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下村孝太郎と新島襄との往復書簡 : 1881年〜1890 年

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著者 森 一郎

雑誌名 新島研究

号 109

ページ 134‑161

発行年 2018‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000253

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下村孝太郎と新島襄との往復書簡

−1881 年〜1890 年−

森 一 郎

1.はじめに

下村孝太郎1)は所謂熊本バンドの一人で、熊本洋学校でL. L. Janesから究 理学(物理学)や舎密学(化学)、キリスト教を学んだ。そして1876(明治

9)年には同志社英学校に入学した。時に16歳であった。1879(明治12)

年の同志社英学校の第一回卒業生の一人として知られている。同期生で同志 社の教員となった山崎為徳が1881(明治14)年11月に逝去した後、下村は 新島襄の呼びかけに応じて同志社英学校で物理・化学及び数学の教師となっ た。この下村に対して、新島は同志社の教育において欠けているサイエンス の教育を担うことを望んだ。このことは新島の1888(明治21)年8月下村 宛の書簡2)に見られるが、これに先立つ1884(明治17)年9月の新島宛下 村の英文書簡には新島が「アメリカで下村が学ぶ為のサイエンス教育の場を 捜すことを約束」3)していることが書かれている。これらのことから新島・

下村両者の書簡から同志社に於ける自然科学教育の発端がひも解けることが わかった。

新島襄発信の和文書簡・英文書簡は『新島襄全集』の3・4巻及び6巻で 読むことが出来る。また新島襄宛和文書簡は9巻で読むことができる。一方 新島襄宛英文書簡は『新島襄全集』には含まれておらず、目に触れにくいも のであったが、『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』(同志社大学人文科学研究 所、2007年)で読めるようになった。この新島襄宛英文書簡集には米国に 留学中の下村の新島宛英文書簡が12通、留学期間の前後に4通の合計16通 の英文書簡が含まれている。またハリス理化学校に10万ドルもの寄付をし たJ. N. Harrisの書簡が7通、またJ. N. Harrisの寄付に関係する人物として

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D. W. LearnedやD. C. Greeneの書簡も含まれており、寄附に至った経緯な どが読み取れた4)。一方、新島がこの時期下村に送った書簡はほぼ『新島襄 全集』に掲載されていると思われる。そこで新島−下村の往復書簡を発信年 月日の順に並べその内容をみた。同志社大学設立の為の募金活動のこと、同 志社における科学教育のこと、J. N. Harrisの寄付金のこと等、多岐にわた る初期の同志社英学校の興味ある内容が見られた。

2.新島襄−下村孝太郎往復書簡一覧

資料Ⅰは新島の下村宛書簡、下村の新島宛書簡双方を示す一覧表で、発信 された期日順に並べ便宜上通し番号を付した。上記5つの文献(『新島襄全 集』3・4・6・9巻、『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』)にふくまれる両人の すべての書簡である。新島発信のものは12通、内5通は英文である。下村 発信のものは18通、内16通は英文である。1886年1月25日から1889年8 月15日は下村が米国滞在中の書簡にあたる。この前後の書簡も内容は関連 しており、下村宛新島書簡・新島宛下村書簡すべて確認できるものを掲載し た。一覧表には発信の年月日、英文・和文の区別、出典は『新島襄全集』の 巻数とページ及び『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』のページ、書簡の発信 地、備考欄の「4/15書簡を受けて」等とあるものは相手の4月15日の発信 書簡を見ての返信であると書簡中で確認できるものを示した。この頃の日米 間の郵便事情は、投簡後おおよそ1カ月で相手側に届いている。

3.下村孝太郎略歴

資料Ⅱは下村の略歴である。『追悼集Ⅵ』5)の下村自身の文章から作成し た。熊本洋学校を卒業して同志社にやってきたいわゆる熊本バンドの一人で あり、1879年6月29日同志社英学校余科の最初の卒業生の一人である。卒 業時のグループ写真には写っていないが、卒業式前に父を失い、母と6人の 妹を扶養することになったようである。当初、岸和田の時習舎で英語教授を していたが、1880年11月には熊本に戻り私立英学校を創設し英語の教師を

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していたようである。また、熊本伝道にも従事していた。それを示すのが下 村宛の新島からの短い書簡2通①②である。熊本での伝道の手当のことや、

伝道の難しいことなどが述べられている。1881年には同志社英学校の物理

・化学及び数学の教員となった後、1885年から1889年までWorcester Poly- technic Instituteで3年間、続いてJohns Hopkins Universityで1年間の合計4 年間のアメリカ留学、そして学業半ばではあるがハリス理化学校開設の為に 帰国した。帰国後はハリス理化学校に設立時から従事した。1895年にはハ リス理化学校の運営、特に5万ドルの基金の扱いのことで当時の社長小崎弘 道と衝突し、理化学校を辞した。その後下村は「余は化学教育の事業を以て 終身の事業と心得、此校〔ハリス理化学校〕の発達に尽瘁せしが、五年経過 するに実施上同志社理事と意見合はず遂に職を辞せり。(略)余の如き内地 に於ての学歴貧弱なるものには到底満足なる位置を得らるゝの見込みなしと 考へ、化学工業界に身を投じ新事業を創立せんと企てたり」6)の考えで工業 界に身を転じ数々の業績を残した(〔 〕は引用者。以下、同)。この間にも 同志社の理事や社長にも就任し、新島の創立した同志社の為に報いた。

4.書簡の内容について

新島、下村二人の書簡の量はかなり多く、内容を紹介するが長文の書簡が 多く、1通の書簡に多岐にわたる内容が含まれていた。書簡の内容の紹介の 方法は、書簡に述べられている共通する内容・意見をまとめ、それらの内容 を、項目ごとに抜き出して示した。英文の和訳は筆者によるもの。書簡中の 文は「 」で示し、その後ろの( )内に新島発信か、下村発信かを示し、

書簡一覧表の通し番号、新島は○内数字、下村は□内数字を、最後に発信年 月日を示した。

a.新島が下村に期待する

新島の下村宛書簡にある

「小生ハ我カ校ニ於テサイヨンスノ振ハサルヲ痛嘆シ候間、貴兄ニシテ

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充分御用意アリ其ノ方ヲ負担シ賜ハヽ必ラス我カ校ノ面目ヲ一変スルニ 至ラン、願クハ今ノ本校ヲシテ充分コルレシノ位置ニ進メ度、政府ノ高 等中学ニモ一歩ヲ譲サヽル様ニ致シ度候」 (新島発⑫ 1888. 8. 11)

は新島が同志社で不充分な科学教育を下村に期待した有名な書簡だが、これ より4年前の下村の新島宛書簡には

「あなたは若い時から私の恩人で、アメリカに行く時Scientific School に私の場所を捜すと約束した。その時から、私が西洋に行く考えは5年 間心を占めていた。あなたがアメリカにいることを聞いて、その道が開 けることを願っている。その為には以下のどちらかの条件です。1.ア メリカに行って良いScientific Schoolに場所を見つける。2.自力で科 学者になるための実験装置と充分な化学薬品が備え付けられている。」

(下村発 1884. 9. 25)

この書簡の発信は1884年で内容からその5年前、すなわち1879年下村が 同志社英学校余科を卒業した年、新島は下村の為に米国でScientific School の適当な場所を探すと約束しており、すでにその頃には同志社には科学教育 の必要性を感じていたことがわかる。新島が下村に同志社の科学教育を託す ことを訴えている1888年の書簡よりも10年近く前にその意思のあったこと がわかる。1884年4月に新島が二回目の欧米旅行7)に出かけたことから、下 村は自分の米国留学が現実味を帯びてきて期待している。

「Dr. Greeneがやってきて私の留学に関心を持っており、道が開ける為 に彼が出来ることは何でもすると約束してくれた。・・・Dr. Greeneの 特別な友人であるDr. Fuller〔Mass.のWorcester Country Free Institute of Industrial Scienceの校長〕に手紙を書いてくれた。」

(下村発 1885. 2. 14)

Greeneの紹介で学長のFullerとWorcester Country Free Institute of Indus-

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trial Scienceの存在を知りそこへの入学が決まる。下村の研究で知られてい る島尾永康氏は下村について「同志社からウースター工科大学へは不連続な 大飛躍であるが、どのようにして道が開けたかは不明である」8)とあるが、

Greeneがその橋渡しであったことがわかる。

「兼テ聞申候ニハウ−ストルノ専門校〔Worcester Polytechnic Institute〕

ニハゼルマンヲ大事トスト思候事ニ御坐候、・・・然バ願クハウースト ルノ専門校ヘ入校シ度存候、尤モ初学ヨリ始メ度心組ニ御坐候、・・・

先生ニハ何時頃御帰朝ニ相成申スヤ、米国ニテ拝顔可仕存候カ、此事出 来可申ヤ、願クハ此事ヲ果シ度存候9)、・・・同志社ノ事ハ御安心なし 被下度候、私此度ノ洋行ニ付キ決シテ大ナル変動ハ之ナキ事ニ御坐候、

先日モ一寸申上候通リゲーンス氏ハ好キ教師ニ御坐候、私ノ代人ヲ致サ ルヘク候」 (下村発 1885. 7. 13)

下村不在中の科学の授業の代わりに宣教師Gaines10)(自然科学を教えた)

が来ている。この発信の日付の時は新島のアメリカ滞在中で、この後ボスト ンで下村は新島に面会している。

b.下村の留守宅の面倒

下村は熊本の母や妹達の面倒をみなければならなかったが、新島は同志社 の科学教育の為に下村に米国への留学を個人的に依頼した。そのために下村 が米国留学で日本に不在時、家族のことは面倒をみると約束し、その姿勢が 随所に見られる。

「私モ八月上旬ニハ熊本ヲ立退キ可申候・・・留守中家族ニマデ御恵金 なし被下トノ思召、何トモ御礼申上方ナキ事ニ御坐候、一時拝領可仕 候、御洪恩ノ限リ何ノ世ニカハ忘レ申サン神前ニ謝候事ニ御坐候、然ル 上ハ正敷米国留学ノ都合出来タル者ト心得申候、・・・先生ノ御恩ニ依 リ安心シテ古〔故〕郷ヲ立退キ申ス事出来可申候、愚母諸共ニ御書面ヲ 拝見シ落涙仕候事ニ御坐候、寔ニ先生ハ我父ナリト思候、・・・先生万

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国ニ御遊ニ相成リ御入費モ多クアラセラレシニ、月々五円マデモ御恵下 サルトハ実ニ恐レ入リタル次第ニ御坐候、心苦キ事ナレドモ一時拝領致 可申候、何時カ亦報恩ノ時モ是アルヘク存候」(下村発 1885. 7. 13)

「扨コヽニ困ツタ事ノ出来申候、他ニ非ス、小生預置候金子ノ一条ニ御 坐候、・・・預リ証書ニハ去年五月一日ヨリ来年五月一日迄ノ約束ニ致 しアル事ナレバ如何ニ利足ノ割合ヲ減スルニセヨ来年即チ今年十九年六 月迄ハ世話なしト思居候事ニ御坐候、実ニ数千里外ノ異国ニ有リ如何ト モ詮方ナク神ニ祈ルヨリ外ナキ事ニ御坐候・・・生モ斯ル事情ナレバ可 成二ケ年ニテ業ヲ終リ帰国可仕存候」 (下村発 1886. 1. 25)

「あなたがあらゆる点で私の恩人以上であると告白しなければなりませ ん。あなたに対する私の率直で厚かましく家族への援助のお願いに対し て、対応していただいたことに感謝です。・・・母親からの手紙により ますと、月に1ドル余分に援助してもらえ非常に助かっています。」

(下村発 1886. 5. 1)

下村自身も新島を頼りにしていたことが読み取れる。一方下村は家族を見 なければの強い責任感からか、逐次留守宅の状況を新島に報告し、新島はそ の状況に対応している。

「幸ニ浮田和民兄ニも已ニ御来京同志社之一教員ト被成候間、貴兄之御 留守中ハ小生ト和民君両人ニ而乍不及御母堂様に諸事御相談仕可申候 間、左様御心得余り此事ニハ御配慮無之両人ニ御任セ被下度奉希候」

(新島発⑧ 1886. 6. 29)

浮田和民の先妻すえ、後妻五女は下村の妹であり、浮田も同志社の教員と なり、新島に協力し下村の不在中の家族の面倒をみている。

新島の下村に対する心遣いに感謝の念の気持ちが表れている。終生新島に 恩義を感じていた理由がこれらの文面に表れている。

(8)

c

.下村の米国での学び

下村の留学は学校からではなく、私費留学であり、また米国で学ぶ学校を 決めた経緯が先に述べたが、Worcesterへの入学はDr. Greeneの勧めと紹介 であることが解る。

「Dr. Greeneが私の家にやってきて私の留学について非常に関心を持っ ていることを話した。そして出来ることはすべてすると約束した。・・

・Dr. Greeneの特別な友人であるDr. Fuller〔Mass.のWorcester Country Free Institute of Industrial Scienceの校長〕に手紙を書いてくれた。」

(下村発 1885. 2. 14)

「然ル上ハ正敷米国留学ノ都合出来タル者ト心得申候、旅費ノ所ハ既ニ 湯浅吉郎君カ其母ヨリ内々受ラレタル金子三四百円有ル中ヨリ私ニ二百 円丈無利足ニテ貸シ申ス様ニ相成候間之ヲ借用致可申候、二百円有レバ 今日ノ旅費ハ足リ可申ト存候、其上デビス、グリーンノ両師ハ早キヨリ 愈々打立ノ日ニ相成申サハ幾分カ寄附セント兼テ申サレタル事モ御坐候 へば、衣服等凡テ打立ノ仕度ハ之ニテ足レリト存候」

(下村発 1885. 7. 13)

留学の旅費は湯浅からの借用で賄っており、GreeneやJ. D. Davisも何が しかの援助をしていることがわかる。下村が言うように同志社英学校からで はなく私費の留学である。

「兼テハゼルマン語ヲ始メ度心組ニ御坐候処、時迫リ打立ノ仕度ニ時日 ヲ要スル事ナレバ此儘ノ有様ニ打立可申候、兼テ聞申候ニハウーストル ノ専門校ニハゼルマンヲ大事トスト思候事ニ御坐候、スチンブソン氏モ ウーストルニ在リ、又フロール先生ハ彼校ノ校長トカヤ、皆グリーン先 生カ知人ト聞及候、然バ願クハウーストルノ専門校ヘ入校シ度存候、尤 モ初学ヨリ始メ度心組ニ御坐候」 (下村発 1885. 7. 13)

(9)

下村は化学おそらく有機化学に関心があり、ドイツは有機化学の先進国で 出発前にはドイツ語を学びたいとの意思はあり、留学前からドイツに関心を 持っていてドイツを大事にすると聞く Worcester Polytechnic Instituteに入り たいと述べている。

「Dr. Fullerは親切で専門学校で私が卒業するように考えている。この学 校での卒業は高く評価されていて、一般に仕事で高い地位が得られる。

・・・Dr. Fullerは私が必要とするものは何でも私の為に準備すると言 っている。学校での学業は、他の為の時間は残されていない。他の技術 学校で通常4年かかるものを3年で完了するように進めている。・・・

Dr. Fullerは私を主要なUniversityやCollegeに教授法を見る為に連れて 行ってくれるだろう。」 (下村発 1886. 5. 1)

Greeneに紹介されたFullerは下村の勉学に対して非常に便宜を図ってお

り、4年のコースを3年で終えるように協力したようである。従って学業の 為に時間にゆとりはなく下村が他のことにあたることにFullerは消極的で あったようだ。

「私はあと2・3年留まりたいが、今は帰るべき時だと思っている。しば らくは日本にいるが、ふたたびアメリカに行くかドイツに行きたい。こ れは将来のことで、今は目標〔同志社を大学にするためにはお金が必要 で、しっかりした基金を準備すること〕に向かってスタートした。・・

・6月28日私は学位をもらいます。それから数ヶ月間は募金活動に動 きます。」 (下村発 1888. 4. 15)

「私がもう1年米国に滞在することの母の同意が得られたことに感謝し ます。・・・Johns Hopkins Universityに滞在する準備が出来ることは非 常にうれしい。この学校のRemsen教授より優れた化学の先生を見つけ ることはできません。この大学(University)は、他のすべての大学

(College)の中で、特に化学の分野で他を抜きん出ています。Wocester

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の教育法は私には満足したものではなかった。私はこの大学(Univer- sity)で進んだ有機化学を学べます。ここで一年滞在し日本に帰りま す。」(下村発 1888. 11. 11)

Worcesterの入学後3年で学位を得た後、さらに延長して著名なRemsen

教授のいるJohns Hopkins Univ. に入学し数か月、Johns Hopkins Univ. の教 育内容に満足感を得ている。本心は1年以上Johns Hopkins Univ. で学びた いが、同志社の為に帰らなければならない。しかし、将来には再度留学した い思いは持っている。更にPolytechnic Inst. とJohns Hopkins Univ.との教育 の在り方に違いを感じており、同志社の理科教育には後者Johns Hopkins

Univ.のものを導入すべきだと考えている。

d.同志社のあり方

同志社のあり方、向かうべき方向について新島と下村の師弟間で忌憚のな い意見の交換が述べられている。下村も恩師新島に遠慮することなく自分の 意見を述べていることが伝わってくる。

「貴兄之信仰上之リツチ・エクスピリヨンス云々ニ付、小生ニ於而深く 神ニ奉謝候、貴兄ニも御存之通同志社之精神ハ此真理ニ基キ候間、貴兄 之此実験あるハ他日小生輩之同志社隆興ニ向ヒ大ニ望を起す所ニ候得 は、学術と宗教ハ飽まても併行して他日之御用意あらん事を切望仕候」

(新島発⑧ 1886. 6. 29)

新島はキリスト教を基本として学問とキリスト教が併行して進むことを願 っている。下村はキリスト教に対してその理解は深く、同志社で化学の教師 をしていたが、聖書講義もしている。元総長の牧野虎次も習って思い出を語 っている11)

「アメリカン・ボードに対する我々の心構えは、同志社の誕生はそれに 非常に大きく負うているから誠実で友好的であるべきだ。我々はそれに

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対して子としての義務がある。・・・しかし我々若い団体は成長してお り、独立したがっている。成長した人には、ナースのそれ以上世話は必 要でない。どうして独立できないのか、自身を扱う基金を持つべきなの である。・・・あなたの申し出のボードから独立して何人かの富裕な紳 士への働きかけは我々の非常な助けになる。もし誰かが10万ドルを超 えて与えてくれるなら、疑うことなく彼の名前で〔collegeを〕呼ぶこ とが出来る。・・・しかし、キリスト教主義の学校であることは大切で 我々の礎石である。・・・あなたの計画を進めようとする限りは米国に 留まってください。」 (新島発⑩ 1888. 6. 4)

新島はアメリカン・ボードの庇護から脱皮し成長したいものと考えてい る。そのためには会衆派に限らず、その垣根を越えて広く維持資金を得る必 要がある。しかしキリスト教主義はしっかりと押さえている。

「我々の目的は現在の同志社を第1級のCollege、可能ならばUniversity に発展させることだ。・・・会衆派同志社の維持基金でなく、もし

Universityを発展させるに十分な金銭を与える人が見つかったら、あな

たはどうしますか。・・・同志社と私の関係について高度なクリスチャ ン教育は私にとって大事なことです。・・・もし私が学校に役立つなら ば喜んで能力の限り働きます。そのためには同志社に実験室と化学薬品 と実験装置を得るための充当金を持つことは絶対に必要です。」

(下村発 1888. 9. 16)

下村もまた新島と同様に会衆派にこだわるのでなく、大学の為の資金を広 く求めることを考えている。

「我々が望んでいることは相当な基金と学識ある教師たちを確実にする ことだ。我々は課程を広げたい、1年の予科、4年の課程そしてその上 に更に2年である。決定はしていないが、それが我々の望みである。」

(新島発⑭ 1888. 10. 12)

(12)

新島は4年の大学の課程に更に2年の大学院に相当する過程も考えていた ことがわかる。

「我々の将来の大学(University)は古典的な教育が絶大な勢力をふるっ ている米国の大学(College)を手本とするのですか。勿論このことに 関して限定した考えではないが、非常に重要なことであると思います。

大学(University)の始まりは、時折その発展の将来を決めてしまう。

・・・私はJohns Hopkinsにおける大学(College)の過程の一覧表に関 心を持っています。コースに分類しています。二つの重要な事実に注目 します。古典文学、歴史学−政治学、近代言語のグループは数学の勉学 除外。そしてどのグループにも研究所(laboratory)課程がある。この 配置は通常の大学(College)課程から重大な変更で確かに熟考に値す る。同志社大学(University)の文学部に研究所課程を含めることは望 ましい計画と思われる。」 (下村発 1888. 11. 11)

下村は自分の経験から大学の組織内容についても意見を述べている。

「神学コースの評判を引き上げる為の何か考えがありますか。なまくら な学生が神学に携わるようだが、修養の不足を断ち切るため必要単位に ヘブライ語とギリシャ語の導入は基準を引き上げます。・・・学校がク リスチャンの学校なら神学部が最も重要なもののひとつです。・・・湯 浅(吉郎)氏はヘブライ語の勉強に打ち込んでおり、それを教えるのに 適切な人物で、彼は同志社に戻りたいと考えている。」

(下村発 1888. 11. 25)

神学部のレベルアップの為にヘブライ語・ギリシャ語を必要単位にする提 案をしている。キリスト教に基本を置く同志社に於いては、神学が非常に大 切と考えている。ヘブライ語については湯浅吉郎が学んでいて教師に推薦し ている。

(13)

「我々は包容力大きく、異なるセクトの学生も同じように受け入れるこ とである。我々の望みと願いはキリスト教大学(University)にするこ とで包容力は大きく、宗派心の強い人も合同させる。すべての異なった 宗派から学生を受け入れ、彼等を等しい立場で待遇する。・・・同志社 の名前は国で広く知られている。それでその名前を取り去ることはでき ない。YaleやHarverdのように団体(Company)の名前を保持し、何 氏哲学大学、何氏文科大学、何氏法科大学等のように寄付者の名前を残 す、それでも同志社の一般的管理は受ける。」

(新島発⑰ 1888. 11. 30)

寄付者の名前を残す大学(College)も可能とし、維持資金獲得のために は何氏文科大学、何氏法科大学等で同志社大学(University)の構成の核と なる。そして包容力の大きな大学で異なるセクトの学生も同じように受け入 れ、等しい立場で待遇する。色々なタイプの学生を受け入れ成長させる新島 の「深山大沢生龍蛇」の考えが出ている。

「〔J. N. Harrisからの寄付金〕15,000ドルはScience Hall建設の為に使わ れます。・・・我々は出来る限り化学的分野を進歩させようとします。

直ちに十分でないかもしれません。来年帰って来た時Science Hallは未 だ完成していないだろう。それを完成させるためにあなたに調整しても らいたい。」 (新島発⑱ 1888. 12. 24)

一方、現実的な面でハリスの寄付によるハリス理化学校の計画についても 述べている。下村もまた会衆派に限らない基金で同志社を第一級のCollege、

可能ならばUniversityに発展させると考えている。多額の資金を与える人が 見つかった場合どうするかに対し、新島は名前のついたCollegeを残すと述 べている。下村はJohns Hopkins Univ.の課程が参考になると報告している。

e.寄付金獲得運動

「合間に、私はすぐに募金の仕事に取り掛かりますが、夏で富裕な人は

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ほとんど不在で9月まで待たねばなりません。・・・ニューヨークに行 って滞在し、何人かの富裕な人と会見できるようにやってみます。・・

・Dr. Fullerは計画については知りませんが、賛成はしないでしょう。

もしことが成功したならば我が同志社はUniverstyではないがCollege の第一段階の地位を得るだろう。とにかく我々は称号を授与する力を持 つことを期待すべきである。」 (下村発 1888. 7. 22)

「願クハ今ノ本校ヲシテ充分コルレシノ位置ニ進メ度、政府ノ高等中学 ニモ一歩ヲ譲サヽル様ニ致シ度候、其レニ付ケテハ必ラス多分ノ資本ナ カルベカラス、資本ヲ募ラントナレハ米国ニ如クモノナシ、兼テ貴兄ノ 御企ノ如クアメリカンボールドトハ全クインディペンデントリーニ又プ ライウェトリーニ或ル金穴家ニツキ日本ノ現況ヲ陳ヘ、大学ノ日本ニ甚 必要ナル事ヲ説、其ノ感情ヲ惹キ起シ賜ハヽ事或ハ成就スベシ、貴兄願 クハ此ノ大任ヲ御負担アリ賜ヘ」 (新島発⑫ 1888. 8. 11)

新島は米国での同志社大学設立の為の募金活動を下村に託しているが、下 村は学業の合間に募金活動をしている。しかしWorcesterでは4年の課程を 3年に短縮しており時間的には苦しい状況だった。動きやすい時期は目標と する人は休暇で不在で面会が出来なかった。一方Fullerの賛成が得られな いだろうという予測は、下村にとってはつらいことだろうと思われる。

「寄付者は会衆派の人であるべきとの必要性はありません。しかし会衆 派である為に助けてもらえないことはあるが、我々の目的は包容力大き く、異なるセクトの学生も同じように受け入れることである。」

(新島発⑰ 1888. 11. 30)

しかし、下村は更に会衆派という宗派の枠を超えて活動することは難しい 問題に遭遇していたようである。

「あなたが言うようにどの宗派にも属しない地盤から資金を得ることが

(15)

最良です。同志社を宗派経営の大学(College)に変えることは良くな い。過日私はJ. Rockefeller氏に会いましたが、何がしかのことをする のを断りました。・・・彼は強力なバプテスト派であります。2・3日 内にフィラデルフィアのMorris氏に会うつもりです。」

(下村発 1888. 12. 31)

「Rockefeller氏はおよそ300万ドルをバプティスト大学設立の為に出し ました。彼は良いことをしたと言わざるを得ない。現在私が思うに彼は 此の国の最高の富裕者です。しかし彼に日本の為にお願いしたとき、自 分は合衆国の仕事に圧倒されており、更に外国の国の為にすることは出 来ないと。」 (下村発 1889. 3. 19)

バプテスト派のRockefellerにも面会し、断られている。宗派の違いの壁 にあたって苦戦していることが解る。下村の帰国の近い時期に新島は

「貴兄ニ今八九月カ一ケ年御滞米相願ひ、例之大学之為資本募集之労を 願ひ度との動議なり 右動議ニ付宣教師方ニハ不同意を抱き居候様子ナ ルモ、敢て抵抗する程ニハ無之候」 (新島発㉓ 1889. 4. 12)

新島は下村が帰国を延ばしてでも募金活動をして貰いたいとの動議を出し ている。これに宣教師団から同意を得られないものの、下村に募金活動を続 けてもらいたい気持ちが表れている。健康の不安を抱えた新島は何とか早く にと、焦りのようなものが伝わってくる。それに対して下村は、

「資金の為に組織的に懇願する目的で、次の年留まることは不得策だと あなたに伝えます。Dr. Fullerはこの計画に極度に反対しました。・・

・すべてのことを考え私は同志社の為に今この国を去るべきとの結論に なった。・・・あなたの最近の手紙での計画を実行すれば我々はMr.

Harrisを失うという危険にさらされる。」 (下村発 1889. 5. 20)

(16)

この時点ではHarris氏からの科学教育の為の10万ドルに増額された寄付 を下村は知っているが、新島が発信した時は10万ドルの額を新島はまだ知 らない12)。Harris(会衆派)の10万ドルの寄付が確定してからはHarrisを 失う事を恐れて米国での募金活動をやめて、下村は予定の線で帰国すること になる。

f.アメリカン・ボード(会衆派)と他宗派

「募金の為のアピールにアメリカを訪問することを考えていた。我々の 特別な行動にはアメリカン・ボードからの認可を得なければならない。

・・・実行しようとしたが、私の健康の為にBerry医師が強く反対し た。ミッションはアメリカのいくつかの機関に5万ドルの訴えを送るこ とに同意した。・・・アメリカン・ボードに対する我々の心構えは、同 志社の誕生はそれに非常に大きく負おうているから誠実で友好的である べきだ。子としての義務がある。・・・しかし我々若い団体は成長して おり、独立したがっている。成長した人にはナースのそれ以上の世話は 必要でない。どうして独立できないのか、自身を管理する基金を持つべ きなのである。」 (新島発⑩ 1888. 6. 4)

新島はアメリカン・ボードから派遣されている準宣教師であるから特別な 動き(訪米など)をする時にはアメリカン・ボードからの許可を得なければ ならなかった。同志社の誕生はアメリカン・ボードに支えられ実現したが、

その成長と共にアメリカン・ボードの支配から独立したがっている。アメリ カン・ボードと対立するわけではないが、世話にならずに進めてゆきたい。

「私の計画で一つの大きな困難は教派の問題にある。バプテスト派は会 衆派の仕事には何もしてくれない。聖公会は『我々とは違う』という。

・・・Dr. Clarkとの相談で、同志社に対して私的な紳士からの非常に 多額の寄付は、学校とアメリカン・ボードの関係に何がしかの不安を引 き起こすだろう。このことは疑うことはできない。」

(下村発 1888. 9. 16)

(17)

「『大学設立の主旨』の翻訳を終えて会衆派教会の新聞に載せてもらいま した。Dr. ClarkとDr. Greeneは教会から基金を求めることに強く反対 している。彼等に反することは得策だとは思わない。」

(下村発 1889. 2. 3)

下村はClarkやGreeneに相談した中で、会衆派の枠を越えて募金を得る

ことは、アメリカン・ボードと同志社の間に何がしか問題が生じるとの説明 を受け、自分も間違いのないことだと感じているようである。

g.新島の健康

「1年前からひどい病気で昨夏は北海道で休養していたが、Hardy氏の 死は心や頭に悲しいもので、好転した健康が逆戻りした。でも同志社の 為には職務についている。・・・募金の為のアピールにアメリカを訪問 することを考えていた。我々の特別な行動にはアメリカン・ボードから の認可を得なければならない。実行しようとしたが、私の健康の為に

Berry医師が強く反対した。」 (新島発⑩ 1888. 6. 4)

「兼テ企テ居ル事業ノ未タ好果ヲ結バサルニ、吾ノ如ク多病ニシテ一年 ノ半分ヨハ病ヲ養ヒ居リテ東奔西走我カ事業ニ従事シ得サルハ、兼テ屈 スマジ撓ムマジトノ精神モ何ニカ少シク寥々ノ感ナキ能ハス、乍然大高 氏の、なんのその岩をも徹ふす桑の弓なる句に励マサレ、又殊ニ天父ノ 慰ヲ受ケ、身ハ縦令病魔ニ侵サレオルトモ百折不撓成サザレハ不止ノ覚 悟ヲ以テ、本校ノ為前途ノ策ヲ立ツヘク候間貴兄モ少シク御心安クアリ 賜ヘ、却説前状ニモ逐一申上タル如ク、小生ニハ一月一日已来心臓病ニ カヽリ居リ候故、彼ノ米国行ノ事モ遅々決シ兼居、旁貴書ニ対スル回答 モ延引致シ、又病ヲ侵シテモ行クベシト申立テタレハ、教員会中ノ一大 議論トナリ、殊ニ医師ベルリー氏ナトハ大ニ反対セラレ、又病モアマリ 宜シカラサル所ヨリ小生ノ企モ暫時ハ水泡ニ属シタリ、・・・不肖ナカ ラモ天父若シ許シ賜ハヽ今暫クハ此ノ世ニアリテ主ノ御国皇張ノ為臣僕 ノ分ヲ竭サント存シ居候間、貴兄モ何卒小生ノ為ニ御祈祷アレ」

(18)

(新島発⑫ 1888. 8. 11)

新島は常に健康に不安を抱いている。その為、残された時間に後が無いと 感じているのか、大学の募金活動に悲壮な思いで取り組んでおり、いつ死ん でもおかしくないと焦りすら見える。下村の帰国に際し、8・9カ月延ばし て募金運動してほしいとの動議は、焦りが伝わってくる。

「神があなたによって始められる大きな第一歩を完成させるために、主 が地上におけるあなたをもう少し長く守るように。」

(下村発 1888. 12. 31)

下村の気持ちは新島の命が一日でも延びるようにと祈って返信している。

h.下村の教育論

折に触れて下村は同志社の将来の姿勢についても述べており、大学のある べき姿を述べている。

「神学コースの評判を引き上げる為の何か考えがありますか。なまくら な学生が神学に携わるようだが、修養の不足を断ち切るため必要単位に ヘブライ語とギリシャ語の導入は基準を引き上げます。・・・学校がク リスチャンの学校なら神学部が最も重要なもののひとつです。」

(下村発 1888. 11. 25)

キリスト教を基本とする同志社にとって、神学部は最も大切な学部である との認識を示している。Johns Hopkins Univ. で半年ほど学んだ後の書簡で下 村の考える大学のあり方を述べている。

「私の専門は化学である。絶え間なく自分の進歩を切望している。・・

・ドイツは化学の進んだところで、将来にはドイツに行きたい。私が同 志社に戻り教鞭をとるなら化学を教えたい。そして最良と思える講義、

(19)

授業時間そして実験作業の指導の自由がほしい。最良の科学的原理に基

礎を置くRemsen教授の教育方法を行う。・・・世界の指導的な大学

(University)のすべてで科学的トレーニングは広く行われている要素 で、日本での教化を進歩させることの最も効果ある方法である。Uni-

versityとCollegeの仕事を可能な限り合わせることが教育的にも経済的

にも良いことである。Johns Hopkinsが求めている方法である。化学、

生物、物理、ギリシャ語そしてセム語系言語は最も有能な人々によって 最も効果的な方法で教えられている。大学の評判はこれら4つの学部に よっている。・・・米国の化学で最も名高いRemsen教授はじめ3人の 化学の先生がいてこの人たちが教えている。・・・初心者を教えるのに 程度の低い教師を使って多方面に委託することは大きな誤りである。人 が科学を学び始める時は最も重要な時であり、彼の進む将来の道筋は、

その科学を最初に教えた人の影響によって形成される。CollegeとUni-

versityが協力的にあることの有利な点で、人を機械に変えるのを防ぐ

唯一の方法である。・・・東京帝国大学の卒業生は人というより一層機 械的であって、人物と呼ばれるような人はあのような場所からは決して 出てこない。・・・ドイツは知能的な機械に於いて豊かだが人物に於い て貧しい。米国は浅はかさと功利主義で、Johns Hopkinsは両者を調和 ある方法で結合し問題を解決した。・・・大学(University)の価値は 建築物によるのでなく、ただ教師と機構によるのである。・・・言いた いことを言いましたが、『同志社大学』は先行の『同志社英学校』に重 きを置くのでなく、根から幹が生ずるように脱皮するものでなければな らない。あなたの個人的な影響を負うている同志社の特質を受け継ぐこ とがそのように育つことである。」 (下村発 1888. 12. 31)

下村の思いは大学では何でも教えられるという何でも屋ではなく、化学を 専門に最良の方法で教えたい。Remsenの科学的原理に基礎を置く教育法を 踏襲し、Johns Hopkins Universityを参考にする。初心者にこそ最高の教師が 当たるべきで、科学を学び始める時こそ最も重要で、その人の道筋を決めて しまう。大学の教育は知識のみに偏重する機械のような人間でなく、いわゆ

(20)

る「人物」を創るものでなければならない。大学の価値は建築物によるので なくただ教師と機構によるのである。「同志社大学」は先行の「同志社英学 校」に重きを置くのでなく、根から幹が生ずるように脱皮するものでなけれ ばならない。

「〔同志社での〕私の教育を考慮するなら、今が誤った考えを訂正する時 だろう。3年半の私の米国留学中に博学な知識を得たと思っているだろ う。物理学、化学、数学、倫理学そしてすべての種類を教えられるだろ うと。しかし私は最初から化学の教授のみができる。化学は分野が広く 2人の教授が必要だろう。勿論間に合わせに物理を教えるのに異論はな いが、結局物理の教授は必要である。同志社の今の状態は科学の教師の 奨励はほとんどない。・・・我が国は政治経済学者、政治家、哲学者で あふれており、自然科学は追い払われている。」

(下村発 1889. 3. 19)

また当時の日本の教育は文系偏重で自然科学が認められていない。また、

便利屋で何でも教える教師がいて、成果の上がらないことを述べている。

i.J. N. Harris

との関係

新島はHarrisからの寄付金の下村への報告は

「アメリカン・ボードは基金として5万ドルを与えてくれました。最近 私的個人(J. N. Harris)から更に1万ドルを得ました。」

(新島発⑭ 1888. 10. 12)

「Science Hallの為に1万5千ドルを一人の友人(Harris)から受け取り ました。」 (新島発⑱ 1888. 12. 24)

と1888年10月・12月であって、これに対して下村の新島宛の書簡では

(21)

「私はMr. Learnedの紹介状が来たらMr. Harrisに面会したい。」

(下村発 1889. 2. 3)

とあり、1889年2月3日の直後あたりに、下村はLearnedの紹介紹介状を

持ってHarrisを訪問している。その時の思い出話を下村は聖書講義の時間

に話したようで、牧野虎次が直接聞いている13)。「同氏の特志寄附に對し、

特に御禮を述べ度、且御指導を受ける必要もあって、自分は態々往訪した。

同氏は初對面とも思えぬ親しみを以て、未知の外人たる自分を歡待してくだ された。食後に廣やかなる庭内を散歩するとて、奥まった後庭に案内せられ た。豈に圖らん、そこに五つの墓碑が建てられていたのを見出し、自分は怪 しんで同氏を見上げた。同氏が頷き乍ら『この墓碑は孰れも我が愛兒の爲に 建てたものだ。彼等は不幸にして先立ち逝いた。彼等の敎育費にと用意した ものを、その儘、同志社に寄付し、日本學生の科學敎育に供する次第だ。君 等は我が微志にそうて盡力して貰いたい。』と語れる同氏の眼には滴に光る ものが見えた」。また波多野培根も同様の内容をメモに残している14)

このようにHarrisは下村に寄附を決意した理由を述べている。一方Harris の寄付がまだ10万ドルに増加されたことを知らない新島は多方面での募金 活動を希望しつつ、

「レールネト氏之友人ハルリス氏之イントレストハ御ツナキ被下度候、

貴兄之御目的ニ関し大切ト奉存候」 (新島発㉓ 1889. 4. 12)

とHarrisにも気を配っているが、下村からは

「Mr. Harrisによってすでに与えられた10万ドルが同志社でどのように 使われるかを見られている。・・・Dr. Greeneの手紙には『あなたの考 えている計画は大学の期待に非常に大きな損害を与えることになるだろ う。なぜなら来るべき年に援助をしてくれる正にその人の気に障るから であるというのが私の意見である』と。」 (下村発 1889. 5. 11)

(22)

この頃から「考えている計画」とは他に向かって募金運動を継続すること で、このことはHarrisの同志社に対する関心を減少させ、得られるものも 得られなくなるとGreeneからの指摘を受け、下村は新島の要請する募金運 動の問題点を指摘し、きっぱり断っている。

「Mr. HarrisがScience Hall建設の1万ドルの他装置の為の8千ドルを与 えてくれるニュースはすでに伝わっているでしょう。彼はすでに総額 10万ドルを同志社に与えました。そして更に与える可能性があること を知っています。私が次の年留まることはMr. Harrisの同志社に対する 関心を減少させる。・・・私の人格(personality)がMr. Harrisの素晴 らしい贈物と関係があることはちっとも知らなかった。あなたの最近の 手紙での計画を実行すれば、我々はMr. Harrisを失うという危険にさら される。」 (下村発 1889. 5. 20)

下村は自分の人格がHarrisの心を大きく動かしていることに気づき、更

にHarrisが10万ドルを超えてそれ以上に与えられる可能性を認識してい

た。一方下村のこの意見を聞いた新島は言い訳をしている。

「あなたの決定に心から賛成します。あなたが米国に留まることを考え

ている時Mr. Harrisの10万ドルは知らなかった。我々がこのような大

きな贈物を受け取って、更に資金を増加させる活動によってMr. Harris の気持ちを害しないようにむしろ注意しなければならない。」

(新島発㉖ 1889. 7. 5)

新島は下村からの報告を知って自分の考えを修正している。ここに長く生 きられる可能性が減少している新島の焦りを感じる。下村はHarrisから非 常なる信頼を受けていたようで、その関係から、下村はHarrisに対して、

Rockefellerがバプテストの大学設立の為に300万ドルの寄付をしたとの話を

話題にしているに違いない。10万ドルを超える寄附の可能性も考えられる。

このことに関して、ハリス理化学校に学んだ加藤与五郎は、後年の講演の中

(23)

でDavisの話として「私の記憶に依るとその頃同志社では揉めた事があっ た。私は斯う言う事に關しては疎い人間であります。疎い例を申し上げます と『ゴマのハイ』と言う意味さえ數年間解らなかった程です。從ってその眞 相も確實には申し上げられませんが、どうも何か日米の先生間に問題があっ たらしい。騒動卽ち日米の融和を缺くという事から、理化學校には重大な事 が起こりました。それは次の如き大事であります。ハリス先生の遺書の中 に、百萬ドル寄附されるという事が書いてあったと、私は故デビス先生から 直接御聞きしました。

そもそも同志社はアメリカの金で立てられた學校ではないか。日米の先生 間に融和を缺くという事は重大な忘恩であり、怪しからぬ事で、特にキリス ト教を道議の基礎とする同志社では大に耻ずべき遺恨事であると思います。

日本の寄附者と被寄附者の關係の不良を實證する不祥事件であります。その 天罰とでも申される重大事件が起こりました。即ち上述のハリス先生の百萬 ドル寄附の遺言が取り消されたのです。」15)とある。下村の書簡の内容から大 いに可能性があったと考えられる。下村はこのことを強く信じていたに違い ない。開設されるハリス理化学校での自分の働きが重要であることに気がつ いていた。

「私の能力の限りハリス理化学校における教授職に応ずることは、Fuller

教授とKinnecutt教授16)が気にしています。私の前に登るべき山があ

り、横切るべき大陸があるようなものだ。・・・私が最も心配する重要 なことは私の立場が新しい学校で将来成功すると考えられることをMr.

Harrisに知ってもらうことである。」 (下村発 1890. 1. 1)

この「私が最も心配する重要なことは私の立場が新しい学校で将来成功す ると考えられることをMr. Harrisに知ってもらうことである。」は上記の寄 附の増額のことが頭に在ったのだろう。ハリス理化学校を順調に発展させる ことが更なる寄付の増加につながると考えていたに違いないし、その可能性 も大きかったと思われる。

(24)

j

.下村の同志社への招聘

「貴兄招聘之件ニ付、先日京都ニ而上方丈之社員会を開かしめ、同志社 より改而御招状を可差出事・・・必らす同志社ニ而再御尽力被下候様社 員も切望致居候間、先同志社之招聘ニ御応し被下候様御決心有之度候」

(新島発㉑ 1889. 3. 9)

新島は下村にかねてから同志社の科学教育を任そうとしていたので、下村 を招聘の意思があった。この頃(1889年)社員会は京都だけでなく東京で も開かれており物事を決するのが遅れがちで、下村への招聘の文書の発行も 遅れていた。

「同志社の理事会は私にまだ正式の招聘をしていない。私の従事する条 件の内容も提示がない。・・・これらはすべてビジネスです。私は仕事 に就く前にはっきりと理解しておきたい。」 (下村発 1889. 8. 15)

下村の同志社招聘に対する契約は非常にビジネスライクの感を受けるが、

下村は私費でのアメリカ留学であって、援助した新島には恩義を強く感じて はいるが、同志社にはその思いは無い。かって新島が遣欧使節団の通訳とし て田中不二麿と初めて接見した時の日本政府に対する姿勢を思い出される。

「貴殿今般無恙御帰航相成、尚旧ニ依我同志社之為ニ御尽力可被下候条、

我等一同喜欣満足之至ニ不堪処ニ御坐候、依而今回改而同志社ハルリス 理学部教授之名義ヲ以テ貴殿ヲ奉聘、年給八百四拾円ヲ呈シ将来之御尽 力ヲ切望仕候間、此段御承引被下度候也」 (新島発㉙ 1889. 10)

同志社の提示した年俸の額が840円であるが、

「年俸840円は高いか安いかは分からない。規定するものはないし私も 明確に言うことはできない。・・・私の能力の限りハリス理化学校にお ける教授職に応ずることは、Fuller教授とKinnecutt教授は気にしてい

(25)

ます。」 (下村発 1890. 1. 1)

下村はこの額が他の大学などとの比較で多い少ないを言うのでなく、ハリ ス理化学校での自分の働きがふさわしいものになるかかどうかを考えてい る。そのことがHarrisに伝わることで寄附の増額につながると期待してい たに違いない。

5.おわりに

新島は書簡の人といわれる。まとまった大きな著書はなく、色々な人に宛 てて出した書簡から考え方や活動状況等を読み説かねばならない。ただ書簡 は個人的なものであり散逸しやすいものであるが、今回対象とした下村との 往復書簡は、下村が慕っていた恩師新島の書簡を保管していたものが同志社 に戻り、一方新島は来簡を保存していたことから両者良好な環境にあったと いえる。しかし、下村の書簡は英文書簡がほとんどで、『新島襄全集』の来 簡編にはなく目に触れにくいものであった。今回、人文研の『新島襄宛英文 書簡集(未定稿)』で読むことが出来た。

新島は同志社英学校第1回卒業生の中で、下村に将来の同志社大学へのレ ベルアップの為に大学での教育に必要な科学分野の教育の一翼を担う人物と して白羽の矢を立てた。このことは下村の新島宛書簡(1884. 9. 25. 付)の 内容から、下村の卒業の時点で構想の在ったことがわかる。その為に下村が 家族を見なければならない状況に対し、新島は可能な限りの援助を与え将来 の同志社大学の布石の為に教育の機会を与えた(4.b. 参照)。また、下村も 新島の大学構想に同調し理解を示し、それに応じた対応を取っている。

下村は独学でも学力をつける力のある人物と思われる。熊本洋学校を終 え、同志社英学校を卒業して、同志社英学校で理系(物理、化学、数学)を 教えているがその為には独自の勉学が必要であったと思われる。新島に米国 での教育の場の要求条件に「自力で科学者になるための実験装置と化学薬品

・・・」があり自力で学べる力に自信があったのだろう。また基礎学力の不 足を感じていたのか、Worcester Polytechnic Instituteに入学して「初学ヨリ

(26)

始度心組ニ御在候」ともある(4.a、c参照)。

新島・下村二人の共通の思いは同志社英学校を大学レベルに引き上げるこ とで、新島はその為に下村に化学教育を託したのである。この件に関しては 師弟関係というよりも同労の同志のようにそれぞれ意見を出し合っている。

下村もキリスト教に対する理解も深いものがあり、熊本では伝道にもあたっ ていた。キリスト教を基本において学術と宗教を併行して進めるのが同志社 の方向であって、その基本となる神学部の重要性についても一致している。

また当時としては理解しがたい大学組織、UniversityとCollegeの違いも両 者とも経験を通して話合っている(4.d. 参照)。願わくばUniversityとして 同志社を成り立たせるため、その基金の募金活動、米国では会衆派であるア メリカン・ボードの援助の下スタートした同志社英学校は、更なる資金獲得 の為には教派の壁に苦労していることがわかる(4.f. 参照)。大学設立には 時間や大きな基金が必要であるが、新島は一方では健康に対し不安を抱えて おり、その見通しを立てる為に焦る傾向が読み取れ、下村がHarrisの寄附 との関係から諌めることもあったことがわかる。下村の教育論では新しい大 学の在り方を述べていて、「初学者には経験豊かな教員が当たる」や「専門 に特化した教員として教育にあたる」等現在の大学に通ずるものであって、

読んでいて彷彿とするものがあった(4.h. 参照)。下村と言えばハリス理化 学校であるが、Harrisに対する下村の人望がいかに大きく働いたかが読み取 れた。つまずくことが無かったら同志社は如何に大きな結果を得たのではな いかと思われる(4.i.参照)。

この往復書簡を通して、新島が構想した同志社英学校が開校し、一定の成 果を得て更に大学へと飛躍しようとする時期の大きな変革期を迎えている状 況が見られる内容であった。

1)下村孝太郎については次の文献が参考になる。

志村和次郎『新島襄と下村孝太郎』(大学教育出版、2008年)

島尾永康『人物化学史』(朝倉書店、2002年)、pp.102-109.

同志社山脈編集委員会編『同志社山脈』(晃洋書房、2002年)、pp.16-17.

同志社社史資料室『追悼集Ⅵ』(同志社社史資料室、1993年)、pp.146-157.

(27)

島尾永康「下村孝太郎における技術と思想」、『同志社時報』第62号(学校法人 同志社、1977年)pp.26-31.

島尾永康「下村孝太郎先生」、『同志社時報』第53号(学校法人同志社、1975 年)pp.4-10.

今谷逸之助「森田久万人と下村孝太郎」、(篠田一人監修『熊本バンド研究』みす ず書房、1965年)pp.370-380.

2)新島襄全集編集委員会『新島襄全集3』(同朋舎出版、1987年)p.621.

3)同志社大学人文科学研究所『新島襄宛英文書簡集(未定稿)(2)』(同志社大学人 文科学研究所、2007年)、pp.256-269.

4)森一郎「J. N. Harrisのメッセージ」、『新島研究』第107号(同志社社史資料セン ター、2016年)pp.78-101.

5)前掲『追悼集』Ⅵpp.146-154.この内容は「同志社新報」第19号昭和12年11月 を復刻したものである。

6)同前『追悼集』Ⅵp.148.

7)新島の第2回欧米旅行 は1884(明 治17)年4月6日〜1885(明 治18)年12月 12日である。

8)島尾永康『人物化学史』(朝倉書店、2002年)、p.103.

9)1888年8月11日付の下村宛新島書簡に「貴兄トボストン之一ホテール楼上ニ於 而共ニ天父ノ前ニ伏シテヨリ殆ト三ケ年ノ星霜ヲ経ルニ至ルヲ見、」とあり面会 していることがわかる。

10)M. R. Gaines牧師で同志社在職は1884年12月〜1889年11月。英語、科学を担 当。帰国の際、新島はJ. N. Harrisの多額の寄付に対するお礼に菊を託した人物 である。(「漫遊記事」『新島襄全集5』p.397.)

11)牧野虎次「ハリス氏特志の動機」(同志社工学会『同志社工学会誌』第1巻第2 号、1951年3月、p.10.)

12)新島がHarris氏からの寄付が10万ドルになったこと知るのは、新島宛D. C.

Greeneの1889年4月27日付の書簡で、これを手にしたのは新島の北垣国道宛書

簡(1889年5月30日付)の内容から5月29日である。

13)前掲「ハリス氏特志の動機」p.10.

14)「下村孝太郎氏の実話」と題したもので同志社社史資料センター所蔵である。

15)加藤与五郎「ハリス理化学校の思い出」(同志社工学会『同志社工学会誌』第1 巻第2号、1951年3月、pp.8-9.)

16)化学教授で、Fuller学長、下村との3人で、米国でハリス理化学校開校の為の化 学機械の注文にあたった。

(28)

〔資料Ⅰ〕新島襄−下村孝太郎書簡一覧表 新島襄発信下村孝太郎下村孝太郎発信新島襄 No発信年月日出典発信地備考No発信年月日出典発信地備考 11881.7.29和文全集③p.210京都坂井禎甫との連名 21881.10.5和文全集③p.213京都 31884.9.25英文新島襄宛英文書簡集 (未定稿)p.264.京都 41885.2.14英文同上p.298京都 51885.7.13和文全集⑨上p.183熊本新島アメリカ滞在中 61886.1.25和文全集⑨上p.212Worcester 71886.5.1英文新島襄宛英文書簡集 (未定稿)p.490Worcester 81886.6.29和文全集③p.411DrFuller気付 91888.4.15英文同上p.571Worcester 101888.6.4英文全集⑥p.326鎌倉4/15書簡を受けて 111888.7.22英文同上p.582Worcester6/4書簡を受けて 121888.8.11和文全集③p.619伊香保 131888.9.16英文同上p.592NewYork8/148/11)書簡を受けて 141888.10.12英文全集⑥p.335東京 151888.11.11英文同上p.604Baltimore10/12書簡を受けて 161888.11.25英文同上p.608Baltimore 171888.11.30英文全集⑥p.343京都NYからの書簡を受けて 181888.12.24英文全集⑥p.349神戸11/11書簡を受けて 191888.12.31英文同上p.619Baltimore11/30書簡を受けて 201889.2.3英文同上p.645Baltimore 211889.3.9和文全集④p.70 221889.3.19英文同上p.663Baltimore 231889.4.12和文全集④p.95 241889.5.11.英文同上p.689Baltimore 251889.5.20英文同上p.693Baltimore 261889.7.5英文全集⑥p.360京都5/20書簡を受けて 271889.8.15英文同上p.716Worcester 281889.9.26英文同上p.721東京 291889.10.x和文全集④p.231 301890.1.1英文同上p.623東京日付1889.1.1だが 表中「全集」は『新島襄全集』で○内数字は巻数である

(29)

〔資料Ⅱ〕

下村孝太郎略歴

『追悼集Ⅳ−同志社人物誌 昭和10年〜昭和12年』

(「同志社新報」第19号(昭和12年11月))から作成

1861(文久元)年 9月26日 熊本市(熊本城外本山村)で父下村九十郎、母 房子の下生れる

1869(明治2)年 8歳 地元の漢学塾に入門

1872(明治5)年 12歳 熊本洋学校に入学 L. L. Janesから究理学、舎密学、キリ スト教を学ぶ

1875(明治8)年 15歳 熊本洋学校卒業

1876(明治9)年 16歳 9月 同志社英学校に入学、キリスト教を学ぶ 1879(明治12)年 19歳 6月 同志社英学校余科卒業 同志社最初の卒業生

時習舎(岸和田藩主岡部氏設立)にて英語教授

? 熊本にて私立英学校創立(時習舎廃校の結果)

1881(明治14)年 21歳 同志社英学校 物理・化学及び数学の教員(4年間)

1885(明治18)年 25歳 米国Worcester Polytechnic Institute入学 化学専修 1888年6月28日B.S.の学位得る

Johns Hopkins大学大学院に入院 Remsen教授の下有機化 合体研究

1889(明治22)年 29歳 9月 日本に帰国、同志社ハリス理化学校設立に従事、同 教授に就任

1890(明治23)年 30歳 1月9日 大磯の新島襄を金森通倫と訪問 1月23日 新島襄逝去

1891(明治24)年 31歳 北垣国道長女とくと結婚 1895(明治28)年 35歳 ハリス理化学校の教授を辞す 1896(明治29)年 36歳 J. N. Harris逝去

1897(明治30)年 37歳 大阪舎密工業株式会社設立発起、技師長兼工場長 1899(明治32)年 39歳 同志社理事就任

1903(明治36)年 43歳 臨時同志社社長兼校長

1904(明治37)年 44歳 同志社社長(明治40年まで就任)

1905(明治38)年 45歳 大阪舎密工業株式会社取締役顧問 1907(明治40)年 47歳 東洋木材防腐株式会社顧問 1915(大正 4)年 55歳 工学博士学位を得る(2月)

1918(大正 7)年 58歳 大阪瓦斯株式会社顧問 1923(大正12)年 62歳 大阪舎密工業株式会社社長

1925(大正14)年 64歳 大阪瓦斯株式会社と大阪舎密工業株式会社合併し専務取締 役

1926(大正15)年 65歳 香焼コークス株式会社創立社長間もなく取締役 1930(昭和 5)年 69歳 日本染料製造株式会社技師長

1933(昭和 8)年 72歳 Worcester Polytechnic Instituteから工学博士(名誉学位)

1937(昭和12)年 77歳 10月21日逝去

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今年度は 2015

「2008 年 4 月から 1

及び 回数 (予定) 平成31年(2019年)4月から平成32年(2020年)3月まで 計5回実施予定 晴天時の活動例 通年 自然観察、下草刈り、間伐.. 春

本協定の有効期間は,平成 年 月 日から平成 年 月