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1.集合的記憶について

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集合的記憶としての「ノモンハン事件」/「ハルハ河戦争」

作为集体记忆的“诺门罕战争”/“哈拉哈河战争”

BAO BAOHAI 包宝海

 本论文以“诺门罕战争”为事例,从记忆研究理论的角度分析并探讨了中国内蒙古地区和蒙古 国国内形成的有关“诺门罕战争”的集体记忆。论文中把“诺门罕战争”作为广义的“社会记忆”,

探讨了内蒙古地区和蒙古国两个不同的社会环境以及两个社会的不同历史时期所形成,传承和变 迁的集体记忆。在探讨集体记忆的形成和传承等问题上,主要是从宏观的社会文化层面的角度分 析了内蒙古和蒙古国的不同的历史时期所创造,拍摄和建立的有关“诺门罕战争”的文学作品,

影视资料和纪念碑等,并研究和探讨了它们所承载和传承的深厚的历史文化记忆。

目次 はじめに

1.集合的記憶について

 1.1.集合的記憶の概念とその展開

 1.2.本稿において集合的記憶をどう捉えるか

2.中国内モンゴルにおける「ノモンハン戦争」の記憶

 2.1.戦後の被害の記憶とノモンハン戦争への関心

    の高まり

  2.2.ノモンハン戦争の「公式的記憶」と「私的記憶」

  2.3.「ノモンハン戦争」をめぐる「マイナーな記憶」

  2.4.愛国主義教育と「ノモンハンの記憶」

  2.5.戦跡と語り―ノモンハン戦争陳列館のあり方

3.モンゴルにおける「ハルハ河戦争」の記憶

  3.1.文学作品と映画から見る「ハルハ河戦争」の

    イメージ

  3.2 記憶の語りと実践――「ハルハ河戦争」をめ

    ぐる記念物 おわりに

(2)

はじめに

 本論では、「ノモンハン事件」1という出来事を取り 上げ、それが中国内モンゴルとモンゴルにおいて、ま たそれぞれの異なる時代において、どのように語られ、

表象され、記憶されてきたかを考察する。

 「ノモンハン事件」における「戦争の記憶」を考え る場合、日本人の一方的思い込みだけではなく、もう 一方の当事者たる内モンゴルの人々とモンゴル国2の 人々がこの戦争をどう評価し、どのように記憶してい るかを考えなければならない。

 内モンゴルの人々の「戦争の記憶」の持ち出し方を 論ずる際は、中国の社会主義的イデオロギーを考慮に 入れておく必要がある。内モンゴルは中国の一部とし て、戦争に関する言説や表象は中国共産党によって、

表現・操作されている。したがって、「ノモンハン戦争」

に関する言説やいわゆる「公式的記憶」3も中国の政 治的正統性を弁証する役割を持たされ、社会主義リア リズムのもとで作り出されている。

 これに対して、モンゴル国においては、「ハルハ河 戦争」は独立後の国民国家の創造の過程で非常に大き な影響を与え、モンゴル国という国民国家の形成にお いて重要な位置を占めている。そのため、モンゴル国 民は毎年ハルハ河戦争の勝利を盛大に祝い、戦死した モンゴル、ソ連の勇士たちの栄光をたたえることがひ とつの伝統となっている4

 これまでの「ノモンハン事件」に関する研究に史料 実証的に何かを検証し、確認するということを目指し ている傾向があるのは明らかではあるが、近年になっ て、ノモンハンに関する映画、博物館の展示などを分 析の対象とした研究が出てきている。たとえば、『ノ モンハン事件(ハルハ河会戦)70周年:2009年ウラ ンバートル国際シンポジウム報告論文集』では、ノモ ンハン事件の発生原因と国境認識や、当時の国際情勢 など歴史的、軍事・政治的問題だけではなく、ノモン ハン事件に関する芸術映画、音楽、美術の研究におい ても、大きな研究業績を蓄積している。ここからは、

2009年の国際シンポジウムの報告論文集から記憶の

問題として考えられるいくつかの論文について検討し ていくことにしたい。

 内モンゴル大学の教授であるチョイラルジャブ

(#hoiraljav)は「ノモンハン戦争に関する一つの民謡

について」という論文の中で、内モンゴル・ホルチン 地域につたわっている民謡「ユェ・メイロン」(Yuuye MeirUn)について考察している。彼はこの民謡を手掛 かりとし、その内容と変容、反映された社会背景を考 察すると同時に、ノモンハン戦争とのかかわりを考察 している。しかしながら、内モンゴルにおける「ノモ ンハン戦争」の表象としては「ユェ・メイロン」のみ では不十分で、フロンボイル地域で作られた他の文学 作品、映画についても考察の必要があると考えられる。

 岡田和行は「黒い影から差し込む光明――芸術映画

『影($UUder)』について――」という論考の中で、ハ

ルハ河戦争を描いた1986年のこの芸術映画を取り上 げ、映画における回想シーンの内容と時間について、

くわしく分析したうえで、この映画は従来の反日的な プロパガンダ映画と全く異質なものであり、映画の中 に、モンゴル人の日本人に対する見方の好転が見られ ると指摘した。岡田が述べたように、1986年という 年は、民主化前であるが、徐々に変化の兆しが見えて きた時代である5。そのため、この映画が持ち出した ハルハ河戦争の表象には変化が見られる。

 一方、この映画において、日本人に対するモンゴル 人の見方の好転が見られるという岡田の指摘は、民主 化後のモンゴル人のハルハ河戦争の表象の転換につい ては考察していないので、十分ではないと思われる。

民主化後のモンゴルにおいても、ハルハ河戦争に関す る映画は作り出されているのである。

 最後に、モンゴルの軍事博物館館長であるM.ビャ ンバラクチャー(M.Byambarag&haa)の「博物館で展 示されたハルハ河戦争」6という論考に触れておきた い。M.ビャンバラクチャーはこのなかで、モンゴル のハルハ河戦争に関する博物館建築の歴史的経緯と管 理問題を紹介しながら、博物館の展示によって、「ハ ルハ河戦争」がどのように表象され、人々に記憶され たかについて考察している。しかしながら、彼の検討

(3)

は博物館だけに焦点をあてているため、「ハルハ河戦 争」の全体の戦争像を分析する研究としては、不十分 であると考えられる。「ハルハ河戦争」の記憶を考える とき、博物館だけではなく、記憶の媒体ともなる、記念 碑や芸術品などにも注目しなければならないだろう。

 「ノモンハン事件」は終結してから現在に至るまで、

日本だけではなく、モンゴルと中国においても、それ に関する記事が新聞や雑誌などのマスメディアに掲載 され、また、文学作品、映画などを通じて語り継がれ てきた。「マスメディアは歴史的記憶を構築重要な手 段として、歴史的記憶を再現する三つのパターンを 持っている。一つ目は、出来事の証人(目撃者)とし て、歴史を報道する。二つ目は、歴史を再現(再生産)

する。三つは、歴史を構築する」7という。ここでの 一つ目のパターンは出来事が勃発しているうちにそれ を報道するということである。例えば、「ノモンハン 事件」は発生した際、当時の中国国民政府支配地域の 新聞と中国共産党の元で発行された『新華日報』、『群 衆』などの新聞及び雑誌では積極的に報道されていた という8。二つ目のパターンは主に、出来事が発生し た後、それに関する経験者や証人の語りや叙述を通じ て出来事を再現するということである。例えば、「ハ ルハ河戦争」の際に撮影された映像に基づいて製作さ れたI.コパル(I.Kopal)のドキュメンタリー映画『ハ ルハ河』(1940年)9、また、内モンゴルで撮影された『ノ モンハンの記憶』(2009年)などはこのパターンに属 すると思われる。三つ目のパターンは、芸術家の想像 力によって、歴史的記憶を構築するということである。

文学作品や、芸術映画などはこのパターンに当てはま るといえるだろう。マスメディアの中でも、新聞と雑 誌は広い読者を対象に伝達するための刊行物として重 要な役割をはたしていると思われる。一方で、新聞や 雑誌と並んで、映画などのマスメディアや文学作品の 果たしている役割も見落とすことはできないだろう。

 中国において、「ノモンハン戦争」の記憶は日中戦 争のような国民的記憶にはなっていないが、ドキュメ ンタリー映画は「ノモンハン戦争」の記憶を表す重要 な手段として、ある程度「反日プロパガンダ映画」に

包摂され、内モンゴル人の戦争の記憶を補充する役割 を果たしていると考えられる。中国内モンゴルにおい て、ドキュメンタリー映画を通じて「ノモンハン戦争」

の出来事を写実主義的に表現しようとしているのは事 実である。

 そこで、本論文では、ノモンハンに関する小説、映 画など過去の表象をあらわす文化的存在に着目し、ま た、記憶の媒体=形ともなる記念物などに焦点をあて、

現在にいたるまでのノモンハン戦争の表象がモンゴル と内モンゴルにおいて、また、それぞれの異なる時代 においてどのように存在し、機能する記憶となってい るかを深く立ち入って論じていきたい。

1.集合的記憶について

 1.1.集合的記憶の概念とその展開

 集合的記憶の概念はフランスの社会学者であるモー リス・アルヴァックス(Maurice Halbwachs)(1877-1945)

が初めて提示し、現在まで、人類学、歴史学など広範 な学問分野に導入されてきた。

 彼は、個人の記憶の社会との関係を強調し、社会が 記憶形成に与える影響を論じている。アルヴァックス によると、「個人的なの記憶は集合的なものであって、

周りの多くの人々から刺激を受けており、接触し続け る。例えそれがわれわれだけが関与した出来事や、わ れわれだけが見た事物にかかわるものであっても、ほ かの人々によって想いおこされるのである。」10  要するに、個人の記憶は「社会的特徴を持つ影響力 の組み合わせ」によって構成されるという。彼は、そ れを「集合的記憶」と定義した11。彼はこのことをさ らに強調して、集合的記憶は社会的集団的に支えられ ているともいう12。つまり、記憶には社会性という特 徴が備わっており、個人的な記憶は集団によって支え られていると同時に、集団に属しているのである。ア ルヴァックス以前の伝統的な心理学者たちは、個人の 生活している社会から切り離された状況の中における 記憶の構造と機能を検討していた。しかし、アルヴァッ クスは伝統的な心理学者の枠込みを乗り超えて、記憶

(4)

を社会的構造の中で検討し、社会的集団の中で、記憶 の現時点での再生産的な特徴を強調している。

 また、空間のイメージと集合的記憶についてアル ヴァックスは次のように述べている。

 空間のイメージは集合的記憶のうちで重要な役 割を演じている。(略)場所は集団の刻印を受け ており、また集団も場所の刻印を受けている。そ れだから集団のあらゆる歩みは空間の用語によっ て表現することができるし、集団の占有する場所 はあらゆる用語の集合にほかならない。この場所 の一々の様相、一々の細部はそれ自体、集団の成 員にしか理解できない意味を持っている。なぜな ら、集団が占める空間の部分はすべて、成員が属 する社会の構造や生活の異なった様相に同じだけ 対応し、少なくともその社会におけるもっとも安 定した部分に対応しているからである13

 言い換えれば、集団によって支えられる集合的記憶 は、集団の成員のコミュニケーションや関わりによっ て成り立つだけではなく、物質的空間によって、保持 され、継承されるのである。ところが、アルヴァック スの集合的記憶研研究は特定の集団(たとえば、家族、

宗教団体など)に留まって、それを文化のカテゴリー までは発展させなかった。

 アルヴァックスのこの議論は戦後長いあいだ忘却さ れるが、九十年代になると再び注目され、再評価され るようになる。冷戦終結を伴う、歴史認識をめぐる論 争の中で、この「記憶のブーム」とも呼ばれる言説が 頻出するようになったのである。

 アルヴァックスの集合的記憶の概念を引き継ぎ、さ らに発展させたのがドイツのエジプト学者であるヤ ン・アスマン(Jan Assmann)である。J.アスマンは「コ ミュニケーション的記憶」と「文化的記憶」という概 念を導入した。

 ヤン・アスマンによると、「コミュニケーショ ン的記憶」は近い過去と関わっており、同世代に

共有されている記憶のことである。それが運び手 に支えられており、時間の経過によって、新しい 記憶に更新される。あるいは、媒介を通じて、「文 化的記憶」に移し変えられるのである。「コミュ ニケーション的記憶」は日常生活の中で循環して いるのに対して、「文化的記憶」は、遠い過去と 関わっており、文化的意味の循環空間である祝日、

祝典、儀式などの行為や、シンボル的な記念物、

顕彰記念行為などの形式によって、展示され、具 体化されるのである14

 「コミュニケーション的記憶」というのは、同 時代の歴史経験を内容とし、日常生活の中で、自 然に生まれた経験談、見聞などの中に現れる生き 生きとした思い出を媒介とする。3世代から4世 代、あるいは80年から100年を時間地平とする。

これに対して、「文化的記憶」というのは、超個 人的、同時代の歴史経験や文書に留まらない各社 会と各時代に固有に再利用されるテキスト、図像、

記念碑、博物館、儀礼などを媒介として、自らの 姿を確立し、継承するのである15

 ヤン・アスマンの議論はアルヴァックスの集合的記 憶概念を継承し、人間の記憶の外的次元、つまり、社 会的、文化的枠込との関わりを問題化している。文化 的記憶は文化の体制=システムを主体とし、超個人的 であり、文化的諸媒体の中で存在している記憶のこと である。

 以上の議論を踏まえて、本稿では、「ノモンハン事件」

を事例に、集合的記憶の形成のプロセスを社会的側面 から分析する。

 1.2.本稿において集合的記憶をどう     捉えるか

 本稿では、記憶を特定の人々の体験に由来するとい うミクロレベルでのものから捉えるより、むしろ、記 憶が社会的に構成されるというマクロレベルでの理解 のもとで考察を進めていく。ノモンハン戦争がモンゴ

(5)

ルと中国内モンゴルのそれぞれにおいて、集合的記憶 を形成する場合、それぞれの社会の文脈において、ま た、それぞれの異なる時代において、異なる形で、解 釈され、構築され、変容しているのは否定できない事 実であろう。一方で、記憶という意識の営みが存在し ている限り、それは我々に浸透し、我々自身の過去の 捉え方にも影響を及ぼす。ここで問題となるのは何が 忘却され、記憶され、語り継がれているのか、また、

それが何の担い手を通じて、形成し、変容しているの か、それが如何に我々を拘束し、躊躇いを生んでいる かといった点である。記憶の保存、循環、流通のため に、メディアが必要だということは疑う余地がないだ ろう。では、そのメディアは何なのか、そして、この メディアの役割、記憶との関わりを改めて考え直す必 要があるだろう。

 ドイツのフランクフルト大学の英文学教授であるア ストリート・エアル(Astrid Erll)は、文学は「集合 的記憶」の媒介であると述べ、文学作品の様式・ジャ ンルが「記憶の場所」であると指摘している。エアル によると、既に形成された文学作品の様式モデルその ものが集合的記憶の課題であり、このような様式(例 えば、長編歴史小説、ノート、伝記など)は文化的記 憶の形成の中で重要な役割を果たしているという16。 文学テキストを媒介として集合的記憶の形成と継承に ついて考察したエアルの研究は、集合的記憶の研究に 重要な示唆を与えたように思われる。

 では、本研究では、どのような記憶を分析するのか。

集合的記憶を分析対象とする場合、必ずしも、一人ひ とりの経験、また歴史学の解釈を問題にするわけでは ない。集合的記憶の形成のプロセスを考える時、特定

の人々の持っている個人的記憶の中から読み取るので はなく、社会的かつ文化的な側面から考える必要があ るだろう。本研究が目指すのは一人ひとりの記憶の中 に共有されている何らかの要素を読み取り、そこから 集合的記憶を導き出していくことではなく、人々の外 に存在する文学作品、メディアや記念物などについて 考察し、集合的記憶の形成のプロセスを検証すること である。

2.中国内モンゴルにおける「ノモンハン戦争」

 の記憶

 2.1.戦後の被害の記憶とノモンハン戦争     への関心の高まり

 2008年3月11日、中国内モンゴル新バルガ左旗(新 巴尔左旗)のノモンハンで発生した爆弾被爆事件は、

人々を改めて70年前勃発した「ノモンハン戦争」に 注目させた。この事件では、16歳のモンゴル族の子供、

阿拉坦查干(アラタンチァガン)が友達と一緒に遊ん でいたところ、ノモンハン戦争で使用され残留してい た爆弾が爆発し、右手の人差し指を失ってしまった。

このような事件は、現在に至るまで何回も発生し、今 なお、ノモンハン周辺の住民に危害を及ぼしていると 言われている。

 内モンゴル新バルガ左旗旅行局の担当者によると、

1948年以来、内モンゴル新バルガ左旗において、被 爆事件は13回発生し、3人が死亡、10人が負傷した。

その中で、2008年にはこうした事件が2回発生し、

被害者の阿拉坦查干(アラタンチァガン)は重傷を負っ た。(表1)

1:ノモンハン戦争の残留爆弾に被爆した被害者17

被爆者の名前 事件の経緯 結果

1948 ナムスライ 草原で拾った爆弾に被爆した 負傷

1960 アユーチ 柴を刈っているところ、爆弾に被爆した 死亡

1982 イラート 草原で拾った爆弾に被爆した 負傷

1988 ウネンバト 拾ったペンのような形の爆弾に被爆した 負傷

・・・ ・・・ ・・・ ・・・

(6)

 中国内モンゴルにおいて、1978年の改革開放以来、

ノモンハン戦争に関する歴史的研究が始まり、1988 年になってやっとノモンハン戦争を全面的に紹介した 中国最初の著作である『ノモンハン戦争』(李春鵬、

除占江など主編)が吉林文史出版社から出版された。

2005年8月内モンゴルのハイラル市において、「ノモ ンハン戦争研究所」が設置され、学術シンポジウムも 行われている18。「ノモンハン戦争研究所」はハルビ ン社会科学院に所属し、中国における「ノモンハン戦 争」研究における中心的な役割を果たしていると言え る。研究所の所長である除占江によると、ノモンハン 戦争は、中国において長い間社会的に忘却・抑圧され てきたが、これには歴史的・政治的原因があるのだと いう。つまり、ノモンハン戦争の当事者はソ連・モン ゴル側と日本・満州側であるため、中国共産党からす れば「ノモンハン戦争」は宣伝しにくい(厄介な)存 在であり、それゆえに「ノモンハン戦争」に関する研 究が当初から禁じられてきたというのである。とはい え、ノモンハン戦争の内モンゴル社会にもたらした影 響は現在にも及んでいる。特に、満州国のモンゴル族 兵士の記憶は、新しい課題として残っているのである。

そのため、これらの課題を含めて、「ノモンハン戦争 研究所」では、「ノモンハン戦争全史」というプロジェ クトが計画されているという。それから、ノモンハン 戦争に関する論文・記事が中国の『内モンゴル師範大 学学報』、『フルンボイル学院学報』、『内モンゴル社会 科学』などの雑誌に掲載されるようになっている。代 表的な論文として、趙暁剛(Zhao Xiaogang)、劉続(Liu Xu)の「ノモンハン事件に対する考察」(『内モンゴ ル師範大学学報』、2009.1)、ブ・ムンヘダライの「70 年前の砲煙―ノモンハン戦場考察」(『フルンボイル学 院学報』、2009.8)、楊彦君(Yang Yanjun)の「第一回 ノモンハン戦争学術シンポジウムについて」(『内モン ゴル社会科学』、2006.3)などが挙げられる。これら の考察はほとんど、「ノモンハン戦争」の発生の契機 と動因、当時の国際事情や戦略的意義、捕虜と損失な どについて簡単に論じているが、いずれにせよ、中国 におけるノモンハン戦争への関心はある程度高まって

いると思われる。

 2.2.ノモンハン戦争の「公式的記憶」と    「私的記憶」

  2.2.1.「公式的記憶」の英雄の語り

 中国において、ノモンハン戦争は20世紀における 世界戦争史の大きな転換点であるとい見方が定着して いる。つまり、日本はノモンハン戦争の敗北によって

「北進」から「南進」へと戦略の転換を迫られたとい う見方である。さらに、この戦争はソ蒙連軍の勝利で 終わったが、フルンボイル地域に活躍していた「ダグー ル諜報グループ」あるいは「ホルンボイル諜報グルー プ」の業績は盛大に讃えられている。このような背景 のもとで、中国内モンゴルにおいて、ノモンハン戦争 を題材にしたドキュメンタリー映画が幾つか作られる ようになった。

 中国における「英雄の語り」とは、ベトナムの「公 式的記憶」の英雄の語りと妙に似ている。要するに、

ここでいう英雄とは、「道徳的という意味も含めて完 全で完璧、堅忍不屈で、機略に富み、共産党に絶対 的な忠誠を示す人物19」だとされている。この最も典 型的な例が、ダグール民族の女性である小云(Xiao Wen)とハスバートル、郭文通(Guo Wentong)、エル デンビリグ、ゴンゴフ、スヘバートルなどをドキュメ ンタリー風に描いた『探究と発見― 十重二十重に取 込まれたスパイの影』(2010年)(探索与发现 ― 谍影 重重)である。この映画では、秘密諜報員である小云

(Xiao Wen)とエルデンビリグ、彼の14歳の娘である 馬如西(マルシ)の三人が、至るところに危機が潜ん でいるにもかかわらず、戦争と革命の最後の勝利のた めに日本側の動向について密かに調べたことをソ連側 に引き渡したという物語が描かれている。

 小云(Xiao Yun)は日本側の動向について密かに調 べたことをソ連側に送るために、病気に倒れた自分の 娘を捨てた。結局、娘は治療の機会を失ったため、死 んでしまったという物語がこの映画で描かれている。

彼女の選択はいわゆる「世の中のすべての母親が理解

(7)

しがたい選択」であるといえよう。しかし、映画の中 では、戦争の最後の勝利の知らせを聞き、涙を押さ えながら歓喜する彼女の姿は、「完璧な英雄」として 描かれている(図1)。彼女は平凡な女にすぎないが、

彼女が日本の帝国主義的侵略に徹底的に抵抗したため に、「最も英雄的な母親」であるように賞賛されている。

一方では、小云が「革命的英雄主義」の典型として取 り上げられ表象されているが、彼女の貧しくて悲惨な 戦時期の状況や、自分が娘を捨てたことの複雑な悲し みは一切表象されていない。

 また、情報交換の途中で道に迷った末に自決したス ヘバートルについては、「ダグール人として彼は英雄 であり、戦士として彼は自分の理想に背かなかった」

として、彼の「英雄的選択」が讃えられている。「彼 の選択」はまさに「革命のため、勝利のため」のもの であり、小云と同様に典型的な「英雄的選択」として、

少なくとも内モンゴルでは「公式」に打ち出している

「英雄の語り」として記憶され、表象されている。こ れらの人物は歴史上実存した人物であり、スパイ活動 時に逮捕され、敵から重い刑罰を受けても最後まで秘 密情報を売らなかった「革命的英雄」であった。後に、

ダグール民族の英雄の一人である郭文通は、文化大革 命を迎えた中国において逮捕・虐待され、死亡する。「政 治的不正」の名目で虐待・処刑された内モンゴル人は 郭文通だけではない。かつての満州国時代に教育を受 けた者たちや「内モンゴル人民革命党」の党員たちは、

文革大革命時代に大きな被害を受けたのである。

 このように、「民族の存亡が危機に面した時代にお いて、理性を失い狂気じみた日本の侵略者」に対して、

英雄的に戦った彼らの業績が讃えられ、ノモンハン戦 争の勝利の背景にある「ダグール諜報グループ」の「消 すことができない」業績が強調されている。彼らはソ 連側(コミンテルン)の秘密諜報員であるからこそ、

中国の民族英雄として賞賛されているのである。とこ ろが、「ノモンハン戦争」の経験者である王海山、ア ユンバト、金永福などの人々は、映画に一切登場しな い。なぜなら、彼らが日本の傀儡国家である「偽満州 国」側に立って戦ったからである。実は、当時の満州 国軍の興安師(師団に相当する)の総兵力は約6,000 人で、日本人顧問と中堅仕官を除いてはそのほとんど が当時の興安南省、熱河省、錦洲省のモンゴル人兵士 および元ダグール人の部隊より組織されていた20。ま た、第10軍管区のウルジン将軍の部隊は約3,000人で、

数少ない日本人の顧問と中堅仕官を除いては、おもに バルガ人とダグール人より構成されていた21。こうし て、一つの歴史的出来事であるノモンハン戦争に参加 した内モンゴル人が、各々の「選択」によって振り分 けられた。戦争経験者の一部は「英雄」として記憶さ れ、讃えられたに対し、一部の経験者は「侵略者の手先」

として忘却され、排除されたのである。このように何 らかの権力装置によって「記憶」が構築され、それに 対応して形づくられる「ノモンハンの記憶」が、ある イデオロギー装置を通じ、当該の集団内部で想起され、

伝承されたのである。小関隆の言葉を借りるなら、共 同体はその内部に雑多な記憶を抱え込んでいるが、当 該の共同体(それは家族でも、地域社会でも、国民国 家でも、文明を共有する結集体でもありうる)の共同 性を有効に保証する過去の認識として広く認識される ものが「正史」である22。彼によると、「公共の記憶」

の傍らには、たいていの場合、公共の記憶たりえない 雑多な記憶が存在する。ノモンハン戦争に関する「ホ ルンボイル諜報グループ」の記憶は、中国社会の全体 において広く認識されているわけではないが、内モン ゴル地域に限ってみると、まさに政治的に動員・利用 されており、「公共の記憶」あるいは「公式的記憶」

図 1 『探究と発見』(2010 年)における小云

(8)

になっている。これに対し、「偽満州国」側に立って戦っ た「内モンゴル人」の記憶は、ヘゲモニーを通じて簒 奪・排除された「対抗的記憶」になる。

 この映画からは、中国において公式に打ち出されて いる戦争の記憶に、いかなる忘却が孕まれているのか を想像できる。その背景には、政治的権力の操作・動 員がある一方で、当事者である内モンゴル人の歴史に 対する認識の不足が存在する。言い換えれば、モンゴ ル人として、自分の歴史と文化に対するマクロレベル での「集合的再構築」が達成されていないのである。

 ドキュメンタリー映画である『ノモンハンの記憶』

(2009)は「公式的記憶」の英雄の語りが強調されるが、

一方では、戦争体験者の証言や「被害者としての内モ ンゴル人」が映画の主題となっている。その中では、

日本の帝国主義者による不正義的侵略戦争が、内モン ゴルのホルンボイル草原にいかに深刻な被害をもたら し、幸せな内モンゴル人の生活を破壊したかが描かれ、

また、それによって人々が離散した物語が描かれてい る。そこには、国家レベルでの「公式的記憶」から家 族レベルでの「個人的記憶」の表象への変遷が見て取 れる。

  2.2.2.映画から見る「私的記憶」と      「表象の変遷」

 ドキュメンタリー映画『ノモンハンの記憶』(2009)

は、70年前のノモンハン戦争が内モンゴル・フルン ボイル草原にもたらした被害をドキュメンタリータッ チで描いた作品である。映画では、満州国軍として服 役していたモンゴル人被害者の語りと戦争体験者の語 りが中心になっている。この作品では、公式的記憶が 強調されているものの、戦争体験者の「私的記憶」が 中心となっており、日本に占領された地域のモンゴル 人の若者たちが「日本侵略者」の強制的徴兵によって 家族や恋人と離ればなれになったという悲劇が描き出 される傾向が見られる。

 特に、第3部「生命の記憶」においては、「あるモ ンゴル人兵士の物語」が一人の老人によって語られて

いる。これは、当時の日本細菌部隊(731部隊)を密 偵した「あるモンゴル人兵士」の物語で、彼は日本軍 に追い詰められるもモンゴル人の遊牧民に助けられた というものである。この兵士は「満州国軍」から脱出 したモンゴル人の一人であり、その後日本の細菌部隊 の秘密を暴露したため、「民族の英雄」として人々に 記憶され、今日まで語り継がれている。

 第4部「牧歌の記憶」においては、エルデェンチョ クトという若者が「ノモンハン戦争」によって恋人と 永遠の別れをしたという悲劇を背景として歌を作り、

後に有名な『牧歌』となったことが描き出されている

(図2)。この物語の主人公はすでに亡くなっているが、

この「ノモンハン戦争」を背景とした『牧歌』はホル ンボイル草原の人々によって歌われ、いわゆる「機能 する記憶」あるいは「文化的記憶」23になっていると いえよう。内モンゴルにおいては、このような「ノモ ンハン戦争」に関する民謡がいくつか存在する。例え ば、「ユェ・メイロン」、フロンボイル地域で歌われて いる「ノモンハン」、「罕达盖河」(ハンダガイ河)な どがあるという。これらの歌謡は、文学作品と同様に

「集合的記憶の媒介24」であると理解してよいだろう。

 確かに、この映画の描き出している物語が「本当に あったのか」、「史実は本当にそうだったのか」といっ た厄介な問題にぶつかるかもしれない。しかし、ここ で問題となっているのは、記憶がオリジナルな経験に どれだけ「忠実であるか」ではなく、むしろこの映画 が「ノモンハン戦争」の記憶をいかに再演し、いかに 産出しているのかということである。つまり、「ノモ

図 2 『ノモンハンの記憶』(2009)より

(9)

ンハン戦争」の記憶が、映画を通じてどのように語ら れてきたのかが重要ある。

 2012年に撮影された映画『ノルジマ(诺日吉玛)』は、

従来の反日プロパガンダ映画と異なった語り口で戦争 の残酷さを描き出し、戦争の中での人間の行為を反省 したのである。ノモンハン戦争を背景としたこの映画 は、中国内モンゴルにおいて製作された作品のなかで 初めて芸術的に完成した反戦映画だと言えよう。映画 では、遊牧民であるノルジマ(诺日吉玛)は、ノモン ハンの戦場で負傷したソ連軍のワシーリー(瓦西里) と日本軍のアサノ(阿萨努)を助け、敵であった二人 の軍人が改めて自分自身と戦争を反省し、最終的には 友人になったという物語が描かれている。この映画で は、日本人もロシア人も被害者であるという視点から、

どんな戦争の中でも被害者しか存在しないのだという 普遍的な思想が描き出されている。マスメディアが根 本から操作されている中国内モンゴルにおいてこのよ うな映画が作られたことには、感銘を受ける。まさに、

このような映画が製作されたのは、中国の改革開放政 策の推進とグローバル化による人々の認識や記憶の語 り方の変遷であるとも言えよう。つまり、改革・開放 政策の推進とグローバル化に伴って、価値観が多様化 しているのである。映画『ノルジマ』のように、家庭 レベルで閉じこめられていた物語が再び重視されると いうことは、従来の隠されていた記憶が改めて社会的 に認識され、自らの文化的意味を持つようなったこと を表している。この映画が公開されることによって、

排除されていた個人的記憶が再び内モンゴル人の集合 的記憶に取り入れられるのである。また、その物語は また、内モンゴル人にノモンハン戦争がどのように想 起され、排除され、忘却され、再構築されているのか を表している。このような記憶は確かに政治的に打ち 出されている「公式的記憶」と少し色合いが異なって おり、従来の「革命英雄的物語」から「個人的被害者 の記憶」を語るという「表象の変遷」を表している。

  2.3.「ノモンハン戦争」をめぐる    「マイナーな記憶」

 内モンゴル社会において、「戦争の記憶」や「記憶 の語り方」は、中国共産党の打ち出している「公式的 記憶」によって操作・表象されている。しかし、グロー バル化に伴う国民国家の揺らぎの中で、制度化された

「歴史的記憶」の傍らに「マイナーな記憶」25が自らそ の姿を現してきている。映画やテレビ番組の映像につ いてはすでに分析したが、この他に文化的に生産され たものとして文学作品が挙げられる。マリタ・スター ケンの指摘したように、「文化的記憶」は、制度化さ れた歴史学的知と絡み合い、またそれと共鳴しながら 存在しているが、ここで問題になるのは誰がそれを規 定しているか、また、「文化的記憶」は何を意味して いるのかということである。モーリス・アルヴァック スによれば、「集合的記憶」は動態的であり、それは「社 会的フレームワーク」によって変容していくものであ る。内モンゴル社会において「ノモンハン戦争」の何 が記憶され何が忘却されるのかは、この「社会的フレー ムワーク」によって規定されるのである。内モンゴル において「社会的フレームワーク」の役割を果たして いるのは、基本的には、主流となっている「社会主義 イデオロギー」であると言えよう。それゆえに、内モ ンゴルにおいて、日本側に立って戦った満州国のモン ゴル人兵士たちの記憶が時に忘却されてしまうのであ る。

 マリタ・スターケンによると、「「文化的記憶」は物 体、イメージ、表象によって産出される。これは、記 憶が受動的に納まるような容器ではなく、むしろ記憶 のテクノロジーである。また、それを通じて記憶が共 有され、生産され、意味を与えるようなオブジェでも ある26。」「ノモンハン戦争」を主題にした内モンゴル の文学作品としては、孟松林(Meng Songlin)、石映 照(Shi Yingzhao)の『ノモンハン戦争』(2010年)の他 に、2012年に出版された鄭健(Zheng Jian)の長編小 説『中国のノモンハン:1939(中国诺门罕:1939)』(2012 年)、ア・チョロンバートル(A. CilaGunbaGatur)の短

(10)

編小説『戦利品(Dayin-u olja)』(2008年)などが挙 げられる。長編小説『中国のノモンハン:1939(中国 诺门罕:1939)』(2012年)では、「ノモンハン戦争」

の歴史的背景にはじまり、戦争指導者たちの心理描写 と会話の場面、そして戦争の終結までの物語が描き出 されている。しかし、この小説が描き出しているノモ ンハンのイメージは、基本的には、中国共産党によっ て操作されている「公式的記憶」と結びついていると 思われる27。小説の登場人物のほとんどが歴史上実存 した人物であるが、字句の間に、日本の指導者に対す る批判や嘲笑が現れている28。小説においては、戦争 の残酷さや悲惨な戦闘の場面はほとんど描写されてい ない。むしろ、石井四郎の細菌戦を描いた場面は小説 のかなりの部分を占めている。そこでは、細菌武器が 石井四郎によっていかに開発され、そしていかにノモ ンハン戦争で用いられたかについて、非常に詳しく描 写されている。ところか、短編小説『戦利品(Dayin-u olja)』の打ち出しているノモンハンの記憶は、中国共 産党の打ち出している「公式的記憶」と異なり、「対 抗的記憶」となっている。

 短編小説『戦利品(Dayin-u olja)』は、21世紀初頭 のある夏、内モンゴルのバヤル、モンゴルのガンバト、

日本のマツツキの三人の若者がノモンハンで戦争の遺 物を集めあるく途中で、元満州国軍のヨンドン老人と 出会い、戦争の真実を聞くという物語である。小説の中 では、暴力に満ちた悲惨な戦闘の場面や、満州国軍の中 のモンゴル人兵士の日本士官に対する不満と恨み、戦 争の残虐さがヨンドン老人の語りによって再現されて いく。小説では、主人公のヨンドン老人がほとんど全滅 したノモンハンの戦場から生きて帰るために、深夜の ハルハ河の川べりで、人間の内臓を動物の内臓と誤っ て食べてしまったという場面が描かれている。

 生きていれば金のどんぶり(altan ayaG-a)か ら聖水を飲めるという祖先の話は本当だったのだ な、と誰も聞いていない独り言を言いながら、お 腹いっぱいになったので、「こんなおいしいものっ てどんな動物の内臓だろう」と思いふと周りを見

たら、「あ、仏様」と驚いて、どうしてよいかわ からなくなってしまいました。俺の傍にはいかな る動物もいませんでした。ただ人間だけ!それも 下半身がなくなった人間の身体があったのです!

近くには、他にも死体が横たわっているのがあち らこちらに見えます。軍服と顔の特徴からみれば、

モンゴル軍のようでした。爆弾にやられたせいで、

上半身から内臓と赤い肉のかたまりが一緒になっ て飛び出しています。人間の肉だ!それもモンゴ ル同胞の肉を…。2本の指を使って吐き出そうと 思いましたが、悲しみに沈んだ涙のほかにはなに も吐き出せませんでした29

 結局、物語の話し手であるヨンドン老人が長年収集 してきたロシア製のピストルと日本人女性の絵が描か れたタバコのケースなどの戦争遺物が、それぞれ聞き 手であるガンバトの祖父とマツツキの祖父の遺品で あったことが、この小説の一番奇妙な部分である。小 説は、戦争の真実を理解したマツツキが、タバコのケー スの中に残っていた自分の祖父の遺書を涙を流しなが ら読み終えたところで、ラストを迎える。この小説は、

内モンゴルの社会主義イデオロギーの下で書かれたも のであるが、そこで描き出されているノモンハンの記 憶は、中国共産党の打ち出している「公式的記憶」と は全く異質のものであり、むしろそれと「対抗する記 憶」となっているのである。なぜなら、小説の主人公 であるヨンドン老人が元満州国のモンゴル人兵士であ るからである。彼の語りだしたノモンハンの記憶は、

「革命英雄主義」の典型としての「公式的記憶」では なく、むしろ、中国において長い間忘却されてきた「満 州国」のモンゴル人兵士の記憶である。それは制度化 された「歴史的記憶」ではなく、むしろ悲しみと恨み に満ちた「個人的記憶」であり、「マイナーな記憶」

でもある。「語りとは、我々が自己や自己を取り巻く 世界を理解するための内容を、物語化したもの、ない しはその文章である。語り手は、個人や集団、もしく はヘゲモニー・階級ということすらある30。」小説『戦 利品』におけるヨンドン老人の語りは確かに個人的な

(11)

ものであるが、聞き手は三人の若者だけではなく、小 説の読者も含まれている。それゆえに、彼の記憶は閉 じ込められた「個人的記憶」あるいは「コミュニケー ション的記憶」から「文化的記憶」に昇華したといえ よう。なぜなら、この小説の打ち出している記憶は、

公認された歴史的言説という領域の外部に存在してい るものの、文化的意味に染め上げられているからであ る31。特に、小説におけるヨンドンの悲しみと恨みに 満ちた複雑な心理描写が、時代の渦に翻弄されたモン ゴル人の悲劇的歴史が象徴的に描き出している。

 「ノモンハン戦争」をめぐる「マイナーな記憶」と しては、短編小説『戦利品(Dayin-u olja)』を除いては、

「ノモンハン戦争」に参加した満州国軍の回想録や体 験談があげられる。例えば、「ノモンハン戦争」の経 験者であるホスバヤル(郝斯巴雅尔)、金永福、フフ バートル(胡克巴特尔)、ジョジョールジャブ(正珠 儿扎布)などの回想録においても、「ノモンハン戦争」

の出来事が書かれている。フフバートル(胡克巴特尔) は、「ノモンハン戦争の体験記」の中で、「ノモンハン 戦争」の発生の原因、戦争の状況、当時の満州国の政 治・軍事的状況などについて、非常に詳しく記述して いる。そこで、戦争の発生の原因について、次のよう に書いている。「ソ連は戦略的に中国を支援し、日本 の兵力を分散し、日本を牽制することが合理的である。

(なぜなら)社会主義国家において、帝国主義と侵略 戦争に対抗し、民族の解放戦争を支援することは正義 であるからだ32。」つまり、「ノモンハン戦争」はソ連 が中国を支援し、日本を牽制するために発生したとい うのが彼の主張である。

 2.4.愛国主義教育と「ノモンハンの記憶」

 中国の「愛国主義」教育は、1990年代の江沢民政 権以来強化されてきた教育政策である。1994年、中 国共産党の教育政策における重要文献として位置づけ られる 「愛国主義教育実施要綱」 が制定され、この要 綱に沿って「愛国主義」教育が実施されている。「愛 国主義」は全国民を対象とするものであるが、その重

点が青少年の教育に置かれており、具体的には書籍、

テレビ、映画、音楽、技術、革命烈士記念館・遺跡の 建築、国旗掲揚式などの手段を用いて行われている。

 中国において、「ノモンハン戦争」の記憶を想起す る装置としては、文芸、マスコミ、「ノモンハン戦争 陳列館」などがある。1994年に「ノモンハン戦争陳 列館」が内モンゴル自治区の「愛国主義」教育基地と して確定されて以来、新バルガ左旗政府のノモンハン 戦争遺跡と観光地への建設が拡大され、その「愛国主 義」教育基地としての役割がますます注目されるよう になっている。この観光地は、現在フルンボイル地域 のいろいろ学校と連絡をとり、毎年特定の祝日を選ん で陳列館の見学、社会実践活動を行い、こうした活動 を通じて「愛国主義」教育を行っている。そこでは、

観光地のスタッフによる解説と館内資料の展示を通じ て学生たちに「ノモンハン戦争」の史実を認識させる 一方で、日本帝国主義者、侵略者と戦うために戦争 の犠牲となった人々の功績を忘れてはいけないとい うことを唱えながら、戦争の想起を促している。こ のような「愛国主義」教育を提唱しているのは、グロー バル化に伴う社会情勢の急速な変化の中で、中国共 産党の正統性と愛国主義、集団主義、社会主義の思 想教育を強化し、民族団結の教育に基づいたナショ ナル・アイデンティティーの保持を一層強化する必 要が生じているからであろう。

 2.5.戦跡と語り

   ―ノモンハン戦争陳列館のあり方

 集合的記憶の形成と伝承、変容は、「公式」に打ち 出しているイデオロギー装置によって形作られる場 合、時間的契機だけではなく空間的契機によっても把 握することができる。中国内モンゴルに建てられた「ノ モンハン戦争陳列館」は、ノモンハンの記憶を空間的 に捉える手がかりとなっている。

 中国内モンゴル自治区新バルガ左旗のアモゴラン

(阿木古郎)に建てられたノモンハン戦争陳列館は、

内モンゴルにおける「ノモンハン戦争の記憶」を想起

(12)

させる重要な装置となっている。2007年には、内モ ンゴル自治区シンバルゴ左旗でモンハン戦争陳列館が 再び設立され、館内に3,000以上の戦争遺物が収蔵さ れている。4階建ての施設である陳列館は、1階から 4階までそれぞれ、陳列館、砂で作った戦場の模型、

映像ホール、観閲台で構成されている(図3)。陳 列館は、ノモンハン戦争の主要な戦場に面するよう にして建てられている。史跡地域の全用地が2.97㎢

に及ぶこのノモンハン戦争遺跡は、現在は観光地と なっている33

 この陳列館は一つの観光地に過ぎないが、これを 空間的に見ると、その文化的意味と役割を見落とす ことはできないだろう。ノモンハン戦争が終結して から、すでに70年以上の歳月が流れている。戦争 の当事者が亡くなることにより、戦争の記憶の継承 と形成はいわゆる「コミュニケーション的記憶」か ら「文化的記憶意」にシフトしつつある。アスマン によると、「文化的記憶」は、超個人的、同時代の歴 史経験や文書に留まらない各社会と各時代に固有に再 利用されるテキスト、図像、記念碑、博物館、儀礼な どを媒介として、自らの姿を確立し、継承する34。こ のような前提に立ち、内モンゴル社会で物象化された 空間=「ノモンハン戦争の陳列館」の「空間編成」が、

ノモンハン戦争の記憶とどのように関係しているの か、それが「ノモンハンの記憶」をいかに保存し、い かに継承しようとしているのかを考察しなければなら ない。

 ノモンハン戦争陳列館に収蔵されている3,000以上 の戦争遺物の性質から見ると、それらの遺物には経済 的価値があるわけではなく、その文化的価値こそが収 蔵の目的であると考えられる。陳列館に収蔵されて

いる3,000以上の戦争遺物が陳列館に収蔵されること

によって、その文化的、歴史的意味も獲得され、「文 化的記憶」の一部になるはずである。このような文化 的価値のある遺物がどのようにコード化され、どのよ うに解釈されることによって、人々が現在から過去を 連想するのか、言い換えれば、現在という時点におい て再構築される過去の出来事を「想起」し「意味づけ

る」のかということが問題である。この意味で、陳列 館は限れた空間の中で、ばらばらであったものを一定 の順番で配列し、名前をつけ、展示し、解釈を与える ことによって、人々と過去の出来事を共有し、現在の 状況で過去の出来事を想起させ、意味づけをさせるの である。また、観客が陳列館に収蔵されている遺物を 見ることによって、遺物の背景にあるモンゴル人、日 本人、ロシア人を想起し、その結果、戦争によって被 害を受けた無数の人々を想起するのである。

 陳列館の機能から見ると、記憶の保存・伝承、文化 的記憶の再生産という役割を果たしている。関嘉寛は、

記憶の伝承という次元を考える場合、時間的把握がイ デオロギー的理解に陥りがちであると指摘し、その上 で記憶の空間的位相をとらえようとしている。彼によ ると、博物館には四つの機能がある。それは、「収集・

保存」「調査・研究」「展示」「教育」である。これら の機能は、「モノ」「ヒト」「バ」すなわち「博物館資 料」「博物館学芸員」「博物館施設」という三つの要素 によって担われている35。「ノモンハン戦争の陳列館」

はその空間的編成と機能においてイデオロギー装置の 性格を持っているが、記憶伝承の可能性をも提示して いる。要するに、「ノモンハン戦争陳列館」の設立か ら収蔵物の配列の法則までもが、中国のイデオロギー 的時間・空間認識の下で意味づけられているが、それ は記憶の伝承の側面においても重要な役割を果たして いるのである。

 マリタ・スターケンによると、モニュメントとメモ リアルの間には根本的な違いがある。「モニュメント

図 3 ノモンハン戦争陳列館 筆者撮影

(13)

は、ほとんどの場合、勝利を強調して記念するのに対 して、メモリアルは、ある特定の価値観の体系のた めに犠牲となった生命や生活を表している36。」また、

スターケンはアーサー・ダントの議論を用いて、モニュ メントとメモリアルの間の違いについて論じている。

「われわれは、何かをつねに覚えておくためにモニュ メントを造り、何かをけっして忘れないようにするた めにメモリアルを造るのだ37。」ここで、「何かを覚え ておくために造られたもの」と「何かを決して忘れな いようにするために造られたもの」は、よく取り替え 可能な用語として用いられている。しかし、両者には、

目的において明確な違いがあると思われる。この意味 でいえば、「ノモンハン戦争陳列館」は「ベトナム戦 争記念碑」と同じようにモニュメントではなく、メモ リアルに属している。なぜなら、「ノモンハン戦争陳 列館」の名前から見ても、それが「勝利記念館」では なく「陳列館」になっているからである。また、この 建造物が何かを覚えておくために造られたものではな く、何かを決して忘れないようにするために造られた ものである。「ノモンハン戦争陳列館」は、密封され た古い城のトーチカの形状をしており、正門が被爆さ れて四散したような形になっている(図3)。「ノモン ハン陳列館」がこのようなデザインで建てられたのに は、モンゴルの「ハルハ河戦争勝利博物館」のように、

他の建造物と何よりも異なっている点を表していると 思われる。この陳列館は「ハルハ河戦争勝利博物館」

と違って、英雄的行為や勝利を喚起するものではなく、

むしろ、それを拒否する性質を持っている。このよう な形状は何らかの栄誉や勝利を象徴するのではなく、

深い内省や反省を誘い込むような性質を持っている。

なぜなら、「ノモンハン戦争」の戦争当事者が日本と ソ連であり、主な戦場が中国の国境であるのに、中国 がその戦争に関与することが出来なかったということ は、様々なことについて反省させるからである。まず、

なぜこのような出来事が起こったのか。そして、その 出来事が自国の領地で発生したにもかかわらず、中国 の力が届かなかったのはなぜか。こうした反省点が、

「ノモンハン戦争」の出来事を中国においてある意味

で悲しみに満ちた「厄介な存在」としており、それを 記念することを阻んでいるのである。したがって、「ノ モンハン戦争陳列館」が建てられたことの背景には、

何かを顕彰し、記憶する意図よりも、何かを決して忘 れてはいけないという意志が存在するのである。その 密封された古い城のトーチカの形がまさに「ノモンハ ン戦争」の文化的シンボルとして、われわれ「中華民 族」がその戦争を絶対忘れてはいけない、また、その ような出来事が再び起こさないように永遠に「自分の 領地」を守らなければならないという決心を象徴して いるのではないか。

 陳列館の正門に向かうようにして、一つの大きな「平 和の鐘」が掛けられている(図4)。この「平和の鐘」

は四つの四角柱で支えら、格柱の高さが約3メートル ある。この四つの柱がそれぞれ、日本、モンゴル、ロ シアと中国を象徴し、表面に、それぞれの国の代表的 な図案が刻まれている。

 鐘の表面には、モンゴル語と中国語で「ノモンハン 戦争」の出来事が簡単に紹介されており、さらには次 のように記されている。「ノモンハン戦争の70周年を 契機に、この「平和の鐘」を掛け、今後の警鐘とする。

歴史を教訓とし、中華民族の平和を守る意志を明示す る。鐘を永遠に鳴らし、平和の永久に存在することを 願う!」、と。「平和の鐘」と陳列館の正門がこのよう なデザインで造られたのは、この場所を訪ねる人々 に「過去の教訓を忘れるな」という印象を与えるため である。「ノモンハン戦争陳列館」と「平和の鐘」は、

内モンゴルにおけるノモンハン戦争の最初のメモリア

図 4 平和の鐘 筆者撮影

(14)

ルであるが、それが発しているメッセージに政治的な 主張が含まれているものの、戦争を否定する「平和主 義的な作品」になっているのは確かであろう。

3.モンゴルにおける「ハルハ河戦争」の記憶  3.1.文学作品と映画から見る

   「ハルハ河戦争」のイメージ

 モンゴルにおいては、「戦争」の記憶はほとんど「ハ ルハ河戦争」によって形成される。なぜなら、この戦 争はモンゴルにとって、国民国家を形成していく中で、

非常に大きな役割を果たしたためだ。「ハルハ河戦争」

は、いわば、外敵の侵略から、祖国の自由と独立を守 り、建国神話と結びつく「総力戦」だったからである。

 そのため、モンゴルでは、「ハルハ河戦争」をテー マにした文学作品や映画が数多く作られている。モン ゴルの戦争文学はほとんどが「ハルハ河戦争」を主題 としている。モンゴル人は文学を通じて、その戦争の 意味、人々の本質、苦しみ、祖国の独立などを描き 出し、解釈してきた。ここで、特に注目しなければ ならないのは「ハルハ河戦争」の勝利30周年、40周 年と50周年を契機に出版された「ハルハ河の勇敢な 兄弟たち」(Khalkh golyn dai&hin akh dUU nar)(1969、

1979、1989)である。この三冊の本はモンゴルとソ連 の作家同盟がモンゴル語とロシア語で、それぞれウラ ンバートルとモスクワで出版した作品集である(1979 年はモンゴル語のみ)。その中には、「ハルハ河戦争」

に関するほとんどの文学作品が収録されている。表で まとめると次の通りである。

 1969年に出版された『ハルハ河の勇敢な兄弟たち』

の中の代表的な作品としては、戦場で命を落とした無

名戦士の家族の悲哀を抒情的に描いたデンデビーン・

プレブドルジ(D.PUrevdorj)の詩「青い木綿の夏服」

(KhOkh daalimban terleg)、戦死した英雄的な戦士たち の記念碑建立をめぐる後世の人たちの思いを歌い上げ たシャラビーン・スレンジャブ($h.$Urenjav)の詩「90 人の英雄のバラード」(Yeren baataryn duuli)などの作 品を挙げることができるだろう。この二つの作品はモ ンゴルで最も権威のある文学賞である「国家賞」を受 賞した39という。

 ハルハ河戦争に関する芸術映画はモンゴル人民共 和国のシャグダリーン・ゴンゴル(1912〜1992)の 英 雄 的 な 戦 い を 描 い た「 最 初 の 授 業(Ankhdugaar khi&heelまたはAnkhny khi&heel)」からはじまり、「恐 れ を 知 ら ぬ 愛 国 者(AimshiggUi ekh oron&h)」(1942 年制作)、「国境で起こった出来事(Khil deer garsan khereg)」「 敵 軍 の 兵 士 た ち よ 聞 き た ま え(Daisany tsergUUdee sonsotsgoo)」(1971年制作)、「日食の年(Nar khirtsen jil)」(1974年制作)、「ゴビ砂漠と興安嶺を超 えて(`ovi khyangand tulaldsan ni)」(1981年制作)、「宣 戦布告なき戦争の序章(ZarlaagUi dainy orshil)」(1984 年制作)、「戦闘の委託(Baildaany daalgavar)」などを 取り上げられるだろう40

 「最初の授業(Ankhdugaar khi&heel)」はハルハ河戦 争から遡ること3年前の1936年1月28日、モンゴル に侵入してきた日本軍に対して、モンゴル人民共和国 の戦士であるゴンゴル(`ongor)が「日本の侍」と 英雄的に戦い、一人で9人を殺し、1人を国境から追 い払ったという物語が描き出されている。この映画は ハルハ河戦争が終わってから1年後の1940年に制作 されたので、戦士の姿が強く美化され、「超人的な英 雄主義」、プロパガンダの要素に満ちて、迫真性を欠

2:「ハルハ河の勇敢な兄弟たち」(1969、1979、1989)に収録された文学作品38

叙事詩 短編小説 中編小説 長編小説(一部) 回想記 エッセー

1969 25 6 7+1 1 1(ソ連) 9(ソ連) 1

1979 14 5 5 1 1 23 5

1989 30+7 4+1 4 1 - 3+19 -

注:表の中で(+)と表示しているのは(モンゴルの作品)+(ソ連の作品)という意味である

(15)

いている。特に、上官に褒められた主人公のゴンゴル がにっこりほほえみながら「モンゴル革命の傑出した 英雄スヘバートル、貴方たちの負けぬ人民革命万歳」

というシーンが、「祖国、自由のために戦った国民」

という制作意図を表している。「恐れを知らぬ愛国者

(AimshiggUi ekh oron&h)」は1942に制作された「祖国」

を題材にした芸術映画である。映画では素朴な階級意 識に満ちたシャグダル老人と彼の甥であるセンゲー と、敵との「戦い」が描かれている。

 これらの作品は全て社会主義イデオロギーを背景と して作られたものなので、ベトナムや中国におけるよ うに、いわゆる「革命英雄主義」が称賛され、大きな

「国民的記憶」、あるいは「公式的記憶」として、国民 に継承されるとともに表象されてきた。しかし、1990 年代の民主化運動はモンゴルの政治、経済、社会だけ でなく、文芸の分野でも大きな変化をもたらした。そ れによって、「残忍なサムライ」という旧来の日本人 の表象が変化していく。その一つの事例として、リン チンギンー・ガンバト(R.`anbat)の小説「生きてゆ かなければ」を取り上げることができるだろう。ここ からは、旧社会主義イデオロギーのもとで作られた代 表的な文学作品を分析し、国民的なものとして持ち出 されてきた「公式的記憶」と、民主化後の語り方の作 法の転換を考察していく。

  3.1.1.文芸を通じた「公式的記憶」と      英雄の語り

 社会主義時代のモンゴルにおいては、「公式的記憶」

は、文芸の分野においても、基本的には社会主義イデ オロギーの手法に基づいて「革命的英雄主義」を描く ものとして創り出されていた。典型的な例が「90人 の英雄のバラード」(1962年)と「青い木綿の夏服」

(1969年)であろう。

 シャラビーン・スレンジャブの叙事詩「90人の英 雄のバラード」はハルハ河戦争で戦死した勇敢な戦士 たちを後世の人々が永遠に思い出していくために記念 碑を建てたこと、また、繰り返しその記念碑を訪れに 来る人々の数が減らなかったことが称賛されている。

 作品から引いてみると、

Khalkh golyn khOvOOnd Yeren baatar tOrjee Khalkh golyn khOvOOnd Yeren baatar tOr noirsjee Khan tengert tsoroij Yeren khOshOO gereltjee KhOshOO tiish o&hikh Ardyn zam balarsangUi41

ハルハ河の川べりに 90人の英雄が生まれた ハルハ河の川べりに 90人の英雄が永眠した 青空に向けて

90の記念碑が光っている 記念碑に向けて行く 国民の道が消えなかった

 このように、ハルハ河の川べりで90人もの勇敢な 戦士が祖国のために、英雄的に戦って死んでしまった が、彼らの功績を後世の人々が永久に記憶していくこ と、その記念碑に行く道はいつまでも消えないという ことが描き出されている。この90名の戦士たちはモ ンゴル国民の中で、正義と自由の思想に貫かれたヒロ イズムの象徴として定着し、語り継がれたのである。

これもまた国民的に作り出されている英雄の語りであ り、「勝利者」の記憶である。

 デンデビーン・プレブドルジの叙事詩「青い木綿の 夏服」はハルハ河戦争で命を落とした平凡な戦士の家 族の悲哀を描いているが、肉親を失った悲哀よりも、

祖国を敵の攻撃から守って、全国民に幸せをもたらし たことが最も大切であるということが描き出されてい る。いわゆる社会主義国家に現れる、国家の利益=「集 団主義」はいつでも個人の利益=「個人主義」よりも 価値があるというイデオロギーがここで働いている。

表 4:民主化当時のモンゴルで建てられた「ハルハ河戦争」に関する記念物 47 記念碑の名称 建築年 建てられた場所 特徴 三国軍戦没将兵の合同記念碑 1989 年 ハルハ河戦地 高さ約 1 メートル、金属性の三角すいのよう な形になっており、碑には日本語、ロシア語、 モンゴル語で「平和で仲良く共存しよう」と いう言葉が刻まれている 慰霊塔 1989 年 ハルハ河東岸 15 センチ角のステンレスで作られ、重さは 40キロ、高さは2.5メートルある、「慰霊塔」に は「諸士の英魂は語りつがれ日本・モンゴル 両国は

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