方行政について : 南関東での活動を中心に
著者 馬場 憲一
出版者 法政大学多摩論集編集委員会
雑誌名 法政大学多摩論集
巻 29
ページ 93‑113
発行年 2013‑03
URL http://doi.org/10.15002/00009610
大学
「多 摩論 集」 第二 十九 号 一三 年三
関
月東 領 国 体 制 形 成 期 に お け る 代 官 頭 大 久 保 長 安 の 地 方 行 政 に つ い て
│ 南 関 東 で の 活 動 を 中 心 に 馬 │
場
憲
一
関 東 領 国 体 制 形 成 期 に お け る 代 官 頭 大 久 保 長 安 の 地 方 行 政 に つ い て
│ 南 関 東 で の 活 動 を 中 心 に
│
馬 場 憲 一
はじ めに 江戸 幕府 創業 期の 民政 と幕 府の 財政 基盤 確立 に貢 献し てい た代 官頭 大久 保石 見守 長安
(一 五四 五~ 一六 一三
)は
、天 四年
(一 五四 五) 甲斐 武田 氏に 仕え る猿 楽師 の次 男と して 生ま れ、 天正 十年
(一 五八 二) の武 田氏 滅亡 後は 徳川 氏の とな り甲 斐の 民政 を担 当し てい た。 さら に天 正十 八年 八月 徳川 氏の 関東 入国 後は 代官 頭と して 関東 領国 の支 配を 担 する こと にな り、 慶長 六年
(一 六〇 一) には 石見 銀山
、同 八年 には 佐渡 金山 を支 配し
、こ の年 に従 五位 下、 石見 守に じら れて いる
。 とこ ろで この 大久 保石 見守 長安 につ いて は、 日本 近世 史の 泰斗 であ る村 上直 氏( 法政 大学 名誉 教授
)の 一連 の研 究成 によ って
、幕 府創 業期 の幕 政史 上に 大久 保長 安が 果た した 役割 と業 績に つい てほ ぼそ の全 貌が 明ら かに され てい
。)
その ため 小稿 では それ らの 研究 成果 に依 拠し つつ
、代 官頭 とし て活 躍し た大 久保 長安 の関 東領 国、 とり わけ 南 東( 武蔵 国多 摩郡
)に おけ る事 跡を 追い なが ら徳 川氏 の関 東領 国体 制形 成期 に大 久保 長安 が地 方行 政に 果た した 役割 つい てみ てい くこ とに する
。
一 大久 保長 安の 幕府 成立 後の 地方 行政 大久 保長 安が 支配 した 幕領 は関 東、 甲斐
、伊 豆、 駿河
、信 濃、 美濃
、越 後、 佐渡
、伊 勢、 近江
、大 和、 石見 など 東 国か ら中 部地 方、 畿内
、中 国地 方に およ んで おり
、そ の幕 領支 配は
、長 安の 命を 受け た手 代代 官・ 下代 を現 地に 配置 し、 彼ら によ って 行わ れて いた(
2
。)
本節 では 江戸 幕府 成立 後の 大久 保長 安の 地方 行政 の実 態に つい て検 証し てい くこ とに する
。 大久 保長 安が 病死 する 四日 前の 慶長 十八 年( 一六 一三
)四 月二 十一 日付 けで 津藩 主藤 堂高 虎宛 に差 出さ れた
「覚
」(3
)
によ ると
、大 久保 長安 が江 戸幕 府成 立後 に地 方行 政に 関わ って いた 地域 とそ こで の年 貢収 納等 の仕 組み や担 当者 など を具 体的 に記 して おり
、そ の地 方行 政の 実態 を知 るこ とが でき る。 それ によ ると
、
⒜「 石見 銀山
」と その
「地 方」 に関 する 行政 は、
「米 賣銀
」の
「勘 定」 と「 江戸 将 軍様
」へ の「 運上
」銀 の納 入に 関す る業 務で あり
、現 地に 竹村 丹後 道清 を配 置し 担当 させ てい た。
⒝「 佐渡 銀山
」に つい ては
、「 銀山 幷地 かた 米賣 銀」 の「 勘定
」の 仕上 げと
、「 江戸 将 軍様
」へ の「 運上
」銀 の納 入 が仕 事と なっ てお り、 現地 に田 辺十 郎左 衛門 尉と 宗岡 弥右 衛門 を配 置し 担当 させ てい た。
⒞「 伊豆 銀山
」は
、産 出銀 の「 勘定
」と
、「 御運 上」
「地 かた
」を 取り 扱い
、現 地に 配置 した
「和 田河 内
� 恆 成
・�
竹村 九郎 右 衛門
� 嘉 理
・�
河合 作兵 衛
� 川 合 政 忠
」�
が担 当し てい た。
⒟「 和州
・江 州・ 濃州 御代 官所
」に つい ては
、年 貢の
「勘 定」 と「 江戸 将 軍様 御蔵 入分
」の
「勘 定」 が仕 事で
、現 地に 配置 され てい た「 鈴木 左馬 助
� 重 春
・�
杉田 九郎 兵衛
� 忠 次
」�
が担 当し てい た。
⒠「 甲州 御蔵 入」 地の
「勘 定」 につ いて は、 現地 に配 置さ れて いた
「平 岡々 右衛
� 道 成
門�
・岩 波七 郎右 衛門
� 道 能
尉�
」が 担当 して いた
。
⒡「 関東 御代 官所
」に つい ては
、年 々の 年貢 の「 勘定
」を 行い
、現 地に 配置 され てい た「 田辺 庄右 衛門 尉・ 大野 八右 衛門
� 尊 吉
尉�
」が 担当 して いた
。
⒢「 木曾 谷中
」の
「地 かた とど いく
�
⼟ 居 榑
�
れ」 につ いて
、そ の「 勘定
」は 現地 に配 置し た「 代官 山 村父
�良 勝� 良安
子�
」が 担当 して いた
。 以上 のよ うに 大久 保長 安が 支配 して いた 地域 とそ こで の仕 事と 担当 者な どを 通し て地 方行 政の 実態 を具 体的 に知 るこ とが でき る。 この よう に慶 長十 八年 当時 の幕 府創 業期 には 七つ の支 配地 域で 年貢 勘定 や運 上銀 納入 など が行 われ
、「 惣 別少 之儀 もそ れ〳 〵尓
物主 を申 付、 物主 手前 より すく に御 勘定 為レ
致候
」と いう 体制 のも と各 支配 領域 に担 当者 を実 際 に配 置し て、 大久 保長 安の 地方 行政 が展 開さ れて いた こと がわ かる
。 二
大久 保長 安の 南関 東で の事 跡と 役割 前節
でみ たよ うに 江戸 幕府 成立 後の 創業 期に おい ては 大久 保長 安の 主な 地方 行政 は石 見、 佐渡
、伊 豆の 金銀 山経 営と
、 それ ら金 銀山 のあ る地 域を はじ めと して 和泉
・近 江・ 美濃
・甲 斐・ 関東 など の幕 領に おけ る年 貢収 納が 中心 であ った
。 本節 では 天正 十八 年八 月、 徳川 家康 の関 東入 国後 にお ける 大久 保長 安の 南関 東支 配の 拠点 づく りや 交通 網の 創設
、宗 教拠 点へ の対 応、 在地 支配 の様 相な どに つい て検 証し
、関 東領 国体 制形 成期 の大 久保 長安 の事 跡と 役割 など につ いて み てい くこ とに する
。
⑴ 地 方 行 政 の 拠 点 づ く り
①八 王子 の町 立て 天正 十八 年( 一五 九〇
)八 月、 徳川 家康 の関 東入 国に 従っ て関 東に 移っ た大 久保 長安 は、 武蔵 国多 摩郡 八王 子町 を拠
点に 代官 頭と して 地方 行政 に携 わっ てい くこ とに なる
。 ここ では
、南 関東 に位 置し 大久 保長 安が 地方 行政 の拠 点と した 八王 子町 建設 の状 況を みて いく こと にす る(
4
。)
『新 編 武蔵 国風
⼟記 稿』 の「 八王 子横 山十 五宿 附滝 山」 の項 によ ると
、八 王子 町設 立当 初の 状況 を次 のよ うに 記し てい る(
5
)
大久 保石 見守 長安 惣奉 行ト シテ
。小 門宿 ニ住 シ。 町中 ニ番 屋ヲ カマ ヘ籠 獄ヲ 置テ 非違 ヲイ マシ メケ リ。 茲ニ 當所 ハ 新宿 ニテ 町人 等モ ワツ カニ 居ヲ シメ シ始 ナレ バ。 近郷 ノ落 武者 或野 武士 ノ類 多ク アツ マリ 住ケ ルニ ゾ。 ヤゝ モス レ ハ騒 亂ニ 及シ ユヘ
。 命ア リテ 関東 ノ御 代官 ヲ多 ク此 邉ニ 居住 セシ メラ レ。 長安 是ヲ 指揮 セリ
。 当時
、八 王子 町は 新た に造 られ た宿 であ り、 周辺 から 落武 者や 野武 士な どが 数多 く集 住し 騒動 に至 るよ うな こと が あっ たの で、 大久 保長 安は 小門 宿に 住ん で町 の中 に番 屋を 作り
、牢 獄を 設け 法に 従わ ない 違法 な行 為を 戒め
、さ らに 彼
(長 安) は命 令を 受け て関 東の 代官 を八 王子 付近 に居 住さ せ指 揮下 にお いて いた こと がわ かる
。 小門 宿に 設け られ てい た大 久保 長安 陣屋 につ いて は「 宿ノ 南表 ニテ 上野 原宿 金剛 院ノ 北ニ アリ
」「 陣屋 ノ中 央ヨ リ西 南 北ノ 三方 ニ⼟ 手ア リ」
「段 別六 段二 畝十 五歩
」(6 な)
どと あり
、三 方に
⼟塁 を築 き敷 地は 約六 二〇
〇平 方メ ート ルで 広大 な 面積 を有 して いた
。 また 八王 子町 の町 立て につ いて は、 元禄 年間
(一 六九 六) に作 成さ れた 八王 子横 山十 五宿 絵図(
7
に)
よっ て平 面的 に理 解す るこ とが でき る( 九八
~九 九頁 参照
)。 それ によ ると 町の ほぼ 中央 に東 西に 走る 甲州 街道 を通 し、 その 街道 沿い の横 山宿
・八 日市 宿・ 八幡 宿・ 八木 宿に は宿 場機 能を 有し 伝馬 役を 負担 する 百姓 屋敷 が設 けら れて いた
。ま た百 姓屋 敷の 裏手 には 大久 保長 安配 下の 代官 の屋 敷を 配 置し
、町 の中 心か ら少 し西 南側 に寄 った 位置 に⼟ 塁と 堀に 囲ま れた 大久 保長 安の 小門 陣屋 があ った
。さ らに 町の 軍事
・ 防衛 的な 側面 から みて いく と、 敵の 進攻 を阻 止す るた め町 の東 側部 分( 新町
)の 甲州 街道 が鉤 の手 に折 れ曲 がっ てお り
(注
‥‥ 当該 絵図 には 掲載 され てい ない が、 八王 子町 の西 側に 隣接 する 千人 町で も通 過す る甲 州街 道の 西端 部分 が鉤 の 手に 曲が って いる
)、 町の 周囲 には 大久 保長 安が かつ て仕 えて いた 武田 信玄 の娘 松姫 尼が 開基 とな って 開い た信 松院 を
はじ め多 くの 寺院 を集 中的 に配 置し
、八 王子 の町 が軍 事・ 防衛 にも 配慮 し造 られ てい たこ とが わか る。 一方
、大 久保 長安 は八 王子 町建 設に あた って 町の 北側 を流 れる 南浅 川の 水が 町内 に流 れ込 むの を防 ぐた め「 石見 堤」 とい う⼟ 手を 築造 して いる が、 植田 孟縉 によ って 書か れた
『武 蔵名 勝図 会稿 本』 によ ると 次の よう に記 され てい た(
8
。)
天正 の初
、北 条氏 八王 子城 居の 頃、 小仏 川、 椚田 川出 水し
、今 の散 田新 地と いふ 所ハ 川瀬 にし て、 夫よ り今 の千 人町 通り を流 れて 本郷 村の 下よ り浅 川へ 流入 りけ る由
、其 後、 八王 子城 陥し 後に
、城 下町 の亡 民を 今の 八王 子町 へ 引移 され し後 も、 洪水
、又 島之 坊宿 辺ゟ 市中 へ流 れい んと せし かハ
、石 見守 下知 を伝 へ由 井領
、小 宮領
、日 野郷�領�
�
の村 々へ 課せ しめ て町 囲の 長堤 を築 けり
、新 地と 千人 町の 堺な る地 蔵堂 の脇 より 千人 町裏 通、 馬場 地の 南附 の⼟ 手 へ続 き、 宗格 院脇 より 島之 坊宿 の限 りへ 出て
、本 郷村 多賀 神社 のう しろ 通よ り同 村田 圃の 辺迠
、上 は坤 の方 より 艮 の方 へ凡 長さ 十四
、五 町、 敷三 間余
、高 さ七 尺許 なり
、石 見守 の功 を以 て築 営し
、村 民水 害を 避け れハ
、⼟ 人称 号し て石 見堤 と唱 ふ この よう に大 久保 長安 は水 害か ら八 王子 の町 を守 るた めに 八王 子周 辺の 由井 領、 小宮 領、 日野 領な どの 村々 に課 役を 命じ 隣接 する 千人 町か ら本 郷村 に至 る約 一・ 六キ ロに 長い
⼟手 を築 いて いる
。 以上 のよ うに
、八 王子 の町 立て は大 久保 長安 が深 く関 わっ て実 施さ れて おり
、以 後百 年余 りに わた って 八王 子町 は関 東領 国支 配の 拠点 とな って いた
。
②八 王子 千人 同心 成立 への 関わ り 大久 保長 安は 町立 てに よっ て八 王子 町を 地方 行政 の拠 点と する 一方
、の ちに
「八 王子 千人 同心
」と 呼ば れた 徳川 下級 家臣 団の 成立 に関 わる こと によ って 八王 子町 に隣 接す る地 域(→
のち の千 人町
)に その 軍事 組織 の中 核を 配し
、八 王子 町と いう 支配 の拠 点づ くり に軍 事的 側面 から 一定 の役 割を 果た して いた こと が考 えら れる
。こ こで はそ の状 況を みて い くこ とに する
。
【八王子横山十五宿絵図】(『特別展 甲州街道を旅する』より転載)
徳川 氏の 関東 入国 後間 もな い天 正十 九年 正月 十九 日、 大久 保十 兵衛
(長 安) から 八王 子千 人頭 の前 身で ある
「九 人頭 衆」 に対 して 次の よう な書 状が 差出 され てい た(
9
。)
一、 御飛 脚ニ
預け 申候
、仍 知而
行之 場所 御縄 之上
、先 日望 之所 を以 可レ
被レ
下候 由御 意候 事 一、 各御 出仕 之所 も相 定申 候事 一、 同心 衆御 ふち 之儀
、先 一人 ふち つヽ 五百 人ニ
貮百 五十 俵つ ヽ原 佐へ 我等 手形 を以
、月 別ニ
相渡 候事 一、 棟別 之儀 者、 御縄 之上 可レ
被二
仰付 由一
御意 被レ
成候 事 右い づれ も念 を入 申上 候條
、可
レ安
二御 心一
候、 恐々 謹言 正 月
�天 正十 九年
��
十九 日 大 十兵 江 判 戸ゟ 九人 頭衆 これ によ って 大久 保長 安が
、の ちに 八王 子千 人頭 と呼 ばれ た「 九人 衆」 の知 行地 割り
・出 仕す る場 所・ 扶持 米支 給な どに つい て指 示し てお り、 この 軍事 組織 全体 を統 轄し てい たこ とが わか る。 しか し、 その 後、 大久 保長 安が 小門 陣屋 に 在陣 し地 方行 政に 関わ って いた と考 えら れる 天正 十九 年七 月二 十一 日に は、 次の よう な知 行書 立を 発給 し、 大久 保長 安 は武 蔵国 多摩 郡府 中辺 りに その 八王 子千 人同 心給 の手 作り 分と して 一〇
〇〇 石を 与え てい る(
10
。)
知行 書立 一、 三百 五十 四石 七斗 九升 八合 やふ の郷 一、 百八 十三 石八 斗三 升七 合 本宿 西北 通 一、 四百 六十 壱石 三斗 六升 五合 府中 内ニ 而 合千 石也 右、 為二
同心 給内
一手 作之 分ニ
相渡 候、 重而
取レ
之可
レ申 候也
卯七 月廿 一日 大 久保 十兵 衛( 花押
) 十人 頭衆 また 小人 頭が 八王 子町 に隣 接す る地 に拝 領屋 敷を 与え られ 移住 した 文禄 二年
(一 五九 三) 正月 から 八ヶ 月後 の文 禄二 年八 月二 十一 日、 大久 保長 安は 伊奈 熊蔵
(忠 次) と連 名で 次の よう に小 人頭 に対 し武 州の
「山 根筋 中野 郷」 から 上総 国へ の知 行替 えを 命じ
、八 王子 千人 同心 の知 行割 りな どに 重要 な関 わり を持 ち、 八王 子町 を軍 事面 での 支配 の拠 点と する こ とに 大き く関 与し てい たこ とが わか る(
11
。)
山根 筋中 野郷 替り 上総 内に て、 諸郷 村書 立 一、 弐百 九十 六石 六斗 八升 九合 北子 安郷 一、 九十 石弐 斗五 升七 合 高原 郷 一、 四十 九石 九斗 三升 壱合 台 郷 一、 五十 三石 七斗 弐升 作木 郷 一、 三十 九石 壱斗 壱升 弐合 大寺 内 右分 為二
御知 行一
相渡 候、 可レ
有二
御所 務一
者也
、仍 如レ
件 巳八 月廿 一日 伊奈 熊蔵 大久 保十 兵衛 甲州 御小 人頭 衆 さら にこ のこ とは 慶長 五年
(一 六〇
〇) 九月 の関 ケ原 戦を 前に して
、同 心五
〇〇 名を 新た に募 集す る折 にも 大久 保長 安が 重要 な役 割を 果た して いた こと が次 の史 料か ら窺 い知 るこ とが でき る(
12
。)
八王 子小 門に 役館 ヲ設 ケラ レシ 大久 保石 見守 長安 諸家 漂流 之浪 士可 召二
出一
旨蒙 台二
命一
、宗 重長 安之 吹挙 ヲ以 慶長 五庚 子徳 川神 祖 家康 公江
被二
召出
一、 八王 子千 本士 頭石 坂弥 次右 衛門 隊中 頭之 蒙二
名義
一捧 禄賜 り これ は甲 斐出 身で 武蔵 国多 摩郡 雨間 村に
⼟着 して いた
⼟豪 的農 民丸 山氏 の家 譜の 一部 であ るが(
13
、)
この 史料 から 大久 保長 安が 八王 子千 人同 心の 取立 てに 際し て徳 川家 康の 命を 受け て在 地の 有力 な人 物を 推挙 して いた 事実 を知 るこ とが で きる い 。 ずれ にし ても 大久 保長 安は 八王 子千 人同 心の 成立 に関 与し 重要 な役 割を 果た して おり
、八 王子 町の 支配 の拠 点づ く りに 民政
・軍 事両 面か ら重 要な 関わ りを もっ てい たこ とが わか る。
⑵ 交 通 網 の 創 設
大久 保長 安は 江戸 幕府 の交 通制 度の 確立 や整 備に 重要 な役 割を 果た して いた。 それ は徳 川幕 府が 編纂 した
『東 照宮 徳川 実紀
』巻 八の 慶長 九年 二月 四日 の条 に「 諸国 街道 一里 毎に 堠塚
(世 に一 里塚 と いふ
)を 築が しめ られ
。・
・・
(中 略)
・・
・大 久保 長安 之を 惣督 し。
」(14 と)
あり
、江 戸幕 府創 業期 に江 戸日 本橋 を基 点と する 交通 制度 の確 立に 大久 保長 安が 重要 な役 割を 担っ てい たこ とが 記さ れて いる こと から もわ かる
。こ こで は彼
(大 久 保長 安) が関 わっ たと され る甲 州街 道と 青梅 街道 の開 設状 況を 武蔵 国多 摩郡 の事 例か らみ てい くこ とに する
。
①甲 州街 道の 開設 近世 に江 戸と 下諏 訪と を結 ぶ主 要道 路と して 発展 して きた 甲州 街道 の開 設に 代官 頭の 大久 保長 安が 重要 な関 わり をし てい たこ とは 知ら れて いる(
15
。)
しか し、 大久 保長 安が 甲州 街道 の開 設に 直接 関与 した こと を示 す当 時の 史料 は現 存し てい ない
。元 禄十 六年
(一 七〇 三) 三月 に作 成さ れた 甲州 街道 日野 宿の 成立 の様 子を 書上 げた
「挨 拶目 録」 によ ると
「一
、慶 長十 年大 久保 石見 守様 ゟ隼 人殿
・帯 刀殿
・当 主計 殿被
レ召
、此 村を 継場 に御 取立 之書 附御 見せ 被レ
成候
」16( と)
あり
、慶 長十 年( 一六
〇五
)に 大久 保
長安 が日 野本 郷( 村) の名 主を 勤め てい た佐 藤氏 など 村役 人を 呼び 出し
、日 野本 郷を 伝馬
・人 足の 継立 場に 取り 立て る こと を記 した 書付 を見 せて いる
。こ の史 料は 日野 宿成 立か ら約 一〇
〇年 後に 書上 げら れた もの であ るが
、こ れに よっ て 甲州 街道 開設 に大 久保 長安 が直 接関 わっ てい たこ とを 知る こと がで きる
。
②青 梅街 道の 開設 近世 に江 戸と 甲州 とを 武蔵 国多 摩郡 青梅 宿経 由で 結ぶ 道路 が青 梅街 道で あり
、こ の街 道も 代官 頭大 久保 長安 によ って 開設 され たと 考え られ てい る(
17
。)
その こと を示 す史 料と して 次の よう な古 文書 があ る(
18
。)
今度 江戸 御城 御作 事、 御用 白⼟ 武州 上成 木村
・北 小曾 木村
・山 根よ り取 寄候
、御 急之 事ニ
候間
、其 方御 代官 所三 田 領・ 加治 領御 領私 領道 中筋 より 助馬 出レ
之、 無レ
滞石 灰附 送候 様可 申二
付一
駄賃 口付 服忌 有レ
之者
、堅 出し 不レ
申候 様可
二申 付一
候、 以上 午
�慶 長十 一年
十�
一月 大 相模 守 本 佐渡 守 大久 保石 見守 殿 前書 之通 可二
相心 得一
者也 大 石 見 上成 木村 白
⼟焼 下成 木村 白
⼟焼 この 古文 書は 慶長 十一 年十 一月
、江 戸幕 府の 年寄 衆本 多佐 渡守 正信 と同 じく 年寄 衆の 大久 保相 模守 忠隣 から 代官 頭の 大久 保長 安宛 に差 し出 され た連 署状 であ る。 古文 書の 内容 から 江戸 城の 改修 工事 に伴 ない 白壁 用の 石灰 を武 州上 成木 村・ 北小 曽木 村な どか ら取 り寄 せる こと にな り、 火急 のこ とな ので 大久 保長 安が 支配 して いる 三田 領・ 加治 領な どの 幕 領・ 私領
・道 中筋 から 助馬 を提 供し
、滞 りな く石 灰を 江戸 まで 送る こと を命 じて いる こと がわ かる
。こ の史 料に よっ て
青梅 街道 が大 久保 長安 によ って 開設 され たと され てい る。 とこ ろで 青梅 街道 の開 設に 伴な い、 慶長 十六 年( 一六 一一
)二 月、 多摩 郡師 岡村 に⼟ 着し てい た吉 野織 部之 助に よっ て青 梅街 道沿 いの 西武 蔵野 の原 野に 新町 村が 開村 され てい るが
、そ の新 町村 開発 時に は入 村者 がほ とん どい なく
、同 十 八年 二月 に吉 野織 部之 助は 代官 頭で あっ た大 久保 長安 配下 の代 官高 室金 兵衛 昌重 に依 頼し 次の よう な文 書を 出し てい る(
19
。)
此度 西武 蔵野 吉ニ
野織 部之 助致 頭二
取一
新田 取立 候間
、二 男・ 三男 有レ
之者 ハ出 之レ
、百 姓相 勤可 申レ
候、 且井 穿人 馬織 部之 助差 図次 第可
レ出 候、 若於
レ滞 可レ
為二
越度
一者 也 丑二 月 高室 金兵 衛 印 青梅 村 藤 橋村 黒沢 村 谷 野村 成木 村 木 ノ下 村 北小 曾木 村 塩 船村 上師 岡村 根ヶ 布村 西分 村 乗願 寺村 右村 々名 年 主 寄 右同 廻状 長渕 村 畑 中村 駒木 野村 千ヶ 瀬村 和田 村
下村 二又 尾村 迄相 廻る
右村 々名 年 主 寄 これ によ って 新町 村へ の入 村者 が各 地か ら集 まり 新町 村の 開発 が始 まる こと にな る。 青梅 街道 開設 に伴 ない 開発 され たと 考え られ る新 町村 に対 し入 村者 募集 に大 久保 長安 配下 の代 官が 関わ って いた とい う事 実か ら、 大久 保長 安が 何ら かの 形で 青梅 街道 の開 設に 関与 して いた こと を裏 付け るこ とが でき る。
⑶ 宗 教 拠 点 へ の 対 応
①高 尾山 での 竹木 伐採 禁止 高尾 山薬 王院
(現
・東 京都 八王 子市 に所 在) は古 くか ら山 岳信 仰の 霊場 とし て信 仰を あつ め、 とり わけ 戦国 大名 の北 条氏 照( 八王 子城 主) は寺 域を 保護 して きて いた(
20)
。 徳川 氏の 関東 入国 後ま もな い天 正十 九年
(一 五九 一) 四月 二十 七日 付で
、大 久保 長安 は彼 の配 下の 代官
・手 代宛 に次 のよ うな 書状 を送 付し てい る(
21
。)
尚々 たれ 人成 共、 竹木 ミた りニ きり とり 候ハ ヽ、 早々 召つ れ可
レ被
レ参 者也
、已 上、 高尾 山八 王子 近辺 に候 間、 誰人 成共 みた りニ 竹木 切取 候ハ ヽ、 自二
前々
一法 度之 地ニ 候間
、八 王子 へめ しつ れら れへ き者 也、 卯 う 月廿 七日 大 十兵
(花 押) ㊞
藤橋 庄左 衛門 との 設楽 惣右 衛門 との 原 佐 渡 との 参 この 書状 は高 尾山 での 竹木 伐採 の禁 止を 命じ たも ので
、違 反者 に対 して は八 王子 の陣 屋ま で召 し連 れて くる こと を命 じた もの で、 戦国 期の 北条 時代 の政 策を 踏襲 し高 尾山 とい う中 世以 来の 宗教 拠点 に対 し従 来か らの 既得 権益 を認 め庇 護 して きて いる こと がわ かる
。
②御 嶽山 の社 殿造 営 御嶽 山( 御嶽 蔵王 権現 社。 現・ 東京 都青 梅市 に所 在) は、 関東 にお ける 蔵王 信仰 の中 心と して 人び との 崇拝 を受 けて いた
。江 戸時 代は 江戸 幕府 の祈 願所 とな り、 朱印 地三
〇石 の寄 進を 受け
、庶 民の 盗難 除け と火 難除 け、 養蚕
・安 産の 守 護神 とし て信 仰さ れて いた
。 安永 七年
(一 七七 八) 九月 三日 付で 御嶽 山神 主金 井氏 から 寺社 奉行 に差 し出 され た「 御嶽 山社 頭御 造営 之次 第并
富突 願ニ
付趣 意申 上候 覚」 には 次の よう に記 され てい る(
22
。)
御嶽 山社 頭御 造営 之次 第幷 富突 願ニ
付趣 意申 上候 覚 一、 天正 十九 年卯 十一 月 東照 宮様 三拾 石社 領御 寄附 被二
成下
一、 御武 運御 長久 之御 祈願 所与
御判 物を 以被
二成 下一
候、 以来 御 代々 様御 朱印 頂戴 仕候
、社 頭御 建立 之儀
、慶 長拾 巳年
・同 十一 午年 両年 悉ニ
ク御 造営 被二
下置 候一
、此 節御 奉行 大者
久保 石見 守殿 有与 レ之 候、 奉レ
入二
御上 覧一
候安 平御 太刀
、此 節御 奉納 御ニ
座候
、・
・( 後略
)・
・ これ によ って 慶長 十年
(一 六〇 五)
、同 十一 年の 二ヶ 年に わた って 大久 保長 安を 奉行 とし て社 殿の 造営 が行 われ て、 太刀 が奉 納さ れて いた こと がわ かる(
23
。)
③六 所宮 の社 殿造 営 六所 宮( 現・ 大國 魂神 社で
、東 京都 府中 市に 所在
)は 武蔵 国の 総社 で六 社を 合祀 し、 源頼 義と 源義 家が 奥州 に向 かう 際に 戦勝 を祈 願し たり
、ま た源 頼朝 が妻 の安 産祈 願を する など 由緒 ある 神社 であ った
。天 正十 九年
(一 五九 一) 徳川 家 康は 六所 宮に 対し て朱 印地 五〇
〇石 を寄 進し てい るが
、『 新編 武蔵 国風
⼟記 稿』 の六 所神 領の 項に は次 のよ うな 記事 が 散見 され る(
24
。)
慶長 十五 年。 宮社 及楼 門鳥 居諸 末社
。以 下倉 庫等 ニ至 ルマ テ。 造営 ヲ加 ヘラ ル。 コノ 時大 久保 石見 守長 安奉 行セ リ。 カノ 石見 守奉 納ノ 銅燈 籠今 ニ存 セリ
。 これ によ ると
、慶 長十 五年
(一 六一
〇)
、大 久保 長安 が奉 行と なっ て六 所宮 境内 の諸 殿舎 など の造 営を 行い
、銅 製の 燈籠 を奉 納し てい た(
25)
。 この よう に徳 川氏 の在 地支 配に あた って は地 域に 影響 力を もっ てい た由 緒あ る寺 社に 一定 の配 慮を し、 寺社 政策 を展 開し てい たが
、大 久保 長安 は彼 の支 配領 域に おい ても 宗教 的拠 点が 従来 から 有す る権 利を 認め
、ま た彼 自身
、寺 社の 建 物造 営な どに も関 わり
、燈 籠な ども 寄進 して おり
、宗 教拠 点に 一定 の配 慮を しな がら 地方 行政 を推 進し てい たこ とが わ かる
。
⑷ 在 地 支 配 へ の 関 与
大久 保長 安の 南関 東に おけ る在 地支 配の 様相 を記 した 史料 は管 見の かぎ りで は皆 無に 等し い。 その よう な中 にあ って 江戸 幕府 成立 以前 に大 久保 長安 の南 関東 にお ける 在地 支配 の様 子を 窺う こと がこ とが でき る次 のよ うな 史料 があ る(26)
。 平井 衆書 付写 一、 小宮 領之 内平 井之 郷高 永百 拾六 貫五 百文 之所 御座 候を
、三 拾五
�
�
�
年�
先之 寅年 之四 月八 日に 冷雨 ふり 百姓 退転 仕候 付、 五拾 五貫 文定 納仕 候、 残六 拾壱 貫五 百文 不作 仕候 付而
、大 窪�久保
石�
見様 へ此 由申 上候 へハ
、則 為レ
此之 検見 御出
被レ
成、 平井 之百 姓共 被二
召出
一被
二仰 付一
候分 ハ、 如レ
何様 にも 才覚 致、 此荒 地開 申候 へと 御達 被レ
成候 間、 我等 共申 上候 分ハ
、前 々ゟ 平井 ニ市 三さ い
� 斎
立�
来り 申候 を、 寅年 百姓 退伝�転� 之時 分伊 奈へ とら れ申 候間
、此 市を 被二
仰付
一
御返 し被
レ下 候ニ
付而
ハ、 不作 開可
レ申 候与
我等 共申 上候 へハ
、則 如二
前々
一御 返被
レ下 候処 ニ 午
�寛 永七
拾�
月七 日ゟ 伊奈
ニ
新市 を立 本宿 六ニ
さい
� 斎
立�
申候 へハ
、小 宮領 細谷 之儀 御ニ
座候 間、 平井 之市 ハ一 円立 不レ
申候 付ニ
百姓 迷惑 仕候 間、 此市 如二
前々
一立 申候 やう に被
二仰 付一
可レ
被レ
下候 事、 一、 右御 請申 上候 とて 市御 返し 被レ
下候 ゆへ
、開 被レ
申仕
、只 今ハ 永百 拾六 貫五 百文 定納 仕候
、其 外町 中其 の儀 も 尤か の�庚� への さる
� 申
の�
とし 御改 被レ
成、 永弐 貫八 百六 拾四 文定 納申 候、 如二
前々
一平 井之 市退 伝�転� 不レ
申市 被ニ 二仰 付一
可レ
被レ
下事
、 寛永 拾年 酉五 月十 一日
平井 半兵 へ 与三 左衛 門 次 兵へ 二郎 左衛 門 弥 五右 衛門 小兵 衛 利右 衛門 庄兵 へ 高室 金兵 衛様 この 史料 は寛 永十 五年
(一 六三 三) 五月 十一 日、 多摩 郡平 井郷 の百 姓八 名が 代官 の高 室金 兵衛 昌重 に対 し平 井村 の
「市 日」 につ いて 訴え 出た 書付 であ る(
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。そ れに よる と三 十五 年前 の寅 年(
28
四)
月八 日に 冷雨 が降 りそ の影 響で 農作 物の 不作 とそ れに 伴な う生 活の 衰退 を農 民が 申し 出た 折、 大久 保長 安は 検見 のた め自 ら平 井郷 に来 村し 百姓 を召 し出 し荒 地