ウイリアム・パーキンスにおけるRichesとCalling : エリザベス朝ピューリタニズムに関する一研究
著者 今関 恒夫
雑誌名 主流
号 34
ページ 75‑94
発行年 1972‑11‑20
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016748
ウ ィ リ ア ム ・ パ ー キγ
スにおける R i c h e s と C a l l i n g
一 一 エ リ ザ ベ ス 朝 ピ ュ ー リ タ ニ ズ ム に 関 す る ー 研 究 一 一
今 関 恒 夫
門 戸
1;],
ピューリタニズム研究史の一つの方向として,近代市民社会を形成し,
構成する主体が「伝統主義」の雰囲気を抜け出し,1"プロテスタンテイズム の倫理J,さらにはその世俗化された形態としての「資本主義の精神Jをわ がものにしていく歴史的経過の中で,ピューリタニズムの思想史的役割が 問題とされてきていることは周知の事実で怠る.¥7i1 eber thesisとして定 式化されている命題をめぐる論争史がそれである.本稿では,その研究史 を念頭におきながらラエリザベス朝の代表的ピューリタンのひとりラウィb
リアム・パーキンス (WilliamPerkins, 1558‑1602)の果たしたラ前述の 歴史的経過の中での役割を,かれの倫理的著作に従ってラ ことに Riches
とCallingに関する教説を検討することによって考究してみたい.
1
事
従来,パーキンスは不当に軽視され9 かれに関する研究が本格化したの
唱
は最近のことである.しかし,それは,かれがど1 ーリタニズムの歴史の 中で,重要な役割を果たさなかったということではない.それでは,パー キンスはどのように評価されうるであろうか.本稿の目的からして,教理 史上における評価は無視し,社会的影響力という観点からの評価に絞って,
少しく考察を加えてみることにする.
かれの説教教則本 ArtザP十ophecyingが,当時のピューリタンの説教の
76 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling
方法と内容に,多大の影響を与えたことはよく知られていよ.かれは説教 による民衆の教化をピューリタン運動の中核に据えていたのであった.そ
由
れは一方で ameticulously sound and orthodox Calvinist円としての パーキンスを表現するものであるしヲ他方で, 1590年代に至り,イギリス 絶対王政の弾圧によって,上からの長老主義 (Presbyterianism)の採用を 諦めなければならなかったノミーキンスが, ピューリタン運動を政治運動か
ヵ
ら説教運動へと転換せざるをえなかった,その事清によるものであった.
ノ4ーキンス自身フ優れた説教家であった.パーキンスの最初の伝記作家 トマス・フラー (ThomasFuller)は次のように記している.
r
パーキン スは学校を説教壇にもちこんで多学校でかわされている論争の堅苦しい学 校用語の設を剥いで,それをかれの聴衆のためにヲ消化のよい滋養のある申
食事に変えてしまったのであるJ. つまり, パーキンスは
r
抽象的な教lQl
義を実践の規則へ,そして霊的に自立するための方法へと変え」ていった のである.
ノ4ーキンスの歴史的重要性はフこの大衆的・実践的説教をかれ個人のも のにとどめることなしより広範なものにしていったところにある.サム ウェル・ワード (Samwel Ward)はp 日記の中で,パーキンスの死去に ふ れ9 次のように述べている
r
パーキンス氏の死去によって加えられた キリストの福音への大きな打撃を思う.氏はその教えと生活とによって,大学の若者に多くのよき働きをなし,かれらの大いなる尊敬の的となって いる.同様に,氏はいたると乙ろから氏を目当てにやってくる農村の多数 の牧師に,忠告と指導を与える乙とで,多くの著しいよき働きをなしたの
1$
であるJ. 事実9 ケンブリザジにおけるかれの弟子には, プ レ ス ト ン くJohnPreston),シッブス (RichardSibbes),ェイムズ (WilliamAmes),
コヅトン(John Cotton), グージ (William Gouge)ヲ グッドウィン (Thomas Goodwin)といった人々が名を連ねていたし, パーキンスの教 えを受けた牧師たちはイースト@アングリア(East Anglia)やミドランド
ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCaIling 77 (Midland)へとおしょせ, ロンドンの主要なレクチャーシヅプ(lecture‑
13)
ship)に就いたのである.そればかりか, 17世紀を通じて, カルヴァンや ベザと並んで正統派を代表するものと見倣され9 研究され続けたのである!
このようにパーキンスの教説が実践化の方向をもち,教養層ばかりでは なし直接間接に大衆の中に浸透し,そこにおいて一定の影響力をもって いた(大衆化〕とすれば9 かれの倫理的著作を検討することは,挙;こ理論 的側面においてばかりではなし具体的な影響力という側面からも呉味あ るものだと考えられる.
本稿での検討の対象にしようとする TheiVhole Treatise of the Cases
15)
ザ Conscienceは決疑論であるからラ まずこの時代におけるピューリタン の決疑論のもつ意味について考察を加えておこう.
ピューリタンが,或る信仰上の論点(たとえば「法衣論争 The Vesti‑ an呈n Controversy Jを参照〉を問題にする場合, それを単に原理的に取 扱うのではなしその問題のもつ歴史的実践的意味を間わんとする傾向が
10
みられる["""特定の人間に,特定の場において,特定の時に,一般的な道
1君
徳的指針を適用するための道具J(傍点引用者〕としての「決疑論」を,
1申
パーキγスがピューリタンとして最初に取上げた理由はそこに
2
らったと思 われる.ノミーキンスは A Discωrse of Conscienceの献辞において次のように 述べている. ["""閣下ご自身も,あるいはこの同じ時代を経験する何人も,
罪を犯すζと,あるいは人が自らの良心に逆って罪にとどまることが軽く 考えられていることを知らないはずはございません.ですから,この場合 の義務は何かと問われると多くの人々はこのように答えて言うのでありま す.あなたは良心について何を私に言っているのか?良心はとっくの昔に 首を括られてしまったのにと.しかしラよく用心し,悔改めて危険を避け なければ,首を括られた良心が建ってきて,この世の生においても,来世 の生においても,かれらの絞首台となり,死刑執行人となるでありましょ
78 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling
う.Jわれわれはここに道徳的価値基準が失われた状態を読みとることが できる.
r
この時代のイギリスにおける決疑論に対するこのような大きな 関心を説明するのはp 社会や政府や宗教の激しい変化のさ中で,道徳的指 標が欠除しているという感覚であることは明らかである. プロテスタンテ イズムが様々のセクトに分裂し,中産階級が次第に大きな力となり,この 世は涙の谷だという中世的な態度が漸時放棄され,善良なキリスト者はこ の世の富に心を懸けてもよい.否,心を懸けるべきであるという見解にと ってかわられるようになってくるにつれて,多くのイギリス人の混乱は深2申
刻になった」のである.換言すれば,中位的価値は崩壊しつつあったが,
まだ近代的価値が未熟であるような倫理的混乱状態の中で,一定の倫理的 方向性を求める社会的要請が生れてきたということである.それには,も ちろん「決疑論」という形でのみ答えられたのではない.むしろ,教区牧 師としての務めの中での, さらには教区という中世的秩序の中に頭をも たげてくる「白由意志に基づく団体J ( voluntary association) での牧会
20
の仕事の中で,具体的に答えられたのであろう.しかし,その牧師自身も,
そうした倫理的に混乱した状況に捲き込まれていたとすれば,明確な倫理 的指針を必要としたに相違ないのである.その意、味で,具体的影響という 面からも
r
決疑論」を無視することはできない.他面から言えば,その2$
ような要請に答えるべく「決疑論Jは書かれたのである.従ってそれは,
原理というよりも,具体的な歴史的状況の中で,実践を避けられない人々 への指針となるものでなければならなかったのである.
2
本稿の観点から論点をRichesに絞る前に,まず,The Whole Treatise of the Cases of Conscienceの全体を烏敵し, Richesが全体の中でどのよ
うに問題にされているのかをみておこう.全体は三部からなる.各部の副 題 は 1 .Concerning man simply considered in himselfe without re圃
ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling 79 lation to another
,
II. Concerning m丘nas he stands in relation to God,
III. Concerning man as he stands in relation to manとなっており,
それぞれ,他者との関係を捨象した人間,神との関係における人間,そし て現代風に言い換えれば社会的人聞の良心の問題を取扱っている.具体的
23)
には,第一部では罪とか恩寵とか救済とかをめぐる良心の問題,第二部で
2争
は誓約 (oath),誓願 (vowλ 断食,安息日をめぐる良心の問題9 第三部 では人聞が集団一一家族歩教会9 国家 (commonwealtusが考えられてい るーーの一員である限仏必然的に付随する良心の問題を取扱う.
固有の意味で倫理が扱われるのは第三部である.当然,Richesの問題も ここで扱われるわけであるから,第三部全体の構成をみておこう.社会に おける良心の諸問題を扱うに際し, パ ー キ ン ス は 徳 (vIrtu巴)に注目しラ 徳、を定義し, 6種の徳を区別し,その区別に従って全体を構成する.
ノミーキンスによれば,徳はまず,何人にとっても聖霊の賜物 (agift of the Spirit of Goのである.つまり思寵で~る.しかし,その機能はキリ スト者における場合と非キリスト者における場合とでは違う.後者に対し ては,それは単に堕落を抑制 (restraining)するだけであるがタ前者に対 しては,罪を克服し,日毎に心を新たにする (renewing)働きをもっ.つ まり,キリスト者にとっては,徳は新生の一部 (apart of regeneration) を構成する. かくして, 人間を正しい生活をするに相応しい者に変える
2申
(to make a man fit to live well)働きをするのだという.
このような意味での徳を,パーキンスはまず悟性(mind)に関係する徳
21)
と,意志、 (will)に関係する徳とに分ける.前者には分別 (prudence)が 属する.後者はさらに9 自己に関する徳と他者に関する徳とに分けられる.
自己に関する徳は復讐心 (revengingpower)に関係する慈愛 (clem巴ncy), 情欲(lusting power)に関係する節制 (temperance)に区別され,他者
に関する徳は好意 (courtesy)に関係する鷹揚(liberality),公正(equity) に関誌し,しかも公正の実行に関係する正毒 (justice),公正の持続 (de・
80 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling
fending and maintaining)に関係する堅忍 (fortitude)が区別される.
かくして,分別,慈愛,節制,鷹揚,正義p 堅忍がこの!頃序で各章毎に取 上げられていく.
Rich田 は 節 制lこ関する章で扱われる. そこで節制の章を全体としてみ ると,諦制とは欲望の抑制 Cmoderationof appetite and lust)であると して 4つの対象lこ分けられる. (1)富 (riches), (2)飲食 (meat and
<I.rink)
,
(3) 服装 (apparell) ラ (4) レクレーション~含めた撰楽 (ple乱sures) 18)がそれである. 他の対象をも顧みながら,以下 Riches(以下「富」と訳 して用いる〉について考察を加えよう.
富の問題は2つある固(1)良心的にどの程度の;奮を欲し求めうるか. (2) 良心的にいかに宮を所有し世用しうるか.
この2つの問に答える前提となる基本的な事項がまず考察される.富に は必要な富と必要以上の富 (abundancのがある.そして必要には自然的 必要と社会的必要とがある.生理的必要と地位。身分に伴う必要である.
たとえば学者とL、う職業 (calling)にとっては欽食物や着物は前者に属し,
書物などは後者に昌する。その必要を認定するのは賢明かつ敬度な人々の 判断でありョまじめで質素な人々がその模範とされる. しかし,その場合 Jこもすべての人にとって同ーの基準が当て畏まるわけではない.その人の おかれた条件の相違によって9 必要の度合も違ってくるからである.さら に現在(土不必要にみえても近い将来に必要になることがはっきりしている ものはフ現在においても必要なものと考えられなければならない.以上の ような基準lこ照らして考えたとしても人間の判断は誤ることがありうる.
2事
括って正しい判断ができるように神に祈り求めなければならない.
さて以上の考察の上に第一の問題に答え,次の諸点を指摘する.第一に 必要なもの一両様の意味でーを求めるのは正当であるが,それ以上 (abun胴
<I.ance)を求めるのは罪である。 ここで注目に値するのは,主の祈りにお いて「日毎の糧」を願うのはタ 「われらが日毎にそれによって神に仕えて
ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCaIling 81 いる callingにおいて」自然的生活を維持するためでだとパーキンスが解 釈している点である. 第二に abundanceを求めることは魂の救いにとっ て危険である.第三に abundanceを求めることは神の摂理への不信の結
3u.l
果である.つまり,ここでは一途に必要の範囲内一一一ここでは前のパラグ ラフで述べたように ca
l 1 i
ngにとって必要な範囲内と解してよいであろう 一一一で cal 1
ingによってのみ富を求めよと主張しているのである. これが原則である.
この原則に対して,ありうべき反論を掲げて,原則の内容を明確にしよ うとする.豊かな富は,それ自体はよきものであっても,罪の赦し,聖潔,
正義,神の国における永生など (singlegood)とは違って,われわれにと って常によきものであるとは限らない (goodonly in p位。のであって,
恩寵によらなければそれによって罪に陥る絶えざる危険があるのである.
聖書に記された富は量的であるよりも質的であり (1正しいd¥の 持 ち 物 の 少ないのは,多くの悪しき者の豊かなのにまさる JPsal. XXXVII. 16), 量的に考えられる場合にも,まず求めらるべきは神の栄光,神の国3 神の 意、志であり,人間の正しさ,人間の救済である.
貧民や教会や国家,さらには子孫のために富を蓄える必要はない 1も し心から願ってそうするなら,持たないところによらず,持っているとζ
3:(j
ろによって9 神に受けいれられるのである J(2 Cor.
V r
I. 12)から. 1人 聞の callingの目的は自分自身や9 家族や,貧民のために富を蓄えること ではなく,人に仕えること,すべての人にとってのよきものを求めること によって神に仕えるにある.人はこの目的にその生活と労働を当てなけれ3$
ばならない.J
以上の叙述においては,富は消極的にしか評価されていない.しかし,
他方ではパーキンスは次のように述べているのである. 1われわれがそれ を欲せず9 それを求めないときに,神が abundanceを与え給うたなら,
神の執事としてそれを受け取り, それを保持し, 使用することが許され
82 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling
3事
る.J アブラハムやアリマタヤのヨセフは「その callingに〔忠実に〕歩
3:ll
んでいたが故に,神は摂理によってその富を祝福され,増し加えられた」
のである.さらにAct.V.4をヲ│いて,「もしわれわれが財産とabundance を持っているなら,それを神の祝福されたもの,神の賜物として,良心を
3申
もって享受することが許されている」ともいう.富かキリストかの選択を 迫られた場合,富をすべて捨て切ることのできる準備がなければならない が,しかし9 それは富そのものが罪だからなのではない.富に信頼をおく
こと,不正に富を獲得し9 所有し,使用することがMammonなのであっ て,聖書において富が否定されている場合 (Mat.XIX. 28, Luk. XVI. 9)にも,そのような意味においてなのである.以上は結局, callingから 得た富は,それがabundanc己一一それは前述のごとく必要以上の富として 原則的には否定されているのであるーーであっても,享受することが許さ れているということになろう.
第二の問題に移ろう.パーキンスはまず4つの規則を提起する.第一に歩 至上なる主は同時に富の主でもあるわけであるから,富を有する者は神の 執事として,神の意志に従って,それを管理し,神に会計報告を提出すべ
3$)
きであること (Luk.X VI. 2). 第二に,富の所有と使用とにおいて,知 性を適度に(呆ち9 富に愛着の心を向けないように自らの地位に満足してい るべきであること.つまり,物質的に富んでいても,精神の貧しさを常に 自覚していなくてはならない.キリスト者の富に関する節制の最高の段階 はパウロの「わたしは貧に処する道を知っており,宮におる道も知ってい るJ(Phillip. IV. 12)という状態である.そこに至るまでに二つの特別な 手段が覚えらるべきである. (1)一時的な富と真の富とを区別できるように 努むべきこと, (2)人はこの世では寄留人なのだから, 何ひとつこの世に 持ち込むことも持ち出すこともできないことを自覚すべきこと.第三に神 の特別の召命(ca
1 l i
ng)がある場合には,われわれの財産のすべてを?単に 心の持ち方の問題としてではなし行為において実際に捨てなければならウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalIing 83 ない.しかし,これは,伝道の業に召された場合,信仰の告白に関する場 合,特に緊急な必要のあった場合といった極めて特殊の場合であって,普 遍的な原則として自由意志による貧困 (voluntarypoverty)が要求されて いるのではない.第四に財産を神の栄光のため,人間の魂の救いのために 用いなければならない.そのためにはキリストによって義認され9 聖化さ れ,危険な富を神の栄光のため,魂の救済のために用いることのできるよ うに神に祈り求めなければならない.さらに富を必要なものに使用しなけ ればならない.そして自分自身の必要,他人の必要(ことに家族や親類縁 者
λ
貧民の必要9 教会の必要, 国 家 (commonwealth)の必要があげら39)
t
している.以上を本稿の観点から要約しておこう.まず富自体は悪ではない.問題 は富を獲得し,所有し,使用する人間の側にある.そこで富の獲得,所有,
使用は人間の生理的・社会的必要に見合う限りに限定される.生理的にも 社会的にも人聞の生きる目的は,魂の救済と神の栄光とにある.その目的 は,具体的には, callingを通して遂行される. 富と callingとに関係し て9 パーキンスには二つの論理的には矛盾する命題があるように思われる.
第一に,人は cal1ingによって神に仕えるのであるから,それぞれのcall‑ ingに必要な隈りにおいて富を求めることが許される.第二に callingこ よって得た富は必要を越えるものであっても享受することが許される. こ れは callingが魂の救済,神の栄光という simple goodを追求する手段 である
F
艮り, callingによってもたらされる goodonly in partでしかな い富も,一方で人聞にとっての危険性故に部分的にしか認められないにも かかわらず9 他方では極端ないい方をすれば全面的に認めざるを得ないこ とを示すであろう. やや角度を変えてみれば, 魂の救済と神の栄光との cal1ingにおける追求を勧めることは9 他方では必然的に危険な富の蓄請 を結果ぜざるをえない,そのζとに対する徴妙な対応をこの二つの命題は40)
表現していると考えられる.
84 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling
前述のように,以下,飲食,服装,娯楽について,富についてと同様の 記述が続くのであるが,本質的には以上と同じ構造をもっているように思 われる.つまり,一方で,人間の罪故にそれらを用いることに否定的であ るが,他方では,それらが神の栄光のためであり,従って callingにふさ わしいものである限り,そして人間の生理的・社会的必要に合致する限り 認められている. ここでも ca
l 1
ingが重要な役割を担っているので, call‑ ingに関する記述を引用しておこう 1身体や知性や感覚がそれによって 鈍くならず,むしろ軽快になり?神と人とに対する義務 (ca1ling‑引用 者〉を遂行できるように飲食すべきである.J1服装はわれわれの仕事に合 わぜられなければならないー cal 1
ingから考えてわれわれに相応しく便利 なものである方がよいし callingの義務を遂行するのを妨げたり不可能4:1)
にしたりじないものの方がよい.J
以上,The 1Vhole Treati・seof the Cases of Conscienceにみられる限 りにおいて富の問題を考察し 1隅の首石」として callingがおかれてい るζとを析出してきたのであるが, callingそのものについては特別の考 慮をはらってこなかった.ここでパーキンスの callingに関する見解に立
ち入って考察を加えてみることにしよう.
3
一般的なca
l 1
ingの定義はこうである. toserve God in serving of man, and in seeking the good of all men"あるいは aceriain kinde of4事
life
,
ordained and imposed on man by God,
for the common good円 ここでは明確に cal 1
ingの二重の意味が読みとれるであろう.パーキンス は次のように述べている. 1教会と国家 (commonwealth)とは,ちょう ど人体と同じであって3 そこではすべての成員が身体全体の健康のためにラ 各々の役割を担っている. 事実, すべての人はただキリスト者としての 一般召命 (general cal 1 i
ng)を担うだけであってはならず, 特 殊 召 命ウィザアム・パーキンスにおける RichesとCalIiug 85 (particuler calling)をも担うべきである. その特殊召命においてかれは common goodのために自らを捧げなければならない.何も為すζと な し ただ生きているのは神の御言葉と自然の光に逆うことである.J このよう に callingはまず一般召命と特殊召命とに分けられ,後者はさらに
r
そ れなしには社会が存在しえない, あらゆる社会の本質と基盤とをなす」calling (地位〉と「社会をよい状態に保つためjの calling (職業〉とに 分たれる.前者には家族の中での夫と妻フ親と子,主人と召使フ国家 (com‑
monwealth)における高官と臣民,教会における牧師などが分類され,後
41])
者には農夫3 商人,医者,法律家,大工,煉瓦工などが分類される. ここ では救済と,たとえば煉瓦工であることが同ーの範鰭で考えられp それが cal1ingの中で統一されているという ζとに注目すべきである. (以下call司 ingを適当に訳し分ける)
「人はすべてその私的 (personal)召命 (ca
1 l i
ng) の実行を,前述のキ リスト教の一般召命 (calling)の実行に結び、っけなければならない.この二種の召命 (calling)をうまく結び、つけるためには,われわれの生活 の主目的,つまり職業 (ca
l 1 i
ng)の業において人間に仕え,それによって 神に仕えることに想いを潜めてみなければならなし¥い・・この奉仕に対す る報酬として神は人間の労苦に祝福を与え給うのである.……第二にこの ことによって,たいした地位も職業 (calling)ももたない人々がどのよう にして自らを慰めるかを知るのである.卑しい下積みの義務を遂行するこ とで、人に仕えることによって,かれらは神に仕えているのだということ,それ故にかれらの奉仕は神の目からは下積みではないのであり,人間から の報酬はわずかでも,神の御手における報酬は乏しいものではないであろ
4古
う乙とをかれらに知らしめよ.J かくしてフ一般召命と特殊召命とは人体 における肉体と魂のごとしひとつに結ばれなければならよい
この点をおさえた上で9 次に,callingの問題は,すぐれて職業の問題で あることに注目しなければならない.そこでパーキンスは具体的に職業選
86 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCaliing
択の規則を掲げる.(1) honestでlawfulな職業を選択すべきである. (2) 各人の能力と資質とに適した職業を選択すべきである. (3)いくつかの職 業に適している場合には,最上のものを選択すべきである. (3)の規則で は人間の野心を承認するが, それをチヱヅクするものとして common goodをあげる. これは具体的には家族,教会,国家 (commonwealth),
ことに後二者の利益を表わす.
51) 52) 53)
かくて,このように選択された職業に就き,それを勤勉に,持続的に果 たしていくことが, 人聞の義務だとされる. そして「職業における労働 (labour in a ca
l 1
ing)は金銀の如く貴重である」という労働を神霊視する 考え方が出てくるのである.逆に怠惰 (idleness)や無精 (slouthfulness) は,それ自体が呪わるべき罪であると共に,他の罪の根源であるとされる.「怠惰な身体と怠惰な頭脳は悪魔の仕事場である.海が動いていなければ 必ず腐敗するように,身体も掻き立てられ,動かされていなければ,病気 を生み出す.そして怠惰で無精な人間は腐敗した海である.かれらがもっ とも怠惰であるときに9 サタンはもっとも怠惰でないのだ.サタンはかれ
56)
を多様な罪へと引きず、りこむことに忙殺されるのである.J
そこからの当然の帰結として出てくるコロラリイは,中世的な無差別な 救値への反対である.働く能力を有する者が物乞いをすることは「教会や 国家 (commonwealth)から,土地や財宝と共に,有益な労働を盗む」こ とであり,従ってかれらに施しをすることは悪の中にかれらをとどめるこ
57)
とになる.
r
職業の義務に対する無精と無規とは教会と国家 (common‑wealth)という形で人類の社会に神が設けられたあの麗しい秩序に対立す る無秩序なのである.Jζこには中世的な無差別な, 共同体の責任におけ る救随の理念から,職業における持続的で勤勉な労働を可能にする訓諌に よる貧民の救済の理念への移行がみられる.
しかし,多数の貧民の出現はョかれらの怠惰にのみ帰せられるのではな い.かれらが「いずれかの定った congregationJあるいは「教会か国家
ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling 87 (commomvealtめ といういずれかの定った社会」 に属していない点に重
59)
要な原因があるのだとパーキンスは主張する.その意味をさらに明確にと らえるために,リトル (D.Little)がパーキンスの中にみようとする New Orderについて考えてみよう.New Orderとは一語をもっていうなら,
60)
神の絶対的選びによって分たれた人間の集団にみられる orderである.
外面的には人間の神への自由な服従によって生れた集団のorderだという
61)
ことも可能である.自由な服従とは,具体的には,教会と国家 (common‑
W己主lth)における自由意志にもとづく特殊召命の追求である. リトルの表 現 に よ れ ば 新 し い 社 会 は 選 ば れ た 者 の 様 々 の 機 能 が 相 互 の 同 意 に よ っ
62)
て織なす自己完結によって調整され調和される」のである.相互に自己の 機能を果たしていくときに,全体として commongood円が達成され9
一つの完結した orderが生み出されていく. そしてp いってみれば,そ うした社会的分業 (divisionand interdependence of labour)に組込まれ
63) 64)
ていることが9 選びの徴であり,同時に貧しさから逃れる道なのである.
かくして9 自由意志にもとづく(主観的には神の召命による〉教会と国 家 (commonwealth)とにおける機能分担が callingの社会的意味だとい うことになる. しかもそれは神の召命であるが故;こ, 勤勉かつ持続的な (禁欲的方法的な〉労働によって,果たされることが要求されるのである.
結
5
命にかえて以上の議論を踏えるならば callingの結果としての自由な富の追求は,
教会と国家 (commonwealth)の繁栄(commongood)にとって有益であ る限り許さるべきであるし callingにおける勤勉かっ持続的な労働は禁 欲の手段として有効 (1怠惰な身体と怠惰な頭脳は悪魔の仕事場である.J) であるが故に, それによって結果的に得られた富は, 必要以上のもの (abund呂田めであったとしても,それを神の執事として管理する限りフむ しろ honourableなのだというζとになる.
88 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling
このような職業倫理がどのような社会層をとらえたのか,具体的には何 も分らない. この点を究明するためには,ピューリタンの運動の具体的な 形態を検討し(ただ教会史上に現われてくる movementの形態一般では なく
λ
本稿の最初で示唆したごとき, パーキンスの影響を受けた牧師の ひとりひとりが,何処で誰を対象にして牧会活動をしたのかを明らかにし なければならないだろう.しかし,現状では,次のようなことを指摘する にとどめる他はない.ノ4ーキンスの理想とした人間類型は,教会と国家 (commonwealth)に 有益な仕事を夜に日を継いで(r夜に追いつかれないように早起きをしてJ) 勤勉に務めている小職人であった. こうした人々をこそ9 先の職業倫理は 生み出したのであり,逆にこうした人々にこそ,それは適合的であったと 考えられる. この点を勘案すると, 他の社会経済的諸条件と相侯って,
「独立自由な『中産的生産者』とくに自営『農民』たちの精神的・物質的 な繁栄9 そしてそうした社会層の繁栄を根幹として組立てられているとこ
66)
ろの社会」としての,まさに com1l1onwealthを推進する(少くとも適合 的な〉役割をフパーキンスの倫理思想は担ったのだとはいえまいか.その 意味でパーキンスは thechief formulator of the new teachingであっ たのである.
j主
1) Max Weber, Die Protestantische Ethik問 d der G白stdes Kapital叩 nus, Vol. 1 of his Gesammelte Aufs五tzezur Religionssoziologi巴 (Tubingen;J. C. B. Mohr 1920) pp. 17‑206, (以下RS;と略記);Ernst Troeltsch, Die Sozialle司
hren der Christlichen Kirchen und Gruppen, V 0 1.1 of his Gesamm巴lt巴Schriften. (2nd. ed.: Tubingen; ]. C. B. Mohr, 1922) Weber thesisをめぐる問題につい ては多数の研究があるが, ここでは, R. W. Green (edふ Protestantismand Capitalism (Boston, 1959).大塚久雄 「マックス・ヴェーノミーにおける資本主 義の『精神J1J(大塚久雄著作集第8巻所収〕を挙げておく. なお拙稿「エリザベ ス朝におけるピユーザ夕、ノ運動J(lr三国学会雑誌』第64巻第8号〉をも参照.
2) 本稿の目的は,パーキンスを宗教改革思想史, ピューリタニズムの歴史の中に
ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling 89 位置づけようとするものではない.従ってピューリタンという場合,教会制度上 の綱領や教理の差異を無視して, i禁欲的傾向をもった宗教上の諸運動」に参与 した者というほどの意味で用いているに過ぎない.Weber, RS., S. 85. n. 1 (梶 山力・大塚久雄訳「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神J
C
岩波文庫〉下11頁),前掲拙稿171頁註10を参照.
3) C. Hill, ,P的‑itanismand Revolution (London; Secker & vVarhurg, 1958), p. 215; T. F. M巴rrill(巴d.),Wi・'lliamPerkins, 1558‑1603, English Puritanist, His Pioneer vVorks on Casuistry:.t‑1 Discourse 0 f Conscie1'.ce" and The Whole Treatise of Cases of Co丹'science" (Niewkoop; B. De Graaf, 1966) introduction, p. IX.
4) E. H. Emerson, English PlIritanism, from John Hooper to John lvlilton (Durham; Duke University Press, 1968) ; C. H. George and K. George, The Protestant Mind of the English Reformation, 1570‑1640 (Princeton; Princ邑ton Univeτsity Press, 1961) ; W. Haller, The Rise of Puritanism (Happer Torch‑
books: New Y ork; Happ号r& Row Puhlisher, 1957); C. Hi ,Ilop. cit.;おt M. Knappen, Tudor Puritanism (Phenix Books: Chicago,; The University of Chicago Press, 1965); D. Little, Religion, Order, and La叫 A Study in I寺下RevolutionmyEngiand (Happer Torchbooks: New York; Happer & Row Publish巴r,1969) ; P. McGrath, Papists and Puritans under Elizabeth (London;
Blandford Press, 1967) ; T. F. M巴rrill (ed.), op. cit.; P. Miller, Etγ'and into the Wild;刀ess (Harper Torchbooks: New York; Happ邑r& Row Publisher, 1964) ; do., The New England }v1ind, The Seventeenth Century (B巴aconPa‑ perback: Boston; Beacon Press 1968); 1. Morgan, The Godly Preachers of the Elizabethan Church (London; The Epworth Press, 1965) ; L. B. Wright, liifddle‑class Culture in Elizabethan Eπgland (New York; Cornell University PreS3, 1958).これらも, Merrillを除けば,一部をパーキンスに割L、ているに過
ぎない. なお, ζの他に, L. B. Wright, Elizabethan Apostle of Practical Divinity'
ヘ
TheHunt仇gtonLibraηQuarterly, Vol. III, No. 2; R. A. Sisson,William Perkins, Apologist for the Elizabethan Church of England ,"l¥1or‑
de7~見 Language Rez'In乙" XL VII, 4 (1952) 1. Breward, The Life and The‑
ology of干拓・lliamPerkins (Manchester Ph. D. Thesis; 1963); 1. Breward
,
William Perkins and th色 Originsof Puritan Casuistry", Faith and a Good Conscience, Puritan and R己formedStudies Conference Papers for 1962 (1963) があるが未見である.
5) Merrill, op. cit. introduction XV1.秋山健『ピューリタンの文学~ (大下尚一
90 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling 編「ピューリタニズムとアメリカ」所収)187頁を参照.
6) Miller, Erァ‑andπito Wildness, p. 57.ただし,大木英夫氏の次のような見解も ある.パーキンスの神学に「契約神学におけるサクラメンタノレな客観主義と決断 的主体主義との結合」があり,それが「カルヴィニステックな前提の中に, アナ バプテスト型の診透を許す」のだと. (大木英夫「ピューリタニズムの倫理思想」
東京, 1966, 131頁, 133頁 註51). 筆者にはこの問題にふれる準備もないし,本 稿の目的からもはずれるので,ただ指摘するにとどめる.
1) Hill, op. cit. p. 216, Haller, op. cit. p. 64.大木前掲書, 61頁, 120頁参照.
そこからパーキンスに対する, a moderate Puritan" (Knappen, op. cit., p. 374)とか, theideal Puritan clergyman of the quietest year" (P. S. Seaver, The Puritan Lecturesh争s,the Politics of Religious Dissent, 1560‑1662, CStanford: Stanford University Press, 1970) p. 114)とL、った評価が生ずるわ けであるが,それは政治運動の面からみてそうだというだけであって,思想的に
も隠使であり, その及ぼした影響が軽微であったことを意味しない.
S) たとえば, Hallerは次のように述べている
r
かれは,まもなく,説教について の能力と情熱を,大いにみせはじめた.講壇から発せられた『呪われよJという かれの言葉の単なる響きだけで9聴衆が自らの罪に震え上がるのに充分であった.J Haller, op. cit. p. 64.なお,パーキンスの伝記的記述は ,Ibid., p. 64f., Knapp己n01う.αit.,p. 374f; Emerson, 0ρ. cit., p. 155; McGrath, op. cit., p. 327f.などにみ られるが,Dictionary of National BiograpJ.ηの当該項目がもっとも詳細である.
9) Merrill, op. cit., introduction, IXより引用.Knappen, Haller, Millerにもヲ│
用されている.
10) Hall巴r,op. cit., p. 92.その他に Knappen,op. cit,・p. 374; M己rrill,0ρcit., introduction p. IXをも参照.
11) Hallerは「かれの影響力はとくに説教者に強く受けとめられた. ・園…・かれら は〔パーキンスから学んだことを〕説教やトラクトや論文の中で, 民衆が自らの 生活にそれを適用することができるように提供することができた. 数年のうちに この全文献が本屋の庖頭に並び,人々の魂を吟味し癒す方法を教える目的に役立 ったのである」と述べている .op. cit. p. 92.
12) M. M. Knapp日n (ed.) , Two Elizabethan Puritan Diaries by Richard Ro gers and Samuel lVβγd (Gloucester; Peter Smith, 1966), p. 130.もNard の Historical Notes" 1602年10月22日の項.
13) Hill, ρ. 0 cit., p. 217. 14) Ibid., p. 216.
15) 本稿作成に当っては Merrill,ρ0 cit.所収のものによった. パーキンスの著
ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling 91 {乍集は三種(ケンブリッジ版二種(1597,1600, 1603, 1605; 1608, 1609, 1612) と戸ンドン版 (1606,1612, 1616))あるが,いず、れも参照できなかった. なお パーキンスの著作目録は D.N. B.を参照せよ.
16) Little, op. cit., p. 90;前掲拙稿176ー7頁参照.
17) Merrill, op. cit., introduction p. XI.
18) Ibi・d.,p. X; Morgan, op. cit., pp. 119‑120;大木前掲書233頁.
19) 'vV. Perkins, .4 Discourse
0 1
Conscience, ed. T. F. Merrill, op. cit., p. 3. 20) Emerson, op. cit., p. 153.21) 前掲拙稿174‑7貰参照, Morgan, op. cit., pp. 1l9f.
22) 本橋の観点から以上の存在理由を強調したが, それとの関連でう 次の二点を 指摘しておきたい. (1)以上をキリスト教の用語で表現するならばラ 救済の確信 を信仰の果実によって得きしめるために, 信仰と Moralityとの一致を論理化ず る必要があったと言い換えられること. (2)カトリックから,プロテスタントの soia五deの教義は巴thicalincentiv巴を減返させるものだという非難が加えられ たが,それに対抗する意味があったこと Merrill, op. cit., introduction, pp. XI‑
XV. ピューリタン決疑論の神学的意味については大木前掲書222‑262頁参照.
23) Perkins, vVhole Treatise
0 1
the Cases0 1
Conscience, ed. Merrill, op. cit., pp. 89‑126.24) Ibid., pp. 127‑162.
25) ここで commonwealthは酒家を意味するであろうが,単に現実のテューダー 朝絶対主義国家を意味するにとどまらず,後述のごとし Littleのいう New Ord巴r,さらには本来の意味での 民富"との関連の中で把握されねばならない であろう.
26) Ibid., pp. 163‑5.
27) Ibid., p. 165 ノミーキンスは魂 (soul)を悟性 (understandingor mind)と意 志 (will)とに分ける.後者は好悪,選択の{動きを司り,前者は理性(reason)を 用いて全人格を支配し,秩序づける能力をもっ. 良心は悟性に属する.さらに悟 性は理論悟性一一真偽を区別←ーと実践悟│生 善悪を区別一一ーとに分けられ,
良心は後者に属するとされる 従って良心は人間の言行, しかも言行一般ではな し 特殊具体的な言行に関係する .lbid., pp. 5‑7この点にパーキンスが良心に 注目した理由があったのだと考える. この点については Little,pp. 115‑7をも 参照.
28) Perkins, op. cit., p. 188. ここに挙げられた事項がp 一般に, ピューリタン の禁欲の対象と考えられていたことについては Web町 RS.,SS. 183‑8 (邦訳下 207‑218頁)参照.
92 ウィリアム・パーキンスにおける Rich巴SとCalling 29) Perkins, op. cit., pp. 189‑19J.
30) Ibid.
,
p. 190. 31) Ibid., pp. 190‑1. 32) Ibid., p. 191.33) Ibid., p. 191.この引用文は後に富との関連で callingを論ずる時に重要な意 味をもっ.
34) Ibid., pp. 191‑2. 35) Ibid., p. 192. 36) Ibid., p. 192.
37) Ibid., p. 237 Men are to be hononred for th邑irriches"とある.ただし,
ここで riches"とは richessimply"で は な し the right use of riches"
であることに注意.さらにパーキンスには3貨 幣 (money),土地フ富 (wealth)ラ
食物などは「それ自体においては神のよき賜物」であり i自然の生活のために,
それらを定め給うた神の配剤の御手と摂理」とにかなったものだとする記述があ る(C.H. & K. George, op. cit., p. 123) その他 Hill,O}う cit.,p. 229; Littleヲ
op. cit., p. 119をも参照. この見解はパクスター(R.Bョxter)が,富はそれ自 体きわめて危険なものだとするのとは違う.むしろカノレヴアンに近いといえよう.
Weber, RS., SS. 165‑6 (邦訳下168頁). しかし,富の獲得と使用の危険を説く 点は一致している.
38) これを,すぐ前に述べた点とすぐ後に述べる voluntarypov己rtyの否定とい う点と勘案するとき i神の執事」として「神のために富裕になるように,あな たがたが労働するのはよいことである」とするバクスターと正確に一致するよう に思われる.Weber, RS., SS. 175‑7 (邦訳下 187‑8頁).ただ,パーキンスの場 合,それを弱めるようなi侶し書がつくことは注意すべきだろう.
39) Perkins, op. cit., PP: 192‑7.
40) われわれは,こうした逆説的事態のいわば古典的表現をpジョン・ウェスレー (John W巴sley)において知っている.Weber, RS., SS. 196‑7 (邦訳下232‑3頁〕 41) Perkins, op. cit., p. 204.
42) Ibid., p. 208, p. 210を参照. 他の章についてみると,次のような記述がみら れミ)¥i神の法によってヲ人間はすべての点で,その callingの範囲内に自己限定 すべきであって,あえてそこから出ょうとしてはならない」
ω .
163), i政略的行 為はすべて,われわれの callingに属するものでなければならないし, callingの 範囲と束縛の内になければならないJ(p. 171).43) Ibid., p. 191.
44) Litu巴,0ρ. cit., p. 118より引用.パーキンスには,Aお 叩tiseof the Voca‑
ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling 93 tions, Or, Calli見gsof men,ωith the sorts and長indsof them, and the rig先t 'ose thereofがあるが, 参照できなかった. これについての最も詳細な紹介は Wright, op. cii., pp. 170‑186にある.Morgan, op. cit., pp. 146‑152をも参照.
因みに callingに関するピューリタニズムの思想史の中でのパーキンスの位置に ついては, Wright,oρcit., pp. 170‑172参照.
45) Little, 0ρcit., pp. 118‑9より引用.なお,
r
神が,救済を受けるためにすべ ての人に与えた一般召命j,r
あらゆる社会において人と人の間に神が設けられた あの区別から帰結する特殊な機能を果す私的召命」という表現もある Wright, op. cit句 p.176より引用.46) George, op. cit., p. 127よりヲ│用.
47) Wright, 0ρcit., p. 180より引用.
48) Little, op. cit, pp. 121‑122.
49) "¥月九・ight,0ρcit., pp. 176‑7. このことと,注38)で述べた点を勘案すると,
ノ4ーキンスにもヴェーパーのいう私的「収益性j尊重の原理があると考えられる.
その個所で,グェーパーは神に喜ばれる職業の基準として,この他l, 道徳的標こ 準,職業の生産する財の「全体j (これは common good"に他ならなし、〉に 対する重要性を挙げているが,これもパーキンスについて正確に当て談る.
50) Wright, op. cit., p. 178, George, op. cit., p. 128.なお前註参照、.
51) Hill, op. cit., p. 226.
52)
r
人はすべてその穀業の義務を勤勉に果さなければならないj (Wright, op. cit., p. 181より引用), George, op. cit., p. 134をも参照.53) Wright, op. cit., pp. 178‑9; George, p. 134.従って, 二つ以上の職業に同時 につくこと,職業を変えることには懐疑的である この diligenceand constancy in or restriction to a particuler callingの強調は,ヴェーパーのいうピューリタ ニズムにみられる「組織的方法的性格」に一致するであろう.
54) Wright, op. cit., p. 181より引用.
55) Ibid., p. 182.
56) lbid., p. 182.より引用.ここでレクレーションについてのパーキンスの見解を みておく. レグレーションは自他にとって pro五tableであり,神の栄光のためで ある限りにおいて肯定しつつも,それが神の意志に従うべき時間に食い込み, そ れに熱中してしまうのであれば unpro五tablであるばかりか unlawfulだとす る(Perkins,op. cit., pp. 221‑2). Weber, RS., SS. 183‑188 (邦訳下207‑218頁〉 をも参照.
57) P巴rkins,op. cit., p. 226.救愉の問題については, Hill, op. cit., chapter 7全 体を参照.
94 ウィリアム・パーキンスにおける RichesとCalling 58) Wright
,
op. cit.,
pp. 181‑2よりヲl
用.59) Hill, op. cit., pp. 227‑8より引用.ここでは,パーキンスの Commongood "
の基盤にある社会を広く踏えて考えられている.
60) Little, op. cit., pp. 106‑117.
61) Ibid., pp. 122‑3; Wright, op. cit., p. 185. 62) Little, op. cit., p. 122.
63) パーキソスは, 都市の豊かさを, その高度な多様性と分化とに帰し, その豊 かさによって市民は自由を得,その市民の自由な選択と決定とによって,都市は 規律されるとし,社会的分業と豊かさと市民的自由とを一体のものと考えている (ibid., p. 122).さらに経済取引の自由を,法律によっては律せられない特別な領 域とさえ考えていることは興味があるが (ibid.,pp. 123ーの, ここではこれ以上 展開できない.
64)
r
もしあなたが救いの徴(signsand tokens)を得たいのなら,それをあなたの結 合された二つの ca1lingの持続的な実行から得てこなければならないJ(Morgan, φ. cit., p. 147より引用〉 パーキンスには救済の確証という考え方があること,その確証のひとつとして callingの constantpracticeがあること,しかしそれは ノミーキγスの確証の主要なひとつであるとは,少なくとも Merrill,0ρ. citηBook 1, chapter IV (How a man may be in conscience assured of his own salva‑ tion ?")からは言えないことをここでは記しておく.
65) Hill, 0ρ. cit勺 p.226.因に,パーキンスは Warwickshire yeomanの息子で jるったことも注意しておく.Patrick Col1inson, The Elizabethan Purita河 j¥1ove司 ment (London; Jonathan Cape, 1967) p. 127.
66) 大塚久雄「近代化の歴史的起点一一一いわゆる民富の形成について一一J(大塚 久雄著作集第六巻)40頁 . 註26をも参照.
67) Knappen, op. cit., p. 412.注2),28), 38), 40), 49), 56), 64)において,ヴ ェーパーの定式化したピューリタニズムの禁欲倫理をパーキンスの見解を比較し,
多くの点で一致することを見てきた. もちろんヴェーパーは「文化史的影響とい う点J(Weber, RS., S. 89
C
邦訳下.13‑14頁わから, ピューリタニズム一般に ついて理念型を構成しているのであるから, そこに相違もあるのは当然である.本稿全体からみていえることは,ヴェーパーの強調した点と河時に, 常にそれと balanceする主張が書き加えられているということである〔注38参照).しかし3
これはヴェーバーの定式がパーキンスに当て絞らないということにはならない.
影響力という観点から一方を強調するのは当然であるし, ピューリタエズムの歴 史の過程で,その方向が強化されていったことも事実であるからである.
(1972, 3, 1成稿〕