日 韓 の 新 公 開 外 交 文 書 に 見 る 日 韓 会 談 と ア メ リ カ
︵ 二
︶
︱︱ 朴正 熙軍 事政 権の 成立 から
﹁大 平・ 金メ モ﹂ まで
︱︱
李
鍾 元
一 は じ め に
︱︱ 日韓 会談 関連 外交 文書 の公 開 二 朴正 熙軍 事政 権の 成立 と日 米の 対応
︱︱ 池田
・ケ ネデ ィ会 談︵ 一九 六一 年六 月︶ 三 ソウ ルか らの 期待 四 政治 決着 の前 史
︱︱ 張勉 政権 期の 日韓 折衝 と請 求権 問題
︵以 上、 前号
︶ 五 政治 決着 を急 ぐ韓 国軍 事政 権 六 日韓 会談 の再 開交 渉 七 金裕 澤特 使の 訪日 と請 求権 金額
︵以 上、 本号
︶ 五
政治 決着 を急 ぐ韓 国軍 事政 権 朴正 熙軍 事政 権は
、そ の成 立直 後か ら、 日韓 会談 の妥 結を 急い だ。 工業 化の 面で 北朝 鮮に 大き く遅 れを とり
、低 迷し てい た韓 国経 済の 立て 直し は、 軍部 クー デタ ーを 正当 化す る大 義名 分の 一つ でも あっ た。
﹁絶 望と 飢餓 線上 に
喘ぐ 民生 苦の 解決 と国 家自 主経 済の 再建
﹂が
﹁革 命公 約﹂ の一 つと して 掲げ られ
、ク ーデ ター から 約二 か月 後の 七 月二 二日 には
、﹁ 経済 再建 五か 年計 画案
﹂が 発表 され た。 日韓 国交 正常 化と
、そ れに 伴う 請求 権資 金の 導入 は、 朴 正熙 軍事 政権 の命 運が かか った 緊急 課題 であ った
。日 本か らの 経済 協力 資金 の導 入を 急ぐ あま り、 対日 請求 権の 名 目や 総額 で、 譲歩 と妥 協を くり 返し た朴 正熙 軍事 政権 の姿 勢は
、﹁ 対日 屈辱 外交
﹂と して
、当 時か ら韓 国国 内で 批 判の 的と なっ た。 公開 され た日 韓の 外交 文書 には
、朴 正熙 政権 がい かに 日韓 会談 の妥 結を 急い だの か、 その
﹁拙 速 振り
﹂の 実態 が如 実に 表れ てい る。 米国 政府 の後 押し を得 れば
、﹁ 年内 妥結
﹂も 現実 的に 可能 であ ると いう 認識 が、 少な くと も朴 正熙 軍事 政権 の初 期に は、 あっ たよ うで ある
。日 韓妥 結に 賭け る軍 事政 権の 意気 込み とと もに
、そ の 切迫 さを 物語 るも のと いえ よう
。 近年 の研 究が 指摘 する よう に、 軍事 政権 の一 角に は、 経済 政策 の方 向性 をめ ぐっ て、 対米
・対 日の 依存 構造 を脱 却し
、国 内資 本の 動員 によ る経 済自 立路 線を 追求 すべ きと する 経済 ナシ ョナ リズ ムの 志向 が存 在
( )
した
。ま た、 外資
64
の導 入先 をめ ぐっ ても
、﹁ 日本 派﹂ と﹁ ヨー ロッ パ派
﹂の 対立 が噂 さ
( )
れた
。﹁ ヨー ロッ パ派
﹂と は、 経済 開発 計画 に
65
必要 な資 金を 日本 のみ に依 存す るこ との 危険 性を 強調 し、 西ド イツ など 西欧 諸国 から の借 款導 入を 力説 した グル ー プで あっ た。 日本 政府 も、 当初
、朴 正熙 軍事 政権 の方 向性 につ いて
、鋭 意注 目し てい たよ うで ある
。外 務省 アジ ア 局の 文書 には
、駐 日オ ラン ダ大 使か ら寄 せら れた 情報 とし て、
﹁軍 事政 権内 には 将官 連中 と Co lo ne lの グル ープ と の二 派が あり
、前 者は 自由 陣営 との 連繋 の要 を認 める 等、 穏健 派で ある が、 後者 の態 度は 極端
、強 硬で あり
、 dr as ti cな 施策 を進 める 主導 力で ある
。二 週間 前に は後 者の 勢力 が勝 利を 収め つつ ある やに 判断 され
、暗 い見 通し をも たざ るを えな かっ たが
、そ の後
、情 勢は 多少 好転 し、 現在 はこ の両 勢力 の力 関係 がバ ラン スし てい るも のと み られ る。 例え ば、 経済 関係 の大 臣に 民間 人を 入れ たり
、顧 問な どに も専 門家 を採 用し てい るの は好 まし い傾 向で あ る。 軍事 政権 の将 来は いず れに しろ
、こ の両 勢力 のど ちら が主 導権 を握 るか によ って 左右 され るも のと 判断 する
﹂
とし
、対 日政 策に つい ては
、﹁ 将官 のグ ルー プに は親 日家 が多 いの に対 し、 佐官 のグ ルー プは 親日 では なく
、対 日 関係 につ き、 軍事 政権 内に 意見 の対 立が ある
﹂と いう 見方 が報 告さ れて
( )
いる
。
66
しか し、 公開 され た日 韓の 外交 文書 を見 る限 り、 こう した 軍事 政権 内部 の対 立が 対日 政策 の展 開に 何ら かの 影響 を及 ぼし た形 跡は ほと んど 見ら れな い。 日韓 交渉 の妥 結を 急ぐ 姿勢 は、 軍事 政権 の初 期か らほ ぼ一 貫し てい ると い って よい
。後 述す るよ うに
、﹁ 急進 的な 佐官 グル ープ
﹂の 代表 格と いえ る金 鍾泌 は、 日韓 交渉 の政 治妥 結過 程で 中 心的 な役 割を 担う こと にな る。 軍事 政権 の一 角に 存在 した ある 種の ナシ ョナ リズ ムの 志向 性が
、対 日関 係改 善と い う政 策方 向性 にど のよ うな 影響 を与 えた のか につ いて は、 さら なる 検証 が必 要だ が、 ここ では
、米 国の 援助 が削 減 され てい く中
、外 資の 導入 先が 限ら れる とい う現 実の 制約 に加 えて
、朴 正熙 とい う指 導者 の判 断が 大き な比 重を 占 めて いた 点を 指摘 して おき たい
。韓 国側 の外 交文 書か らは
、日 韓交 渉に 関す る一 連の 重要 な決 定に 朴正 熙自 らが 終 始深 くか かわ った こと が確 認で きる
。 日韓 交渉 の再 開を めざ す軍 事政 権の 動き は素 早か った
。ク ーデ ター から 一週 間も 経た ない 五月 二二 日、 軍事 政権 の金 弘壱 外務 部長 官は
、記 者会 見で
、対 日政 策に 変化 はな く、 日韓 会談 の早 期再 開を 進め る方 針で ある こと を明 ら かに
( )
した
。七 月五 日に は、 駐ベ トナ ム大 使の 崔徳 新︵ 帰国 後の 同年 一〇 月、 外務 部長 官に 就任
︶を 団長 とす る親 善使
67
節団 が訪 日し
、軍 事ク ーデ ター の正 当性 を説 明す ると とも に、 日韓 国交 交渉 の早 期打 開を 要望 した
。朴 正熙 国家 再 建最 高会 議議 長の 池田 首相 宛て の親 書を 携え た崔 徳新 特使 は、 池田 首相
、西 村防 衛庁 長官 ら日 本政 府の 要人 に加 え、 自民 党日 韓問 題懇 談会 メン バー や日 韓経 済協 会メ ンバ ーな どと 精力 的に 会談 し、 対日 積極 姿勢 をア ピー ル
( )
した
。小 坂外 務大 臣が 訪欧 中で あっ たた め、 外交 的に は、 武内 龍次 外務 次官 との 会談 が主 な場 とな った
。そ こで 崔 徳 68
新特 使は
、﹁ 軍事 革命 後の 新政 府が 過去 の如 何な る政 府よ りも
、日 韓国 交の 早期 打開 に誠 意を もっ て、 積極 的に 努力 する 決意 を有 して いる
﹂と 強調 し、 その 論拠 の一 つと して
、﹁ 日韓 国交 を速 やか に正 常化 する こと は国 際共 産
党の 侵略 を防 ぎ、 両国 の繁 栄を 図り 得る 途で ある
﹂こ とを 力説
( )
した
。﹁ もし 韓国 が共 産党 の侵 入を うけ れば
、日 本
69
も直 ちに その 影響 をう ける べき こと は明 らか
﹂で あり
、﹁︵ 朝鮮 戦争 で︶ 韓国 が多 大の 犠牲 を払 い、 国連 軍も 直接 こ れに 参加 した のは
、単 に韓 国を 守る ため ばか りで なく
、自 由陣 営全 体を 守る ため のも ので あっ た﹂ とい う崔 徳新 の 言葉 は、 李承 晩政 権以 来、 繰り 返さ れた 冷戦 論理 の延 長線 上に ある もの
( )
だが
、朴 正熙 軍事 政権 の場 合、 日韓 関係 を
70
冷戦 の文 脈に 位置 づけ る姿 勢は 一層 際立
( )
った
。
71
同日
、外 交ル ート でも
、日 韓会 談の 再開 を求 める 韓国 政府 の意 向が 正式 に伝 えら れた
。韓 国駐 日代 表部 の文 哲淳 参事 官は
、伊 関佑 二郎 アジ ア局 長に 対し て、
﹁韓 国政 府は 日韓 会談 を早 急に 開始 した い意 向で あり
、近 く駐 日大 使 を任 命す るの で、 新大 使の 着任 後、 会談 をい つか ら始 める のか 等の 具体 的な 相談 をし たい
﹂と いう
﹁本 国政 府の 訓 令﹂ を伝 えた
。ま た、 文参 事官 は、
﹁日 本か らの 経済 協力 の問 題に つい ても 新大 使の 着任 後、 併せ て相 談す るこ と にし たい
﹂と 付け 加え た。 この 発言 は、
﹁請 求権 と経 済協 力は 別で あり
、経 済協 力は 国交 正常 化以 後﹂ とい う韓 国 政府 の従 来の 方針 の修 正を 示唆 した とも 取れ るも ので あり
、伊 関ア ジア 局長 は早 速、
﹁韓 国政 府は 国交 正常 化前 で も日 本よ りの 経済 援助 をう ける 用意 があ るの か﹂ と質 した
。こ れに 対し
、文 参事 官は
、﹁ その 点は 駐日 代表 部と し ては 不明 なの で新 大使 着任 後、 確か めら れた い﹂ と答 える にと どま った
。朴 正熙 軍事 政権 は、 成立 から 二か 月も 経 たな いう ちに
、す でに 経済 協力 方式 を含 め、 請求 権問 題の 政治 妥結 を急 ぐ姿 勢を 明ら かに した ので ある
。 現に
、韓 国軍 事政 権は この 時点 です でに
、請 求権 の総 額を 含め
、対 日交 渉の 具体 案づ くり に着 手し てい た。 外務 部は
、一 九六 一年 七月 八日
、﹁ 韓日 会談 に対 する 政府 の基 本方 針﹂ を作 成し
、朴 正熙 が議 長を 務め る軍 部の 国家 再 建最 高会 議に 上申 した
。そ の中 で、 請求 権問 題に つい ては
、韓 国政 府の 取る べき 方針 とし て、 以下 の五 つの 項目 を 提示
( )
した
。
72
﹁
.請 求権 と経 済協 力は 別途
。 . 請求 権問 題は 私法 上の 弁済 原則 に基 づく が、 政治 的解 決も 考慮
。 . 一般 請求 権請 求額 は最 高一 九億 ドル
、最 低五 億ド ル。 . 船舶 は新 造艦 で最 高一 三万 トン
、最 低三 万ト ン。 . 文化 財は 日本 国有 は全 面的 に返 還、 私有 は返 還を 推進
。﹂ この
文書 は、 基本 的に
、韓 国民 主党 政権 の下
、一 九六
〇年 一〇 月頃 に作 成さ れた 基本 方針 文書 と全 く同 じも ので あり
、た だ空 欄に なっ てい た請 求権 の金 額や 船舶 のト ン数 の部 分に
、具 体的 な数 字を 書き 込ん だ形 とな って
( )
いる
。
73
つま り、 朴正 熙軍 事政 権は
、日 韓会 談の 妥結 を急 ぐ立 場か ら、 以前 の民 主党 政権 によ る基 本方 針と 枠組 みを その ま ま踏 襲し
、請 求権 の要 求額 の確 定に 踏み 込ん だの であ った
。 こう した 基本 方針 の下
、外 務部 は、 七月 一二 日、 より 詳細 な内 容を 定め た政 府方 針案 を作 成し
、国 家再 建最 高会 議に 提出
( )
した
。そ の中 で、
﹁一 般財 産請 求権
﹂に つい ては
、以 下の 三つ の選 択肢 が示 され た。
74
﹁︵ 第一 案︶ われ われ の対 日請 求権 は、 軍政 法令 第二 号、 第三 三号
、韓 米間 財産 及び 財政 に関 する 最初 協定
、対 日平 和条 約第 四条 b項 等の 根拠 の下 で請 求す るも ので ある
。従 って
、賠 償的 な性 格の もの は含 まれ ず、 主に 私法 上の 債務 弁済 的な 性格 を有 する 請求 権か らな って いる
。
︵第 二案
︶わ が方 の八 項目 請求 と関 連し て、 米国 務省 は、 一九 五七 年一 二月 三一 日、 韓国 の対 日請 求が 日本 の在 韓財 産 の帰 属に よっ てど の程 度消 滅し たか につ いて
、両 国の 特別 協議 によ り討 議す べき とす る覚 書を 提示 し、 同覚 書が 両側 によ って 受諾 され てい るの で、 この 点を 考慮 し、 第二 案で は、 法律 的根 拠及 び数 字上 の証 憑資 料が 微弱 なも のは 請求 案か ら削 除す るも のと する
。
︵第 三案
︶最 終的 な段 階に おい ては
、客 観的 な妥 当性 のあ る請 求権 を総 合し
、政 治的 な考 慮を 加味 して
、一 定の 絶対 請 求金 額を 画定 し、 最後 まで 固守
( )
する
。﹂
75
また
、韓 国政 府が 主張 して きた
﹁対 日八 項目 要求
﹂を 以上 の三 つの 基準 でそ れぞ れ計 算し た結 果、 請求 権総 額と して
、第 一案 では
﹁一 九億 三千 万ド ル﹂
、第 二案 では
﹁一 二億 一千 万ド ル﹂
、第 三案 では
﹁五 億ド ル﹂ とい う金 額を 提案
( )
した
。
76
つま り、 第一 案は
、﹁ 賠償 的な 性格 のも の﹂ は含 まず
、﹁ 主に 私法 上の 債務 弁済 的な 性格
﹂を もつ 請求 権で あり
、 交渉 にお ける 韓国 側の 要求 の最 大値 とい うべ きも ので あっ た。 第二 案は
、そ の最 大値 から
、日 本の 在韓 財産 の没 収 分を 考慮 する よう 求め た米 国国 務省 の覚 書を 勘案 し、
﹁法 律的 根拠 及び 数字 上の 証憑 資料 が微 弱な もの
﹂を 除い た もの であ り、 いわ ば交 渉過 程に おけ る段 階的 な妥 協案 とい って よい
。そ して
、こ の妥 協案 にも 失敗 した 場合 の最 低 ライ ンが 第三 案で あり
、そ れは
﹁客 観的 な妥 当性 のあ る請 求権 を総 合﹂ する が、
﹁政 治的 な考 慮﹂ によ って 確定 さ れ、
﹁最 後ま で固 守す べき
﹂金 額で ある とさ れた
。こ の﹁ 政府 方針
﹂は
、七 月八 日の
﹁基 本方 針﹂ で示 され た﹁ 最 高一 九億 ドル
、最 低五 億ド ル﹂ とい う指 針に 基づ き、 さら に交 渉案 を三 段階 に分 け、 中間 案と して
﹁一 二億 一千 万 ドル
﹂を 設定 した もの であ った
。最 低額 は﹁ 基本 方針
﹂で 示さ れた
﹁五 億ド ル﹂ のま まだ が、 最高 額は
﹁一 九億 三 千万 ドル
﹂に 若干 変更 され てい る。 韓国 側の 韓日 会談 外交 文書 を詳 細に 検討 した 張博 珍の 指摘 どお り、 請求 権に 関す る朴 正熙 軍事 政権 の交 渉方 針 は、 その 総額 の面 でも
、以 前の 民主 党政 権期 との 強い 連続 性を 示し てい る。 上記 の第 一案 は、 従来 から の﹁ 対日 八 項目 要求
﹂を 土台 にし たも ので あっ たが
、張 博珍 の計 算に よる と、 李承 晩政 権か ら張 勉政 権に 至る まで
、そ の総 額 はお およ そ一 九億 ドル から 二四 億ド ルの 線で 推移 して
( )
いた
。李 承晩 政権 期の 一九 四九 年九 月、 韓国 政府 が作 成し た
77
﹁対 日賠 償要 求調 書﹂ の総 額は 約二 四億 ドル に上 り、 その 後、 韓国 がサ ンフ ラン シス コ講 和条 約の 当事 者か ら除 外 され た結 果、
﹁対 日賠 償要 求﹂ は﹁ 対日 請求 権﹂ に名 目が 変わ り、 一九 五一 年二 月、 第一 次日 韓会 談の 時に
﹁対 日 八項 目要 求﹂ とし て提 出さ れた
。一 九五 七年 初め の時 点で の韓 国政 府の リス トに よる と、 その 総額 は約 二三 億ド ル と推 算さ れた
。張 勉政 権期 に入 って から も、 こう した 方針 は基 本的 に維 持さ れた よう であ り、 前述 のと おり
、一 九 六一 年初 めに 作成 され た﹁ 韓国 請求 権委 員会
韓国 側の 基本 政策
︵試 案︶
﹂で は、
﹁韓 国側 が想 定し た請 求権 総額
﹂ は﹁ 二四 億ド ル﹂ とさ
( )
れた
。第 一案 の﹁ 一九 億三 千万 ドル
﹂は
、基 本的 にこ うし た一 連の 方針 を踏 襲し たも のと い
78
えよ う。 以上 のよ うな 賠償 もし くは 請求 権の 最大 値と とも に、 交渉 妥結 のた めの 現実 的な
﹁最 低ラ イン
﹂も 並行 して 検討 され た。 李承 晩政 権期 には
、一 九五 九年 一月 二九 日付 の訓 令で
、日 本に 対す る請 求権 要求 の総 額が 約一 九億 三千 万 ドル とな って いる が、 これ は﹁ Al te rn at iv eA
﹂で あり
、﹁ 最終 妥協 ライ ン﹂ であ る﹁ Al te rn at iv eC
﹂は 別途 の金 額 が指 示さ
( )
れた
。そ の具 体的 な数 字を 含ん だ付 属資 料は 公開 外交 文書 に含 まれ てお らず
、そ の金 額を 確認 する こと は
79
でき ない が、 張博 珍は
、李 承晩 政権 期に 駐日 大使 とし て日 韓交 渉に 携わ った 柳泰 夏や 金裕 澤の 証言 をも とに
、﹁ 三
~四 億ド ル以 上﹂ が李 承晩 政権 期の 最低 ライ ンで あっ た可 能性 を指 摘し て
( )
いる
。張 勉政 権期 には
、前 述の
﹁韓 国側
80
の基 本政 策﹂ で、
﹁日 本の 対フ ィリ ピン 賠償 総額 八億 ドル より 少な くな らな いよ うに 努力 すべ き﹂ とし
、﹁ 六億 ドル の経 済援 助を 受け 入れ る場 合、 純請 求権 で最 低二 億な いし 三億 ドル は確 保す べき
﹂と の方 針を 打ち 出し た。 李承 晩 政権 期や 張勉 政権 期に おい ても
、実 際に 獲得 可能 な請 求権 の金 額は 数億 ドル 規模 であ ると いう 認識 をも って いた 可 能性 があ る。 ここ で問 題な のは
、﹁ 政治 的な 考慮 を加 味﹂ して 決定 され た﹁ 最低 ライ ン﹂ の﹁ 五億 ドル
﹂︵ 第三 案︶ がど のよ う な根 拠や 背景 によ るも のな のか とい う点 であ る。 上で 検討 した よう に、 最高 額の 第一 案が いく つか の先 行文 書の 数
字に 近似 して おり
、そ れら を参 考に した 可能 性が ある のに 対し て、 最低 ライ ンの
﹁五 億ド ル﹂ に直 接つ なが るよ う な先 行例 は、 公開 され た韓 国側 外交 文書 の中 には 見当 たら ない
。﹁ 五億 ドル
﹂と いう 数字 と明 確に 一致 する 唯一 の 例は
、前 述の よう に、 一九 六一 年五 月、 自民 党議 員団 の訪 韓の 際、 随行 した 伊関 佑二 郎ア ジア 局長 を中 心に
、日 韓 の政 府要 人の 間で
﹁五 億ド ル﹂ 線で の妥 結を めぐ るや りと りが あっ たと いう 事実 であ る。 民主 党政 権期 の非 公式 折 衝が
、上 記の
﹁基 本方 針﹂ が作 成さ れた 一九 六一 年七 月の 時点 です でに 朴正 熙軍 事政 権に 引き 継が れた こと を示 す 文書 はな く、 金龍 周の 証言 でも
、そ の事 実が 裵義 煥に 伝え られ たの は﹁ 一九 六二 年以 降﹂ とい うこ とに なっ てい る。 しか し、
﹁五 億ド ル﹂ とい う数 字に つい て、 それ 以外 の根 拠や 背景 は確 認で きず
、今 のと ころ
、六 一年 五月 の 伊関 局長 を中 心と した 日韓 折衝 との 何ら かの 関連 性を 推測 する しか
( )
ない
。
81
以上 のよ うに
、朴 正熙 軍事 政権 は、 政権 成立 早々 から
、日 韓会 談の 早期 妥結 を図 る方 針を 決め
、韓 国側 にと って 最大 の懸 案で あっ た請 求権 問題 につ いて
、﹁ 政治 的解 決﹂ をめ ざす 方針 を早 々と 確定 した
。も し﹁ 最低 ライ ン﹂ と して 想定 され た﹁ 五億 ドル
﹂が 以前 の民 主党 政権 期の 日韓 折衝 を踏 まえ たも のだ とす れば
、そ れは
、政 治決 着の 実 現可 能性 に重 点を 置い た選 択だ った とい えよ う。 つま り、 すで に張 勉・ 民主 党政 権期 に一 定の
﹁合 意﹂︵ もし くは
﹁打 診﹂
︶が あっ た金 額な らば
、日 韓会 談の 短期 決着 は十 分可 能に なる ので ある
。
( ) 木宮 正史
﹁韓 国に おけ る内 包的 工業 化戦 略の 挫折
︱︱ 五・ 一六 軍事 政府 の国 家自 律性 の構 造的 限界
﹂﹃ 法学 志林
﹄第 九一 巻三 号︵ 一九 九四 年 64 一月
︶ 同*
﹃朴 正熙 政府 の選 択︱
︱一 九六
〇年 代輸 出志 向型 工業 化と 冷戦 体制
﹄︵ フマ ニタ ス、 二〇
〇八
︶。
;
( )﹁ 煮詰 まっ てき た日 韓問 題﹂
﹃エ コノ ミス ト﹄
、一 九六 二年 三月 二七 日、 一五 頁。 ( 65 ) 北東 アジ ア課
﹁韓 国情 勢に 関す る件
﹂一 九六 一年 六月 二四 日、 日本 外交 文書
、6
︱5 97
︱3 55
。 ( 66 )﹃ 毎日 新聞
﹄、 一九 六一 年五 月二 二日
アジ ア局 北東 アジ ア課 日韓 国交 正常 化交 渉史 編纂 委員 会﹃ 日韓 関係 年表
﹄︵
Ⅲ︶
︵交 渉史 資料 一六
︶、 67
;
一九 七〇 年五 月、 日本 外交 文書
、6
︱8 27
︱4 92
。
( ) 崔徳 新率 いる 親善 使節 団は
、韓 国軍 事政 権が 軍部 クー デタ ーの 正当 性を 説明 し、 政権 の安 定を 強調 する ため に、 主要 関係 国に 派遣 した 親善 使 68 節団 の一 環で あり
、東 南ア ジア と日 本を 担当 した
。そ の日 本で の活 動の 概要 につ いて は、
﹁日 韓国 交正 常化 交渉 の記 録 総説 八﹂
、日 本外 交 文書
、6
︱1 10 0︱ 50 6、 二二
~二 六頁
。朴 正熙 議長 から 池田 総理 宛て の親 書は
、同 文書 の二 四頁 に全 文掲 載さ れて いる
。同 文書 によ ると
、﹁ ま た、 一行 は、 先に 小坂 外務 大臣 の訪 韓時 に尹 大統 領を 礼訪 した 例も あげ て、 天皇 陛下 に謁 見を 希望 して いた が、 日本 側は 天皇 に謁 見で きる 基 準は きま って おり
、こ の程 度の 親善 使節 団で は前 例が ない こと
、大 統領 と天 皇は 同列 に論 じ得 ない 旨伝 えて 断っ た﹂
︵二 六頁
︶と いう
。 ( ) 北東 アジ ア課
﹁武 内次 官、 崔徳 新韓 国親 善使 節団 長会 談記 録﹂
、一 九六 一年 七月 五日
、日 本外 交文 書、 6︱ 59 7︱ 35 7。 韓国 側の 記録 とし て は 69
、要 旨だ けの 簡単 なも ので はあ るが
、外 務部 長官 宛て の報 告書
︵﹁ 第六 次韓 日会 談予 備交 渉、 19 61
、全 二巻
︵V .1 7- 8月
︶﹂
、韓 国外 交文 書、 72 3. 1J A 予 19 61
、7 20
、C 1- 00 05 -0 3、 01 32
~0 13 3︶ があ る。 ( ) たと えば
、一 九六
〇年 九月
、戦 後日 本の 外相 とし て初 めて 訪韓 した 小坂 外相 との 会談 で、 当時 の民 主党 政権 の鄭 一亨 外務 部長 官は
、﹁ 日本 が 70 反共 自由 陣営 の中 で支 柱と して の役 割を 果た すこ とを 期待 する
﹂と とも に、
﹁共 産主 義の 侵略 に対 抗す る韓 国の 闘い
﹂が
﹁日 本に も利 益を も たら した
﹂と 述べ た。 それ に対 し、 小坂 外相 は、
﹁防 衛同 盟の 締結 は日 本の 憲法 規程 上不 可能 だが
、そ の他 の面 にお いて は、 あら ゆる 協力 を惜 しま ない
﹂と 答え た。 外務 部か ら駐 日代 表部
﹁鄭 一亨
・小 坂会 談会 議録
﹂︵ MT -0 97 8︶
、一 九六 一年 九月 六日
、﹁ 小坂 日本 外相 訪韓
、1 96 0. 9. 6- 7﹂
、韓 国外 交文 書、 72 4. 32 JA
、8 46
、C -0 00 9- 21
、0 05 2~ 53
。 ( ) この 時期 のも う一 つの 例と して
、韓 国軍 事政 権が
﹁国 軍の 日﹂ に日 本の 防衛 関係 者の 訪韓 を招 請し たが
、日 本政 府に よっ て﹁ 時期 尚早
﹂と し 71 て断 られ ると いう 出来 事が あっ た。 一九 六一 年九 月五 日、 韓国 駐日 代表 部の 文哲 淳参 事官 は、
﹁本 国の 訓令
﹂と して
、一
〇月 一日 の﹁ 国軍 の 日﹂ 記念 行事 に、
﹁中 国、 日本
、フ ィリ ピン
、ヴ ィェ トナ ム﹂ など
﹁友 好国 の軍 首脳 者﹂ の訪 韓を 招請 した いと いう 意向 を伝 えた
。文 哲淳 参事 官は
、﹁ 日本 の場 合、 防衛 庁関 係の 政界 人が 加わ って いた だく こと も結 構﹂ と述 べ、
﹁軍 首脳 者﹂ が必 ずし も現 職の 自衛 官を 意味 する もの では ない こと を示 唆し た。 しか し、 これ は制 服組 を含 めた 防衛 庁幹 部の 訪韓 を正 式に 招請 した 初め ての ケー スで あっ た。 これ に対 して
、日 本政 府 は、 まず 外務 省幹 部会 で﹁ 消極 的な 結論
﹂が 下さ れ、 それ を踏 まえ て、 伊関 アジ ア局 長が 防衛 庁官 房長 に対 して
、﹁ 行っ ても よい ので はな いか との 議論 も成 立ち 得る が、 NE AT Oに 関係 があ ると の議 論を まき 起す 関係 もあ り、 国交 未成 立で もあ るか ら、 時期 尚早 と考 える
﹂旨 を伝 え、 招請 の辞 退を 決定 した
。北 東ア ジア 課﹁ 韓国
﹃国 軍の 日﹄ に本 邦関 係者 招請 の件
﹂、 一九 六一 年九 月五 日、 およ び北 東ア ジア 課﹁ 韓国
﹃国 軍の 日﹄ に防 衛庁 関係 者招 請の 件﹂
、一 九六 一年 九月 一四 日、 日本 外交 文書
、6
︱5 97
︱3 70
。李 承晩 政権 にお ける 反共 論理 と対 日政 策と の関 連に つ いて は、 朴鎮 希*
﹁李 承晩 の対 日認 識と 太平 洋同 盟構 想﹂
﹃歴 史批 評﹄ 第七 六号
︵二
〇〇 六年 八月
︶、 九〇
~一 一八 頁を 参照
。 ( ) 外務 部﹁ 韓日 会談 に対 する 政府 の基 本方 針作 成の 件﹂
、一 九六 一年 七月 八日
、﹁ 第六 次韓 日会 談予 備交 渉、 19 61
、全 二巻
︵V .1 7- 8月
︶﹂
、 韓 72 国外 交文 書、 72 0、 C1 -0 00 5- 03
、0 01 5~ 00 18
。 ( )﹁ 韓日 会談 に対 する 政府 の基 本方 針﹂
、日 付不 明、
﹁第 五次 韓日 会談 予備 会談
、本 会議 会議 録お よび 事前 交渉
、非 公式 会談 報告
、1 96 0. 10 -6 1. 5 73
﹂、 韓国 外交 文書
、7 23 .1 JA
、7 13
、C 1- 00 04 -0 8、 01 73
~0 17 5。 この 文書 の日 付は 明記 され てい ない が、 一九 六一 年一
〇月 中旬 から 下旬 の文 書群