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目次 皇居東御苑 --- 城下町東京の中心 江戸城から皇居へ 2. 江戸城江戸城外郭江戸城内郭幕府が城内としていたエリア 3. 皇居および周辺地域皇居 ( 宮内庁管理地 ) 国民公園皇居外苑 ( 環境省管理地 ) 4. 皇居東御苑を歩く ( ツアーコース ) 和田倉噴水公園大手門付足

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NPO 法人東京シティガイドクラブ

名所・旧跡(都心・山の手・島嶼)グループ・土曜コース

平成23年度第5回研修会

皇居東御苑ツアー

---城下町東京の中心を歩く---

実施日:平成23年8月27日

○参考資料

江戸城 著者深井雅海 中公新書 江戸と江戸城 内藤晶 鹿島出版会発行 城郭侍屋敷古図集成 江戸城Ⅰ〈城郭〉監修平井聖 至文堂発行 皇居のしおり 菊葉文化協会発行 皇居東御苑セルフガイドブック 菊葉文化協会発行 江戸城と将軍の暮らし 監修平井聖 学習研究社発行 江戸図屏風をよむ 小澤弘・丸山伸彦=編 河出書房新社 江戸城の構造講義資料 江戸東京博物館学芸員・原史彦 江戸東京博物館特集展示図録「徳川将軍家ゆかりの女性」 幕末の大奥 著者畑尚子 岩波新書 江の生涯 著者福田千鶴 中公新書 江戸博覧強記 江戸文化歴史検定協会・編 小学館発行 徳川家康像 江戸東京博物館

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目次 皇居東御苑---城下町東京の中心--- 1.江戸城から皇居へ 2.江戸城 江戸城外郭 江戸城内郭 幕府が城内としていたエリア 3.皇居および周辺地域 皇居(宮内庁管理地) 国民公園 皇居外苑(環境省管理地) 4.皇居東御苑を歩く(ツアーコース) 和田倉噴水公園 大手門 付足:大名の登城、江戸城の主要門、枡形門 三の丸尚蔵館 済寧館 大手三の門跡、同心番所 百人番所 中の門跡、大番所 中雀門跡 本丸芝生(本丸跡) 付足:本丸御殿 富士見櫓 松の廊下跡 午砲台跡 富士見多聞 石室 天守台 付足:慶長の天守、元和の天守、寛永の天守、金明水、明暦の大火 大奥跡 付足:大奥女中の人数、篤姫、お江 桃華楽堂 楽部 書陵部 北桔橋 付足:江戸の水道は江戸城にも引かれていた 展望台 汐見坂 二の丸跡、白鳥濠 付足:二の丸東照社、皇居周辺域の濠 二の丸庭園 梅林坂 三の丸跡、平川門

皇居東御苑

---城下町東京の中心---

東京は江戸の歴史を深く秘めた都市である。江戸城は皇居となり、江戸情 緒は姿を変えながら生きている。東京の分りにくい道路網は、江戸の名残 の最たるものである。東京の街角には、いたるところに江戸の歴史がひそ んでいる。東京は城下町なのである。 そしてその中心・旧江戸城本城跡は、今は皇居東御苑となっている。城下 町東京の中心として、また私達の心の奥深くに共通に持っている日本的価 値観の原点が有った場所のようにも思う。

1.江戸城から皇居へ

江戸という言葉は鎌倉時代に書かれた「吾妻鏡」の中で治承4年(1180) 源頼朝挙兵の一連の戦いの一節の中で、始めて江戸の地名が歴史に登場す る。江戸が都市に大発展するのは、天正18年(1590)に大名である徳川 家康が関東転封となり、江戸を関東を治める根拠地に決めてからである。 小田原、鎌倉なども候補地であったが、関東平野の内陸に通じる河川に通 じ、港に適した江戸湾に面した大都市になる可能性を秘めたこの地を選定 した。江戸の地は水が無い武蔵野台地とその東側は低湿地帯で大きな町を 創り沢山の人が住む地としてはそのままでは不適であったが、家康は当時 の水利土木技術の進歩は、かつて無人の荒野として放置する他無かった原 野を開拓する可能性を見通していた。 関東独特の独立心の強い関東武士を統治することに失敗するだろうとの秀 吉の目論見も外れ、家康はむしろ、転封を利用して戦国的主従関係を近世 的な関係につくりあげ家臣団の統制の強化に成功した。 家康は慶長5年(1600)関が原の戦いで勝利し、政治の実権を掌握、その 3年後に征夷大将軍になって、実質的に日本の支配者になり、江戸は全国

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を支配する都市として急激に発展した。 以後、慶応3年12月の王政復古によって、征夷大将軍の職が廃止され、 翌年4月に江戸城を朝廷軍に引き渡すまで、徳川の城として265年の長 きに渡って江戸城を中心とした徳川幕府が日本を統治することとなった。 この間の約2世紀半を江戸時代と言い、戦争が無い、平和な時代として世 界史の中でも特異な歴史を有する地域であった。戦国時代と明治から昭和 20年までの戦争が続いたなかに、ぽっかり空いた2世紀半の平和な世に、 江戸の庶民文化が生まれ、それが現代の私達の価値観に、そして私たちの 生活の中に深く根差していると考える。その中心に存在したのが江戸城で ある。 明治になって、明治天皇の東幸の詔書に「朕今万機を親裁し、億兆を綏撫 (すいぶ)す、江戸は第一の大鎮、四方輻湊の地、宜しく親臨以て其政を 視るへし、因て今より江戸を称して東京とせん、是朕の海内一家、東西同 視する所以なり、衆庶此意を体せよ」とある。 こうして江戸は東京と称されるようになったが、地名としての東京は上記 の「東京とせん」を西京(にしのみやこ)に対する、「東京(ひがしのみや こ)とせん」を、誰かが早とちりして「地名を東京(とうきょう)にする」 と読んでしまったことによるようだ。 天皇は明治元年10月13日、今は聖蹟公園になっている品川本陣をたち 呉服橋から和田倉をへて東京城と改められた江戸城の西の丸に入られた。 その時、本丸は文久3年(1863)の火災で御殿の建物は焼失していた。 その後、東京城は明治2年3月に皇城と改称され、明治21年10月に宮 城と改称され、昭和23年7月に皇居と改称された。宮殿としては当初の 西の丸の御殿が明治6年5月に焼失し赤坂離宮を仮皇居とされた。明治2 1年10月に同所に明治宮殿が完成し昭和20年5月に戦災で焼失するま で宮殿として使用された。その後、宮内庁庁舎の一部を仮宮殿とされ、昭 和43年11月に新宮殿が完成し、今日に至っている。 皇居東側地区については皇居付属庭園として整備され、昭和43年10月 から皇居東御苑として公開された。

2.江戸城

江戸城の範囲 は係わった人 が住む場所や 立場などで人 によって異な ったイメージ をもっていた。 地図上の江戸 城の規模につ いては、享保 6年(1721) 閏7月に幕府 から出された城門の管理規定「曲輪御門御定書」のなかで次のように門を グループ分けしている。 内曲輪の中で特別な門・・大手御門、内桜田御門、西丸大手御門 内曲輪門・・・・・・・・和田倉御門、外桜田、神田橋、常盤橋、 馬場先、日比谷、半蔵、田安、竹橋、呉服、 一ツ橋、鍛治橋、数寄屋橋、清水口、雉子 外曲輪門・・・・・・・・幸橋、山下御門、虎御門、芝口、赤坂、 市ヶ谷、四ツ谷、牛込、小石川、筋違、浅草 この分類を元に江戸城の外郭、内郭を規定することにする。

●江戸城外郭

外曲輪門内で外堀の内側、いわゆる外濠で囲まれた範囲で、東西 5.5km×南 北 3.5km の範囲が江戸城の範囲になる。 実際の数字を示すものではないが、旗本8万騎と言われる守備軍の存在が これだけ広範囲のお城を持てる根拠になっていた。他の城とは比較になら ない規模のお城だったといえる。 寛永の江戸復元図

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●江戸城内郭

内曲輪門の内側で本城、西城、吹上、 北の丸と皇居外苑、大手町、丸の内、 有楽町のエリアで、嘉永2年(1849) 作成の尾張屋清七版「御曲輪内大名 小路絵図」等に描かれている範囲で ある。また、江戸の町民達は、この 範囲を「お城」と見ていたようで、 日本橋側からお城の方を描いた絵が 色々有るが常盤橋から数寄屋橋に至 る濠の向こうは森の中に御殿の屋根が見える「お城」として描かれている。

●幕府が城内としていたエリア

幕府は上記の「御曲輪内大名小路絵図」に鶴と亀が描かれている部分、本 城、西の丸、吹上のエリアを城内と見ていたように思う。北の丸にあった、 御三卿の田安家や清水家の位置は城内とは考えていなかったことが、光格 天皇に係わる尊号事件などから読み取れる。江戸城30万坪というのはこ のエリアの面積である。 「東京市史稿 皇城編」によると内訳は次の通りである。 幕府が城内としていたエリアの面積 本城 93,809坪(31ha) 内訳 本丸 34,530坪(11ha) 二之丸 27,585坪 三之丸 22,067坪 二之丸・三之丸間の濠 8,782坪 三之丸地詰より竹橋傍に至る所 836坪 西城(西丸・紅葉山・山里) 68,385坪 吹上御苑 130,568坪 吹上・西城間の濠 13,998坪 合計 306,760坪(101ha)

3.皇居および周辺地域

●皇居(宮内庁管理地)

皇居エリアは「パンフレット: 国民公園 皇居外苑(環境省皇 居外苑管理事務所発行)」による と、西城、吹上、本城、濠(白 鳥濠、天神濠、平河濠、乾濠、 蓮池濠、上下道灌濠)で、幕府 が城内としていたエリアとほぼ 一致している。面積は「皇居の しおり」に依ると、115ha (34万坪)とある。 皇居の面積115ha と2項の幕 府が城内としていたエリアの 総計101ha と食い違うが、吹 上と北の丸の境界と濠の面積のカウントの違いと考える。明治天皇が江戸 に来られた時には、本丸の御殿は文久3年(1863)に焼失、再建されてい た二の丸も慶応3年(1867)に焼失しており、江戸城の御殿は西の丸の御 殿だけになっていたので、西の丸が宮殿になり、後に明治宮殿そして現在 の宮殿を造るときも、この場所が選ばれた。 昭和43年11月、正殿、豊明殿、長和殿、千草・千鳥の間棟、北渡から 連翆、表御座所棟、表御座所付属棟と7棟からなる宮殿が完成した。 長和殿の前面の広場は東庭と呼ばれ、新年と天皇誕生日の際の国民一般参 賀の会場である。長和殿のべランダから天皇および皇族の方々が参賀の人 達に応えられる。 皇居東側地区については「皇居付属庭園として整備の上、宮中行事に支障 の無い限り原則として公開する」との閣議決定が宮殿造営の閣議決定と共 にされていたことに基づき、昭和43年10月から「皇居東御苑」として 皇居および周辺地域 環境省皇居外苑管理事務所発行 御曲輪内大名小路絵図 尾張屋清七版

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公開された。 皇居東御苑は皇居の一部で宮内庁が管理している御苑である。江戸城であ ったときは本城があった場所で、本丸、二の丸の大部分、三の丸の一部が 公開されている。 皇居東御苑の面積は21ha(皇居東御苑セルフガイドブックより)で、2 項の旧本城の面積31ha と一致しないのは公園として開放していない部分 と濠の面積のカウントのしかたの違いと考える。 皇居東御苑には大手門、平川門、北桔橋の三つの門から入苑できる。

●国民公園 皇居外苑(環境省管理地)

国民公園とは、旧皇室財産だった環境省管理の3つの公園、京都御苑(京 都御所)、新宿御苑、皇居外苑のことである。 国民公園皇居外苑は、皇居前広場を中心とした皇居外苑地区、皇居の北側 に位置する北の丸地区、及び12の濠によって皇居および周辺地区を取り 巻いている皇居外周地区に大別される。「皇居外苑」は広い意味で公園全体 を指す言葉として、そして狭い意味で西の丸下広場を指す言葉として使用 されている。 12の濠とは、大手濠、桔梗濠、蛤濠、和田倉濠、馬場先濠、日比谷濠、 凱旋濠、桜田濠、半蔵濠、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、清水濠である。 江戸城の城郭は、その規模においてわが国随一のもので歴史的価値が高く、 その名残を最もとどめている濠部を中心に「特別史跡江戸城跡」として文 化財に指定されている。また、桜田門、田安門、清水門は国の重要文化財 に指定されている。 皇居外苑地区は昭和24年4月に旧皇室の一部が国民公園として解放され たもので、北の丸地区は、旧近衛連隊の跡地を苑地に整備し、昭和44年 4月に公開された。 総面積は115ha(34万坪)で、皇居の面積とほぼ同じである。 内訳 皇居外苑地区、他・・・59ha 濠の水面部・・・・・・37ha 北の丸地区・・・・・・19ha

4.皇居東御苑を歩く

和田倉噴水公園から歩き、大手門から入苑することにする。和田倉噴水公 園は地下鉄大手門駅に近く、無料休憩所、公衆トイレなどもあり、待合せ に便利な場所である。そして、ここから大手門に向かう途中で、この地域 を大観することができる魅力もある。

●和田倉噴水公園

家康は天正18年(1590)8月朔日関東に入府したその月に、荒廃した江 戸城を修築するよりも先に、江戸湊(江戸橋あたり)から江戸城に通じる 道三掘と呼ばれる舟入掘の開掘に着手した。その終端が、和田倉門のあた りで、物資の集積場所だったようだ。 慶長7年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の 御門と伝、士衆通行の橋」と記述がある。「御府内備考」には橋の由来が「慶 長12年の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり、是 御門の名が起る処なり」とある。 元和6年(1620)の工事で築かれた枡形門の石垣はほぼ完全な形で残って いる。橋は昔そのままに復興されたもので、江戸城の門と橋を偲ぶのにふ さわしい景観を見せている。 石垣の脇には水道施設の石枡がある。玉川上水の四谷、虎ノ門、桜田門、 和田倉門、銭瓶橋の給水ルート上の一つの枡である。和田倉橋を渡って左 折する位置にあった石枡で、本来は地下2m程に埋設された3段がさねの うち最下部の部品である。下流側の樋が高い位置になっている。 和田倉噴水公園は、 国民公園皇居外苑の一角、和田倉地区にある公園で、 昭和36年、天皇(当時皇太子明仁親王)のご成婚を記念して造られた。 面積は15,000㎡である。 その後皇太子のご成婚記念で平成7年6月再整備され、 新しく水の流れ落 ちる施設やモニュメントが造られた。 噴水の水は、お濠の水を濾過して循 環使用している。なお、平成23年3月11日の東日本大震災から節電で 噴水は休止している。和田倉噴水公園レストランは建物の設計は丹下健三、

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パレスホテルが運営しており、入口を入った所に無料休憩スペースがある。 この公園の南側の通りは、関東大震災後の復興計画の一環で造られた「行 幸通り」で、幅40間(73m)の広い通りとして、大正15年7月に竣 工した。当時の記録によると「行幸道路設計の要旨は帝都中枢の模範的道 路として東京駅より宮城に通じるものであるから壮重の観を第一とし、特 に濠を横断する部分には特殊設計として金網を二段に入れて舗装コンクリ ートは最も完全に出来ている」との記載がある。 内堀通りを行幸通りとの交差点でお城の方に渡ると、桔梗濠の向こうに桜 田巽櫓、桔梗門の渡櫓門、富士見櫓が緑の森の中にならんで見えるポイン トで、テレビの時代劇で江戸城を示す映像として、よく目にする景観を見 ることができる。 二重橋方向の内掘通りの両側の広い景色は、家康入府の頃は日比谷入江が 入りこんでいた地域である。家康入府以前の景色はその後の年月よりもは るかに長くそこに有ったものが、その時から、人の手が加えられ、その時々 の必然性に導かれて今日に至った。城下町東京の原点はそこに有る。

●大手門

大手門は、旧江戸城の正門で、元和6年(1620)に枡形門として築造され、 明暦の大火で焼失、万治2年(1659)に再建された。さらに地震などで何 回となく修理されており、大正 12 年の関東大震災でも倒壊した。昭和20 年の戦災で渡櫓門が焼失していたが、昭和42年3月復元工事が完成し現 状のようになったが、また東日本大震災の地震により、大手門の櫓の漆喰 が、数箇所はげおち修理が必要な状況になっている。 正徳3年(1713)の幕府の規定によると、この門の警備は10万石規模の 譜代大名が受持ち、175人の門番が配置されていた。

○付足:大名の登城

年始、八朔、五節句、嘉祥,玄猪などの諸行事の日、毎月の朔日、1 5日、28日の月次登城日には諸大名、諸役人が、それぞれの伴連れ で行列を仕立てて集まり、城下の下馬先は、大混雑になった。 大名や旗本の本丸登城の際には、主に大手門と内桜田門(桔梗門)の 二門、西の丸へは西の丸大手門(二重橋)が使われた。これらの門前 を「下馬」、とくに大手門前を「大下馬」と呼び、門橋の外に「下馬」 と記した立て札が立っていた。下馬より先は乗與以上の格をもつ者以 外は、馬や乗り物(駕籠)から降りなければならなかった。供連れの 人数も格式に応じて少ない人数に制限された。 さらに、本丸大手門から入った先の大手三之門を「下乗」と称した。 ここでは御三家、日光門主など以外は乗り物から降りなければならず、 供づれも大名で4~5人、諸役人で3~4人とさらに減らされ、御三 家も次の中之門で乗り物を降りて徒歩となった。そして本丸御殿のな かへは大名、諸役人本人しか入ることはできなかった。 下馬先までは多数の家臣とともに登城しても、その大半を下馬先で待 たせることになり、一斉登城の際の下馬先は、その家臣であふれかえ っていた。ここでは、主君の帰りを待つ家臣たちの間で、幕府内での 出世についていろいろ取り沙汰されたことから、「下馬評」という言葉 が生まれ、現在でも出世予測という意味で使われている。

○付足:江戸城の主要門

江戸城の城門は92門有ったと言われているが、確認されている主要 門は57門(不浄門を除くと56門)ある。

○付足:枡形門

江戸城の主要な門はほとんど枡形門の形式をとっていた。枡形門は濠 を渡った正面に高麗門があり、門を入ると内部は四角形に囲われてい て、その進入経路が L 型などに折れる奥にさらに櫓門を建てたもので、 城門を二重に構えて防備を固めた形式の門である。城門の防備方法は 色々考えられてきたが、枡形門は「喰違い」と「折曲り」がその原形 をなし、近世城郭の防御施設として最も進化した形である。 二重の門になっていることで攻め込んで来た敵が高麗門を破り進入し ても、渡り櫓門で喰い止め、周囲から攻撃できる形になっている。

●三の丸尚蔵館

本館は、昭和天皇が、代々皇室に受け継がれてきた絵画、書、工芸品など

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の美術品類 6000点余を国に寄贈されたことにより、保存および調査 研究するため、平成4年に建設され、一般公開されている。平成8年には、 故秩父宮妃から遺贈された美術品900点が収蔵品として加えられた。 収蔵品は、定期的に、無料で公開されている。

●済寧館

皇宮警察の武道場で昭和初期の建物である。 済寧館に隣接して皇宮警察本部庁舎があり、遠くには元枢密院の石造りの 建物を垣間見ることができる。

●大手三の門跡、同心番所

大手三の門(大手下乗門)は、同心が警護。乗輿の資格を認められている 者も、下乗所に来ると乗り物から降りなければならなかった。下乗所は本 丸ではこの大手三之門、西の丸では、西の丸下乗橋際である。ここを乗り 物に乗って通れたのは、御三家(尾張・紀伊・水戸)日光門主などで、他の 大名は、この門外で乗り物を降りた。三の門というのは、中雀門より数え て 3 番目の門である。江戸時代の姿は濠で三の丸と本丸・二の丸とを隔て ていた。濠は、大正時代に、宮内庁の建物を建てる都合で、埋め立てられ たが、二の丸の北側に平川濠にいたる天神濠の一部が残っている。

●百人番所

江戸城正門の大手門から本丸に入るときの最大の検閲所がこの百人番所で あった。 鉄砲百人組(根来組、伊賀組、甲賀組、25騎組)が交代で24時間勤務 していた。各組とも与力20人、同心100人が配置されていたので、百 人番所と呼ばれた。この建物は幕府時代のままである。 番所は南北50mの建物である。

●中の門跡、大番所

江戸城の主要な門はほとんどが枡形門だが、中の門は櫓門両側に多聞を繋 げただけの門であった。 門柱跡の丸い穴があけられた石が並び、貴重な石畳「塼」(せん・土を焼い て方形または長方形の平板とし、敷瓦・壁体化粧材・天井構材などに使用) が敷かれているとの記述が「皇居東御苑セルフガイドブック」にある。 江戸城の中で一番大きい石と言われる約 1.75m×1.4m×5.1m、35トン の石が中の門の右側角最下層に使われていた。平成19年の修復工事で端 が切られて、33トンになり3分の1程地中に埋まっているが同位置に見 ることができる。 本丸に登る最後のチェックポイントの大番所には、他の番所より格の高い 侍が詰めていた。大番所は再建されたものだが、立派な建物で風格がある。 石垣の背後にある15段の射撃用階段は、中之門の改修のときに同時に改 修された。

●中雀門跡

中の門とこの門の間は、現在スロープになっているが江戸時代は、石の階 段(雁木坂)だった。本丸御殿の玄関に行く最後の門で、書院門とも玄関 前門ともいわれた。左上の石垣には書院出櫓と、書院櫓があり、通行者を 威圧する雰囲気があった。渡櫓門の両側の石垣の石は黒く焼けている。文 久3年(1863)本丸御殿が焼けたときに類焼した痕と考えられ、火災の凄 まじさが感じられる。右と左の2箇所に、門の柱の跡が残っている。

●本丸芝生(本丸跡)

この本丸地区は、江戸城の中心をなし、周囲に高石垣と濠をめぐらした高 台になっている。約3万5千坪の広い場所である。 江戸城は、天正18年(1590)の徳川家康入城以来、秀忠、家光の三代に わたって完成されたのであるが、その当時の本丸御殿は壮大豪華な殿舎(面 積1万1千坪)が所狭しと並んでいた。広場の大きな欅の木が2本立って いるあたりが、本丸御殿の玄関のあったところで、大名は、玄関で、大刀 を家来に預け、小刀のみを携え御殿に入った。 江戸城本丸は5回焼失し、改築を加えると6回建て替えが行われた。その 度に規模や間取りに若干の変化はあったが基本的な殿舎の形式は元のまま を踏襲した。文久3年(1863)の焼失後は再建されないまま、江戸城 は官軍に引き渡された。 江戸城本丸は、表・中奥・大奥に大きく区分されていた。

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表は将軍が謁見そのほか儀式が行われる御殿や、日常諸役人が詰めて政務 をとる幕府の中央官庁があった場所である。 中奥は将軍が起居したり、政務を見たりする将軍公邸としての場所で、現 在の首相公邸に相当する。「中奥」の呼称は明治に入ってから使われるよう になったもので、江戸時代は奥と称していた。大名屋敷の藩主の家族が住 む奥と混同しないように中奥と称するようになった。 大奥は将軍の私邸にあたる場所で、将軍の正室・御台所を中心に家族と、 御殿に住む方々を支える多くの女中が住んだ場所である。

○ 付足:本丸御殿

天保15年(1844)5月に焼失し、翌年、弘化2年2月に再建成った 本丸の広さ、および建設費 建物総面積(内訳の合計と一致しない) 11,373坪 内訳 奥(中奥)、表御殿 4,688坪 大奥御殿、広敷、長局 6,318坪 書院渡櫓、大御門、番所、所々腰懸 391坪 建設経費 1,754,345両(内、献上額 780,657両) 1両を10万円とすると、1754億円(1540万円/坪)となる。

●富士見櫓

富士山が見えたので、富士見櫓と名 づけられた。「櫓」は武器の保管庫 でもあったので「矢倉」とも書かれ る。文久3年時に江戸城には18の 櫓があったが現存するのは、富士見 櫓、桜田巽櫓、伏見櫓の3櫓のみで ある。富士見櫓は江戸城本丸で現存 する唯一の櫓で、遺構の中では最も 古いものに属すといわれている。万治2年(1659)に建築され、関東大震 災の地震で倒壊したが、主要部材に旧来の材料を用いて再建された。 どこから見ても同じ形に見えることから、「八方正面の櫓」と呼ばれ、明暦 の大火で焼失した天守の再建が断念された後、天守の代わりをしたといわ れている。

●松の廊下跡

江戸城本丸の大広間と白書院を結ぶ L 字の廊下で、南北34.5m、東西 21mと推定される。障壁画に松を主題とした絵が描かれていたことから 「松の廊下」と呼ばれた。松の絵の襖の奥には、御三家、越前松平家など 最高格式を有する大名の詰所があった。元禄14年(1701)3月14日、 播磨・赤穂藩主の浅野内匠頭が高家の吉良上野介に斬りかかった事件は、 この松の廊下でおこった。 大広間:京間・22.5 間×16.5 間(約500畳) 白書院:京間・13 間×12 間(約300畳) 松の廊下:京間・南北 17.5 間×幅 2.5 間、東西 10.5 間×幅 2 間

●午砲台跡

江戸時代には、時の鐘により時刻を 知ったが、明治4年9月9日から皇 居内の旧本丸跡で正午を知らせる大 砲をうつこととし、兵部省(陸軍省 の前身)がおこなうこととなった。 皇居内にあった気象台の隣地の広場 に大砲をすえ、天文台からの電信の 合図で発砲した。大砲の響きから、俗に「ドン」と呼ばれた。大正11年9 月からは、陸軍省に変わり、東京市の手でおこなわれることになった、サ イレンによる時報が始まる昭和初年まで実施された。現在、この大砲は、 小金井公園の江戸東京たてもの園に展示されている。

●富士見多聞

富士見櫓と同様に江戸城旧本丸で現存する唯一の多聞櫓。多聞は、防衛と 装飾を兼ねた長屋造りの櫓の一種である。武器庫として使われ、中には鉄 砲や弓矢が納められていた。 富士見多聞は蓮池壕の水面から高さ20m程の石垣の上にあり、蓮池濠に 富士見櫓 午砲台

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は真夏に美しい蓮の花が咲き、皇居側からの眺めは格別で、宮内庁に申込 んで皇居を参観するコースの見所の一つになっている。

●石室

20平方メートル程の広さの石室で、用途は分らない。江戸城の抜け穴と か、御金蔵とか、非常時に大奥の調度品や文書類などの貴重品蔵などの説 がある。江戸時代の巷説に江戸城には7つの抜け穴があったという説があ る。「江戸城からの抜け穴が、湯島天神、牛込穴八幡、山王権現の地に続い ていた」と言う説である。他の4つは分らないが御三家のお屋敷等の可能 性が高い。ここは、その入口だったかも?

●天守台

江戸城天守は慶長の天守、元和の天守、寛永の天守と3度建造された。但 し、3つの天守とも確かな史料が見つかっていないようで、資料が比較的 多く残っている寛永の天守も書かれている本ごとに数字が違う。 天守の場所は標高20m以上の高さがあるので、日本橋から江戸城を見れ ば80mを越す高さに天守がそびえていたことになる。 明暦3年(1657)の明暦の大火で寛永の天守が焼失した後、焼失の翌年天 守再建に着手し、加賀前田家が天守台の工事を命じられた。「前田綱紀自ラ 工ヲ督シタルノミナラズ祖父利常尚在リテ工事ヲ督セル也(寛政重修諸家 譜)」の如く工事を急ぎ完成させたもので、ここに現存しているものである。 新造されたこの天守台は寛永の天守台とほぼ同じ広さで、高さは6間(約 11m)で、寛永の天守に比べ少し低くなった。巨大な石は瀬戸内海から 運んだ白い花崗岩である。しかし、4代将軍家綱の叔父にあたる会津藩主・ 保科正之の城下の復興を優先させるべきとの進言で天守再建は天守台が完 成したところで中止されたため、石垣だけが今日に残っている。 前田家による天守台再建時、寛永の天守は御金蔵として使われていたため、 金銀の融けた塊を沢山回収したが、土に混ざった細かな金はそのまま埋め てしまい、工事を速やかに仕上げた、との話も上記寛政重修家譜に記載さ れている。 真実かも。3.11地震で動いた天守台の石の隙間にキラリと光るものが?

○付足:慶長の天守

慶長の天守は初代の天守で、家康が慶長12年(1607)に建造したも ので、石垣の高さ20m、総高さ64mとも68mともあったといわ れている。「富士山にならび、雲の峰にそびえ、夏も雪かと見へて面白 し(慶長見聞集)」白漆喰塗りで雪山のような天守で、位置は富士見多 聞よりにあった。

○付足:元和の天守

元和の天守は二代目の天守で、元和8年(1622)に二代将軍秀忠が本 丸改造の際、慶長の天守を撤去し、本丸東北部に新しく建てることと なり、翌年元和9年(1623)に完成した。天守の高さは、慶長の天守 を上回ったとされている。「曇たる日は、五重目は霞似て見えわたらぬ (落穂集)」とある。「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」に描かれて いる天守はこの元和の天守と言われている。屋根は銅瓦葺、金の飾り 金物、黒漆塗りと思われる板壁など、格式の高い豪華なものであった。

○付足:寛永の天守

寛永の天守は三代目の天守で、寛永15年(1638)に三代将軍家光に より建て替えられた。5層の天守で 天守台の石垣頂部の広さは東西 115.5 尺(19.3 間・45m) 南北 129.5 尺(21.6 間・39.3m) 初重の広さは 112.4 尺(18.7 間・34m)×126.4 尺(21.1 間・38m) 395坪 高さは地上から石垣高さ 45.5 尺(京間 7 間・13.8m) 石垣上棟高 148 尺、計 193.5 尺(58.64m) この上に高さ1丈(10 尺=3.03m)の金の鯱が置かれ鯱の上までの高 さとして 61.67mで約 62mと言われる。 4重目の四方に唐破風をつけ、壁は銅版黒塗りであった。

○付足:金明水

金明水は天守台前の小天守台にあり、今も水をたたえている深さ約1 0m。すぐ北の乾濠の水面までは約20mなので、濠の水面と一致し

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ていない。江戸城内で生活用水として使っていた他の井戸と同様、地 層に溜まった宙水(ちゅうみず)または礫層の水で、これらの水が周 りの濠に滲み出て濠の水位を維持していると考える。

○付足:明暦の大火

明暦3年(1657)1月18日の昼過ぎ、本郷丸山町の本妙寺から発し た火事は、激しい北西の風にあおられ日本橋方面に延焼し19日未明 に鎮火した。ついで同日19日の昼前、小石川新鷹匠町の武家屋敷か ら出た火は、竹橋付近から江戸城に移り、天守、本丸、二の丸、三の 丸を焼き京橋、銀座方面に延焼し同日夕刻鎮火した。さらに同日19 日の夕刻、麹町の町屋から出火し、外桜田、西の丸下、芝まで延焼し、 20日の朝鎮火した。この一連の火事を「明暦の大火」または「振袖 火事」といっている。被害は甚大で、江戸の町の60%が罹災し、死 者10万人を超える大災害であった。 復興に当たって、幕府は市街地の火除地、広小路、堤などの設置、道 路の拡幅など防災化と大規模な都市改造を実施し、従来の軍事優先か ら、守城任務の武家屋敷を内濠の外に移し、跡地に幕閣の役宅や町奉 行所を配置し、行政機能を重視するものに改め、寺社の周縁部への移 転や、隅田川に橋を架け、本所、深川の市街地化を促進するなど江戸 の人口増加にも対応するものであった。焼失した江戸城の天守が再建 されなかったことは、財政的理由もあったが、軍事優先の都市でなく なったことでもあった。武断政治から文治政治へ転換の時期であった。

●大奥跡

大奥は将軍の私邸にあたる場所で、御殿向、広敷向、長局向の三つに分か れていた。 御殿向きは御台所を中心とした御殿で、将軍の家族が生活する場所である。 広敷向は、大奥の事務を取り扱う広敷役人の詰める役所や警備の役人が詰 める場所である。お庭番の役職は秘密なので「武鑑」に表向きの役職・広 敷役人として記載されている旗本もいた。 長局向は大奥の女中たちの部屋が並んでいた場所で、大奥の3分の2程の スペースを占めていた。文字通りの長局で4棟あった長局の100mもあ る長い廊下に沿って女中たちの部屋が並んでいた。今風に言えば100室 程の高級マンションと言える建物である。大奥の御殿で働く女中の私生活 を支える女中も主人のマンションの一室に住んでいた。 本丸大奥と中奥の間は銅塀で厳重に仕切られていて、2本の「お鈴廊下」 でつながれていた。ここを行き来できるのは、基本的には将軍のみ。名前 の由来は、中奥の錠口から大奥側の錠口までの廊下の壁に沿って鈴のつい た紐が渡してあったことに由来する。将軍が中奥側の錠口に到着すると錠 口の番の者が紐を引いて鈴を鳴らす。すると大奥側もその合図に応じて将 軍を送迎する仕組みとなっていた。 江戸時代でも、初代家康、二代秀忠のときは、表、奥という区別はそれほ ど決然とはしていなかったが、これがはっきりするのは、三代家光のとき で、家光の乳母として有名な春日局が制度を整えたといわれている。

○付足:大奥の女中の人数

天璋院(篤姫)が和宮と過ごした時期の御殿に勤務した女中の人数を 次に記す。ただし、家茂生存中の人数は同じ年月での記録ではないの で合計は推定になる。右側の人数は江戸城開城時(慶応4年4月)の ものである。時期によってかなり人数は違いがあった。 将軍家茂付 132人 - 正室和宮付 67人 96人 家茂養母天璋院(篤姫)付 60人 126人 家定生母本寿院付 56人 57人 家茂生母実成院付 39人 52人 合計 354人 331人 これらの女中には自身の生活のため、「部屋方」もしくは「又者」と呼 ばれる使用人を召し抱え、長局向の部屋で一緒に暮らしていた。部屋 方は、女中の給金や扶持米のうちから雇われ、町人や百姓の娘たちが 行儀見習の目的で勤めることも多かった。部屋方の人数は職階によっ て異なるが御年寄の場合で15人程、中臈の場合で7人程であった。

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仮に部屋方が平均3人付いていたと推定すれば、このとき大奥の女中 総計は1300~1400人となる。長局の規模からみてこの程度が 限度と考える。本丸大奥に3千人の女性がいたとの説があるが、幕府 が抱えていた女中全体としては二の丸、西の丸、将軍の娘として大名 家に嫁いだ方の女中などがいたので、それらの部屋方も含めて3千人 の女性がいたと言う説は頷けるが、本丸大奥に3千人の女性がいたと は考えられない。

○付足:篤姫(1835~1883)

篤姫は災害に何度も遭った方でした。 嘉永6年(1853)8月21日に鹿児島 を出発し陸路を長旅の後、同年10月 23日に江戸に到着し、芝の薩摩藩邸 に入りました。そこで、安政2年(18 55)10月2日夜10時頃の安政の大 地震に遭遇し、渋谷別邸に移りました。 安政3年11月11日にこの屋敷を出 発し江戸城本丸の大奥に入り、翌月1 2月18日に家定との婚礼式を挙げま したが、安政5年(1858)7月6日(公表8月8日)に家定死去、僅 か2年足らずの結婚生活でした。そして翌年、安政6年(1859)10 月17日に本丸御殿は焼失、西の丸に引き移ります。翌、万延元年 (1860)11月9日に新装なった本丸に戻りますが、又も文久3年 (1863)11月15日に本丸、二の丸が焼失。不幸なことに、その年 の6月に西の丸も焼失していましたので、御三卿の清水家に引移りま す。慶応元年(1865)4月29日に新装なった二の丸に引移りますが、 慶応3年12月23日薩摩による放火と噂される火事で、二の丸を焼 け出され、和宮が住んでいた西の丸に引移ります。そして、慶応4年 4月11日の江戸城開城の前日、10日に一橋徳川家上屋敷に引移り ました。鹿児島を出発したときから約15年間の出来事です。これら 色々の災いや危機を乗り越え、慶喜謹慎後の徳川家の代表者として和 宮と協力してそれぞれの生家に働きかけ、徳川家の存続と、江戸城無 血開城に尽力しました。 以降も一橋家下屋敷の築地邸、紀伊徳川家の青山邸、尾張徳川家下屋 敷の戸山邸、赤坂溜池に近い福吉町の旧相良藩下屋敷(幕末の藩主は 田沼意尊)と何度も引越しを繰り返し、明治10年10月に新装なっ た千駄ヶ谷の徳川宗家の屋敷に落ち着きました。江戸の町と徳川家を 守った篤姫のその強さを、川村清雄は徳川家の元旗本として、油絵の 肖像画に表現しているように思います。

○付足:お江(1573~1626)

二代将軍秀忠の正室です。家光が将軍 になり徳川の覇権が実質的に確立する までの混沌のなかを凄いとしか言いよ うの無い運命に導かれた女性でした。 お江は浅井長政を父に、織田信長の妹、 市を母として元亀4年(1573)年に浅 井の居城、小谷城で生まれました。 その年、小谷城は信長に攻められ落城 し、長政は自害することになりますが、 その直前、お江は母と姉2人と共に城を脱出します。城内では殿様の 正室と娘、城を出れば攻め方の信長の妹とその娘として、絶対の保護 者が見守る中での脱出でした。次に落城の目に遭ったのは、天正11 年(1583)柴田勝家の北の庄城で羽柴秀吉に攻められた時でした。義 父勝家と母市は自害するが、落城の直前、お江と姉2人は城を脱出し ます。この時も城内は殿様の娘として、城外では秀吉の旧主で秀吉覇 権の拠所になっている信長の姪という事で、やはり絶対の庇護の下で の脱出でした。 そして関白豊臣秀吉養女としてその庇護の下で暮らし、文禄4年 (1595)に徳川家康の世嗣秀忠と結婚します。お江は秀忠より6歳年 天璋院(篤姫)肖像画 川村清雄筆 明治17年 崇源院(浅井江)肖像 京都 養源院

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上で、離婚歴も2回ありました。しかし、お江は戦国一の美女織田市 の娘で美人、信長の聡明さを持った女性で、秀忠には何ら不満は無か ったように思えます。 徳川家に入った後も、関が原の戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣と続きま すが、お江にとっては、どちらが勝っても、勝った側のトップの庇護 を受ける立場でした。武家が嫌になれば、二度目の結婚で羽柴小吉秀 勝との間に生まれた娘完子が関白、九条忠栄(ただひで)に嫁いでお り、忠栄は慶長13年(1608)関白になっています。公家社会で悠々 と暮らす道もありました。 なお、5女、和子は元和6年(1620)6月入内、寛永6年(1629)、後 水尾天皇の譲位で興子内親王(和子の長女)が天皇に即位しました。 お江はその3年前、家光が将軍宣下の3年後の寛永3年(1626)9月 に没し、秀忠はその6年後の寛永9年(1632)没しました。享年はお 江と同じ54歳でした。

●桃華楽堂

西洋音楽が演奏されるホールで昭和41年、香淳皇后の還暦を祝して建設 された。香淳皇后の誕生月が3月なので、桃の節句と、おしるしの「桃」に ちなみ、また、華は、十が6個と一で構成されていることから還暦(数え で61)の意味を込めて、「桃華楽堂」と命名された。 設計は、故今井兼次氏。女性の優美でおおらかな理想像を表している。

●楽部

宮内庁楽部で皇室の儀式に伴う雅楽を担当している。雅楽を学ぶ学校もこ の中にあり、楽師が、千数百年の伝統ある「雅楽」を日々研鑽している。 4代将軍家綱を補佐し、下馬将軍と呼ばれるほど権勢を振るった、酒井忠 清は雅楽頭(うたのかみ)と称していたが、雅楽頭は律令制の雅楽寮の長 官の意味であるから、現代に置き換えれば、この学部の長を名乗っていた ことになる。図書頭(書陵部の長)、大炊頭(米倉の管理部長)など・・・。 律令制の役職であれば何でも良かったようである。

●書陵部

宮内庁書陵部は皇室伝来の古文書などの図書や記録の保管・修補や、宮内庁 関係の公文書の保管、陵墓の管理を行っている部署で、研究者は利用でき る。 古文書は機械式の空調設備は使用せず、自然換気式で保管しているとのこ とである。正倉院の伝統を受け継いだ方式である。

●北桔橋門

大田道灌時代、城の大手であったといわれている。また江戸時代には、本 丸大奥から外部に直接通ずる門であり、重要地点にあるところから、濠を 深くして石垣をもっとも堅固雄大にしてあり、また、橋も跳ね上げる仕掛 けにしてあった。通常は、橋は跳ね上げられたままで、中から外部に出る 必要のあるときだけ、橋は下ろされた。今の橋は固定式で跳ね上げること はできない。橋の上から石垣の石を一つ一つ見ると、石垣工事関係者の銘 や紋などが刻まれた石が多数ある。

○付足:江戸の水道は江戸城にも引かれていた

江戸の飲料水や生活用水は、おもに神田上水および玉川上水による水 道で供給された。 承応3年(1654)に完成した玉川上水は、四谷大木戸水番所から江戸 城外濠を四谷門脇に懸けられた二本の懸樋を通って半蔵門から江戸城 内の吹上および北桔橋の下を潜って本丸、二の丸に給水されていた。 明治4年に横山松三郎が撮影した「旧江戸城写真帖」の半蔵門の写真 に写っている武士の頭の後ろの 枡は、江戸城内への水量の点検 用に設置された石製の「半蔵門 前水見枡」である。 また同写真帖の北桔橋門内の写 真に写っている構造物は「北桔 橋門本丸元枡」で城内給水用の 調整水槽で、水位上面の推定標 横山松三郎 明治4年撮影 北桔橋門内の水道施設

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高は25mとのこと。 半蔵門の標高が29mであ ることから北桔橋の濠をサ イホンで潜る構造は可能で ある。江戸城の一番標高の 高い位置はここなので、こ の水道水は大奥や二の丸庭 園の庭の泉水や滝にサイホンの原理を駆使して送られていた。

●展望台

展望台の場所は台所前三重櫓が建っていたが、文久3年(1863)に焼失し、 石垣だけ残ったものである。高い石垣の下は白鳥濠で、その先には二の丸 雑木林と二の丸庭園がある。その後ろは丸の内、大手町のビル群である。

●汐見坂

本丸と二の丸を結ぶ急な坂が汐見坂である。寛永13年(1636)造営御殿 の「二之御丸御指図」のなかに汐見坂がでてくる。この坂から海が良く見 えたことから汐見坂の名が起こったという。 今はこの坂の手前から、東京スカイツリーが見えるが、東御苑ではここか らしか見ることができないようだ。

●二の丸跡、白鳥濠

二の丸は寛永7年(1630)茶屋や泉水を主要目的とした工事があり、寛永 12年(1635)頃には舞台や楽屋などの施設があったことが窺えるが詳細 は不明である。 寛永13年(1636)に造営または改築された御殿は対面のための御殿を極 めて簡略化し、かわって白鳥濠南部で池水の様相を呈し水舞台や御茶屋を 設けるなど遊興性の強い建物であった。白鳥濠の北部は埋め立てられ、汐 見坂と二の丸東照社が造られた。 寛永20年(1643)に改築された御殿は、寛永13年の御殿と異なり、表 向きと御対面所、御休息、御子座敷、長局からなる本丸を簡略化した表と 奥を有する御殿として造られた。 白鳥濠は本丸と二の丸を隔てる濠で、梅林坂あたりまであった濠のようだ。 寛永13年には小学館「江戸時代館」の絵のように、または寛永15年と ある「皇居東御苑セルフガイドブック」裏表紙裏の絵のようになり、万治 2年(1659)明暦の大火で焼けた本丸再建で本丸が汐見坂の北側で二の丸 側に拡張され現在見る形状になった。 なお、この濠の人工的な水の出入りのルートは無いようだが、水位は一定 に保たれているようである。

○付足:二の丸東照社

東照社は元和8年(1622)秀忠の願いで本丸天守下に日常的な参拝の ための東照社を建立したが、寛永14年(1637)元和の天守の改築に 伴い、天守下の東照社は二の丸へ移された。そして承応3年(1654) に、二の丸東照宮は紅葉山に移され、「古宮」と称された。

○付足:皇居周辺地域の濠

江戸城は半山城といわれている。濠の水面の標高は半蔵濠と千鳥ヶ淵 が最も高い所で、15.98mで、最も低い所は日比谷濠で1.43 mである。14.5mほどの標高差をもっていて、半蔵門の前の土手 が分水嶺になっている。その延長上の玉川上水が通じていた新宿通り はこの地域の分水嶺である。半蔵門の標高は29m。半蔵濠の水面の 標高は16mで標高差13m。桜田濠の標高は約4mで標高差は何と 25mもある。江戸城の弱みはここにある。水面の標高差のある仕切 りの土手を壊されると空濠になってしまう部分が多くある。外濠も同 様で、江戸城は籠城して戦える城ではないと考える。濠の深さは清水 濠が最も浅く、水深0.71mで、凱旋濠が最も深く、水深1.94 m、平均水深は1.25mとのこと。濠の水はかつては、淀橋浄水場 から、玉川上水管路を通じて余剰水が供給されていたが、昭和40年 に浄水場が閉鎖されると共に、供給も停止され、その後は一時的に地 下鉄の湧水導入などもあったが、今はほとんどが雨水である。このこ とから、水質の悪化対策が必要となり、楠公レストハウスの後ろに浄 化設備を設け日比谷濠から濠水を取水し、浄化した水を桜田濠の桜田 半蔵門 横山松三郎 明治4年撮影

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門と二重橋の中間辺りと半蔵門の土手から半蔵濠と日比谷濠に分水放 流している。濠は管路等でつながっているので、一番低地の日比谷濠 に北回り、または南回りで戻るようになっている。なお、余水は昔は 新橋の汐留川から東京湾に注いでいたが、今は日比谷から幸橋への濠 も無くなってしまい、日比谷の交差点のところから都の下水道に放流、 または清水濠から日本橋川に放流される。 皇居内の濠の水も全て管路等で外周の濠につながっているが、白鳥濠 だけは孤立無縁である。

●二の丸庭園

慶応3年(1867)に二の丸が薩摩の放火と噂される火事で焼失した後、ほ とんど顧みられなかったが、東御苑整備に当たり、小堀遠州の作といわれ る回遊式庭園が残されていた9代将軍家重の時代の庭の絵図面をもとに復 元された。池の前に二の丸庭園の目玉といわれる菖蒲田がある。明治天皇 が昭憲皇太后のために造られた、明治神宮にある庭園の菖蒲園から89種 を株分けして植えたもので稀種も少なくない。平成4年、明治神宮の菖蒲 園が病気の蔓延で絶滅の危機に陥ったが、東御苑から逆に株分けして里帰 りした。現在、ハナショウブは約160株ある。 池には、昭和天皇がインドネシア産と日本産の鯉を交配させた、鰭や尻尾 が長い「ヒレナガニシキゴイ」が泳いでいる。 二の丸雑木林は昭和天皇の御発意により、都市近郊で失われていく武蔵野 の雑木林を造ろうと、昭和58年から3ヶ年かけて造成されたものである。 二の丸公園西北部に都道府県の木が植えてある。昭和43年当御苑の公開 に合わせて、都道府県から寄せられ植樹されたものである。昭和47年に 本土復帰した沖縄県の木が加わった。

●梅林坂

旧本丸書陵部庁社前から平川門のほうに下る坂で、この名は、太田道灌が この地に菅原道真を祭り、梅樹数百本植えたことに由来する。 現在、約60本の紅白の梅が植えられており、2月の中旬を過ぎたころ、 満開となる。 江戸時代、坂の途中に、上梅林坂門があり、平川門に行くところに、下梅 林坂門があった。門の跡の石垣が残っている。

●三の丸跡、平川門

三の丸は寛永20年(1643)に二の丸御殿と一緒に御殿が造営され、幼少 時の5代綱吉や、その生母桂昌院が居住したが、のちに利用される機会が 少なくなり、宝永6年(1709)の修理を最後にその存在が確認できない。 平川門は三の丸の正門である。外桝形門であるが他の門と違い、平川濠と 大手濠の仕切と水位差を保つための帯曲輪が外の竹橋門に向けて長く延び ている。平川門の名称はその近辺にあった平川からきている。大奥が近い ので大奥女中の通用門でもあり、「お局門」とも呼ばれた。特殊な門で、城 中の死者や罪人をこの門から出したため、不浄門とも呼ばれた。元禄14 年(1701)、松の廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩が、芝田村町の 田村右京太夫邸に向けて送り出されたのも、また正徳4年(1714)風紀紊 乱のかどで、大奥の女中江島が白無垢一枚にはだしという惨めな姿で引き 出されたのもこの門である。 また三代将軍家光の乳母であった大奥の権力者で、幕府の陰の実力者とい われていた春日の局が、息子の稲葉正勝の屋敷を訪ね、つい長話で夜にな り、暮れ六つの閉門に遅れた。門を守っていた旗本小栗又一郎は、規則を 盾に開門を許さず、局はついに寒い一夜を門外 であかした。局が大奥に帰り、このことを家光 に話したところ、家光は小栗の職務に忠実なこ とを喜んだので機敏な彼女は家光に加増を進言 し、ために又一郎は、500石の加増に預かっ たとのことである。 篤姫が渋谷の薩摩邸から、江戸城にお輿入れし たのはこの門からだった。 因みに、和宮は宿としていた清水邸を出て吹上 の上覧所の前を通り、竹橋門を出て大手門より 入り、大広間の車寄せに到着した。 静寛院宮(和宮)肖像写真

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○江戸城天守、御殿年表

天守 本丸御殿 西の丸御殿 二の丸御殿 天正 18 年(1590) 天正 20 年(1592) 慶長 11 年(1606) 慶長 12 年(1607) 元和 08 年(1622) 元和 09 年(1623) 寛永 01 年(1624) 寛永 07 年(1630) 寛永 11 年(1634) 寛永 13 年(1636) 寛永 14 年(1637) 寛永 15 年(1638) 寛永 16 年(1639) 寛永 17 年(1640) 寛永 20 年(1643) 慶安 03 年(1650) 明暦 03 年(1657) 万治 01 年(1658) 万治 02 年(1659) 天和 01 年(1681) 延享 04 年(1747) 宝暦 10 年(1760) 天保 09 年(1838) 天保 10 年(1839) 天保 15 年(1844) 弘化 02 年(1845) 嘉永 05 年(1852) 安政 06 年(1859) 万延 01 年(1860) 文久 03 年(1863) 元治 01 年(1864) 慶応 01 年(1865) 慶応 03 年(1867) 明治 06 年(1873) 造営 改築 改築 0119 焼失 0912 天守台造営 09 再建中止 御殿造営? 造営(改築?) 1110 改築 0919 改築 0811 焼失 0405 再建 0119 焼失 0905 再建 0510 焼失 0228 再建 1017 焼失 1109 再建 1115 焼失 御殿造営? 0922 造営(改築?) 閏 0723 焼失 11 月頃再建 0920 改築 0310 焼失 0427 再建 0522 焼失 1221 再建 0603 焼失 0701 再建 0505 焼失 庭園完成 御殿造営? 0621 造営 0725 改築 0119 焼失 0812 再建 0911 改築 0416 焼失 0513 再建 1115 焼失 0429 再建 1223 焼失 「東京市史稿 皇城編」を基に作成。三の丸御殿は省略。 御殿造営日、改造日は将軍等の移徒の日とした。(1115 は 11 月15日の意味) 平成23年8月27日 NPO 法人東京シティガイドクラブ 名所・旧跡(都心・山の手・島嶼)グループ・土曜コース 並河秀治

参照

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