タイトル
ばんえい競馬の成立過程 : 馬産振興から公営競技へ
著者
古林, 英一; FURUBAYASHI, Eiichi
引用
北海学園大学学園論集(162): 43-60
発行日
2014-12-25
ばんえい競馬の成立過程
馬産振興から 営競技へ
古
林
英
一
1.はじめに 2.馬事改良と競馬 3.ばんえい競馬の 生 地方競馬法の制定 4. 営競技へ 新競馬法の制定 5.草 期のばんえい競馬 名人中西関 の時代 6.むすび1.は じ め に
本稿の課題
2006年秋,ばんえい競馬の廃止が道内のマスメディアで大きく報道された。ばんえい競馬は競 馬法に基づいて実施されてきた地方競馬 のひとつである。この時期,競馬に限らず,各種 営競 技の勝者投票券の発売額は,バブル崩壊以降,長期にわたり減少を続けていた。とりわけ,地方 自治体が主催 する地方競馬は大 県と中津市の主催で開催されてきた中津競馬が 2001年3月 の開催をもって廃止したのを皮切りに,ドミノ倒し的に廃止が相次いだ。主催者が撤退を決めた なかで唯一存続を果たした地方競馬がばんえい競馬である 。 2007年度からは,前年度までの4市(旭川市,岩見沢市,帯広市,北見市)主催から帯広市の 1市主催となって今日に至っている。帯広市の単独主催になったことを契機として,主催自治体 の財政寄与だけを存立根拠とする競馬ではなく,観光を主体とした地域資源としての意義がク ローズアップされるようになった。逆にいえば,地域資源としての可能性が着目されることで存 続が果たされたともいえる。 地方競馬でドミノ倒し的廃止が相次いだのは,改めていうまでもなく,馬券の売上げ不振によ り,かつては多大な財政収入をあげていた競馬事業が赤字に転じ,財政寄与どころか逆に財政負 町村)に限定されている。JRA が主催し,全国 10 の競馬場で開催されている競馬を中央競馬,自治体が主催する競馬を地方競馬という。 2) 競馬以外の 営競技では施行者とよぶことが多いが 1) わが国の競馬は競馬法に基づいて開催されている。競馬法で認められている主催者は,特殊法人である日本 中央競馬会(JRA)と都道府県および一部の市町村(指定市 えい競馬の ,本稿では煩雑さを避けるため主催者という言葉を用い ることとする。 3) ばん 存廃問題とその経緯については古林英一(2007a)などを参照されたい。になります★★
つなぎのダーシは間違いです
本文中,2行どり 15Qの見出しの前1行アキ無しです
★★全欧文,全露文の時は,柱は欧文
担になったからに他ならない。 しかしながら,わが国の競馬の歴 を顧みると,最初から地方自治体が競馬事業をおこなって きたわけではない。地方自治体が競馬を主催することになったのは,第二次大戦後の混乱期にお こったハプニングによる偶然の産物に過ぎない。 そもそも競馬には4つの側面がある。 け事をともなう娯楽であり,プロフェッショナルスポー ツである馬事競技であり,馬の品種改良のためのツールであり,そして,国 もしくは自治体の収 益事業である。収益事業である側面が強調されることが多いのは確かであるが,多くの人々を魅 了し,競馬が国民的娯楽として定着・発展してきたのは,最初と二番目の側面であることは疑え ない事実である。 役畜としての馬に課せられた能力は二つある。ひとつはスピード,もうひとつは力である。ス ピードは鉄道の発達により,比較的早く産業的意義を喪失したが,力の方は長らく実用的な意義 を保ち続けた。 石油を燃料とする内燃機関が開発され,自動車が 生した後も,馬は長らく産業動力として, また軍事動力 としての役割を保ち続けた。道路状態が悪く,給油施設が少ないなかで自動車が 用できないことはいうまでもない。特に急斜面での山林作業は最後まで馬が活躍した領域であ る 。 そうした意味で,ばんえい競馬は産業的な意味での馬事改良という側面を最後まで保ち続けた 馬事競技であるといってもよいだろう。本稿は,競馬が産業との密接な結びつきのなかでどのよ うに生まれたのかを,ばんえい競馬を主たる題材として検討することを課題としている。
2.馬事改良と競馬
わが国における欧米型の競馬(洋式競馬)は,幕末 1862年に横浜の外国人居留地で居留外国人 によって行われたのが始まりであるというのが定説とされている。その後,生麦事件を契機とし て横浜の高台に横浜(根岸)競馬場 が 設され,わが国に洋式競馬が定着する。 明治政府は当初洋式競馬を欧化政策の一環として位置づけていたようである。1884年に東京の 上野不忍池畔に競馬場が 設され,明治天皇の臨席のもと,多数の外国人が招待されている。こ 4) 中央競馬の主催者は国ではないが,馬券発売額の 10%は国庫納付金として国が徴収(第一国庫納付金)し, 余剰金が発生した場合はさらに国庫に納付する(第二国庫納付金)ことになっているので,国の収益事業といっ ていいだろう。 5) 日露戦争でコサック騎兵に苦杯をなめさせられたことが,帝国陸軍による軍馬改良の直接的な動機あったが, 第一次大戦以降,実際の軍馬需要は騎兵よりも輜重面の方が重要であった。この点については武市銀治郎(1999) に詳しい。 6) ばんえい競馬における障害の登坂は山林作業での動作に不可欠な能力である。また,ばんえい競馬のベテラ ン調教師のなかには,オフシーズンに馬を って山林作業に従事した経験のある人が多い。 7) 第二次大戦中の 1942年の開催を最後に横浜競馬場で競馬が開催されることはなかったが,1993年の競馬法 改正までは競馬場とされていた。現在もスタンドなどが残っている。の前年に鹿鳴館が 設されている。これに先立つ 1880年には有栖川宮,大隈重信らが発起人と なって競馬の実施団体である日本レース倶楽部(根岸競馬場)が発足する。これ以前にも横浜 ジョッキークラブがあったが,これは原則として居留外国人を会員とする組織であって,日本人 をも会員 として組織されたのは日本レース倶楽部が最初である。その後,函館の北海共同競馬会 社(1883年)を初めとして全国に競馬の主催団体が 生する。 これら一連の事柄を えると,明治政府は競馬を鹿鳴館に代表される欧化政策の一環として位 置づけていたように思われる。 馬事改良が国家的事業に位置づけられるに至った大きな契機が,北清事変と日露戦争であっ た 。これらの戦争で帝国陸軍は,わが国の軍馬が質・量ともに列強に劣っていることを痛感し, 内閣直属の馬政局を設置(1917年陸軍省に移管)し,第一次馬政計画が策定される。これは 1906 年∼36年を計画期間とする長期計画である。続いて 1936年から第二次馬政計画が同じく計画期 間 30年で実施されるが,第二次大戦終了で中止となる。 軍馬改良と軍馬購買が馬産農家の生産意欲を刺激したことは確かであるが,馬そのものは軍事 に特化した家畜ではないから,馬政計画による馬産改良は必然的に産業用馬の改良にもつながる。 軍事技術が民間に転用されることはしばしばみられることであり,馬事改良も軍事・産業両面で の効果をもたらしたといってよいだろう。 政策的にみれば競馬は馬事改良のツールとして位置づけられていたが,その一方,馬券発売が 高収益をあげうる事業である点に着目した人が少なからずいたことも事実である。実際,全国各 地で競馬会(ジョッキークラブ)が次々に設立される。 馬券の発売額が多くなれば賞金も高く設定できる。そうなると,優秀な馬を所有しようという インセンティブも高まる。産馬価格も上昇し,生産者も優秀な馬を生産しようとする。競馬によ る馬産改良メカニズムである。また,馬事改良を大きな政策課題としていた帝国陸軍は競馬を積 極的に支援し,現役の陸軍将 が各地の競馬会に出場していた。これには騎兵の技能向上という 意味もあり,競馬会への出場を陸軍としても奨励していた。 日清・日露両戦争が馬事改良の大きな契機となったことは事実であるが,その一方で,これら の対外戦争と戦後の社会情勢は,労働運動や社会不安をもたらし,政府は強権的な治安維持政策 をとるにいたる。1908年,刑法 73条(後の大逆事件の根拠となる条文のひとつ)が制定され,10 月 13日には, 忠實業ニ服シ勤 産ヲ治メ ることを国民に求める戊申詔書が 発されている。 そして,この詔書 発とほぼ時期を同じくする 10月6日,馬政局から馬券の発売を禁じる通牒が 発せられた(これに先立って,3月には現役将 の競馬会出場が禁止されている) 。 8) 1875年に西郷從道の所有馬ミカン号が根岸競馬場で勝利をあげており,これが日本人馬主による近代競馬最 初の勝利であるとされているが,西郷は特別会員であった。 9) このあたりの経緯についてはさしあたり武市銀治郎(1999)などを参照されたい。 10) 帝國競馬協会(1928)には馬券禁止に至る経緯が記されている(p.582-584)。
馬券は刑法で禁じる富くじに相当するというのが,司法省の見解であるが,富くじ禁止は以前 から設けられている条文であるにも関わらず,このときまで馬券の発売は禁止されなかったので ある(馬券黙許時代という)。それがこの時期に適用され,馬券発売が禁じられたのは,上記の一 連の綱紀粛正政策の一環であったとみるべきであろう。 1923年競馬法が制定され,馬券の発売が再開される。この法律に基づいて実施された競馬を 認競馬といい,その後の紆余曲折を経て現在の中央競馬につながる。往々にして 認 があれ ば 非 認 も存在するのが世の常である。 競馬にも 非 認 の競馬が存在した。草競馬とよばれるものである。馬券の発売は禁止され たが,競馬規程が制定され,競馬そのものの開催は認められた。この競馬規程では競馬会以外が 競馬を開催することは禁止されていたが,祭典競馬等に際しもっぱら娯楽のためにするものはこ の限りにあらず とされていた。草競馬の実態は今後の研究を待たねばならないが,馬券発売に 近いもの(事実上の馬券か)を発売していたケースもあると思われる。 馬産振興の観点から,おそらく,事実追認的なものであったろうが,1927年には農林・内務両 省の省令で地方競馬規則が制定され,馬の生産者団体(畜産組合や馬匹組合,さらにはその連合 会)などによる競馬開催が認められる。これが戦前版の地方競馬である。この地方競馬では,馬 券の発売は認められていないが,投票券付き入場券の発売は認められており,これは事実上の馬 券に相当するものだった。 その後,1930年代後半になると,戦時体制は強化され,馬は軍事・産業ともに重要な動力であっ たことから,競馬に関する法制度も戦時体制にあわせて改変がなされ, 認競馬・地方競馬とも に戦時体制に編成されることとなる。 第二次大戦が終結し,戦時法令が次々に撤廃される。大戦中の地方競馬の根拠法となっていた 軍用馬資源保護法も廃止される(1945年 11月 20日勅令)。この法的空白期に各地で自由に競馬 (当然馬券も発売したであろう)を開催する動きがおこる。第二次大戦直後の混乱期であるこの時 期,各地で自然発生的に開催された競馬は 国民競馬 や ヤミ競馬 とよばれた。1945年の暮 れから各地でおこなわれたヤミ競馬で供用された競走馬は殆どが産業用馬であった 。 ヤミ競馬については,地方競馬全国協会(1972)は浜 あたりで開催されたのが最初だろうと しているが,実はもっと早くヤミ競馬は開催されている。他ならぬばんえい競馬である。久居利 男は これからの日本はどうなるのだろう。こんな空しい気持ちで日々を送っていた九月初旬, 旭川馬頭観音の秋の祭のことで,私達馬車追い連中が集まったとき余興に輓曳競走をやろうと言 う話が出た。…(中略)…この輓馬競走のときに私設馬券屋があらわれて荒れはてた近文の馬券場 を利用して,単式の馬券が 然と売られていたが終戦のどさくさまぎれで取締りもなかったから 11) 当時の愛知県でのヤミ競馬の実態についての回想談には ほんとうの競走馬はあまりいなかったと思う。ほ とんどが馬車馬だった (地方競馬全国協会(1972),p.135)とある。おそらく全国的に同様だったであろう。
であった と往事を回顧している(久居利男(1978))。この回顧談で言及されている輓馬競走で は,ばんえい競走の施行者が私設馬券を発行したわけではないようだが,私設馬券を発行した事 例はおそらく多々あったものと思われる。 当時の時代状況を反映した興味深い事例としては進駐軍が関与したケースもあった。北海道で は 1946年7月 14日に,アメリカ独立記念日を祝する行事として,札幌競馬場で競馬が開催され た。これは札幌に駐屯していた第 11空挺師団が北海道庁に命令したものであるが,競馬の施行ノ ウハウをもたない北海道庁は馬匹組合連合会に開催実務を委託し,競馬が開催された。いわゆる 進駐軍競馬である。確かに形式的にはそうであるが,実際のところは,占領下にあってわが国の 警察組織が手を出せない進駐軍の威光を利用して,当時の競馬関係者が地方競馬の復活を目論ん だものとみてよいように思われる。ちなみに,この進駐軍競馬が,紆余曲折の末,現在の道営ホッ カイドウ競馬につながっている。
3.ばんえい競馬の 生
地方競馬法の制定
第二次大戦終了にともない,軍馬の需要は消失したが,馬の産業用需要が消失したわけではな く,戦後復興や食料増産という時代的要請に応えるため,馬の民間需要はむしろ戦中期よりも増 大したといえる。 1946年に召集された第 90帝国議会の衆議院本会議において,地方競馬法案が小笠原八十美外 4名 によって共同提出され,小笠原による趣旨説明がおこなわれた。小笠原八十美は中央馬事 会の理事の1人で,東北を代表する馬産地である青森県選出の衆議院議員であり,三本木産馬組 合の組合長をつとめた人物である。 小笠原は法案の趣旨説明のなかで,地方競馬の目的として,食糧問題の解決,産業用馬の能力 増進,畜産振興などをあげている。小笠原はこれらのうち,当時の食糧事情の危機的状況のなか で,食糧増産にもっとも多くの文言を割いている。興味深いのは,真っ先に小笠原が言及してい るのが,役畜としての馬ではなく 肥の供給源としての馬であることである。 硫安其ノ他ノ化學 肥料ハ,原料供給 其ノ他ニ制約セラレマシテ,急速ナル増加ヲ望ムコトハ出来ナイ ので, 肥ヲ基本トナス自給肥料ニ依ルノ外アリマセヌ と述べている 。また, 肥が化学肥料よりも優 れていることも述べている。第二次大戦直後の段階で,有畜農業がわが国の農業の進むべき方向 として,展望されていたことは忘れてはならない 。 また,この法案の審議が付託された地方競馬法案委員会では,地方競馬の性格と日本競馬会が 競馬法に基づいて主催する 認競馬の性格とをはっきり区別している。第2回の委員会に政府委 12) この法案は,自由党,進歩党,社会党,および協同民主党の超党派で提出された。 13) 第 90帝国議会本会議議事録。 14) 例えば当時の代表的な農業経営学者のひとりであった大槻正男(京都帝国大学教授)は,米作中心の農業か ら輪作・有畜農業への転換を主張した(大槻正男(1947)など)。員として出席し答弁にたった大石倫治農林政務次官は 認競馬ハ主トシテ 種ヲ用ヒルコトト 存ズルノデアリマスガ,地方競馬ハ御話ノ通リ産業馬デアリマシテ,或ハ農耕用デアリ,或ハ輓 馬ニ適スルモノヲ生産シ,此ノ競 (原文ママ)ニ走ラセルコトト存ジマスカラ と述べている 。 本会議における法案の趣旨説明で,小笠原は (競走の種類を)産業用馬ノ能率 進ニ重點ヲ置 キマシテ,輓曳競走,駈歩競走,速歩競走及ビ障碍競走ト致ス積リデアリマス と述べ,偶然か もしれないが,輓曳競走を最初にあげている 。ばんえい競馬はまさに地方競馬法の趣旨を体現す る競走種目であったということができよう。 さらに,小笠原は 百姓ノ少シ氣ノ利イタ人ガ騎手ニナッテ競走スルノダト云フコトガ,地方 競馬ノ主タル目的デアリマス と述べており ,当時の関係者が想定していた地方競馬は,プロ フェッショナルな馬と人による,今日のわれわれが見ている競馬とは全く異なった,アマチュア ないしはせいぜいセミプロ的な競技であり,専業的なプレイヤーが生まれることは全く想定して いない。 地方競馬法は 1946年9月 23日貴族院を通過し,11月 20日に 布・施行となった。第1条では 地方競馬は馬事振興が目的であると明記され,主催団体は都道府県を区域とする馬匹組合聯合会 (県を区域とする馬匹組合を含む),さらに 益法人たる全国区域の馬事団体(具体的には中央馬 事会を指している)も,主務大臣(=農林大臣)の許可を受けて競馬を開催できるとしている(第 2条)。中央馬事会が競馬を開催できることとしたのは,赤字を計上する競馬場があった場合,そ の救済策として実施するという趣旨であった。 競馬が必ずしも収益をあげるものではないということは,戦前の地方競馬を主催した経験から 来るもので,高度経済成長期以降,競馬(および各種 営競技)が必ず収益を生むことを前提と して主催していた地方自治体とは大きな違いといってよいだろう。 また,施行規則のなかで,主催する聯合会の区域もしくはその隣接区域に2か月以上飼養した 馬に限る(第6条)とし,当該地域の馬事振興・馬産改良に資することを条件付けている。 かくして,地方競馬法が 生し,法的根拠を有する競馬の一種目としてばんえい競馬が 生す ることになったのであるが,実際に,地方競馬法に基づいてばんえい競馬が開催されたのは,青 森県 と北海道だけであった。 北海道の場合,ばんえい競馬の施行を強く求めたのは,生産者団体である馬連よりも輓馬組合 であった。当時旭川輓馬組合の組合長が旭川の五十嵐栄三郎であった。五十嵐栄三郎は 馬のこ となら管内にこの人の右に出る者なしという五十嵐太閤の綽名を取った人 といわれた人物で 15) 第2回農林委員会議事録。 16) 競走種目は法の本文ではなく,施行規則の第9条に規定された。 17) 15)に同じ。 18) 青森県は 1951年の開催を最後にばんえい競馬は途絶え,北海道だけで隆盛を迎えることとなる。 19) 久居利男(1978),前掲。
ある。ちなみにこの五十嵐栄三郎の子息が,旭川市長から代議士に転じ,1993年に非自民連立内 閣で 設大臣,1994年に成立した村山富市内閣で官房長官を務めた五十嵐広三である。 地方競馬法が成立した第 90帝国議会における衆議院議員は 1946年4月に実施された戦後初の 選挙で選出された。このときに北海道で社会党から立候補して当選した1人に正木清(1899-1961)がいる 。 正木は後の芦田内閣で商工政務次官を務め,さらに 1958-60年にかけて衆議院副議長を務めた 人物である 。 木は福島県の生まれで,若い時に北海道に渡って労働運動に身を投じ,無産政党 の闘士として名をはせた後,札幌で日雇い労働者として生活し,1934年に札幌市会議員に当選, さらに 1936年には道議会議員に当選する。このときの様子を新聞は 選挙事務所の自宅には近所 の馬車追,鍛冶屋,荷車製造人などの労働者が 正木万歳 , 正木万歳 と取り囲んでしばし感 激にむせんでいた と報じたという 。馬車追は 車夫・馬丁 などといわれ,最下層労働者の代 名詞とされていた時代である。ちなみに,この選挙のトップ当選は正木だが,二番目の得票で当 選したのが,北海中学の名物 長として知られた戸津高知である。 正木はその後自ら馬力運搬事業を営むようになり,1940年には北海道荷馬車運搬組合連合会理 事長,1942年9月には北海道輓馬業組合長に就任する。同年4月に実施された第 21回 選挙(い わゆる翼賛選挙)に非推薦で当選している。 正木が地方競馬法制定にどう関わったのかは定かではないが,正木が北海道の輓馬業界の実力 者であり,当時の旭川地区の輓馬組合の組合長が先述の五十嵐であったことを えると,正木も 何らかの形で関与してたと えるのが自然ではないだろうか。 1947年 10月 16日・17日の両日にわたり旭川競馬場で,11月2・3日に岩見沢競馬場で,それ ぞれ地方競馬法に基づくばんえい競馬が初めて開催された。主催は北海道馬匹組合連合会である。 旭川は2日間で 114頭が出走し,馬券の発売額は 208万円,岩見沢は 69頭が出走し 90万円だっ た。 このときの開催は輓馬組合が組合員によびかけて出走馬を募り,馬体検査,発走,馬券発売と いった業務も輓馬組合の組合員がその多くを担ったという 。 輓馬業者の念願かなった記念すべき初開催であったが,馬券発売額は主催者の目論見をかなり 下回ったものだったようだ。高瀬精一 は 昔の天長節 の日も入っていたのですが,非常に売 り上げが悪く(2日間で 90万円)ばん馬競走をやる前には地元の組合の方で赤字になった場合に 20) 五十嵐広三が社会党から出馬したのも 栄三郎と正木の関係に由来するのかもしれない。 21) 以下の正木清の経歴は正木清伝記刊行委員会(1969)による。 22) 正木清伝記刊行委員会(1969),p.183。 23) 久居利男(1978),前掲。 24) 後に道営競馬の初代投票係長となる。 25) 正しくは当時の 11月3日は明治節(=明治天皇の 生日)である。天長節(昭和天皇の 生日)は4月 29日 である。
は 埋めをしてやると云う話しだったのです。しかしやって見たところ 20数万円の赤字になりま して と述懐している 。発売額が2開催合計で 298万円,赤字が 20数万円とすると,これは興 行的にはかなり大きな失敗だったといえよう。 この成績からばんえい競馬の開催費用を逆算してみよう。馬券発売額の約 75%は的中者への払 戻であるから,主催者の収入は 75万円ほどとなり,これが 20数万円の赤字ということは開催経 費はほぼ2場4日間で 100万円程度となる。 大幅な赤字計上により翌年の開催は見送られることとなってしまう。この段階においては,ば んえい競馬はわずか4日間の歴 で幕を閉じた可能性もあったのである。
4. 営競技へ
新競馬法の制定
1947年連合国 司令部(GHQ)の指示を受け,政府は閉鎖機関令(昭和 22年3月 10日勅令第 74号)を 布する。GHQは 認競馬を開催する日本競馬会,地方競馬を主催する馬匹組合連合会 (馬連),地方競馬の統括機関的役割を果たしている中央馬事会を,それぞれ独占機関であるとし, また軍に協力した機関として,閉鎖機関に指定しようとした。結果的にいうと,閉鎖指令こそ無 期 期となったが,自主的に解散・整理というかたちをとることで GHQの了承を得た 。その結 果,競馬を主催する団体が消失してしまうことになった。GHQないしはアメリカ政府は競馬その ものを廃止させようとしたものではなく,アメリカやイギリスのように,民間団体であるジョッ キークラブによる競馬を求めたのである 。 1948年7月,新たな競馬法(以下,特に断らない限り競馬法)が 布・施行される。その結果, 日本競馬会が主催していた 認競馬は国が,馬匹組合連合会(馬連)などが主催する地方競馬は 都道府県が,それぞれ主催することとなった。それまでは 認競馬は競馬法,地方競馬は地方競 馬法と,それぞれ異なった根拠法に基づいて開催されていたが,新たに施行された競馬法では1 つの法律のなかに, 認競馬に代わる国営競馬と,馬連主催に代わる都道府県主催の地方競馬の 両方が規定されている 。 北海道庁は馬連から競馬実務を担当できる職員を受け入れ,10月に帯広競馬場で道営競馬を開 催する。これが道営ホッカイドウ競馬の直接の出発点となる。このときの競馬の種目は駈歩競走 と速歩競走である。輓曳競走に関しては,当初,道は実施に慎重であったようだ。内田靖夫 は 26) 北海道市営競馬協議会(1973)。 27) 地方競馬全国協会(1972),p.160。 28) 地方競馬全国協会(1974)などによる。 29) 競馬法は 1948年7月 13日 布,7月 19日に施行された。 布段階の条文は宇井 壽(1999)などを参照さ れたい。 30) 内田靖夫はばんえい競馬の草 期から関わった人物で,事実上ばんえい競馬施行のトップとして長らく活躍 した人物である。内田靖夫(1978a)はばんえい競馬の歴 等を知る上で最も重要な文献である。また,内田は 漫画家として 少女倶楽部 に作品を発表していたことがある(1940年頃)くらい画才のある人で,この本のその理由を,新たに道に設置された競馬課の職員が人手不足であったことに加え,収益が見込め ないことだったと述べている 。 しかしながら,五十嵐(前出)や帯広の輓馬組合長だった山数栄らが道に対して熱心に開催を 働きかけた結果,道はばんえい競馬の開催を決めた 。道営による最初の開催は,1949年9月に 旭川で,10月に帯広でそれぞれ2日間ずつ計4日間開催された。このときの馬券の発売額は, 6,577,700円で前々年の馬連主催のときの 2.2倍である。第二次大戦後のインフレを 慮すると, 売上げが大きく伸びたとは言い難いが,1日平 で 164万円は道営の平地競走の1日平 を上 回っていたという ことなので,とりあえずは成功といっていいだろう。 競馬法に基づき,米軍の施政下にあった沖縄県を除き,全ての都道府県で地方競馬が開催され た。そのすべてがうまくいったわけではない。なかには山梨県のように 1948年度に1開催だけ やってそのまま競馬事業をやめたところもあり,46都道府県のうち,24府県が 1964年度までに 競馬事業から撤退している。 競走馬資源の確保が困難であったことや,馬券の発売額が思わしくなく,収益性が悪かったこ とが主たる原因である。先に述べたように,地方競馬法は産業用馬を供用することが前提となっ ていたが,馬券の発売額が少なければ賞金や手当も少なくせざるを得ず,そうなると,産業用に 役している馬を敢えて競馬に出走させようという人も少なくなる。そもそも牛耕地帯では農耕 馬も少ない。さらに 1950年代にはいると,都市小運搬は馬車からトラックの時代に急速に転換し ていく。 さらに,馬券の売上げという観点からみると,競輪を初めとする他の 営競技との競合という 問題が発生する。競輪の根拠法である自転車競技法は 1948年7月3日に国会で可決成立してい る。まさに競馬法とほぼ同時期である。 車券発売をともなうプロスポーツとしての競輪の 生 には,いくつかの異なった主体による 動きが関わっている。 第1は自転車競技団体と自転車産業界である。わが国に自転車が輸入されるのは 19世紀終わり 頃のことであるという。1897年東京上野の不忍池畔でわが国最初の自転車競技会が開かれたとい う。不忍池といえば,前述のように,1884年に天皇臨席のもとに洋式競馬が開催されたところで もある。 挿絵もすべて内田自身の筆になるものである。ちなみに漫画は岡本一平に師事したものだという。北海道庁に 勤務していた時代に,召集され,獣医将 として中国に出征し,そのときの体験談を出版している(内田靖夫 (1940))。 31) 内田靖夫(1978a),p.16。 32) もっとも,道営競馬側としても,競走馬の資源不足にあえいでおり,ばんえいを組み込みたいという現場サ イドの意向もあったようだ(和田晴(1994),p.73-75)。 33) 内田靖夫(1978a),p.17。 34) 競輪 生の経緯については日本自転車振興会(1960)によるところが大きい。
明治末期になると,競技大会が盛んになり,自転車商に所属する選手が台頭する。優勝選手の 乗ったメーカーの自転車は競技の開催された地方で大きな売上げがあったという。トラック競技 に加え,新聞社主催のロード・レースもしばしば開催されるようになり,1934年には競技団体で ある日本自転車競技連盟が結成され,1936年には国際自転車競技連盟(UCI)にも加盟する 。 戦後,1947年に日本サイクリング協会が設立される。これはプロ自転車競技の団体として設立 されたもので,入場料と広告費や寄付によって大会を開催し,出走した選手には参加費や賞金が 支払われた。1947年 10月 29日に後楽園で開催された大会には1万人以上の観客が集まったとい う。 1930年代半ば,わが国の自転車の生産の半 は輸出に向けられ,機械部門輸出額の第1位をし めていたという 。しかしながら,第二次大戦で大きな被害を受けたことにより,わが国の自転車 製造台数は 1945年にはわずか 18,000台に落ち込んでいた。それが戦後復興の波にのり,1952年 には 100万台を突破し,102万台にまで増大した。これは戦後復興にともない,実用車の需要が旺 盛であったことによる。当時は わが中小企業のホープとして自転車産業は大きくクローズ・アッ プされた存在であった という。当時は輸出産業としても期待されており,自転車産業の振興 は,競馬における産業用馬の振興にも共通した性格をもっていた。 競輪実施にむけた第2の動きは,倉茂貞助,海老澤清らによって設立された国際スポーツ株式 会社が主導した自転車競技法期成連盟の活動である。彼らは自転車産業への寄与と国家再 を旗 印として国会議員らに働きかける。ちょっと面白いのは,当時の片山哲 理が自転車競技法案に 対し, こんなあかるい法律が議員提出で成立すればほほえましいことだ と好意的な姿勢を示 したことである。片山は社会党内閣の首班であり,後の社会党の 営競技に対する姿勢からは想 像できない。 そして3つめの動きが地方自治体である。特に競輪に関心を持ったのは小倉市長(当時)濱田 良祐であった。濱田は,自転車競技法の成立を見越し,競輪開催を前提に福岡国体での自転車競 技場を小倉に 設したという。 これら3つの動きが重なり,自転車競技法が成立した。同時期に成立した競馬法には競馬の目 的が明示されていない(益金の 途については定めがある)が,自転車競技法には,自転車産業 の振興や地方財政の 全化という競輪施行の目的が明確に記載されている(自転車競技法第1 条)。法成立後4か月足らずの 11月 20日に小倉でわが国初の競輪が開催され,予想を大きく上回 る成功を収めた。 小倉競輪場から始まった競輪は各地に続々と作られ,1948年から 1953年にかけてのわずか5 35) 第二次大戦前の自転車競技に関しては日本自転車振興会(1978)に比較的詳しい。 36) 上田達三(1979)。 37) 日本自転車振興会(1960),p.415。 38) 日本自転車振興会(1960),p.7。
年間に 設された競輪場の 数は 63にものぼった 。このうち 35が 1950年に集中している。 自転車競技法に続き,1950年には小型自動車競走法(オートレースの根拠法),1951年にはモー ターボート競走法(ボートレース(競 )の根拠法)が,それぞれ成立する。いずれも,自転車 競技法と同様,それぞれ第1条に,小型自動車の改良(小型自動車競走法), 舶, 舶用機関及 び 舶用品の改良(モーターボート競走法)という産業振興が,競走の目的として記載されてい る。いずれも,現在からみると,とってつけたような感があるが,当時の社会・産業の状況にお いては,十 な意味を有するものであったことは地方競馬法と同様である。 とはいうものの,地方自治体がこうした 営競技に続々と進出した理由は,いうまでもなく, 財源の確保に他ならない。馬,自転車,そしてオートバイが産業用動力としてその地位を低下さ せるにともない,こうした初期の目的は後景に退かざるをえず,自治体財政への寄与があたかも 唯一無二の目的であるかのごとくなっていったのである。さらに,このことが,半世紀経て,赤 字計上=即廃止という流れを形成してしまったといえよう。 話を競馬法に戻す。競馬法は,当初,競馬の開催権を原則として都道府県に限定していたが, 1951年の法改正にともない,競馬場の所在市町村なども開催権を有することができるようになっ た(指定市町村)。 この法改正にともない,ばんえい競馬は,それまでの道営に加え,1953年からは競馬場の所在 地である旭川,岩見沢,北見,帯広の各市も主催することとなった。市営競馬の始まりである。 当初は市営の平地競走もおこなわれたが,市は専門的な技能が必要となる平地競走から撤退し, その後,逆に,道はばんえい競走から撤退し,平地競走に特化する。その結果,ばんえいは市営 のみとなり,4市主催という枠組みでの開催が 2006年度まで継続することとなった。
5.草 期のばんえい競馬
名人中西関 の時代
1949年道営として再出発したばんえい競馬は,1950年代の地方競馬の不振期とは無関係に質・ 量ともに成長をとげていく 。この成長の過程は産業と競馬が 離していく過程でもあった。ま た,競技面でも施設面でもプロスポーツとして純化・洗練されていく過程でもあった。逆にいえ ば,産業との 離なくして競馬としての成長はあり得なかったともいえる。 ばんえい競馬草 期から 1960年代後半に至るまで,ばんえい競馬のトップジョッキーとして活 躍した中西関 という人物がいる。1960年代半ば,ばんえい競馬の世界にはいり,騎手で1千勝, 調教師としても1千勝をあげ,現在も調教師として活躍している山田勇作調教師は 自 がばん 39) 競輪場の 設は 1953年の静岡競輪場が最後であるが,完成後数年で売上不振などで廃止されたところも多 い。また,競輪場 設ラッシュの時期は地方競馬の廃止が集中している時期でもある。道営競馬も札幌競輪の あおりを受け,発売額が伸び悩んだ時期がある(道新スポーツ(1989)p.124∼125)。 40) 道営競馬が競輪との競合に直面したのに対して,ばんえい競馬を開催した4市はいずれも他に競合する 営 競技が生まれなかったことも幸いしたのかもしれない。えい競馬の世界にはいった頃,中西関 さんは神様のような存在だった と筆者に語ってくれた ことがある。名人の名をほしいままにした中西の軌跡をたどりながらばんえい競馬の変容をみて いくことにする。 まずは中西の経歴を簡単に振り返っておくことにする 。中西は 1919年3月 14日に新十津川 村の農家の第5子として生を受けた。中西 生の約 30年前の 1889年8月,奈良県吉野郡十津川 郷は大水害に見舞われ,多くの人々が家や農地を失う。生活の基盤を喪失した十津川郷の 600戸 2,489人が新天地を求め,北海道の石狩平野に入植する。彼らは故郷を偲び自 たちの新天地を新 十津川村(現在は新十津川町)と名付けた。 入植後,10年あまりの間に水稲作が定着・拡大し,一体は北海道有数の水田地帯として成長す る。だが,彼らの故地である十津川は山村であり,造材や薪炭の生産といった山仕事が中心的な 産業であった。おそらく,そこでは馬が重要な産業動力として利用されていたのではないだろう か。 生前の中西がトシエ夫人に語ったところによると,中西の生家のルーツも奈良県の十津川だと いう。とはいえ,中西は大水害から 30年を経て生まれており,北海道に入植したのは ではなく 祖 の代かもしれない。 中西は第5子とはいえ,兄弟で一番上の上の長男は早世しており,続く3人はいずれも女の子 であったため,中西は事実上長男であった。当時の農家の男の子であるから,当然,幼い頃から 両親の農作業の手伝いをしていただろうし,農耕馬の扱いにも早くから習熟していたと思われる。 長じた中西は,両親とともに水田農家として働くかたわら,冬の農閑期に馬を った山仕事に 従事するようになる。十津川出身の人々にとって,山仕事は手慣れた仕事であったに違いない。 中西自身は北海道生まれであるが,十津川郷の遺伝子は確実に受け継がれていたようだ。 1931年満州事変が始まり,中国大陸へのわが国の進出が拡大し,1937年には日中戦争がはじま り,多くの人と馬が大陸に動員される。成人となった中西も召集を受け,満州に出征する。そこ で彼は戦闘中に腹部に被弾する。右から左に銃弾が貫通したというが,奇跡的に命を取り留め, 1944年故郷に復員する 。 復員後,中西は両親を十津川に残し,妻子を連れ,新十津川村とは石狩川を挟んだ対岸にある 滝川に移る。滝川に移ったのは,水田農業よりも山仕事や小運搬(馬車)などを本業として生計 をたてるためであったという。 子供の頃から馬が好きで,そこここで開催されていた輓馬大会には早くから出場していたよう で,滝川に移って以降も,近隣で開催される輓馬大会には必ずといってよいほど,中西と愛馬の 41) 以下の中西の経歴についてはトシエ夫人からの聞き取りによるところが多い。 42) このとき銃弾がわずかでもずれていたら,中西は戦死したであろう。そうなると,後の名人中西関 は存在 しない。勝負の世界で名をなす人は強運にも恵まれているのであろう。
姿があった。 先に述べたように,1947年 10月,馬連主催によるばんえい競馬が旭川と岩見沢で各2日間開催 された。中西は 待ってましたとばかり参加 したという 。ただ,当時,中西を初めとして出場 した人たちに,歴 的な第一歩だという自覚があったかどうかは疑問である。おそらく,あちら こちらで盛んに開かれていた輓馬大会への出場とさして変わらない意識だったのではないだろう か。せいぜい,お役所が 然と馬券を売って,賞金をくれるのだというレベルだったろうと思わ れる。 それ以降の開催日数をみると,1950年5日間,51・52年 12日間,53年はそれまでの道営に市 営が加わったからか 20日間に増えている。その後も少しずつ増加し,66年に 66日となり,70年 まで5年間 66日のままである。馬券の発売が好調なので,日数をちょっと少し増やしてみる。そ れでも売れるから,またちょっと日数を増やして……ということだったのだろう。ばんえい競馬 は徐々に軌道にのっていった。 この当時のばんえい競馬の騎手や馬がどのようなものだったかをみていこう。まず,騎手であ る。 昭和 34年度騎手登録申請綴 という資料(以下,申請綴)が残されている。ちなみに,昭 和 34(1959)年度の開催日数は道営市営あわせて 47日間,馬券の発売額は 177,415,800円であっ た。 申請綴に綴じられた申請書は 207人 あった。現在の地方競馬の登録業務は地方競馬全国協会 (地全協,NAR)がおこなっているが,地全協の設立は 1962年である。それ以前は各都道府県が 登録業務をおこなっていた。したがって,この資料は北海道がおこなった登録の資料である。 207人 という多数の申請書が綴られているが,これはこの年初めて騎手登録 をおこなった 人たちである。すでに登録を受けている人は含まれない。つまり,わずか 47日の開催しかない競 馬に,新規に 207名もの人が騎手として新たに登録したのである。たまたま発見したのが 1954年 度のものだったが,おそらく毎年このくらい人数が新規に騎手登録をしていたのであろう。 申請書に添付された履歴書(なかには和紙に毛筆で書かれた手書きのものもある)を見ると, まず年齢に大きな幅があることに気がつく。最も若い人は 20歳だが,60歳を超える人も散見され る。年齢には幅があるものの,当然のことではあるが,職歴は限られている。ほぼ全員が農業も しくは運搬業(馬追業などと記載されているものもある)である。まさに,地方競馬法案の趣旨 説明における小笠原の発言である 百姓ノ少シ氣ノ利イタ人ガ騎手ニナッテ競走スルノダ とい うことが実現しているのである。まさに中西もそうした人の1人だった。 この申請綴の時期よりも少し下るが,先にあげた山田勇作調教師が1年間の見習い期間を経て 43) 海道市営競馬協議会(1980),p.21。 44) ちなみに 2014年 12月1日現在,ばんえい競馬の騎手は 27名である。 45) 現在では,馬主・騎手・調教師・ 務員のそれぞれに登録審査がおこなわれており,これらを重複すること は認められていないが,当時はこれら4つは全く区 されていない。
騎手デビューしたのは 1963年のことであったという。山田調教師の話によると,当時の騎手申請 はまことに簡単で,戸籍抄本と写真を役場に提出すると,後日 協議会 から騎手免許証が郵送 されてきたという。 1954年度だけで 200人を超える申請があったわけだから,当時,ばんえい競馬の騎手免許を所 有していた人は少なくとも 1,000人を軽く超えていたと思われる。開催日数の少なさと,騎手登 録者の多さから明らかなように,ばんえい競馬の騎手を本業としている人はいない。 レースの実態をみてみよう。事例として,1960年 10月 23日(土)から 25日(火)の4日間 ,旭 川競馬場でおこなわれたこの年最後の開催 をとりあげる 。このシリーズの呼び物は年度チャ ンピオンを決定する農林大臣賞典競走 である。 1日 12競走 で全 48競走が実施された。出走した騎手は 108人である。最も数多く出走した のは旭川の 原仁三郎で 32走している。以下,上田吉隆 27走,平川政雄と中西関 の 19走がこ れに次ぐ。 原は旭川を拠点とし,多くの馬を持つ人であったという。 中西は 1955年頃滝川から帯広に移っており,この開催は帯広からの遠征であった。出走数の多 い騎手は4市すべての開催に出場しているが,大部 の騎手は地元開催だけの出走であった。開 催日数が増加することで,4市すべての開催に出走するセミプロ的な騎手も出現しはじめていた。 中西はその代表的存在であったが,トシエ夫人によれば うちのお さん(中西関 )以外に何 人かいたわ という程度だった。 この旭川開催を例に当時のばんえい競馬の姿を概観してみよう 。 出走する馬は開催場の近郷から出走する管内馬とそれ以外から遠征してくる管外馬に けられ ている。この開催では管内馬は 67頭,管外馬は 50頭である。また,馬は戦績などから甲乙丙丁 の4階級に区 され,丁はさらにAとBの2階級に けられている。出走するだけで得られる出 走奨励金は,管外甲級馬が最高で 3,000円,最低は管内丁B級馬で 400円となっている。管内丁 Bというクラスは,言葉は悪いが,競走数を維持するために近隣の農家などからかき集められた 馬である。逆に,甲級に格付けされる馬には4場すべての開催に出走するような,いわばセミプ ロ的な馬が含まれる。 賞金は最高がこの開催のメインレースであった農林大臣賞典競走で1着が5万円,最低は6着 46) おそらく,道と4市で構成されていた主催者協議会であると思われる。 47) 今でもそうだが,ばんえい競馬は3日間連続での開催が基本であるが,4日,5日連続の開催がおこなわれ ることもある。 48) ばんえい競馬の開催期間は,春の農繁期がおわった6月頃から,10月頃までであった。 49) 以下は,古林英一(2006)および古林英一(2007b)によるところが大きい。 50) 現在は 農林水産大臣賞典ばんえい記念競走 というレース名となっているが,当時は単に農林大臣賞典だっ た。 51) 競馬は1日 12競走を限度とすることになっている。 52) 詳細は古林英一(2007b)を参照されたい。
以下に与えられる着外賞金で,これは一律 500円であった。そのほかに騎乗1回あたり 150円の 騎乗奨励金が支払われる。 多くの馬は4日間で3回しているので,自 の馬を持ってきて自 で乗って,すべて着外だっ たとしても,出走奨励金・賞金・騎乗奨励金を合計すると 2,350円になる。当時の物価水準から みてこれが現在のいくらくらいに相当するかはわからないが,今の 1/20とすると,現在なら 4∼5 万円となる。農閑期のちょっとしたアルバイト程度にはなったろう。 4場を転戦していた中西は,中西自身の馬に加え,馬主からの騎乗を依頼されることも多々あっ たようで,それなりの収入にはなったとはいえ,それでもこれで生計を立てるほどの金額にはなっ ていなかった。中西ら4場を転戦するセミプロ的騎手といえども,本業を他にもっていた。中西 の場合は冬場の山仕事が本業であった。 この頃の馬券の発売額と開催日数は図1に示したとおりである。年々発売額は増加し,主催者 もそれにあわせて開催日数を増加させていくが,1960年代後半になると,開催日数は頭打ちとな る。これは産業用馬を うというばんえい競馬の限界でもあった。さらに 60年代には産業用馬が 農耕や運送などから急速に姿を消していく。産業用馬の減少はばんえい競馬の競走馬資源の減少 でもある。産業用馬によるばんえい競馬という形態が限界に近づいてきつつあった。 一方で,馬券の発売額は順調に増え続けた。これはばんえい競馬ファンの定着と拡大によるも のであった。また,発売額の増大に連れて,ばんえい競馬は4市の財政に大きな寄与を果たすよ うになっていった。 1960年代後半以降,ばんえい競馬は,産業用馬によるアマチュア競技から,競走専用馬による プロフェッショナルな競技へと変貌を遂げる。それとともにレース形態も変化を遂げる。コース もかつてのU字型オープン走路から現行の直線セパレート走路へと変化する。騎手,調教師,馬 主の 離も進められていく。 地方競馬は産業現場で馬とともに働く人々が自らの愛馬と共に技を競い合うものとして生まれ 図 1 馬券発売額と開催日数の推移 資料:北海道市営競馬組合
た。ばんえい競馬はまさに最後までそのスタイルを残していた競馬であった。 中西の年次別成績をみると,1966年の 104勝をピークに,その後は徐々に勝ち星を減らしてい る。中西の成績が下降線を っていくのと入れ替わるように,中西の愛弟子の1人が急速にスター 騎手への道をかけのぼっていく。後にミスターばんえいと称される金山明彦(現調教師)である。 金山の時代はばんえい競馬の黄金期でもあった。 1977年を最後に中西は現役を引退する。1962年以前の記録が散逸してしまっており,彼の全成 績を紹介することができないのは残念だが,1963年以降 1977年までに,ハルトカチ号での農林大 臣賞典連覇(1969・70年)を含む 863勝をあげている。失われた記録を含めると,おそらく 1,000 勝は超えているのではないだろうか。開催日数の今よりもはるかに少ない時代にあって,これだ けの成績を残したことは驚きである。 ちなみに,中西は調教師と騎手を兼務していた最後の人物だった。中西の現役騎手引退により, 調教師と騎手の 離が完成する。ひとつの時代の終焉を象徴しているように思われる。
6.む す び
競馬や競輪というと眉をひそめる人は今でも少なからず存在する。とりわけ,われわれが棲息 する教育業界にはそういう人が多いように思われる。 ギャンブルだからいけないというが,ギャンブル的な資本主義の中で簡単に結論は出せない。 もっと社会学的に検討を要する問題だと思う ,この発言の主の名を聞くと,意外に思う人が多い のではないだろうか。これは,革新知事の先駆けとして,1950年から7期にわたり京都府知事を 勤めた蜷川虎三の記者会見における発言 である。 ここでギャンブルそのものの是非などという無意味な議論をする気は毛頭ない。しかしながら, 営競技が国民的レジャーとして定着し,無視できない市場規模を維持しているという事実は確 かに存在する。 営競技を真正面からとりあげた研究は数少ない。しかしながら,これだけの市場規模を有し, 自らの収益によって自立的に展開してきたスポーツビジネス としてみたとき, 営競技は十 社会・経済的研究に値するものであろう。 本稿は北海道においてのみ独自の展開をとげたばんえい競馬をとりあげ,その確立過程を,主 として産業との関連において明らかにした。ばんえい競馬は最後まで産業用馬との関係を強く保 持し続けた競馬であり,地方競馬法で想定された競馬のかたちを最後まで維持した競馬であった。 高度経済成長期にはいり,地方競馬を含む他の競技が,産業との直接的な関係を喪失し,自立 53) この発言は当時の美濃部亮吉東京都知事が 営競技の全廃を表明したことに対しての発言である(日本自転 車振興会(1978),p.545)。 54) わが国には,相撲,野球,サッカー,ゴルフ,バスケットボールなどあまたのプロスポーツがあるが,その 殆どが企業の資金サポートなしには成り立っていない。的に発展していく。ばんえい競馬も,少し遅れはするものの,同様の途をたどることとなる。好 調な馬券発売を背景に,競馬システムの高度化を進行させていく。草 期・確立期を象徴するの が中西関 であるとすれば,興隆期を象徴するのがミスターばんえい金山明彦であったといえよ う。この過程については稿を改めて論じたい。 本稿冒頭に述べたように,2006年のばんえい存廃問題は,当時の砂川帯広市長の決断と,それ を後押しする広範な市民の活動によって,4市主催から,帯広市の単独主催というかたちで存続 を果たした。存続を願う市民の活動が全国で唯一成果を結んだ競馬であった。その結果,ばんえ い競馬には,これまでとは異なった役割が課せられた。馬券収入による財政寄与だけでなく,地 域の資源としての役割である 。すでに, ばんえい十勝 は十勝・帯広の重要な観光資源となっ ているが,さらなる展開をはかりうる可能性を秘めているように思われる。
参 文献・引用文献
宇井 壽 (1999): 日本の競馬 法令等の変遷及び主要事項 近代文芸社. 上田達三 (1979): 自転車産業の発達 国連大学 人間と社会の開発プログラム研究報告 国連大学. 内田靖夫 (1940): 馬部隊 昭和書房. 内田靖夫 (1978a): ばんえいまんがどくほん 北海道市営競馬組合. 内田靖夫 (1978b): めまぐるしいばんえい競走の改革 旭川市競馬事務所編 市営旭川競馬 施行 25 周年記念誌 旭川市. 大槻正男 (1947): 日本農業の進路 朝日新聞社( 大槻正男著作集 第五巻 楽游書房,1978年)に再 録). 武市銀治郎 (1999): 富国強馬 ウマからみた近代日本 講談社. 地方競馬全国協会 (1972): 地方競馬 第一巻 地方競馬全国協会. 地方競馬全国協会 (1974): 地方競馬 第二巻 地方競馬全国協会. 中央畜産会 (1999): 畜産行政 戦後半世紀の歩み 中央畜産会. 道新スポーツ (1989): 北の蹄音 ホッカイドウ競馬四十年 道新スポーツ. 日本自転車振興会 (1960): 競輪十年 日本自転車振興会. 日本自転車振興会 (1978): 競輪三十年 日本自転車振興会. 久居利男 (1978): ばん馬競走を実現させた当時の経過 旭川市競馬事務所編 市営旭川競馬 施行 25 周年記念誌 旭川市. 古林英一 (2006): 輓馬大会から輓曳競馬へ 1960年の資料を中心に ⑴ Hippophile No.26, 日本ウマ科学会. 古林英一 (2007a): 輓曳(ばんえい)競馬の存続 地域と経済 第4号,札幌大学地域経済研究所. 古林英一 (2007b): 輓馬大会から輓曳競馬へ 1960年の資料を中心に ⑵ Hippophile No.27, 日本ウマ科学会. 古林英一 (2007c): 農用馬の活用による地域振興 開発論集 第 80号,北海学園大学開発研究所. 北海道市営競馬協議会 (1973): 座談会 ばんえい競走草 期のころを語る , 北海道ばんえい競走 No.3. 北海道市営競馬協議会 (1980): 調教師思い出の馬 , ばんえい No.10. 55) 古林英一(2007c)は地域資源としてのばんえい競馬を論じている。正木清伝記刊行委員会 (1969): 正木清伝 民衆とともに歩んだ六〇年 労働旬報社. 和田晴 (1994): 馬券ばかりが競馬馬じゃない 北海道新聞社.