怪学講義
ぜざるべからず︒古来︑迷信︑妄想の民間に行わるるや久し︒ゆえに︑その及ぶところ誠に広くかつ深し︒ある
いは医道の一部となり︑あるいは宗教の一部となり︑あるいは商売に︑稼業に︑その関係するところすこぶる多
し︒しかして︑教育上またこれありて︑その児童を養成するになお︑この迷信︑妄想に陥るもの少なしとせず︒
まず第一に︑出産につきてその例を挙ぐれば︑古来︑神仏に祈願して子を得るものあるは往々聞くところにし
て︑孔子はその父母︑これを尼丘山に祈りて得たりといい︑またわが国にありても大塩平八郎は︑その父母︑京 えいご都の阿弥陀ヶ峰豊国神社に祈りて得たりという︒しかしてまた︑神仏に祈願して得たるところの子は︑みな穎悟
非常の人なりと伝うるも︑これまた一種の迷誤にして︑その実︑もとよりこの理あることなし︒しかれども︑心
理上これを考うるに︑かくのごとく伝うるゆえんのもの︑偶然にあらざるものあり︒なんとなれば︑その人︑粋
然至純の心をもって神明に対越し︑もってこれを祈り︑しかして子をあぐるにおいては︑その子のあるいは平生
に異なるものあるも︑怪しむべきにあらず︒これ︑神のこれを授くるにあらずして︑自己の精誠︑実にこれをい ぶいくたせるなり︒しかして︑すでにこれを得るに及んでは︑もって神の与うるところとなし︑その教導撫育の方にお
ける︑また周到至らざるところなし︒これ︑その子のおのずから非凡の人となるに至るゆえんなり︒ある人の説
に曰く︑﹁キリストをもって神となすは︑その実︑神なるのみにあらず︑これを神にしたるものは人の力なり﹂と︒
換言すれば︑すなわち天然の神にあらずして︑人為の神なりというなり︒そのゆえは︑キリストの生まるるにさ し どきだちて︑神の斯土に生まるるの預言あり︒人みな︑その預言を信じてこれを望むや久し︒しかし︑たまたま東 うまや方に一異星現るるを見て神の生まるる前兆となし︑東方を探りてある人家の廠中に生児をえ︑もって預言に応じ 35 もはい ヨて生まるるところの神となし︑集まるものみな合掌膜拝す︒しかして︑キリストもまたやや事物を解するに至り
第七教育学部門
ては︑自ら神なりと信じ︑いかなる不思議もなし得べきものとなす︒これをもって︑キリストの命ずるところは︑
ろう こ は こしつ聾するものは聡に︑瞥するものは明に︑破するものはたち︑診せず薬せずして︑病疾︑重患たちどころに治する ひつきようを得︒しかして︑そのここに至るゆえんのものは︑畢寛︑キリストをもって神なりと信ずる一念より起こりたる
ものなり︒これによりてみれば︑人力をもって神を作為し得ること︑決して難きにあらざるを知るべし︒たとえ
ば︑山間の一僻村に神を製造せんと欲せば︑その村にて神のごとく崇敬する人あらば︑まずその人に︑何年には
神の降誕あるべしとの預言をなさしむべし︒しかして︑その年に至り︑ある家に生まれたる子あらば︑これを路
上にすて置くべし︒後に一村の者これを得て︑真に神の子なりと信じ︑神として養育するときは︑必ず成長のの
ち神の作用を現示するに至るべし︒これ全く信仰の力なり︒孔子のごときも︑万世にその名を伝うる大聖人に至
りたるゆえんのものは︑信仰そのもの原因の一部分となりたるや疑うべからず︒ゆえに︑人もし一意に神仏を信
仰することを得ば︑これに祈願して子を得るは︑決して効験なしというべからず︒しかれどもこれ︑特に思想単
純なる昔時にありていうべきのみ︒今日のごとき思想の複雑なるときに至りて︑その効験を奏せんと欲するも得
べからざるなり︒その他︑懐妊中および出産のときに至るまで︑迷信︑妄想によるもの多くこれありといえども︑
人知の進歩するに従い︑ようやくその跡を絶つに至るべし︒
第二に︑体育につきて迷信︑妄想の関係する例を挙ぐれば︑民間一般の風習に︑その子を養育するに︑あるい
は秘呪すなわちマジナイを用い︑あるいは守り札を用い︑これによりて幼児の健康︑安全を祈らんと欲するもの
あるは比々見るところにして︑児童の腹痛を治するマジナイ︑あるいははれものを治するマジナイ︑あるいは夜
なきをとどむるマジナイ等︑その他︑これに類するものはなはだ多し︒また︑守り札のごときも子育ての守り︑
336
あるいは怪我よけの守り等ありて︑これを児童に帯ばしむれば︑もって安全無事なるを得べしと信ずるものあり︒
これをもって︑医薬をすててマジナイにより︑かえってその病勢をして重からしむるものあり︒一片の守り札よ
く危害を免るべしと信じて︑その保護をゆるがせにするものあり︒これみな思わざるのはなはだしきものにして︑
かくのごとき迷信は︑その害あるも益あるを見ざるなり︒
第三に︑心育につきて迷信︑妄想の関係する例を挙ぐれば︑児童の才知に長ずるを欲して神仏に祈り︑また記
憶を強めんと欲して種々のマジナイを用うるものあり︒それ才知を長ずるも記憶を強くするも︑みな教育法によ
らざるべからず︒しかるに︑漫然これを省せず︑木によりて魚を求めんと欲す︒迷信といわずしてなんぞや︒以
上はマジナイ︑守り札等によりて︑教育の補助となすの例を挙げたるのみ︒その他︑あるいは児童の生年月日に
ぼくぜい かんし とうきゆうよりて︑その気質︑運命を鑑定し︑あるいはト笈により︑あるいは幹支術あるいは淘宮術に考え︑あるいは人相︑
方位に考うる等︑およそいくたあるを知らず︒しかして︑これらの諸法によりて︑児童の教育を助けんとするが
ごとき︑その迷信たるや︑もとより予の弁解をまたざるべし︒しかれども︑ただ児童教育のために︑一心に神仏
に祈念し︑その心これがために清浄となり︑その行いこれがために端正となるを得ば︑その平生の挙動︑自然に
児童を薫陶感化するの効あり︒ゆえに︑単純の信仰は他の諸法に比すれば︑ややまさるものとなして可なり︒
妖怪学講義
第五節 教育の不注意
民間の教育はことごとく迷信に出でざるも︑不注意によりてその方法を誤るもの多くこれあり︒今日︑民間の 37 3状態をみるに︑第一に︑父母たるもの︑その子を家庭において教育することを知らずして︑修学時期の至るをま
第七教育学部門
ち︑はじめてその教育を学校に託せんとするものあり︒これ︑教育はひとり学校に限るものとなし︑己の教育者
たり︑家庭の教育場たるを忘るるものなり︒しかして︑かくのごときもの︑十中八九見るところなり︒第二に︑
父母は己の情に任じて︑児童を支配する弊あり︒例えば︑己の心に愉快なるときは︑たといその行いとがむべき
ものあるも︑かつてこれを責むることをなさず︒しかして︑その不愉快なるときにありては︑容易に顔色を怒ら
しつせきし声音をはげまし︑もって叱責を加うるの類をいう︒かくのごときは︑父母たるもの喜怒の情をもって︑児童を へんぱ玩弄物視するものなり︒あるいはまた父母のその子における︑愛憎の情によりて偏頗不公平をなすものあり︒す
なわち︑児童をして己の私情の奴隷たらしむるものにして︑これまた大いに不可なるものとす︒第三に︑父母は
己の心をもって︑児童の未成の心を推量することにして︑すなわち三︑四歳の幼児に説くに道理をもってして︑ はいちこれを解せざることあり︒あるいはそのなすところ道理に背馳することあるに当たりては︑たちまち怒りてこれ
かしやくを苛責するがごときは︑これ︑幼児をもって大人と同一視するより起こる過ちなり︒幼稚の児童は︑もとよりい
まだ道理を解するの力を有せざるにより︑道理をもってこれを責むるは過当のことたるを免れず︒ゆえに︑幼児 くんかいを教育するは︑よくその心情を探りて︑その了解し得らるるものをもって︑これを訓講せざるべからず︒第四に︑
児童の早成を喜ぶの風あることなり︒それ早熟︑早成の人にして︑晩年なお大名を成したるものなきにあらざる
も︑中年に及びてかえって退歩するもの多し︒しかるに︑父母たるもの︑おおむね児童の早成を喜び︑わずかに
その齢五︑六歳に至れば︑にわかにこれに課するに解し難きの漢籍をもってし︑あるいは詩を賦し歌を詠ぜしめ︑
たまたまこれをよくすれば︑人に誇りてもって名誉となす︒しかして︑その児童は︑不相当の教育により天才を ひつきよう害し︑あるいは早成に安んじて一生を誤るに至るものあるを知らず︒これ畢寛︑学問をもって一つの装飾のごと
338
く考うるより起こるところの弊にして︑また一種の迷誤となすも可なり︒
以上述ぶるところのほか︑これに類するもの列挙するにいとまあらず︒
第六節 家庭は妖怪の製造場
家庭教育につき︑妖怪学の講義にもっとも直接なる関係を有するものは︑この妖怪の製造場たるゆえんを知る
にあり︒今日︑民間においては︑家庭の教育場たるを知らずして︑かえって種々妖怪の教育を施すもの多く︑第
かくかく りんりん一に︑父母の児童を教育するにみだりに苛責し︑あるいは烈日の赫々なるがごとく︑あるいは厳霜の凛々たるが
ようようかんゆう あいぜんごとくして︑雍容寛裕︑和風暖日の謁然たるがごとき気象に乏し︒これをもって︑親子の関係は︑ただ一つの恐
怖心によりて成るがごときものあり︒これ妖怪製造場の一例となして可なり︒およそ妖怪は多く恐怖心より起こ
るものにして︑内にひとたび恐怖心動けば︑外に種々の妖怪を現ずべし︒しかのみならず︑平生児童の見聞する
ところの昔話︑あるいは絵草紙のごとき︑みな妖怪をもってみたし︑またその泣くに当たりては︑これをとどむ
るに鬼または怪物のおそるべきをもってす︒それ︑かくのごとく児童は︑妖怪の空気中にその知識の萌芽を発生 きつねつするをもって︑妖怪の妄想はその性質に固着して存し︑長ずるに及び種々の幻覚みなその心中より発し︑狐懸き︑
てんぐ天狗︑幽霊等︑みなこれより生ず︒ゆえに余は︑家庭をもって妖怪の製造場となすなり︒
妖怪学講義
以上は︑ 第七節遺伝論
教育全体について迷誤の一斑を摘示したるものなり︒これより︑ 39 3人の資性遺伝より賢愚利鈍の分かる
第七教育学部門
るゆえんを述明せんと欲す︒それ︑人はだれも︑その子孫の才賢を喜び︑その愚鈍をにくまざるはなし︒しかし
て世間︑あるいは才賢の子孫を得んと欲して︑これを神仏に祈願するものあり︒これ︑なお洪水の害をおそれて
神仏に祈願するがごときのみ︒もとよりこれを得るの道にあらず︒もし洪水の害を防がんと欲せば︑よろしく堤
防を改築修繕せざるべからず︒子孫の才賢を欲せば︑よろしく家庭および学校において十分の教育を加えざるべ
からず︒いたずらに神仏に祈願するも︑なんの益あらん︒しかれども︑これまたともに一時の策にして︑いまだ
完全の計にあらず︒もし全く洪水の害を絶たんと欲せば︑その水源にさかのぼりて山林濫伐の弊を防がざるべか
らず︒しかして︑子孫の才賢を欲せば︑必ず父母の遺伝もしくは胎教に注意せざるべからず︒ゆえに︑今ここに
遺伝の重大なることを述べんとす︒古来︑わが国において結婚に血統を選ぶの風あり︒これ︑実に良習慣という てんかんべし︒ただ惜しむらくは︑単に形体上にとどまりて︑廃疾︑不具︑奇形︑癩痛︑癩病等のみに注意し︑精神上の
遺伝に至りては深く問わざるもののごとし︒しかれども︑遺伝はひとり形体上にとどまらず︑精神上にも同じく
その規則あり︒左にその表を掲げて説明すべし︒
340
妖怪学講義
いぬ たとえば︑狗の子は狗に似て︑人の子は人に似たるは︑これ形体上の遺伝にして︑狗の子はその知識︑狗にと
どまり︑人の子はよく人間相応の知識を有するものは︑精神上の遺伝なり︒かくのごとく︑子々孫々連続して伝
わるもの︑これを連続性という︒これに反して︑あるいは精神病のごとき︑あるいは不具︑奇形のごとき︑ある
いは英雄のごとき︑学者のごとき︑二︑三代もしくは数代を隔てて発する遺伝あり︑これを間欠性という︒また︑
祖先以来数世を経て遺伝し︑一種の固有性となりたるもの︑これを固有性遺伝といい︑己一代の間に特殊の事情
によりて︑身心上に発したる変化をその子に遺伝するもの︑これを得有性遺伝という︒例えば︑目はよく物をみ
るべきは祖先以来の固有性なれども︑その父一種の病気により目を損じ︑盲目の子を生ずるに至るがごときは得
有性なり︒しかして︑この規則は︑身心両面において存するものなり︒あるいはまた︑男性もしくは女性の一方
を遺伝することあり︒例えば︑子の性質中︑一半は父に似︑一半は母に似ることあるがごときは両性遺伝にして︑
男子は父に似てひげを生じ︑女子は母に似てひげを生ぜざるがごときは︑一方を遺伝するものなり︒かくのごと
く︑形体上に遺伝あることは︑なにびともともに知るところなれども︑精神上に至りては今なお世人の多く疑う
ところなり︒しかれども︑身心二者はもとより相離るべからざるものにして︑すでに肉体に遺伝あれば︑精神ま
た遺伝なかるべからず︒しかして︑これを実際に験するに︑果たしてその遺伝あるを見る︒すなわち︑狗の子を
教育して人間となすあたわず︑最下等の野蛮人を教育して文明の人となすことあたわざるは︑精神上の遺伝の存
するによるものなり︒そもそも精神上の遺伝は︑生時︑反復数回経験したるところの習慣性︑これが原因となる
ものにして︑この習慣は一変して無意識となり︑再変して本能となり︑ついに器械的反射作用となり︑もってそ 側の子孫に遺伝し︑ついに天賦固有の資性となるに至る︒今︑遺伝の解釈につき左の書を引証す︒
第七教育学部門
スペンサー氏﹃心理学﹄に曰く︑﹁遺伝の理法とは︑ここに習慣となれる心意の継続はまた︑かくのごとき
継続のある遺伝的傾向を生じ︑その事情にして不変に永存するときは︑世々代々その傾向を累積増加するこ
とこれなり︒一有機体の生涯間︑しばしばある外部の関係を経験するときは︑これに応ずる内部の関係を定
立し︑ついで自動的となるものなり︒かの蛮人が弓矢をもって鳥類を射るに当たり行わるるがごとき心的諸
作用の一結合は︑絶えず反復するときはついには整然たる組織となり︑ために最初につとめてなししがごと
き適合の過程を︑ほとんど心中に覚えずして遂行せらるるように至るものなり︒しかして︑この種の手練は
ひとり一個人のみならず︑また特殊の人族中にまで相伝えて︑一種格別の傾向を特有せしむることを得るも
のにして︑この傾向たるや︑これまた一部分の組織を得たる心的結合にほかならざるなり﹂
リボー氏﹃遺伝論﹄に曰く︑﹁遺伝とは一つの生物学上の理法にして︑これにより生をうけたる一切の生物
は︑その子々孫々において己が身を反復再現せんとするものなり︒この理法の種属面に存するは︑なお自己
不変の一個人におけるがごとし︒かくのごとき理法あるをもって︑万花の転々流行するうちにおいて︑その
基礎︑根本は凝然不変に存し︑自然はとこしえにその体を写象し︑模擬することを得るなり︒これを理想的
に考うるときは︑遺伝とは単に同一を同一によりて再現するものなりとやいわん︒されども︑かかる概念は
純然たる学理上のものというべし︒そは︑生物の現象は決してかくのごとき数理的の精密をもって律すべき
ものにあらず︒その現象の起こる事情は植物界より高等の動物に進み︑さらにこれより人類に至るに従い︑
さくびゆういよいよ複雑錯膠となるものなればなり︒
人間は︑その有機組織よりすると︑あるいはその動力よりするとの二様にみることを得べし︒換言せば︑
342
妖怪学講義
その物理的生活を構成する作用よりすると︑あるいはその心理的生活を構成する作用よりするとの二あるべ
し︒これら生活の二つの様式は︑ともに遺伝の理法にしたがうものなるか︑二者は全部これにしたがうもの
なるか︑あるいは単に一部分のみなるか︑もし後の場合なりとせば︑その遵ずる割合はいくばくなるか︒ し し 右のごとき疑問について︑その生理上に関するものは︑これまで挙々として研究せられたれども︑その心 うんぬん 理的の方に至りては︑なおいまだかくのごとき研究を見ず︑云云﹂
かくしてリボー氏は︑生理上の遺伝より進みて心理上の遺伝に及ぼし︑いちいち例証を挙げてつまびらかに説
明をなせり︒ゆえに左にまた︑同氏が知︑情︑意各作用につきて引証せる二︑三の例を抄訳して示すべし︒
まず記憶および想像の遺伝につきて︑ローマの両セネカはその記憶の強きをもって有名なる人なり︒父マ
ルクス・アンナエウスは︑二千の言辞をばその聞きたる順序において正しく反復することを得︑その子ルキ
ウス・アンナエウスは︑父には及ばざりしも︑またこの記憶力に富みたるという︒ガルトン氏の説によれば︑
イギリス人中にてギリシア語学者をもって有名なるリチャード・ポーソン氏の家族は︑記憶の非常に卓絶せ
しより︑諺に︑この力の優等なるものを﹁ポーソンの記憶﹂と呼ぶに至れりと︒
技術史によりてみるに︑創作的想像は遺伝によりて相続するものなることを明示せり︒吾人は世々︑同一
家族中より詩人︑音楽家︑画家を出だすを見ること少なからず︒このうちにて詩人の家族は他の者よりは希
少なるがごとくなるが︑しかも︑この理由を発見せんことは難からざるなり︒けだし︑いかなる人を問わず︑
精微の聴感なくしては音楽家たることあたわず︒また︑視官の一定の成形より生ずる︑色彩および形状の天 脇 賦を固有せずんば画家たることあたわず︒されども︑今かくのごとき生理的事情は︑詩人たらん資格には︑
第七教育学部門
右のごとくに必須ならざるなり︒これがゆえに︑音楽および模造上の技能は詩才に比すれば︑生理機関の定
形によること︑はるかに多しというべし︒︵中略︶しかれども︑五十一の詩人の家族につきて︑いちいち査験 せきえんせしに︑うち二十二人まではみな︑一人あるいは二人以上の斯道に有名なる戚碗あることを発見したり︒
今︑事実によりて︑かくのごとき形質遺伝はひとりあたうべきものたるのみならず︑その現実に起こりし
ものなることを明示せざるべからず︵すなわち︑左に挙ぐるものこれなり︶︒
︵まず知力の遺伝について︶ これらの場合はすこぶる衆多にして︑もって二つの類別をなすに足れり︒第
一類中には科学者︑哲学者︑経済学者等を列し︑第二類中にはいわゆる記者︑歴史家︑批評家および小説家
を集む︒︵中略︶科学に有名なる家族は少なしとせず︒多くの科学者はみなその父の後を継ぎしものなり︒け
だし︑これらの人々が幼時より養成せらるるに当たり︑これをして自由の討究をなすことに慣れしめし家庭
の気風は︑その後来の職業を決することにあずかりて力あるは明白なれど︑しかも単に教育のみにては天才
を成すものにあらず︒これをして︑科学の究察を好むの性を有せしめんには︑教育より生ずるところの外部
の遺伝に加えて︑さらに他の事情なかるべからず︒また︑あまたの科学者は︑その母あるいは祖母の有名な
る婦人たりしことを知るを得たり︒例えば︑ブッフォン︑ベーコン︑コンドルセ︑キュヴィエ︑ダランベー
ル︑ホッブス︑ワット︑ジュシュー等諸氏のごとき場合これなり︒哲学者中にありては︑遺伝やや希少なる
がごとし︒されども︑もし吾人にして︑哲学者中子孫を残ししものは僅々たりし事実をわが心に記せば︑さ
ほどこれをいぶかるにも足らざるべし︒例えば近代において︑デカルト︑ライプニッツ︑マルブランシュ︑
カント︑スピノザ︑ヒューム︑コント︑ショーペンハウアー等の傑士は︑いずれもめとらざるか︑あるいは
344
妖怪学講義
その児子なかりしものなり︒
しこう せきりん ︵つぎに嗜好︑欲情について︶ モンテーニュ氏はその家系より石麻の症を受けたりしがゆえに︑遺伝の問
けんき えんけん題に心を傾けし人なるが︑氏はまた︑はなはだしく薬剤を嫌忌する性をも遺伝したり︒氏曰く︑﹁この厭嫌は
全く遺伝に出でしものなり︒予の父は七十四歳︑祖父は六十九歳︑および予の曾祖父はほとんど八十の高齢
を保ちたれども︑いずれもみな︑いかなる薬剤をも味わいしことなく︑またこれを服用せしこともなし︒彼
らに通じて使用せざりしものを問わば︑これ実に薬剤なりき︒予の祖先はある知り難き本能および天性によ
りて︑常にいかなる薬剤をも嘔吐し︑予の父はこれを見るすらも厭嫌にたえざりき﹂と︒ てんきよう 遊戯の欲情は︑その増長するに及びては︑ほとんど癩狂に類するがごとき︑はなはだしき狂乱を現すもの
にして︑また癩狂と等しく遺伝するものなり︒ダ・ガマ・マカドー氏曰く︑﹁予の知れる一貴婦人あり︒富裕
の身なりしかども︑賭遊を好める一種の欲情を有して︑終夜この遊戯を事とし︑ついに肺労にかかりて天折
せり︒その長子もはなはだ母に類して同一なる遊戯の欲情を有せしが︑また母のごとく労症にかかり︑ほと
んど同年齢に及びて逝去せり︒しかして︑この人にも己に肖似せし一女ありて︑同一の嗜好を遺伝せしが︑
また少壮にして病死せり﹂と︒
窃盗の傾向の遺伝するものなることは︑一般に承認せらるることにして︑裁判審問の記録中には︑これに
か た関する事実彩多なれば︑ことにここに枚挙するを要せずして明瞭なるべし︒︵中略︶すでに窃盗のことにつき
て記ししところのものは︑またこれを殺人の本能にも適用することを得べし︒この二者の遺伝相続する事例
はともに判明にして︑かつその数おびただし︒ある家族にありては窃盗の遺伝に加えて︑殺人癖の遺伝ある
345
第七教育学部門
ものあり︒これらのごとき場合はいたるところに彩多なれば︑ここに引照することを要せざるべし︒
︵つぎに意力について︶ 歴史に徴するに︑心身の諸性は全部または一部分遺伝するものなることを示せ
り︒しかして︑その一部分なるは︑その子孫に伝わるる際︑ときとしては原本の結合を破殿し︑子孫はただ
その砕片を収拾相続するを得たるのみなることあるによれり︒されば︑意力もまたその他の性質と等しく遺
伝に出ずることを得べし︒しかして︑このことは︑すでにヴォルテール氏がギース家について観察したるこ
とあり︒氏曰く︑﹁無形なる心意の父たる有形の身体は︑代々同一の性格を父より子に遺伝するものなり︒ア
こくれい きよう ッピー家はつねに倣慢不屈なり︒カトー家はつねに厳粛酷属なり︒ギース家の全系は剛胆躁急にして︑驕
へ う 傲の態および文雅の風あり︒ギースのフランシス氏より︑ひとりはじめてナポリ府人民の首領たりし人に至
るまで︑その容貌よりするも︑胆気よりするも︑はた性格よりみるも︑みな通常人以上にある人々のみなり﹂
と︒ かくして︑父祖より遺伝を得たる子孫は︑自然にその方に向かいて発育しやすく︑音楽師の子は音楽に長じや
すく︑書家の子は書にたくみに︑画家の子は画にたくみに︑学者の子は学者となりやすき傾向を有するなり︒し
かれども︑また実際上これを徴するに︑大いにしからざるものあり︒例えば西洋にて︑シェークスピアの子︑ミ ぎよう しゆんルトンの女子︑アジソンの子のごときはみな不肖なり︒わが国にても常にシナの例を引き︑尭︑舜の聖にして
たんしゆ しようきん こそう丹朱︑商均の不肖あり︑替艘の頑にして舜の聖あるをもって︑精神上の遺伝に反対を唱うるものあり︒しかれど
も︑これまた遺伝の説をもって解すべきものにして︑いまだこれをもってその説を破るに足らず︒なんとなれば︑
およそ遺伝はひとり父よりこれを受くるのみならずして︑また母よりも受くるものなればなり︒ゆえに︑たとい
346
妖怪学講義
その父賢なるも︑その母不賢なるにおいては︑その子必ずしも賢なるあたわず︒また︑父母の性質相反するとき
は︑その性質相合して互いに打ち消すことあり︒また︑遺伝はひとり父母の性を受くるにあらず︑祖父母︑曾祖
父母︑あるいは祖先数世間の性を合して遺伝するものにして︑その性の結合︑配置等の事情によりて︑父母の性
のただちにその子の上に発せず︑かえって祖父母あるいは曾祖︑高祖の性を発顕することあり︒すなわち︑形体
上にありても︑子にして親に似ずして祖父母︑曾祖父母に似たるものあり︑また︑形体上の遺伝病を二︑三代の
後に発するものあり︒しからばすなわち︑精神上においても︑父子ただちに相遺伝せざること︑また怪しむに足
らず︒これ︑間欠性遺伝の起こるゆえんなり︒わが国においても︑歴史上英雄︑豪傑と称せらるるところの人は︑
その父母必ずしもことごとく賢なるにあらざれども︑その血統をたずぬれば︑遠祖中必ず英雄︑豪傑のあるを見
る︒すなわち源氏︑平氏︑新田︑足利︑徳川諸氏のごとき︑みなこれなり︒しかるに古来︑世間一般に遺伝の理 たたりを知らざるをもって︑種々奇怪の説を付会し︑たまたま不具︑白痴のもの生ずれば神罰あるいは崇とし︑才賢の
もの生ずれば神の授くるところとなす︒これをもって︑良子を得んと欲して神仏に祈願する風習を起こすに至る︒
しかれども︑もしその人︑神仏のみに祈願して︑遺伝︑教育のいかんを顧みざるときは︑決してその目的を達す
べからず︒古昔︑神仏に祈りて良子を得たるもののごときは︑その遺伝すでに人にまさり︑加うるに教育注意を
もってしたればなり︒
要するに遺伝は教育の本源にして︑これをたとうるに︑遺伝はなお元金のごとく︑教育はなお利子のごとし︒
ゆえに︑子孫を教育せんと欲するものは︑まずその遺伝に注意せざるべからず︒しからば︑いかにして遺伝の元
金を増殖し得べきかというに︑これ一に父母その人に存するなり︒もし︑父母にして有徳の君子を生まんと欲せ
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第七教育学部門
ば︑まずその身の道徳を修めざるべからず︒また博識の学者を生まんと欲せば︑まずその身の知識をみがかざる
べからず︒これに反して︑放蕩無頼︑自ら飲食にふけり︑遊惰に沈み︑しかしてその子の才賢を求めんと欲して︑
これを神仏に祈念するも︑神仏またいかんともすることあたわず︒その実例のごときは前にリボー氏﹃遺伝論﹄
を抄訳して示したるも︑さらに今︑カーペンター氏の﹃心理書﹄に出ずるところの例を引き︑大酒家の子孫に悪
癖を遺伝する一斑を示すべし︒ アルコ ル カーペンター氏曰く︑﹁吾人は︑かの精酒を過量に服する常習の結果を目撃することは︑その他の神経刺
激剤におけるよりはるかに多し︒しかして︑かくのごとき経験によるときは︑各個人はかかる常習よりして︑
その正格の体質に習得せるところの悪癖を子々孫々に遺伝すること判然たり︒この遺伝は︑あるいは発して しゆんぐ 生来の轟愚となり︑あるいは癩狂の予向となりて︑軽微の激因に会するも︑ただちにこれを増長せしめ︑あ
るいは飲酒の強欲となりて︑ついにこれにかつことあたわざるものなることは︑この現象に注目せし人々の
しようひよう しゆんじ 等しく証懸するところなり︒ドクトル・ホー二氏は︑マサチューセッツ州の姦児統計の報告において︑嘉
児三百人の両親の常習をたずねしに︑その百四十五人すなわちほとんど半数は全く鯨飲家にして︑特に一つ
の場合のごときは︑飲酒家の両親に七人の鈍児ありしといい︑しかしてドクトル・ダウン氏のごとく嘉児に
ついて経験に富める人も︑この統計をもって決して過大に失することなしと確言せり︒ドクトル・ブラウン
氏曰く︑﹃鯨飲家はただに自己の神経系を殿損し薄弱ならしむるのみならず︑また心理的病症をその家族に残
すものなり︒すなわち︑かくのごとき人の女児は神経性およびヒステリー症となり︑その男児は薄弱︑執拗︑
放縦にして︑いったん不慮の危急に迫るか︑あるいは通常の義務を果たさんとする場合に至れば︑よくこれ
348
うんぬん にたうることあたわず﹄と︑云云﹂
また︑江口︹嚢︺氏の﹃精神病学﹄にも左の一項あり︒
痴呆は遺伝によりてきたるものを多しとす︒また︑酒客の小児︑および親族の婚姻より生まれたる小児は︑
痴呆たること多し︒ よおうこれによりて︑﹁積善の家に余慶あり︑不積善の家に余映あり﹂との意を解説するを得べし︒
妖怪学講義
第八節 結婚論
すでに遺伝のゆるがせにすべからざるを知らば︑結婚のゆるがせにすべからざる︑またしたがって知るべし︒ もうあ てんかんしかるに今日︑世間往々早婚︑親婚︵近親間の結婚をいう︶の弊あり︒しかして︑白痴︑盲唖︑癩痛等は︑多く
近親間の結婚より生ずるという︒それ︑生子は父母両性を遺伝するものなれば︑女子の血統︑遺伝を選び配偶を
求めざるべからざるは︑もとより言をまたず︒もし︑夫婦両性の遺伝よろしきにおいては︑その子あるいは才賢
なるあたわざるも︑数代の間には必ず非凡︑異常の人を出だすことあり︒ゆえに︑遺伝の注意は結婚より始めざ
るべからず︒しかして︑結婚につき︑わが国愚俗の間に一種の弊風あり︒すなわち人の血統を︑あるいは犬神の にんこ家︑あるいは人狐の家と称して︑これと結婚するをいとうことこれなり︒しかして︑その原因をたずぬるに︑一
つの原因なく︑一つの理由なく︑ただ世間一時の風評よりその名称を与うるものにして︑祖先の遺伝性︑真にあ
しきにあらずという︒これ︑実に愚俗の迷誤中の最も大なるものにして︑その選ぶべきところのもの︑さらにこ か それより大なるものあるを知らず︒今︑愚民の瓜疏を培養せんと欲するや︑必ず良種を選択するを知る︒しかして︑
349
第七教育学部門
その子を生ずるに至りては︑遺伝性を選ぶを知らず︒愚といわずしてなんぞや︒その他︑日月︑方位を選び︑五 50行︑干支の性質を選ぶがごとき︑民間にて結婚上注意するところのものは︑多くみなこの類なり︒ゆえに︑今よ 3
り従来の諸弊を改め︑結婚につき遺伝の必要に注意せざるべからず︒
そもそも結婚は人事の最も大切なるものにして︑教育上に重大の関係を有するものなれば︑さらにそのことに
ついて一言を述ぶるも︑決して無用にあらざるを知る︒それ︑国家の元子は人民にして︑人民の身心ともに健全
なるは国家の健全なるゆえんなり︒しかして︑健全の人を得るは教育によるというも︑その実︑結婚より始まる︒
ゆえに︑結婚は国家の盛衰興廃に関する重大のことなり︒かつ︑世の野蛮と開明とは︑大いに結婚の情態に関係
するものなり︒野蛮人種にありては夫婦の道なく︑男女の交わりは禽獣と異ならず︒ようやく開明に進むに従い︑
その道ようやく興り︑その式ようやく整い︑制度︑規則も次第に一定するに至る︒西洋にありては︑ギリシア人
中に結婚の儀式の起こりたるは︑紀元前一五五四年︑アセンズ王セクロプスより始まると伝えり︒ローマにおい
て結婚の法律を制定せしは︑紀元前一八年のことなりという︒シナにても夫婦の道は極めて古く︑﹃杜氏通典﹄に
すいじん いざなぎのみこと いざなみのみことよれば︑燧人氏より始めて夫婦の道ありという︒わが朝にては諾冊︹伊弊諾尊︑伊弊再尊︺二神より始まりしこ
とは︑みな人の知るところなり︒かくのごとく︑夫婦結婚の道は東西ともに上古に起こるといえども︑その儀式︑
制度は世の文明に伴って次第に定まりしは言をまたず︒すでにわが国のごときは︑上代にありては︑男の方より りようのぎげ女の方へ行きて婚儀なせしものと見えたり︒しかして︑結婚の制度を定められしは大宝年間にして︑﹃令義解﹄ うんぬんに﹁凡男子十五︑女子十三以上聴二婚嫁一云云︒﹂︵およそ男子十五︑女子十三以上︑婚嫁をゆるす︑云云︶とあり︒
この結婚のことにつきては︑予かつて教育家の注意を促さんと欲し︑講述したるものあれば︑左に掲ぐべし︒
妖怪学講義
それ夫婦とは︑男女が一生の苦楽をともにせんとの盟約より生ずるところの関係をいう︒今︑結婚の必要
なる理由を示すに三点あり︒︵一︶人は種族保存の義務を有す︒この義務をまっとうせんがために結婚の必 かいろう要起こり︑夫婦の約束をなす︒男女相互の本心に訴えて借老の約束をなすは︑禽獣になくしてひとり人間に
ア ロつアきダつあるものとす︒もっとも︑禽獣は男女相購交すといえども︑ただ情欲を遂ぐるものにして︑人間のごとく道
徳的に一定の約束をなすにあらざるなり︒ゆえに︑禽獣も間々夫婦と類するものありといえども︑情欲の結
合にして︑人間の夫婦は道理上の結合なり︒しかるに︑人間においていたずらに情欲的の結合をなして︑情
欲の冷熱により離合常ならず︑かつて正理をもってこの際に処せざるごときは︑自ら甘んじて人間の品位を
下して禽獣の位置にくだるものというべし︒︵二︶人は孤独にして︑この世において満足をいたすことあたわ ふえきず︒ゆえに︑一男一女互いに提携抹披して 生を送らざるべからず︒これ︑人間自然の規則なりとす︒禽獣
はただその情欲の動けるときのみ男女相ともにするの必要あれども︑平生において相提扶披するの必要なし︒
しかるに︑人間の性情として到底かくのごときあたわずして︑堅固なる男女の約束をなして︑その生存をた
しかめ︑兼ねて幸福を増進せんとす︒︵三︶男女おのおの長ずるところを異にす︒ゆえに︑男女相待ちて︑は
じめてまったき人間たるを得べし︒男の性は活達勇豪にして︑事業を企図し難苦に当たるに適し︑女の性は
しんみつ績密柔和にして︑児子を長育し家事を整頓するに適せり︒ゆえに︑両者相助けてその生計を安んじ︑兼ねて
精神上の和楽を遂ぐべきなり︒
人間夫婦の道理的約束より成り立つは︑これ︑人獣の異なるゆえんにして︑夫婦の道を全うするは︑すな 51 は ヨわち人間の道を全うするものといわざるべからず︒しかれども︑その男女の性質相適せざるときは︑後日破
第七教育学部門
たん綻を醸すうれいあり︒ゆえに︑相約せざるの前に十分配合の選択をつつしみ︑一時の情欲におぼれて永年の
悔いを残さざらんことをつとめざるべからず︒西洋の婚姻を約するや男女随意に相選ぶところにして︑いわ
ゆる自由結婚を行えり︒東洋にては父母これを選ぶものにして︑いわゆる干渉結婚をもって成る︒干渉結婚
の弊は離婚の多きことこれなり︒なんとなれば︑互いに相好投して結ぶところにあらざるをもって︑婚後に
至り男女いずれかその意に適せざるときは︑たちまち相離るるに至るなり︒西洋にては男女相好投して契約
をなし︑それより結婚までは多少の年月あり︑この間互いに往来して相互の性質を熟知するものとす︒ゆえ かいりに︑その婚後において相乖離すること少なし︒しかれども︑自由結婚の弊は︑一時の情欲に制せられて一生
の大事を誤ること往々これあり︒なんとなれば︑少年のときは遠慮に乏しければなり︒これ︑自由結婚の弊 じよう もとするところなり︒また︑この婚姻法の弊は男女の不平均を生じ︑四十︑五十にして嬢を以っており︑孤独
にしてこの世を送るもの多し︒すなわち容貌の醜なる者か︑あるいは資産に乏しきものは︑終身孤独の不幸
をこうむらざるを得ず︒この弊は本邦においては極めて少なしとす︒
配合を定むるには︑ひとり愛情をもってするのみならず︑知慮をも要するなり︒すなわち︑配合せんとす
る対者につき︑一生の利害得失を計量せざるべからず︒昔はバビロンにおいて買婚のことあり︒買婚とは︑
毎年これが市日あり︑金を出だしてその好むところの女子をあがなうをいう︒重婚は往古に行われし婚姻に
して︑多妻をめとるをいう︒この風は今日にても︑その跡を存するものあり︒マホメット教︑モルモン宗に
ては一夫にて数妻を帯び︑多きは十五︑六人を有する者あり︒けだし︑多妻は道理上にては許すべからず︒
その理由は︑︵一︶男女の数はほぼ平均す︵女子の方少し少なきくらいなり︶︒されば︑一夫一婦相結ぶべき
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妖怪学講義
は天然の道理とこそいうべけれ︒もし︑一人にして数人の婦を有すれば︑多数の無妻者を生じ︑すなわち︑
これら無妻者が本来の幸福を略奪して︑これを一人の私有に帰するに当たる︒あに不合理の至りならずや︒
︵二︶男女は人間の資格において権利の同等なるものなり︒しかるに︑一夫多妻は女子の権利を剥奪すること
最もはなはだしきものにして︑天理にもとれるものといわざるべからず︒なんとなれば︑この場合における
女子は︑ただ男子の権利に服従するものにして︑ほとんど奴隷の主におけるがごときありさまなればなり︒
︵三︶夫婦間の精神上の幸福は︑一夫一婦にあらざれば保つことを得ず︒かの一夫に従う多妻者は︑そのたま
ちようけんたま寵替を得たる者も他の奪うところなり︑その勢力を失墜するの恐れは戦々としてやむときなし︒まして おつとその寵替なき者のごときは︑常に良人の顧みるところとならず︑むしろ放捨のわざわいを招かんことを恐る
るなり︒一夫一婦の快楽のごときは︑夢にだも知らざるところとす︒男子は多妻を帯ぶる権力者なるをもっ
て︑はなはだ精神上の娯楽あるもののごとしといえども︑これまた実際︑多妻によりて決して真正なる快楽
を享有することあたわず︒︵四︶一夫多妻を有すれば︑一家の結合強固なるを得ず︒なんとなれば︑一方にお
いては︑婦人間互いに嫉妬して親和することあたわず︑一方においては︑それより生ずるところの児女はみ
なその所生を異にするをもって︑その友愛の情は決して一夫一婦の間に生ずる兄弟のごときを得ず︑ややも
すれば反目して父の寵を争わんとす︒かくのごときは︑なにをもって一家の和合をなすを得んや︒︵五︶一夫
多妻は大いに一家の経済上︑不利益なり︒たとい巨大の資産あるものにしても︑無益に家計を消費するはな ちくしようすべきことにあらず︒以上の理由あるをもって︑一夫多妻の不道理なるや明らかなり︒これに準じて蓄妾も 祝また不道理にして︑あまたの弊害を免れざるものとす︒