「トーリー・デモクラシー」と労働組合 : ヴォラ ンタリズムと「三者協議制」
その他のタイトル Tory Democracy and the Trade Unions in Britain, 1962‑1964
著者 小西 秀樹
雑誌名 關西大學法學論集
巻 49
号 5
ページ 640‑670
発行年 1999‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/00024461
戦略を中心と
( FBI ︑
の
ちにイギリス産業同盟
CB I)
・労働組合会議
( T u c )
の代表者
(1 )
した長期的経済政策を審議・決定しようとする機関である︒
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︑ 以下
NEDC)を発足させた︒
一九 六二 年︑
は じ め に ー
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の設立ー
ー ヴ ォ ラ ン タ リ ズ ム と
﹁ 三 者 協 議 制
﹂ ー
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ラ シ
ー ﹂
小
を中心に構 成され︑お もに経済の成長 と労働組合
目 次
一はじめに '~NEDCの設立ー
ニヴォランタリズムと
NEDC
三ヴォランタリズムから律法主義へ
四 む す び に か え て
1
野党転落と﹁保守主義﹂ー
をめざして
NEDC
は ︑ マクミラン保守党政権は︑衰退するイギリス経済の再生
西
八
﹁国民経済発展協議会﹂
政府・イギリス産業連盟
秀
︵六四0 )
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労 働
組 合
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六四
イギリス経済は︑世界大恐慌︑そして第二次世界大戦によって疲弊したものの︑労働党のアトリー政権︑保守党の
チャーチル︑イーデン両政権を経て︑ マ ク ミ ラ ン ︵一八九四ー一九八六︶が政権を引き継いだ五 0 年代後半には︑国
民の生活水準が向上して︑いわゆる消費社会状況が到来し︑イギリス社会は﹁繁栄の時代﹂や﹁豊かな社会﹂といっ た言葉で表現されるにいたった︒労働党と保守党がともに﹁福祉国家﹂路線を推進するという﹁合意の政治﹂も軌道
﹁トーリー・デモクラシー﹂の流れをくむ政治家が指導的地位を占めていた︒
た五七年七月二 0 日︑ベッドフォードにおいて︑
︵ 一
九
0
ニ ー
八 二
︶ ︑
マ ク
ミ ラ
ン な
ど ︑
マクミランは︑首相就任から半年を経
つぎのような有名な演説をおこなっている︒﹁国民の大多数にとっ
て︑これほど良いときはなかった︒国中を見てまわるとよい︒工業都市や田園に行くがよい︒われわれの人生のなか
(2 )
で︑これまでなかったような繁栄状態を目にすることができるだろう﹂︒この聴衆に対する演説は︑戦後の混乱と耐
乏生活から立ち直ったイギリス社会への率直な評価であるだけでなく︑ マクミラン自らも住宅相・国防相・外相・蔵
相として主要政策の推進を担った戦後保守党政権の功績を自賛したものであった︒ただし︑
マクミランはイギリス社
会の﹁繁栄﹂を楽観し︑自己満足に浸っていたわけではない︒この演説は︑さらにつづく︒﹁われわれのなかには︑
﹃あまりにも良すぎて嘘ではなかろうか﹄︑﹃あまりにも良すぎて長持ちしないのではないか﹄と心配しはじめている 人々がいる︒この繁栄のまっただなかにあって︑戦争以降あれこれとわれわれを悩ませている問題が一っある︒それ は︑物価の高騰という問題である︒われわれの一貫した関心事は︑経済の拡大状況において︑完全雇用を維持すると 同時に︑はたして物価を落ち着かせることができるのか︑ということである︒われわれはインフレーションをコント
(3 )
ロールできるのか︒これこそが現在の問題である﹂︒ に乗り︑また保守党内においても︑イーデン ︵一八九七ー一九七七︶︑バトラー
第四九巻第五号
化 に
と り
く み
︑
不評を買うものであった︒また︑
を深め︑六 0 年代に入ってインフレはさらにすすんだのである︒そこで六一年七月︑
一 方 ︑
TUC
では︑政 実際︑国民の消費生活は向上したものの︑イギリス経済そのものは低迷をつづけていた︒その主要な原因は︑﹁福 祉国家﹂政策の推進による公共支出の増加と︑労働生産性上昇率を上回る賃金上昇率の高さによる恒常的インフレ傾 向︑そして貿易収支の恒常的赤字によるポンド流出などである︒歴代保守党政権はインフレの抑制と国際収支の安定
マクミラン政権も発足直後から︑いかにして経済の衰退に歯止めをかけるか︑という重要課題に悩ま
されつづけていた︒マクミラン政権は︑その課題への対処策として︑金融引き締め政策と景気刺激政策を︑経済状況
や総選挙の時期をにらみながら交互におこなった︒いわゆる﹁ストップ・アンド・ゴー政策﹂である︒これは︑国際
一貫性のない政策であることには変わりなく︑産業界や国民の
(4 )
マクミラン首相が政策転換のたびに蔵相を更迭したこともあって︑経済は混迷の度
マクミラン首相とロイド蔵相は︑
フランス型の指示的経済計画を参考に︑経済﹁計画﹂化のための協議機関の設置をもって衰退への根本的対処とする
ことを決断したのである︒この協議機関では︑経済成長のための方策︑具体的には生産性の向上︑産出高の調整︑賃
金上昇率の抑制などが議題として予定されたため︑ マクミラン政権にとっては︑産業家団体のみならず労働組合の参
加と協力を確実にすることが不可欠であった︒
FBI
は︑すでに六 0 年十一月の総会において経済﹁計画﹂化を容認
しており︑ロイド蔵相は六一年以降︑
FBIとの間で﹁計画﹂化についての協議をかさねた︒
府との協調関係を重視する右派の優位体制が五 0 年代後半の左派勢力の拾頭によって揺らぎ︑右派と左派の均衡状態
がつづいていた︒右派は︑いわゆる﹁体制内﹂的圧力団体として
TUC
を位置づけ︑政府との密接な関係を通じて労
働者利益の擁護と増進をはかろうとする勢力であるのに対し︑左派は︑どちらかといえば﹁体制外﹂的立場にあって︑ 収支の均衡維持を最大の目標とするものであったが︑ 関法
八四
︵六
四二
︶
るものにほかならなかった︒ べきであるという﹁より民主的な︵つまり分権的な︶
八五
︵六
四
争議を通じて労働者利益の実現をめざそうとする勢力であった︒両派の相違を
Tuc組織の運営手法に関していえば︑
右派が﹁トップ・ダウン型﹂を重視するのに対し︑左派は︑
Tuc
中央部の指令よりも職場委員の権限が重視される
( 5)
アプローチ﹂を支持していた︒このような左右両派の均衡状態
は ︑
NEDC
参加問題に関する議論を長引かせる要因になったのである︒それでもジョージ・ウッドコック
Tuc書
( 6 )
記長は参加の方向で慎重に調整をおこない︑ようやく六二年一月︑
TUC
は
NEDCへ の 参 加 を 承 認 し た ︒ し か し ︑
TUC
は参加の条件として︑賃金抑制などの所得政策を
NEDCの議題から除外することを要求し︑政府に認めさせ
たのである︒このことは︑﹁三者協議﹂機関としての
NEDCの立ち上げをめざす政府と︑左右両派の均衡という内
部事情をかかえる
TUC
との現実的な妥協ではあったけれども︑労働組合対策という面での
NEDCの実効性を減ず
保守党の側からすれば︑
NEDCの設立は︑戦後の﹁新保守主義﹂にもとづくものであった︒四五年から五一年ま
での野党期に明確にされた保守党の新しい立場﹁新保守主義﹂は︑﹁社会の諸利益﹂に配慮することで﹁秩序﹂の維
持をはかろうとする﹁トーリー・デモクラシー﹂の理念と︑国家の介入によって経済・社会生活の向上をはかろうと
する﹁集産主義﹂の理念が融合したものであった︒この﹁新保守主義﹂と呼ばれた立場を掲げ︑チャーチル以降の歴
代保守党政権は︑﹁福祉国家﹂政策を推進し︑﹁社会の諸利益﹂の︱つである労働組合︑および
TUCに対して穏健な
姿勢をしめしつづけてきたのである︒
一九世紀後半に︑ランドルフ・チャーチルなど保守党の進歩的政治家たちによって展開された﹁トーリー・デモク
ラシー﹂運動は︑大衆デモクラシーの到来という時代状況に即応する保守政治のあり方を追求するものであった︒す
﹁ ト
ー リ
ー ・
デ モ
ク ラ
シ ー
﹂ と
労 働
組 合
第四九巻第五号
なわち︑この運動は︑資本主義経済の発展がもたらした諸弊害を是正するために社会改革を推進し︑富裕階級と貧困
階級に分裂した国民を再統合しようする﹁︱つの国民
( o n e
n a t i
o n )
﹂理念を掲げ︑その実践者として保守党を位置
づけようとするものであった︒﹁︱つの国民﹂理念は︑旧来の階級秩序を前提とするパターナリズム的思考にもとづ
くものであったが︑﹁トーリー・デモクラシー﹂運動は︑この理念を掲げることで党の進歩性をアピールし︑自由党
に対抗しつつ︑労働者階級における保守党支持層を開拓・拡大しようとしたのである︒しかし︑このときの﹁トー
リー・デモクラシー﹂運動は︑大衆デモクラシー自体に懐疑的な保守党指導部の理解を得られず︑結局は挫折してし
工業・金融利益出身の議員が増加し︑かれらは﹁レッセ・フェール﹂を志向する勢力を形成した︒このため︑﹁トー
リー・デモクラシー﹂の理念を掲げる勢力は一時的な後退を余儀なくされたが︑
会 ﹂
に よ
る 改
革 運
動 ︑
一 ︱
1 0
年代には産業合理化運動が展開され︑﹁市場﹂経済の弊害是正︑労使協調︑労働者階級取
マクミランも﹁トーリー・デモクラシー﹂運動の流れに位置する政治家のひとりであった︒かれは︑二四年に下院
議員に初当選して以来︑三 0 年代には国家による経済計画や社会政策を強力に主張するなど︑﹁計画論者﹂として名
( 7 )
を馳せてきたのである︒
長い道のりを経て首相に就任したマクミランにとって︑国家による経済問題の解決︑主要圧力団体を取り込んだ形
での政策協議︑そしてその具体的手段としての
NEDCの設立と発展は︑政権の重要課題であるだけではなく︑政治
家としての存在意義にも関わるほどの意味をもっていた︒しかし︑ り込みの必要性が説かれた︒ まう︒保守党では︑従来の貴族・地主階級に加えて︑
マクミランはあせらず︑ロイド蔵相を中心に慎重
一 九
一
0 年代には﹁社会改革委員 一九世紀の末から資本家階級の支持をも獲得するようになり︑ 関法
八六
六四
四︶
﹁ ト
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労 働
組 合
八七
六四
五︶
に 事
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す め
︑
NEDC
の発足にこぎつけた︒保守党内では︑五 0 年代の後半︑労働組合の規制をもとめる声が党大
会などで大きくなりはじめていたこともあって︑ マクミランはとりわけ慎重にならざるを得なかった︒戦後保守党の
対労組穏健路線に懐疑的な勢力は︑
TUC
での左派拍頭や争議件数の増加︑あるいは賃上げによるインフレの進行を
理由として︑労働組合活動の法的規制を主張したのである︒マクミランや歴代の労相たちは︑このような保守党内の
勢力に対して説得を試みる一方で︑
TUC
に対しては自己改革を要請しつづけた︒
以 上
の よ
う に
︑
NEDC
は︑戦後の保守党政権と
TUC
の協調関係を土台として設置されたのであるが︑すでに保
守党では労働組合政策をめぐる意見対立が表面化し︑
TUC
では左派勢力が拍頭しはじめていたこともあり︑
NEDC
をとりかこむ状況は全体的に厳しいものであった︒経済衰退のとりわけ大きな原因は︑過剰な賃金アップを要求す
る労働組合の活動にある
1そうした認識が保守党内で広まりはじめるなか︑ マクミラン政権は︑あくまでも
T u
c
との協調路線を基軸に据え︑
NEDCを﹁新保守主義﹂の具体的表現として位置づけようとした︒しかし︑
NEDCの評価︑そして労働組合政策は︑経済の再生という重要課題と絡みつつ︑その後サッチャー政権期にいたるまで︑
﹁保守主義﹂のあり方をめぐるイデオロギー的な混乱と対立の中心的争点となったのである︒
そこで本稿では︑六二年の
NEDC創設から六四年一 0 月の総選挙敗北までの保守党政治を中心的にとりあげ︑経
済再生のための労働組合へのアプローチ︑﹁保守主義﹂のあり方をめぐる議論︑および︑その背景にある党内主導権
争いの過程と意義を検討していきたい︒このマクミラン︑ヒュームの両政権時代は︑﹁保守主義﹂の理念的変容史か
らみれば︑五一年に政権復帰を果たした保守党が掲げた﹁新保守主義﹂︑すなわち﹁トーリー・デモクラシー﹂と
﹁集産主義﹂に対する党員の信頼と支持が揺らぎ︑国家﹁権威﹂の回復を主張する﹁トーリー主義﹂︑﹁市場﹂原理を
第四九巻第五号
︵六
四六
︶
(8 )
重視する﹁レッセフェール的資本主義﹂にもとづく主張が展開されはじめる時期ということになる︒したがって︑こ
︵六 五年 に党 首就 任︶ する律法主義
( l
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あるいは介入主義
( i
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)
のもとでおこなわれた保守党政策の抜本的
見直し過程︑そして﹁
Uターン﹂として名高いヒース政権の政策転換︵七二年︶のみならず︑サッチャーの党首就任
︵七五年︶と﹁サッチャー主義﹂の成立を導いた背景を理解するうえでも重要である︒本論においては︑イギリス労
使関係の領域において伝統的に尊重されてきた規範であるヴォランタリズム︑ヴォランタリズムに制限を加えようと
の立場︑ヴォランタリズムと﹁トーリー・デモクラ
まずは︑ヴォランタリズムの意義︑ヴォランタリズムと所得政策︑ヴォランタリズムと
NEDC
の関係について検
(1)NEDC
の創設過程︑創設に対するTUC
と保守党の立場については︑拙稿﹁マクミラン保守党政権と労働組合l﹃ ‑ ︱ ︱
者協議制﹄の成立をめぐってー'│﹂︵関西大学﹃法学論集﹄第四五巻第六号︑一九九六年︶において若干の検討を試みた︒この続編をなすものが本稿である︒本稿の主眼は︑労使関係政策に対する二つのアプローチ︑つまりヴォランタリズムと律法王義の立場を中心に﹁三者協議制﹂の意義を掘り下げて検討することにある︒したがって︑分析対象時期に多少の重複があることをあらかじめお断りしておきたい︒
(2)T
日
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J. ,
M a
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l a
n ,
L o
n g
m a
n ,
1994
疇 p . 22 8.
なお︑黒岩徹﹃イギリス現代政治の軌跡﹄丸善ライプラリー︑一九九八
年︑ 六一 ペー ジ参 照︒
(3
)
I b i d
. ,
p . 22 8.
に乗り込んだという事実を反映している﹂ 説全体の内容は︑マクミランが︑戦後の最も慎重な蔵相の一人であり︑その慎重さを兼ね備えたまま︑ダウニング街十番地 このペッドフォードにおける演説について︑ターナーは以下のように述ぺている︒﹁この一節のトーンと演
( i b i
d ,
p . 22 8.) ︒ 討していこう︒ シー﹂の関係が主たる検討課題となるであろう︒ の時期を個別集中的に検討しておくことは︑
関法
ヒース
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j ,
ノ
﹁トーリー・デモクラシー﹂と労働組合
八九
六四
七︶
(4
)
現状認識においては慎重で用心深い側面をもっていたといわれるマクミランであるが︑政治行動や政権運営の手法に関し
ては︑﹁ファースト・イン︑ファースト・アウト﹂あるいは﹁マック・ザ・ナイフ﹂などと椰楡されたように︑柔軟かつ果
敢であった︒蔵相の人事についてみれば︑ソニークロフトは︑デフレ政策を建言して首相と対立したために五八年一月に︑
エイモリーは︑景気刺激策から引き締め策への転換が不評を買ったために六0年七月に︑ロイドは︑賃金凍結策が労働組合
の反発を受けたために六二年七月に︑それぞれ更迭されている︒この﹁晰蝠の尻尾きり﹂ともいえる人事は︑大統領的手法
として批判を浴びた︒たしかに︑あいつぐ蔵相の更迭は政権の延命をはかったものであるが︑そもそもマクミランがデフレ
政策の効果に対してきわめて否定的であり︑デフレ政策を主張する蔵相との対立が生じたという点にも注目する必要がある
だろう︒マクミランが︑賃金インフレを抑えて経済再生をはかる方策として︑デフレ政策を推進することに同意しなかった
のは︑かれの政治家としての原体験によるところが少なくない︒つまりマクミランは︑世界大恐慌がイギリス経済社会を
襲った一九三0年代︑選挙区のストックトンで﹁長引く大量失業︑略奪︑絶望を目の当たりにし︑そのような事態を二度と
起こしてはならないというマクミランの決意は︑大蔵省が以前から提唱していたデフレ政策への反対姿勢を強固なものにし
たのである﹂
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19 95 , p . 50
)︒
(5
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. ) ,
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l ,
19 94 , p . 57
. こ
の TUC
における勢力変動の
直接的な契機は︑
Tuc
傘下の組合中最大の規模を誇る一般運輸労働者組合
(T
Gw
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の指導者の交代であった︒すなわ
ち ︑
TGwuの実力者として
TUC
の右派優位体制を支えてきたアーネスト・ベヴィンが五一年に︑アーサー・ディーキン
が五五年にそれぞれ死亡し︑かわって五六年︑TGwuの書記長に左派のフランク・カズンズが就任したのである︒右派実
力者の退場と左派指導者の登場によって︑五
0
年代後半のTUC
は︑右派と左派の均衡による一種の不動状態に陥ったので
ある︒また︑六二年にマクミラン政府が賃金引き上げ停止策を発表したことは︑政府に対する
TUC
の不信感を強める原因
とな った
︒
(6
)
五九年に選出された
Tuc
書記長ウッドコックについて︑ペリングは以下のように評している︒﹁ウッドコックは新しい
型の労働組合の指導者であったー彼は一︳二歳の時から︑木綿織布エとして七年間働いたのち︑オックスフォード大学の奨学
金を獲得した︒そして︑同大学において︑哲学︑政治学︑経済学の優秀賞を与えられたのであった︒ウッドコックは︑組合
が一般の支持を失った場合︑どんな問題に直面するかをよく知っていた︒また︑組合自体を近代化することの必要性や組合
関法
第四九巻第五号 役員の給与を改善し︑同時に︑彼らの仕事のために専門家の助力が必要であることをも熟知していた﹂︵ペリング﹃イギリ ス労働組合史﹄新版︑大前朔郎・大前真訳︑東洋経済新報社︑一九八二年︑三0
五ページ︶︒ウッドコックは︑労働組合および TUC の組織的近代化︑つまり指導部を頂点とする意思決定構造の整備ー当然この路線は︑左派からすれば︑労働組合 運動の穏健化を意図する政府に協カ・追随するものとして批判されるーによって︑経済状況を的確に評価して弾力的かつ統
一的に行動する
Tuc
︑世論に支持される労働組合運動をめざした︒したがって︑
Tuc
指導部も参加するNEDCの設置
に協力することは︑労働者利益の効果的な表出のためだけでなく︑全体としての労働組合運動の近代化をはかるうえからも
︱つの契機になる︑とウッドコックは認識していたのである︒しかし︑左右両派の均衡︑あるいは政府の経済政策に対する 不信感の拡大という内部状況のなか︑ウッドコック執行部は︑困難な
Tuc
運営を強いられたのである︒
(7
)
﹁一九二四年︑北イングランドの工業地帯︑というより﹃構造不況地帯﹄となったストックトン︵かつて一八二五年︑
ダーリントンとの間の世界初の実用鉄道の発車駅となった町︶から保守党下院議員に選出されたことは︑マクミランにとっ て運命的であった︒﹃揺りカゴから墓場まで﹄といわれた福祉国家にはいまだ無縁の当時︑そこでは恒常的に三十パーセン トを越す失業がつづいていた︒同じ時期︑不況の影響の少ないウォリックや工セックスの中産階級地帯から選出され下院に 入ったイーデンやバトラーは︑保守党議員としては︑よりハッピーなスタートを切ったといえる﹂︵中西輝政﹃国まさに滅 びんとすー英国史にみる日本の将来﹄集英社︑一九九八年︑一︱九ー︱二
0
ページ︶︒このように評されるマクミランの原体験は︑その後のかれの政治活動を方向づけ︑そしてイギリス保守政治のあり方にも影響をあたえたのである︒三
0
年代に﹃ 再建
﹄
( R e c
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c t i o n )や﹃ 中道
﹄
(T
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を公刊して︑統制的・計画的経済政策︑社会改革政策の必要 性を訴えたマクミランは︑党の指導部から警戒され︑党や政府の要職につくことができなかった︒しかし︑四
0
年五月に成立したチャーチル挙国連立政権のもとで軍需省次官に任命されて以降︑マクミランは頭角をあらわしていく︒かれの政治的 信念が﹁トーリー・デモクラシー﹂の伝統とむすびつき︑かれがその伝統の中心的人物となったことは︑福祉国家時代への 保守党の適応を促すうえで大きな意味をもったのである︒ここにおいて︑イギリスの社会構造︑経済的状況︑保守党内の勢 力関係︑保守党と労働党・労働組合の関係など︑多様な複合的要因のなかで保守政治のあり方が決定されるという政治社会 学的立場をとりつつも︑政治家個人の原体験にも十分に注目しておく必要があることを再認識させられるのである︒
(8)
戦後保守党のイデオロギー対立と派閥、政策グループについては、西川知―•河田潤一編『政党派閥』第八章「イギリス
九〇
六四
八︶
る ︒ すでに述べたように︑
九
政 党
に お
け る
派 閥
﹂ ︵
阪 野
智 一
執 筆
︶ ︑
ミ ネ
ル ヴ
ァ 書
房 ︑
一 九
九 六
年 ︑
お よ
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川 正
美 ﹃
サ ッ
チ ャ
ー と
英 国
政 治
1
﹄
成 文
堂 ︑
一 九
九 七
年 を
参 照
︒
マクミランは︑経済政策および社会政策の領域において国家が重要な役割を果たすことを長
年にわたって主張してきた︒しかしその一方で︑労使関係のあり方︑労働組合の活動に対しては非介入主義的な立場
を支持しつづけた︒マクミランは︑﹁労働組合の指導者を経済的テーマに関する議論に取り込むことが︑深刻化する
イギリス経済問題についてかれらを﹃教化﹄することになるであろうし︑それによって︑より低い賃金妥結とより高
責任ある行動は立法によって保証されはしないというヴォランタリズム的見解を︑ い生産性の必要性をかれらに確信させることになるであろう︑と期待していた︒労使関係におけるより大きな信頼と
( 1)
マクミランはいだいていた﹂︒マ
クミランは︑立法措置によって労使関係を規制するのではなく︑賃金設定に関する政府と
TUC
の協議︑労働組合へ
の説得を柱とする所得政策によって︑イギリス経済再生へむけての労働組合の自発的協力を獲得しようとしたのであ
ここにいうヴォランタリズムとは︑﹁労使双方が自発的に形成した団体の任意的な活動と︑団体間の自主的な取決
めにより︑雇用・労働の諸条件︵およびそれを決定するための様々な手続き的ルール︶は決定されるべきであり︑か
(2 )
かる労使関係への国家の介入はできるだけ少ないほうが良いとする規範﹂のことである︒ヴォランタリズムは︑イギ
﹁ ト
ー リ
ー ・
デ モ
ク ラ
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﹂ と
労 働
組 合
リス労使関係において伝統的に尊重されてきた規範であり︑具体的には争議行為の刑事免責・民事免責など︑十九世
︵ 六
四 九
︶
ヴォランタリズムと
NEDC
第 四 九 巻 第 五 号
紀以降の社会政策によって成立してきたものである︒ヴォランタリズムは︑その徹底した形態において︑労使関係に
対する国家権力の介入を一切排除するという考え方である︒しかし実際には︑ヴォランタリズムは︑﹁産業平和﹂や
﹁公共の利益﹂にとって弊害をもたらすと考えられた場合︑国家による直接的︑間接的な措置によって補完され︑あ
(3 )
るいは修正されてきた︒たとえば︑最低賃金制度の設定︑女性や年少者の労働条件の保護︑調停仲裁制度の導入など
の施策により︑国家はヴォランタリズムの作用する領域を制限してきたのである︒とりわけ第二次世界大戦後︑﹁福
祉国家﹂の発展を標榜しながら経済の再生にとりくむ労働党︑保守党の歴代政権にとって︑インフレ状況を鎮静化さ
せ︑国際収支を安定させるために︑労働組合からの賃上げ圧力を抑制すること︑すなわちヴォランタリズムという伝
統的規範にかかわる所得政策の実行は︑ぜひとも成功させなければならない重要な課題となった︒
一九四七年︑国際収支危機への対応に苦慮したアトリー労働党政権は︑クリップス経済相︵のち蔵相︶が中心とな
り ︑
T u
c 総評議会に対して︑生産性の向上と賃金抑制の必要性を理解させるための働きかけを開始した︒四八年に
なると︑事態の緊急性を理解した
T u
c 総評議会は賃金の自発的抑制に同意し︑
T u
c 傘下の各組合も賃上げ要求を
停止するに至った︒﹁クリップスの実験﹂と称されたこの施策は︑五 0 年九月の
T u
c 大会において賃金抑制を拒否
する決議案が承認されたことにより︑結局のところ失敗に終わるが︑所得政策の嘴矢として位置づけられ︑つぎのよ
うな特質をもつものとして注目できる︒すなわち﹁クリップスの実験﹂は︑﹁法的な賃金統制など強制手段によらず︑
(4 )
労組指導部の任意的協力と成員統制力に期待したという点﹂で︑国家による介入および強制を排除するというヴォラ
ンタリズムの根幹を尊重するものであった︒しかし﹁実質的には団体交渉に先立って政府と労働組合指導部との間で
賃上げのガイドライン
1この場合は賃金凍結ー│が〜決まっており︑基本賃率に関する限りでは労使の自由な団体交 関法
九六五
0 )
九
︵六
五一
︶
(5 )
渉は形骸化﹂していたことを考慮すれば︑﹁クリップスの実験﹂が︑ヴォランタリズムの作用する領域を縮小しよう
と企図していたことも事実であろう︒つまり︑ヴォランタリズムの根幹を尊重しつつ︑その領域を必要な範囲で縮小
するという点こそが﹁クリップスの実験﹂の本質であった︒この本質は︑その後の歴代政権によって本格的に実施さ
れる所得政策にもみられるものであり︑ねぱり強い説得と誘導︑あるいは協議によるガイドラインの設定を通じて︑
自発的な賃金抑制という協力を
TUC
および労働組合から獲得する試みが展開されていくのである︒
NEDCも ︑ こ
(6 )
のような所得政策実施のための手段であった︒以下で︑
NEDCとヴォランタリズムの関係を中心に検討していこう︒
NEDC
は︑情報と意見の交換を密にすることで三者間の信頼関係を強固にし︑長期的経済政策の作成に資するこ
とを期待された機関であるが︑ マクミラン政権の中心的な意図は︑
NEDCにおける協議を通じて︑労働組合側の自
発的な賃金抑制を実現することにあった︒マクミランは︑
TUC
を
NEDCに参加させることで︑経済的な緊急課題
についての
TUC
の理解を得て︑所得政策の実行という難問に挑もうとしたのである︒つまり︑
NEDCは︑強制や
威圧ではなく説得と啓発により︑経済成長と生産性に見合う賃金増加こそが国民経済にとって重要であることを労働
組合に納得させる場であった︒この
NEDC設立の主眼にみられるマクミラン政権の発想は︑労使間の﹁自由﹂な交
渉による賃金の決定というヴォランタリズムの根幹を堅持しようというものである︒しかし︑労働組合による激しい
賃上げ要求が展開され︑経済の衰退も進行している現状において︑なおもヴォランタリズムを尊重した所得政策の推
進をはかり︑その手段として労働組合の代表者を公的な重要政策協議機関に参画させたマクミラン政権の政治路線は︑
党内におけるイデオロギー対立︑主導権争いを引き起こすことになったのである︒それは︑ヴォランタリズムに対す
る律法王義の︑﹁三者協議制﹂に対する﹁レッセ・フェール﹂的理念の批判であり︑本質的には︑
﹁ ト
ー リ
ー ・
デ モ
ク ラ
シ ー
﹂ と
労 働
組 合
マクミランら伝統
することを懸念していた︒ 者があらわれはじめたのである︒
第 四 九 巻 第 五 号
そもそもマクミランは︑
NEDC設立への了承を閣僚からとりつけるために︑二度にわたる長い閣議を耐えなけれ
ばならなかったが︑このこと自体︑﹁三者協議﹂による経済政策の作成と実施︑いわゆるネオ・コーポラティズム的
な方式の採用が︑保守党員の大きな関心あるいは懸念を呼び起こすものであったことをしめしている︒﹁トーリー・
デモクラシー﹂の理念を掲げる党員は︑党内における自己の主導権を維持するためにも︑
NEDCの成功と労働組合
の自制に期待をかけ︑﹁市場﹂原理を尊重する﹁レッセ・フェール﹂的な見解をもつ党員は︑﹁三者協議制﹂の本格的
な採用による経済計画化を批判し︑日和見的な党員は︑﹁保守主義﹂のあり方をめぐる深刻な党内対立が芽生えはじ
めていることを懸念した︒さらに︑労使関係政策に限定してみれば︑ マクミランら党首脳部は︑所得政策によって一
定の修正を加えながらも︑ヴォランタリズムの根幹そのものは堅持しようとしたのに対し︑中堅・若手議員のなかに
は︑ヴォランタリズムの弊害を強調し︑立法による労使関係の規制︑秩序化をもとめる律法主義的な見解を主張する
ヴォランタリズム論者たちは︑経済衰退が顕著になりはじめた六十年代初頭︑経済再生と労使関係の諸問題解決に
失敗すれば︑労働組合活動の法的規制をもとめる律法主義者の発言力が強まり︑﹁産業平和﹂にとっても︑保守党と
TUC
の関係にとっても好ましくない事態になるであろうことを自覚していた︒そして何よりも︑律法主義的措置を
もとめる勢力の台頭による﹁合意の政治﹂からの離脱が︑きたるべき総選挙で保守党が勝利する可能性を著しく減殺
他方︑﹁三者協議制﹂の採用は︑﹁レッセ・フェール﹂的な理念を支持する党員︑労使関係への律法主義的対応をも 的指導者層に対する中堅・若手議員の挑戦であった︒ 関法 九四
︵六
五二
︶
九五
︵ 六 五 一
︱ ‑ ︶
とめる党員を警戒させるものであった︒かれらの多くは︑﹁産業が現実には多くの要素から構成されており︑それぞ
(7 )
れすべてが重要であると主張し︑
NEDCの本質的要素となっている﹃産業の二つの側﹄という前提条件﹂に反発し
た︒﹁産業の二つの側﹂︑つまり
CBI
と
TUCという巨大圧力団体に利益表出の優越的な立場をあたえて経済政策を
作成し︑その効果的な実行に対する協力を要請していく︒そして︑ヴォランタリズムの尊重という形で労働組合の活
動を直接的には規制せず︑むしろ労働組合との宥和をはかる︒これは﹁社会主義﹂的な政治運営にほかならない︑と
かれらは考えた︒かれらにしてみれば︑﹁保守党議会指導部は︑戦後の潮流を長い間漂流し︑社会主義者の海域に全
(8 )
速力で船をすすめる決心をしたかに思えたのである﹂︒
このような政権批判の声は︑
NEDCの創設によっても経済問題が一向に改善されなかったことで︑ますます強
ま っ
て い
っ た
︒
NEDC
創設の初年度は前年度に比較して︑失業者は十二万人の増加︑ストに参加した労働者の数は
五倍の増加︑労働喪失日は実に二倍の増加であった︒また︑賃金上昇率に関する政府のガイドライン︑たとえば六二
年二月の白書﹃所得政策次へのステップーー
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で設定された二ないしニ・五
パーセントという六二年の引き上げ上限指標も︑多くの労働組合によって無視された︒そのうえ︑雇用省が六一年に
スト行為の統計を類型化し︑ストの九五パーセントが非公認であるという事実が明らかにされていたこともあいまっ
て︑労働組合のあり方こそが問題であり︑その活動に対する何らかの法的措置を早急に講じるべきであるとの認識が︑
保守党員の間に広まったのである︒かれらは︑非公認スト︑クローズド・ショップ制︑職場委員の強大な権力などを
槍玉にあげた︒とくに︑非公認ストの問題は︑それが所得政策失敗の直接的な原因であっただけに︑律法主義の立場
だけでなく︑ヴォランタリズムの立場からも大きな関心をあつめた︒
﹁ ト
ー リ
ー ・
デ モ
ク ラ
シ ー
﹂ と
労 働
組 合
労働環境の改善に期待するより道はない︑とされたのである︒
第四九巻第五号頻発する非公認ストは︑企業組織の大規模化という﹁イギリス産業の性質と構造の変化に関係しているとの認識が
(9 )
保守党員の間に広がっていた﹂が︑この産業構造の変化が非公認スト活動をもたらす正確な理由︑そして非公認スト
の防止策について︑党員の見解は一致していなかった︒この問題に関するヴォランタリズムと律法主義の見解の相違
ヴォランタリズム論者は︑現代産業の大規模化と組織化が労働者の精神的︑心理的な部分に悪影響をおよぼしてい
ることに注目した︒つまり︑﹁非公認ストの流行は︑ビックビジネスと大量生産時代の労働者が経験している疎外と
( 10 )
アノミーの告白﹂である︒労働者は︑経営上の意思決定からの分断︑流れ作業とオートメーション化という環境のな
かで︑積極的な参加欲求を充足できずに自己の存在価値を見失い︑不平感や失望感をいだいている︒参加意欲と逃避
願望︑そして諦念と︑きわめて混乱し矛盾した精神状態に労働者はおかれているのではないか︒このように考える
ヴォランタリズム論者は︑労使の協調︑労働者の経営参加︑福利厚生の拡充など︑労働者のメンタル・ヘルスを十分
考慮した環境を整備すれば︑非公認ストの発生率は低下するだろう︑と主張した︒労働者のメンタル・ヘルスの増進
は︑立法措置によって簡単に達成されるような課題ではなく︑あくまで労使の﹁自発的﹂努力︑協調関係にもとづく
ところが律法主義論者は︑労使関係全体ではなく︑労働運動自体の組織的構造︑具体的には一般組合員と組合指導
者の疎遠な関係に注目した︒労働者は︑中央レベルで政府や経営者と交渉している公的な組合指導者が︑地理的にも
組織的にも疎遠な存在であり︑下部の利益を代表していないと理解するようになっている︒その結果として生じるの
は︑労働組合組織の﹁真空状態であり︑ただちにそれは︑地域レベルでの﹃戦闘的﹄職場委員や組合活動家によって は︑以下のようにまとめることができよう︒ 関法
九六
六五
四︶
持されているからである︒このように考える律法主義論者は︑
九七
六五
五︶
( 11 )
満たされることになる﹂︒つまり︑職場委員など地域レベルの指導者は︑
一般組合員は︑中央レベルの合意内容を穏健なものとみなして賃上げ要求を貫徹しようとする地域レベル
の指導者を︑下部の利益を代表してくれる真の存在として理解し︑強く支持するのである︒
導に従わない地域レベルの指導者を支持して行動するという労働運動の構造は︑政府による﹁三者協議制﹂の採用と
地域レベルの指導者が中央での賃金設定に従わない根本的な理由は︑ヴォランタリズムの理念が組合員の間で広く支
は︑非公認ストの禁止︑職場委員の権限規制などを含めた法的措置によってヴォランタリズムを規制するしかないと
(1
)
D o r e
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R o u t
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e ,
19 95 ,
p .
51 .
(2)毛利健三編著﹃現代イギリス社会政策史﹄第6章﹁労使関係政策﹂︵小野塚知二執筆︶︑ミネルヴァ書房︑一九九九年︑三二三ー三二四ページ︒﹁団体的自由放任﹂と表現されるヴォランタリズムの特質は︑第一に︑労使関係が国家との関係で自主的︑自律的であり︑第二に︑労使関係の主体が個人よりも団体に力点が置かれていることである︒第一の特質をより詳し
<述べれば︑雇用・労働条件に関する諸ルールは︑国家権力ではなく労使間の任意的な活動によって決定されるべきであり︑その諸ルールの効力は︑法的にではなく社会的︑道徳的に担保されるぺきである︑ということである︵同書三二四ページ参
照 ︶ ︒
(3
)
前掲書︑三二五ー三二七ページ︑三三ニー三三九ページ︑およびペリング︑前掲書︑二六九ーニ七
0
ペー ジ参 照︒ ヴォ ラ
ンタリズムは︑その領域外部の諸問題を国家によって解決されねばならないために︑結局のところ﹁労使関係規範としては
自己完結的ではありえない︒また︑その領域は国家によってしばしば変更されざるをえないから︑団体と団体的取決めの
﹁トーリー・デモクラシー﹂と労働組合 説いたのである︒ 展開によって︑より強固なものになった︒ますます︑
一般組合員に対する公的な指導者の権威を回復するに 一般組合員と公的指導者の距離が拡大したからである︒そして︑ 一般組合員が︑中央の指
では ない
︒
一般組合員にとって身近な存在であるだけ
関法 第四九巻第五号
﹃国家からの自由﹄とは﹃国家による自由﹄1個人の自由とは異なり国家が容易に侵し制約できる自由ーー︐であり︑虚構
性を免れない︒かかる虚構性は戦後労使関係政策の随所に露呈するが︑それでもヴォランタリズムが直ちに破綻するのでは
なく︑さまざまに修正を施されながら維持されたところに︑この規範の強さを知ることができる﹂︵毛利︑前掲書︑三二七
ページ︶︒福祉国家の建設と発展︑そして経済の再生を最重要課題として位置づけた戦後の歴代政権のもと︑ヴォランタリ
ズムは実際には﹁修正﹂ヴォランタリズムという形態をとることになった︒したがって︑保守党内のヴォランタリズム論者
が支持するヴォランタリズムも︑﹁三者協議制﹂政策をともなうことで︑正確には﹁修正﹂ヴォランタリズムであるという
べきであろう︒このように考えると︑かれらがヴォランタリズムを支持する本当のねらいは︑ヴォランタリズムの理念を堅
持して発展させていくことではなく︑ヴォランタリズムを尊重するという姿勢をしめすことで︑
T U
C
や労働組合の支持を獲得することにあったといえようか︒いずれにしても︑保守党ヴォランタリズム論者の主張は皮相的なものであり︑労働組
合への宥和政策の手段︑方便にすぎないと︑律法主義論者から鋭く批判されることになる︒
(4
)
毛利︑前掲書︑三三六ー三三七ページ︒
(5
)
前掲書︑三三七ページ︒
(6
)
C f . ,
D o r e y ,
P . ,
o p .
c i t . ,
p p .
50 , 56 .
(7
)
I b i d
, p p
52 ,
.
53 .
( 8
) I
b i
d ̀
p .
53 .
( 9
) I
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d ̀
p .
54
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1700 , 1998,
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1
99 9,
p p
206 ,
.
20 9. 非公
認ストとは︑組合の承認しない︑あるいは組合指導者が統括できないストのことをいうが︑この非公認ストが頻発した背景
として︑すでに二
0
世紀前半︑中央レベルでの基本賃率交渉とは別に︑各職場で団体交渉がおこなわれて実際の賃金額が決定されるという二重の労使交渉が常態化していたことがあげられよう︒職場レベルでの団体交渉で影響力を発揮したのは︑
組合の職場委員である︒このような分散的な権力構造を特徴とするイギリス労働運動において︑ヴォランタリズムとは︑労
働組合運動あるいは組合指導者の国家からの自律性を意味するとともに︑地域レベルにおける指導者の全国レベルにおける
指導者からの自律性をも意味していたといえよう︵毛利︑前掲書︑三三七ー三三八ページおよび三四一ー三四ニページ参
照︶︒ヴォランタリズムという理念の本当の担い手は︑
T U
C
の指導部でもなければ︑まして一般の組合員でもなく︑職場 九八六五
六︶
ていたことも忘れてはならないだろう︒六一年七月︑
﹁ ト
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デ モ
ク ラ
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﹂ と
労 働
組 合
に は
下 部
組 合
︑
委 員
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( 1 0 )
D o
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P . ,
0p.cit••p . 54 .
( 1 1 )
Ib id , p . 55 .
争点の中心に
NEDCが位置していたことは明白であろう︒
九九
六五
七︶
労働者のメンタルな部分に着目したヴォランタリズム論者は︑労使関係の﹁自発的﹂改善をもとめる説得を粘り強
くおこなって非公認ストを抑止しつつ︑所得政策を成功させるために﹁三者協議制﹂を活用していくべきであると主
張した︒他方︑律法主義論者は︑労働運動組織の権力構造に着目して︑ヴォランタリズム︑﹁三者協議制﹂そのもの
が非公認ストを多発させていると理解したのである︒ヴォランタリズムを尊重して︑労働組合の﹁自発的﹂な賃金抑
制をもとめ︑さらに組織構造の自己改革を要求し︑その説得のために
TUC
の代表者を政策協議機関に取り込んだと
ころで︑労働組合のあり方は何ひとつ変わらない︒とるべき手段は説得ではなく法的規制であり︑そのことによって
労使関係の秩序回復をはかり︑経済の再生をめざしていくべきであると論じたのである︒いずれにしても︑両派の論
マクミラン政権のヴォランタリズム尊重路線に対して党内批判が強まったのは︑結局のところ︑﹁三者協議制﹂機
関である
NEDCがうまく機能しなかったからである︒
NEDCによる所得政策の失敗は︑前述したように︑直接的
一般組合員の協力が得られなかったことによるが︑
TUC
がマクミラン政権への警戒感をもちつづけ
マ ク
ミ ラ
ン 政
権 は
︑
NEDC