尾 張 北 部 地 域 に お け る 曹 洞 禅 の 展 開 ( 佐 藤) 一 七 〇
尾
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北
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は じ め に 尾 張 北 部 地 域 ( 以 下 で は 尾 北 と 略 称 す る) に お け る 曹 洞 宗 の 展 開 に つ い て の 考 察 を な す。 小 論 に 関 連 し て、 尾 張 南 部 地 域 ( 1 ) の 曹 洞 宗 発 展 に つ い て の 諸 問 題 は 既 に 取 扱 っ た。 以 下 は そ の 続 編 に 位 置 す る も の で、 尾 北 へ の 曹 洞 宗 進 出 に つ い て、 そ の 初 期 の 進 出 定 着 期 に つ い て の 考 察 を な す も の で あ る。 尾 北 と 称 さ れ る 地 域 は 比 較 的 広 い 面 積 を 持 ち、 北 部 を 中 仙 道 と 参 州 街 道 が 通 過 し、 南 は 岡 崎 か ら 熱 田 を 東 海 道 が 横 切 る と い う 地 域 性 を 有 す。 そ れ 等 を 考 慮 に 入 れ、 尾 北 を 五 区 に 分 割 し て 論 考 を 順 次 進 め て ゆ く こ と と す る。 今 回 は 尾 北 の 初 回 と し て、 最 北 部 地 域、 つ ま り 現 在 の 地 名 で は 小 牧、 春 日 井 両 市 を 中 心 と し た 地 域 を 調 査 対 象 区 域 と し た。 鎌 倉 時 代 末 か ら 室 町 時 代 に か け て の 曹 洞 宗 は、 螢 山 禅 師 と そ の 門 下 の 出 現 を 大 き な 転 換 点 と し て 急 速 に 教 線 の 拡 大 を な し と げ て ゆ く。 そ の 外 的 要 因 と し て は、 旧 体 制 の 崩 壊 が 進 む に つ れ、 経 済 的 に 余 裕 を 持 つ に い た る 在 地 勢 力 と し て の 土 豪 な ど 地 方 武 士 の 存 在 と、 経 済 流 通 の 発 展 で 生 き 返 る こ と の で き た 感 の あ る 民 衆 の 素 朴 な 信 仰 に 禅 宗 が 適 合 し た か ら で あ る と い わ れ て い る。 前 者 に つ い て は、 自 ら の 血 を 流 し、 全 て を 賭 け て 手 中 に 納 め る こ と の で き た 所 領 に は、 そ れ に 至 る 迄 に 費 さ れ た 祖 先 の 労 苦 が 精 神 伝 統 と し て 息 衝 き、 そ の 精 神 は 修 道 的 色 彩 を 強 め て、 所 領 安 堵 を 祈 願 す る と い う 現 実 的 側 面 と と も に 新 仏 教 へ の 傾 頭 と な っ て ゆ く。 単 に 経 済 体 と し て の 所 領 で は な く、 精 神 の 依 り 所 と し て の 存 在 へ と 変 化 し て ゆ く か ら、 氏 又 は 祖 霊 を 祭 る こ と は、 祖 先 の 意 志 の 継 承、 精 神 伝 統 の 固 守 と な る の で あ り、 そ れ が 氏 寺、 又 は 又 菩 提 寺 の 建 立 と な る の で あ る。 後 者 は、 尾 張 で は 十 三 世 紀 後 半 か ら 十 五、 六 世 紀 に 至 る 記録 に、 商 品 貨 幣 経 済 の 場 で あ る 市 場 が 多 く 記 さ れ て い る こ と か ら、 生 活 水 準 の 向 上 が 推 察 可 能 で あ る。 尾 北 に 限 っ て 例 を 挙 げ れ ば、 旧 海 東 郡 の 海 東 上 荘 市 庭、 萱 津 東 宿 市、 旧 中 嶋 郡 の 国 衙 下 津 市、 同 じ く 八 瀬 市 庭 な ど な ど 多 く が 見 出 せ る。 塩、 木 綿、 紙 な ど 日 常 品 が 近 江 商 人 に よ っ て 流 通 経 路 に 乗 せ ら れ て い た の で あ る。 ま た、 名 田 を 単 位 と す る 農 業 経 営 が 解 体 し て 小 経 営 を な す 小 農 民 層 が 出 現 す る の も こ の 時 代 で あ る。 一 反 か ら 二 反 と い っ た 耕 地 が 一 筆 ず つ 耕 作 人 の 名 前 で 記 載 さ れ て い る 検 注 帳 に よ り そ の 存 在 が 確 認 で き る の で あ る。 こ れ ら の 事 柄 は、 農 村 を 支 配 す る 地 侍、 土 豪 と い っ た 領 主 層 が 強 い 力 を 有 し て お り、 そ こ に は 小 農 民 を 底 辺 と し、 有 力 領 主 を 頂 点 と す る 階 層 社 会 が 構 成 さ れ て い た こ と を 窺 わ せ る 上 記 の 点 も 考 慮 に 入 れ、 当 地 域 で の 曹 洞 宗 発 展 の 一 大 拠 点 と な る 小 牧 大 叢 山 福 厳 寺 を 中 心 と し て 以 下 に 論 考 す る。 二 福 厳 寺 ( 旧 称 宝 積 寺) の 開 創 は、 文 安 二 年 ( 一 四 四 五) で あ る か ら、 そ の 時 代 の 当 地 域 に お け る 鎌 倉 新 仏 教 各 派 の 状 況 を 概 観 し て 導 入 と な す。 先 ず 浄 土 宗 と し て は、 福 厳 寺 開 創 と な る 前 後 に は 未 だ 勢 力 の 進 出 は な く、 犬 山 の 専 年 寺 (弘 治 元 年、 一 五 五 五) の 建 立、 同 じ く 常 満 寺 ( 天 正 八 年、 一 五 八 ○)、 及 び 春 日 井 の 退 休 寺 ( 正 保 年 中、 一 六 四 四 四 八) が 注 目 さ れ る 程 度 で、 年 代 的 に 進 出 は 曹 洞 宗 よ り も 遅 れ て い る。 そ の 年 代 の 開 き が 原 因 と な っ て い る の で あ ろ う が、 当 時 の 勢 力 と し て も、 少 な く と も 曹 洞 宗 の 進 出 期 を 考 え る 場 合 に は 大 き な 影 響 を 与 え る こ と は な い。 浄 土 真 宗 に つ い て は、 蓮 如 の 登 場 以 後 尾 張 の 北 西 部 を 申 心 と し て 勢 力 を 拡 大 し て ゆ く か ら、 ほ ぼ 曹 洞 宗 と 同 時 期 に こ の 地 で の 本 格 的 展 開 を 開 始 し た と 考 え て よ い。 小 牧 西 源 寺 に は 蓮 如 の 真 筆 と い わ れ る 文 明 六 年 ( 一 四 七 四) の 書 状 が 収 め ら れ、 創 建 年 代 も 同 時 期 と 伝 え る 如 く で あ る。 そ し て、 そ の 進 出 形 態 は、 禅 宗 が 旧 仏 教 勢 力 を 浸 蝕 し つ つ 教 線 を 拡 大 し て い っ た の と 同 様 な 動 き を 見 せ て い る。 長 享 年 間 か ら 天 文 年 間 に か け て の 約 七 十 年 の 間 に 旧 仏 教 か ら の 転 宗、 又 は 新 寺 建 立 を な し て お り、 曹 洞 宗 の 進 出 期 と ほ ぼ 同 時 期 か、 少 し 遅 れ て の 進 出 と い う こ と が で き る。 例 と し て は、 犬 山 円 長 寺 は 明 応 元 年 ( 一 四 九 二) の 転 宗 で あ り、 同 じ く 浄 正 寺 は 明 応 七 年 ( 一 四 九 八) の 転 宗 の ご と く で あ る。 日 蓮 宗 に つ い て は、 日 蓮 の 弟 子 で あ る 日 澄 が、 名 古 屋 熱 田 に 本 遠 寺 を 開 い た の が 正 安 二 年 八 二 三 〇 〇) で あ る か ら、 そ の 影 響 が 北 の こ の 地 に も 見 ら れ て よ い の で あ る が、 現 資 料 で は 定 か で な い。 逆 に、 曹 洞 宗 よ り も 遅 れ て の 参 入 の 資 料 が 多 尾 張 北 部 地 域 に お け る 曹 洞 禅 の 展 開 ( 佐 藤) 一 七 一
尾 張 北 部 地 域 に お け る 曹 洞 禅 の 展 開 ( 佐 藤) 一 七 二 く、 地 域 的 に も 春 日 井 ・ 犬 山 両 地 域 に は 極 め て 少 な く、 両 地 域 の 中 間 た る 小 牧 周 辺 に 集 中 し て い る の が 特 徴 で あ る。 次 に 臨 済 宗 に つ い て で あ る が、 こ の 地 方 で の 臨 済 宗 の 勢 力 は、 応 永 二 十 二 年 ( 一 四 一 五) に 開 創 さ れ た 犬 山 瑞 泉 寺 に 負 う 所 が 大 き い。 十 四 世 紀 以 前 の 臨 済 宗 と い え ば、 尾 張 地 域 に は 名 古 屋 長 母 寺 に 円 爾 下 の 無 住 が 弘 長 二 年 ( 一 二 六 二) に 入 り、 天 台 宗 か ら 転 宗 さ せ た こ と に 始 ま る。 し か し 勢 力 拡 大 に 向 け て 大 き く 活 動 す る こ と な く、 そ の 後 の 積 極 的 展 開 に は 瑞 泉 寺 の 出 現 を 待 た ね ば な ら な か っ た。 犬 山 徳 林 寺、 文 明 元 年 ( 一 四 六 九) 建 立、 同 じ く 徳 授 寺 は 文 明 八 年、 永 泉 寺 は 天 文 元 年 ( 一 五 三 二)、 福 昌 寺 は 永 正 五 年 ( 一 五 〇 八)、 顕 宝 寺 は 明 応 五 年 ( 一 四 九 六) と い っ た よ う に、 一 四 五 〇 年 以 降、 堰 を 切 っ た よ う に 続 々 と 新 た に 寺 院 が 建 立 さ れ、 ま た 転 宗 さ せ て ゆ く の で あ る。 臨 済 宗 の 尾 北 で の 勢 力 形 成 は、 各 寺 院 の 開 創 転 宗 年 代 よ り 考 え る に、 曹 洞 宗 よ り も 若 干 先 行 し て い た と い う こ と が で き よ う。 瑞 泉 寺 開 山 と し て 勧 請 さ れ た 無 因 宗 因 は、 尾 張 北 西 部、 現 在 の 一 宮 市 周 辺 に そ の 勢 力 を 有 し た 在 地 武 士 た る 荒 尾 氏 の 出 身 と 伝 え ら れ る か ら、 そ の 縁 を 得 て 弟 子 の 日 峯 宗 舜 が 外 護 を 受 け、 瑞 泉 寺 を 開 創 し た と 考 え ら れ る。 そ の 後、 瑞 泉 寺 は 景 川、 悟 渓、 東 陽、 特 芳 と い っ た 瑞 泉 四 派 の 活 躍 に よ り 大 き く 教 線 の 拡 大 を な し、 当 地 域 の 最 北 部、 犬 山 北 部 一 帯 に 強 固 な 地 盤 を 築 き 上 げ、 曹 洞 宗 の 侵 入 を 許 さ な か っ た の で あ る。 そ れ は、 尾 南 に お け る 臨 済 宗 が、 曹 洞 宗 に 切 り 崩 さ れ、 臨 済 宗 か ら 曹 洞 宗 へ の 転 宗 も 見 出 せ た の に 対 し て、 尾 北 の 当 地 域 に お い て は そ の よ う な 事 例 は 見 出 せ ず、 勢 力 の 強 固 な 点 を 裏 付 け て い る。 三 上 記 の 状 況 の 中 で 曹 洞 宗 は 福 厳 寺 を 中 心 と し て 展 開 し て ゆ く 開 創 す る の は 太 源 派 の 月 泉 性 印 ( 一 四 〇 八 一 四 七 〇) で あ る。 東 海 地 方 に お け る 太 源 派 の 展 開 は、 遠 州 森 の 大 洞 院 を 拠 点 と し て 東 海 道 を 下 っ て 来 る の で あ る が、 大 洞 院 は 太 源 の 法 嗣 梅 山 聞 本 を 開 山 に 請 し、 そ の 資 た る 如 仲 天 闊 に よ り 開 か れ た 寺 で あ る。 福 厳 寺 を 開 く 月 泉 は 如 仲 の 法 孫 に 位 置 す る 師 の 霊 獄 洞 源 ( 一 四 九 一) を 開 山 に 請 し て い る。 福 厳 寺 の 外 護 者 は 大 草 城 主、 西 尾 道 永 で あ る。 地 方 史 に よ っ て は 郡 主 と 称 さ れ て い る 場 合 も あ る が、 実 質 的 に は こ の 地 域、 つ ま り 参 州 街 道 と 中 仙 道 に 挟 ま れ た 交 通 の 要 衝 を 押 え て い た 土 豪 と 見 て よ い で あ ろ う。 大 草 城 は 昭 和 五 十 年 か ら 二 年 を か け て 発 掘 調 査 さ れ、 そ の 所 在 が 確 認 さ れ る と と も に、 い わ ゆ る 山 城 で あ っ て 大 規 模 な 築 城 で は な い こ と が 明 ら か に さ
れ た。 し か し、 西 尾 氏 に つ い て の そ の 後 の 消 息 は 一 切 不 明 で、 一 族 と も ど も 地 方 史 上 か ら も、 寺 伝 か ら も そ の 行 方 を 断 っ て い る。 俗 説 に よ れ ば、 岩 倉 織 田 氏 と 被 官 関 係 に あ っ た も の の、 清 洲 ・ 岩 倉 両 織 田 家 の 内 証 に 関 与 し て 敗 れ、 こ の 地 を 離 れ て 美 濃 の 斎 藤 道 三 を 頼 っ た と も 伝 え ら れ る が 詳 細 は 不 明 で あ る。 い ず れ に し て も、 次 な る 時 代 へ の 対 応 を 誤 っ て、 政 治 的 ( 2 ) に 衰 退 し て い っ た 一 族 と み る こ と が で き る。 福 厳 寺 は 創 建 当 初、 つ ま り 月 泉 の 代 に は 宝 積 寺 と 称 し た が、 第 二 世 盛 禅 洞 爽 ( 一 四 三 四 一 五 一 八) の 代 に 現 在 地 へ 伽 藍 を 移 築 し て 福 厳 寺 の 額 を 掲 げ た の で あ る。 盛 禅 は 当 初、 月 泉 の 師 霊 獄 に 侍 す が、 霊 獄 寂 後、 そ の 遺 言 に 従 っ て 月 泉 に 参 じ、 そ の 法 を 嗣 い で こ の 地 に 来 る の で あ る。 月 泉 の 開 法 に 信 望 を 強 め た 西 尾 氏 は、 三 年 の 月 日 を か け、 力 を 尽 く し て 大 草 村 に 伽 藍 を 造 営 し、 隣 村 で あ っ た 野 口 村 の 小 庵 宝 積 寺 を 撤 し て 寺 名 を 福 厳 と し た の で あ る。 福 厳 寺 を 中 心 と す る 曹 洞 宗 の 宗 勢 拡 大 の 基 礎 は 第 二 世 盛 禅 の 代 に 築 か れ た と い っ て よ い。 西 尾 氏 は 盛 禅 の 代 以 降 そ の 名 を 見 出 す こ と が で き ず 衰 退 し た も の と 推 察 さ れ る が、 福 厳 の 系 譜 は、 盛 禅 下 五 神 足 と 称 さ れ る と こ ろ の、 祖 奄 英 彰、 養 拙 自 牧、 来 鳳 一 復、 便 竜 偉 松、 卍 室 長 吉 の 福 厳 五 派 が そ の 門 葉 を 大 き く 広 げ、 こ こ か ら 曹 洞 宗 独 自 の 展 開、 つ ま り、 外 護 者 の 政 治 力 か ら 脱 し た、 宗 教 本 来 の 在 り 方 と し て 教 化 が 行 な わ れ、 進 出 発 展 し て ゆ く の で あ る。 こ の 地 域 に お い て は、 尾 南 に お け る 水 野 氏 と 乾 坤 院 の 場 合 と は 全 く 異 な り、 十 五 世 紀 か ら 十 六 世 紀 半 ば に か け て、 在 地 勢 力 の 中 か ら 他 を 制 圧 す る 政 治 的 覇 者 が 登 場 し な か っ た こ と に よ り、 政 治 力 を 背 景 と し た 宗 教 的 覇 者 が 登 場 し な か っ た こ と に あ る。 在 地 武 士 達 の 勢 力 は 屹 衝 し、 い わ ば 団 栗 の 背 比 べ 的 状 況 が、 福 厳 ・ 瑞 泉 創 草 時 の 社 会 状 態 で あ っ た と い え る。 犬 山 の 地 に 荒 尾 氏 の 影 響 を 受 け た 臨 済 宗 の 瑞 泉 寺 が 創 建 さ れ る と、 所 領 が そ の 南 に 隣 接 す る 西 尾 氏 は、 京 都 方 に 付 く 荒 尾 氏 に 対 し、 守 護 の 斯 波 氏 ( 直 接 に は 守 護 代 た る 織 田 氏) 方 に 身 を 寄 せ る こ と か ら、 政 治 的 利 害 が 対 立 し て く る の で、 自 ら の 宗 教 と し て 曹 洞 宗 を 選 択 し、 福 厳 寺 を 建 立 す る の で あ る。 そ し て、 こ の 両 外 護 者 は と も に 衰 退 し て ゆ く 一 族 で あ っ た こ と が 共 通 し て い る。 そ の こ と が 幸 い し て、 尾 南 に お け る 政 治 的 従 属 が そ の ま ま 宗 教 的 従 属 と い っ た 形 態 は 起 こ ら な か っ た の で あ る。 こ の 点 は、 両 地 域 に お け る 臨 済 ・ 曹 洞 両 宗 の 宗 勢 に も 如 実 に 現 わ れ て お り、 尾 南 で は、 曹 洞 宗 の 一 六 七 箇 寺 に 対 し て、 臨 済 宗 の 一 〇 箇 寺 で あ る の に 比 べ、 当 地 域 で は、 曹 洞 宗 の 五 七 箇 寺 に 対 し て、 臨 済 の 六 二 箇 寺 と な っ て い る。 そ し て 瑞 泉 寺 の 所 在 地 た る 犬 山 で は 臨 済 宗 の 三 〇 箇 寺 に 曹 洞 宗 の 三 箇 尾 張 北 部 地 域 に お け る 曹 洞 禅 の 展 開 ( 佐 藤) 一 七 三
尾 張 北 部 地 域 に お け る 曹 洞 禅 の 展 開 ( 佐 藤) 一 七 四 寺、 逆 に 福 厳 寺 の 所 在 地 た る 小 牧 は 曹 洞 宗 三 四 箇 寺 に 臨 済 宗 の 七 箇 寺 と な っ て、 数 字 の 上 か ら も 地 域 的 特 質 を 如 実 に 知 る こ と が で き る。 四 こ の 地 の 西 尾 氏 が 曹 洞 宗 を 選 択 し な け れ ば な ら な か っ た 積 極 的 要 因 は 現 在 の と こ ろ 見 出 せ な い と い え る が、 逆 に 荒 尾 氏 が 臨 済 宗 に 帰 依 し た 理 由 は 明 確 で あ る か ら、 そ の 点 か ら 西 尾 氏 の 置 か れ た 立 場 を 推 測 す る こ と が 可 能 で あ る。 足 利 氏 と 結 ん だ 荒 尾 氏 は、 そ の 関 係 か ら 一 族 の 中 に 臨 済 宗 に 出 家 し た 無 因 宗 因 が あ り、 積 極 的 に 臨 済 宗 を 外 護 し た。 こ の 点 が 西 尾 氏 の 判 断 に 大 き な 影 響 を 与 え て い る の で あ ろ う。 大 草 城 の 構 築 が 文 安 年 間 ( 一 四 四 四 四 九) と さ れ て い る か ら、 月 泉 に よ る 宝 積 寺 の 創 草 と ほ ぼ 同 時 期 と い え る。 こ の 時 代 を 西 尾 氏 の 勢 力 拡 充 期 と み れ ば、 そ れ が 一 段 落 し て 後、 一 大 伽 藍 を 造 営 し て 福 厳 寺 と な し、 氏 寺 建 立 の 意 味 と、 地 域 の 民 心 掌 握 の 手 段 と な し た と い う こ と が 可 能 で あ る。 宗 教 者 の 理 念 と は 別 に、 外 護 者 の 政 治 的 興 隆、 没 落 の 影 響 を 大 き く 被 る の が 拠 点 確 保 時 代 の 形 態 と い え よ う。 1 拙 論 ﹁ 逆 翁 宗 順 と 尾 張 の 曹 洞 宗 ﹂ (﹃ 宗 学 研 究 ﹄ 第 二 七 号 曹 洞 宗 宗 学 研 究 所 昭 和 六 〇 年 三 月) 九 九 一 〇 四。 拙 論 ﹁ 尾 張 南 部 地 域 に お け る 曹 洞 禅 の 展 開 ﹂ ( ﹃ 宗 教 研 究 ﹄ 第 五 八 巻 第 四 輯 日 本 宗 教 学 会 昭 和 六 〇 年 三 月) 二 一 六 二 一 七。 2 足 利 義 尚 の 頃 に な る と 地 方 武 士 は 上 級 権 力 と 結 ん で 所 領 の 安 堵 を 求 め、 よ り 確 実 な 支 配 を 行 な お う と す る。 無 因 宗 因 の 俗 縁 た る 荒 尾 氏 は、 尾 張 北 西 部 の 領 主 的 存 在 で あ っ た が、 義 尚 の 在 陣 衆 に 名 が 見 え、 直 接 京 都 に 味 方 し て い た こ と が 知 ら れ る。 し か し、 そ れ 迄 荒 尾 氏 の 配 下 に あ っ た 富 田 氏 等 は 荒 尾 氏 と の 関 係 を 断 絶 し て 守 護 の 斯 波 氏 や、 守 護 代 の 織 田 氏 に 身 を 寄 せ て い る。 こ の よ う に、 領 国 近 辺 の よ り 強 い 権 力 者 へ 結 集 し て ゆ く 勢 力 と、 従 来 の 権 威 に 従 う 者 と、 政 治 判 断 が 分 か れ て い っ た の で あ る。 そ の 結 果、 将 軍 の 影 響 力 低 下 と と も に 荒 尾 氏 の 所 領 支 配 は 守 護 勢 力 に よ っ て 根 底 か ら 覆 さ れ、 荒 尾 氏 は 歴 史 の 表 面 か ら 姿 を 消 す の に 対 し て、 富 田 氏 は 勢 力 を 拡 大 し て く る の で あ る。, 足 利 義 尚 の 時 代、 文 明 五 年 か ら 延 徳 元 年 ( 一 四 七 三 一 四 八 九) は、 曹 洞 宗、 臨 済 宗 の 進 出 定 着 期 に 当 た る。 ( 愛 知 学 院 短 期 大 学 講 師)