【研究ノート】
ハーバマスの討議理論における善の構想について
命題分化した形式による言明とその問題
原科 達也
1.はじめに
ハーバマスの討議倫理は、道徳的言明の普遍的な基礎づけを目指したものである。この とき、ハーバマスは討議倫理の普遍性を確保するために、義務論的で手続き主義的な基礎 づけの方法を選ぶ。討議倫理において手続きとは討議における承認である。ある条件を満 たした討議において承認を獲得できた規範的言明は、普遍的道徳言明として、ふさわしい ものであるとされ、討議参加者にその内容を強制することができる1。討議倫理とは、この 討議の条件のことであり、いわばこの討議の規則である。
こうした手続き主義的な規範理論は、一方で高い普遍性を要求できる。というのも、手 続き主義的な道徳の基礎づけは基本的に、ある規範的言明の普遍的道徳としての適切さの 条件を規定するのであって、道徳的言明それ自体の内容は規定しないからである。したが って、手続き主義は、原則的に、それ自体は形式的であり、倫理的内容を含まないもので あるとされる。それゆえに手続き主義は、あらゆるコンテクストから導かれる善の構想を 平等に扱うことができる、というわけである。
そこで本稿では、この討議倫理がほんとうにそれぞれの善の構想を、平等に取り扱うこ とができるのか、ということに関する批判的検討を通じて、討議倫理―討議を通じた道徳 の基礎づけという方法―が普遍的道徳の基礎づけとしてふさわしいものであるのか、とい うことを論じていきたい。
1 本稿では、カントの道徳と善、それぞれの語の使用にならって、善、倫理、道徳、規範を それぞれ区別して用いる。善および倫理とは、価値に属するものであり、それはプラスの サンクションとマイナスのサンクションを両方もつ。他方、道徳は義務に属するものであ り、それはマイナスのサンクションしかもたない。つまり善は善なる行為を遂行した場合、
尊敬や肯定的評価を得られるのに対して、道徳はそうではない。たとえば、人を殺さなか ったとしても誰もそれに対して尊敬の念は抱かない。もちろん、両者は排他的なものでは ない。カントにおいては、とくに完全に履行することが困難な義務の場合、たとえば平等 や人権など、善による支えを必要とするのである。善はプラスのサンクション作用をもつ ことから、基本的に道徳的行為に対する動機づけに関係している。ハーバマスもこれに従 って、これらの語を区別している。そして、規範という語は、義務と善の双方の要素を含 むものとしてここでは使用する。
2.討議倫理の基本構造
ハーバマスは討議的手続きの条件を、次のように定式化する。「U:規範は、その普遍的 遵守が各人の利害状況と価値志向に対して及ぼすことが予想される結果や副次的影響が、
すべての関係者に、強制なくして共同で受け入れられる場合に妥当する」(Habermas,1996, 60[55])。もしも討議において、ある道徳的言明が、その言明の正当性の論証を通じて、す べての討議参加者から同意を獲得できる場合には、その道徳的言明は正当なものとなり、
討議参加者はその道徳的義務に従わなければならない。
討議においてある道徳的言明を基礎づける場合、重要になるのはその討議の性質である。
上述のように、ある規範が正当なものとして討議において認証されるためには、その討議 がすべての関係者に対して開かれていることが必要なのである。つまり、討議による道徳 の基礎づけは、すべての関係者に平等な討議参加の権利を認めなければならない。討議参 加に対する平等な自由を形式的に認めていることが、この基礎づけ方の規範的源泉の一つ になっている。
さて、そうした討議参加の権利が与えられ、討議に参加した場合、さらにそこで、もし 自らの道徳的要求を他者に対して主張するなら、その人は他者に対して自らの道徳的言明 の正当性要求を掲げ、他の討議参加者が同意できる理由を挙げなければならない。このと き、その人は自らの言明に妥当性要求を掲げるのである。
そのとき、ハーバマスの理論において、このような議論を展開するために、妥当性要求 は発話行為の形で遂行される必要がある。ハーバマスは、コミュニケーション一般のモデ ルを、こうした発話行為の形式において記述していくのである。こうしたコミュニケーシ ョンの形式は、遂行文と命題文という形2を基本形にしておこなわれる。ハーバマスにおけ るコミュニケーションの基本的想定は、こうした命題的に分化した形式をとる論証なので ある。
こうした論証的形式をとった表現をすることで、掲げられた道徳的言明に対して、イエ ス/ノーがいえるようになる。したがって、コミュニケーションはその形式において命題 的に分化しているとみることによって、ハーバマスの批判的コミュニケーションは可能に なるわけであるが、他方で、こうしたコミュニケーションモデルの想定を置くことで、コ ミュニケーションを命題的に分化した形式をとる表現に限定してしまうことになる。
3.論証的表現と善の構想
しかしながら、ある種の倫理的確信や信仰のなかには、命題分化にさらされると、途端 にその輝きを失ってしまうようなものがある。たとえば宗教的な啓示などの経験に基づい た確信から主張をこうした形で行う場合、こうした確信を命題形式でうまく表現すること は非常に難しいといえる。この種の確信は、感性的直観に訴えることが多いので、その真 理性や正当性を論証することが難しいのである。したがって、こうした確信に基づく善の
2 たとえば、ある言明が、遂行文、たとえば“I warn you”と命題文“that you should not condemn her. ”に分けられるということである。
構想は、論証形式をとる討議において、理性的な検討に耐えられず、理解不能なものとし て周縁化されることが考えられる。
裏を返せば、討議参加者すべてからの合意をもって道徳の基礎とする、ハーバマスの討 議倫理は、こうした論証的態度の前提に立っている。つまり、すべての事態を命題的に記 述することができるという想定がここに置かれている。こうした想定の上では、討議参加 者の善き生からもたらされる主張すべき内容が、命題形式で、その人自身に明らかになっ ていなければならない。つまり、「私にとって善き生とは~である」と言明として立てら れなければならず、そのような仕方で表現することができると想定されているのである3。
しかし、宗教的経験に限らず、生活諸形式に内在している善き生は、通常人々の意識の うちにおいて、命題形式で、存在していると想定するのは難しいことのように思われる。
むしろ、その都度の状況で、ときにはうまく言葉にできたりするかもしれないが、多くの 場合には、うまく言葉にできなかったり、全く言葉にならないこともあるだろうし、とり わけ自らにとって本質的な事柄であればあるほど、そうしたことを言葉にするのは容易な らざることではないだろうか。
4.討議への動機づけ
もしある人が、命題的に表現することに対して、困難を伴う確信に基づいて生を営んで いるとき、その人は討議実践そのものに対して、そもそも参加するように動機づけられる のであろうか。たとえ先に引用した討議上の義務を理解し、さらにそれがもっとも調和の とれた結末をもたらす可能性が高いと理解しても、討議において命題分化した形式による 論証しか通用しない場合、討議構造そのものがその人にとって不平等と映るだろうし、少 なくとも何らかの負担の多い作業と思うかもしれない。いずれにしても、討議に積極的に 参加していくのは難しくなってしまうのである。したがって、討議倫理がどんなに形式的 に討議参加の権利を与えたとしても、討議それ自体に動機づけられなければ、与えた権利 は行使されないのである。
しかしそうだからといって、ハーバマスは討議を義務づけたりはしない。なぜならば、
討議への参加それ自体は権利であって、義務ではないからである(Habermas 2005)。強制 された自由の行使というのはアイロニー以外の何ものでもない。そして討議倫理が自由意 志による討議参加という条件を失えば、その道徳的基礎を失うことを意味するからである。
3 反対に、Ch.テイラーの言語論のような議論は、こうした善の構想のコンテクストにおけ る構成を問題にしており、そこで彼は『表現主義』によって考察している。善というもの は、言語共同体において、その都度自らの内省的意識(reflective awareness)を、言語によ って『表現』することによって創造していくのだという(Taylor 1985)。反対にハーバマス は、テイラーと同じく、こうした善の構想は生活世界のなかで醸成されるとはいうものの、
こうした何が善くて何が悪いのか、ということを分節化するには、言語の指示連関を内面 化させる、というにとどまっており、実際のところ明確にされていないところがある。も ちろん、テイラーにおいても「言語共同体」という概念を実体的に考えすぎているところ があるものの、ハーバマスよりは言語の全体論的なパラドクスに関して多くの仕事を残し ているといえるだろう。
したがって、ハーバマスは、こうした討議への動機づけに関しては、国家市民の規範的役 割として「期待する」にとどめるのである(Habermas 2005)。
5.むすびにかえて
普遍的な道徳の基礎づけをおこなおうとするならば、自らの善き生を抽象的で形式的な 言語で表現するという代償を支払うしかないのだろうか。もちろん、それが容易な場合も あるだろうが、そうでないこともある。善の構想をこうした言語で表現することがうまく いかない場合、他者とこの先の自己の、善の抽象化に伴う痛みは文字通り想像できないの である。それは耐えがたい痛みかもしれないし、そうではないかもしれない。あるいは、
痛みがあるだけではなく、そもそもそうした表現をとることや普遍的な道徳を目指すこと が無意味になってしまう可能性のほうが大きいかもしれない。しかし、もし、各人の善が 命題的に表現することで、耐え難い痛みをともなったり、こうした営為を無意味なものと 感じてしまったりする場合に、討議においてそれでも命題的な言語で表現せよ、と命じる 討議倫理は、果たして普遍的道徳の基礎づけにふさわしいものだといえるのだろうか?
討議倫理が普遍的道徳の基礎づけとしてふさわしくあるためには、討議参加権をもつ人 全てが、等しく討議参加に動機づけられるようでなければならない。さもなければ、討議 倫理が依拠している、討議そのものが十全的に展開していかなくなってしまうのである。
こうした動機づけをハーバマスが期待するとき、彼の論証的なコミュニケーションの構造 は普遍的なコミュニケーションモデルであると想定され、そこでは命題内容と善き生のそ れぞれは、一対一の対応関係が可能であると見られているだろう。
本報告では、討議倫理および討議倫理が依拠する討議理論と善の構想との関係から、ハ ーバマスの討議倫理と討議理論を批判的に検討してきた。この結論は、ハーバマスの討議 倫理だけの問題ではなく、そもそも討議それ自体が普遍的となり得ない可能性を示してい るといえるだろう。これはハーバマスの形式語用論がそもそも抱える問題であり、ハーバ マスの言語観に直接結びつく問題である。したがって、ハーバマスの言語論の問題を、今 以上に明確に取り出すためには、他の言語論から分析する必要がある。
とりわけ善き生の言語化をめぐる問題においては、Ch.テイラーの言語論は、注目に値す る。彼の言語論はハーバマスのそれと類縁生を持ちつつも、明確な差異を有している。そ こで問題になるのは、おそらく、言語というメディアがそもそも普遍的了解可能性に開か れたメディアでありうるのか、ということである。この問題を考える上で、しばしば言語 論に関する議論に現れる言語の全体論的性質をめぐって、より踏み込んだ議論を展開して いく必要があるだろう。
※本原稿は、2010年度第50回日本社会学史学会大会での報告を加筆修正したものである。
参考文献
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