近代中国思想史論
著者 有田 和夫
学位授与大学 東洋大学
取得学位 博士
学位の分野 文学
報告番号 乙第102号
学位授与年月日 1997‑10‑27
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004054/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
近代 中 国 思想 史 論
有 田 和 夫
近 代 中 国 思 想 史 論
目
次
第一章 序 論
第一節 方法について⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
‑
三 W 一
一 一 一 一一
七
第 二 章 変 法 運 動 期 に お け る 変 革 論 の 思 想 史 的 特 性
り変法運動期の思想概況:
第三節 変革意識の尖鋭化−譚嗣同を一例として
附 変法運動期における気と以太⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
次 第四節 反変革の思想−﹁翼教叢編﹂
W 七 つ 九 八 四
第 三 章 義 和 団 以 後 に お け る 適 応 と 進 歩 の た め の 方 法 の 摸 索
第三節 梁啓超による適応の方式化
‑ W
‑
第五節 無政府主義運動⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
第四章 清末における士人意識
‑ 九 七
二三
三五
二三四
⁝⁝一一四っ
‑ ‑ ‑ ‑
W 四
四 W
二五九
⁝⁝⁝一一一八七 第二節 梁啓超の場合
第三節 譚嗣同の場合⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
第五節 康有為の場合
第六節 反変革論者の場合⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝
第七節 結 び
附
第 五 章 結 論
次
目
第一節
第二節 義和団以後⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝一一八七
第三節 総 括
一 一 九 四
第 一 章 序 論
一般に︑歴史的に見て︑アヘン戦争から五・四運動までの時期を近代として扱っているが︑清未というのは︑
王朝体制が倒壊した辛亥革命を区切りとする近代前期を指すものである︒もちろん︑清朝の滅亡によってアヘン
戦争以来の思想の流れが終ったわけではないのであるが︑清朝という異民族王朝の存在を前提とした思想の展開
であったか否かによって︑質的にも異なる面が出て来たわけであるから︑ひとつの区切りと考えてもよいであろ
う︒ただ︑これはたんなる指標にすぎないのであって︑清末に活躍した人々が︑辛亥革命以後もそれなりの存在
価値をもって活躍していたのであるから︑当然のことながら︑しばしばそれに言及することになるであ令っ︒つ
まり︑清未というのは︑あくまでも近代の前期という意味であって︑思想史︵または哲学史︶を王朝の興亡によっ
て区切るのとは︑おのずから別の意味をもつものである︒
経学史または儒家思想の展開を主軸とした学術思想史においては︑孔丘および先秦儒家の思想を中国思想の最
も基本的なものと設定し︑それ以後の儒家思想の系譜に従って︑各王朝ごとにその経学的展開の跡をたどり︑そ
の結果︑学術思想史の発展を特色づけるものとして︑漢唐訓話・宋明性理・清朝考証をあげるのである︒すべて
がそうではないにしても︑多くの思想史︵または哲学史︶を称する論述が︑これらの特色を前提としてきたよう
である︒たしかに︑経学すなわち聖人の教えについての解釈学を軸とすれば︑このような特色を指摘することも
できるであろうが︑現在では︑経学ですら聖人の教えの解釈に名を借りた個人の思想の表明であるとの見解も一
般的であるようで︑しかもこうした見解は︑王朝の興亡とは必ずしも即応しない社会経済史的な流れを基礎とし
た思想の︑歴史的展開を主軸としているもののようである︒
清末の思想も︑経学史的に見れば︑清代経学または清代学術思想の余であるにすぎないであろう︒少なくとも
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一九四五年以前においては︑ごく一部の例外を除いては︑このように扱われるのが一般的であったと言うことが
できる︒しかしながら︑清代の学術を代表するとされる考証学はともかくとして︑それを支えてきた思想的基盤
そのものまでが︑清朝の倒壊とともに忽然として姿を消したわけではない︒アヘン戦争を境とする中国的世界︵天
下︶の崩壊と国内諸矛盾の激化という︑清末中国の危機的状況に対して︑既存または新来の思想を総動員するこ
とによって︑新生面を切り開いて行こうとするさまざまな試みが始められたことは︑厳然たる事実である︒しか
もそれは︑必ずしも体制内的変革とか反体制とかの思想からばかりでなく︑体制イデオロギーとしての朱子学の
側からも行われたのである︒それらは︑やがて五・四新文化運動のなかで︑伝統的なもの一切とともに︑打倒の
対象となるのであり︑辛亥革命がながい中国革命の始まりであると同様に︑清末思想は︑五・四新文化運動をもっ
て現代への区切りを迎える近代中国思想史前期の思想と見なければならないのである︒
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第1 節 方 法 につ い て
第 一 節 方 法 に つ い て
清末思想の研究においても︑儒家思想中心の経学史的な方法の影響は︑いくつかの点で認められる︒たとえば︑
康有為らの変法維新論に章炳麟らの種族革命論を対置させる場合に︑清末公羊学と左氏伝学とを対置させる方法
である︒たしかに︑理念的には︑一方が汎世界主義的傾向によって満・漢の別を超えようとするのに対し︑他方
は︑華夷思想によって満・漢の別を厳しくするのであり︑しかも清末の変革志向者たちは︑経学的な影に色濃く
覆われていたのであるから︑彼らの発想が多分にそれによって影響されていたことは認めなければならないであ
ろうが︑公羊学と左氏伝学の対置は︑まぎれもない儒家思想中心の経学的方法である︒後述するように︑﹁国粋
学報﹂には︑明らかに公羊学者である屡平の論文を掲載しているのであって︑このことによって見れば︑康有為
個人に対する章炳麟の好悪の情を含めて︑経学的伝統的︵もしくは家学的︶な︑そして理念的な対立以外の︑何
らかの根底的なものの存在を十分に予測させるものがあるのである︒ただし︑この公羊学と左氏伝学の対置とい
う経学的方法の導入には︑恐らく経学史的な分析の意図はなく︑むしろ思想史的な分析と信じられている点に問
題があると思われるのである︒
しかしながら︑清末思想研究の方法として最も疑問が多いと思われるのは︑革命史的な方法と研究対象への自
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己投影︵あるいは感情移入︶的な方法である︒革命史的な方法というのは︑単純化して言えば︑現在の革命の成
果の上に立って︑革命の進展にとってどの思想がプラスであってどの思想がマイナスであったか︑言い換えれば︑
革命的であったか反革命的であったかを判断するもので︑思想が基本的には下部構造の反映であるとする見方で
ある︒これはとくに中国で一般的な方法であるが︑日本においてもこの線に沿うものが多い︒この方法は︑中国
社会の構造的変化および中国をとりまく諸情勢の変化の上に︑つまり中国の主体的客観的諸条件の変化の上に
立って思想︵史︶をとらえようとするもので︑従って︑王朝的区分の方法を自動的に排除する点で︑画期的な方
法であった︒しかしながら︑この方法では︑現時点における革命の成果を積極的に肯定し︑はなはだしい場合に
は絶対化して︑その上に立って過去を検討することになるであろう︒現代に生きる以上︑現代的視点をもって過
去を見ることは避けられないにしても︑このような方法による場合には︑未来にわたる思想変化のメカニズムを
より科学的にとらえることはできないであろう︒革命の成果にとって何か正しく何か革命的であったかの説明は︑
あくまでも現時点にとって意味をもつものであって︑過去を過去として把握し︑それを未来につなげることには
ならないのである︒まして︑現時点の革命の成果を絶対化して過去を検討する場合には︑それが一種の革命的道
統論になる危険性をもつことは避けられないであろう︒さらに︑この革命史的方法においては︑個々の思想は唯
物論か唯心論かによって︑革命的か反革命的かに辨別されるが︑これは︑思想史︵または哲学史︶は唯物論と唯
心論の対立と闘争の歴史であるというテーゼにもとづくものなのである︒このテーゼそのものについてはともか
く︑ここから唯物論は革命的で唯心論は反革命的であり︑従って革命的人物は唯物論者で反革命的人物は唯心論
者である︑というきわめて図式的な結論がっくり出されるのである︒図式的であるというのは︑たとえ唯心論者
第1 節 方 法 につ い て
であっても︑特定の歴史的条件下では革命的な役割を果すことがありうるからである︒たとえば譚嗣同は︑どの
ような角度から見ても唯心論者以外の何者でもないが︑その思想と行動とが︑後の排満革命論者にも評価された
ように︑康有為らとは質的に異なったより革命的な人物︑変法論から革命論への過渡的存在として評価されてい
る︒従ってその思想も︑唯物論あるいは唯物論的要素の多いものとされ︑そこで﹁仁学﹂に見られる﹁以太﹂が︑
中国的唯物論としての﹁気﹂の思想に︑きわめて強引に結びつけられることになるのである︒ところが︑後に述
べるように︑﹁以太﹂は﹁気﹂とは異質であると判断せざるをえないものなのである︒とすれば︑革命的である
ことと唯物論的であることとは︑必ずしも結びつかないであろうし︑唯心論者が革命的であっても少しも支障は
ないであろう︒なお︑これとは逆に︑康有為や梁啓超は︑むしろ必要以上に唯心論的要素が摘出され︑その反革
命的性格が強調されているのである︒従って︑この方法によるかぎり︑過去を過去としてその実像を定着させる
ことは因難であろうと思われるのである︒
次に︑自己投影︵感情移入︶的な方法というのは︑研究対象となる人物について研究者自身があらかじめ感覚
的につくりあげた人物像をもって︑その著作や伝記的資料に見られる思想的諸要素をつなぎあわせ︑その精神的
遍歴を跡づけようとするものであり︑日本独特の方法であるようである︒その人物像はしばしば研究者自身であっ
て︑従って対象人物の精神的遍歴は︑しばしば研究者自身のそれと重複するのである︒しかしながら︑このよう
にしてつくりあげられた人物像は︑その研究者自身にとっては実像と自覚されているのであって︑自己投影とか
感情移入とかの自覚がまったくないのがふつうである︒これはまさに日本近代文学における私小説の作風そのま
まである︒この方法による研究作業において問題となる最も重要な点は︑中国と日本の歴史的社会的文化的相異
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が︑作業過程ではいつの間にか忘却され︑研究者自身の思想や感情が研究対象にそのままスライドされたうえで︑
さまざまな判断が下されるということである︒それは︑欧米における事象から抽出された概念や方法がほとんど
無反省に研究対象に適用されるよりは︑はるかに主観性の強い︑その意味では恣意的になりやすい方法であろう︒
従ってそれは︑評論としては有効であろうが︑研究方法としては妥当性があるとは思われないのである︒
ところで︑従来宋代以降の思想史についての学派系譜的な研究は︑朱子学体系を大前提とし︑しかもそれ自体
朱子学的フィルターを通してのものであるため︑朱子学または朱熹思想そのものを︑思想史を構成する個々の思
想として︑その意味を考えるという視点もないし︑まして︑宋学ないしは朱子学の思想史における革新的意義
⁝⁝時代的要請による新しい価値観倫理観の創造⁝⁝を考えるという視点にも欠けている︒もっともこれは︑経
学史的視点に起因する欠陥でもあろうが︑宋代という言わば革命的な時期を︑あらゆる価値観の転換変質の時期
とする思想史的視点にもともと欠けているばかりでなく︑いわゆる経学史自体︑朱子学的フィルターを通過した
ものであるという認識が不足しているのである︒これには︒伝統的とか︒封建的とかいう概括的概念による
影響も考えられるが︑この実体不明な概念には︑一方では波長の短い近代を経過した欧米的視座から見た中国の
停滞的傾向︵実は波長が長いのだが︶を前提とする視点︑中国が古来殆ど不変であるという視点があり︑他方で
は道統論とか正統論とかいう朱子学的︵宋学的︶ フィルターを通した視点から︑時として︒伝統というコトバ
をそれに重ね合わせ︑宋代以前と以後との発想の基盤としての歴史的社会的諸条件の質的相異を見落とした見方
がある︒いずれも︑宋代が歴史的転換期であるという認識に欠け︑道統論とか正統論とかは新しい価値観倫理観
の創造への努力を示すもの︑という認識に欠けている︒︒伝統の内実は朱子学的であるが︑伝統という考え方
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方 法に つ い て 第1 節
自体もまた朱子学的ないしは宋学的である︒
︒封建的というコトバも同様で︑中国における諸事象を研究する場合に︑それを内側からではなく︑西欧的
事象から抽出された史的唯物論の歴史発展原則の世界性を先験的な大前提として︑それを外側から︒適用しよ
うとしているにすぎないのである︒これは︑革命史的見方に特有なもので︑現在を肯定的︵ある場合には絶対的︶
前提として︑前︒近代的諸要素︑または人民共和国成立以前の体制的もしくは反革命的要素を含んだすべてを
概括するものである︒さらに言えば︑これは前述のように︑唯物論と唯心論の対立と闘争の歴史というテーゼの
機械的適用であるが︑もともとこのテーゼは︑資本主義形成過程において︑ヨーロッパ中世キリスト教神学に対
抗して此岸に人間自身の支配する世界を築きあげようとした近代思想の営みを念頭に︑構造的に抽出されたテー
ゼであり︑先秦時代から︑絶対的人格神を生み出さず︑極めて即物的現実的に展開してきた中国思想の歴史に︑
︒適用すること自体大変危険なことであり︑︒適用の本来的意図に反して教条的非科学的になってしまって
いるのである︒
いわゆる帝国主義の時代に入り︑欧米人にとってはアジアが支配の対象となった時代から︑欧米は世界の中心
もしくは世界そのものであり︑欧米の文化が文化そのものであって︑その尺度がすべての基準と意識されたが︑
一方ではアジア地域の人々がその尺度を欧米文化への信仰とともに受容することを文明的と考え︑欧米近代化の
過程をなぞることが︒近代化″であると考えるようになったことが︑︒適用の意識上における要因であろう︒
その結果︑欧米と言っても決して文化的歴史的に均質であるわけではない︑という事実が︑我々自身の︒欧米
という巨大な枠のなかに封じ込められてしまったのである︒
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西欧所産の思想史原則の︒適用がアジア特に中国にとって概括的教条的で︑それに疑問を感じる以上︑その
正確な理解と公式風な適用に腐心することは無意味であろう︒それは︑中国の過去の思想をその時代相において
とらえる可能性を断ち切ってしまうからである︒にもかかわらず︑漢学的世界を抜け切れぬ中国思想研究におい
ても︑我が国に西欧の近代哲学が紹介されてから︑その概念の正確な理解と適用なくしては哲学とは見なされな
くなるにつれて︑西欧的な羅忌戸史とその概念を基準とする︒哲学研究がその新しい装いとなってきている
が︑︒哲学が概念の学であるならば︑ある文化圏に生まれた概念を他の文化圏に︒適用することは︑文化の
歴史性と社会性を無視したことになるし︑人間の思考がそれぞれ特有の歴史的社会的諸条件のなかで行われる営
みであるという基本原則を忘れていることになるであろう︒このことは︑当然のことながら︑思想形成の基盤と
なる歴史的社会的構造と発展の形式の検討においても考慮されなければならないことである︒
ただし︑私はここで︑西欧所産の諸原則ひいては方法論を拒否または否定しようとしているのではない︒これ
まで誰一人として︑その世界性を理論的にではなくあくまでも事実の上に立って証明した者はいないのであるか
ら︑無前提に︒適用するのではなく︑中国それ自身の事象の検討を通じて︑逆にその世界性を検討する必要が
あると言っているのである︒結果として︑その世界性が証明されるかも知れないからである︒
さて︑ある時代に形成された思想は︑それを受けとめる側の主体的諸条件︱個人の生活環境だけでなく︑歴
史的社会的制約をも含むIによって︑承け継がれる部分が異なり︑その思想に対する評価にもさまざまなもの
を生じさせるのであって︑この営みがくりかえされた結果︑思想の変化発展というものが生まれ︑思想史が形成
されるのである︒このようにして現われた新しい思想は︑異質の条件下における異質の思想として生み出されて
第1 節 方 法 につ い て
くるのであって︑もはや過去の思想とはまったくかかわりがない︑と言ってよいほどのものとなってしまうはず
である︒従って︑思想史を語る場合には︑あくまでもその歴史的現在点で過去の思想がどのような意識におい
て受けとめられていたかが間題なのであって︑本来︑過去とのつながりを図式的に説明するにすぎない系譜的な
論述は︑現象的説明にはなりえてもそれ以上の意味はもたないことになるであろう︒つまり思想は︑いわば商品
生産のように︑それを生み出した個人の手を離れたその瞬間から︑本人の意志とはかかわりなく︑非系譜的に︑
ひとり歩きを始めることになるのである︒ただしこれは︑思想がそれ自身の発展法則によって展開するという意
味ではない︒
変革期という歴史的時点においても︑過去をどのようにとらえていたかということは︑未来をどのように考え
ていたかということと常に不可分の関係にある︒つまり︑その歴史的時点において︑現状打開のために未来を考
えて行くという発想によって︑過去が考えられていたと見るべきなのである︒︒清末中国の危機的状況の中でも︑
同様に︑ほとんどの変革志向者たちが︑それぞれの活躍した時点において︑それぞれの立場で国家の前途につい
て危惧を感じ︑現状打開と国家の理想的再建のために過去を検討し︑未来についてさまざまな可能性を追求して
いたはずである︒もしも︑その後の情勢の変化の中で︑彼らが︒反動的になったからと言って︑彼らを否定的
に解釈するならば︑彼らがその歴史的時点において果した役割を︑まがりなりにも理解することさえ不可能になっ
てしまうであろう︒従って︑彼らが当時における変革意識のまぎれもない一部を構成するものであったことを前
提に︑思想史における彼らの実像を定着させるために︑革命1反革命という対立の図式によってではなく︑彼n﹈らに共通する意識を抽出し︑彼らの思想形成の構造を明らかにしなければならないのである︒
ここに意識というのは︑個々の人間が︑その歴史的社会的な枠組の中で︑それぞれの現状認識にもとづいて︑
現実の事象をどのように感じどのように反応したかについて言い︑未だ思想と言えるほどの統合性のない状態を
言う︒そのような個々の意識をつらぬき共通性のある全般的傾向を意識情況とする︒個々の思想は︑個々の意識
と意識情況との相互の影響関係の中から生まれてくると考えられる︒ただし︑個々の思想の形成に先だち︑ある
いは同時進行的に︑個々人の思考の基本型−ものの見方とも言うべきものが形成されるであろう︒この思考の
パターンは︑一旦形成されると︑思想の見かけの変化にもかかわらず︑根本的には変えられることはなく︑意識
の在り方︑つまり状況把握の角度・視座を決定づけると考えてよいであろう︒従って︑そこに個々の思想の特性
が表れるのである︒そして︑意識構造というのは︑個々の意識と意識情況との相互の影響関係によって思想が生
まれる際のメカニズムとする︒このメカニズムは意識と意識情況とを逆に規定するものでもある︒意識構造自身
は︑歴史的にまた社会構造的に大きく規定されているのであって︑いわゆる下部構造と上部構造との結合部に位
置すべきものであろう︒それは新しい下部構造の形成にやや遅れて形成され︑その下部構造の崩壊と消滅にやや
遅れて崩壊し消滅するであろうと思われる︒本論においては︑このような意識構造論の立場で︑検討を進めて行
くことになる︒
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第2 節 こ の 論 文 の構 成 につ い て
第 二 節 こ の 論 文 の 構 成 に つ
い て
一八四〇年のアヘン戦争は︑中国における近代史の開幕であり︑中国的世界崩壊の始まりであるとされるが︑
天下国家の崩壊を自認するに至ったのは︑太平天国の滅亡を三年後にひかえた一八六一年のいわゆる総理街門の
設置においてであったと考えられる︒これは︑諸外国とりわけ列強諸国を︑朝貢国的地位から対等な国家として
認知することによって︑自国をグローバルな世界の中の一国として認識するに至ったことを意味する︒また︑太
平天国の出現は︑外国の異質な宗教的権威と強力な軍事力とをひきこむことによって︑いわばこの状況を内側か
ら確認する機会を与えたと同時に︑体制的イデオルグたちにみずからの守るべき立場を確認させ︑やがて中体西
用論を生み出す契機を与えたのである︒
一八九四〜五年の日清戦争敗北の結果︑中体西用論を思想的な拠りどころとして︑軍需工場の開設・鉄道の敷
設・鉱山の開発などを進めてきた洋務運動か破綻し︑中国的世界の崩壊にとどまらず︑やがて滅種にまで至るで
あろうとする危機的状況の共通認識が生まれ︑康有為らによるいわゆる公車上書︑孫文らによるいわゆる広東挙
兵︵第一次蜂起︶という︑変法派と革命派の同時的生起︵一八九五年︶に象徴されるような︑逼迫した意識情況
をつくり出すこととなるのである︒従って︑第二章第一節では︑洋務運動期から変法運動期に至る時期への導入
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部もしくは前提として︑太平天国期における共通意識と変法運動期の思想概況とについて略述することにする︒
かくして︑康有為らによって内政の変革を求める変法論が︑そして後には革命論が︑中国の衰亡をくいとめ列
強に伍してやがては栄光の座をとりもどすべき基礎理論の探求︑いわば世界的平等権の希求とも言うべき基礎理
論の探求をともなって︑展開されて行ったのである︒もちろん︑この時期においても︑一八九八年における蘇輿
の﹁翼教叢編﹂や張之洞の﹁勧学篇﹂などに見られるように︑体制側イデオルグにおける反変革のための理論の
再構築も︑急速進められることになったのである︒第二節で康有為の変革思想体系化の試みのもつ意識構造的意
味を︑第三節で譚嗣同をモデルとして︑この時期における変革意識の尖鋭化を︑そして第四節では︑体制的思想
の尖鋭化の例として︑反変法論の集成である﹁翼教叢編﹂の内容を︑それぞれ検討することとする︒
ここで︑第二章と第三章の構成について一言しておく必要があるであろう︒それは︑従来︑とくに革命史的見
方に拠る場合には︑変法派を康・梁派と称するように︑師弟関係にあった康有為と梁啓超とを中心にすえ︑その
反動的反革命的側面をも併述して︑譚嗣同の思想の革命性︑革命論への過渡的な性格を強調するのが一般であっ
たからである︒また厳復も︑変法運動期において︑有名な四篇の政治論文を発表しているのであるから︑変法運
動の思想として論ずる場合には︑当然厳復についても康有為らとともに論じなければならないであろう︒しかし
ながら︑後述するように︑譚嗣同の思想上のテーマは︑あくまでも変法運動期における﹁変﹂と﹁通﹂という共
通のテーマに属するものであり︑従って︑変革意識のあり方も︑このテーマの中に限定されていると考えられる
のである︒一方︑厳復による進化論の紹介と︑梁啓超によるその一般化は︑義和団以後における状況の一層の悪
化にともなって︑是が非でも﹁適者﹂﹁優者﹂にたらなければならない︑とする共通のテーマを浮びあがらせ︑
こ の 論 文 の 構 成 に つ い て 第2 節
このテーマの下に︑巌復は危機意識を定式化し︑梁啓超は分割支配︵瓜分︶を回避して中国を発展させるための
方法を編み出したのであるが︑彼らには︑たんに西学の紹介だけでなく︑西学に拠る思想の展開があったのであ
る︒変革意識について見ても︑すでに変法運動期において︑義和団以後の共通のテーマに対応すべき発想があっ
たし︑また︑そこから引き出された思想の︑現実への対応の連続性と有効性とによっても︑意識構造としてとら
えるためには︑むしろ積極的に義和団以後に分類すべきであると思われる︒すなわち︑第二章と第三章は︑以上
のように︑譚嗣同と厳復・梁啓超との思想展開における共通テーマの相異︑およびそのテーマに対応する変革意
識のあり方の相異︑などを基準として区別し構成したものである︒なお︑康有為についてはとくにふれなかった
が︑同じ理由から︑厳復・梁啓超と区別することができるであろう︒
さて︑前述のような反変革論のための理論再構築の努力にもかかわらず︑一九〇〇年の義和団事件の発生と︑
その経過に見られる扶清滅洋から反清反洋への一般的意識変化にともなって︑︒何らかの変革を求める論調が大勢
を占めるに至るのである︒それは︑さまざまな雑誌類や翻訳書の出版において︑さらには小説の世界においても︑
認められる顕著な現象であったのである︒ただし︑義和団の評価に関しては均しく否定的であり︑革命論におい
ても否定的要素としてとらえられていたほどに︑義和団事件が急激な革命論の展開に抑止的役割を果したことも︑
見逃せない事実である︒第三章第一節では︑このような義和団以後の意識情況について略述することとする︒
こうした状況の中で︑一九〇五年に中国革命同盟会が成立し︑これを機に変革志向者たちの中にいわゆる改良
派と革命派の対立が生まれたのであるが︑同年行われた科挙制の廃止は︑科挙制が有名無実化してすでに久しい
とはいえ︑旧知識人層の実生活上の希望をうちくだき︑彼らの多くにとって︑清朝の存続は少なくとも無意味な
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ものとなり︑彼らをラディカルな方向に追いやることとなったのである︒そればかりか︑これは王朝としての責
任を放棄することを意味したのである︒この間︑変革の方法をめぐって︑改良・革命両派の間で論争が行われた︒
この論争は梁啓超と汪兆銘とを代表とするものであったが︑第三章第四節では︑彼らの発想の基礎に共通する意
識を見出して︑この時期の変革意識のかたちがどのようなものであったかを検討して行きたいと思う︒
一方︑辛亥革命に至るまでの情勢の複雑化にともない︑革命派内部にもさまざまな思想傾向が現われるが︑そ
の中で辛亥革命以後にまで何らかの意味で影響があったものに︑劉師培・呉敬恒らの無政府主義と章炳麟らの国
粋主義とがあるが︑とりわけ前者は︑無政府主義が当時の世界思潮の最先端を行くものと見なされたために︑第
三章第四節に指摘する汪兆銘の段階飛躍論とともに︑その受容は︑列強と並び立たんとして世界的平等権を希求
し︑世界的レベルへの飛躍的到達を願望する意識と密接につながるものであったのである︒それ故︑第三章第五
節では︑このような意識情況を分析するうえでの最適の事例として︑清末における無政府主義をとり扱うことと
するが︑社会主義の先駆的役割というような角度からの検討は行わないこととする︒なお︑国粋主義については︑
第四章の清末における士人意識を理解するための補助的なものとして検討することとする︒
一九一一年の辛亥革命は︑しばしば指摘されているように︑綿々として続いてきた王朝体制の終焉を意味する
ものでしかなかったし︑新たなる革命︑毛沢東のいわゆる新民主主義革命の発端でしかなかったのである︒しか
も︑辛亥革命に至る過程では︑その変革論のほとんどすべてが︑後述するように︑民を政治の客体とみなす伝統
的な士人意識にもとづく知識人主導型の変革論であった︒しかしながら︑一九二一年の中国共産党の成立によっ
て象徴されるように︑それはやがて︑国民的規模における生活次元での危機意識を組織化し︑それを変革の子不
16
の 論文 の 構 成に つ い て 第2 節 こ
ルギーとしなければならないとする意識に︑徐々にではあるが︑変って行くのである︒実は︑この意識の変化に
こそ︑民が政治の主体であるとする発想の原点と︑ひとつの思想史的な区切りとが求められなければならないで
あろう︒ただし︑これはあくまでも論理的に考えたうえでの原点であり区切りであって︑現実には︑士人意識は
その相貌を変えつつ︑依然として根強く存在しつづけたように思われるのである︒これは恐らく︑新知識人の出
自と深いかかわりをもつものであろう
︒
従って︑第四章では︑士人意識の代表的な事例を︑これまで論じた主要人物について︑重複を恐れずに詳論し︑その本質としての朱子学的性格と変革思想における意味とを論ずること
になる︒
清末民国初年に活躍した人々の思想には︑朱子学的特性をもっだものがしばしば現れていて︑これが︑彼らの
思想の形成と実践行動における倫理的或は経世的な意識につながる重要な契機・発想の原点とも言うべきものを
提供していたという事実がある︒その代表的なものが︑修己治人を基に経世済民を責務とする士人意識である︒
この士人意識については本論のなかで詳論することとするが︑それが朱子学を肯定する否定するにかかわりなく︑
朱子学を意識するとしないとにかかわらず︑そしてさらに︑︒革命的か︒反動的かにかかわりなく︑現状変
革への強い使命感として現れていることに重要な思想史的意味がある︒
恐らくこれは︑科挙における経典解釈学となった朱子学が︑朱子学としてではなく︑学問として︑さらには素
養として意識され︑人々の骨肉と化して︑その生き方在り方の基本となっていったことと深くかかわる現象であ
ろう︒従って︑少なくとも明代以降時代の経過とともに︑聖人像をはじめ理想的な生き方在り方にいたるまで︒
17すべてにわたって︑朱子学的フィルターを通したものが︑その前提となっていったと考えてよいであろう︒そう
であれば︑明清を通じて人々の思想と行動に︑ひいては思想史の形成に︑重要な意味をもつ要素となっていたと
言える︒これは︑歴史的に見れば︑一方では体制的保守的な側面で教学として作用したが︑他方では現状変革と
いう積極的能動的側面でも作用したのである︒
18
第 二 章 変 法 運 動 期 に お け る 変 革 論 の 思 想 史 的 特 性
第1 節(‑) 檄 文二 篇
第 一 節 ド 檄 文 二 篇 − 前 提 的 意 識 情 況 と し て
従来太平天国の思想を扱う場合には︑一九四五年以前においては︑主としてその宗教的性格の問題︑それ以後
においては︑その反封建的反植民地的性格を中心にその革命史的意義を探るものが一般である︒一方の清廷側を
代表する曽国藩については︑一九四五年以前においては偉人評伝風のものが大半であったが︑それ以後のものは
︒漢奸則子手″としてその売国的反革命的性格を指摘するのが一般である︒
しかしながら︑太平天国の母体となった拝上帝会が︑基本的には︑差別され貧困を強いられた︑客家を中心と
する生活防衛のための集団であり︑一方︒曽国藩の組織した土着の地主・自作農の子第を中心とする湘軍の基本
的性格が︑太平天国軍による収奪からみずからの土地を防衛することであったということ︑従って戦闘地域の拡
大につれて︑その軍事的政治的努力のほかに︑それぞれの正当性をいかに訴えていくかが重要な課題となっていっ
たこと︑なども指摘することができるようである︒
以下においては︑両者の思想それ自身の検討または比較という方法によってではなく︑それぞれがみずからの
正当性をアピールしようとした檄文の中に︑両者に共通した意識を見出し︑いささか冒険のようではあるが︑太
平天国期の意識情況として設定し︑洋務F←変法期の意識情況を探る前提としたい︒
第2 章 変 法運 動 期 に お け る 変 革 論 の 思 想 史的 特 性
一八五二年湖南進攻の途次︑東王楊秀清および西王蕭朝貴の連名で発せられた﹁奉天討胡檄布四方諭﹂という
檄文は︑﹁嵯︑爾有衆︑明らかに予が言を聴け﹂に始まり︑﹁天に順えば厚賞あり︑天に逆えば顕戮あらん︒天下
に布告して威く聞知せしむ﹂という文によって結ばれる︒まことに﹃尚書﹄を彷彿とさせる伝統的布告文の形を
とっていることに注目すべきであろう︒これが﹁書を読み古を知る﹂人々に呼びかけたものであることは︑文中
に明らかであるが︑同時に︑こうした文型の踏襲には︑まさに﹁書を読み古を知る﹂︒士として︑あるべき型
を踏まなければならないといヽつ意識を見ることができる︒しかも︑この激文中において貫ぬかれているのは︑漢
民族を至上とする強烈な中華意識である︒すなわち︑﹁予れ惟うに︑天下とは上帝の天下にして胡虜の天下に非
︒ざるなり︒一−一−II夫れ中国は首なり︑胡虜は足なり︒中国は神州なり︑胡虜は妖人なり︒⁝⁝足の反って首に加わ
り︑妖人の反って神州を盗みて︑我が中国を駆りて悉く妖魔と変ずるを奈何せん︒﹂と言うのである︒
ここで言う﹁上帝﹂には︑﹁妖人﹂﹁妖魔﹂などと一見異質のようではあっても︑土俗信仰的なものと同じ基盤
に立つ要素の存在を強く感ぜざるを得ないのである︒﹁上帝﹂は︑太平天国においてはエホバに配当されるが︑
中国古来の天の主宰者︱上帝︵自然力・人間の生死を左右する力︶という概念の延長線上においてとらえられ
ていると考えてよいようである︒たとえば︑洪秀全の﹁原道救世歌﹂には︑﹁喧むるに日を以てし︑潤おすに雨
を以です︒動くに雷を以てし︑散ずるに風を以てす︒此れ皆上帝の霊妙なり︒﹂とあるが︑この﹁上帝﹂は明ら
かに自然力である︒
檄文はさらに︑中国固有の﹁形像﹂﹁衣冠﹂﹁人倫﹂﹁配偶﹂﹁制度﹂﹁言語﹂が︑満洲によって亡ぼされようと
していると指摘し︑白狐と赤狗との間に生まれた﹁妖人﹂﹁胡虜﹂の支配から脱出するよう奮起をうながしている︒
22
第1 節 ト)檄 文二 篇
そして︑十数万にすぎない満洲人によって︑五千余万人を下らない︒中国人が支配されている事実を指摘する
においては︑辛亥革命における滅満興漢という種族革命の叫びを聞く思いがするのである︒因みに︑洪秀全の﹁原
道覚世訓﹂には︑﹁盤古より三代に至るまで︑君民一体︑皆皇上帝を敬拝﹂していたのに︑秦の時代以後は︑妖
魔を拝して上帝の存在すら識らなくなったと言っているが︑これも︑革命派が専制否定の論拠のひとつとして︑
秦以後の専制によって人々が塗炭の苦しみを味わって来たことをしばしば指摘し︑秦以後をトータルに否定する
のと同じ論理である︒
一般に︑檄文のもつ性質から言って︑みずからの正当性・大義名分を主張するのはもちろん︑そのアピールす
る内容が︑最大の効果をあげるように苦心されるのがふつうであり︑その場合︑一般的に危機的状況と認められ
うるものを訴えることが肝要となるであろう︒とすれば︑この檄文の中から︑清朝の支配︱異民族支配1漢
民族︱中国の衰亡︱滅種という危機意識の図式を一般化することができる︒であろう︒ただし︑そこには必要
以上の誇張があり︑ただちに一般的意識とすることはできないし︑事実としても︑この種の危機意識が一般化す
るのは︑義和団以後のことと思われるのであるが︑この檄文に共鳴しうる意識が︑部分的にではあっても︑存在
していたと推定してもよいであろう︒
一方︑一八五四年︑太平天国軍の圧倒的優勢の中で︑曽国藩によって発せられた﹁討尋匪檄﹂は︑まず︑太平
天国軍の通過したあとは﹁寸草も留めない﹂状態であり︑脅迫され服従を強いられた人々は︑﹁犬家牛馬にも劣る﹂
扱いを受けていると指摘したうえで︑﹁唐虞三代以来︑歴世の聖人︑名教を扶持して敦く人倫を叙し︑君臣父子
の上下尊卑は︑秩然として冠履の倒置すべがらざるか如し﹂であるのに︑﹁毒匪﹂は﹁外夷の緒を窃んで﹂﹁中国
第2 章 変 法 運 動期 に おけ る 変 革 論 の 思 想 史的 特 性
数千年の礼儀人倫詩書典則﹂を根だやしにしたとし︑﹁此れ豊に独り我が大清の変のみならんや︒乃ち開間以来
名教の奇変にして︑我が孔子孟子の九原に痛哭する所なり︒﹂として︑﹁凡そ書を読み字を識る者﹂は︑天下の危
機を救い︑三綱五常を護持するために起ち上らなければならないと訴えている︒さらに︑孔子および孔門の十哲
を祀る聖廟ばかりでなく︑関帝や岳王の廟から仏寺・道院・城障・社壇などに至るまで︑ことごとく破壊しつく
されたことについては︑﹁鬼神の共に憤怒する所﹂として︑その復仇を誓っている︒とくに城障・社壇は土着農
民の心の拠り所であり︑生活のリズムをつくるものであり︑それがたとえ三綱五常的世界を支え︑封建的圧迫を
もたらす︒神権であったとしても︑それらの破壊は︑生活実感のうえで﹁名教の奇変﹂とはかかわりをもたな
かったであろう土着農民にも︑この世の終りにも似た衝撃を与えたに相違ない︒なお︑檄文はこのあと︑服従す
る者には恩賞と地位とを︑叛逆する者には徹底的抹殺を保証するという︑典型的な布告文の形式をもって終って
いる︒ここに︑現体制の崩壊1中国的三綱五常的世界の崩壊1日常的恒常的世界の崩壊という危機意識の図
式を見ることができるであろう︒
曽国藩自身については︑この頃程・朱の学に申・韓的傾向が加わったとされるが︑恐らく︑太平天国軍とのき
びしい対決姿勢が︑そのような評価を生み出す原因となったのであろう︒ただ︑基本的には︑宋学的な自己に対
する厳格さと︑経世済民を自己の責務とする士人意識とが︑曽国藩の中により典型的に存在していたためであろ
う︒たとえば︑﹁学とは何であろうか︒性に復することにほかならない︒そのために学ぶものは何であろうか︒
格物・誠意にほかならない︒⁝⁝﹂とか︑二般的に言って︑僕の志すところは︑その大なるものは︑仁義を天
下に行ってあらゆるものにそれぞれの分に応じたものを得させるようにすることであろう︒その小なるものとし
24
第1 節 (‑)檄 文二 篇
ては︑自分が過ちを犯さないようにし︑道に従って妻子に対応し︑道にもとづいたことばによって宗族郷党を導
いて行こうとすることである︒﹂︵﹁答劉孟容書﹂︶とか言っているのがそれである︒従って︑その学は︑経世致用
の精神によって貫ぬかれていたであろうと思われるのである︒
さて︑以上の二篇の檄文に見るかぎりでは︑前者は反満復仇という意味で反体制的であり︑後者は天下国家と
それを支える名教の護持︵異民族王朝の護持という意識はない︶という意味で体制的であるが︑両者とも﹁書を
読み古を知る﹂者・﹁書を読み字を識る﹂者を呼びかけの対象としているという点で共通しており︑また︑日常
的恒常的世界の崩壊という意識においては︑同一基盤の上に立った表裏の関係にあると推定してもよいであろう
し︑天下国家的一君万民的な社会のあり方を当然の姿として︑無意識のうちに︑その思考の前提としていると推
定してもよいであろう︒
それは︑曽国藩においては当然としても︑太平天国においても︑たとえばそ︒の︒平等は︑天父皇上帝の意志
を具現する天弟洪秀全の下における平等︑すなわち一君万民的平等に根ざすものであったということ︑儒教倫理
の全面的否定がないばかりか︑儒教倫理の根本である孝が︑いわゆる天条十款の第五款に﹁父母に孝順なれ﹂と
うたわれていたこと︑また︑太平天国内における貴賎尊卑の別がきわめて厳格であったこと︑などの指摘によっ
ても裏づけられるであろ 沁・洪秀全がヽ﹁この世界について︑分けて言えば万国が存在するが︑まとめて言えば︑
実は一家なのである︒﹂︵﹁原道醒世訓﹂︶と言い︑﹁⁝⁝みな上帝一元の気を棄けて︑生まれ出てくるのであって︑
いわゆる一本散じて万殊となり︑万殊総じて一本となるということである︒﹂︵﹁原道覚世訓﹂︶と言っているのは︒25
まさに程・朱学における理一分殊説を想起させるものがあり︑それほどに︑宋学的または朱子学的な発想が血肉
第2 章 変 法 運動 期 にお け る 変 革 論 の 思 想 史 的 特 性
と化していることを示すものであろう︒幾度かの失敗にもめげず︑差別され貧困にあえぐ客家の期待を背負って︑
科挙のための勉学に励んだことを考えれば︑このような発想があったとしても︑不思議ではない︒科挙の学は朱
子学であったからである︒ところが︑客家出身者は︑科挙においてもさまざまな差別︵ほとんど応試を不可能に
するような制約︶を受けていたと言われている︒従って︑洪秀全はこの差別と客家の期待との間にあって苦しん
だ末に︑ついに科挙による出世を断念し︑キリスト教との出会いをひとつの契機として︑まさに朱子学的経世済
民の士人意識によって︑世直しの行動に起ちあがったのだと推定することは︑十分可能であろう︒
26
第1 節 (二流 法 運 動 期 の 思 想 概 況
□ 変 法 運 動 期 の 思 想 概 況
一八六〇年代から七〇年代にかけて︑各種製造局や鉄道・鉱山あるいは新式学校の設置などを内容とした洋務
運動は︑日清戦争の敗北をもってその歴史的役割を終えるのであるが︑一般に︑政治的には富国強兵︑思想的に
は中体西用論であるとされる︒富国は︑むしろ大官の私企業的性格から地方の有力な官人たちの財力を富ますこ
とに終わり︑強兵は︑人民弾圧手段の強化という側面をもちながらも︑天下国家の威信を回復しようとするため
の海防にあったこと︑なども指摘されるところである︒また︑洋務的発想は︑アヘン戦争期における魏源の﹁夷
の長技を師として以て夷を制する﹂︵﹁海国図志﹂序︒一八四二年︶という考え方がその萌芽とされ︑洋務派官僚
のブレインたちによってその理論化が試みられ︑やがて馮桂芥のような変法論的展開にまで至ったことも︑しば
しば指摘されるところである︒次に︑﹁中学為体︑西学為用﹂で知られる中体西用論は︑洋務論の基本的理念を
示すものとして知られているが︑梁啓超の﹁清代学術概論﹂一九二〇年︶に︑﹁甲午の敗戦は全国を動揺させ︑
血気盛んな若者たちは︑国難を憂い憤激して維新変法を言い︑李鴻章・張之洞などの地方官もいささか同調した︒
そしてその頃流行したことばに︑いわゆる﹁中学を体と為し西学を用と為す﹂というのがあって︑張之洞は好ん 7
でこのことばを用い︑一般にも至言であると考えられていた︒﹂とあるように︑洋務運動の高揚期よりは︑むし
第2 章 変 法 運 動 期 に お け る 変 革論 の 思 想 史的 特 性
ろ甲午の役敗戦以後の︑変法論の拾頭とほぼ同じ頃になって︑定着してきたように思われる︒このことは︑変法
論が︑中体西用論的な発想が一般化した情況の中で展開されたことを意味するであろう︒そして︑﹁中学為体︑
西学為用﹂を好んで口にしたと言われる張之洞︵彼自身の造語ではない︶の﹁勧学編﹂が︑ほかならぬ戊戌の歳
に出版されたということは︑この時点においてもなお︑中体西用論的意識が根強く存在していたことを示すとと
もに︑その中で改めて三綱五常の倫理を強調し西学への極端な傾斜を非難しなければならなかったということは
張之洞自身の立場を鮮明にする必要に追られていたという事情もあろうかと思われるが︑厳復や梁啓超に代表さ
れる西学︑とくに思想の紹介︑またはそれにもとづいた議論の展開が︑中体西用論はもちろん︑変法論をものり
こえるかたちで︑つまり中国伝統のあらゆる思想にとらわれないかたちで︑行われ始めたことをも示していると
考えられるのである︒
因みに﹁勧学篇﹂は︑内篇九︑外篇一五より成り︑自序によれば︑内篇は本を務めることによって人心を正し︑
外篇は通に務めることによって風気を開くことを目的としたもので︑﹁同心篇﹂では︑国を保ち教を保ち種を保
つために努力することこそ︑現在の急務であると力説し︑﹁教忠篇﹂では︑清政がその初めより仁政であった例
を一五項目にわたって述べ︑漢・唐以来わが朝ほど民を愛しんだことはなかったと言い︑﹁明綱篇﹂では︑徒ら
な欧化主義に反対し︑三綱の廃すべからざることを強調し︑﹁正権篇﹂では︑民権の説の百害あってI利もない
ことを述べている︒内篇の﹁本を務めることによって人心を正す﹂というのは︑まさに体用論的論理であるが︑
外篇の﹁通に務めることによって風気を開く﹂というのは︑︒通が︑変法派の人々の共通のテーマ︵後述︶であっ
たばかりでなく︑それが張之洞によって語られていたということを見ても︑清末中国の現状についていささがな
28
第1 節 p 変法 運 動 期 の 思 想 概 況
りとも問題意識をもつ人々に共通する課題であったことを示していると考えられるのである︒﹁勧学篇﹂の一部は︑
戊戌の歳の四月から六月にかけて﹁湘学報﹂に連載され︑湖南における反変法論の理論的な拠りどころとされて
いたようである︒
また︑中体西用論における体と用は︑周知のように︑本と末ひいては道と器という︑中国哲学の基本概念にか
かわる大きな問題であるだけに︑当然ここでは扱いきれるようなものではない︒従ってここでは必要と思われる
点だけを記すことにする︒すなわち︑体を形而上の道二定不変の先験的な理︶とし︑用を形而下の器とするの
がその発想の基本とされる︒これは究極的には道があってはじめて器があるのだとする朱子学的解釈に法るもの
である︒朱子学は言うまでもなく体制教学として日常生活を律するものとして存在した︒一方︑器があってこそ
道があるのだとする解釈もあって︑この場合には︑器すなわち形而下のものが体となり︑道すなわち形而上のも
のが用となる︒実は︑この逆転の発想︑すなわち先験的絶対的な道の否定を土台にしてこそ︑はじめて現状の根
本的変革を試みる思想の展開を可能にする意識の場が成立するのであって︑中学には中学の体と用が︑西学には
西学の体と用があるのだとする変法論的体用論も︑こうした土台の上に成り立っているのである︒つまり︑器が
あってこそ道があるのであれば︑現在のさし迫った用を満たすために体を変革しなければならないし︑また変革
することが可能なはずであるからである︒これには︑理念によって経典を解釈するという宋学的方法ではなく︑
文献・資料的な事実の分析の上に立って帰納的に経典を解釈しようとする清代考証学の実証主義的な学問の風土
が︑こうした発想の土台となっていると椎測することができるであろう︒
中学と西学のそれぞれに独自の体と用とを認める変法論的体用論としては︑時期的には少々ずれるが︑たとえ
第2 章 変 法 運 動 期 にお け る 変革 論 の思 想 史 的 特 性
ば厳復の﹁与外交報主人論教育書﹂︵一九〇二年︶があり︑中国の危機的状況を意識しながら︑主体そのものを
損うことなく︑現状に適合すべくみずからを変えて行かなければならないI中国の用を満たすために中国の体
を変えなければならない1とする立場を表明しているのである︵後述︶︒一方︑張之洞は﹁勧学篇﹂﹁明綱﹂の
中で︑徒らな欧化主義を批判して︑西洋にも固有の君臣・父子・夫婦の倫理があると指摘していて︑一見同様な
体用論に思われるが︑この場合には︑三綱五常的文脈の中での天下国家的伝統的中国社会の護持を前提とし︑中
体の変革は全く認めていない点で異質のものである︒ここに見られる両者の本質的な差は︑︒変を肯定または
不可避のものとする立場と不︒変の立場との差である︒
洋務運動における中体西用論は︑太平天国期に見た天下国家的一君万民的な共通意識から︑辛うじて抜け出し
か︑少なくとも中国のおかれた現状を直視しようとする︑恐らくは少数の先進的な人々によって担われたのであ
る︒しかしながら︑事態は旧態依然として︒体にこだわりつづけることを許さなくなっていた︒言い換えれば︒
︒体″に拘東されない自由な発想が必要とされる事態にたち到ったのである︒そうした危機的状況を敏感に受け
とめたより先進的な人々が︑日清戦争の敗北を機に︑つまり洋務運動の破綻を機に︑危機的状況の病根が体制そ
のものにあるという認識を深めることによって︑中体西用論的発想が一般化した情況の中から脱け出し︑変革を
求める運動に乗り出すこととなるのである︒では︑彼らは︒変i変革をどのようにとらえていたのであろう
か︒
康有為の第六上書︵一八九七年︶には︑﹁聞くところによれば︑今日地球上の守旧の国で︑分割され亡びよう
としていないものはありません︒⁝⁝わが国には︑今や士なく兵なく軍費なく艦船なく兵器なく︑国の名はあっ
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第1 節 (コ 変 法運 動 期 の 思 想 概況
ても︑土地・鉄道・船舶・商業・銀行が外国人の意のままに動かされており︑形のうえでは亡びてはおりません
が︑実質的には亡びております︒今後の変化については言うに忍びません︒地球上の諸国を見ますと︑すべて変
法によって強くなり︑守旧によって亡びております︒だとすれば︑守旧と開新の結果はすでにはっきりとしてい
るのであります︒陛下のご明察によって万国の大勢をご覧になれば︑変ずれば全うし変ぜざれば亡び︑全変すれ
ば強く小変ではやはり亡びる︵ことがおわかりいただけると思います︶︒陛下が諸臣と慎重にお考え下さり︑わ
が国の欠陥の根源を認識されるならば︑欠陥をなくす方法がこれ︵変︶にある︵ことがおわかりいただけると思
います︶︒﹂とあり︑梁啓超の﹁論不変法之害﹂︵﹁変法通議﹂の⊃ 一八九六年︶には︑﹁要するに︑法は天下の
公器であり︑変は天下の公理である︒大地は既に通じ︑万国は発展し日々向上しつつある︒︵こうした︶世界の
大勢が中国にも迫り︑もはや阻むことはできない︒︵この時に当って︶変らんとするもまた変じ︑変らんとせざ
るもまた変ずで︑変らんとして変った場合には︑変の主導権はわれわれにあって︑国を保つことができ種を保つ
ことができ教えを保つことができる︒変らんとせずして変った場合には︑変の主導権は外国に譲られ︑︵外国は︶
われわれを束縛し馳犀する︵ことになる︶︒⁝⁝﹂とあり︑厳復は﹁原強﹂︵一八九五年︶で︑この梁啓超のこと
ばを引用して文章の結びとしている︒さらに︑譚嗣同は﹁思緯壹壷台短書i報具元徴﹂︵一八九四年︶で︑﹁中
国がみずから変法して公法に列する︵世界に仲間入りする︶ことを求めずに︑外人に変法を代行させたならば︑
養生送死の権はすべて外人に操られ︑四百兆の黄種の民をすべて白種の奴隷とならしめるであろう︒そうなると︑
みな日本のアイヌ︑アメリカのインディアン︑インド・アフリカの黒人奴隷となってしまうであろう︒﹂と述べ
ている︒要するに︑外国による支配が切迫する危機の中で︑主体的変革こそが真の変革であり︑富強につながる
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第2 章 変 法 運 動 期 にお け る 変 革 論 の 思 想 史 的 特 性
ものであると主張しているのである︒それはもはや祖法の変革︵変法︶以外にはありえなかったのである︒
主体的変革によって亡国・滅種の危機を打開するためには︑まず亡国・滅種に至る状況をつくり出しているも
のを打破しなければならない︒それは︑物心両面における流れが︑旧態依然たる社会・政治の体制によって塞が
れ︑全体が全体として機能するに必要な内部的機能が有効に作動していない状況を打破すること以外にはないと
思ったのであろう︒庚有為は︑﹁職責を越えた発言を禁じているのは︑名分を定めるためでありますが︑天子へ
の上書は必ず上覧に供すべしというきまりは︑優れた人物を抜擢せんがためであると聞いております︒分を定め
ることによって臣下の心を靖んじ︑建議を採用することによって天下の気を通ずるのであります︒﹂︵﹁上清帝第
一書﹂一八八八年︶と言って︑民間からの積極的な人材登用と︑下意上達の路をひらくことによって︑天下を安
定させることを求め︑さらに︑﹁中国の大病は︑まず第一に垂塞に在ります︒気が郁して疾を生じ︑咽喉が塞かっ
て死を致すのであります︒治療を進め︑喧疾を除き︑血を通じ脈を暢やかにせしめることができたならば︑体力
気力は自然と強くなるのであります︒⁝⁝︵同じくすぐれた文明と法とをもちながら︶外夷は効果をあげ中国は
ますます弊害が生じているのは︑すべて上下が隔塞し民清か通じていないために起ったことであります︒﹂︵﹁上
清帝第二書﹂一八九五年︑いわゆる公車上書である︒︶と述べて︑暗疾を除き健康体とするように︑上下の隔塞
を通じせしめて中国の弊害を除去するように建議している︒譚嗣同もまた︑﹁府・州・県は︑それぞれあらゆる
書院を学堂・学会に改め︑人材を育成しながら人々の協力関係をつくり︑官民上下を通じて気をひとつにし︑お
たがいに横糸と縦糸の関係となって︑助けあい相談しあえば︑内患はなくなるであろうし︑従って人々も全体と
して安定が得られるであろう︒﹂︵﹁論全体学﹂一八九八年︶と言う︒すなわち︑旧式の学校を改革して形式内容
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