『ウィトゲンシュタインのパラドックス』におけるソール・クリプキの《言葉が何かを 意味しているという事実は存在しない》という懐疑的テーゼは、我々の直感に強く反す る。しかし、直感に反するがゆえに魅力的であるのもまた事実である。
本論文で論じられるのは、クリプキの議論における自家撞着の問題である。彼は、自身 の懐疑に対して提出された手立てである傾向性の議論に対して、非常に手厳しい批判を加 え、これを棄却する。しかし、それを越えて示されたクリプキの帰結もまた傾向性的に理 解するのが適切であるように思われる。この仮説が正しいならば、クリプキの批判は自分 自身の議論に返ってくることになり、自家撞着となる。本論文の目的は、この自家撞着の 問題を解消するところにある。
まず、第1節にて、クリプキの懐疑の導入となる「クワディション」の計算について紹 介する。第2節にて、傾向性理論の概要、その有効性、そして傾向性理論に対するクリプ キの一連の批判について参照する。第3節にて、クリプキの提示した懐疑的解決について 紹介する。第4節にて、言明可能性条件が傾向性的なものであるということを示す。第5 節にて、自家撞着の問題を提起し、この問題の解決を試みる。
1 クワディション
クリプキの行った問題提起は、我々が何かの規則に従っているという事実は存在しない のではないか、そして、私が何かを意味していたという事実も存在しないのではないか、
というものである。ここではまず、クリプキが挙げた「クワディション」について説明 し、このクワディションの議論から導かれる懐疑を提示する。
私が過去足し合わせたことのある数は有限個しかない。したがって、そうした数のうち
クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』
における自家撞着の問題
小 原 久 弥
* 社会科学総合学術院 千葉清史教授の指導の下に作成された。
最大のものがあるはずだと考えられる。仮に、私が過去に行ったことのある足し算のうち で現れた最大の数が56であったとする。このとき、たとえば「68+57」は、私がまだ行 ったことのない計算である。もし私が、この「68+57」を計算しろと誰かに言われたら、
私は当然「125」と返すことになる。
しかし、ここで「変な人」が現れ、私とは異なった答えを述べる。彼の言うところによ ると、「68+57」の答えは「5」であるという。
「変な人」は、次のような規則に従って「68+57」を計算するという。
規則 1:足される数xと足す数yがどちらも57より小さいとき、x+y
規則 2: それ以外のとき(たとえば、「68+57」といったような、足される数または 足す数が57以上のとき)、5
私が過去、それに従っていると思っていた通常の足し算規則を「アディション」と名づ ける。一方で、「変な人」が提示した、上の規則で表されるものを「クワディション」と 呼ぶことにする。先の仮定より、私が過去、アディションに従っていると思って計算上扱 ってきた数は57を超えないものである。クワディションの規則を参照すると、過去に私 が従っていたと思っている規則は、実はアディションではなくクワディションであったと 解釈しても矛盾が生じないことになる。
以上より取り出せる疑いは、私が過去に「+」でアディションを意味してきたというこ とを、いかにして私は知りうるのか、というものである。そして、この疑いは、私の計算 規則に関する懐疑的仮説を斥けることができるか、という問題として次のように提起され る:私は過去において「+」でクワディションのことを意味してきた、という仮説が誤り であり、私は過去において「+」でアディションのことを意味していた、ということを立 証できるか。
クワディションの例における仮定では、私は現在、まだ「68+57」の計算をしたことが ない。このとき、私は過去において、ある規則に従って「+」の記号の意味を解釈して計 算をしてきたのであり、そしてその規則に従えば「68+57」の答えは「125」となる、と いうように主張しても、それは有効ではない。過去、私はこの規則を有限回しか用いたこ とがない。それならば、私が従っていると信じていたこの規則の適用は、私に用いられた この有限個の規則の適用例すべてと矛盾しないような、ある別の規則の適用であった、と いうふうに再解釈をすることができるように思われる。私はこれまで「+」の記号を用い る計算をするとき、「2つの数を足す規則(アディション)」ではなく、「57より小さい数 を扱うときはその2つの数を足し、57以上の数を扱う計算をするときは、その計算の答 えはすべて5になるという規則(クワディション)」に従って行っていた、という主張は、
私が過去に行った計算で扱った数はすべて57より小さかった、という事実に矛盾しない。
この点で、私がこの「+」の記号で従っていた規則がアディションであるのか、それとも
クワディションであるのかを決定することはできない。
以上より、過去に私が「+」でアディションを意味してきたという事実は存在しないの ではないか、という懐疑が提出されることになる。
2 傾向性による解決
第1節にて概観されたクリプキの懐疑に対して「傾向性」という理論的手立てを用いた 解決が提案される。非常に簡単な仕方で説明すると、傾向性的性質とは「ある存在者が持 つ、ある特定の状況においてのみ顕現する特定の性質」というものである。《私は「+」
でアディションを意味している》という命題が《私は「+」によるある計算問題に対して 適切なサム(=アディションの和)を提出するように「傾向性づけられている(be
disposed to)」》ということを指示していると理解することによって、意味に関するクリプ
キの懐疑を回避することが可能であるように思われる。しかし、クリプキはこれを「意味 の規範性」という観点から棄却する。本節では、傾向性理論の概要(2─1)、その有効性
(2─2)、そして傾向性理論に対するクリプキの一連の批判(2─3)の順で説明する。
2 ─ 1 傾向性
「傾向性(Disposition)」とは、ある存在者が持つ、ある特定の状況においてのみ顕現す る特定の性質を意味する。
まず、傾向性というものを理解するにあたって、食塩がある傾向性を持っているとはど ういうことか、ということについて考えてみたい。食塩は、《水に溶ける》という性質を 持っている。しかし、食塩が水の中に入れられていない状態では、そのことを確かめるこ とはできない。食塩が水に溶けるということを確かめることができるのは、食塩を水の中 に入れることによってである。食塩においては、水の中に投入されるという特定の条件下 にあるときに初めて、水に溶けるという性質が顕在化する。この食塩の性質について、
《食塩は水に溶けるという傾向性を持っている》と述べるような仕方でそれを説明するこ とができる。
このように、《あるものがAという傾向性を持っている》ということは、《あるものが、
ある状況のもとで顕在化する特定の性質Aを持つ》ということであるといえる。
2 ─ 2 傾向性の議論とその有効性
クリプキが提示した懐疑の導出は次のようなものであった:過去における、ある規則の 有限回の適用の事例について、その適用の仕方の全てに矛盾しないように、その規則を別 の規則として幾通りにも再解釈することが可能である。したがって、私の従っていた規則
がそれらの中のどの規則であったか、ということを一意に確定させることはできない。つ まり、私が過去「+」という記号でもってアディションを意味していたか、あるいは別の 算術的規則を意味していたか、ということを示すものは、過去の私の「+」の適用の事例 を参照しても発見できない、ということである。
今、私があるアディションの計算をするような機会を考えてみる。普通、私が「+」で アディションを意味し、アディションの規則に従って計算をするということは、私はアデ ィションを計算せよと言われたらサム(=アディションを計算せよと言われたときに提示 しうる、アディションの正しい答え)を出す、ということであるといえる。
さて、ここでクリプキは次のような提案を検討する:私が「+」という記号でアディシ ョンを意味しているといえるのは、私が「アディションを計算せよと言われたらサムを出 す」という傾向性を持っているからである。たとえば、私が「68+57」に対して「125」
というサムを与えることができるのは、私が「68+57」に対して「125」というサムを与 える傾向性を持っているからである。この提案が含意するところのものを明らかにしてい けば、それはクリプキの懐疑に対する有効な反論となるように思われる。
我々が、アディションの計算に対してサムを出す、という傾向性を持っていると仮定す ると、その基盤性質1)は、食塩における水への可溶性の例と相等な仕方で、我々の身体な いし精神が持つ性質あるいは構造によるような何かに求めることが可能となるように思わ れる。サムを出すという傾向性の現れについて、そのような基盤がいかなる仕方で働く4 4か は明らかでないにしろ、サムを与えるための基盤である我々の身体の物理的性質そのもの は現在に確定可能であり、時間的な将来までの傾向性を保証するため、もし我々が、アデ ィションの計算をするように命令されたならば、常にサムを与えることができる、という ことが主張可能になる。つまり、「我々の身体があるという事実」といったような、ある 種の「傾向性的性質の顕現を保証する基盤的事実」に訴えることによって、サムを「いつ でも産み出すことができる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」2)という主張が可能となる。
この傾向性という手立てが持つような、意味の通時的な産出性4 4 4に訴えることによって、
クリプキの懐疑に対して有効な反論を立てることが可能であるように思われる。クリプキ の懐疑においては、《もし私が過去において「68+57」について問われたならば、私は
「125」と答えただろう》というような、反事実的条件文の形をとる言明は退けられる。し かし、傾向性の議論が打ち出す提案をとれば、我々が「68+57」という計算に対して
「125」を与える傾向性を持っているということを根拠に、たとえ我々が、クリプキがその 懐疑の中で仮定しているように、過去に実際に「68+57」の計算をしたことがなかったと しても、通時的に「68+57」に対して「125」を与えることができた、ということが主張 可能になる。「+」について、過去におけるその実際の使用にではなく、その記号に関す る我々の傾向性に根拠を求めることで、意味の不確定性を回避することが可能となるよう
に思われる。
2 ─ 3 この議論に対するクリプキの批判
クリプキは、傾向性の議論に対して「存在者の有限性」および「間違いの傾向性」とい う観点から批判を加える。
まず、ある対象において認められる傾向性的性質およびその基盤性質は、その対象の有 限性に依存せざるをえない。それならば、時空的に有限な存在者である我々が、無限の算 術的帰結をもたらすアディションの計算結果のすべてを網羅することができると考えるこ とは法外であるように思われる。非常に単純に、値の大きすぎる2つの数について、我々 がそのアディションを遂行することは不可能であるが、傾向性の議論が正しいならば、
我々はこのような計算問題に対しても適切なサムを提出することが可能でなければならな い、ということになる。この点で傾向性の議論を援用することについて矛盾が生じ、傾向 性が棄却されるべき理由の一つとなる。
また、傾向性の議論は我々において起こりうる「計算間違い」について、説得的な説明 を与えることができない。まず、ある人が、「68+57」という計算問題に対して「5」とい う答えを与えてしまった場合について考える。彼に対して傾向性的な分析を与えるなら ば、その解釈の仕方は《彼はアディションに対して適切なサムを与える傾向性を持ってい るが、今はそれが阻害されている》というものと、《彼は「68+57」という計算を遂行す るときにおいてのみ、そのサムを「5」と返し、他の計算はすべてアディションに一致す るような規則を用いるように傾向性づけられている》というものの2つの仕方であるよう に思われる。しかし、この二者の解釈のうちどちらが正しいのか、という問題に対して、
傾向性論者は回答を与えることができないように思われる。なぜならば、仮に彼が算術に 関するなんらかの傾向性を実際に持っていたとして、その傾向性的性質は、実際に彼が示 した計算の結果にのみ読み取られなければならないからである。つまり、傾向性の議論に 訴えるならば、今彼が「5」と答える限りにおいては、彼の持つ傾向性に関して、彼の持 つアディションの傾向性的性質の顕現が阻害されて「5」を出すに至ったということと、
特殊な状況においてのみアディションを逸脱するような傾向性的性質が彼において顕現し たということとを区別することができない、ということである。しかし、これらを区別す ることができなければ、彼が実際に4 4 4従っていたところのものが何であったのかを定めるこ とはできず、よって彼が「間違えたか否か」を確定することはできない。
クリプキの要求する言語的意味の正当性とは、いかなるときも我々の従う規則を一意に 定めるように命令するような、無限性と規範性とを持つものである。「有限性」の批判か らは、傾向性は、それの存する存在者およびその規則適用が有限である限り有限であると いうこと、そして「間違い」の批判からは、アディションに関する傾向性を認めてもなお
我々が従いうる規則の不確定性は問題として残り、この点において規範性を提示できてい ないということがそれぞれ示されている。以上より、傾向性の議論は、意味に関する正当 化を与えていないという点で、退けられることとなる。
3 懐疑的解決
クリプキは、提出された懐疑をうけて、意味に関する事実的基盤は存在しない、という ことを認める。次に、そのことを認めた上で、我々の言語使用について、我々が《言葉が 何かを意味している》ということを認めるような場合において、我々が実際に4 4 4行っている ことは何か、ということを分析する。そして、この分析の結果として、我々の言語使用に 関する非常に軽微な条件として「言明可能性条件(Assertability Condition)」を提案する。
この言明可能性条件が満たされる状況においてのみ、我々は言葉が何かを指し示すような4 4 4 4 4 4 4 仕方でそれらを使用することができる。クリプキは、この言明可能性条件の提出をもって 懐疑に対する「懐疑的解決(skeptical solution)」としている。
クリプキによると、孤立した個人のみについて考えるとき、彼は規則を適用するそれぞ れの段階において、確信をもって行為している、そして彼の、他の規則ではないその規則 の適用の仕方こそまさに答えを出すべき仕方であると正当化なしに言うことが、言明可能 性条件となる。すなわち、究極的には、《私は「+」でアディションを意味している》と 私(個人)が思っているならば、その確信に満ちた「心の傾き」が、《私は「+」でアデ ィションを意味している》ということを、いかなる正当化もなしに「言明可能」であるも のと考えるのである。その個人には「自然であり、不可避であると彼に思われる仕方で規 則を適用すること」(クリプキ,1983,p. 172)が許される。
しかし、この条件は、直ちに棄却される。なぜならば、個人においては、言語の使用に 関して正しさというものがなんらかの仕方で問題となることはないからである。個人の言 語使用の正しさに関する彼の確信が、実際に正しいものとされるか否かをチェックするに は、このような個人がなんらかの言語的共同体の内部に引き上げられているような状態に ついて考察する必要がある。
孤立していた個人でなく、共同体に所属している個人について考えるとき、単にその個 人が、「《私はこの規則に従っている》と思っていること」が言明可能性条件となることは ありえない。クリプキによると、この場合、規則が正しく適用されたと考えることに対し ては、他人の反応を含む条項が言明可能性条件となる。複数の人が、お互いに正しい規則 に従っていると判断できる状況、すなわち《私は「+」でアディションを意味している し、あなたもそうである》と判断できる状況は、「68+57」に対して、個人の出した答え と共同体の成員の答えが一致していると判断できるときのみである。そして、《我々は、
「+」でアディションを意味している》と言い合うことが許される現在の状況は、我々の
「+」による計算結果がこれまで一致しているという「どうしようもない生(ナマ)の経 験的事実」(クリプキ,1983,p. 212)によって支えられているのである。ある個人の言語使 用について、社会において一致がみられ、この一致と大きく食い違うものが少ない場合、
そのことをもって言明可能性条件としてよいとすることが、共同体における言明可能性条 件である。
4 言明可能性条件の傾向性的解釈
次のような提案をしたい:クリプキの解決は、傾向性概念を用いて理解されるべきであ る。それに従えば、《我々は共同体の言語使用と一致するように言語を使用する傾向性を 持っている》と考えられるべきである。すなわち、《我々は、共同体の中にあるという状 況のもとで、共同体における言語使用の結果と一致するように言語を使用するという特定 の性質が顕在化する、という傾向性を持っている》と考えられる必要がある。ここにおい て提案された傾向性を「言明可能性条件的傾向性」(以降、「AC的傾向性」と略記)」と 呼ぶことにする。
この解釈の妥当性は、次のようにして示される。まず、我々の行う言語的反応は、傾向 性的な振る舞いに則っていると解釈できると考えられる。《あるものがAという傾向性を 持っている》ということは、《あるものが、ある状況のもとで顕在化する特定の性質Aを 持ち、その状況下ならば、いつでも4 4 4 4その性質Aが顕在化する》ということであるといえ る。ここで、我々の「ナマの言語的反応」について考えてみる。「会話の成立」は、共同 体におけるある種の言語的な要請4 4に対する一つの特定の反応であると考えられる。多くの 場合、ここで述べるところの「成立」がみられるということは、クリプキが述べる「ナマ の事実」の通りである。すなわち、「会話の成立」は、言語使用の結果の一致の類型の一 つであるように思われる。この事実は《我々は、共同体の中にあるという状況のもとで顕 在化する、共同体における言語使用の結果と一致するように言語を使用するという性質を 持ち、その状況下ならば、いつでもその性質が顕在化する》という仕方で、実に傾向性的 に規定されていると考えられる。
次に、『哲学的探求』に関するコリン・マッギンの主張を援用することで、傾向性的解 釈が与えられうるという主張の妥当性を補強する。マッギンの『ウィトゲンシュタインの 言語論』によると、ウィトゲンシュタインは「傾向性案を実際に支持する」(マッギン,
1990,p. 110)発言をしている。
本質的なことは、語を聞くと同じものが私の念頭に浮かぶとしても、しかし、その使 用は場合によっては異なりうるということを見て取る、ということなのである。しか
らば、語はそれぞれの場合において同じ意味を持っているのか? 私の信じるところ によれば、我々は、その問いに対して、否定をもって答えるだろう。(ウィトゲンシュ タイン,1994,第140節)
マッギンの主張によれば、『哲学的探求』第140節にて示されていることは、特定の心 的過程が特定の意味を因果的に決定するということはない、というものである。特に、当 節の記述におけるウィトゲンシュタインの意図は「心に現前するものと[言語の]使用と を対置4 4することに他ならず、また彼は人々の間の意味の同一性が前者でなく後者の同一性 に基づく」(マッギン,1990,p. 111、補足は引用者による)ということを強調するところにあ り、ここにおいて心的過程が意味に寄与することはないということが示されていると考え られる。この点は、クリプキのウィトゲンシュタイン解釈にも多分に通ずるものである。
ウィトゲンシュタインにおける言語的意味とは、その言語の使用に等しい。彼において は、我々の言語使用について、意味に関するなんらかの事実を確認するには、その言語使 用の結果4 4が一致しているか否かを参照すればよい。その使用のみを見ればよいのであれ ば、意味の決定に関して、その言語使用に至るまでの内的ないし外的な過程がどのような ものであったか、ということは問題にならないように思われる。このようなことから、ウ ィトゲンシュタインにおいては、言語的意味とはそもそも傾向性的に読み取られるもので あったと考えることは妥当であるように思われる。
そして、我々における言語使用の一致が、意味に関する事実のための条件であるという ウィトゲンシュタインの考えは、まさしくクリプキの提案した言明可能性条件の内容と一 致する。すなわち、クリプキが真にウィトゲンシュタインの言語論的見解を汲んでいるな らば、言明可能性条件はむしろ傾向性的である必要がある。
以上の議論によって示されたのは、クリプキが提案した言明可能性条件はウィトゲンシ ュタインの示した帰結に則っており、かつ言語使用に関するウィトゲンシュタインの議論 は傾向性的であった、ということである。
5 自家撞着の問題とその解決
クリプキの言明可能性条件に対して傾向性的な解釈を与えることが可能であるという主 張が妥当であるならば、そのことは我々にとって一つの重要な問題として立ち現れてく る。その理由は、先の第2─3項で確認されたように、クリプキが同書において、傾向性 の議論に対して批判を与え、これを退けていたという点にある。クリプキは自身の議論に おいて、言語の意味論的な性質には無限性および規範性が含まれる、ということを前提し ていた。そして、傾向性の議論に訴えることでは、我々の言語使用において、この両者を 満たすような事実的基盤は確保されえないのであった。
しかし、言明可能性条件に対して傾向性的な解釈が与えられうるならば、それはクリプ キが自身の議論において、最終的には傾向性的な帰結に至っているということを意味す る。そしてこのことは次のような疑念を惹起するだろう:傾向性の議論を用いて行われ る、意味に関する事実的基盤の存在の擁護に対して彼が行った批判は、彼の提示した懐疑 的解決における言明可能性条件に対しても与えられうる、ということを免れないのではな いか?
まず、この疑念について説明することにしよう:クリプキによれば、言語的意味の持つ 基本条件とは、それが我々の言語行為において、我々が従う規則を一意に定めるように 我々に命令するような、ある種の規範性を持つことであった。しかし、傾向性の議論が呈 示するものは、《「68+57」という問題が与えられたならば、これに対して「125」を未来 において与えるであろう4 4 4 4(will)》という記述的な関係に過ぎないのであり、《「68+57」に 対して「125」を未来において与えるべき4 4(should)である》という言明のように、我々 に対してその規則の一意的な適用を指示するような規範性を呈示することはない。したが って、傾向性は意味に関する事実的な基盤にはなりえない。そして、AC的傾向性に対し て、クリプキが傾向性の議論に対して行った批判と相等な仕方で批判を加えることが可能 であるように思われる。
この批判を回避する手立てとして、私は、ここにおいて提案されたAC的傾向性が、ク リプキが棄却した傾向性とはタイプ4 4 4が異なるものである、という解釈を提案したい。この 提案が妥当なものであるならば、AC的傾向性に対して、クリプキの批判と相等な仕方で 批判が与えられるということは少なくとも避けられるように思われる。
ここで、クリプキが批判したタイプの傾向性を便宜上「真理条件(Truth Condition)的 傾向性」(以降、「TC的傾向性」と略記)と呼ぶことにし、これが性質上、AC的傾向性 とは異なるものであるということを示す。
先に再確認されたクリプキの傾向性批判から理解されるべきことは、そもそも傾向性の 議論は、クリプキが要求するような、意味に関する規範性に対してなんらかの説明を与え4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 るべく4 4 4提案された手立てである、ということである。傾向性の議論が懐疑の解消に有効で あると目されたのは、第2─2項にて紹介したとおり、それが意味に関する事実的基盤を 提供する手段の一つであるように思われたからである。
クリプキの懐疑において疑われる問いは、意味に関する事実的基盤を実際に4 4 4構成するも のは存在するのか、というものである。この問いに対して、その基盤は実在すると述べ、
それを説得的な仕方で提示することによって懐疑の解消を試みるという(クリプキが批判 した)方策を、私は懐疑の「真理条件的な解決」と呼びたい。このタイプの解決が与える のは、意味に関する事実的基盤が保証されるための必要条件である。たとえば、この方法 によってある条件xが提出されるならば、それは次の条件文を満たすことになる:xであ
るならば、我々は意味に関する事実的基盤を有している。この場合、xであることは、意 味に関する事実的基盤が存在するための真理条件である。このタイプの解決は、懐疑論者 の問題に正対し、そしてそれを解消する可能性を持つという点で強力なものである。そし て、この形式をもって提案された解決法の一つが、TC的傾向性の議論である。すなわ ち、私が「+」によってアディションを意味するための真理条件が、《私が「+」の計算 に対してサムを与える傾向性を持っていることである》と考えることでもって懐疑への応 答とした、ということが、この傾向性が本論において「真理条件的」と表現される理由で あり、そしてその有効性が期待される根拠なのであった。
この目論見が達成されるならば、クリプキの懐疑に対して「正面からの解決(Straight
Solution)」が与えられる、すなわち、クリプキの要求するところの、意味に関する規範
性を担った事実的基盤が提出されることになる。このことから、クリプキが批判した傾向 性は、意味に関するなんらかの規範性を与えるべく提案される傾向性概念であるといえ る。
次に、AC的傾向性について考察する。そのもととなる言明可能性条件とは、次の条件 文の前件の形で規定されるものであった:ある人がある概念に関し、ある一定の状況にお いて、共同体の他の人々がそこにおいて行うであろう行動と一致しない行動をとるとすれ ば、その共同体は彼について、彼はある概念を把握している、とはいえない。この条件文 は次のように書き換えられる:ある人がある概念に関し、ある一定の状況において、共同 体の他の人々がそこにおいて行うであろう行動と一致する行動をとる限りにおいて、我々 はその人物を共同体に受け入れることになる。そして実際に、我々の生活における多くの 場合において、各人の言語的反応は共同体における期待に一致している。
AC的傾向性は、《我々は、共同体の中にあるという状況のもとで、共同体における言 語使用の結果と一致するように言語を使用するという特定の性質が顕在化する》という傾 向性であった。これは、現に我々において成り立っていると認められるような、我々の言 語使用に関する経験的事実に対する一つの分析であり、意味に関するなんらかの事実的基 盤を提示するために提案されたものではない。すなわち、このような傾向性が実際に4 4 4ある ということによって、我々の言語的振る舞いに規範性を確保することを意図されたもので はない。言明可能性条件は我々の実際の言語使用に関する事実的分析の記述に過ぎず、そ のため、意味に関する事実的基盤を真理条件的に保証することはない。この点において、
AC的傾向性は、先のTC的傾向性とは異なるものであると考えられる。
自家撞着の問題は、クリプキの傾向性批判が、彼自身の提出した帰結である懐疑的解決 に対しても与えられてしまうことになるのではないか、というところにあった。TC的傾 向性の議論は、クリプキの懐疑に対して意味論的基盤を用意したと述べるものであり、そ の用意に関して不備が見受けられるということで、クリプキに批判されるものであった。
一方で、AC的傾向性は、そもそも意味論的基盤を与えるために提案された概念ではな い。そのため、TC的傾向性に対して与えられたようなクリプキの批判は、AC的傾向性 に対して与えられることはない。以上の議論から、クリプキの自家撞着の問題は解決され ることとなった。
注
1)傾向性の発現の基盤のこと。たとえば食塩は、その水溶性という傾向性の基盤性質として、そのミ クロ構造的な分子組成を持っていると考えられる。
2)「使用の傾向性は意味の産出性4 4 4を反映している」(マッギン,1990,p. 96)のマッギンの言に則る。
傾向性が意味論的基盤を担っていると考えることによって、我々が言語を使用していないときにおい ても、意味は実在したという主張が可能になるという、傾向性の議論の有効性の解説に用いられてい る。
引用文献
[1]ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン.黒崎宏監訳(1994)『哲学的探求』,産業図書(原典 1953).
[2]ソール・クリプキ.黒崎宏監訳(1983)『ウィトゲンシュタインのパラドックス』,産業図書(原 典1982).
[3]コリン・マッギン.植木哲也・塚原典央・野矢茂樹監訳(1990)『ウィトゲンシュタインの言語 論』,勁草書房(原典1984).