ヴィブーティチャンドラの詩稿
加 納 和 雄
インド仏教文献において厳密な意味での歴史資料の現存数が極度に限られてい
る現状にあって,ヴィブーティチャンドラ
(1170–1250頃)1)の自作梵文詩の直筆草
稿
(以下「詩稿」)は,ひとつの史料と呼びうる.彼はインド仏教終焉期である
13世紀に師シャーキャシュリーバドラに随行してインド東部から中央チベットへと
亡命した.しかしそこで送った日々は,必ずしも安らかなものではなかった
2).
本稿で扱う詩稿は,亡命先の苦渋の日々の中で起稿されたとみられる.
詩稿の存在は,
1937年の
Rāhula Sāṅkṛtyāyana(以下RS)の報告により周知され
た.しかし草稿ゆえの難解さや写本写真版の画質の粗雑さ
3)などが,同テクスト
の再校訂や現代語訳といった基礎作業の試みを阻んできた.本稿では詩稿を写本
から解読しなおしてテクストの再制定を目指し,その過程で得られた知見と課題
を提示したい.同作業は,葉少勇氏
(北京大学)にご提供頂いた鮮明な写真画像
にもとづいてなし得た.
下掲の詩稿の梵本
(暫定版)において,[
1]∼[
6]の分節は
RSに従い,小分節は
筆者による.しかし同分節および
RSが分節に付す見出し,そして偈頌の順序に
は改訂の余地が残る.以下,テクストから最低限抽出できる要点のみ提示する.
1: Śākyāśrībhadraへの帰敬,2.1: 恩人への感謝,2.2: 恩人への希望,2.3: 恩人への感謝表明, その人の一族への不満陳述,2.4: 帰郷の決意,2.5: 別離の必然と 留への不満陳述,3.1: 依 存の誡めとよそ者の放逸ぶりと 留への不満,3.2: 蓄財への誡め,4.1: 恩人への感謝表明と 暇願い,4.2: 暇願いと取り巻きへの不満陳述,4.3: 蓄財などへの誡め,4B: 単一の対象にお ける随伴関係について,5: 帰仏偈,6.1: 手紙起稿のいきさつ,6.2: 差出人と宛先,6.3: 飲 酒・非時食・肉食の誡め.[
1]∼[
4]
(詩稿),
[
5]
(帰仏偈),
[
6]
(手紙草稿)は,各々三つの別の葉に記され,
内容も連続していない.今回披見できたのは詩稿の原本
(全一葉)のみであり,
ると裏面は白紙)
.写本本体の奥書に「本書は学者ヴィブーティチャンドラによっ
て書写された」
(likhiteyaṃ paṇḍi[ta]vibhūticandreṇa)と記されるため,詩稿も同一人
物の手になると判断されており,この推定に筆者も同意する.また詩稿には推敲
の跡が複数みられ,紙面上の文字配置も変則的である点で,筆者はこれを複写本
ではなく草稿本と想定した.同写本は
1930年代にはシャルリプクに蔵されてお
り,それ以前はサキャ寺に蔵されていた可能性が高い.詩稿はヒマラヤ産の紙上
に執筆されるため,著者が入蔵後サキャ寺に 留した
1209年頃に起稿した可能
性がある
4).残りの[
5]と[
6]の原本の所在は不明である
5).
暫定テクスト
下掲梵本の中で未解決の箇所は†印で括った.鉤括弧は写本の不鮮明な文字を
示す.写本特有の綴り字や連声の標準化,アヴァグラハの追加,および分節記号
の添削については煩を避けるため報告しない.[
4B]
は
RSに欠く.[
1]および
[
5]の前後数偈は紙幅の都合上割愛した.梵本訂正の根拠と訳注の提示は稿を改
める.
[2]†yatra mahāśrīr dhīr api tatr[a tad aya]ṃ rājā vetti maduktam |† kalyāṇamitraṃ tvam asi mādṛśāṃ daśadigdṛśām || 2.1
evam eva sadā rakṣa samayaṃ guṇa[dhāraka]| ayānayīnasenāḍhyaḥ prajārakṣaṇadakṣiṇaḥ |
lakṣmīṃ paraṃparīṇāṃ tvaṃ putrapautrīgatāṃ naya || 2.2 alam ativiṣamatvād dveṣatṛṣṇopamatvāt
pariṇatikaṭukatvāt saṅgamais tvatprajānām | iti yadi śatakṛtvas tat tad ālocayāmas
tad api tam upakāraṃ vismaren nāntarātmā || 2.3 †siddhaṃ cintādikaṃ sarvaṃ samvāse pi tad āvayoḥ |† svadeśam eva yāsyāmi santu santaḥ sukhaṃ sadā || 2.4 saṃyujyante viyujyante jantavaḥ karmavāyunā |
na syād yad dveṣaleśo pi sthāsyāmy asmin vaśī bhṛśam || 2.5
[3] yady apy atra samīhā vaḥ kim vilambāvalambanaiḥ | †sthavirā[di+sevitam]anīṣām† ādāya gacchatu tvaritam | deśaṃ kim iha sthitvā pramādabahulā hi paradeśāḥ || 3.1 pāpād ṛte dhanaṃ kaṣṭaṃ pāpaṃ kaṣṭataraṃ dhanāt | tena me na dhanaṃ dhanyaṃ dhanādhānasthitasya ca || 3.2
dharmapātrīkṛto yāyān mādṛśas tvāṃ vihāya yat || 4.1 upakṛto pi hi yad yāyān mādṛśaś caraṇāt tava | tvatpārśvaparivarttinyāḥ parṣado rucisambhavaḥ | vaiṣamyaṃ sa mama kṣobhī na dhṛteś cātra kāraṇam || 4.2 sarvvasvaṃ gurubuddhatatsutagaṇaḥ karma svakaṃ māmakam | kiṃ dhānyena dhanena sajjanajanenāsaktyapuṇyānvayaiḥ || 4.3
[4B] apṛthaksiddhayor ādhāryādhārabhāvaḥ samavāyo yathāraṃbhyārambhakayoḥ, pṛthaksiddhānāṃ saṃyogaḥ yathāgnidhūmayoḥ | ekasminn arthe samavāye ekārthasamavāyaḥ rūparasayor iva ||
[5] yaḥ saṃkleśagaṇaṃ jigāya sakalā yaṃ lakṣaṇaśrīḥ śritā dattaṃ yena śiraḥkarādi vibudhā yasmai namaḥ kurvate | yasmān mārabalaṃ nikhilā yasya praśasyā guṇāḥ
doṣā yatra na sarvajanmikaruṇāvaśyāya tasmai namaḥ || 5
[6] bhoṭaṅ gatvā tataḥ sthitvā śrutvā sarvama + + nam | paścān nepālataḥ sthitvā patrīyaṃ prahitā mayā || 6.1 tadīyaṃ varṇṇanaṃ kāvyaṃ paṇḍitena vibhūtinā | ātmaśāstāram ācāryaṃ saṃghaṃ bodhayituṃ kṛtam || 6.2
no madyapo haṃ na vikālabhojī māṃsan na māṃ saṃbhajate kadācit | tīvravratenaiva śrutaṃ kathañcit tal lokapālā munayaḥ pramānam || 6.3 校勘記
2.2b: guṇadhāraka] Ms(不鮮明),guṇādhīna + RS.
2.2c: ayānayīnasenāḍhyaḥ] Ms., apānapīnasenāḍhya- RS.
2.2f: -gatāṃ] Ms., -yatāṃ RS. 2.3a: -opamatvāt] Ms., -opasatvāt RS.
2.3b: -kaṭuka-] Ms., -kaṭaku- RS.
2.4ab: saṃvāse pi tad āvayoḥ] em. (Ms不鮮明,推敲後挿入),saṃvāso pi tad āvayoḥ RS.
3.1 cd: sthavirā[di+sevitam]anīṣām] Ms.(不鮮明),sthavirādiṣu ce (?) me vilabhi (?) nīthām RS.
3.1d: gacchatu] conj., gacchata Ms/RS.
3.2 cd: dhanaṃ dhanyaṃ dhanādhānasthitasya] em., dhaṃ dhanya dhanādhānasthitasya Ms., dhaṃ dhanyadhān (?) sthitasya RS.
4.1c: -pātrīkṛto] Ms., -pālīkṛto RS.
4.2c: tvatpārśva-] Mspc/RS, tavatpakṣe- Msac.
4.2d: °saṃbhavaḥ] Mspc/RS; °saṅga[na]ṃ Msac. 4.2e: vaiṣamyaṃ] em., vaisamyaṃ Ms/RS.
4.2f: na] Ms., ra(?) RS. 4.2f: dhṛteś] em., dhṛtiś Ms/RS.
5c: bibheti] em.(Ms未見),vibheti RS. 6.2c: ācāryaṃ] conj. (Ms未見), āvārsye (?) RS.
以下は詩稿と手紙の内容を端的に示す数偈の試訳である.
(詩稿から抜粋:)私は,自分の国にいざ帰りましょう.[そこでは]つねに快適なままに暮
も[私に]怒りのかけらすらも無いのでしたら,私は大いに喜んでここ(チベット)に留 まりたいのですが(2.5).…人は速やかに去るものです.この地(チベット)に留まって 一体何になるでしょうか.なんとなれば,「よそ者」たち(インド人の同僚たちか)は専ら 放逸だからです(3.1). (手紙から抜粋:)チベットに赴き,そして[そこに]滞在して…(欠字)のことを聞いて から,その後,[ネパールに]滞在し,ネパールから私はこの手紙を送りました(6.1).そ の[手紙]に含まれる陳述と詩は,学者ヴィブーティによって,わが師たる阿闍梨と僧伽 に知らせるために記されたものです(6.2).
典故の使用
これらの韻文の韻律には
ślokaのほか,
Mālinī (2.3),
Śārdūlavikrīḍitā (5)、
Indravajrā (6.3)が使用され,技法としては
yamaka (2.4cd, 3.2, 6.3b),
yāpadeśa (5,yaḥ を全7格で表現)
,そして下掲の典故の使用
(haraṇa)が認められる.
(典故を踏まえた詩稿の偈) alam ativiṣamatvād dveṣatṛṣṇopamattvāt pariṇatikaṭukatvāt saṅgamais tvatprajānām | iti yadi śatakṛtvas tat tad ālocayāmas
tad api tam upakāraṃ vismaren nāntarātmā || 2.3 (典故とされたダルマキールティの偈)
alam aticapalatvāt svapnamāyopamatvāt pariṇativirasatvāt saṅgamena priyāyāḥ | iti yadi śatakṛtvas tattvam ālocayāmas
tad api na hariṇākṣīṃ vismaraty antarātmā || (Subhāṣitaratnakoṣa 477)
[詩稿試訳]あなたの「一族」との会合はもううんざりです.あまりにも難儀であり,怒り につながる渇愛に喩えられるものであり,あげくの果ては辛苦となるからです.このよう なあれやこれやのことを百回にもわたって私たちは省みるのですが,それでも内心は[あ なた御自身から授かった]その恩恵を忘れないでしょう(2.3). [典故試訳]愛しいひととの 瀬はもううんざりです.あまりにも移り気で,まるで夢ま ぼろしのようであり,あげくの果ては幻滅することになるからです.このような真実を百 回にもわたってわたしたちは省みるのですが,それでも内心は鹿の瞳をした女のことを忘 れることはないのです6).
典故は,移り気な愛しい人との 瀬にうんざりしながらも内心はその人を忘れ
られないことを謳い,それを踏んだ詩稿は,恩人の「一族」
7)との会合にうんざ
りしながらも内心は恩人から蒙った恩恵を忘れられないことを謳う.この典故は
詩稿所収写本中の別頁に詩稿作者自身の手でメモ書きされるので,この偈が典故
とされた点は確実である
8).写本本体がダルマキールティの作品への注であるた
め,その人の詩を典故に用いることは自然である.詩を贈る相手は典故に気づく
と期待された人物であり,恩師シャーキャシュリーバドラに同定されうる
(RSは タクパギェルツェンを予想する).この改作詩が写本紙面の上部左端,つまり冒頭に
記されているのは,同詩がこれらの偈のなかでも重要なものであったことを示唆
する.同偈の趣旨は,
4.1–4.2において繰り返される.
衣・食・書をもってして久しく大いに育て上げて下さいました後で,法の器たる者にまで していただきました私のような人間は,かの地(故郷)へと去るべきです―[恩人たる]あ なたのもとを離れた後に(4.1).[私はあなたに]養って頂きましたが,私のような人間は, あなたの膝元からそこ(故郷)へと去るべきなのです.あなたの傍らで働く取り巻きから は,嫌気がさしました.そのこと(嫌気がさしたこと)は,難儀なことであり,私を動揺さ せるばかりです.そして[私に]安定をもたらすものは,ここ(チベット)にありません (4.2).おわりに
詩稿[
1]∼[
4]は
1209年頃のサキャ 留時に起稿されたとみられ,その目的
は,師への謝意表明
(2.3, 4.1, 4.2),「一族」「取り巻き」およびチベット滞在への不
満陳述
(4.1, 4.2, 3.1ef, 4.3),そして暇願い
(4.1, 4.2b, 2.4)を恩師に申し出るものだった
ことが読み取れる.いっぽう手紙[
6]は,
1213–1230年頃にネパールで起稿され
たとみられ,カシュミールに帰郷した師とその弟子たちの消息を伺い,弟子たち
の放逸に対して勧告を促す目的で記されたことが読み取れる.
1)van der Kuijp 2013: 162.
2)Steans 1996. チベットの伝承にもとづく. 3)Watanabe 1998. 4)Stearns 1996, Steinkellner 2004: 9–12. 5)[5][6]は目下,RSの翻刻のみが参照可能である.[5]はWatanabe 1998所収の写真 0aに含まれるとされるが画質不鮮明のためほぼ読めない.[6]はSāṅkṛtyāyana 1937: 13 によるとオリッサ・ビハール研究所所蔵と報告される. 6)典故の偈の現代語諸訳および先行研究についてはStraube 2009, 金沢 2015参照. 7)「一族」(prajā)はインドからチベットへ随行してきた小パンディタと呼ばれる同僚た ちを指すか.4.2では「取り巻き」(parṣad)と換言する. 8)Sāṅkṛtyāyana 1938: 525.14–16.サンスクリット詩における借用(haraṇa)については,上 村 1989を参照(川村悠人氏のご教示による). 〈参考文献〉 金沢篤 2015 「ダルマキールティの恋歌」『インド論理学研究』8: 335–364.
上村勝彦 1989「サンスクリット詩における借用(haraṇa)の問題」『東洋文化研究所紀要』107: 1–60.
Sāṅkṛtyāyana, Rāhula. 1937. Second Search of Sanskrit Palm-leaf Mss. in Tibet. Journal of the Bi-har and Orissa Research Society 23(1): 1–57.
Sāṅkṛtyāyana, Rāhula. 1938. Dharmakīrti's Pramāṇavārttika: With a Commentary by Manoratha-nandin. Patna: Bihar and Crissa Research Society.
Stearns, Cyrus. 1996. The Life and Tibetan Legacy of the Indian Mahāpaṇḍita Vibhūticandra. Jour-nal of the InternatioJour-nal Association of Buddhist Studies 19(1): 127–171.
Steinkellner, Ernst. 2004. A Tale of Leaves: On Sanskrit Manuscripts in Tibet, Their Past and Their Fu-ture. 2003 Gonda LecFu-ture. Amsterdam: Royal Netherlands Academy of Arts and Sciences. Straube, Martin. 2009. Dharmakīrti als Dichter. In: Pāsādikadānaṃ: Festschrift für Bhikkhu
Pāsādika, herausgegeben von Martin Straube, Roland Steiner, Jayandra Soni, Michael Hahn und Mitsuyo Demoto, 471–511. Marburg: Indica et Tibetica Verlag.
van der Kuijp, Leonard W. J. 2013. A Note on Manorathanandins Pramaṇavarttikavṛtti in Tibet-libre. In: Wading into the Stream of Wisdom: Essays in Honor of Leslie S. Kawamura, ed. Sarah F. Haynes and Michelle J. Sorensen, 161–192. Berkeley: Institute of Buddhist Studies and BDK America. Watanabe, Shigeaki, ed. 1998. A Sanskrit Manuscript of Manorathanandin's Pramāṇavārttikavṛttiḥ.
Patna: Bihar Research Society; Narita: Naritasan Institute of Buddhist Studies.
(本稿で使用した梵本資料は葉少勇氏からご提供頂き,草稿段階において種村隆元氏,
Harunaga Isaacson氏,張本研吾氏からご教示賜りました.記して謝意を表します.平成29
年度科学研究費補助金基盤B[代表 久間泰賢]26284008,挑戦的萌芽研究[代表 松田和
信]16K13154,基盤C[代表 加納和雄]17K02222,および上廣倫理財団学術研究助成に
よる研究成果の一部.)
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