一四世紀黒死病時代の説教例話集 : 一三世紀例話 と中世カトリシズムの伝統から見る
著者 石坂 尚武
雑誌名 人文學
号 171
ページ 75‑127
発行年 2002‑03‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004277
一四世紀黒死病時代の説教例話集
││一三世紀例話と中世カトリシズムの伝統から見る││
石 坂 尚 武
はじめに││黒死病は伝統的思想を変えたか││
一三四八年︑黒死病︵ペスト︶がイタリア全土を襲った︒この疫病の蔓延でイタリアの多くの都市で数カ月の間に
その半分もの人びとが命を落とし︑都市において巷にあふれかえった死者はもはや墓に埋葬しきれなかったという︒
この前代未聞の恐るべき黒死病に直面したイタリアの人びとは︑黒死病の到来についてどのように受けとめたのであ
ろうか︒すなわち︑それまで抱いてきた既成の宗教観や物の見方によってうまく解釈できたのであろうか︒あるいは
それとも︑従来の宗教的見方ではこの異変には対応しきれないと考えて︑ここに宗教思想上︑新しい見方を生み出し
て︑それをもってこの惨劇を解釈しようとしたのであろうか︒
一見したところ︑人間は全く新しい出来事に対しては︑従来の見方では解釈できないと考えて︑旧来の見方から訣
別して︑別の見方を導入していくように思われる︒日本の近代の歴史を見てみるならば︑明治維新以後︑ヨーロッパ
― 75 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
に追いつこうと必死に西洋文明を営々と導入しようとしてきた最中において︑関東大震災が東京を襲った︒思わずし
て突き落とされた悲劇のどん底︒この恐るべき自然災害の前に知識人の結集した東京において人間の無力と無常を痛
感させられ︑ここに従来の見方が根底から見直され︑文学史上根本的な亀裂を余儀なくされたという
︒同様のこと
が︑黒死病に見舞われたイタリアにおいても起こったのではないかという見方もあろう︒黒死病という破局的出来事
が︑人びとのそれまで抱いてきた宗教観に影響を与え︑宗教観に基本的な変革や変質をもたらしたのではないか︑当
然そのように考えられもしよう︒事実︑黒死病は政治・経済・社会のあらゆる方面においてそれ以前の時代との決定
的な亀裂をもたらし︑中世の終末を告げる鋭い爪痕を残した︑としばしばいわれるのである
︒
しかしながら筆者はそれとは対立的な仮説的な見方を展開した
︒すなわちこの惨劇に直面しても︑イタリアの人
びとはそれまで抱いていた伝統的な中世キリスト教思想︑つまり中世カトリシズムの考え方を堅持していて︑それを
もって黒死病という出来事を解釈し︑受容し︑さしあたって当面の間︵十年間から数十年程度の間︶はその基本構造
において既成の宗教的な物の見方や行動様式を変えなかったのではないかと仮説した︒つまり黒死病という人類が遭
遇した最初のカタストローフと呼ぶべき悲劇が起こったからといって︑人びとは即座に新しい考え方や解釈をもって
黒死病を理解し受け入れたわけではないと考えたのである︒まさに当時の人びとが聖職者の教えを通じてほとんど共
通に抱いていた中世カトリシズムの物の考え方は︑黒死病をも受容する能力を本質的に内在していたと考えられるの
である︒この仮説によれば︑人びとは疫病を被った結果︑一般的にはむしろいっそうその信仰の確信を深め︑自らの
信仰の足らなさを反省し︑既成の中世カトリシズムの深化を目指していったと理解される︒
果たしてこの仮説が正しいかどうかの判断は︑当時の様々な階層・職業・地域に認められる個々の史料や年代記・ 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 76 ―
遺言書・書簡・説教・文学および芸術作品等││
これらは判断に十分な量ではないかもしれないが
││を分析し︑可能な限りひとつずつその物の見
方︑心性を根気よく認識し検討して︑なされてい
かなければならないだろう︒││今回は︑仮説の
妥当性の是非をめぐる検討として﹁説教例話﹂と
いうジャンルを扱う︒ペスト前に人びとが抱いて
いた物の見方とペスト以後のそれとの間に相違が
あったのだろうか││この問題について︑一三世
紀の説教例話の伝統とその分析を通じて一四世紀
の例話と比較してアプローチしていきたいと考える︒
結論からいうと︑このジャンルにおいても︑私が以前遺言書研究で示唆した仮説は正当なもののように思われる︒
原則的に見て私の基本的立場││いわば連続説││がそのまま有効なものと思われる︒以下︑検証を試みたい︒
黒死病時代のドミニコ修道会の説教師ヤコポ・パッサヴァンティ
Iacopo Passavanti
︵一三〇〇頃〜一三五七︶が執筆した四九話からなる説教例話集﹃真の改悛の鑑﹄は︑黒死病時代の貴重な史料というべきである︒
ピアチェンツァ(イタリア)のサン・フ ランチェスコ教会の説教壇
― 77 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
ヤコポ・パッサヴァンティの説教例話集﹃真の改悛の鑑﹄︵一三五〇年代に成立︶は拙訳として同志社大学人文学会﹃人文
学﹄第六八〜七〇号︵二〇〇〇年〜二〇〇一年︶に掲載した︒またその翻訳の冒頭の﹁訳者の解説﹂においてパッサヴァンテ
ィとその時代と﹃真の改悛の鑑﹄の作品解説等の基本的な事柄については述べた︒したがってそれについてはここでは繰り返
さない︒一三四八年︑パッサヴァンティはフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院の修道院長に就任した︒まさ
にこの年︑黒死病はフィレンツェを襲ったのであった︒このため彼の修道院では︑修道士全一三〇人のうち八〇人が
死去したという
︒このヨーロッパ有数の多大な人口を擁するフィレンツェにおいて黒死病が猛威を振るい︑ヴィッ
ラーニやボッカッチォの報告する凄まじい地獄世界が現出された︒そしてそのまだ覚めやらぬ悲劇から数年後︑鞭打
ち苦行者の行列の風靡など︑世の中にトラウマティックな風潮と悔悟の念がますます高まる一三五〇年代に︑パッサ
ヴァンティは四旬節︵四〇日間︶の一連の説教をおこなう︒その﹃真の改悛の鑑﹄という名が示すように︑その説教
は︑神から下された罰を人びとに自覚させ︑そのうえで改悛と告解によって己の罪を浄めることを強く訴えた説教で
あった︒そこでの例話は間もなくまとめて出版されたが︑この例話集こそ︑まさにペストの痛手でもたらされた直接
の産物というべきものであった︒
この例話集を分析・解釈することで限定的に認識し確認したいものがある︒それは︑簡単にいえば︑黒死病を体験
した直後のイタリア中部トスカーナ地方の都市フィレンツェにおいて︑カトリシズム︑宗教的な見方・心性がどのよ
うなものであったか︑それは黒死病が到来する前の例話から認められる思想・心性と比べてどうであったか︵異なる
ものであったか︑同じものであったか︶ということである︒ 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 78 ―
ところが︑目下のところ︑結論的には︑私はこの例話集を貫く考え方のなかに︑基本構造として︑黒死病が到来す
る前のカトリシズム・宗教観との断絶・亀裂を全く見出さないのである︒パッサヴァンティはここにおいてそれまで
の伝統的なものの見方から逸脱せずに︑ほぼ忠実に伝統的なカトリシズムに従っているのである︒このことは極めて
注目すべきことである︒
パッサヴァンティの例話は︑話の原型︵基本的な粗筋︶と個々の表現上の言い回しのほとんど︵全部ではないにし
ても︶について一三世紀と一四世紀初頭の例話集作家の例話をそのまま模倣している︒ヴァリエーショ
ンはあって
も︑そこには彼の新たな創作は認められない︒彼の例話中で最も有名な例話は︑先人の二つの例話をひとつに合成し
たものであり︑その創作性は少ない︵第三三話︶︒どれも基本的に伝統的作品にどっぷり浸かっての利用・摂取とな
っている︒ましてやペスト以後生まれたかもしれない新しい見方をそこに見出すのはむずかしいかもしれない︵その
必要がなかったのかもしれない︶︒もしそこに彼の個性・創意があるとすれば︑それは先人の数ある例話集のなかか
ら︑彼がどのような例話を選んで自分の例話集を構成させたか︑その全体的傾向ということであろう
︒彼が先人の
例話集から自分の意志で任意に選んだ例話から生まれる全体的傾向や全体的色調がパッサヴァンティの持ち味となる
だろう︒確かに黒死病の鋭い爪痕を受けたことから︑黒死病前になされていた説教と比べて︑パッサヴァンティの例
話は選ばれる話題の傾向がやや暗い傾向にあるかもしれない︑また描かれる場面が天国より地獄に傾いているかもし
れない︑また例話で悪魔の果たす役割の大きいかもしれない││しかし︑こうしたことは︑あくまで程度の差であっ
て本質的な変質とはいうべきものではないと︑ここでは判断したい︵この問題については最後に再び扱う︶︒
― 79 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
例話省略記号
PA : Iacopo Passavanti, “Specchio di vero penitenza,” pp. 493 − 626. Racconti esemplari di predicatori d el Due e T re-
cento, a cura d i G . V aranini e G. Baldassarri, tomo II, Roma, 1993.
VI : T h. F. Crane
︵ed.
︶, The E xempla o r Illustrative stories from the S ermon V ulgares of Jaque de Vitry, London, 1890.
AR : A rnordo da Liegi, Alphabetum narrationum, Milano, Biblioteca Ambrosiana, m s. T 4 5 sup.
GU :
アローン・Ya
・グレーヴィチ﹃同時代人の見た中世ヨーロッパ一三世紀の例話﹄中沢敦夫訳
平凡社
一九九五年︒
第一章なぜ説教例話集か││説教例話集の伝統とその分析の意味││
第一節説教例話は民衆の意識の反映
説教は説教師によっておこなわれる
︒そして説教をお
こなうのはふつう二つのタイプの聖職者である
︒ ひとつ
が︑幅広く各地方に設置された教区教会において司牧する﹁司祭﹂と彼ら司祭を上位から統括する司教区の﹁司教﹂
および﹁大司教﹂である︵いずれも教皇によって統括される︶︒もうひとつが︑説教文化に大きな影響を与えたある
種の修道士である︒彼らは︑地域的に比較的自由に︵主に都市に︶設置された教会を拠点に︑みずからが所属する修
道会の監督を受けて︑修道会から派遣されて説教活動をおこなった︵この修道会も教皇によって統括される︶︒この
修道士の多くは︑キリスト教的清貧を説く﹁托鉢修道会﹂の修道士であった︒托鉢修道会の中心的存在というべきも
のが︑一三世紀に成立・発展し︑多くの都市に教会を設置したフランチェスコ会︵一
二二三年創設
︶ とドミニコ会
一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 80 ―
︵一二一五年創設︶であった︒この二つの托鉢修道会は︑経済的発展に恵まれた中世後期︑とりわけ一三世紀のいわ
ば富の世界に対して︑逆説的に清貧を訴えて人びとのこころをつかみ人気を得た修道会であった︒その活動はそれま
での多くの修道会と異なっていた︒それまでの多くの修道会のように世俗と隔絶した隠棲生活を送るのではなく︑人
びとを説教によって宗教的に啓発しようとする︑世俗との関わりを重視した修道会であった︒この修道会は説教・教
育・告解を中心に世俗の人びととの直接的︑全面的関わりに力を注いだ︒彼らの活動は︑もはや隠修道士のようにみ
ずからの救済のために瞑想・労働し︑仲間だけの孤立した集団生活をおこなういわば﹁内への運動﹂ではなく︑全方
位的な﹁外への運動﹂であった︒
彼ら托鉢修道士は︑とりわけ都市の宗教的啓発に使命感を抱き︑それに格別の意欲を燃やした
︒ドミニコ修道会 総長アンベール・ド
=
ロマン︵一二七七年没︶が﹃説教修道会の教えについて﹄のなかで述べているように︑托鉢修道士が都市に目をつけたのは︑三つの理由があった︒すなわち都市にこそ人びとが密集していること︑都市にこそ悪
徳の温床があること︑都市を啓発すれば︑それはおのずと周辺の農村の人びとの啓発につながるということ︑この三
つの認識のもとに都市の啓発に励んだのである
︒教皇から正式に認可を受けたこの托鉢修道会は︑あくまで正統カ
トリックの教義の遵守に基づいた︑人びとの正統的宗教心の高揚││それは霊魂の救済につながるとされた││を目
指したのである︒したがって彼らが説教活動に最大の力点を置いたのは当然であり︑かつ本質的なことであった︒罪
を自覚させる説教によって人びと全体を﹁改悛﹂の念に駆り立て││キリスト教はまさに﹁罪の宗教﹂である││そ
れを踏まえて︑やって来るひとりひとりの信徒に﹁告解﹂をおこなう││これが托鉢修道会のねらいであった︒しか
し中世において説教師は微妙なむずかしい立場に置かれていた︒二つの世界の両方に足場を置かねばならなかったか
― 81 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
らである︒一方において︑彼らはみずからを統括する上位の聖職者︵司教や教皇︶の指導・監督にしたがって︑カト
リック教会の正統的教義の遵守を信徒に徹底させる立場にあった︒異端︑異端的なもの︑地域に古くから伝わる非キ
リスト教的な民間伝説や異教的迷信︑そうしたものを嗅ぎつけてそれと毅然と戦わなくてはならなかった︒彼らはま
さに神学的に理論武装したカトリックの戦士でなくてはならなかったのである︒││しかしながら︑ふつう説教師の
この立場は︑その地方に異端思想が発生した特別の場合にのみ問題になるのであって︑一般的にはもうひとつの立場
の方が︑継続的かつ直接的に関わりをもたなくてはならないという意味でずっと重要であったといえる︒
すなわち説教師のもうひとつの立場とは︑毎日の日常的な活動である説教によって地域の民衆のこころを常につか
まなくてはならないということであった︒常に地域の信徒の生きたこころのなかに降りて行き︑彼らと同じ空気を吸
って︑民衆とともに生きていくこと││このことは説教師にとって出発点として大事なことであった︒人びとが何を
思い︑何を感じ︑何を望んでいるかを感じ取らなくてはいけなかったのである︒信徒は﹁第一原因﹂といったむずか
しい教義や﹁信仰か理性﹂かといった神学上の論争など決して望んでおらず︑ふつうそうしたもの
に無関心であっ
た︒説教師は︑都市や地域で働く多くの人びとの生の姿を知り︑庶民が今抱いている関心事に暖かく目を向け︑その
次元から出発して信徒の目を引くことが肝要であった︒つまり説教において利用すべき素材は︑庶民の日常生活や日
常的関心の観点から求められるべきであった︒説教にはしばしば堕落した司教や修道士や修道女が登場する︒これは
説教師が︑ある面において︑仲間の聖職者を切り捨ててまで庶民のこころに同化しその歓心を得ようとしたことのあ
らわれと理解できるであろう︒
例話研究家グレーヴィチの優れた研究は多くのことを教えてくれるが︑そのひとつとして︑庶民が今抱いている意 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 82 ―
識や関心事の次元から出発して︑信徒の目を引く有力な手段として説教師から注目され︑日常的に活用されたものこ そ︑説教のなかの﹁例話﹂
exempla
︵エクセンプラ︶であったという︒﹁例話﹂とは︑信徒の死後の霊魂の救済︵つまり霊魂が天国に召されること︶に向けて宗教的啓発を目指すものであるが︑あくまで﹁実話﹂として与えられる説教
のなかの一部をなす短い物語である︒例えば︑例話では素材として最近巷で起こった事件が話題とされ︑そこから
宗教的教訓を導く︒その地域で古くから厚く信仰されている聖人やその都市の守護聖人にまつわる逸話を話題にす
る︒当時実際に起こった泥棒や娼婦の改心︑聖職者の不倫問題などを話題にする︒またその地域で伝えられるありが
たい驚くべき奇跡を話題にする︒あるいは一年間の流れに応じて︑降誕祭・復活祭・四旬節等にまつわる誰にでも興
味のもてる身近な親しみやすい話を話題とする︒このような例話によって日々︑日常的に目の前の信徒の次元に立っ
て︑そのこころをつかむことが説教師が有効な説教をおこなうコツであった︒例話が説教において中心的地位を占め
るようになる前の時代では︑説教において説教師がおきまりのパターンとして聖書の一節を紹介し︵はじめはラテン
語で次に翻訳で︶︑その神学的な解説とそこから導かれる︑堅苦しい戒めや勧告を一方的に伝えるだけであった││
今や︑これだけではもはや経済発展によって増大した都市の教会に密集する庶民のこころをつかみきれなくなってき
たのであろう︒
信徒の日常的な︑親しみのもてる話題からなるこの例話は︑人びとから好評だったことが︑当時の史料からも読み
取れる
︒こうして例話は説教師自身がおこなう話でありながら︑むしろ庶民のこころや意識や生の声をそのまま反
映するものとなった︒ここにおいて説教師は司教や修道会の命を受けて︑上から一方的に地域に派遣された意味にお
いて指導者であるばかりでなく︑地域のこころを代表するという意味での指導者にもなった︒例話には説教師の息遣
― 83 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
いを通じて︑生きた庶民の血の通った生の姿︑物の見方や心性が垣間見れるのである︵したがって例話は社会史的な
研究対象としても価値があるのである︶︒
このように信徒のこころに降りてその次元で語るということ︑このことは説教をわかりやすいものとさせる要因と
なった︒隆盛した托鉢修道会は︑誰にでもわかる説教によってあらゆる人びとを啓発しようとした︒今や説教のなか
で最も期待された重要な部分はほかならぬ例話であった︒事実︑羊皮紙文化と呼ぶべき一三世紀の文化的背景のもと
に
︑托鉢修道会はわかりやすい話を集めた例話集を数々出版して︑それらは司祭や修道士などの説教師によって大
いに活用されたのである︒一三世紀から一五世紀にかけて例話集が数多く出版されたが︑ドミニコ会による例話集は
九一点︑フランチェスコ会による例話集は四六点︑全部で数千もの例話が現存しているという
︒
説教をわかりやすく︑興味深いものとさせた要因のもうひとつはそれを聞く庶民からの評価であったと
考えられ
る︒信徒は説教師とその説教に対して厳しい評価をおこなっていた︒その評価は︑日常的︑恒常的なもので︑その評
価はなまぬるいものではなかったようである︒人を興味づける説教は人気が出る一方で︑退屈な説教はそっぽを向か
れた
︒この時代の遺言書を読むと︑ひとり遺言者が都市内の複数の教会に対して喜捨をおこなっていたことがわか
る︒このことから推定するに︑信徒にとって通うべき教会は必ずしもひとつの特定の教会に固定されたものとは限ら
なかった︒だから庶民は人を引き付ける説教をおこなう説教師のいる教会の方に好んで足を向けたであろう︒事実︑
一三世紀の例話を見ると︑そのなかには︑魅力のない説教のために居眠りをする信徒や︑がやがややかましく私語す
る信徒の話が出てくる一方で︑人を引きつけるすばらしい説教をおこなう説教師の︑いわば﹁おっかけ﹂をして︑そ
の説教を教会や広場で何度も聞くために村から村へ︑山から山へと渡り歩いた女性︵そのために全財産を失う︶や老 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 84 ―
人︵そのために命を落とす︶など多くの人びとについて語っている
︒﹁人気のある説教師はキリスト教徒の︽アイ
ドル︾となる﹂︵ル・ゴッフ︶
この時代において信徒はもちろんありがたい説教にみずからの宗教心の高揚と救済の道への糸口を求めていたが︑
それだけではなく︑一種の娯楽的要素を求めていたのである︒文字が読めず︑また本も極めて少ないこの時代におい
て︑読書の楽しみ方を知らない当時の民衆にとって︑説教例話はほとんど唯一の知的娯楽であっただろう︒中世にお
いて説教例話を聞くことがいかに大きな楽しみであったかは︑我々のような︑テレビ︑ラジオ︑映画その他の多くの
娯楽に取り囲まれ︑それに慣れ親しんでしまった現代人には到底理解できないことであろう︒
説教師も例話の娯楽的要素を十分心得ていて︑それに応えようとした︒説教師は興味深い例話と巧みな話術によっ
て︑聴衆を泣かせ︑笑わせ︑興奮させ︑そのこころを大いに揺さぶったのであった︒実際のところ︑この世界︑すな
わち雄弁術的な話術の世界は古代ローマの時代から脈々と流れ続けてきたヨーロッパの伝統であった︒アウグスティ
ヌスやアンブロシウスらは︑みずから﹁キリスト教的真理﹂を悟り︑異教から改宗してキリスト教徒となったが︑教
養人としてそれ以前に身につけたローマの学問的教養であるキケロ的雄弁術は捨てなかった︒彼らは改宗後は雄弁術
を大いに活かして︑布教活動を有効に展開したのであった
︒中世キリスト教はふつう世俗的学問に冷たい態度を取
りがちであったが︑雄弁術のこの有効性のおかげで︑雄弁術は継続的に重視されたのである︒
かくして︑庶民からの厳しい評価という背景︑そしてより興味深い例話を希求する一般の説教師の要望に応えよう
とした結果︑今述べたように数多くの例話集が出版されたのである︒この例話集はひとつの実用書であったので︑必要
な時にすぐに使えるように例話のテーマをアルファベット順に並べるなど工夫がなされた
︵パッサヴァンティもこ
― 85 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
の﹃説話目録﹄︵
AR
︶を最大限に活用して自分の例話集﹃真の改悛の鑑﹄をまとめている︶︒繰り返すが︑こうした例話集の出版やその工夫の背後において強く作用しているものは︑信徒からの日々の厳しい評価であったといえる︒
第二節例話の﹁わかりやさ﹂﹁興味深さ﹂の内的構造
例話には伝統的に﹁わかりやすさ﹂﹁興味深さ﹂が求められたといえる︒中世において一般大衆はふつうその宗教
教育を教会で受けた
︒その宗教教育は幼少の頃から始まり大人になっても続き︑それは死ぬまでずっと教会の聖職
者の話や説教を通じておこなわれた︒文字の読めない民衆にとって︑聖職者の説教は教会を飾る絵画・彫刻・ステン
ドグラスとともに︑いわば文字によらない聖書であった︒文字の読めない教養のない民衆︵大多数の人びと︶を相手
にしていたことから﹁わかりやすさ﹂と﹁興味深さ﹂は︑説教とりわけ例話の生命線であった︒
﹁わかりやすさ﹂と﹁興味深さ﹂を生み出すために説教師の使うことばは︑むずかしい語彙を避け︑高踏な固い口
調︵文語調︶ではなく︑普通の話し言葉であった
︒また会話形式もわかりやすさのために好まれた︒例話のなかで
二人の人物が登場した時には︑二人の話は会話の形で示され︑人物ごとに口調を変えて話を展開させた︒庶民を相手
に話をするときには︑その方が話の場面のリアリティや臨場感が生まれて︑彼らの関心をひくことがで
きたのであ
る︒このことは一四世紀になってまとめられた例話集についても同じことがいえた︒パッサヴァンティの﹃真の改悛
の鑑﹄の第一八話﹁娼婦タイスの改悛﹂という異色とも思われる例話がある︒修道院長パヌンツィオは︑当時巷で大
変な評判だった娼婦のタイスに娼婦をやめさせようと考える︒そこで商人に扮して︑タイスの働く売春宿を訪ねる︒
そして売春宿の寝室でふたりの間で会話が交わされる││︒教会のなかでそのような場面が扱われること自体も驚く 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 86 ―
べきことであり︑それほどに例話は思い切った話題をもって人びとの関心を引こうとしたのであろう︒しかし︑この
思い切った場面設定もパッサヴァンティのオリジナルではなく︑彼が利用した伝統的なアルノルドゥス﹃説話目録﹄
に従ったものなのである︒次にその一部を紹介する︒
娼婦タイスの改悛︵PA:XVIII︶
⁝⁝教父パヌンツィオは︑それから部屋に入っていった︒部屋には優雅なベッドが整えられて置かれていた︒そこで教父は︑
彼女からいかがわしい行為をするように誘われた︒その時︑教父は︑この宿にはこれよりほかにもっと奥まった場所はないも
のかね︑と尋ねた︒すると女は︑こう尋ねた││︒
﹁はい︑ございます︒でも︑またどうしてもっと奥まった部屋をお求めなのでございましょうか︒もしお客様が人目をはばか
るというのでございましたら︑この部屋はきちんと閉め切られていて︑人目から隠されてございます︒もし神の目を恐れてお
いででしたら︑どのような場所に行っても神の目はさえぎることはできません︒﹂
そこで修道院長パヌンツィオはこう言った││
﹁お前は神の存在を本当に信じているのかね︒また神がどんなことでもごらんになっているということも信じているのかね︒﹂
罪深い女はこう答えた││︒
ただ﹁はい︑神を信じております︒また天国があることも信じております︒神はそこへ義しい人びとを導かれるでしょう︒また地
獄では︑地獄落ちした人たちが苦しむことでしょう︒﹂
そこで聖パヌンツィオはこう言った││︒
﹁おまえがそのように信じているなら︑どうして罪にまみれて生きているのだね︒そのために地獄に堕ちて罰を受けることに
なるのだよ︒﹂
この言葉を聞いて︑罪深い女の胸には悔恨の念が極まった︒そして涙をいっぱいためて修道院長の足元に身を投げ出して︑ど
― 87 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
うかご慈悲と贖罪をお願いします︑と乞うた⁝⁝︒
﹁わかりやすさ﹂を求める例話は︑このように会話体を尊重するとともに一種の庶民的な﹁象徴主義﹂ともいうべ
きものをも採用する︒そこでは︑﹁罪の重さ﹂は︑象徴化されて﹁物質的な重さ﹂となって示される︒ある例話によ
ると︑ある罪深い男が船に乗っていた︒すると︑嵐にあって船が大きく揺れた︒男は船が転覆しそうなのは自分の罪
の重さのせいだと思って︑自分のひとつひとつの罪について告解を始め︑船の重荷となっている自分の罪を海にほう
り出した︒すると海は凪いで︑告解が終わるころ嵐は完全に止んでしまったという︵Gu:237−8︶︒ここでは﹁船荷の
重さ﹂が﹁罪の重さ﹂に︑﹁告解﹂が﹁船荷の軽減﹂に象徴化されている︒別の例話では︑情欲に燃える女が町を歩
いていたら︑町が燃えたという︵GU:235︶︒ここでは情欲は火事に象徴化︑現実化されてしまう︒これは理論的︑神
学的には問題があろうが︑庶民に対して告解の大切さをアピールする話としては説得力のあるわかりやすい話であっ
たのだ︒﹁わかりやすさ﹂を求める例話は思いきった象徴化をおこなうのである︒
﹁わかりやすさ﹂﹁興味深さ﹂を求める中世の説教例話は︑以上のように︑言葉遣いの配慮や難解な神学的講釈の回
避︑話題の日常性︑身近さの重視︑対話体の採用︑庶民的な象徴主義の採用などがあったが︑もっと本質的にはどの
ような配慮からもたらされているのであろうか︒次に例話作りに潜んでいると考えられる﹁内的構造﹂
を分析した
い︒この内的構造こそ︑例話の本質的なわかりやすさを生み出しているものなのである︒ 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 88 ―
︵一︶﹁起承転結﹂による明快な話の展開││ダイナミズムの内的構造その一││
例話には伝統的に﹁わかりやすさ﹂が求められたことから︑今述べたように日常的話題であることが重視された︒
しかし決して平凡な話のままには終わらなかった︒その短い話の展開にはめりはりがあって︑ふつう結尾に主張した
いポイントが明快に提示されていた︒あるいは﹁落ち﹂がしっかり設定されていた︒そこには話にめりはりを生む発
想法のひとつとして︽起↓承↓転↓結︾の﹁形式感覚﹂があった︒実例を示そう︒
修道士の恋文︵GU:496︶
起ある聖職者が修道女に恋をした︒
承そこで聖職者は修道女に恋文を書いた︒
転ところが﹁雅歌﹂︵旧約聖書︶からの引用句を書き込んだ瞬間︑息をひきとってしまった︒
結その死の原因は︑この聖職者が霊的な愛のことばと肉体的な汚れた愛のことばを結びつけたからである︒
着替えに戻った修道士︵GU:118︶
起あるシトー会修道士は致命的な病気にかかった︒ひどい病熱だったので作業服
に着替えたいと願い出て
︑ 修道衣を脱い
だ︒それから死んでいった︒
承それから︑亡くなった修道士の遺体を前にして仲間の修道士たちは祈りを唱えていた︒
― 89 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
転ところが死んだはずの修道士は担架の上で起き上がり︑皆を驚かせた︒彼が言うには︑天国の入り口のところまで行った
が︑そこで聖ベネディクトゥスに身分を問われて︑﹁私はシトー会の修道士です﹂と答えたが︑﹁修道士なら修道服はどうし
たのだ︒お前のような作業服を来た者を安らぎの場所に入れるわけにはいかぬ﹂と追い返された︒そこで肉体に戻してくれ
るように頼み︑願いがかなって︑今帰って来たという︒
結そこで修道衣を着せてやったが︑するととその修道士は心安らかに再び息をひきとった︒
一四世紀パッサヴァンティの﹃真の改悛の鑑﹄においても一三世紀の伝統的な﹁起承転結﹂の形式感覚は受け継が
れており︑話に明快な展開をもたらしている︒次にパッサヴァンティの例話を見てみよう︒
高められた聖ヒラリウス︵PA:XLI︶
起聖ヒラリウスが公会議に出席するためにやって来たが︑議場には彼の座る席がなかった︒司教たちは誰も彼に席を譲ろう
としなかった︒
承そこで聖ヒラリウスは﹁大地は神のものである﹂といって床に座り込んだ︒
転すると突然のこと︑聖ヒラリウスの座っていた床が高く盛り上がった︒
おとし結司教たちはこの奇跡を見て聖ヒラリウスを敬い︑福音書のなかのことばを思い出した││﹁自らを貶める者は高められる 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 90 ―
であろう﹂︒
︵ついでにいえば︑ここには先の庶民的な﹁象徴主義﹂が認められる︒﹁床に座る﹂行為に﹁自らを貶める﹂譲譲さ
が象徴化され︑﹁床が高く盛り上がる﹂ことに﹁高められ﹂神の恩寵に浴す栄光が象徴化されている︒︶
心からの激しい悔悟は罪を消し去る︵PA:XXII︶
起ある神学生がそれまで犯した罪について告解を受けた︒神学生はみずから犯した罪に号泣し︑声が途切れてしまってその
罪をことばにして話すことができなかった︒
承そこで告解聴聞師︵聴罪師︶はみずからの罪を紙に書くように指示した︒神学生はそれにしたがって犯した罪を紙に書い
た︒
転ところが聴聞師がその紙を広げてみると︑はじめは紙に数々の罪が書かれていたのにその罪が消えてしまっていた︒白紙
になってしまったのである︒
結神は︑神学生のあまりに激しい悔悟を見て︑その罪を赦されたのである︒
告解は罪を帳消しにする︵PA:XXVIII︶
起ある司祭は騎士の妻とずっと関係を結んでいた︒
― 91 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
承とうとううわさが騎士の耳に伝わった︒騎士はことの真偽を確かめようと︑二人を悪魔憑きの男に会わせようとして二人
を連れ出した︒悪魔憑きは会った人は誰でもその隠した罪をすべてばらしてくれるからであった︒
転しかし騎士のたくらみに感づいた司祭は急いで馬小屋に入って︑騎士の従者に頼んで従者に不倫の罪の告解をしてもらっ
た︒
結すると︑悪魔憑きは司祭に会っても︑司祭の罪を告発しなかった︒すでに告解をすませた罪は赦され︑誰からも非難され
ないからであった︒こうして騎士からの仕返しを無事に逃れた司祭は不倫を反省して世を捨て︑シトー会修道士になった︒
以上の例話において﹁起﹂の部分は日常的な舞台設定である︒聖職者が恋をしたり︑罪を犯すところに若干興味づ
けの配慮がなされているにしても︑話としては身近な︑親しみやすい話の開始である︒﹁承﹂はそれを受けて展開す
るが︑まだ自然な展開である︒ところが三番目の﹁展﹂において意表を衝く展開がなされ︑聞き手は強く興味づけら
れる︒そして﹁結﹂においてその事件の
末の結果・理由や話の﹁落ち﹂が示されるのである︒﹁結﹂は単に﹁結末﹂だけでなく︑話に余韻を持たす工夫がこらされる︒そこでは︑やや常套句的に︑例話の主人
公のその後の生活や生涯について印象づけることばがしばしば添えられる︒次にその例を示す︵引用文中に太字は本
稿では全て引用者による︶︒
﹁⁝⁝こうして彼は一切を捨てて修道院に入った︒そして死ぬまで神聖な生活を送ったのであった
︒﹂
︵
PA:X︶ 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 92 ―
﹁⁝⁝彼は聖地イェルサレムに二年間留まった︒それから帰って来てから施療院を建てた︒そしてそこで貧しい人びとや病人
に金品を施し︑みずから彼らの世話や看護をしたのであった︒そして死ぬまでずっと彼
は聖人のように生きたのであった
︒
⁝⁝﹂︵PA:XV︶
﹁⁝⁝妹の方は︑柱に結び付けられた綱が燃えただけで︑火の中から無事に救われた︒妹は奇跡を起こしたことへの敬意から
死刑は許された︒妹はそれからというもの︑まるで聖人のような人生を送ったのであった︒
﹂︵
PA:XXIII︶
﹁⁝⁝そして司祭はあったことを報告して修道会に入りたい旨をうやうやしく伝えた︒そしてそれは受け入れられた︒こうし
て彼は世俗を捨てて修道院の生活を選んだ︒そこで聖なる生活を死ぬまで送ったのであった︒
﹂︵
PA:XXIX︶
﹁⁝⁝さらに︑すでに罪は解かれたものの︑大罪者としての自分の立場を深く考えて︑悔恨の念を抱いたのであった︒それか
ら砂漠の地に行って隠者として暮らし︑死ぬまで聖なる改悛の日々を送ったのであった︒
﹂︵
PA:XXX︶
﹁⁝⁝改悛の念が極まったベアートリクスは︑神の慈愛と聖母マリアの恩寵を感じて修道院に戻った︒そしてその修道院で死
ぬまで改悛して敬虔な生活を送った︒⁝⁝﹂︵PA:XXXII︶
起承転結と展開するこの過程において説教師は︑ふつう登場人物や場面・情景について文学的な細かい描写をあま
りおこなわない︒比較的早いテンポで話を進める︒あくまでストーリー中心であって︑その鮮明な話の展開に力点が
おかれている︒これこそ庶民の関心をぐいぐいひきつける手法なのである︒このことはパッサヴァンティにおいてい
っそう明瞭に認められることである︒
― 93 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
︵二︶﹁この世﹂と﹁あの世﹂の交錯││ダイナミズムの内的構造その二││
メ メ ン ト
・ モ リ
中世の説教師は説教において信徒の人びとに常に﹁死﹂を意識させた︵﹁死を思え﹂︶︒教会において聖職者は︑こ
とあるごとに︑人びとに死後の地獄での永遠の苦しみを意識づけ︑この世に生きているうちにみずからの罪を改悛し
霊魂を浄めるべきことを教え︑地獄に堕ちてからではもはや遅いことを訴えた︒このことは一三四八年にペストが到
来する数世紀前からずっと強調され続けたことである︵事実︑中世に人びとの平均寿命の短さが生々しくそのまま日
常的に﹁死を思え﹂を刻み込んでいた︶︒そしてペストが到来して︑家族・隣人が目の前で次々と死去していくなか
で﹁死を思え﹂はいうまでもないことであった︒だから﹁死を思え﹂に代表される中世キリスト教の考え方において
ペスト前とペスト以後の間に本質的な違いはないといってよい︒キリスト教に内在している終末思想︑死生観︑厭世
観のなかにすでにペストのような疫病による死さえも受容する姿勢が認められるのである︒
﹁死を思え﹂はとりわけ説教の例話のなかの舞台設定に典型的にあらわれた︒例話に登場する主人公は︑幻覚であ
れ︑仮死であれ︑あたかもスペースシャトルに乗ったかのようにしばしばこの世とあの世の両方の舞台
を行き来す
る︒二つの世界は切り離されたものではなく︑交錯し︑緊張した関係にある
︒この行き来と緊張関係から結果的に
ストーリーに真迫したダイナミズムが生まれる︒死から蘇ってこの世であの世の世界を報告する仮死者︑重病の最中
に幻覚で見たあの世の世界を報告する瀕死者︑あの世を旅した人︵﹃神曲﹄のなかのダ
ンテのような
︶︑ 死にきれず
に︑この世でやり残したことをおこなうために一時的に戻って来る死者たち︱︱こうした人たちは︑垣間見た死後の
世界について強烈なメッセージを生きている者に送る︒すなわち生きているうちになすべきことを明確に伝える︒二
つの世界を交錯させる説教師のこの手法には︑あの世は身近にあることを意識づけることで︑霊的︑精神的に信徒の 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 94 ―
こころを支配しようする意図が明確に読み取れるのである︒説教師は信徒のこころを支配し︑信徒に︽刹那的な喜び
ではなく︑﹁死﹂という﹁永遠の生﹂の準備をなすべきである︾ということを教えようとするのである︒しかしこの
支配は決して一方的な支配ではない︒信徒の側にもその考えに納得してそれを受容・共有しようとするこころの状態
がまた存在しているのである︒次にこの関係の例話の要約を二つ示そう︒
追悼供養の依頼を忘れた死者︵GU:136–7︶
ある男が死んだ︒男は埋葬用の担架に載せられた︒ところが死んだは
ずなのに
︑ 突然担架から飛び出してこう言った
│
│
﹁自分のために追悼供養をしてほしいので自分のもっているすばらしい羊を司教様に寄進したい﹂と︒そう言い終わると︑み
ずから担架に載って再び息をひきとった︒
告解で改悛するのを忘れた罪︵GU:117–8︶
ある修道士はもちあわせがなく︑渡り船の人夫に一銭も船賃が払えなかった︒彼は死に際してこのわずかな借りについて告
解で言うのを忘れていた︒ところが︑この小銭は冥界にいる彼の目の前でどんどん殖えて世
界全体より大きくなってしまっ
た︒この修道士は天使に向かってなんとか自分の霊魂を肉体に戻してくれるように頼んだ︒こうして蘇生した修道士は修道院
長に改悛をやりなおし︑さらに借りたままの金を返した︒するとたちまち息をひきとったという︒
黒死病後の例話作家パッサヴァンティにおいても﹁生﹂と﹁死﹂は緊張感をもって交錯する︒ペスト以後︑両者の
交錯はいっそう強まったとさえ思われる︒遺言書研究の観点から見るならば︑もともと一三世紀から︑聖職者は信徒
に対して臨終に直面し死を意識してから遺言書作成にあたるのではなく︑働き盛りのうちに作成をすませておくよう
― 95 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
に勧めていた︒ペスト期遺言書の研究者によると︑一四世紀後半において周期的に頻発するペストによって︑人びと
は突然襲いかかる死を意識し︑遺言書を死の床に臥す前に自主的に作成するようになっていった傾向が︵地域によっ
て︶強まっていくのを認めることができるという
︒イタリアのローディにおいて健康時に書かれたと推定される遺
言書のなかに︑次のようなことばが認められるが︑これもそうした背景から書かれたと考えられる︒
﹁すなわち賢人がいうには︑我々の生きている日々は闇のように過ぎ去ってしまうのだから︑生き延びる願いを抱きながら急
死に陥るよりは︑死を恐れつつ生きていく方が好ましいのである﹂
︒
次に︑生と死の交錯という観点から︑一四世紀後半のパッサヴァンティの例話を二つ紹介する︒
死から蘇生した男︵PA:I︶
八〇六年のこと︑ある男が息をひきとったが︑しばらくしてから男は蘇生した︒そして蘇生したことで催された祝宴を喜ば
ずに︑砂漠に逃れ庵を構えて日々苛酷な苦行に明け暮れた︒どうしてそれほどの苦行を自分に課すのかと聞かれて︑答えた︒
自分は死んだ時にあの世で人びとが受ける拷問の有り様を見たのだ︒あの苦しみを思うと︑生きている間に犯した罪について
このようにみずから贖罪をしなくてはならないのだ︑と︒
キケロの徒として鞭打たれたヒエロニムス︵PA:XLVIII︶
若いころ聖書には目もくれず異教文学に明け暮れていたヒエロニムスは︑重い病気にかかり
医者からも見放されてしまっ
た︒すると突然︑彼の霊魂は神の裁きの場に連れ去られた︒そこで審問官から異教文学に耽っていることを厳しく咎められ︑
鞭で激しくたたかれた︒彼が激しく強く悔い改めて﹁もう俗世の書を読むようなことは二度と致しません﹂と誓った瞬間︑霊魂 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 96 ―
は解放されて肉体に戻った︒死んだと信じられていたヒエロニムスが息を吹き返したのであった︒それが夢ではなく本当だっ
たことの確かな証拠として︑彼の肩は鞭で打たれたアザが残っていた︒それ以来彼は聖書の翻訳・解釈に励んだのであった︒
さらに同じく次に示すパッサヴァンティの例話においても伝えるメッセージは伝統的なものである︒死
者が蘇生
し︑生きている者に教訓的な二つの強いメッセージを伝える︒すなわち第一に︑告解で罪を隠したままにしておくこ
とは天国に行くことさえ障害になるというメッセージ︑第二に︑そうした人間の過ちを聖人はとりなしをして︑救済
措置を講じてくれるというメッセージである︒
告解を回避した罪と聖フランチェスコの祈祷による蘇生︵PA:XXIV︶
⁝⁝女は告解する時に︑ひとつの罪だけについては︑恥ずかしさと忘れてしまいたい思いからしばしば触れずに後回しにし
ておいた︒その罪はいつかは折を見て告解すると言いながらも︑それでいてその罪
の告解を避け続けたのであった
︒ それか
ら︑その女は︑命を落とすことになる病に陥ったが︑そこでもほかの罪は告解したものの︑その罪は告解しなかった││こう
して女は死んだ︒
死んだ女の遺骸はまだ教会に置かれ︑葬儀がおこなわれていた︒その時︑女の霊魂が肉体に戻って来たのであった︒そして
目を開けて︑司祭に向かって霊魂が肉体に戻って来たことを示した︒そして司祭が柩のそばに近づいたとき︑司祭に﹁告解が
したいのです﹂と言ったのであった︒
そして教会のなかにいた人びとは︑聖職者も俗人も皆そばにやって来た︒彼らは恐れ驚き︑茫然としたまま︑告解が終わる
のを待っていた︒
女は告解をして司祭にこう言った││
﹁実は私は死んでしまい︑暗い牢獄のような場所で待たされていました︒すると︑そこで聞こえて来たのです││︽お前に
― 97 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
は天国に行ける望みはない︒なぜならお前は︑犯した罪の全部を告解していないからだ︾と︒
しかし︑私が生涯ずっと信仰を捧げてきた聖フランチェスコ様は私のために神に祈って下さいました︒そして︽この女がひ
とつの罪だけを告解せずに残しておいたのは︑悪意というより出来心にすぎないのです︾と神にいってくれました︒するとあ
りがたいことに︑私の霊魂はもう一度肉体に戻って来て︑言い残したひとつの罪の告解をすることが許されたのです︒そして
今︑その罪を神と神父に告解しました︒そして罪の赦しがなされ︑霊魂は肉体から離れて行きました︒こうして私は︑霊魂が
救済され︑ただちに天国に行けるという望みを抱いて︑煉獄へまいります︒﹂
以上のようなことが起こったのである︒
司祭が赦罪のアーメンを言ったあと︑女は急にがっくりと身を崩し︑息を引き取った︒
葬儀が続けられ︑終わったのち︑遺骸は墓に納められた︒そして女の霊魂は救済されたのであった︒
︵三︶﹁奇跡﹂の到来││ダイナミズムの内的構造その三││
ストーリーの展開をいっそうダイナミックにするものが奇跡である︒例話は︑庶民に親しみやすい﹁日常的﹂世界
から出発するが︑そこから出発した例話は奇跡の発生によって思わぬ世界││﹁超日常的﹂な世界││に突入する︒
この﹁日常﹂から﹁超日常﹂への場面転換︑いわば飛翔によって話の転換にダイナミズムが生まれる︒さらにこの転
換が例話のなかの﹁起承転結﹂の展開のなかの﹁転﹂の部分に置かれる時には︑それはいっそう効果的でドラマチッ
クなものとなる︒今述べた﹁告解を回避した女と聖フランチェスコの奇跡﹂は︑﹁転﹂の部分で﹁奇跡﹂が起こるパ
ターンである︒すなわち││
起
: ︽罪を告解せずに女が死ぬ︾
承
: ︽葬儀がおこなわれている︾
転
: ︽奇跡が起こる!
聖フランチェスコによ
るとりなしで︑女が蘇生し告解をやり直す︾結
: ︽再び息を引き取り︑今度は無事天国を目ざす︾
一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 98 ―
またはじめからフィクションとして設定された話のなかで﹁奇跡﹂が起きてもさほどの驚きもなかろうが︑例話は
あくまで﹁実話﹂として与えられている︒例えば︑九六頁に要約を紹介した﹁死から蘇生した男﹂のように︑まこ
としやかに話の冒頭で﹁八〇六年﹂という年号が示されるのはその端的な例である︒同様に︑それが実際に起こった
ことを印象づけるために話に具体性が与えられる︒例えばその事件の起こった村の名前を示し︑事件が特定の個人に
起こったことを示すために主人公の身分や職業が示される︒﹁実話﹂であることから生まれる現実感を聴衆に植えつ
けているからこそ︑そこで生起した奇跡は聴衆の驚きを呼び起こすのである︒さらに︑それが本当にあったというこ
とを示すために︑念入りに︑紹介したヒエロニムスの話︵九六頁︶のように︑﹁夢でなかった証拠に肩に鞭で打たれ
たアザが残っていた﹂というようなことばが付け加えられるのである︒あるいは︑例話の最初に﹁私がトレドにいた
ときに実際に聞いた驚くべき話をお聞かせしよう﹂といって話を切り出す
︒あるいは︑例話の最後に﹁この話はわ たしがつくりあげたものではない﹂︵GU:37︶とか﹁これらのことはスコラ学者ヨハネから聞いたものであり︑信頼 するに足るものである﹂︵GU:36︶といったことばが添えられるのである︒
この奇跡的出来事はすべて神意として生起し︑キリスト教的意図のもとにある︒例話では︑突然に雷・嵐・地震が
起こったり︑死んだ者が蘇生するなど︑常識では信じられない出来事が起こる︒新約聖書にもしばしば認められるよ
うに︑﹁奇跡﹂を好み︑重視するのはキリスト教的な宗教観の特徴であろう︒例えば神意が﹁神聖にして奇跡的なる
王権
﹂
を通じて現れる例がある
︒ それが
マ ル ク
・ ブロックのいう
﹁ 王の奇跡
﹂ である
︒ ブロックによると
︑ 中 世
︵一一世紀頃︶から英・仏の国王に瘰瀝の病を治癒する奇跡的能力があると信じられ︑その実践がなされてきたとあ
るが︑これは本質的に見るならば︑国王にキリスト教的な神聖さ︑それゆえにこそ︑どうしてもの奇跡が求められた
― 99 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
のである︒
例話におけるこの奇跡的出来事として聖人︑聖母︑キリストが出現することも珍しくない︒日常的な話から始まっ
た例話は︑聖人の出現によって突如﹁奇跡﹂という﹁非日常的世界﹂に舞い上がる︒ここで︑はっとして︑民衆の目
が光るのである︒次に紹介するのは︑修道女が娼婦に転落して堕落の日々を過ごしている間に︑ずっと聖母がその身
代わりとして女子修道院でお勤めを果たしてくれていたという例話である︒これは一三世紀から何度も用いられ︑パ
ッサヴァンティにも用いられた人気の高い話である︒後に︑アベリャネーダの﹃贋作ドンキホーテ﹄のなかで駆け落
ちをして身を持ち崩した修道女の話でも用いられるものである
︒ 修道女の代わりに勤めを果たした聖母マリア︵PA:XXXII︶
⁝⁝女は︑一五年間の罪にまみれた生活をした後︑ある日︑自分が育てられた修道院の門のところにやって来て︑門番にこう
尋ねた││︒
﹁この修道院の聖具室の管理係をしていたベアートリクスという修道女をご存じでしょうか︒﹂
すると門番はこう言った︒
﹁ああ︑ベアートリクスなら知っているよ︒賢い敬虔な修道女だよ︒幼ない頃から今までずっとこの修道院で他の修道女と
同じように︑聖女のように暮らしているよ︒﹂
つみびとこの罪人は︑門番が何のことをいっているのかわからないままに︑振り返ってもと来た道を引き返した︒││すると目の前
に聖母マリアが姿を見せたのであった︒この女は︑十五年前に修道院を出る時に聖母マリアにいとまごいをして鍵を預けたの
であった︒
聖母マリアはこう言った││ 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 100 ―
﹁お前が修道院を出てしまったので︑私はお前の服を着て︑お前の姿をして一五年間ずっとお勤めをしてきましたよ︒お前
の罪について知っている者は誰もいませんよ︒だから修道院に戻りそして罪の改悛をしなさい︒聖具室の鍵は祭壇の上に置い
てあるでしょう︒お前がそこに置いたのですからね︒﹂
改悛の念が極まったベアートリクスは︑神の慈愛と聖母マリアの恩寵を感じて修道院に戻った︒そしてその修道院で死ぬま
で改悛して敬虔な生活を送った︒
女のこの過ちについては︑もし女が改悛して自分のことを司祭に告白をしなかったら決して
誰にもわからなかったであろ
う︒女は︑自分がどのようにして道を踏み外していったか︑司祭にその動機やいきさつを話した︒そしてさらに神から戴いた
恩寵についても話したのであった︒そして女は自分の話が﹁説教例話集﹂に書き留められることや︑告解聴聞師と罪人のため
の﹁神の導きの書﹂︑さらに︑罪人をかばってくださるお方である聖母マリアを称えるための﹁聖母賛美書﹂に書き留められ
ることを望んだのであった︒
注
小田切進
﹃ 昭和文学の成立
﹄ 勁草書房
一九六五年
︒﹁ 大震火災は
︑ 日本の
政 治
・ 経 済
・ 社 会
・ 文化に深刻な影響をあた
え︑日本近代の歴史に一時期を劃すきわめて重要な意味をもつ出来ごととなった﹂︵二三頁︶
ヨーロッパではこのペストによる人口の激減︱︱総人口の三分の一を失ったともいわれる︱︱にともなって︑経済・社会・
政治等の様々な分野での抜本的な再編成が容赦なくおこなわれた︒事実︑政治︑経済︑社会︑文化等︑ありとあらゆる側面
においてペストの爪痕はそれ以前の社会との亀裂を深く刻み込んだのである︒学説的にも︑ペストの到来をもって中世社会
に終焉がもたらされたとするのが主流をなしている観がある︒P・ピリッロは︑﹁たいていの研究において大ペストは中世
文明と近代文明の間のまぎれもない分水嶺とみなされている﹂といっている︵P.Pirillo,“Pestenera,prezziesalari,”,Lapeste
nera:datidiunarealtàedelementidiunainterpretazione,AttidelXXXConvegnostoricainternazionale,Todi1993,177.︶︒また
黒死病を歴史上の一大破局として定着させるのに貢献した歴史家としてP・ツィーグラーが高く評価するF・A・ガスケF.
― 101 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
A.Gasquetは︑﹁黒死病は中世の没落を刻み込んだ﹂といっている︵P.Ziegler,TheBlackDeath,LondonandGlasgow,1969,p. 9.;R.S.Gottfried,TheBlackDeath,NewYork,1983,p.xiv.︶︒また近年邦訳されたK・ベルクドルトの﹃ヨーロッパの黒死 病﹄もその副題に﹁中世の終焉﹂dasEndedesMittelaltersという言葉を入れているほどである︵K・ベルクドルト﹃ヨーロ
ッパの黒死病大ペストと中世ヨーロッパの終焉﹄宮原啓子渡邊芳子訳国文社一九九七年︒︶︒A・I・ピーニはペス
トによって転換するトレチェント︵十四世紀︶を﹁中世世界の日没とルネサン
スの確かな夜明け
﹂ と表現している
︵
A.I.
Pini,Lasocietàitalianaprimaedopola«pestenera»,Pistoia1981,1−2.
︶︒
拙稿﹁中世カトリシズムによる黒死病の受容﹂﹃文化史学﹄第五六号二〇〇〇年︒
ベルクドルト︑八八頁︒
むしろ彼の特色は例話集そのものよりもその出版の仕方の方にあるというべきかもしれない︒すなわちそれまで聖職者が利
用することから︑ふつう例話集はラテン語でしか出版されなかったが︑パッサヴァンティはラテン語で出版した後︑同じ例
話集をフィレンツェ語でも出版した︒MarianMicheleMulchahey,“DominicanEducationandtheDominicanMinistryintheThir-
teenthandFourteenthCenturies:fraJacopoPssavantiandtheFlorentineConventofSantaMariaNovella,”AThesissubmittedin
conformitywiththerequirementsfortheDegreeofDoctorofPhilosophyintheUniversityofToronto,1988.
説教の構成等︑歴史的研究については次を参照︒大黒俊二﹁文字のかなたに︱︱一五世紀フィレンツェの俗人筆録説教﹂前
川和也編著﹃コミュニケーションの社会史﹄京都大学人文科学研究所報告ミネルヴァ書房二〇〇一年︒
一三世紀・一四世紀におけるドミニコ修道会のフィレンツェ進出をめぐっては︑次を参照︒石川清﹁イタリア・ルネサンス
期における建築職人組織の様態把握に関する研究﹂2章課題番号〇四八〇五〇五一平成四年度文部省科学研究補助金一
般研究︵C︶萌芽的研究研究成果報告書平成五年三月
グレーヴィチ︑八三〜八四頁︒ジャック・ル・ゴフ﹁中世フランスにおける托鉢修道会と都市化﹂二宮宏之︑樺山紘一︑福
井憲彦編集﹃都市空間の解剖﹄新評論一九八五年七一頁〜七二頁︒また彼らの意図した都市の民衆の宗教的啓発という
観点から︑当然に説教は俗語でおこなわれた︒ 一四世紀黒死病時代の説教例話集
― 102 ―
グレーヴィチ︑三〇頁︒
六〜八頁︒
四九七〜四九八頁︒
一〇〇頁︒
一〇三頁︒
一〇二頁︒
ジャック・ル・ゴッフ﹃煉獄の誕生﹄渡辺香根夫︑内田洋訳法政大学出版局一九八八年四四五頁︒
教父の活動から異教的教養としての雄弁術は必ずしもキリスト教的真理に矛盾しないと考えられた︵拙著﹃ルネサンス・ヒ
ューマニズムの研究︱︱﹁市民的人文主義﹂の歴史理論への疑問と考察︱︱﹄晃洋書房一九九四年一六八頁︶︒JamesJ.Mur-
phy,RhetoricintheMiddleAges.AHistoryofRhetoricalTheoryfromSaintAugustinetotheRenaissance,London,1974,chap.II.
ドミニコ会士リエージュのアルノルドゥスの﹃説話目録﹄︵AR︶がその例である︒項目には例えばpの項目には︽煉獄︵pur- gatorium︶︾︵一四編︶などがあった︒
グレーヴィチ︑一〇二頁︒
説教師はラテン語で書かれた例話集を俗語に直して説教した︒パッサヴァンティの場合︑はじめラテン語で出版したのち︑
信徒の要望から︱︱彼の時代は一三世紀とは違って信徒の一部が裕福な市民階級であって文字を読むことができた︒ダンテ
の﹃神曲﹄︵一三二一年︶を支えた読者の次の世代の人びとであった︱︱俗語でも出版した︵M.M.Mulchahey,10.︶︒
アルノルドゥスの﹃説話目録﹄︵AR︶では妹は聖人のような人生を送ったとは書かれていない︒パッサヴァンティのオリジ
ナルな文︒
グレーヴィチ︑四五頁︒
S.K.Cohn,DeathandPropertyinSiena,1205−1800,Baltimore&London,1988,15.
拙稿﹁ローディ司教館所蔵中世・ルネサンス遺言書集︵選︶
﹂﹃文化学年報﹄第五十輯平成一三年四八頁︒
― 103 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集
デュビィ﹃ヨーロッパの中世芸術と社会﹄池田健二・杉崎泰一郎訳藤原書店一九九五年七八頁︒
マルク・ブロック﹃王の奇跡﹄井上泰男・渡邊昌美訳刀水書房一九九八年二八一〜二八二頁︒
中世の例話は︑ボッカッチョの﹃デカメロン﹄や近世の文学作品︵主にそのあらすじ︶のなかにバリエーションを伴って生
き続ける︵C.Delcorro,ExemplumeLetteraturatraMedioevoeRinascimento,Bologne,1989,ParteSeconda.︶︒
第二章例話にみる中世カトリシズムの特徴と
パッサヴァンティの例話集における伝統の踏襲
中世カトリシズムの定義や本質を規定するのは決して容易なことではなく︑仮にここで厳密に規定しても立場の相
違から異議が出てくるであろう︒したがってここでは中世カトリシズムの主要ないくつかの特徴的な考え方に絞って
示して︑それが具体的に伝統的な例話のなかでどのように見出されるかをまず見てみたい︒次にその確認のもとにパ
ッサヴァンティの例話集﹃真の改悛の鑑﹄において中世カトリシズムの特徴的な考え方がどのように認められるか見
てみたい︒
第一節聖母崇拝││中世カトリシズムその一││
一般論として︽神は慈悲深くそれは無限に大きい︾と説かれた︒パッサヴァンティの例話のなかに次のようなこと
ばがある︵これは一三世紀の例話集作家ジャック・ド・ヴィトリ︵
VI
︶の例話をアルノルドゥス︵AR
︶が利用し︑それをさらにパッサヴァンティ︵
PA
︶が再利用したものである︶︒ 一四世紀黒死病時代の説教例話集― 104 ―
﹁その娼婦は︑祝祭の日にたまたま説教を聞くことがあった︒そして説教師が言ったことのなかに︑神の慈悲は大きい︑それ
は限りなく大きい︑ということばがあった︒その説教師によると︑その神の慈悲は大きく︑それはどんな悪辣な罪人をも決し
て拒むことはない︒それどころか改悛しようとするどんな罪人をも受け入れる││というものであった︒
﹂︵
PA:XIX︶
このように慈悲を神そのものに帰する考え方も確かに存在したが︑また同時に慈悲をキリストではなく︑聖母のと
りなしに求める考え方も存在した︒これが聖母崇拝である︒中世後期に築かれた多くの大聖堂が聖母マリアに捧げら
れていることからわかるように︑聖母崇拝は中世カトリシズム信仰の中心をなすものであった︒ここではキリストそ
のものは厳格な裁きの存在であり︑聖母マリアはそれを和らげる慈悲的な存在であった︒片や犯した罪で人をにらみ
つけ追及する存在が神キリストであるとすれば︑片や心改めさえすれば神キリストにとりなしてその怒りを鎮めてく
れる存在が﹁聖母﹂であると見なされた︒他の数多くの聖人もとりなしをしてくれたが︵ふつうそれぞれの聖人に得
意分野があった︒疫病除けなら聖セバスティアヌス︑旅の安全なら聖クリストフォルスというように︶︑聖母はいか
なるタイプのとりなしも受け入れてくれるその万能さから︑またすべての聖人の総元締めを果たす存在として中心的
であった︒信徒やその集団によって依頼された一三世紀︑一四世紀の絵画では︑とりなしを乞う絵
画が少なくない
が︑画面において聖母と他の聖人がともに描かれた時は︑ふつう聖母が常に中心的に描かれ︑他の聖人はそれに付随
的に描かれたのである︒
このような聖母マリアの卓越した力を示す例話が数多くあった︒ダブリンに住むある男が実の妹と夫婦のような暮
らしをしていた︒その罪を改悛せずに死んで︑当然ながら地獄に堕ちた︒だが生前︑男が聖母を崇拝していたことか
― 105 ―
一四世紀黒死病時代の説教例話集