• 検索結果がありません。

養 蚕 ・ 絹 織 物 生 産 地 域 に お け る 天 保 飢 饅

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "養 蚕 ・ 絹 織 物 生 産 地 域 に お け る 天 保 飢 饅"

Copied!
28
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

論 説

養 蚕 ・ 絹 織 物 生 産 地 域 に お け る 天 保 飢 饅

甲 州 都 留 郡 を 中 心 に し て

川 鍋 定 男

養 蚕 ・絹 織 物 生 産 地 域 に お け る 天 保 飢 饒 47

は じ め に

甲斐国は︑甲府盆地を国中と称し︑笹子峠や御坂山地を介してそ

の東に位置する都留郡を﹁郡内﹂と称する︒郡内は︑南は富士北麓

から北は秩父との境界にある雲取山いたる︒山中湖から流出する桂

川は︑北流したのちに東流して相模川と名を換えて相模湾に流入す

る︒江戸時代︑相模川を利用した河川交通は︑河港の須賀浦(平塚

市)から都留郡の東端に位置する新田河岸(上野原町)まで高瀬船が

上って︑物資輸送にあたっていた︒また︑材木は筏流しによって河

港の須賀浦まで川下げされた︒甲州道中が郡内を東西に走り︑大月

宿から南へは富士山へいたる富士講の道︑富士道が上吉田村にいた

る︒この道は︑甲府盆地から御坂峠を越えて河ロ湖村を通って来る

道と合流し︑籠坂峠を越えて駿州御殿場や沼津︑伊豆へいたること

から︑豆州・駿州往還とも呼ばれた︒この沼津港に至るルートも︑

郡内との物資流通の重要なルートであった︒ 郡内は山々に囲まれた山間地域で︑平坦な土地は少なく︑藩主秋

元但馬守時代の寛文四年(一六六四)の﹁寛文朱印留﹂によると︑

村数一〇七ヶ村︑石高一万八千石であったが︑近世後期の文化年間

の村数一一一ヶ村︑石高約二万一千石余︑戸数一万三六八八戸︑入

(1)口六万二八二九人であった︒石高把握の質的問題もあるが︑石高一

石あたり一人の割合で計算すると︑郡内の石高にもとつく人ロは二

万一千人となるから︑約六万三千人の郡内は︑石高に比して人口が

多い地域であった︒その入ロを支える食糧は︑地域内では自給でき

なかったから︑他国や他地域から米麦などの主穀食糧を移入する経

済構造の地域となっていた︒

石高を越える人口を支えたのは︑養蚕・絹織による手工業生産の

発展があった︒それは︑江戸時代中期の金銀産出量の減退からとら

れた︑幕府の中国産生糸の輸入制限策と奢修禁令策が︑この地域を

含む国内各地の田舎絹織物業を発展させることになった︒輸入から

国内生産へという転換が︑各地の養蚕・絹織物業を発展させること

(2)

商 経 論 叢 第38巻 第4号(2003.4) 48

(165)

になり︑それによって蚕糸・絹織の地域間分業も展開した︒すなわ

ち︑郡内絹織物業は︑郡内産の生糸ばかりでなく︑甲府盆地東部の

生糸や相模国高座郡・愛甲郡︑武蔵国多摩郡地域の生糸を移入して

一層の発展をとげた︒そのことが郡内の人口を増大させた第一の要

因であった︒

そうした郡内の養蚕・絹織物業を中心とした経済構造への傾斜

が︑郡内の食糧自給率を低下させた︒また︑消費地江戸に向けた山

稼ぎの展開も︑貨幣経済への依存度を増大させた︒そのことが天保

飢謹でおよそ一万一千人の餓死者を出すことにつながっていった︒

郡内の山や耕地の利用と食糧生産︑経済活動についての歴史的展

開についても触れなければならないが︑ここでは︑右のことを紹介

して︑飢謹の直接的惨状や飢饒のなかで人々がどのように生きのび

たかを追求したい︒

江戸時代の飢饒研究が︑どうしても東北地方にかたよる傾向があ

る︒それは飢饒被害の大きさや︑そこからくる人々の飢饅記録の遺

し方の多さにもよろう︒だが︑東北地方以外の地域でも︑飢饒につ

いての研究が必要であると考える︒最近︑菊池勇夫氏の東北地方を

中心とした新たな飢謹研究の成果が︑﹃飢饒の社会史﹄﹃近世の飢

饅﹄﹃飢饅﹄の三冊となって上梓された︒東北地方以外の地域にお

いても︑新たな飢饅の研究と飢饒をとおしてみえる江戸時代の人々

や村︑地域社会︑領主の対応などについての研究がさらに進められ

る必要があろう︒

江戸時代の飢饅は︑その地域の自然的条件や経済構⁝造の特質︑領 主の救済対策などによってその影響の違いがあるが︑本稿では︑甲

州郡内の飢饅の実態と特質︑飢饒のなかで人々はどのように生きた

か︑といった問題を追求するに過ぎない︒ほかの諸課題については

後稿を期したい︒

︑ 天 保 飢 饒 の 惨 状 と 郡 内

飢饒とは︑﹃広辞苑﹄によると︑農作物がみのらず︑食物が欠乏

して飢え苦しむこととある︒だが︑地方によっては飢饒のことをケ

カチ(ケガシ)とかガシ(ガシン)と言い︑食料が極端に欠乏して飢

餓状態に陥り︑やがては餓死あるいは疫病死にいたる状態を飢謹と

(2)解すれば︑餓死者の数が飢謹の惨状を物語る指標となる︒そうした

ことから︑まず郡内における餓死者のことを念頭に置いて︑郡内の

飢饒を検討することからはじめたい︒

郡内における餓死者数は史料によりまちまちであり︑また︑郡内

全体の餓死者数が記されている史料は多くはないが︑飢饅記録から

餓死者や飢謹の惨状をまずみていこう︒

天保飢饒の時︑都留郡下和田村(山梨県大月市)に居住していた︑

武州多摩郡平沢村(東京都秋川市)出身の仕立屋惣兵衛が記した﹁凶

(3)年日記﹂という記録がある︒そこには︑餓死者・死者についてつぎ

のように記している︒

餓死人数不知︑磯渇之疫病流行︑死候者一万七千人余︑谷村長

安寺下屋門先き明家にて死人凡百余人︑所々に捨子数不知︑谷村

町に赤子捨置候所︑犬に喰れ︑頭は町中に有り︑手足からだ所々

(3)

(164)

養 蚕 ・絹織 物 生 産 地 域 に お け る天 保 飢 饅

49

に有り︑道中筋在々行倒数不知︑古き乞食は不残行倒︑戌年の頃

は百姓新乞食などに相成り︑百姓の新乞食に成候者は︑田畑家財

売払︑六ヶ年之難儀手を尽し果し︑無拠親を捨て子を捨て︑妻離

散し︑所を越し︑侮国ともなく落行︑乞食に相成候者数多有之候

とある︒この記録は︑天保九年の戌年三月に記されたものである

が︑筆者は天保四年(一八三三))の凶作より戌年(天保九年)まで︑

﹁六ヶ年の難儀﹂と認識いている︒天保四年の冷害による凶作と天

保七年の大凶作から︑餓死者は天保七年秋より出現し︑翌八年に増

大したが︑郡内では天保九年に至っても︑まだ厳しい人々の生活状

態が続いていた︒

天保飢謹での餓死者は︑数知れずとしているが︑飢渇・疫病が流

行して︑死者は一万七千人余にのぼったとしている︒これは︑飢渇

状態からくる栄養失調で体力が衰え︑病気を引き起こし︑多くの

人々が死亡していったことによる︒したがって︑この一万七千人も

餓死者と捉えてよいであろう︒この死者の数がどれだけ信葱性があ

る数値か問題があるが︑州凶年日記﹂の筆者は︑天保飢饅の死者を

一万七千人としている︒文化年間の郡内人口は約六万三千人であっ

たから︑人口の約二七パーセントが餓死したことになるが︑餓死者

数についてはのちにまた検討を加える︒

﹁凶年日記﹂には︑飢謹の悲惨な状態が記録されているが︑飢謹

時に捨子が多いことや赤子が犬に喰われ︑頭と手足が散らばってい

た谷村町の凄惨な状況を紹介している︒そして︑谷村長安寺の下屋

門先の空き家に死者が凡そ百余人と記している︒この空き家の百人 の死者とは︑どういう死者なのであろうか︒

これは︑谷村に乞食にきていて︑行倒となった死者を︑一時空き

家に集めて置かれていた状態をさしているのでないだろうか︒谷村

での乞食や袖乞の実態を記した史料にいまだ出合っていないが︑そ

れは︑大坂の飢饅の惨状からも想像できる︒すなわち︑天保八年

(一八三七)四月頃の大坂で︑同年二月の大塩平八郎による﹁騒動後

より︑(乞食が)別て多く往来するに︑五人︑七人の餓死せし者を見

ざる日なし﹂︑﹁道頓堀長丁・日本橋・難波新地の辺は︑仰山のこと

にて︑日によりては角力場の辺に︑四︑五十人ばかりも一処に集め

(4)て有ぬ﹂︑それを犬が喰らい︑腸が出ているものがあったという凄

惨な状況は︑谷村の町の惨状と酷似している︒谷村の町でも行倒入

をすぐに埋葬できず︑そうした無縁の餓死者を空き家に集めて置い

ていたのでないだろうか︒

また︑﹁凶年日記﹂は︑甲州道中筋や村々に行倒人が﹁数知れ

ず﹂としている︒そして︑古き乞食は残らず行倒となったとある

が︑これは︑乞食を少し長く続けてきた者が栄養失調から体力が衰

え︑そこへ時疫が広まって死亡していったことを意味している︒そ

して︑戌年(天保九年)の頃になると︑百姓が脳新乞食﹂となって

乞食に何国かへ落ちて行ったという︒そうした新乞食は︑これまで

田畑や家財を売り払い︑六ヶ年の間をどうにか命を繋いできたが︑

ここに来て売る物もなく︑親も捨て︑子も捨て︑妻とも離散して︑

あてもなく乞食になって何国かへ落ちて行った者が多くいたことを

記している︒こうした乞食は︑のちにみる郡内村々の餓死者などを

(4)

商 経 叢i第38巻 第4号(2003.4) 50

(163)

調査した史料には﹁袖乞﹂として登場する︒

そした乞食・袖乞は︑施粥や施行がうけられる都市や地域へと移

動していったのである︒例えば京都では︑天保七年(一八三六)十

月︑余りに沢山の乞食が居るので乞食調べが仰せ付けられ︑乞食の

生国を尋ねて国々に帰るように︑銭三〇〇文が渡されたが︑その時

に大坂出身の乞食が八割もいたという︒それで︑病人や老幼︑不具

の者は三十石船に乗せて大坂へ送り帰した︒それにより京都出生の

(5)乞食ばかりとなり︑乞食が大いに減少したという︒

郡内の村を離れて親子で他所へ袖乞にでた者も︑乞食で命を繋ぐ

ことができず︑袖乞の途中で夫が死亡し︑のこされた妻と子供二人

が故郷に帰り︑自分の家でひっそりと餓死していたという話を︑

﹁凶年日記﹂は紹介している︒

それは︑﹁凶年日記﹂の筆者惣兵衛が居た下和田村からそう遠く

ない猿橋村(宿)の一家であった︒猿橋宿の百姓良助は︑親子四人

連れで甲府盆地(国中)へ袖乞に出かけたが︑良助はその地で死亡

し︑妻子三人が猿橋へ立帰り︑自分の家で三人がひっそりと餓死し

ていたという︒それを隣組の者が見つけ︑長持に入れて埋めたとし

ている︒このように一度袖乞に出ても︑食物がもらえず︑途中で餓

死した者も多かったであろう︒そして︑再び故郷へ戻っても︑五人

組の者も気付かずにひっそりと餓死していた︒これは︑飢謹時には

隣保組織の五人組も︑扶助できない状況が村や町には拡がっていた

ことを物語る︒

こうした話は各地にあったのであろうが︑茨城県日立市の山間に 位置する中深荻地区に遺された﹁伝聞秘録﹂にも︑似た話を伝えて

いる︒それは中深荻村の伝兵衛家三人の死で︑まず︑息子の藤三郎

が五月初めに袖乞に出たが︑思うように食物がもらえず︑やむなく

六月二十日に帰村したという︒そして︑栄養失調から病気となり七

月一日に死亡した︒その三日後には伝兵衛の妻が死亡し︑その二日

後には伝兵衛が死亡し︑同家は断絶した︒﹁伝聞秘録﹂には﹁六日

(6)之内二親子三人餓死致候﹂と記している︒この場合︑息子の年齢が

わからないが︑まだ体力のあった息子が口減らしとして袖乞に出た

のであろう︒しかし︑袖乞も思うようにいかず帰村したが︑すでに

栄養失調状態から体力が衰弱し︑帰村後に間もなく死亡したのであ

ろう︒東北地方などでは︑こうした餓死者は﹁寺を頼み引導すると

云う事もなく﹂︑﹁家内中にて死人を葬り﹂︑近所や縁者による葬儀

もおこなわなかったという︒また︑家は﹁狐兎の栖となり﹂︑家族

(7)の者は﹁諸方に散りて︑親の死にけるも︑子しらず﹂という家族離

散状態があったという︒こうした状態は︑のちにみるように甲州郡

内の村々でも多々見られた︒

一家内に袖乞や餓死者を出す危機的状況は︑農村ばかりでなく︑

都市の下層民により顕在的にみられた︒大坂の医師が記した見聞記

﹃浮世の有様﹄には︑﹁昨日迄軒を拉べし隣に住居せし者﹂が︑﹁け

ふ乞食となれるも数多き事也﹂とし︑﹁か・る年柄なれは疫痛一統

に流行て︑毎家に大勢病臥ざる﹂家はなく︑﹁甚敷は五︑六日にし

(8)て死失﹂す︑﹁家に﹂住む者で﹁さへかくの如﹂しとしている︒し

たがって︑住居のない袖乞人などは︑なおさら死と直面していたこ

(5)

(162)

養 蚕 ・絹 織 物 生 産 地 域 に お け る 天 保 飢 饒

51

とは言うまでもない︒

現代の日本でも︑都会や地方都市で老夫婦がひっそりと餓死した

というニュースが時々伝えられる状況となっている︒江戸時代の村

社会においては︑村や五人組などが互いに気遣いながら扶助しあっ

て生活していた時代であったが︑そうした村社会や五人組︑縁者の

協力も︑飢謹の初期段階ではそれがある程度実現されていたが︑飢

謹が長くつづくと︑そうした扶助の関係を継続することができなく

なっていた︒そうしたことから︑体力のある者がわずかな食糧を家

にのこし︑袖乞に他所・他国へ出た︒それゆえ︑家には老人と子供

がのこされたが︑その老人と子供が病に伏しているという病家が

村々に多く出現していた︒そうした家ばかりでなく︑家族員全員が

餓死し︑一家が絶えた家も村々には出現していたから︑袖乞で命を

繋ぐことができずに再び帰郷しても︑五人組や村の援助や扶助は期

待できなかった︒

ところで︑郡内の餓死者数について︑哨凶年日記﹂は︑天保九年

三月頃までの数であるが︑一万七千余人としていた︒また︑江川太

郎左衛門は︑甲州都留郡の代官に任命される二ヶ月前に︑手代を郡

内の状況探索に遣わした︒その手代の根本定助が報告した﹁箇条風

(9)聞申上帳﹂(天保九年八月提出)には︑天保七年より翌八年五月迄の

惣死失人として一万二八七三人と報告している︒それゆえ︑郡内は

﹁一と通りの儀こてハ立ち直り方出来申問敷﹂と報告している︒

ここにある約↓万三千人の死者は︑さきの]万七千人より四千人

少ない︒この違いが期間によるのかはっきりしないが︑一万人を越 える人々が天保飢饒で死亡したことは間違いないであろう︒そうす

ると︑郡内の人口約六万三千人のうちの約二割強の人々が餓死した

ことになる︒こうした郡内の餓死者数は︑東北地方の天保飢饒での

餓死者を除くと︑甲州郡内の餓死者の割合は相当高かったことにな

(10)ろう︒こうした多くの餓死者を甲州郡内が出したのは何故かという

問題や︑飢饒をめぐる研究課題は多岐にわたるが︑そうした課題は

他日を期すことにして︑ここでは︑郡内の経済構造の特質について

若干指摘するにとどめたい︒

郡内の経済構造の特質は︑近世中期から養蚕・絹織物業が発達し

たことによって︑家族形態も傍系家族や複合家族から直系家族・単

婚家族へと変質した︒そしてそれは︑分家や隠居分家の創出によっ

て村の家数と人口が増加し︑村にも農業以外の養蚕・絹織に関係し

た諸商売人も増加した︒養蚕・絹織業は︑多くは女性の手仕事で

あったから︑郡内では女了が産まれると喜んだという︒また︑成長

するにしたがって糸挽きや機織りをさせるために︑相州や豆州︑駿

州︑甲府盆地などから多くの女子が養女として︑郡内村々の家々に

買われてきていた︒絹を織る女性の手は︑農作業の田植えなどをす

ると荒れるから︑郡内村々の田植えは︑南隣の駿州御厨の早乙女が

籠坂峠を越えて郡内村々に来て︑定宿(泊まる農家が定まっていた)

に宿泊して村々の田植えをしてかえった︒こうした農業労働力の上

でも︑郡内と駿州との分業関係が展開していたが︑こうした関係

は︑享保期頃にまで遡れるのでないかと考えている︒

絹織物業の発達は︑郡内で生産される生糸ばかりでなく︑甲府盆

(6)

商 経 論 叢 第38巻 第4号(2003.4) 52

(161)

地東部や相州高座郡・愛甲郡︑武州多摩郡などの他国・他地域の生

糸が生糸商人によって郡内村々にもたらされ︑そうした生糸を個々

の農家が掛買いで購入し︑郡内縞や紬︑郡内平︑海黄︑菱絹︑黒八

丈︑花色絹︑花色縞︑夜具縞︑御納戸縞などの絹織物に織り出し︑

谷村の絹問屋から村方へ絹買い回って来る﹁場造﹂へ販売した︒

村々にも中小の絹仲買商が形成され︑また︑村々には他国へ絹を行

商に行く﹁他国旅売人﹂も形成されていた︒

例えば︑天保三年(一八三二)の新倉村では︑上谷村の絹問屋今

木屋清七の場造や下谷村の絹問屋嶋屋理八の場造が各一人おり︑そ

の外に絹の仲買人が二人︑他国への絹の旅売りをする行商人が一〇

(11)人形成されていた︒したがって︑絹織物業の発展は︑女性の仕事ば

かりでなく︑繭や生糸︑郡内縞などをあつかう商人を族生させた︒

そうした養蚕・絹織や山稼ぎによる現金収入によって︑他国から多

くの食糧を移入する再生産構造が形成されてきていた︒こうした郡

内の経済構造の特質が郡内の飢饅の犠牲者‑ー餓死者を多く出すこと

になった︒

こうした絹織物業が発展した地域では︑天保飢謹時には米穀の高

騰と食料不足によって︑多かれ少なかれ餓死者を出すことなった︒

北関東の上州桐生においては︑近世中期に高機技術や紋紗綾織り技

術が西陣から伝播したことによって絹織物業の発展をとげたが︑そ

の桐生においても︑天保飢饒時には餓死者を出していた︒

上州桐生地域も︑絹織物業の発展によって外部に食糧をもとめた

経済構造が形成されていた︒そうした桐生における天保飢饒の餓死 者の全体像はわからない︒だが︑﹃桐生市史中巻﹄(昭和三+四

年)に収録されている﹁天保七年磯饒状態(彦部信敬日記)﹂によ

ると︑下広沢村では︑﹁疫病村内極月(天保七年)より始り︑四月

(天保八年)末迄死人十五人︑煩候者三十四︑五人﹂としている︒ま

た︑桐生六町目では﹁四月(同八年)末迄死人四十人﹂と記してい

る︒すなわち︑天保七年十二月から翌八年四月にかけて︑麦収穫前

の食糧の端境期に餓死者が多く出ていた︒そしてまた︑桐生﹁五町

目にて不煩家三軒有之由︑其外村毎に有之候へとも︑窮民は九分

也﹂と︑桐生五丁目では︑九割の家が窮民で︑煩わない家はたった

三軒しかなかったと伝えている︒飢饒による食糧不足からくる栄養

失調状態は︑町内に疫病をを蔓延させ︑多くの病家を発生させてい

たことがうかがわれる︒

桐生六丁目の戸数・人口がわからないが︑四〇人の餓死者が出て

いたことは少なくはなかったであろう︒この史料の記録者の村であ

る桐生町隣村の下広沢村でも︑死者が一五人出たとしている︒下広

沢村は村高六七四石余︑相給の旗本領の村で︑天保九年の家数一〇

九戸︑うち諸稼ぎ人二一戸︑⁝機渡世の者四三戸の村であった︒この

村の人口がわからないが︑一〇九戸の村で一五人が天保飢謹で餓死

していたから︑一軒当り一人以上が餓死したことになる︒

桐生周辺での天保飢謹の惨状は︑天保七年十月より葛・野老・石

蒜などのみを﹁夫食﹂にしてきたから︑﹁当春(天保八年)に至り︑

日々に死人﹂が生まれたという︒すなわち︑﹁米麦之類﹂を食せ候

てもコ向身ならず︑其儘下り候由﹂とある︒これは︑野山で採取

(7)

(160)

養 蚕 ・絹 織 物 生 産 地 域 にお け る 天 保 飢 饒

53

した葛・野老・石蒜(彼岸花)などの根や球根を食べ続けてきてい

たため︑春になり日々に死人が増えたのである︒すなわち︑そうし

た食料による栄養失調に起因した病者へ︑急に米麦などの高カロ

リーの食物を食べさせても︑栄養を吸収できず︑下痢をするばかり

で︑衰弱して疫病がはやり死にいたった︒そうした死者は︑﹁若年

之者斗多分死候由﹂と︑若年層の死者が増えたとしている︒さらに

翌天保八年四月に入ってからは︑疫病がもっぱらはやり︑﹁是より

年寄・了供之死番と申︑共に落涙仕候﹂とある︒天保八年四月にな

ると︑今度は弱者である年寄や子供が多く死ぬ番となり︑人々はと

もに落涙していると伝えている︒

ところで︑江戸時代も中後期になると︑在郷町や宿場町︑村々に

医者が増え︑人々は往診を受けて薬を調合してもらって治療する

人々が増えてきていた︒天保飢謹時には︑医者の往診も増えていた

が︑薬礼を支払わない者もふえていた︒そのため︑天保七年十月︑

桐生町の医師文貞・春東など一一人は︑一同で評議してつぎのよう

なことを決めて︑町役人衆へ届けている︒それは︑最近︑薬礼を支

払わない者が多くあるので︑極貧の者は格別であるが︑家業が取り

続いている者で︑これまでの薬礼を払っていない者は治療しないこ

と︒そして︑旅医者のものが桐生町に居住する場合は︑医師の月番

へ届け出て︑一統が承知した上で医師列に加わることなどを決めて

(12)いる︒

飢謹時には︑絹織物の値段が下がり︑売行きも減少して機業地桐

生の経済は大きく減退してきていたから︑薬礼を支払わない町人が さらに増えることを予測し︑また︑飢饒のなかでは桐生のような在

郷町へ流入する旅医者が増えることも予想されたことから︑上記の

ような取決めがされたのであろう︒そしてまた︑薬礼がもらえなけ

れば︑医師の生活が破綻したから︑右のような議定が必要であっ

た︒とくに絹織物販売が減退すると︑絹織物業にかかわる下層町人

層の収入が激減し︑往診を受けても医師へ薬礼を支払えない者が多

かったのであろう︒

二 ︑ 村 々 の 餓 死 者 ・ 袖 乞 人 ・ 奉 公 稼 人

・天保飢謹における郡内の餓死者は︑さきにみたように一万七千人

とも一万三千人ともいわれたが︑そうした人数は全くの推定値では

なかった︒それは︑代官所から何度か餓死者などの調査が命ぜられ

ていたから︑そうした調査報告書にもとついて集計された人数で

あったろう︒しかし︑一万七千人という人数は︑どこまで正鵠を得

ていたかは問題がある︒

郡中惣代を務めた朝日馬場村の名主柳蔵家には︑郡内村々の退転

家・餓死者︑他国へ袖乞に出た者︑他国へ奉公稼ぎに出た者︑村を

欠落した者などを書き上げた文書がのこされている︒その文書の検

討と︑村方にのこされた代官所への報告書控をあわせて検討しなが

ら︑郡内村々の餓死者や袖乞人︑他国・他郡への奉公稼人などの実

態を探ることにしよう︒

朝日馬場村の名主柳蔵家には︑二年度分のそうした取調帳がのこ

されている︒一つは年不詳(天保八年何月か)のもので︑もう一つは

(8)

商 経 論 叢 第38巻 第4号(2003.4) 54

(159)

第1表 天 保8年 何 月 ・同9年4月 の 郡 内 村 々 の 死 失 ・退 転 ・欠 落 ・袖 乞 ・奉 公 稼 人 な ど取 調

村 名 村 高 戸 数

人 口

退転家 死 失 欠 落 奉 公稼 袖 乞

石 戸 人

a b a b a b a b a b

十 日市場村

362.9 103 fi71 10 2 30 12 8 7 11 10

下暮地村

191.6 103 504 14 4 58 2 2 8

下吉 田村

898.8 508 2025 9 58 8 27 15

上吉 田村

628.5 335 1304 11 39 20 20 23

成沢村

65.8 238 972 18 7 82 51 24 5 18 4 33 13

加畑村

27.1 37 162 4 3 12 10 8

小 野村

104.9 73 344 20 29 11 2 6 38

上谷村

629.4 285 1346 50 15 3

下谷村

817.7 242 1554 5 112 13 2 10

朝 日馬場村

73.3 73 340 9 11 4 4

朝 日曽雌村

100.4 120 586 34 7 15 2 19 32

玉川村

iol.3 41 172 6 3 31 7 2 5 18

上野 原村

., 410 1875 35 55 111 133 13 4 74 97 56

四方津村

lss.7 100 489 11 18 3 11 3 31 36

黒野 田村

121.0 93 441 43 33 49 36 38 26

真木村

382.1 239 1072 32 74 26 6 1 13 41

鳥沢村

491.7 304 1485 6 10 76 16 55 35 65

丹波 山村

69.6 zos 1034 3 11 8

注 、退 転 家 は 単 位 戸 。aはH文 書 の 天 保9年4月 の 「郡 中村 々 死 失 退 転 袖 乞 奉 公 稼 惣 人 数 調 帳 」(渡 辺 家 文 書)の 数 値 。bは 1文 書 の 天 保8年 何 月 か わ か ら な い 「上 郷 村 々 欠 落 井 死 失 退 転 其 外 取 調 帳 」 「中郷 よ り下 郷 村 々死 失 欠 落 退 転 其 外 取 調 帳」(渡 辺 家 文 書 、 『都 留 市 史 資 料 編 近 世H』)に よ る。 村 高 ・戸 数 ・人 数 は 『甲 斐 国 志 』 に よ る。 空 欄 は 記 載 が な い 。

天保九年(一八三八)四月と表記されたものである︒この二つの文

書と﹃甲斐国志﹄の戸数・人口をあわせて︑郡内村々の内︑一部の

村々を表示したのが第一表である︒

年不詳ものは︑﹁上郷村々欠落井死失退転其外取調帳﹂﹁中郷より

(13)下郷村々死失欠落退転其外取調帳﹂(この二冊を以下‑文書とする)と

表記された二冊であり︑もう一つのものは︑天保九年四月の﹁郡中

村々死失退転袖乞奉公稼惣人数調帳﹂(この文書を以下Hとする)と表

記されたものである︒1の二冊は竪帳であり︑Hの一冊は横帳形式

のものである︒1文書には作成者名はなく︑Hには﹁郡中惣代﹂と

ある︒朝日馬場村の名主柳蔵は︑天保八年九月には郡中惣代に就任

していたから︑その役職の関係で谷村代官所へ報告された村々の

﹁取調書﹂をつかってまとめたものがHであると考えられる︒だ

が︑Hの文書は︑記載されていない村々が多くあり︑また集計など

もされていないことから︑完成した文書とはいえない︒こうしたこ

とから︑代官所への報告途中で郡中惣代の柳蔵が記録したものと考

えられる︒それに対して︑1の文書は︑記載内容も整理されてお

り︑代官所でまとめられた文書の写ではないかと考えられる︒

こうした性格の違う二つの文書であるが︑どちらも郡内村々の天

保飢謹時における餓死者や退転家︑欠落人︑袖乞人などの一斑がわ

かり興味深い︒

まず︑1の文書二冊の内︑﹁中郷より下郷村々死失欠落退転其外

取調帳﹂(A文書とする)の記載事例を示すと︑つぎのようになる︒

一退転家弐拾九軒小野村

(9)

(158)

養 蚕 ・絹 織 物 生 産 地 域 に お け る天 保 飢 饒

55

人 数 拾 三 人

内 拾 壱 人 死 失

弐 人 欠 落

(中 略 )

一 退 転 家 五 十 五 軒 上 野 原 村

人 数 弐 百 三 拾 四 人

百 三 拾 三 人 死 失

九 拾 七 人 奉 公 稼

四 人 欠 落

(中 略 )

右 寄

退 転 家 五 百 八 拾 壱 軒

小 以 七 拾 六 ヶ 村 人 数 千 三 百 七 拾 五 人 馬 三 百 七 拾 三 疋 減

内 内 弐 百 拾 八 疋 死

九 百 弐 拾 三 人 死 失 百 五 拾 五 疋 売 払

三 百 七 拾 八 人 奉 公 稼

七 拾 四 人 欠 落

去 申 十 一 月 よ り 酉 五 月 迄 弐 千 七 百 四 拾 五 人 死 失 分

弐 口 寄

退 転 家 七 百 六 拾 軒

)

合 百 五 ヶ 村

人 数 七 千 六 拾 六 人 馬 五 百 七 拾 七 疋 減 内 五 千 八 百 弐 拾 三 人

弐 百 三 拾 三 人

七 百 四 拾 六 人

弐 百 六 拾 四 人 死 失

欠 落

奉 公 稼

袖 乞 三 百 三 拾 八 疋 死

弐 百 三 拾 九 疋 売 払

右の小野村・上野原村のように︑村ごとに記載された退転家や死

失︑奉公稼人︑欠落人などの人数は︑天保八年(一八二五)六月以

降の数値であることが途中の隔去申十一月より酉五月迄﹂の記載か

らわかるが︑それが六月から何月までの数値かわからない︒この中

郷から下郷村々の村ごとの数値には袖乞人の人数は記されていな

い︒だが︑合計の数値には袖乞人二六四人が記載されている︒この

中郷から下郷村々の死失人(餓死者)は五八二三人︑欠落人二三三

人︑奉・公稼人七四六人︑袖乞人二六四人と集計されている︒

もう一冊の﹁上郷村々欠落井死失退転其外取調帳﹂(B文書とす

る)には︑村々の記載に袖乞人もみられる︒それは︑

一退転家八軒山中村

人数弐拾八人馬九疋売払

三人欠落拾疋死

八人死失

八人奉公稼

九人袖乞

(中略)

右寄

(10)

商 経 論 叢 第38巻 第4号(2003.4) 56

(157)

小 以

合 退 転 家 百 七 拾 九 軒

弐 拾 九 ヶ 村

人 数 千 四 百 三 拾 七 人

百 五 拾 九 人 欠 落

七 百 六 人 死 失

三 百 六 拾 八 奉 公 稼

弐 百 四 人 袖 乞

去 申 十 一 月 よ り 当 酉 五 月 迄 千 五 百 九 人 死 失 之 分

退 転 家 百 七 拾 九 軒 馬 弐 百 四 疋 八 拾 四 疋 売 払

人 数 弐 千 九 百 四 拾 六 人 百 弐 拾 疋 死

百 五 拾 九 人 欠 落

弐 千 弐 百 拾 五 人 死 失

三 百 六 拾 八 人 奉 公 稼

弐 百 四 人 袖 乞

こ ち ら の 文 書 に は ︑ 村 々 の 記 載 に 袖 乞 人 も 記 載 さ れ て い

﹁ 去 申 十 一 月 よ り 当 酉 五 月 迄 ﹂ の 死 失 人 数 を あ げ て い

前 文 書 (A 文 書 ) と 同 じ 形 式 で あ り ︑ 死 失 人 の 合 計 は 二 二

欠 落 人 は 一 五 九 人 ︑ 奉 公 稼 人 は 三 六 八 人 ︑ 袖 乞 人 二 〇 四 人

こ ち ら の B 文 書 に も ︑ [ 去 申 十 一 月 よ り 当 酉 五 月 迄 ﹂ と あ

るから︑村々のそれぞれの数値は︑当酉五月11天保八年五月以降の

死失人・欠落人・袖乞人であることがわかるが︑それが何月までの

実数を示す数かわからない︒

この二冊の文書からは︑天保八年の何月かの時点における︑都留

郡の餓死者数や袖乞人︑他国・他郡への奉公稼人などの人数がわか

り︑大変興味深い文書であるが︑村ごとの餓死者などの全貌はわか

らない︒

上郷村々から中郷・下郷村々までのA・B文書を合計すると︑死

失人八〇三八人︑欠落人三九七人︑奉公稼人一一一四人︑袖乞人四

六八人となる︒この死失人はほぼ餓死者と理解してよいであろう︒

この餓死者八〇三八人は︑江川太郎左衛門の手代が入手した餓死者

の人数約一万三千人よりも少ない︒また︑村々の餓死者数などは︑

さらに限られた期間の人数であることが︑村方にのこされた﹁取調

書﹂控と比較するとわかり︑実数とかけ離れている︒

こうしたA・B文書にみられる都留郡の餓死者数や欠落人︑奉公

稼人︑袖乞人の数は︑どれだけ正確な数値なのであろうか︒つぎ

に︑村々にのこされた代官所への﹁書上帳﹂や﹁取調書﹂の控など

から︑もう少しA・B文書に記された数値を検討してみよう︒そう

した村方の控文書から︑絶家となった退転家や餓死者︑欠落人︑袖

乞人︑他国奉公稼人︑離散家族などの実態がより正確にわかる︒

(1)黒野田村の餓死者

甲州道中の笹子峠にちかい村高一二一石余の黒野田村(現︑大月

(14)市)では︑天保九年四月の﹁死失退転潰欠落人書上帳﹂によると︑

(11)

(156)

養 蚕 ・絹 織 物 生 産 地 域 にお け る 天 保 飢 饅

57

天保七年⊃八三六)の後半より天保九年二八三八)四月までに四

九人が餓死している︒この人数は︑村の入口四〇〇人の一ニパーセ

ント余にあたる︒退転家は四二軒にのぼり︑それは戸数九一軒の約

四六パーセントになる︒そしてまた︑他国へ袖乞に出かけた者が一

二人いた︒

(2)加畑村の餓死者と村を出た人々

(15)天保九年閏四月の﹁退転家・人別御年貢取調一村限帳﹂による

と︑加畑村(現︑都留市)は︑村高二七石一合︑家数四六軒︑人数

一九七人の小村であった︒家数四六軒のうち退転した家が二二軒︑

そのうち餓死による退転家(絶家)が四軒︑欠落による退転家が四

軒︑家族が離散した退転家が四軒︑袖乞に出て村に居ない退転家が

一〇軒と︑合計二二軒が退転家となっていた︒したがって︑村にの

こって居住していた家は︑約半数の二四軒に過ぎない︒

(16)また︑天保九年三月の﹁家数人別改書上帳下書﹂によると︑同村

の人口減少は甚だしく︑天保飢饒による餓死者が一六人︑村を出て

他所へ袖乞に出た者が二一人︑他所・他国へ奉公稼ぎに出た者が二

三人︑合計六〇人︑村の人口の約三〇パーセントの人々が村からい

なくなっていたことになる︒したがって︑村には老人や子供︑女性

がのこされ︑成人男性二五〜六〇歳)は︑村役人六人を除くと一三

人しかいない状態となっていた︒餓死者一六入は︑村の人口の八

パーセントで︑この割合は︑他村と比較すると多いとはいえない︒

他国や甲府盆地などへ袖乞や奉公稼ぎに出た者は︑まだ体力があ

る者であり︑家には老人や子供がのこされた︒これは︑家族全員が 生き延びられないような食糧危機を乗り越えるための一つの方法で

あった︒こうした状態に追い込まれたのは︑繰り返された凶作と織

物不況のなかで︑親類縁者の援助もこれ以上得られず︑領主や村の

余裕のある者の救憎では生き延びられない状況のなかで︑零細な農

民は食糧備蓄が少なくなって︑口減らしのために奉公稼ぎや袖乞に

出ざるを得なかったのである︒

(3)小野村の餓死者と村を出た人々

文化年間の小野村は︑村高一〇四石九斗三合︑家数七三軒︑人数

(17)三四四人の村であった︒天保九年四月の﹁退転死失人書上帳﹂によ

ると︑天保七年十一月から翌八年七月までの退転家が九軒︑死失人

が一一人︑欠落人が二人出ていた︒その後の天保八年八月から翌九

年四月までには︑退転家が一一軒︑死失人が三六人︑袖乞人が三九

人︑奉公稼人が六人出た︒

この二調査期間の後半の時期︑天保八年八月から翌九年四月にか

けての時期の方が多くの餓死者や袖乞人︑他国奉公稼人を出してい

る︒二調査期間を合計すると︑絶家となった退転家が二〇軒︑餓死

者が四七人︑他国へ袖乞に出た者が三九人︑他所・他国へ奉公稼ぎ

に出た者が六人︑そして欠落人が二人となる︒

したがって︑この村の人口は︑約二年半の間に九四人が減少した

ことになるが︑これは︑天保六年の人ロ三〇四人で割ると︑約ごニ

パーセントの人々が村からいなくなり︑そして︑その内の約一五

パーセントの人々が餓死したことになる︒

(4)下吉田村と朝日馬場村の餓死者年齢

(12)

(155)

第3表 朝 日馬場村 の餓死者

年 月 日

人 数

天 保7年11月

/

12月

4人 3

天 保8年1月 7

2月 5

3月 9

4月 3

5月 22

6月 6

7月 4

合 計

63人

注 、 天 保8年5月 去 ル 申11 月 よ り 当 酉5月 迄 餓 死 人 名 前 年 月 日書 上 」 渡 辺 洋 男 家 文 書 。

第5表 朝 日馬場村 、年齢別 の餓死者

年 齢 人数

80歳 以 上 4人

70‑79 11

6069 6

50^59 5

40〜49 5

30^39 9

2029 6

1019 5

5〜9 10

2〜4 2

合 計

63人

商 経 論 叢 第38巻 第4号(2003.4)58

第2表 下吉 田村の餓死 者

年 月 日

人 数

申12月10日 〜21日 6人

酉 正 月5日 〜28日 7

酉2月1日 〜29日 23

酉3月2日 〜27日 17

酉4月3日 〜29日 23

酉5月4日 〜 晦 日 37

酉6月2日 〜29日 34

酉7月1日 〜 晦 日 24

酉8月2日 〜17日 16

合 計

187人

注 、天保7年12月 「当村 餓死 いた し 候 者取 調書 上 覚」『富 士 吉 田市 史 史料編近世1』 史料173。

第4表 下 吉 田 村 、年 齢 別 の 餓 死 者 数

年 齢

80歳 以 上 70〜79歳 60〜69歳 50〜59歳 40〜49歳 30〜39歳 20〜29歳 10〜19歳 5〜9歳 2〜4歳

合 計

人 数

14人 30 38 25 27 22 3 8 9 5 6 187人

下吉田村は︑天保三年(一八三二)︑村

高九↓一石余︑家数五〇七軒︑人数一九

(18)三〇人の在町的な村であったが︑天保七

年(一八三六)十二月から翌八年八月ま

でに一八七人が餓死し︑人口の約一〇

パーセントが餓死したことになる︒

朝日馬場村は︑村高七三石六斗余︑天

保四年(一八三三)の家数七六軒︑人数

(19)三三九人の村であった︒天保七年十一月

から翌八年七月かけて六三人が餓死し︑

人口の一八・六パーセントが餓死したこ

とになる︒その餓死者は天保八年一月か

ら増加し始め︑一月に七人︑二月に五

人︑三月に九人︑四月に三人︑そして五

月に二二人が餓死した︒こうした五月に

餓死者が多いのは︑下吉田村の場合も同

様であったが︑下吉田村は五月が三七

人︑六月が三四人と︑六月まで多い(第

二二二表参照)︒

これは︑春先の麦収穫までの端境期の

食料欠乏と︑それ以前からの飢渇状態に

より栄養失調状態が続き︑体力が衰えて

きたことから病人が増えて餓死者を増加

(13)

(154)

養 蚕 ・絹 織 物 生 産地 域 にお け る 天 保 飢 饒

59

させたことによる︒

朝日馬場村では︑すでに前年の天保七年九月頃から木の実.草の

根などを堀り集めて食料にしなければならない状況が出現してい

(20)た︒

第四表によって下吉田村の年齢別餓死者をみると︑六〇歳代の入

数が三八人と多いが︑七〇代の者も三〇人と多い︒また︑第五表

で︑朝日馬場村の餓死者をみると︑この村の場合は︑七〇歳以上が

一五人︑一〇歳未満が一二人と多い︒これは︑飢饒による劣悪な食

料事情が体力の弱い老人や子供に大きく影響し︑栄養失調状態から

時疫がはやり︑そして死に至らしめたことを物語っている︒した

がって︑飢饅の犠牲になったのが老人と子供であったことがうかが

われる︒

朝日馬場村では︑一軒で三人が死亡している家が五軒あった︒例

えば︑栄吉家の場合は︑天保八年二月八日にまず当主栄吉(五二

歳)が死亡し︑二日後の二月一〇日には妻みな(四四歳)が死亡

し︑三日後の二月一三日には娘ゆわ(七歳)が死亡した︒同家にの

こされたのは俸吉蔵(二一歳)であったが︑その吉蔵も︑同年八月

四日に離散し︑他郡・他国へ袖乞に出ている(第六表参照)︒この栄

吉家は︑持高三斗五升三合の零細農民であったから︑食糧の備蓄な

どはできず︑家族員三人が餓死したのであろう︒この離散退転した

栄吉家について︑村方では︑未納年貢額や拝借した金銭︑拝借籾.

麦・稗などの額を調査している︒それによると︑天保六︒七年の未

納年貢金・夫銭︑夫食代などの拝借金額が九両二分一朱余にのぼつ ていた︒また︑領主の救憧である﹁御救﹂により拝借した夫食代以

外の現物支給の籾が七斗︑麦が三斗六升七合︑稗が四斗一升八合

(22)あった︒こういした公的な年貢金や夫食代の拝借金︑拝借籾.麦.

稗を返済せずに︑二一歳の吉蔵は村を離れて︑何国かへ袖乞か奉公

稼ぎに出て行ってしまったのである︒

ところで︑下吉田村では︑三〇歳代︑四〇歳代︑五〇歳代の餓死

者も多い︒これは︑下吉田村の在町的特質により︑下層町人層が多

くいたことと関係していたのであろう︒すなわち︑郡内へ入る米穀

は︑凶作で各藩がおこなった津留により極端に減少し︑その値段も

高騰したから︑郡内の宿場町や在郷町などに住む都市下層民の生活

は大きな影響をうけた︒それと飢饅による劣悪な食料事情は︑在町

などの下層民には年齢層に関わりなく栄養失調状態におとしいれ︑

そこへ時疫が流行し︑子供から少年︑大人︑老人まで︑おしなべて

餓死に追いやったことを物語っている︒

郡内の政治・経済の中心地でもあった上谷村や下谷村の町でも︑

借家人層の都市下層民の飢饒犠牲者は多かったであろうことが想像

される︒だが︑餓死者の正確な人数はわからない︒ただ︑上谷村に

ついては︑天保八年正月より同年六月上旬までの餓死者が七〇人︑

(23}同年六月中旬より八月下旬までが六五人︑合計}三五人とある︒こ

の餓死者数は︑文化三年(一八〇六)の上谷村人ロ一三四六人の一

〇パーセントにあたる︒しかし︑その後の翌天保九年五月頃まで餓

死者は出たであろうから︑この人数はさらに増えたであろう︒

そうしたことから︑上谷村では︑﹁当村助金﹂を遣って甲州米を

(14)

商 経 論 叢 第38巻 第4号(2003.4) 60

(153)

買い入れて白米に掲き︑町内の早馬町で大釜に粥を炊いて︑天保八

(24)年四月三日から五月中旬まで困窮人に施粥したという︒人口一五五

四人の下谷村でも︑なんらかの対策がとられたであろうが︑下谷村

については︑飢饒の状況を伝える文書にまだ出合っていない︒

ところで︑上記五ヶ村と上谷村を加えた六か村の餓死者の割合を

平均すると︑村の人口の約一二・三パーセントとなる︒それに郡内

の人口約六万三千人を乗じると七七四九人となる︒この人数は︑さ

きの﹁凶年日記﹂の餓死者一万七千人や︑代官江川太郎左衛門の手

代が入手した餓死者一万三千人よりもかなり少ない︒これは︑限ら

れた六ヶ村のデータであり︑また︑調査期間が天保七年十一月から

天保八年七︑八月までの村のデータと︑翌九年四月までの村のデー

タがあり︑そして︑天保九年四月までの村のデータが少くないこと

から︑実際の餓死者の割合はもう少し増えることになる︒そうした

ことを考慮すると︑少なくとも郡内人口の一六︑七パーセント位の

餓死者が出たのであろう︒そうすると︑一万人から一万一千人が餓

(25)死したことになる︒

ところで︑郡内では︑そした餓死者ばかりでなく︑村々からは郡

外へ欠落した者や袖乞に出た者︑奉公稼ぎに出た者が大勢いた︒こ

の人数を正確に把握するのも容易ではないが︑さきの天保七年秋か

ら翌八年八月頃までの数値によれば︑合わせて一九七九人となる︒

この人々も餓死者の人数同様に︑翌年の天保九年までを考慮する

と︑これよりもかなり多かったのであろう︒そうした他出人を加え

ると︑先にみた加畑村や小野村のように︑村の人口の約三〇〜ご二 パーセントの人々が村からいなくなっていた︒したがって︑飢饒に

よる村々の人口や家数の減少は︑飢饒後の村々におて重大な問題と

なり︑村の復興に向けた努力と苦闘が︑領主(幕府代官)や村役

人︑農民に課せられることになった︒そうした飢謹後の村復興への

苦悩と苦闘のなかで︑郡内地域の村社会は︑新たな展開を幕末に向

け歩むことになる︒この点については︑後稿を期したい︒

三 ︑ 飢 態 の 村 内 状 況 と 飢 饅 を 生 き ぬ く 人 々

飢饅時には︑親が子を捨てる捨子の話が多くみられたが︑それば

かりではなく︑親が我が子を橋の上から川へ投げ込んで殺すことも

みられた︒郡内の飢謹の惨状を記した﹁凶年日記﹂には︑﹁当郡

橋々へ子供打込﹂む者︑その﹁数不知﹂とある︒そうした川へ身を

投げる者は︑江戸でも︑両国橋から両脇に子を抱えて投身した者

(26)が︑天保七年十一月には日に五人もいたという︒

また︑天保九年に乞食となった新乞食は︑﹁凶年日記﹂にみられ

たように︑﹁田畑家財売り払い︑六ヶ年の難儀の手を尽くし果た

し﹂︑よんどころなく﹁親を捨て︑子を捨て︑妻と離散し﹂︑何国へ

とも行くあてもなく落ち行くものたちであった︒それは︑さきにみ

たように︑郡内村々から︑欠落︑袖乞︑他国奉公稼ぎに出た者が大

勢いたことからもわかる︒

その数は︑さきの文書では欠落人が三九七人︑袖乞人が四六八

人︑奉公稼人が一一一四人︑合計一九七九人であった︒欠落人と

は︑生活に困窮して村から夜逃げ同様に逃亡した者である︒彼らの

(15)

61養 蚕 ・絹 織 物 生 産 地 域 に お け る 天 保 飢 饒

第6表 天 保8年 朝 日馬 場 村 の 死 失 退転 ・病 家 ・離 散 人 の 諸 上 納 物 滞 り取 調

(152)

名 前 年齢 種 別 家族 持高 返済滞永 返済滞銭 拝借籾 拝借麦 拝借稗

6 21 弥右衛 門 73 離散 1 0,158 853 L115 1.4 0,367 1

6 21 利助 43 離散 2 0,549 190 5804 L(}5 0,367 0,418

6 21 利助妻 31

G 28 久次郎 48 離 散 ・1人 死 失 5 Q 2917 328 1.4 0,367 0,418

6 28 久次郎 妻 39

6 28 久次郎娘み ち 14

6 ?g 久次郎娘み の 11

6 28 久次郎娘 い し 8

7 1 宇八後家 しけ 42 離散 3 0 1491 36 o.7 0.3f>7 0,418

7 1 しけ伜吉 五郎 !4

7 1 しけ娘 とめ 11

源右衛 門 死失退転 1 0,643 1125 4669 1.05 0,367 0,418

7 4 四郎 次 51 離散 2 0,134 3569 1815 0 0,367 0,418

7 4 四郎 次妻 72

7 5 清吉 58 離散退転 1 0,594 1187 4051 0.52 a.3s7 4,418

平右衛門後家 りえ 死失 退転 1 0,120 375 17x9 0.35 0,367 0,418

7 11 孫三郎 42 3人 離 散 ・残 四 人 時 疫 煩 7 0,518 10290 4934 1.4 0,367 0,418

7 11 孫三郎妻 40

7 11 孫三郎弟 久太郎 39

新右衛 門母 くめ 死失退転 1 0,569 1581 5938 1.4 0.3fi7 0,418

利右衛 門後家えい 病家 1 0 1460 8372 0.88 0,367 0,418

弥重郎 1人 死 失 ・四 人 離 散 ・四 9 0.42 3894 $902 1.52 0,367 0,418

人時疫煩 ひ

善太郎 2人 死 失 ・4人 時 疫 煩 ひ 6 0,973 4344 7858 0,775 0,367 0,418

和 次郎 1人 離 散 ・2人 死 失 退 転 3 0,999 5080 8131 0,545 0,367 0,418

三郎兵衛 死失退転 2 a.292 562 4059 0 0 0

7 25 藤五郎 89 離散不残 5 0,581 6891 4676 0.94 0,367 0,41S

7 L5 藤五郎妻 74

7 25 伜志兵衛 42

7 25 志兵衛妻 32

7 ZJ 志兵衛伜熊吉 10

7 27 政八 39 離 散2人 ・3人 時疫 煩 ひ 5 0,583 5806 3263 0.7 0,367 0,418

7 27 政八妻 32

佐兵衛 時疫煩 ひ 3 0,358 7568 2515 !.6 0,367 0,428

武左 衛門後家 うの 1人 死 失 ・4人 時 疫 煩 ひ 5 1,221 11,315 9022 2.1 0,367 0,418 7 28 次 郎 七 女 房 い と 39

8 4 栄吉伜吉蔵 21 3人 死 失 ・玉人離 散 4 0,353 8323 7777 o.7 0,367 0,418 五右衛 門後家 2人 死 失 ・3人 時 疫 煩 ひ 5 0,224 6978 5144 1.05 0,367 0,418

孫次郎 3人 時 疫 煩 ひ 3 0,456 4104 3281 o.7 0,367 0,418

孫 四郎 1人 死 失 ・8人 時疫 煩 ひ 9 1:! 9661 6134 1.4 0,367 0,418

金兵衛 時疫煩 い不残 3 0,358 7630 2391 1.5 0,367 0,418

忠兵衛 後家 しが 1死 失 ・1人 離 散 ・1人 3 0,674 2386 5327 0.35 0,367 0,418 煩 ひ

良助 1人 死 失 ・7人 時 疫 煩 ひ 8 1,374 5831 9366 0.35 0,367 0,418

8 11 長五郎 so 不 残 離散 ・退 転 3 0.4 1766 3787 0.35 0,367 0,418

永助 不残 時疫煩 ひ 10 0,536 7196 5033 o.z U.3fi7 0,418

S 11 九郎兵衛 fi4

8 11 亀次郎 2$

市平後家 2人 死 失 ・3人離 散(娘 い 9 0,088 2980 1579 0.7 0,367 0.4i8

と24才)・4人 時 疫 煩 ひ

み き(月 日不 明) 2ユ

ま ち(月 日不 明) 18

注 、 出典 は 天保8年 「去 ル 申十 一月 よ り当酉5月 迄 餓 死 人 名 前 年 月 日書 上 帳 」。 天 保8年8月 「死 失 退 転 病 家 離i散人 諸 上 納 物 滞 調 書 上 帳 」 よ り種 別 ・家 族 ・持 高 ・返 済 永 ・拝 借 籾 な ど を 記 入 。 年 齢 が 入 っ た名 前 は 「餓 死 人 名 前 年 月 日書 上 帳」 よ

り。 項 目 の 返 済 滞 永 ・返 済 滞 銭 は 、 未 申 年 貢 金 ・両 年 夫 銭 ・非 常 金 拝 借 返 納 分 ・急 再 麦 籾 代 ・類 焼 拝 借 金 、 拝 借 籾 ・ 麦 ・稗 は 貯 穀 ・御 蔵 籾 拝 借 分 を 示 す 。 単 位 は、 持 高=石 、 永 ・銭=文 、籾 ・麦 ・稗e石 。

(16)

碑商 経 論 叢 第38巻 第4号(2003.4)

(151)

なかには︑他国で旦雇い仕事に就く者もいた︒袖乞に出た者は︑村

に家族をのこして︑あるいは村や近所に袖乞に出ることを断り︑あ

るいは断らずに村を出たものであった︒奉公稼ぎに出た者は︑奉公

先のあてがあって他郡や他国に奉公稼ぎに出た場合と︑あてもなく

村を出た場合があった︒

天保八年(一八三七)の六月から八月迄の二ヶ月間に︑退転や離

散︑家族全員が病人などの家を取り調べた朝日馬場村の事例から︑

天保飢謹の惨状と生活の一端をもう少し立ち入ってみてみよう︒こ

うした調査は︑拝借した公的資金の返済が不可能と考えられたこと

から調査された家々である︒したがってそこには︑年貢金の滞納額

や夫食代の拝借額︑籾・麦・稗の拝借額などを取り調べている︒そ

うした調査結果を表示したのが第六表である︒

この表からは︑村を離れて袖乞に出た人々の生活の一端がうかが

われる︒家数七六軒の朝日馬場村で︑三二軒がこの調査の対象と

なっており︑いかに天保飢謹が村人の生活を破綻に導いたかがわか

る︒

まず︑六月二一日に﹁離散﹂とある弥右衛門家は︑持高一斗五升

八合の零細農民で︑しかも一人暮らしの者で︑七三歳の老齢にもか

かわらず︑村を離れて袖乞に出ていった︒家族員がいない一人暮ら

しの老人が村を離れていった場合も﹁離散﹂表現としている︒この

﹁離散﹂という用語は︑家族の離散という意味だけでなく︑一人暮

らしの者が袖乞いに出て︑村を離れていった場合にもつかわれてい

(27)る︒また︑離散した家族のなかには︑﹁凶年日記﹂にみられるよう な︑﹁親を捨て︑子を捨て︑妻と離散し﹂︑袖乞に出た家族もあっ

た︒

表で︑八月十一日頃に記されている︑永助家の場合は︑一〇人家

族であったが︑一〇人が﹁残らず時疫﹂を煩っているとある︒そう

した家族員が全員時疫を煩っていた家が八軒みられる︒そうした

家々も︑年貢皆済や拝借金の返済が不可能であると考えられたか

ら︑調査の対象となった︒

七月二七日頃に記されている︑武左衛門後家﹁うの﹂の場合も︑

家族五人の内一人が死亡し︑残る四人が﹁時疫煩い﹂とある︒同家

は持高が一石二斗余で︑他の退転農民より多少持高が多い︒だが︑

返済滞り永の額は︑永一一貫三一五文(金=両一分一朱)もあり︑

また返済滞り銭も︑銭九貫二二文(金一両二分)があり︑あわせて金

一二両三分一朱が返済滞り額となっている︒

七月十一日に︑三人離散とある孫三郎家の場合は︑家族内の時疫

を煩う者四人をのこし︑当主孫三郎(四二歳)・妻(四〇歳)・弟久

太郎(三九歳)の三人が袖乞に出ている︒この孫三郎家は︑持高五

斗一升八合の零細農民であったから︑食糧の確保にも手だてが立た

ず︑体力のある者三人が袖乞に出たのであろう︒この家の年貢金や

夫食代の拝借滞り額は︑永一〇貫二九〇文(金一〇両一分)︑夫銭の

滞り額が銭四貫九三四文(金三分一朱)︑あわせて金一一両一朱を返

済しなければならなかった︒こうした返済金額は︑孫三郎家にとっ

ては少額ではなかったであろう︒また︑拝借籾一石四斗︑麦三斗六

升七合︑稗四斗一升八合も拝借していたから︑それも返済しなけれ

参照

関連したドキュメント

The Making Balance for Meal and the Difference between Regions for Food Lifestyle Focused on Fisheries Commodities Purchase in the 2000s.. 林 紀代美

しかしながら生細胞内ではDNAがたえず慢然と合成

 トルコ石がいつの頃から人々の装飾品とし て利用され始めたのかはよく分かっていない が、考古資料をみると、古代中国では

(県立金沢錦丘高校教諭) 文禄二年伊曽保物壷叩京都大学国文学△二耶蘇会版 せわ焼草米谷巌編ゆまに書房

The results showed that (1) residence in large cities had no significant effect on taking employment locally, (2) students with higher Japanese ability hoped to find

The future agenda in the Alsace Region will be to strengthen the inter-regional cooperation between the trans-border regions and to carry out the regional development plans

一方、介護保険法においては、各市町村に設置される地域包括支援センターにおけ

世界レベルでプラスチック廃棄物が問題となっている。世界におけるプラスチック生 産量の増加に従い、一次プラスチック廃棄物の発生量も 1950 年から