資料紹介
著者 小枝 弘和
雑誌名 同志社談叢
号 30
ページ 161‑176
発行年 2010‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013010
資料紹介一六一
資料紹介
小 枝 弘 和
同志社社史資料センター(以下、センターと略す)では昨年一年間、多くの方々から貴重な資料を寄贈していただいた。また、新しい新島襄書簡の購入や新島八重関係の新出資料の発見など、今後の研究に寄与する多くの情報を知ることができた。本誌ではそうした発見の中から創立者新島襄に関連する資料を中心に九点を紹介する。特に断りのない限り、翻刻は筆者が、その監修をセンター所長の露口卓也文学部教授にお願いした。
セイヴォリー家の家族聖書 二〇〇八(平成二十)年十一月五日、W・T・セイヴォリーのひ孫であるアーサー・ブリガム(Arthur Brigham )氏より、新島襄のサインがある、セイヴォリー家代々に伝わる家族聖書が当センターに寄贈された。新島の生年月日(正しくは陰暦では一八四三年一月十四日、陽暦では一八四三年二月十二日)に一年の誤差が見られるが、自筆のものと見てまず相違ない。ちなみに「約瑟」は新島の英語名ジョゼフ・ハーディー・ニイシマ(Joseph Hardy Neesima)のジョゼフの漢字表現である。なお、セイヴォリーは一八六四(元治元)年、新島襄が函館から密出国した時に最初に乗船したワイルド・ローヴァー号の船長で、同志社内ではよく知られ
資料紹介一六二 た存在である。偶然にもそのひ孫であるブリガム氏は現在同志社女子大学嘱託講師ということで奇異な縁を感じさせる。この件については、同志社とセイヴォリー家の橋渡し役を務めた本学神学部の本井康博教授が既に紹介している(本井康博「セイヴォリー家の家庭聖書」『同志社大学広報』No.404, November 2008, p.21 )。その他、この件に関するこぼれ話や新島とセイヴォリー家の関係については本井教授の著書『新島襄を語る(三)錨をあげて』(三八〜四三頁)ならびに『新島襄を語る(六)魂の指定席』(二九頁)を参考にされたい。
吉田賢輔・尺振八宛新島襄書簡 本書簡はセンターが衆星堂において購入した。既に柏木義円による書簡の写しが『新島襄全集』第三巻(九七〜九八頁)に収録されている。しかし、新たに入手した原本を柏木の写しと照合したところ、数点の相違が見受けられた。よって、ここで今一度原本の翻刻を掲載する。
【本文】其後音信不通之段万恕々々扨日本使節亜国へ来到ニ付森辨務使之頼みニより華盛頓罷越候處田中文部大丞之頼みによりて田中と同道し歐羅巴へ遊覧に参る事に決着仕候但し
資料紹介一六三 僕ニ於而は決し而日本政府へ出身せるニ非ず適當之金を取りて日々の用をなす耳先達而田邊先生へ拝顔を得両君之本所に在て供立舎を御立被成候由承り僕ニ於而珍重々々僕義近来多病ニし而意之如くニ研窮も出来兼候間漸時歐土へ参り加養いたし候ハヽ大ニ健全之為ニも相成候哉と望み居候多事匆々臨書難尽万一唯願ハ加養し賜へ 新しま七五三太
吉田賢輔君 尺 振八君
何レ数月を経て再ひ亜国へ帰り学問可仕候間二君之御返書は如斯
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御認可被下候
Joseph Nee-shima Andover, Mass. U.S.A.
僕の考ふるに政府へ出身せるは拙策と可云依て僕今度歐行之義ハ所謂日用取なり僕の身体全く僕の手ニあるなり
近藤喜則宛新島襄書簡 本書簡は衆星堂より購入した。『新島襄全集』未収録の書簡である。以下に翻刻をまず掲載する。なお、封筒はなく、年代については不詳である。
【本文】雅兄御帰郷ニ付何そ呈し度存居
資料紹介一六五 候處別に是そと申ものも無之幸同志社講堂之写真一組手許ニ残り居候間不取敢進呈送候間御笑納被下候ハヽ幸甚三月十三日 新島襄
近藤雅兄 桎下
右書簡にある近藤雅兄については、既に『新島襄全集』第四巻で近藤喜則であることが確認されており(四三五頁)、同書には「同志社大学設立募金日誌」(『新島襄全集』第五巻所収)にある近藤の説明が引用されている。これによれば、近藤喜則の住所は「山梨南巨 こ摩 ま郡睦 むつ合 あい村五七六」(ルビは筆者、現在の山梨県南巨摩郡南部町)で、近藤は一八八九(明治二十二)年三月十三日に新島を訪ねた。この時の二人の会話は次のような内容であった。
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近藤喜則氏来訪ス、山口漫遊中諸所ニ於テ大学ノ賛成ヲモ誘導シ呉タルヨシ。其中最賛成致シ呉タル人ハ山口県周防岩国義済堂森脇簡氏ナル由語ラル但シ此人ハ、正金銀行ニ従事シタル人ナル由(『新島襄全集』第五巻、四四〇頁)
近藤が新島の大学設立運動に深く賛同し、彼が訪問する先々で常にこの運動への協力を募っていたことを示す内容である。新島はこれに深く感謝し、同日近藤に宛ててお礼の書簡を送った。新島がその書簡に「御依頼申上候所之大学旨書等御好意ニ任セ数十部差上申候間、何卒広く御志人中ニ御分配被下度奉仰候」(『新島襄全集』第四巻、七五頁)と書いていることから、近藤が今後の継続的な協力を申し出たことが窺われる。 一つ注記しておくことは、新出書簡の日付が「日誌」ならびに既出の右書簡の日付と一致することである。つまり、新島が同日に二通の書簡を近藤に送った可能性が考えられる。しかし、書簡には年代を窺い知れる記述は無く、また封筒が存在しないため、消印などから年代を推定することは難しい。三つの資料の内容は相関すると考えられるが、現時点で年代を特定するには資料的な限界がある。 加えて、近藤についてもう少し説明を付しておきたい。近藤は所謂山梨の有力者である。一八三二(天保三)年甲斐国巨摩郡睦合村に生まれ、若いころから江戸や長崎に遊学し、蘭学に強い興味を示した。明治維新後の一八六九(明治二)年には私塾「聴水堂」を興し、翌一八七〇(明治三)年には「聴水堂」を引き継いだ「蒙 もう軒 けん学舎」を開校し、ここで洋学教育を実施した。しかし、「蒙軒学舎」は一八八八(明治二十一)年に休校する。「蒙軒学舎」で教師を務めていた三人の息子のうち二人が相次いで死去したこともその理由の一つであった(山梨県編『山梨県史』通史編5近現代─、山梨日日新聞社、二〇〇五年、一〇一〜一〇二頁)。これ
資料紹介一六七 は、先述の新島と近藤の面会の前年の出来事であった。また、近藤は一八七八(明治十一)年にカナダ・メソジスト派宣教師C・S・イービ(Charles Samuel Eby, 1845〜1925)を山梨に招いた一人として知られる(『山梨県史』二四頁)。新島と出会う前から既にキリスト者とかかわりを持っていた。このようなキリスト者との接点や「蒙軒学舎」休校の理由などから、近藤は同志社の教育や新島の思想を理解する素地を持つ人物であったと言えよう。 近藤は山梨県初代知事藤村紫朗のもとで県政に参画した地方政治家として、また殖産社を設立して紙幣の原料であるミツマタを製造した地方実業家としても名を残す人物である。また、自らを「殖産人」と称したことでも知られる(『山梨県史』三二頁)。
海老名弾正遺墨「與者較受者更多福」 二〇〇九(平成二十一)年五月十八日、卜部元実氏寄贈。本文を書き下せば「與ふる者は受くる者に較べて更に福多し」となろうか。この一文は新約聖書の「使徒行伝」第二十章第三十五節の一部「受けるよりは与える方が幸いである」(『聖書 新共同訳』日本聖書協会一九九三年 (新)二五五頁)の漢文訳と考えられる。海老名は聖書の一節を漢文で書に認 したためることが多い。
牧野虎次遺墨「彼等は世より取らむと欲し…」 二〇〇九年一月九日、本学生命医科学部井上望教授寄贈。第十一代同志社総長牧野虎次の遺墨である。「彼等は世より取らむと欲し我等は世に與えんと欲す」とあり、ちょうど牧野が総長に就任する前年の一九四〇
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(昭和十五)年、皇紀二千六百年にあたるこの年に揮毫された。 牧野が「勝伯弔新島之句」と記すように、この一文は、一八九〇(明治二十三)年に永眠した新島襄の葬儀の際に、愛弟子徳富蘇峰が勝海舟に頼み込んで揮毫してもらった幟 のぼりの一文「彼等ハ世より取らむとす我等ハ世ニ與へむと欲す」(新島遺品庫資料上一三一〇)に倣ったものである。
新出・新島八重資料 当センターでは二〇〇九年十月一日より二〇一〇(平成二十二)年一月三十一日まで、本学今出川キャンパスのハリス理化学館二階Neesima Roomにおいて第三十六回Neesima Room企画展「新島八重の生涯─進取と矜持─」を開催した。企画展の開催にあたり、当センターでは新たな新島八重関連資料を発見すべく、会津若松市の関係各所で資料調査を実施した。その結果、既知のオリジナル資料の確認はもちろんのこと、新たに発見した資料もあり、このたび新出資料を中心に本誌上で紹介することとなった。本調査でのご協力、ならびに本誌上での資料掲載許可を下さった、会津若松市、会津若松市立図書館、福島県立博物館、若松城天守閣郷土博物館、会津武家屋敷、ならびに平石元明ご夫妻には格別の謝意を表したい。なお、次に紹介する資料は本企画展期間内に実施した特別展「会津に残る八重の面影」(二〇〇九年十一月六日〜十二月十三日)で展示した。
① 長谷川惠一画「入城する山本八重子」 会津武家屋敷所蔵。会津の歴史を数多く描いた長谷川の数多くの作品の一点である。弟・三郎の服を身に纏い、ケーベル銃を携えて入場する八重の様子を描いた想像図。
資料紹介一六九 ② 新島八重書簡(藤沢正啓宛)(一九一七年)五月八日付 本文は会津若松市立会津図書館所蔵、封筒ならびに質問状は会津若松市所蔵である。まずは各々の翻刻を次に掲載する。なお、本文は会津若松市立会津図書館館長野口信一氏による翻刻を転載させていただいた。【本文】御書状被下難有拝見仰之通好時こふニ御座候處御機嫌克御渡光被遊候由珍重ニ奉存候陳ハ山本兄之事ニ付種々御尋ニ御座候得共私も当年七拾弐歳之老婦ニ相成昔時之事ハよくおぼい居不申候ニ付あらまし申し候間左様御承知被下度奉願上候私ハ明治四年ニ当地ニ参り兄(ゟ)種々承り候得共書付ニも
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致置不申候間悪からす思召被下度先は早々御返事まて不一
五月八日 新島八重子
藤沢正啓様
【質問状】一、御祖父權八様ノ江川、御修めニ御上京中之年月 不明一、御令兄ノ後上京之年月佐倉藩ト江戸トニ ご滞在之苦別に知レ候ハヽ承知仕度候 不明一、藩主守護職之際御令兄之御上京之年月 戊辰前ノ猪年一、右伏見戦争迄ニ會津ヘ御帰国被成候事有之候ハヽ其年 月 帰国セシ事御座ナク候一、京都牢獄ニ拘禁セラレタル日數 一年半斗一、日進館ニテハ学問ハ大学迄御進級アリシカアラバ
資料紹介一七一 其御年齢 大学迄ハ進級セザルモ、二十二才ニシテ弓馬槍刀ノ許ヲ受ケ申候右之外御気付之廉ニも御示シ下候ハヽ難有御座候右御依
両資料の内容から、二つの資料は関連が深いことがわかる。まず、藤沢が八重に送付した質問に対し、八重が返事を記入して送ったものが質問状であるが、その質問に対して八重は箇条書き程度の返答しかしていない。それは本文で八重が説明するように、八重が既に高齢であること、そして、書き残したものもなく正確な情報を藤沢に伝えることが難しかったためである。このように考えれば、本文は質問状が存在することを前提としている。すなわち、元々はこれらの資料は、そもそもひとまとまりの資料であったと考えられる。年代については、八重が七十二歳と明記していることから、通常八重が数え年で年齢を表すことから判断すると、一九一七(大正六)年五月八日付と考えられる。 宛先の藤沢については、藤沢が永眠した際に『會津會雑誌』第四十四号(五〇〜五一頁、一九三四年)に追悼記事が掲載されている。以下、参考資料として引用する。
藤澤正啓君君は會津藩士藤澤内藏之丞の長子、嘉永三年若松に生る、初め忠八と稱す。幼にして日新館に入り文武の業を受く。年甫めて十六、父に從て京都に遊び見學する所少からず。戊辰の役會津大砲隊に屬し伏見鳥羽に戰ひ、尋いで白河及諸所に從軍せり。明治三年斗南に移り農耕に從事す。六年上京して邏卒を拜命す、是れ後の巡査なり。七年佐賀暴動起る、君命を受け出張して勵精の功を賞せらる。十年西南の役起るや熊本城に入
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り、防戰に從事す。後警部に任じ、十四年佐賀縣警察署長と爲り、十七年副典獄を兼ぬ。二十三年佐賀縣典獄に、二十七年香川縣典獄に、三十年熊本縣典獄に、三十二年警視聽典獄に歴任し、三十六年東京監獄を司る。正五位勳四等に累叙す。大正二年依願本官を免ぜらる、在官實に四十年なり。是より先君舊會津侯松平家の家政顧問を囑託せられ、又昭和の初より調停裁判所調停委員と爲り、昭和九年三月十九日長逝に至るまで繼續せり。享年八十五、男正二家を嗣ぐ。君稟性堅忍にして眞率、百難前に横はると雖も、之を凌過せざれば已まざるの風あり。其の公務たると私事たるとを問はず、常に周到の用意を以て之に膺り、決して之を等閑に付せず。永く司獄の職に在り、能く因徒の風習を研究し、其の頑梗御し難き者に對しては之を閑室に延いて訓戒し、辭氣懇到涙倶に下るに至り、爲めに慘改せる者も少からず、模範典獄の稱あり。其の調停委員たるや、開廷毎に先づ原被兩に対して懇諭し、互に和協讓歩せしむ、或は其の勸解に服せず、法文を以て爭ふ者あれば君則ち莞爾として曰く、余は法律を知らず、故に君と理論を闘はすこと能はず、此處は調停裁判所なり、要するに調停の成ると成らざるとは、一に和協讓歩すると否とに在りと、當事者君の眞率に服し多くは和解に成功せり。而して君の公私に注意を傾倒するの極は自ら他人の身邊にも及ぼし、平日務めて新舊朋友を官廳、學校、會社、邸宅に歴訪し、苟くも其人の短所を認むれば溫顔必ず忠言を試み、或は自己の實驗を縷述して參考に供す。其人或は之を聞くを厭ふ者ありと雖も君は夷然として顧みず、益々忠言を反覆するを常とせり。嗚呼君の如き蓋し人の爲めに謀りて忠なる者と謂ふべきなり。
藤澤は主に警察と監獄に奉職した人物であるが、八重の手紙を受け取った一九一七年には既にこれらの公職を退き、旧藩主松平家の家政顧問に就いていた。書簡本文の内容、質問状の内容、藤澤の立場を考慮すれば、
資料紹介一七三 松平家の歴史編纂のために八重へ質問状が送付されたのではないかと考えられる。③新島八重和歌「明日の夜は…」⑤新島八重短冊「いくとせか…」
③明日の夜は何国の誰かなかむらむ なれし御城に残す月かけ 八重子八十四歳 ⑤御慶事をきゝて いくとせかみねにかヽれる村雲の はれて嬉しきひかりをそ見る 八重子八十四歳
まず③は新島八重が作成した和歌の中で最も著名なものである。八重がこの和歌を詠んだのは、一八六八(明治元)年九月二十二日、一ヶ月に及ぶ籠城戦に敗れた会津軍が降伏した日であった。この夜、八重はこの和歌を若松城の三の丸雑物庫(現在三の丸は存在しない)の白壁にかんざしで刻んだ。以後、八重はこの和歌を好んだようで、様々な機会に認 したためては渡していたようである。現在、センターのみならず、会津若松市にある葵高等学校などでも八重直筆の和歌の存在が認められているが、本誌に掲載した資料は初見である。 所蔵は会津若松市の平石家である。平石家は『会津戊辰戦争』の著者平石辨蔵のご親族で、資料借用及び掲
資料紹介一七四 載に関して直接労を担っていただいた平石元明氏は、辨蔵の孫にあたる。辨蔵は日露戦争から陸軍で務め、最終的に少佐まで出身した人物である。このたび、白虎隊記念館館長早川廣中氏の仲介で平石氏にお会いすることが出来、八重直筆の和歌をはじめ、辨蔵が八重に直接取材した手紙、取材をまとめた草稿などを含めて合計九点を拝見し、企画展の特別資料展示の期間にこれらの借用させていただいた。すべて初見の資料であった。 一方、⑤は会津若松市立会津図書館の所蔵である。既に会津若松市史研究会編『会津若松市史十八 文化編⑤人物 会津の人物 生きる、風土に育む精神性』(会津若松市、一九九五年、三四〜三五頁)にて、同館所蔵の八重の肖像写真(撮影場所は日本女子大学)とともに紹介されている。こちらも特別資料展示の期間中に借用した資料である。 両資料でとりわけ注記しておくべきことは、これらの資料の背景である。着目すべきは両資料にある「八重子八十四歳」の書である。揮毫された年を推測すると一九二八(昭和三)年となる。この一九二八年といえば旧会津藩出身者にとっては大変感銘深い年であった。会津戦争終了からちょうど六十年目を数えるこの年の九月二十八日、旧藩主松平容保の孫にあたる勢津子(節子)と秩父宮の婚儀が行われた。六十年前、逆賊の汚名を着せられ、辛酸を舐めてきた旧会津藩の人々にとって、この婚儀は長年の憂いを晴らすものであった。そもそも会津藩中興の祖は保科正之である。保科は、第二代将軍徳川秀忠の実子で、第三代将軍家光の腹ちがいの弟である。つまり、会津藩は将軍家に極めて近い親藩ということになる。また、保科の腹ちがいの姉の和子が後水尾天皇の中宮となり、会津藩は天皇家とも近親関係を持つこととなった。保科は会津藩の精神的支柱である「家 かきん訓」を作成するが、そこには将軍家や天皇家に対する会津藩の明確な態度が示されている。「家訓」は幕末の会津藩にも当然浸透しており、なおさら逆賊の汚名を着せられたことは会津藩にとっても屈辱であった。
資料紹介一七五 だからこそ、勢津子と秩父宮の婚儀は、六十年間の鬱積した気持ちを払拭する慶事であった。八重はこの御成婚を受けて「御慶事をきゝて」とし、⑤の和歌を呼んだわけである。このいきさつについては本誌掲載の野口信一氏の公開講演会記録(一七七〜一九二頁)を参考にされたい。 次に③の資料に関してであるが、なぜ一九二八年に八重がこの和歌を書き、それを辨蔵に送ったのか。これについては平石氏所蔵の資料が証明してくれる。平石辨蔵は一九二八年に『会津戊辰戦争増補白虎隊娘子軍高齢者之健闘』(丸八商店)を出版した。そもそも辨蔵は『会津戊辰戦争』というタイトルで、それまでに三度版を重ねている(初版一九一七年、再版一九一七年、三版一九三七年)。三版で増補をしているが、第四版は精力的なインタビュー調査の結果を踏まえ第三版以上に充実した内容となっている。辨蔵がなぜ第四版を一層充実させようとしたのかについては、彼自身が書き残した書簡の草稿が教えてくれる。そこには「第四版は 節子姫の御祝之時迄に出したき所存即ち昭和戊辰の目出度さと共に明治戊辰之惨状を会津の青年子弟の人に周知せしめ度考エ候」(風間久彦宛平石辨蔵書簡、年月日不詳、平石家所蔵)とある。つまり一九二八年は先述の如く旧会津藩関係者の漆黒の闇が取り払われた年であり、会津戦争を知らない世代にも会津藩の歴史を知ってほしいという、二つの大きな思いが辨蔵にはあったことがわかる。そこで辨蔵は会津戦争の当時の状況を知る八重に会津戦争や山本家などに関する質問を寄せたわけである。 当然、八重もこの辨蔵の想いを理解していた。平石氏が所蔵する資料の中には八重に対する辨蔵の質問、それに対する八重の回答、また八重へのインタビュー記事をまとめ、推敲した書類が保存されている。既に会津戦争から六十年を経て、戦争当時二十四歳であった八重も既に八十四歳の高齢であったし、生存している戦争経験者はそう多くはなかった。言い換えれば、会津にとって六十年前の八重の体験は会津の歴史を編纂する上
資料紹介一七六 で重要な意味を持っていたわけである。これは藤澤正啓とのやり取りにも確認できよう。 では、インタビューはいつ実施されたのかということになるが、これについては判然としない。しかし、『会津戊辰戦争』第四版には、「著者の刀自を訪ふや、欣談快語數時に亙るも亳も怠の狀なく疲勞の色なし、寧ろ至誠刻々に現はれ、肱を張り肩を怒らし宛然戰場に在るが如し」(『会津戊辰戦争』四八三頁)とあり、本文が八重が語ったようにまとめられている以上、直接会ったことはまちがいない。平石家が所蔵する資料の中には、辨蔵の質問に八重、もしくは代理人の風間が記入した資料が数点残されており、八重のインタビューを書き写した資料、さらにこれを推稿した資料がある。また、八重の代理人風間が「新島様に ママ先生に会ひたいと切望してゐるから四判発行の前に上洛致しませんか」と書き送った辨蔵宛の手紙が存在する(年月日不詳平石辨蔵宛風間久彦書簡、平石家所蔵)。八重も辨蔵に会いたいと考えていた。しかし、現存する資料から両者が会った日を推測することは難しい。 次に和歌はどのようにして送られたかということであるが、風間から辨蔵に送られた別書簡(年月不明二十三日付、平石家所蔵)にて「先日新島様に参上し、字を書いていたゞきましたが先生と丸八に送る書は残念ながらいづれも文字一ツぬけてゐるので今送る事は出来ません、然し、餘分に書かれた御歌一枚ありますからこれを送らうと思つて居ます。 新島様上洛後に又書いていたゞいて送ります」とあり、③の資料は風間が指摘する和歌、もしくは後に書いて送られた和歌と考えられる。一方で、同志社社史資料センターには「贈 新島八重子様 平石少佐」と墨書のサインがある『会津戊辰戦争』第四版が「新島旧邸文庫」内にある。八重と辨蔵の相互交流を示す貴重な資料である。