ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 や、お読みくださるとは 忝 かたじけな い。あなたが以前旅をなすった折 三 ドライ グライヒェ ン (( ( に立ち寄って、あそこの名所古跡 の数数をご覧になったか、あるいは、あのすてきなムゼーウ ス (( ( の愉快な民話、それもとりわけ「メレクザーラ」をお 読みになったとすれば、わたしたちがこのささやかな物語であなたをご案内つかまつろうとしている地方[テューリ ンゲン]とはまんざら無縁ではないわけ。晴れやかなご記憶が既に一度ご覧になった絵巻を別の彩りであなたの目の 前に繰り広げてくれますように。──そしてあの、とうの昔に忘れ去られた時代から至極厳粛な面持ちで、変化に富 み、しばしばとてもおかしなことのある 今 こんにち 日 の営みを見 霽 は るかしている昔の城塞群が、すなわち、後の諸世代に対し て堂堂と身を持している記念碑(とは申せ、そこここでその古い石材が納屋とか羊小屋とかに大いに有効に活用され ていることもあるけれど)が、そそり立っているかしこの地へ、 朴 ぼくとつ 訥 なドイツ 気 か た ぎ 質 とドイツの力がかつて支配してい たあれなる土地へ、ご親切な読者のあなた、どうか心の中でわたしたちに 随 つ いていらしてくださいな。 ミュールベル ク (( ( 城の廃墟が 蝕 むしば む時の歯に今なお 抗 あらが っているあの丘の下に、同名ののどかな市場町がある。この町 中 に 泉 が 一 つ あ っ て、 住 民 に 噴 シ ュ プ リ ン グ 泉 と 呼 ば れ て い る。 う ら う ら と 晴 れ た 空 か ら 太 陽 が そ の 碧 エ メ ラ ル ド 玉 色 の 豊 か な 水 に 映 る
ゼリンデ
ルートヴィヒ・ベヒシュタイン
著
鈴木滿
訳・注・解題
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 己 おの が 姿 を の ん び り と 眺 め て い る。 な に し ろ こ の 泉、 鏡 の よ う に 清 ら か で、 水 みな 面 も に 漣 さざなみ を 立 て る の は 穏 や か な 微 ゼ フ ィ ロ ス 風 の (( ( 息吹だけだから。白い 睡 すいれん 蓮 ( 1 )が暗い 水 みなそこ 底 から花の冠をもたげ、 水 みず 金 きん 鳳 ぽう 花 げ ( 2 )の 黄 こ 金 がね の 蘂 しべ が上を向いてきらきら と輝く。太陽が水晶のように澄み切った泉に光線を送ると、水中で何か不思議な、柔らかな輝きがちらちらと光り、 水ではなくて、水底を、目の届く限り見下ろすと、黄金色がかった緑や 白 しろがね 銀 の色調を認めることだろう。底の砂利さ えともに輝き、陶器の破片などを水面に置くと、ゆっくりゆっくり、ゆうらりゆらりと揺れながら沈んで行き、これ また 束 つか の 間 ま ちかっと光芒を放つ。 ひっそりとした夏の宵、星星が空に昇り、清らかな水面に影を映す頃おい、木木の間でさらさらといとも妙なる旋 律が鳴り渡ることがよくあった。泉の 汀 みぎわ でひそひそと呟くような時もあれば、遠くの唄声か 横 フレーテ 笛 の名残の響きが 谺 こだま し て い る よ う に 聞 こ え る こ と も。 そ の た び に 村 人 は 思 案 顔 で 耳 を 欹 そばだ て、 頭 を 振 る の だ っ た。 嘆 声 の 源 が 空 な の か 泉 なのかとんと見当が付かないので。 ど う し て そ れ が 始 ま っ た の か、 事 の 次 第 は こ の 昔 メ ル ヒ ェ ン 話 が 告 げ て く れ ま す よ、 お 読 み く だ す っ て い る あ な た。 ミ ュ ー ル ベ ル ク 城 の 廃 墟 で 白 く さ の お う 屈 菜 ( 3 ) や 和 グ ラ ジ オ ラ ス 蘭 菖 蒲 ( 4 ) を 探 し て い て、 車 くるま 葉 ば 草 そう ( 5 ) の 薬 効 を 教 え て く れ も し た あ る 噺 好きのご老体が、そこでわたしたちに物語ってくれたことを、いささか詩的な装いを凝らしはしましたけれど、もう 一度あなたにお話しいたしましょう。 グライヒェン伯爵エルンストが、かの魅惑的なサラセン女 性 (( ( ──彼女、伯爵を虜囚の身から解き放ってくれたのは いいが、その代わり改めてずっと綺麗な 枷 かせ に括り付けたわけ──とともに、聖 地 (( ( から 美 は しきテューリンゲンに帰還し た時──さよう、その前にローマなる聖父[教皇]が長いこと拒み続けたものの、とどのつまり、 勿 もっ 体 たい 無 な くも 御 おん 手づ から相愛の二人に婚姻の絆を巻き付けたもうた[二人の結婚の司式をした]のだが──、 国 くにもと 許 で伯爵は、ひたすら待
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 ち 侘 び て く れ た 貞 淑 な 奥 方 エ リ ー ザ ベ ト (( ( に 再 会 し た。 そ し て 彼 女 は 夫 と こ の 異 邦 の 女 に ょ し ょ う 性 を ま こ と に い そ い そ と 迎 え たのだった。こうした 顛 てんまつ 末 は 悉 しっかい 皆 、ずっと素晴らしく、かつ詳細に 民 メルヒェン 話 「メレクザーラ」 ( 6 )でお読みになること ができます。わたしたちは、このような場合愛する背の君にまるきり違う挨拶でお応え申す女性をたくさん存じてお り ま す が。 エ リ ー ザ ベ ト 夫 人 の よ う に そ の 居 城 で 独 り 淋 し く 何 年 も 何 年 も 過 ご し た ん で な く っ て も ね。 げ に も、 時 テ ン ポ ー ラ ・ ム タ ン ト ゥ ー ラ ・ エ ト ・ ケ ー テ ラ ハ移ロイ行キ、ウンヌン で (( ( ある。 かくて伯爵の胸は感謝と歓喜に満たされ、伝令官を近隣のあらゆる 地 ガ ウ 域 に (( ( 遣わし、雄雄しき騎士 輩 ばら を 悉 ことごと く居城へ 招待、ここで 馬 ト ゥ ル ニ ー ア 上槍試合 と ((( ( 祝祭を催し、二度目の婚儀をこと ほ ぐことにした。 往時にはよくあったことだが、 故 ふるさと 郷 での暮らしがどうにも退屈でならなくなった騎士が諸国遊歴に出掛け、運を天 に任せて闘いや冒険を求め、世間に駒を進めたもの。アルフレート・フォン・タンネンヴェルト 殿 ((( ( もその一人。彼の 城はリューゲン 島 ((( ( の荒涼たる場所にあり、 バ ルト海の岸辺から ほ ど遠からず、黒みがかった緑の松林に取り巻かれ、 暗鬱な周囲からさらに陰陰滅滅と聳え立っていた。若き騎士は、 曠 あれ 野 の の獣たちや領分の森の 隘 あい 路 ろ と峡谷に潜むけちな 盗賊どもとの闘いにうんざりして、父を父祖の 奥 おく 津 つ 城 き に埋葬するとすぐ、城塞と所領をある誠実な友の庇護に托し、 絶対に彼と離れようとしなかった従 士 ((( ( をただ一人伴い、船に乗って海を渡り、 意 い 気 き 軒 けん 昂 こう としてプロイセ ン ((( ( の海岸に上 陸した。ドイツの騎士道は素晴らしく花盛りで大いに枝葉も茂っている、と、風評を耳にしてとうの昔から脳裡に思 い描いていた彼であったが、聞かされていないことがまだ 数 あ ま た 多 あるのが分かった。二十と四回というもの樫の樹が葉 を付けたのを目にした、この若さと活力に満ち溢れた、大胆で ほ っそりした体つきの北国の勇士は、どの 馬 ト ゥ ル ニ ー ア 上槍試合 で も み ご と に 擢 ぬき ん で て、 い か な る 騎 士 と の 対 決 も 辞 さ な か っ た。 そ し て 彼 が 暗 色 の 鋼 鉄 の 鎧 に 身 を 固 め、 冑 かぶと に 黒 い 羽根を 靡 なび かせ、闘技路を疾走したり、槍で突き合ってはどの敵手も砂の中に打ちのめすたび、綺麗な目が少なからず
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 彼の上にたゆたい、試合の褒賞がいくたびも、たおやかな両の手でにこやかに差し出されて、この堂堂たる勝利者の ものとなった。けれども恋という黄金の太陽がその至高の歓びで彼の心を燃え立たせたことはなく、 一 ひとたび 度 唇を触れた だけで若者を 永 とこしえ 久 に 愛 アモール 神 の奴隷にしてしまうかの魔法の飲料をついぞ味わったことはなかった。 騎 士 の 盾 に は 見 事 な 色 彩 で 彼 の 紋 章 が 描 か れ て い た。 赤 い 中 ちゅう 帯 たい で 二 つ に 分 か た れ、 上 半 分 は 黄 金 の 地 に 無 む こ 辜 と 美 徳のために闘う勇猛果敢さを表す黒い槍で、また盾の下半分には二本の緑なす樅の樹が青い地に聳えていたが、これ は彼の姓を暗に示すとともに希望と 信 ま こ と 実 の徴でもあった。 さて、騎士の肖像と並べて彼の忠義な盾持ちであるジーギスマー ル ((( ( を、親愛なる読者のあなたに、二筆三筆描写し ておくべきだろう。もとより当今では、主人を叙述する場合、下僕のことも考えるなんて、だれも思いつくまい。こ の 主 あるじ にしてこの 僕 しもべ あり、という諺で事足れりとしてしまう。豪胆なジーギスマールは主人を心底愛していたし、そ の上朴直な人柄で、横着でも 老 ろうかい 獪 でもなかった。主人の言い付けを果たしてしまうと、葡萄酒か麦酒の壺を抱えてこ れに親しむのが大のお気に入り。というのも身分の上下に関わらず盾持ちの甘美な気晴らしとなったあの貴重な草ニ コチアナ・タ バ ク ム ((( ( は当時まだヨーロッパでは栽培されていなかったからである。ジーギスマールは既に一度若き主 人の命を救ったことがある。そしてアルフレートは恩知らずではないから、これを忘れはしなかった。当今ではささ いなこととして失念しがちではあるが。ジーギスマールは、騎士の家来というより、むしろ友人であり 相 あいぼう 棒 だった。 しかし、アルフレートがこの忠義な人物を固い絆で我が身に結び付けたのは、ひとえにきちんとした敬意をもって遇 し た か ら に 他 な ら な い。 け だ し、 親 切 な 主 君 に は 進 ん で 欣 然 と 仕 え る が、 こ れ に 反 し、 が み が み と 口 喧 やかま し く 専 横 な 支配者とか、きんきん声を張り上げて、毒と胆汁を吐き散らす[癇癪持ちの]女主人には 堅 ス ト ア 忍 哲学的諦念と軽蔑で応 えるのが人間の性分だから。
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 国から国へ、城塞から城塞へ、 馬 ト ゥ ル ニ ー ア 上槍試合 から次の 馬 ト ゥ ル ニ ー ア 上槍試合 へ、若き勇士は転転とした。 桟 さ 敷 じき の愛らしいご婦人 方がお目目の魔力をしばしば彼に振るってみたものの、とんと効果無し。アルフレートは、既に申し上げたように、 い ま だ 雅 みやび の 道 に は 不 案 内 だ っ た の で あ る。 彼 が テ ュ ー リ ン ゲ ン に や っ て 来 た の は、 折 も 折、 グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 エ ル ンストが、全ての騎士輩に招待状を送った時期。そりゃまあ、我らが騎士は内心、最初の奥方が健在なのに二人目も 娶 めと った──彼に言わせれば──愚かな伯爵のふるまいに微笑し、大概の御仁にとっては一人の妻だって多過ぎる、と 考えた。わたしたちとてそう思う。さはさりながら、かしこで催されることになっている祝祭の知らせは別に不都合 ではなかった。ジーギスマールは主人と意見を 異 こと にする人間ではないし、かてて加えて、のんびり骨休めができそう だ、との希望が彼の胸にぽっと暖かな火を燃やしたので、喜び勇んで騎士に従った。──二人は遥か遠くから隣り合 っているあの城塞群が横たわっているのを見た。城の窓が沈んで行く太陽の光を星星のようにきらきらと照り返して いる。さて、彼らがグライヒェンの城 山 ((( ( に駒を近寄せて行くと、 嚠 りゅう 喨 りょう と鳴り渡る 喇 らっ 叭 ぱ の調べがさも嬉しげに迎えて くれ、ジーギスマールが塔の物見の者に騎士の家柄と名を告げると、 撥 は ね橋が下りて来て、甲斐甲斐しい従士たちが 歓 かんげい 迎 の 杯 さかずき を ((( ( 手にわらわらと駆け付け、 ほ どなく城主自身が近づき、いとも雅やかな作法で遠来の客に挨拶した。一 方、ジーギスマールは従士たちと友誼を取り結び、すぐに例の手早のクル ト ((( ( と仲良く内輪話に興じた。エルンスト伯 は 遺 い 憾 かん の面持ちで騎士に向かい、ミュールベルクの城をご使用願わねばならない、さしも広大なグライヒェン城にも も う 部 屋 が 足 り な く な っ て い る 始 末 だ し、 遠 く か ら ご 来 駕 く だ す っ た 上 じょう 臈 ろう 方 に 別 の 城 へ 行 っ て 戴 き た い、 と は 申 し 上げられぬので、と頼んだ。さて、食べ物、飲み物で両人が十二分に英気を回復し、タンネンヴェルト騎士も幾人か のテューリンゲンの騎士らと知己になると、手早のクルトは馬に鞍を置き、ミュールベルクを守る城代宛ての伯爵の 書状を携え、客人たちをあちらへ案内することになった。騎士は周辺の美しさを嘆賞、ジーギスマールはクルトと開
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 始 し た 会 話 を 続 け る 暇 いとま を 得 た。 そ の 中 身 は、 後 者 が 耐 え 忍 ん だ あ ら ゆ る 災 厄 と そ の 主 君 の 冒 険 の 詳 細 な 物 語 に 他 な らぬ。 グライヒェン城での祝祭行事の数数はまだ始まっていなかったので、さしあたって客たちは音楽やら遊戯、酒宴に 打ち興じていた。しかし我らが騎士はこうしたことには一向気が向かなかった。なぜならこんなことが目的だったら 故郷を離れなくたってよかったからである。彼の心は闘いと勝利を渇望していた。という次第で、彼は幾日もの間界 隈 を 歩 き 回 っ た。 そ れ も い つ も 独 り き り で。 豪 胆 ジ ー ギ ス マ ー ル は、 ア ル フ レ ー ト が 彼 の 扈 こ 従 じゅう を 求 め な い 折 は い つ も、なみなみと満たした 把 とっ 手 て 付きの大杯を愛していたからである。──しばしばアルフレートが 彷 さ ま よ 徨 ったのは樫の森 の 小 お 暗 ぐら い木蔭とか、陽春のこの上もなく麗しい花飾りに光り輝く日差しもうららかな草原。彼は次第に胸苦しくなっ て来た。もはやわくわくと燃え立たせてくれる闘いへの憧ればかりでなく、どう名付けたものか分からないが、それ とは別の感情が彼の全身全霊を支配するようになった。それは彼を自然の中へと駆り立てて止まなかったが、どこに も安息は見つからず、どこにも長く留まることができず、先へ先へとやみくもに突き進み、果ては夕方になって疲れ きって城に戻り、 白 しらじら 白 明け、きらめく真珠のような露が朝日の黄金の光線によって燦然たる 金 ダイヤモンド 剛石 に変えられもせぬ うち、またしても飛び出す始末。ところがある日こんなことが起こったのである。 黄 たそがれ 昏 刻 どき こうした騎行から引き揚げ て 来 た 彼 が か の 泉 の 畔 ほとり を 通 り 過 ぎ よ う と す る と、 乗 馬 が 横 跳 び を し た の で、 は っ と 深 い 物 思 い か ら 覚 め た。 駒 に 拍 車を掛けたものの無駄だった。いつもは温順で 怜 れい 悧 り なこの動物が一向その場から動こうとせぬ。騎士がふと目を上げ ると、なんと──不思議な白銀色の微光に、ひらひらと翻る 面 ヴェール 紗 さながら囲まれて、なんともいえぬ ほ ど愛らしい乙 女の姿が泉の縁に腰を下ろしているではないか。すると彼の心はさっと明るくなり、いらいらとした渇望は雲散霧消。 突き止められぬままだったその対象がここで見つかったことは明らかだった。アルフレートは長い間乙女にじっと目
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 を注いだが、あちらは全然彼に気づかぬ様子。とうとう彼は決心して、穏やかな声音でこう訊ねた。 「 乙 女 よ、 そ な た は 何 な ん ぴ と 人 。 女 王 の よ う に あ ら ゆ る 魅 力 で 飾 ら れ、 涼 し い 泉 の 縁 に 座 っ て い る そ な た は。 答 え て く だ されい。かような問が、優雅なお方、そなたに快からぬものでなければ」 。 アルフレートは口をつぐんだ。不安で堪らず、胸がきゅっと締め付けられた。しかしこれ ほ ど嬉しい気持ちになった ことはいまだかつて無い。 すると乙女は身を起こした。──豊かな巻き毛の周りには 勿 わすれなぐさ 忘草 の ((( ( 可愛らしい花冠が飾られている。典雅な体を蔽 うもっと典雅な着物は大気と 靄 もや から織られたかのよう。そして、その柔和な、表情に富んだ顔は、衣装と同じく、百 合の白さ。絹のような 睫 ま つ げ 毛 を騎士に向けて上げると、茂みの中を素晴らしい響きが走った。女王の容儀で騎士に近づ いた彼女は、白銀さながらの声で囁き掛けたが、ために騎士は身の回りのことをなにもかも忘れてしまった。 「騎士よ、あなたはたれ。休むことなく草原と牧場を乗り回し、駒の 蹄 ひづめ に私の花たちを踏み 躙 にじ らせるあなたは。も しやひそかな悩みに押し潰されているのですか。そしてご心痛を癒してくれるおひとをお持ちにならぬのですか。こ う申すのも、ね、私にはあなたが苦しんでいやるのが分かるからです」 。 彼女の言葉は歌うような響き。騎士は苦悩を感じず、ひたすら相手の顔に見入り、その声に聴き 惚 ほ れる。そしてと うに乙女が口をつぐんでからもまだずっと耳を欹てていたが、とうとう、やっとのことでつかえつかえこう告げたも の。 「 わ た し が 苦 し み を 覚 え て い る、 と そ な た が 看 て 取 っ た な ら、 そ れ を 鎮 め る こ と も で き よ う。 癒 いや し て く だ さ る な ら喜んで感謝いたそうぞ。切にお願いつかまつるが、かよわい花や草の茎を踏みしだいたことをお許しあれ。今後は 慎 ん で 道 か ら 外 れ ま い。 し て ま た、 そ な た の 甘 美 な 御 名 を お 名 乗 り く だ さ れ ば 忝 い 」。 ア ル フ レ ー ト は 燃 え る よ う に 顔を赤らめた。自分の 訥 とつべん 弁 があまり気の利いていなかったのは分かる。しかし、愛らしいひとは目を伏せてこう応答。
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 「 私 の 名 を そ ん な に お 知 り に な り た い の で す か。 さ、 そ れ で は 内 緒 で 申 し 上 げ ま し ょ う。 で も、 こ れ か ら 三 日 が ま んなさらなくては。そして、どなたにも私のことを黙っていらっしゃらなくては。そうして、三日目の暮れ方、この 時刻、この場所にいらっしゃいませね。それまでは、ごきげんよろしゅう」 。 こ う 語 る う ち、 乙 女 の 声 は 次 第 に 低 く な り、 そ の 朧 おぼろ げ な 輪 郭 が、 ご き げ ん よ う、 を 囁 く と、 再 び 木 木 の 葉 の 間 に さらさらと優に妙なる旋律が鳴り渡り、アルフレートは凝然として蒼い空に目を据えた。そこには明るくにこやかに 月が昇っていたが、彼には周辺が淋しく荒涼としているように思えた。しかり。風景に魅力を添えることができたの はひとえに彼女だけだったのだ。アルフレートは、これまで柔媚な衝動が悉皆まどろんでいたその胸の 裡 うち に、甘い恋 の至福の 甦 よみがえ りを感じた。 城に着いたが、食堂の 高 ポ カ ー レ 脚杯 の響きにも陽気な歌声にも騎士は心惹かれなかったし、おしゃべりで、 ほ ろ酔いのジ ーギスマールも主人から話を引き出すことができなかった。開け放たれた窓辺に歩み寄った騎士は、遣る瀬無い思い に 満 ち た 視 線 を、 あ る い は 高 処 の 月 の 丸 い 白 銀 の 面 おもて へ、 あ る い は、 香 高 い 花 の 精 た ち が 軽 や か な 輪 舞 を 踊 っ て い る 下の谷間へさまよわせた。漸く疲れてまどろむと、その夢の中へあの不思議な姿が現れて彼をうっとりさせたもの。 ヴァクセンブル ク ((( ( の 後 し り え 方 がやっと曙光に白み始めた頃、彼はもう目覚めてしまい、ジーギスマールは馬に鞍を置か ね ば な ら な か っ た。 太 陽 が 最 初 の 光 線 を グ ラ イ ヒ ェ ン 城 に 落 と し た 時、 ま た も や 騎 行 が 続 け ら れ た。 ど の 露 の 雫 しずく か らも微笑み掛けているように思える乙女の姿を心に抱いて、アルフレートは日がな一日界隈を乗り回した。二日目も こういうあんばい。ジーギスマールには、どうして主人が寡黙になり、それでいて静かな喜びを顔に湛えているのか、 皆目見当が付かぬ。けれどもこの御仁、他にすることもなかったから、たっぷり一時間を沈思黙考に費やした。で、 そ の 結 果 彼 は、 よ く 言 う よ う に、 ぴ た り と 釘 の 頭 を 叩 い た[ 見 事 核 心 を 突 い た ] 次 第。 「 ご 主 人 様 は 要 す る に 恋 に 落
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 ちたんだ」と彼はご満悦で呟き、把手付き杯の葡萄酒をちくとやらかして、考え事に集中してくたびれた頭を慰め、 心に浮ぶ疑問「いったいだれと」をこれで洗い流した。というのも、性分として 穿 せんさく 鑿 好きではなかったからで。もっ とも、調べてみよう、と決め込みはしたが。 三 日 目 の 朝、 ま た し て も 騎 士 に 熟 う ま い ね 睡 か ら 起 こ さ れ る と 彼 は、 「 こ ん な 風 な こ と が 続 く と な る と、 ど う や ら ((( ( わ し は 皆 かいもく 目 眠れんぞ」とぼそぼそぼやいた。それから騎士に物の具を付け、一番立派な衣装を纏わせると、天真爛漫な顔で こう訊いたものである。 「騎士様、ご家来に供をせい、とご下命でございますか」 。 「いいや」がアルフレートの短い、けれど穏やかな返辞。 「いったいどちらへいらっしゃろうとお考えで、騎士様」 。 「東へ西へ、南へ北へ、 一 ひともと 本 の我が命の花の咲くところ」 。 「いったいどんな花でございますな、騎士様」と主人の詩的な返答にびっくり仰天した従士が問い返す。 「そは百合ぞ、雪白の、 そは薔薇ぞ、湖畔なる、 そは 菫 すみれ 、牧に咲く、
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 そは勿忘草よ、空の青なる」 。 「 吟 遊 詩 人 に お な り あ そ ば し た の で、 騎 士 様。 今 の 小 唄 は 竪 ハ ル フ ェ 琴 に 合 わ せ ま し た ら こ よ な く 優 雅 に 響 き ま し ょ う。 し たが、一旦『一本の』花とおっしゃりながら、何ゆえ、今度は花束そっくり一束なのですかな。グライヒェン伯爵様 お傍去らずの手早の盾持ち、 御 ご 前 ぜん とともに奴隷となっておりまして、どうや ら ((( ( エジプトの 王 スルタン の庭園の砂の中を歩き 回った男だっちゅうあれが、このわしにある花の物語をしてくれました。確か、ミシュルーミ ー ((( ( とかなんとか申しま してな、とても不可思議な性質を持っておるそうで。考えまするに、殿はこの花のことを言っておられるので。そう いたしますると──」 。 「 さ っ さ と せ ぬ か 」 と ア ル フ レ ー ト は 質 問 者 を 遮 さえぎ っ た。 「 太 陽 は も う 天 に 昇 っ て い る で は な い か。 そ れ な の に わ た しはまだここにいるのだぞ」 。 忠実な従士は黙って仕事を完了。二分後アルフレートは城を後にした。こちらは頭を振り振り主を見送り、 「はて、 騎士様はいったいどうなすったのやら」と呟いた。 夕映えに薔薇色に染められた小さな雲が泉に映った時、我らが勇士は既に下馬しており、その愛馬はその頃はまだ 泉の周りにあった豊かに生い茂った牧草地で草を 食 は んでいた。騎士は長いことじっと待った。夕焼け雲が次第に黒く 変り、やがてそのうっすらとした輝きは徐徐に薄明となり、次いで溶暗した。周囲は墓所の静けさが支配、唄鳥たち も枝で 黙 もだ したまま。疲れた駒は草の上に四肢を伸ばした。一つの黒い雲の後ろから宵の明星が顔を出し、辺りはます ます暗く、ますます森閑とする一方。 この日の午後、大の忠義者ジーギスマールはミュールベルク城の高い物見の塔に登っていた。これは今日に至るま
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 で ま だ 存 在 し て い る の で、 こ こ か ら は 周 辺 の い と も 魅 惑 的 な 展 望 を ほ し い ま ま に で き る。 兵 ひょう 糧 ろう を た っ ぷ り 補 給 し て 座り込んだ彼は、どこから帰って来るのか見届けようと、騎士の姿に鵜の目鷹の目。いくら一円を眺めても長いこと その甲斐もなかったが、日が沈んだ時ようやっと、騎士が遠くからせわしなく駒を駆って来て、泉の畔で下馬するの を見た。豪胆ジーギスマールは瞬時に決意、もう一目本人に間違いがないかどうか騎士を見やると、元気付けにもう 一杯葡萄酒をあおり、いつものことだが、ゆっくりゆっくり、かつ慎重に梯子を降りた。 アルフレート・フォン・タンネンヴェルトは泉の汀をあちこちいらいらと歩き回ったが、人っ子一人姿を見せぬ。 立ち去ろうと決心したものの、もう一度泉の方に目を向けると、茂みの中でかすかなざわめきが聞こえたような気が した。──なんでもなかった。駒を捜そう、と足を踏み出した時、高い黒黒とした城壁の背後から月が昇って来、そ の神秘的な白銀の光を泉に投げ掛けた。同時に 夜 ナハティガル 鶯 が ((( ( 茂みの中で甘くかきくどく愛の唄を囀り始めた。 円 ラ ウ テ 胴弦楽器 の ((( ( 調べが 一 ひとふし 節 虚 こ 空 くう を 過 よ ぎると、驚愕した男の耳に「アルフレート」という声が響いた。辺りを見回すと、呼び掛けた のはあの麗人。泉の縁に腰を下ろし、水色の 面 ヴェール 紗 で顔を覆い、巻き毛の周りに飾られているのは白薔薇と紅薔薇で編 ま れ た 花 冠。 膝 に 載 せ た の は 黄 金 の 七 リ ラ 弦 琴 。 ((( ( 傍 かたえ で は 泉 が 素 晴 ら し い 虹 の 七 色 に 輝 い て い る。 招 か れ て 騎 士 が そ の 隣に座ると、彼女は騎士の手を優しく握り、うちとけた愛の言葉を囁いた。 「 よ う こ そ 来 ら れ た、 私 の 剛 毅 な 北 国 の 勇 士 様、 よ う こ そ。 こ れ で 恋 す る 乙 女 は あ な た を 信 じ る こ と が で き ま す。 この地であなたがご覧のものはね」と続けて「これらの牧場、そこここの泉、せせらぐ小川、声朗らかな歌い手たち が 棲 ん で い る 小 お 暗 ぐら い 林 は な べ て 私 の も の、 私 の 思 う が ま ま の も の。 私 の 泉 に 曙 アウローラ が ((( ( 映 る 時、 森 の 歌 い 手 た ち は 私 に 挨 拶 を 送 り ま す。 花 花 は 私 の 前 に 首 う な だ れ、 私 の 被 る 花 冠 に な ろ う と 競 っ て 我 が 身 を 差 し 出 し ま す。 微 ゼ フ ィ ロ ス 風 は 私 に さまざまな調べを伝えてくれます。──私は泉の女王ゼリン デ ((( ( なのです。──ああ、驚かないで、いとしいアルフレ
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 ート」 。そう彼女は恐れ戦かんばかりの騎士に 艶 なま めかしく懇願した。 「生など何 ほ どのものでもありませぬ。甘く夢見 た幸せを手に入れたと言ってもそれが何でしょう。愛がそれを褒め讃え、 永 と わ 遠 の太陽のような燃える色彩で輝き渡ら せるのでなければ。愛を感じること、愛に応えること、それのみが至高の浄福なのです。愛と 信 ま こ と 実 に薔薇の花冠を編 ん で も ら え る 者 に と っ て、 時 は 一 瞬 に な り、 天 エ ー テ ル 空 の 霊 気 は ((( ( こ よ な く 清 ら か に 輝 き、 微 笑 む 精 ゲ ー ニ ウ ス 霊 た ち が 寝 か せ つ け て 魅 惑 の 夢 を 見 せ て く れ る の で す 」。 こ う 語 る と 水 の 精 は 騎 士 の 両 の 頬 を 撫 で、 碧 あお い 潤 ん だ 目 で 切 な げ に 見 つ め た。 ア ルフレートは血管を灼熱の火流が轟轟と走るような気がした。が、次に彼女が 円 ラ ウ テ 胴弦楽器 のあえかな弦をかき鳴らす と、荒れ狂う胸の激情は鎮まり、心は 和 なご み、魂は陶然と天界の和音にたゆたった。なぜなら彼の周囲、足許、頭上に な ん と も 不 思 議 な 素 晴 ら し い 音 色 が 響 き 渡 っ た か ら で あ る。 彼 に は 歌 い 手 の 詞 ことば は 分 か ら な か っ た が、 彼 女 が 愛 の 歓 喜を歌っているのだ、と感じた。彼は星星が黄金の環を描くのを見た。波がうねり上がるような気がした。そしてゼ リンデの花冠の全ての蕾が開き、騎士には彼女が月明の白銀の輝きの中で別世界から来た天使のように見えた。 ゼリンデが口をつぐむと、アルフレートはその足 許 に 跪 ひざまず き、いまだになお谺している楽の音に聴き惚れながら切 切 と 憧 れ 籠 め て そ の 顔 を 見 つ め た。 彼 女 は 相 手 を 優 し く 助 け 起 こ す と、 こ う 囁 い た。 「 あ あ、 私 の 前 に 跪 か な い で く ださいな。この胸の奥底には燃えている愛の聖なる炎はただただあなただけに捧げられているのです。ああ、私たち、 愛 に は 愛 を、 命 に は 命 を 取 り 交 わ し ま し ょ う ね 」。 ─ ─ と 聞 く や ア ル フ レ ー ト は か っ か と 燃 え 上 が る 灼 熱 の 恋 に 身 を 委 ね、 い と も 優 美 な 水 オ ン デ ィ ー ヌ の 精 が ((( ( そ っ と す ぼ め て 差 し 出 し た 柘 ざ く ろ 榴 の 唇 に 生 ま れ て 初 め て の 歓 喜 の 接 く ち づ け 吻 を し た の だ っ た。 円 ラ ウ テ 胴弦楽器 の弦はなおも絶えることなく甘く心を惑わせる恋歌を 奏 かな で続け、清らかな水晶の響きが大気を震わせた。 「 お お、 な ん と い う 妙 な る 調 べ だ ろ う 」 と 悦 び に 酔 い 痴 れ た 騎 士 は 叫 ん だ。 そ し て 接 吻 に 次 ぐ 接 吻 を 数 あ ま た 多 た び 取 り 交 わしながら、恋人たちはお互いにひしと身を寄せ合い、こよなく幸せに抱擁し合った。周りに漂う音色に、幾千羽も
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 の 夜 ナハティガル 鴬 がその求愛の唄を歓呼して混じえているかのよう。 と う と う ゼ リ ン デ は 微 か に 身 を 震 わ せ る と 騎 士 の 烈 火 の 抱 擁 か ら 逃 れ た。 「 あ あ、 ア ル フ レ ー ト 」 と 彼 女 は 柔 ら か く訴えるように囁いた。 「私たちはお別れせねばなりませぬ。私のせめてもの慰めは、あなたが私をお忘れにならず、 我が泉にまた戻って来てくださるということだけ」 。 「 お お、 常 と こ は る 春 の 花 の 国 か ら 顕 現 し た も う た い と も 優 美 な る 乙 女 よ、 お 疑 い あ そ ば さ れ な、 わ た し が 明 日 再 び 今 日 と 同様憧れに満ち満ちてそなたを待ち侘びることがないなどと」そう騎士は応じる。すると、彼女が悲しげに言うよう 「 明 日 で は あ り ま せ ぬ、 い と し い 騎 士 様、 明 あ さ っ て 後 日 で も あ り ま せ ぬ。 今 宵 は 満 月。 一 週 間 経 っ て 下 弦 の 月 と な り ま し た ら漸く、またの 逢 お う せ 瀬 が参ります。その折に私の素晴らしい水晶の館をご覧に入れましょうね。かしこの白銀に輝く床 に は す て き な 真 珠 の 花 が 咲 き、 青 サ フ ァ イ ア 玉 色 の 天 井 を 透 か し て 星 星 の 黄 金 な す 光 が 瞬 く の で す。 そ れ ま で ご 機 嫌 よ ろ し ゅ う。 さ れ ど、 あ な た が 私 を 絶 え ず い と し く 思 い 起 こ し て く だ さ る よ う、 私 の 愛 の 信 ま こ と 実 の 証 あかし と し て こ の 指 環 を 差 し 上 げます。これは清められた品。これを大地の中心で七種の金属から精錬したのは 伎 わ ざ 倆 に巧みな 地 グ ノ ー ム の精 た ((( ( ち。あなたが この水鏡の 深 ふ か み 処 にそれを沈めますとね、私、すぐさま姿を現します。まだ他にも色色特別な力のあるこの指環はあな たにとって誠心誠意この上ないお友だちをも凌ぐやも」 。「そなたを凌ぐ存在などありましょうや、おお、我が麗しの ゼ リ ン デ 」 と 騎 士 が 急 い で 口 を 差 し 挟 ん だ が、 彼 女 は 言 葉 を 続 け た。 「 も し あ な た が、 お お、 ア ル フ レ ー ト、 か の お 城での祝宴の賑わいに紛れて私をお忘れになるようなことがありましたら、もし、あちらに長くいらっしゃり過ぎて、 お慕いするこの私を真夜中過ぎまで待たせるようなことになりましたら、我らの心の魔法の絆は断たれてしまいます。 そして、決して、決して、再び私の姿をご覧になることはありませぬ」 。 悲しい声音でこう言い終わり、打ち消しの誓言が出掛かった騎士の唇に素早くもう一度接吻すると、彼女は再び、
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 ご機嫌よろしゅう、と呟き、霧の中に溶け込んだ。アルフレートが抱き締めたのは軽やかな大気だけ。しかし妙なる 音色はまだ泉の深処から立ち昇り、幾つもの微かな波紋となって水面に拡がった。 さてアルフレートの愛馬は地面から身を起こすと、彼を乗せて速歩で城へと戻った。割り当てられた部屋に着くと、 ジーギスマールが蒼褪め、引き 攣 つ った顔で中へ入って来、主の物の具を解きに掛かったが、その両の手は激しく震え て い た。 「 ど う ぞ い た し た か、 ジ ー ギ ス マ ー ル 」 と 思 い 遣 り 深 い 声 で 騎 士 が 訊 ね る。 そ の 胸 の 裡 で は い ま だ に 慕 わ し い 女 にょにん 人 の典雅な面影が揺曳していた。 す る と 郎 党 の 睫 毛 の 下 か ら 涙 が ぽ た ぽ た。 騎 士 の 足 許 に ど っ と 跪 く。 「 何 の 真 似 だ。 何 と い た し た 」 と ア ル フ レ ー ートは 訝 いぶか しげに問う。 「お許しくださいまし、騎士様。どうかどうか 白 しら 刃 は の 剣 つるぎ をお抜きになって、手前をばっさりやっておくんなさいま し。手前は 偸 ぬす み聴きをいたしました。その罪でご成敗を。どんなに責め 苛 さいな まれましょうと、喜んで耐え忍びまする。 したが、なにとぞあんな忌まわしい色恋沙汰はお諦めくだされませい」 。 「 そ ち は 正 気 を 失 っ た の か。 熱 に 浮 か さ れ て 譫 うわ 言 ごと を 言 っ て お る の か 」 と ア ル フ レ ー ト は 訊 き 直 し、 跪 い て い る 従 士 に立つように命じた。 「ああ、騎士様、ご幼少の 砌 みぎり からお仕え申しておりまするこの忠義な家来を信頼、信用なすっ て。愛してらっしゃるあれはそもそも見てくれの好い 水 ニックス 妖 の ((( ( たぐいなんでございますぞ。あなた様を奴の呪われた水 ん中に引きずり込もうちゅう魂胆。どうや ら ((( ( 地獄の魔法の絆に括り付けてしまいましてな。お聴きなされませい。手 前はあなた様が悪い噂のあるあの泉の傍で下馬なさるのをお見掛けしましたんで、山を駆け下り、村を抜け、茂みの 中に潜り込みました。じいっと隠れておりましたから、あなた様は手前にゃお気づきにならなんだ。あなた様は悪魔 の網に 絡 から め取られておしまいになったのですよう。あの 妖 セイレン 婦 が ((( ( お腕に抱かれておった時、手前は飛び出してって、霊
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 験あらたかな呪文を唱えてお 祓 はら いをやりたかったですが、いったいそんなことができましたかなあ。どうや ら ((( ( ひっそ りかんと突っ立ったままでおらにゃならなかったでしょうなあ。身動きなんぞ叶いましたかなあ。大きな声を出せま したかなあ。やっとのことであなた様がお別れになると、手前は精一杯お城へ駆け登って、あなた様をお迎え申した わけあいで」 。 「 立 ち 上 が れ。 そ し て も う 構 わ ん で お い て く れ。 わ た し は お ぬ し が 自 分 を 好 い て く れ て い る こ と は 分 か っ て い る 」 と騎士は相手を 宥 なだ めに掛かる。一方ジーギスマールは「手前は立ち上がりませぬ。あの魔女の泉に二度と行かない、 と手前にお約束くださらぬうちは。あれがそもそも今日おっしゃってらした命の花なんですかい。あなた様はどうや ら、あの 水 ニックス 妖 がちっこい冠に編んでいた可愛い 蟇 ひき のあんよと蛇の 尻 しり っ 尾 ぽ なんぞを、ただもう綺麗なお花だ、と思い込 まれたようで」 。 「 お ぬ し、 わ た し を 愚 弄 す る つ も り か。 で な け れ ば、 酔 っ 払 っ て 覗 き 見 し お っ た の で あ ろ う。 そ し て い ま だ に 酩 酊 しておる。度の過ぎた喰らい酔いは慎むがよかろう」と騎士は声を荒らげる。 「これはしたり、アルフレート様」と従士は 噎 むせ び泣き。 「いずれの聖者様方のご加護もあなた様から離れてしもうた の で し ょ う か。 あ の 悪 魔 奴 に と こ と ん 誑 たぶら か さ れ て お ら る る の か。 ─ ─ そ も そ も、 コ ロ ロ コ ロ ロ、 ゲ エ ロ ゲ ロ、 ク ワ アクワア、ケロケロケロってのが 沼 地や茂み、林の中でおっぱじまりますると、あなた様は綺麗な音楽だわい、とお 思いになるんじゃないですかな。いやあ、なんとも素晴らしい調べだ、ってお声を挙げるんでは。忠義な僕の申し上 げ る こ と を も う 信 用 な さ ら な い ち ゅ う な ら、 神 様 に お 助 け を 願 わ な く っ ち ゃ」 。 ─ ─ こ う 言 う な り、 ジ ー ギ ス マ ー ル は我を忘れてぱっと飛び起き、部屋の真ん中に膝を突くと、さめざめと涙を流しながら、両手を天に差し伸べてこう 叫んだ。
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 「 お お、 公 明 正 大 な 神 様、 あ な た は 燕 に 目 を 汚 さ れ た ト ビ ア が 明 ら か に 見 え る よ う に な す っ た ((( ( 。 あ な た の 聖 霊 は、 使徒方が舌を振るって語ろうとした時、光明をお授けになっ た ((( ( 。どうか手前の気の毒なご主人をお憐れみになり、お 目を開いてやってくだされ。そしてあの化け物からお心をお守りくだされ。その代わりに手前を 生 いけにえ 贄 にお召しの ほ ど を。 ご 主 人 の 魂 が そ れ で 救 わ れ ま す る な ら。 し ア ー メ ン か あ れ か し 」。 ─ ─ こ う 彼 が 祈 り 終 わ る と、 感 動 し た 騎 士 は 忠 義 な 郎 党を助け起こし、胸に引き寄せた。 「手前があなた様のためにお祈りしたことをお約束なされ」とこちらがまたしても懇願。 「何も約束できぬ。わたしはしかと言い交わしたのだ。なんぞ別の 約 やく 定 じょう が見つかるまいか」とアルフレートが応じ る。 「ええ、ええ、見つかりましょうて」とジーギスマール。 「見つかりましょうて。九日後には、あなた様のご遺骸が な。皆の衆が長い鉄鉤でそれを泉の中から引っ張り出しましてのう。見つかりましょうて──見つかりましょうて」 。 そう言うなり彼は部屋から出て行った。 恐れと愛のいずれに就くとも定めかね、心落ち着かぬまま騎士は長いこと 臥 ふ し ど 所 で 輾 てんてんはんそく 転反側 。翌朝遅くに目覚めると 何もかもご大層な夢、不吉な前知らせと結び付いているかも知れない夢だったような気がした。──やがてもう一日 経てば下弦の月となる時が。すると城門の外で幾つもの喇叭が高らかに響き、花冠を被り、みごとな紋章と装身具で 身を飾った数人の伝令官が馬を乗り入れて来た。騎士たちが顔を揃えると、伝令官の一人がよく通る声でこう叫んだ。 「 お 聴 き あ れ。 明 日 と い う 日 は グ ラ イ ヒ ェ ン 伯 爵 様 の ご 婚 儀 の 祝 い と 定 め ら れ た る 日 日 の 始 ま り で ご ざ る。 こ の 日 厳 かに行わるるは十二の宝飾を褒賞とする馬上槍試合なり。 馬 ト ゥ ル ニ ー ア 上槍試合 が終わればいとも愉しき晩餐が、更にその後は 祝宴がこの日の締め括りとなりましょう。これにはご来賓の皆様方、並びに、その余の、同等の家柄にして非の打ち
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 所 な き、 試 合 参 加 資 格 を お 持 ち の 騎 士 輩 ばら は ど な た も 招 か れ て お り ま す る 」。 伝 令 官 た ち が 去 る と、 騎 士 た ち、 従 士 ら の間に喜びと期待が改めて湧き起こった。 さて、アルフレートはこれに赴くべきか。なにしろ明日はいとしい 女 ひと とのまたの逢瀬となるはずの下弦の月。あち らへ行き、彼女には待ちぼうけを喰わせ、二度とその姿を見ないでよいのか。それとも、祝祭初日に欠席でよいのか。 そのためにこそかくも長い間この地に留まっていたのに。もし彼が不参となれば、騎士たちは彼のことをどう思うだ ろう。 こういったたぐいの疑問の数数をアルフレートは自身に投げ掛け、何としたものかととつおいつ考えて苦しんだ。 従士にはあえて訊ねはしなかった。ジーギスマールの助言は分かりきっていたからである。すると理知が助太刀して くれた。まこと恋と申すものは人に発明の才を与えてくれる。そうだ、わたしは、と彼は独り 言 ご ちた。夕刻馬でミュ ー ル ベ ル ク へ 戻 っ て 来 れ ば よ い で は な い か。 そ れ で も 馬 ト ゥ ル ニ ー ア 上 槍 試 合 に 出 場 す る こ と が で き る。 か の 麗 人 の 足 許 に 贏 かちえ た 褒賞を置くことが叶えば、わたしはどんなに幸せだろう。 グ ラ イ ヒ ェ ン 城 の 中 庭 に 設 しつら え ら れ た 高 い 桟 敷 に は テ ュ ー リ ン ゲ ン 国 の 冠 を 飾 る こ よ な く 美 し い 宝 石 で あ る た く さ ん の 華 麗 な 奥 方 た ち、 た く さ ん の な ん と も 愛 ら し い 令 嬢 た ち が 綺 羅 星 の ご と く 並 ん で い た が、 東 オ リ エ ン ト 洋 の 花 花 が 絢 爛 豪 華 な 点 で ─ ─ な に せ そ れ ら を 彩 色 す る の は 南 国 の 灼 熱 の 息 吹 な の だ か ら ─ ─ ご 当 地 産 を 凌 駕 す る よ う に、 そ れ ら 女 にょ 性 しょう のうちで最も麗しい花、メレクザーラが一際光り輝いていた、彼女は自身お手づから褒賞を授けようとの御意。 アルフレートは威風堂堂たる騎士輩の中にあっても 颯 さっそう 爽 と抜きん出ていた。そこで飛び切りの美女らの注目の的と なったが、心はただ一人に捧げる愛に溢れていたから、こうした麗人たちなど見向きもしない。纏う鎧は陽光に明る く照り映え、強壮で丈高い戦馬は 逸 はや って 嘶 いなな き、新たに燃え上がった尚武の 焔 ほむら が騎士の両眼から閃く。
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 「 ゼ リ ン デ、 誉 れ を 」 が 彼 の 短 い 標 モ ッ ト ー 語 。 冑 に 翻 す の は 銀 糸 を 織 り 込 ん だ 青 い 布 リ ボ ン 紐 で、 こ れ は 一 本 の 紅 薔 薇 を 包 む 二 本 の 輪 結 び を 象 かたど る。 ─ ─ か く し て、 烈 烈 た る 功 名 心 を 胸 に 彼 は、 闘 技 場 へ 駒 を 進 め よ、 と の 合 図 を 今 か 今 か と 待 ち 構えた。 高らかな喇叭の吹奏、 釜 パ ウ ケ 型太鼓 の連打、白い杖を高く掲げる伝令官。 馬 ト ゥ ル ニ ー ア 上槍試合 の開始である。一組、また一組、 騎士たちが互いに馬を駆り立てれば、槍は砕 け ((( ( 、闘士らはよろめき、かなりの者が砂中に落馬。アルフレートはしか らず。こうした競技に熟達している彼にも、ここで勝ちを占めるのは 容 た や す 易 くはない。なにせ勇猛果敢な雄雄しい騎士 ら が 彼 と 勝 利 を 競 っ た か ら。 だ が、 彼 が 打 ち 勝 て な か っ た 者 は 多 か っ た に せ よ、 だ れ に も 負 け は し な か っ た。 馬 ト ゥ ル ニ ー ア 上槍試合 が終了。城主を先頭に騎士たちが広間へと並んで進む。そこでメレクザーラが褒賞を 頒 わ かつのである。観 音開きの扉が開くや、周りに居並ぶ上臈方が騎士輩の鄭重な挨拶に応え、花花、花冠、そして 布 リ ボ ン 紐 の数数が勝利者た ちに降り注ぐ。──伝令官が声高らかにその故国の名称ともども第三位として勝ち名乗りを告げたのは我らがアルフ レートだった。彼はおずおずと顔赤らめ、かっかと頬を火照らせて、黄金で飾られた玉座に他の者同様近づく。そこ で、 豪 奢 な 東 オ リ エ ン ト 洋 の 盛 装 を 身 に 纏 い、 清 ら か な か ん ば せ に 妙 な る 温 雅 さ を 湛 え た、 あ ら ゆ る 王 スルタン の 息 女 の 中 で 最 も 麗 しい女性が、一筋の純金の小鎖と、 一 ひと 振りのみごとな剣を褒賞として彼に差し出した。こちらは世界の 花 ((( ( にあえて目 を上げることもできない。彼女をエジプトの砂地から己が婚姻の愉悦という薔薇の園に移植したのは幸せなグライヒ ェン伯爵である。そこでこの姫君は見事に繁茂した。もっとも、伯爵は彼女から世継を得ることはできなかったが。 喇 叭 が 鳴 り 響 い て 晩 餐 へ と 請 しょう じ た。 果 て し も な く 並 ん だ 食 卓 に は 当 時 美 味 珍 味 と さ れ た 品 品 が 残 ら ず 配 膳 さ れ て いた。現今の美食家だったら少なからずけちを付けたかも知れない。しかし、騎士輩は大いに満足し、奥方たちや令 嬢たちの息災を祈って、 経 へ 巡 めぐ る 高 ポ カ ー レ 脚杯 を幾度となく乾したのである。
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 ここ 上 かみ 座 ざ で騎士たちがしている通りのことを、 下 しも 座 ざ の部屋部屋で従士たちが履行。歓楽を盛り上げる 竪 ハルフェ 琴 弾き、曲 芸師、道化役にも不足はない。大部分の者は手早のクルトの物語を傾聴。この男の 十 お は こ 八番 は、本当にやった冒険に何 百 も 尾 お 鰭 ひれ を 付 け、 そ れ ら を 真 実 と 娶 めあわ せ る こ と。 こ う す る と 完 全 無 欠 な も の に 仕 上 が る の で、 聴 き 手 は 彼 の 言 う こ と をそっくり信じ込んでしまうわけ。かかる愉快な才能は後後の世でも多くの人人に受け継がれた。自分の楽しい物語 を信じてもらえるとすぐ嬉しがるこうしたたぐいは、大抵善良で無害な御仁である。──別の食卓の 上 かみ 手 て に鎮座まし ましたは我らがジーギスマール。その鼻には甘美な安息の先駆である 酩 めいてい 酊 の夕焼け色が既に拡がっており、 兆 きざ し始め ている本体[甘美な安息]と競合しようとしている様子。彼は彼なりに、尊敬すべき食卓仲間を陽気に楽しませよう と誠実に本分を尽くしたのである。そしてなおもこれを続行。いろいろ妙ちきりんな調子でごちゃごちゃと歌ったり お談義したり、これになんともおもしろおかしい身振り手振りを添えて、哄笑する 大 おお 一 いち 座 ざ を廻りに集めていた。 さあて、ここまでよくぞご辛抱くだすった読者のあなた、騎士たちが何を食べていたとか、どんな葡萄酒を飲んで いたとかいったことをお話ししようとしたら、おっそろしくご退屈ですよね。それから、列席者ご一同の名簿をご披 露することだってできるんですが、我らが素朴な 昔 メルヒェン 話 に歴史的 信 しん 憑 ぴょう 性 せい を賦与するつもりはありません。我らが誠実 な語り手もこの点黙過いたしましたように。──そうこうするうち舞踏が始まりましたよ。いとも華やかな雑踏を ほ んのちょっぴり 覗 のぞ いてみましょう。あれえ、あのきらびやかに装った堂堂たる若い騎士はいったいだれだろう。明る く照明され、 花 はなづな 綵 で飾られた広間のあそこの端で、愛すべき天界の姉妹たる無垢と快活さを頬に湛えているどこぞの 優雅な令嬢がひそひそ囁くのに耳を傾けているあの騎士は。 や、これはしたり。これぞ他ならぬ我らが勇士その人ではないか。気の置けない雑談の陽気な一くさりに夢中にな り、おしゃべり屋さんの 丹 たん 花 か の唇から漏れる甘い言葉に聞き惚れて、今のところ森も小川も泉の女王もすっかり忘れ
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 果てているようだ。淡青の衣装を纏い、銀の刺繍を施した 面 ヴェール 紗 を垂らし、髪に睡蓮の花冠を被っているあの令嬢はだ れ だ っ た っ け 。 は て 、 分 か ら ぬ 。 ──数 挺 ちょう の 提 ヴァイオリン 琴 が素晴らしい舞踏曲を奏で始める。何本もの 横 フレーテ 笛 がこれに加わる。 かしこでは騎士は法外の悦びに恍惚としてひらひらと踊る。乙女の暗色の巻き毛がまばゆいばかりのうなじに波打ち、 その相手の踊り手の目が歓喜にきらめき、両人の頬がますます赤く火照るさまよ。──もうこの日の最後の刻限に入 っている。陰鬱な雲の彼方に下弦の月が昇って行く。 釜 パ ウ ケ 型太鼓 の連打、喇叭の吹鳴、シャルマ イ ((( ( と 横 フレーテ 笛 の歓呼はいや 増しに陽気に、輪舞は広間狭しとばかりなおも軽快にぐるぐる廻る。歓喜に酔い痴れた騎士は戯れ掛かる令嬢の手を 更に熱烈にひそやかに握り締める。折しも、お名はなんと言われる、と優しく訊ねようとした時──あれあれ、これ はいかなこと。騎士が蒼白になったぞ──手がもう一方の手の指環にぴくりと伸びる。そこに激しい痛みを感じたか のよう。突然令嬢の手を放すと、びっくりして目を 瞠 みは るのにも構わず、広間から飛び出し、 囂 かまびす しく歓呼の声を挙げ ている千鳥足の従士どもの一座に押し入る。 「ジーギスマール」 。その叫びは 死 し 人 びと を墓場から呼び覚まさんばかり。仰 天した従士たちは 後 あと ずさり。死人のように蒼褪めた顔から両の目は爛爛と輝いて周囲を 睨 ね め廻す。 「ジーギスマール」 。 もう一度叫ぶ。従士たちはだんまりの身振りで床を指す。さよう、かのりっぱな御仁はどうや ら ((( ( 食卓の下に横たわり、 幾人かの飲み仲間と 鼾 いびき の競争。騎士はせわしなく彼を引き起こし、揺さぶって、 「わたしの馬はどこだ」と目を覚ま しかけた男の耳に雷鳴のような声で怒鳴る。こちらはと申せば、目を 擦 こす り、 呂 ろ 律 れつ の廻らぬ口調で 跡 と ぎ 切 れ 跡 と ぎ 切 れに「そ れは──手前──さっぱり──存じません」 。そこで騎士は手荒く家来の体を放り出し、自ら 燭 しょく を一本手に取ると、 急 い で 厩 うまや に 赴 き、 間 も な く 愛 馬 を 発 見、 こ れ を 外 へ 牽 き 出 す と ひ ら り と う ち ま た が り、 城 門 の 番 兵 に 開 門 す る よ う 声高らかに命じる。門が開くと、騎士は猛然と城外へ疾駆。物の具は何一つ携えず、鞍も置かぬまま、頭には羽飾り を付けた軽い縁無し帽を被っただけ。
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 さながら突風が 野 の じ 路 をしゃにむに進むがごとく、さながら森の小川が轟轟と泡立ちながら絶壁から絶壁へ流れ落ち る が ご と く、 さ な が ら 雲 の 影 が 跡 形 も な く 畑 の 上 を 掠 かす め て 行 く が ご と く、 駿 しゅん 馬 め の 蹄 は 露 に 潤 う 草 の 葉 に ほ と ん ど 痕 を残さない。 既にアルフレートにはもはや遠からぬ泉に月影がきらめくのが見える。拍車を当て続けると、駒は口に泡を噛み、 呻 うめ き、騎士を乗せたまま突然くたくたと大地に崩折れてしまう。こうなってはこの善良な動物を気遣うゆとりもなく、 彼 は 徒 か ち 歩 立 だ ち で 前 進 す る。 か よ う に 幻 影 を 追 い か け、 そ の た め に 己 おのれ の 最 上 の 宝 が 台 無 し に な る の を 一 顧 だ に せ ぬ 者 は世に少なしとしない。裕福な女性に求婚し、妻と楽しく生涯を送ろうと思う人間はけっこういるが、あわれ、つら つら眺めてみると、つまり、ものの十五六年もともに暮らしてみると、こりゃ、女 悪 サ タ ン 魔 の 祖 ば あ 母 様 ((( ( にも比すべきメガイ ラ ((( ( みたいだわい、となるのが落ち。聖なる契りを結ぶ時、新婦が既にいくらか歳を喰っていたのならなおさらで、そ うなるとご亭主殿にとっては遺憾ながらげにも迅速に結婚が怨恨になってしまう。──騎士はもう村に到着した。明 るい星のような何かが泉の汀で輝いている。近寄ってみるとそれがゼリンデだと分かる。黄金の巻き毛の頭にはきら めく百合の花冠を戴いている。──「それではわたしはまだ愛する 女 ひと に逢えるのだ。天国の門よ、まだ閉じないでく れ 」。 騎 士 は 喜 び 勇 ん で そ う 叫 ぶ。 そ の 時 鐘 楼 か ら ゆ っ く り と 悲 し げ に 十 二 の 響 き が 夜 の し じ ま を 破 る。 驚 愕 の あ ま り彼は呪縛され、口を開けて耳を澄ましながら凝然と立ちすくむ。姿は動き出し、両の手を彼に向けて差し伸ばす。 嘆息が彼の許にまで届く。彼は恋人を抱き締めようとしたが、彼女は目の前で湿潤な住処に沈んで行く。アルフレー トは己が身に何が起こったのか分からなかった。長いこと考え込み、夢を見ているのだ、と思った。 「ゼリンデ」 。苦 悩 に 心 も 千 ち ぢ 千 に 乱 れ た 彼 は と う と う 叫 ん だ。 「 ゼ リ ン デ 」 と 谺 が 返 る。 「 わ た し は い と し い そ な た に 永 遠 に 逢 え ぬ の か 」。 「 逢 え ぬ の か 」 と 山 中 で 朗 ら か な 声 が 嘲 る。 「 姿 を 見 せ て く れ、 い と し い ひ と。 聴 い て い る か。 戻 っ て く れ。 ─
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 ─ 戻 ら ぬ の か、 二 度 と 再 び 」。 「 二 度 と 再 び 」。 ア ル フ レ ー ト の 叫 び 通 り に 悲 し い 反 響 が 返 る。 彼 は 大 声 で 嘆 き、 か き くどいた。しかし、何百回叫ぼうと、彼女には聞こえない。おしまいなのだ、そう彼は感じる、喜びの種になったで あろうことがなにもかも。さりながら──まだ薔薇色の希望があるのではないか。彼女の指環が。──そう考えた途 端、指環はもう深処へ沈んで行く。そして木木の間でさらさら、ひそひそと柔らかに漂う、アイオロスの 竪 ハルフェ 琴 に ((( ( も似 た調べが耳に入った。そして水面には小さな波紋が幾つも拡がり、清らかに澄んだ声が白銀の響きのように歌うのが 聞こえたのだ。 タンネンヴェルト、ああ、あなた、 あなたがあわれ殺したは、 信 ま こ と 実 捧げし心意気。 このゼリンデの生き甲斐はもはや 虚 うつ ろになり果てて、 嘆く相手は花ばかり。 日暮れが可愛く頬を染め、 星が 御 み 空できらめけば、 私を捨てたあなたを想い、 夢見るはいずこかの楽園。 予言をいとも厳しく果たす、 運命の書に書かれたは、
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 「百年の内ただ一度、 薔薇が咲く時、私は恋することが許される。 その恋人が自らと私にとくと 信 ま こ と 実 をば貫くならば、ゼリンデは 水の城から 永 と わ 遠 に出て、 こよなきもので彼に報いる」 。 もはや全ては過ぎたこと。 あなたはいとしくあなたを抱いた 女に再び逢えはせぬ。 うっとりあなたの目を見つめた 女はあなたを身許に引けぬ。 空 むな しく嘆く私の唄、 この身の指環を、アルフレート、どうかなにとぞ大切に、 これは危険と苦難からあなたを守り、そしてまた、 死に至るまで 信 ま こ と 実 を貫く。 声は 黙 もだ したが、 横 フレーテ 笛 の音色はそよ吹く夜風の中で低く震え続けた。さながら彫像のように騎士は立ちすくむ。たゆ
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 たい去った調べとともに正気も消え失せたかの様子。すると突然指環が水の奥津城を出て、自分からアルフレートの 指に戻って来た。 「 死 に 至 る ま で 信 ま こ と 実 を 貫 く 」。 ─ ─ 締 め 付 け ら れ た 胸 裡 の 思 い を と う と う ほ お っ と 吐 き 出 し た 彼 は こ う 呟 い た。 「 あ あ、なぜわたしもこのように彼女に 信 ま こ と 実 を貫かなかったのか。ジーギスマールの言うように、恋の代償に命を差し出 さ ね ば な ら な ん だ と し た と こ ろ で。 彼 女 の 腕 の 中 で 死 ね ば、 甘 美 な 死 で は な か っ た か 」。 彼 の 苦 悩 は 暖 か な 涙 と な っ て溶けた。ひっそりと泣きながら、一本の樹に寄り掛かり、限り無い別離の痛みを受け入れつつ、彼は澄んだ静かな 水をじっと見下ろしていた。 一方、彼の 蒼 そうこう 惶 たる退出ぶりは騒ぎを巻き起こしていた。彼がともに踊ったあの見知らぬ令嬢も同時に姿を消した のである。急いで騎士の後を追う者、何が起こったのか従士たちに訊く者。彼らは 曖 あいまい 昧 な言葉でしどろもどろに事態 を陳述。忠義者のジーギスマールも突然かなり 素 し ら ふ 面 になっていた。しかし、主が 夜 よ 闇 やみ を突いて城外へ騎馬で出掛けた ことを思い出したり、聞かされたりした彼は、わっと泣き出し、主を探しに出て行こうとした。引き留められると、 なんとも物狂おしくふるまい、罵ったり、泣いたり、祈りを捧げたり。ご主人はいったいどうしたのか話せ、と四方 八方から責め立てられ、強制され、心配されると、やっとのことで主の恋について知っている限りをしゃべったもの。 よもや、とばかり一同目を見交わし、あきれたり、にんまりしたりで、一人また一人と彼に背を向ける。引き留める 者がもはやいなくなると、彼は城門から飛び出し、山を下り、泉目掛けてまっしぐら。暫く走ると目にしたのは、道 の 真 ん 中 に 突 っ 立 っ て い る 丈 の 高 い 黒 い 代 物。 奇 妙 な 具 合 に 首 を 振 っ て い る。 「 な べ て の 良 き 精 た ち よ ((( ( 」 と 大 声 で 叫 び、 三 度 十 字 を 胸 に 切 る と、 妖 怪 は 嘶 いなな い て、 こ ち ら に 跳 び 掛 か っ て 来 る で は な い か。 勇 ま し い ジ ー ク マ ー ル は 地 べ たに倒れた。けれども、別に鉤爪がゆっくり頸を 捩 ね じろうとうなじに触れて来たわけではないに気付くと、勇気を 奮 ふる
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 い起こして、ぱっと立ち上がった。するとなあんだ、これはアルフレートの馬で、一旦 斃 たお れたのが元気を取り戻した のだった。しかし今度は新たな恐怖に襲われてぞっと震え上がる。これはけだしこういうことではないか。ご主人は 生 せいしゃ 者 の領分から姿を消して、おぞましい愛人の地底の宮殿に降り、ジーギスマールは置いてきぼりで、懐かしの故郷 から遠く遠く離れた異国にたった独り取り残されたのだ。──彼は 暗 あんたん 澹 として苦い傷心に身を委ねた。善良な動物も 全く同じ気持ちで首うなだれて悲しみを分かつ風情。それでもジーギスマールはとにかく泉に行ってみることにした。 主 の 水 の 墓 の 上 に 何 本 か 花 を 撒 き、 そ こ に 十 字 架 を 建 こ ん り ゅ う 立 し よ う と。 馬 を 牽 き な が ら 泉 に 向 か っ た が、 夜 の 陰 鬱 な 戦 慄に襲われる。月は雲の背後に隠れており、巌の裂け目に帰る 梟 ふくろう が黒黒とした翼をばさばさと羽 搏 ばた かせて頭上を飛 び 去 り、 崩 れ た 廃 墟 か ら 木 み み ず く 梟 が 嗄 しゃが れ 声 で 単 調 に「 来 コ ム う 」 ((( ( と 啼 き 続 け る。 し か し ジ ー ゲ ス マ ー ル は 不 退 転 の 勇 気 で 足 を踏み締め踏み締め前へと進んだ。身も心も神様にお任せして。目指す場所に辿り着くと、不気味な深処の畔に立つ。 「おお、アルフレート、アルフレート・フォン・タンネンヴェルト」 。彼は大きな声で嘆息した。──と、その時、ま どろんでいた騎士ははっと夢から覚めた。陰鬱な雲の縁が白銀の弧となり、月が 皓 こう 皓 こう と輝きながら姿を現した。心底 からの喜びに高らかな歓呼の声を挙げた忠義者は、驚いた騎士の足許にどっと跪く。 「 そ れ じ ゃ あ な た 様 は 水 すい 妖 よう 姫 き の な ん と も 可 愛 ら し い 鉤 爪 に 捉 ま ら な か っ た ん で す ね。 神 は 頌 ほ む べ き か な 」 と こ ち ら は 有 う 頂 ちょう 天 てん 。 け れ ど も ア ル フ レ ー ト は 厳 か に 口 を つ ぐ ん だ ま ま 従 士 を 見 つ め、 や が て、 と も に こ の 場 を 立 ち 去 ろ う、 と合図した。 「 ミ ュ ー ル ベ ル ク へ 上 が れ 」。 彼 は 暫 く し て こ う ジ ー ギ ス マ ー ル に 命 じ た。 「 そ し て 旅 の 準 備 を 調 え よ。 神 の 思 し 召 しなら、明日わたしはこの地を去る所存だ。ここでは小川を見ても花を見ても失くしてしまった幸運を切なく思い出 す こ と に な る。 わ た し は 今 一 度 グ ラ イ ヒ ェ ン に 赴 く が、 す ぐ に お ぬ し と 落 ち 合 お う ぞ 」。 ─ ─ こ う 言 い 終 わ る と 彼 は
武蔵大学人文学会雑誌 第 39 巻第 3 号 馬 上 の 人 と な り、 グ ラ イ ヒ ェ ン 指 し て 疾 駆 し た。 物 見 の 塔 上 の 祝 い の 篝 かがり 火 び が 彼 の 恰 か っ こ う 好 の 道 し る べ 。 一 方 ジ ー ギ ス マ ールは、すてきな愉悦の源泉が 乾 ひ あ 上 がることのなさそうなこの界隈に別れを告げるのは辛かったけれども、機嫌よく ぶらぶら山を登って行った。そしてこんな鼻歌を歌った。 殿は騎士様、おいらは従士、 殿が好きなは戦いで、おいらが好きなは酒盛りよ、 殿はいくらも槍を折 り ((( ( 、おいらはいくらも 壜 びん を折る[酒壜を飲み干す] 、 殿は生きてる、おいらは満足。 アルフレートがグライヒェン城の広間に足を踏み入れると、衆目の的となった。ここに集っている人人の間にひそ ひそとした囁き、耳こすりが起こる。上臈方はこっそり彼を見送ったが、ひどく抑えた声で、 水 ニ ク セ ン リ ッ タ ー 妖の騎士 、と言うの が幾度か彼の耳に入る。これを聞いた彼はむすっと唇を噛み締めた。 ほ んの二言三言で時ならぬ辞去の詫びをし、鄭 重なもてなしに与った礼を言い、礼式通り別れを告げる彼を、城主は懇切な言葉を尽くして引き留めようと努めたが 無駄。ある 誓 せいごん 言 に縛られておりまして、と彼は応え、 慇 いんぎん 懃 に二人の奥方に暇乞いをし、何人かの騎士と握手を交わし、 皆に向かって無言で再び 一 いちゆう 揖 ──そして彼は立ち去った。残された人たちには彼のことを好きなように取り沙汰させ ておいて、暫くの間なお我らが勇士の後を随いて行きましょうね。彼はミュールベルクに辿り着くと僅かな休息しか 取らず、翌日、日の出の三時間後にはもう城山を馬で下って行く姿が見られた。黙黙と、物思いに耽りながら。盾か ら は 紗 の 喪 章 が 靡 い て い る。 ジ ー ギ ス マ ー ル も い さ さ か 意 気 銷 しょう 沈 ちん の 態 てい 。 何 度 も 振 り 返 っ て は 遣 る 瀬 無 い 目 付 き で、
ゼリンデ ルートヴィヒ・ベヒシュタイン 著 鈴木滿訳・注・解題 ま こ と 心 地 よ く 過 ご さ せ て く れ た 三 ドライ グ ラ イ ヒ ェ ン を 眺 め る。 用 心 深 い 彼 は、 乗 っ て い る 強 壮 な 戦 馬 ((( ( の 鞍 の 両 脇 に 糧 食の詰まった大きな籠を 提 さ げていた。彼が補給を失念することは決してない。こうして二人は無言のままあてどもな く、昇る太陽に向かって進んで行った。 さて、このあとまだ残っているのは、親愛なる読者のあなたに、よくまあ辛抱強く全部読み通してくだすった、と お礼を申し上げることだけ。物語のどこかしらで、けっこうおもしろいじゃないの、とにっこりして戴けたのなら、 心底嬉しゅうございます。そして、お望みとあらば、またいつか、その後アルフレート・フォン・タンネンヴェルト の身の上に起こったこと、それから水の花嫁を失ったがために蒙った傷心から彼がいかにして漸く立ち直り、慰めら れ、彼女の思い出が徐徐に色褪せたかという次第を、お話しいたすかも知れません。 さりながら、泉より今もなおひそやかに、 静けき夜、望月の輝きの明るさに、鳴り響くは 竪琴の音色のごと、 挽 ひ き歌の調べにも似て、 軽やかな影どものたゆたうは 畑 はた の 畔 くろ 。 泉には水の輪の幾重にも拡ごりて、 星屑は穏やかにたゆたいてきらめきぬ。 ゼリンデは嘆き歌えど、ゼリンデは嘆き歌えど、 よしなしや、よしなしや、かの騎士は帰り来たらず。